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土城廊

金史良





 牛車や荷馬車、貨物自動車等のごったがえしている場末の鉄道踏切を渡ると、左の方へ小さな田圃路が折れている。その辺りからは路もぬかるみ、左右の水溜りでは雨蛙が威勢よく騒いでいた。小雨は音もなく夕暮の沼地をしっとりと濡らしている。

 二人が、お互い黙々と歩いている中に、もう辺りは暗くなった。いくらか屠殺場の附近がぼうっと薄明るいだけだった。淡い電灯の光芒は水田の稲の穂がしらを白っぽく照らし、跫音あしおとに驚いた雨蛙は田の中へ音を立てて飛び込んだ。家畜小屋からは時たま豚がけたたましく金切声を上げていた。

 二人は屠殺場の前を通りしなに幾人かの男達に出遇った。

「今帰るだかね」誰かが口ごもりながら呟いた。

 元三ウォンサミ爺は何やら話したげに心持ち立ち止りかけたが、白い眼を光らせるつれの男に気後きおくれがして、そのままへーと笑ってついて行った。

先達ソンダリ、乞食共だで」

 男は答えなかった。

 古戦場の土城廊トソンランは程遠くない所に蜿蜒えんえんと連なっていた。傾斜には棒切れや藁屑等で蔽われた土幕ウム小屋が這うように一杯詰っている。そこへ二人が辿り着いた時は、丁度土幕はどれも雨の中にじーんと沈み込んでいた。所々煙が漂うている。二人は用心深そうに土幕の間を縫うて土城の上へ登って行った。高くせり上ったポプラの木は西瓜色の空をゆらゆら掻き乱している。西の方の平野を撫でて来る夕風が、濡れ着をばたばたとなぶる。二人はゆっくりと肩から支械チゲ(担具)を取り外すと、それを両手にかかえて西側の傾斜へ影陰かげのように静かに消え失せた。

 爺は自分の土幕に近附いて行くとかますのおおい物をおし開いて大きな図体を這いずり込ませた。生温かい悪臭がむっと鼻息を詰らせ、身動きと共に膝元で藁がかさかさ音を立てる。敷藁も濡れていた。爺は手探りでやっとマッチを探し火台に火をつけた。小屋の中がぱっと明るくなり、焔はひらひらと隙間風に揺れ出した。

 彼が小さな土幕の中にずしっと坐り込んだ様は丸で大きな石像のようだった。首は度外れに太く、長い口は締りなくあいて、空ろな目は所在ないほど大きかった。火光がてらてらと全身を隈取くまどりつつ照らしている。爺は静かに濡れた上衣チョゴリを脱いで背をちぢかめ、泥だらけの足袋ボソンをうんうん力んで脱ぎ取った。ばら銭が中からざらざらと藁の上に落ちて来るのだ。爺はくくくと笑って拾い上げると、一つ一つ掌の上にのせて調べてみた。そして如何にも満足そうに口を大きく開けると、ながながと欠伸あくびをし、一度仰山ぎょうさんに胴ぶるいをするのだった。


 すぐ隣りの先達の小屋で急に何だか甲高い異様な声がしたようだ。暫しまどろんでいた元三は驚いて入口の方へずり寄って耳をそばだてた。彼は少しばかり耳が遠いのではっきり聞えはしなかった。||

 先達が元三爺と別れて自分の土幕へはいってみると、五つになる男の子が激しく泣いていたのだ。おんなは目にかどを立て蒼い火をともしている。支械を下ろして先達は頼むように弱々しく叫んだのである。

「どんげして泣かせるだよ」

「へん、どんげしてだと」婦は立ち所に喚き返した。「餓鬼に訊いてみるがええでねえか。木偶でくの坊奴! よくもあつかましく訊けたもんだね!」と、云いざま、発作を起して子供の足を捉えて吊り下げると、無慙むざんにも背中を打ち叩いた。先達はかっと逆上のぼせた。婦がそんなことをするのも、所詮稼ぎ帰りのよくない彼へのいやがらせに違いなかった。

「よせ、よさねえかよ」と彼は腕を振り上げて一喝した。

 それでも彼女は手をゆるめないので、色蒼ざめて飛びかかり彼は婦をねじ伏せた。婦は悲鳴を上げ子供ははね飛ばされ、小屋はでんぐり返るような騒ぎになったのである。

「う······全く······

 気をもんでいた元三は呻くように独りごとを云った。

 とうとう婦は逃げるように転がり出て来た。だがそれでも負けずに先達の怒りにあおりをかけて悪たれをつく。

「そんげに亭主風が吹かしたけりゃ稼いで来たらええでねえか、毎日さ、よくも人の米をふんだくるだよ! ······

 思わず爺は胸にどきっとこたえるものを感じて首をひっこめた。実は今日先達が持ち帰った米にしても自分の稼ぎ分で、いつものように先達に買わされたからである。だが元三は息を殺し再び首を突き出しておずおず入口の隙間から外を垣間かいま見た。雨が降っているのに婦は上体に何も着けていなかった。それがぶよぶよと動いているのを見ると、爺はねばっこい唾をごくりと呑み込んだ。婦は何かをぶつぶつ呟きながら土鍋を持ち抱えて来る。それで爺は心持ち腰を浮したが、すぐに思い返したように手を揉んで再び坐り直った。土鍋を抱え麓の川に下りて粟をとぎ水を汲んで来るのがいつもの彼の役目だったが、ふと先達に悪いと思ったからである。

「爺や、水を汲んで来な」

 婦はぶっきらぼうに先達にまで聞えるような大きな声で叫ぶ。先達は元三が自分の婦のためにそんなことをするのをひどく嫌うのだった。

 反射的に元三は熊のように土幕を這いずり出た。雨が裸の上体へふりかかるので、うふふ、うふふ奇妙な悲鳴をあげた。雨がもっとひどくなって目の先が見えなくなる。爺は土鍋を抱えて一層うふふ、うふふおどけた叫び声を上げつつ、泥の中を踏み分けながら麓の方まで下りて行った。川は雨に打たれて騒然としている。水の中へ片方の足を入れてみた。冷かった。すべりこけそうになってもう一つの足を突き入れ、少しずつはいって行った。きたない溝川なので成るべく深くまではいらねばならなかった。一尺位の深い所まで水につかると、二三度粟をといで水をごぼごぼ汲み入れ、再びうふふ、うふふ奇声を上げながら飛び出した。そのとたんに雨がざあっと土砂降りにかわり、一陣の野風がごうとえ襲って来た。爺は一寸たじろいてよろめいたが、ふと上の方で婦が何か悲鳴を上げたように思えた。先達が婦を引きずり込んで小突き廻しているのに違いないと彼は考えた。それで大変だとばかり慌てふためき泥をかき分けながら小屋まで上って来た。だが雨と風の音ばかりますますつのり、先達の小屋は死のようにしーんとしていた。何だか急に張りの抜けたような淋しい気持だった。

 爺はじっと立ちはだかって、抑えたような声で不機嫌そうに呟いた。

姐さんアズモニー、持って来ただよ」

 中からは答えがなかった。

「あ||ええだ。こっちさ持って来るだよ」

 声のする方を振り返って見れば、雨よけの所に黒い影がせぐくまっている。

「へ、そこさいただね」

 爺は相好を崩して婦の方へ近寄って行ったのである。


 先達は最近特に気力が衰え支械を背負って街に出ても、倉庫の傍や或は流れ美しい大同江畔の破船の中に躯を横にする時間が多くなっていた。彼は日々の米代もろくには稼げなかった。眼は深く落ち凹み、首は目に見えて細くなった。婦は日を経ると共にだんだん彼に辛く当って来る。いつも食いしゃぶらんばかりに喚くのだった。

「皆、誰のせいかよ。この妾をどうしてくれるだよ」

 そうする中に、元三爺は名実共に先達一家の命の親となった。けれどそれは先達にとっては非常に心辛いことだった。ふだんは押し黙って目だけをぱちくる彼だったが、胸の中にはいつも赤い焔が燃えている。今日も元三と肩を並べて帰って来たが、みちみち内心穏かではなかったのだ。米屋の前に足を止めて爺に粟を買わせる自分の姿。それは何という嫌なものだったろう。婦は又「毎日人の米をふんだくる」と事毎ことごとにつけて悪罵するではないか。

 成程もとを正せば元三が先達の世話にはなっている。それは爺が先達の助けでこの土城廊に土幕を構えたからなのだ。爺はそれまで或る遠い山奥で土豪の奴僕をしていた。父も母も奴婢なので、生れて以来頭の毛から足の爪先まで何一つ自分のものはなかった。勿論かかもいない。だが実に五十余年を過ぎて主家は没落し、始めて自由な身になった彼である。世界は新しく開けたのだ。忠僕の爺は悲運の迫った主家の邸下にひざまずいて慟哭し、山村の人々にも一々腰を曲げて別れを告げ飄然ひょうぜんと出掛けて来た。まだ山の峠には雪が真白く積っていた。寒い風に吹かれつつ峠の上に突っ立って感慨無量にじっと懐かしい山村を眺めていたことを、今だに忘れることは出来ない。

 だが夢に聞く平壌は二十里もある。歩いて三日、日も暮れ頃辿り着いた時は、さしずめ見るもの聞くもの凡てが戸惑いだった。しかも陰二月暮れの北風はまだ雪と霜にがれて身をきりさいなんだ。爺はがたがた歯をふるわせつつ街外れの市場をうろつき廻った。ところが薄莫迦ばかげた物腰や異様な風采のために、爺は周囲の支械チゲ軍(担荷人)達に取り囲まれてなぶられるようになった。積荷のあてがなくごろごろ寝転んでいた彼等にとって、それはもって来いの慰みだったのだ。

 ||山から出て来た熊のようだで。

 一人が叫んだ。皆はにやにやわらい出した。

 ||いや虎だぞ。

「う、わっしあ」愚直な爺はうろたえて方々へ頭をぺこぺこ下げた。「丁元三チョンウォンサミでごぜえますだ。う、山の者でがすだ」と云いつつ、今度は一人一人の前をぐるぐる拝んで廻った。

 ||まるで粉挽屋の牛でねえか!

 支械の林はどっと喊声かんせいを挙げた。元三はいよいよ間誤まごついて大きな目をぐりぐりさせ、自分の身をどう始末していいか天手古舞いをした。支械軍はますます面白がってえへらえへら笑ったり、口々に脅かしてみたり小突いたりした。

 これを見かねて或る中年の支械男が爺を静かな一隅へ連れて行った。男は爺にか細い声で何処から来たのかとたずねた。目の鋭く色の蒼ざめた男だった。危かしい程ひょろ長い脚にはよれよれのバジがまつわりついていた。元三はぶるぶるふるえつつ何度も腰を折った。

「孟山からでがす。丁元三ちゅうもんでがす······

「ここさいねえで酒幕ジュマク(木賃宿)へ行くがええだ」

「わ、わっしあ、う、おあしをもたねえんでがす」

「何だって来ただや?」

「わっしあ、う、これから働くんでごぜえます」

 男は暫し小さな目をしょぼつかせ何かを考え込んでいたが、遂に爺を土城廊へ連れて行き土幕の構えを世話することになった。こうして元三と先達の家族との関係が始まったのである。

 悪夢のような過去は葬られ、元三は新たに自分の生活を始めるようになった。爺は有頂天になった。他の土幕民と同様に自分一人の小屋を持ったのだ。屋根には持金をはたいて藁をいたので、アンペラや板屑やトタン切れの他の小屋よりは確かに見映えさえした。こういうことも彼にはひそかな誇りだった。そればかりではない。この土城廊の人々が大抵は乞食であるのに引きかえて、毎朝肩に支械を背負って心も浮々と出掛ける自分の姿は、後光のさすような幸福なものだった。街を歩く時もうずうずしてならなかった。百斤の重い荷を軽々とつけて、電車と駆けくらべをせんばかりにうふふ、うふふと笑い声を上げつつ駆け出すこともある。車掌はブレーキをかけて「莫迦野郎」と呶鳴った。でも依然としてうふふ、うふふ片手を振り振り走って行った。荷主の老婆は、鴨のように「泥棒、泥棒!」とぎゃあぎゃあ喚き立てる。路上の人々はにやにや笑いながらこんな異様な光景に目をやった。

 元三はそれに先達一家を助けるということにも、人知れない悦びをもっていた。彼の身上、所謂いわゆる恩に報いるということは彼には最も得意な所である。それで帰る時はいつも米を買い求めた。先達夫婦を感激させることが愉快でたまらないのだ。婦が言葉を尽して有難がる度に、爺は滅相めっそうもないとばかり両手を振った。「うふふ、何を云いなさるだね······」そして目を据えて宙をみつめる。「う、ただお互い様もたねえのでな。う、昔のように畑さ何町歩も持っていたらなあ······」それから舌をべろりと舐め、「全くこうなるちゅうこたあわっしゃ知んねえだったに······

 そしてへーと笑った。

 だがそうこうする中に、先達夫婦の間には争いが絶間なく起って来た。先達は訳もなしに元三を憎み始めた。婦はそうなれば働き者の爺を引合いに出して、気力の弱って来た夫の気をいよいよ逆立さかだてる。先達はますますいきり立って婦に悪たれをつき、さては忠良な元三さえ逆怨さかうらむようになった。だが奇妙なもので、丁度その頃から爺は自分の心が先達の婦へ傾きかけているのをおぼろげならが覚り出したのである。いつしか初め頃の興奮もやわらぎ、その日暮しにも疲れを覚え出した為だろうか。それ所か爺は婦を食わしているのは実は自分だという亭主じみた悦びさえ持つようになった。

 爺は先達の婦のことを思い出すと、背中を丸くすぼめて蕩然とうぜんと蒼空を眺めつつ、

「わっしも嬶さ迎えにゃな」といつも呟いた。「う、わっしあ、はあ、五十七だもなあ。後嗣あとつぎもねえではなあ」

 支械の同僚達は嫁さんを貰ってやるからと、よく爺をからかった。元三は嫁さんという言葉を聞いただけでも口のたががゆるんだ。

「爺やにどんげな嫁さんを貰ってやるだかな」

「くくく、くくく」

「サッチョンコルの酒婦おかみはどうだかな」

「くくく、もうわっしあ若えでねえでもええだよ。昔あわっしにも若えのがいてな、餓鬼も二人さいただが、う、疫病にみなくたばっちもうただよ。ふんとう、ふんとうだとも」

 いつだったか兎も角、爺は同僚達に連れられてサッチョンコルの酒婦の所へ行ったのだ。目の小さい歯の大きな酒婦はひやひやとはやし立てられつつ、元三の背中を抱いて酒をすすめた。その瞬間爺は体がとろけ込み気も遠くなったようだった。実に生涯始めてのことだった。所が突然爺はその場にがくんと跪いて頭を温突オンドルにつけ、

「う、わっしあ、丁元三でごぜえますだ。う、始めてお目にかかるでがす······

 と、得意な所を一くさりやったので、みんな上を下へとあっはは腹をゆすぶって笑い合った。

 その日元三は少々不機嫌になって帰りながら、やはり婦は先達の嬶に限ると独りごとを呟いていた。



 毎日のように降り続く霖雨りんう期にしては、珍しい程星のきらめく夜だった。所々土城の上では土幕民達が車座をなして夕涼みをしている。古釘のように曲った老人の首や、かいこのようにせぐくまっているどもり男の背中や、まどろんでいるおんなの胸倉や、蒼白い先達ソンダリの吊上った肩を、切傷のような月が薄淡く照らした。誰かが瞼を上げると悲痛な熱を帯びた灰色の目がじろりと光る。

 元三ウォンサミ爺はずたりずたり先達一座の方へ上って来つつ、

「何さ話してるだかね」とたずねた。「||今日はわっしあ偉えものに乗ったで。あの街のでっかい店な、一階で乗ったら、うふふ、すーと飛び上るでねえか······

 だがその間に流れている或る険しいものに気附いて、爺はふいにぐっと口をつぐみ婦の傍へ静かに腰を下ろした。

 暫く座が白けた。

 穴蜘蛛のように土幕にばかり蟄伏ちっぷくしていた徳一ドクイル老人が、今夜はよくも這い出して来て今までがみがみ喚き散らした所だった。昨年の今頃に老人は独り息子を強盗罪で連れて行かれ、そのため老婆は気違いにまでなっていた。洋服男さえ見れば彼女はいつもの発作をおこし「人さらい、人攫い!」と喚き廻るのだった。彼は息子が冤罪えんざいとばかりかたくなに信じているので、思い出せばやり場のない憤怒と絶望の念を抑え得ぬのである。

······せがれあ監獄さ行くだし婆あと来ちゃ気い違うだ」老人は深く溜息をついた。

「全く人間ちゅうて偉えもんだで。わしゃ一体何して生きてるだか自分にも分らねえ······だがわしあこんなに立派に生きとるだからな」

「心さ静めるだよ、だら気も楽になるだに」

 先達の婦は慰めるように老人の顔をちらっと眺めた。欠け歯をむき出しにゆがめた顔は髑髏どくろか何ぞのように婦をぞっとさせた。

「何も怒ってやしねえで······

 ぶるっと言葉尻を食いしゃぶる老人はやはり怒っているのだった。

 元三は不意に婦の方へ首を突き出して、彼女の抱いている子供にウォーとおどけてみせた。子供がびっくりして泣き出したので、爺はてれ臭そうにくくくとわらいつつ自分の蓬髪に手をやった。

「餓鬼さ泣くでねえかよ」と婦は邪慳じゃけんに爺をたしなめた。

 先達はひーんと手洟てばなをかみ、取りつくろうように老人をいたわった。

「今に戻って来るだよ。罪のねえ人あそう永いこともねえだで」

 だがどうしたのか、元三の隣りに跼っていた吃男がきゅっと体を起した。先達の云ったことに激しい不服を感じたのに違いない。徳一老人はぶるぶるふるえ出した。凹み目がすすけたランプの焔のように赤く光りを点した。

「何だってや」老人は息をぜいぜいさせた。「よくも云うただな。そったらわしの悴にどげえな罪があるだ。え、知りてえもんじゃねえかよ。え? どうしてまだ出て来ねえのだよ」

「へ、出て来るだ?」吃男はいかにも莫迦にした調子で先達に食い附くように喚くのだ。

「罪のねえ人あ永く、永くねえだ?」

 この吃男が村を出たのは三年前のことだった。密酒のことがばれて永い間留置され、五十円の科料を収めるために牛を手放し家財道具を売り払ったからである。吃男はいつものようにその時のことに思い至ったのであろう。

「わ、わしの飯で酒を作っただ。わっしあこの通り罪のねえ人間だ······、餓鬼の時から一生懸命働えて来た······わ、わっしあ、こ、これでも立派な百姓だ······

「何を云うだよ、お前さんは?」先達の婦は叫んだ。「ふんとうに此頃はみなどうかしているだよ」

「ど、どうかしてるだと、どうかしてるだとも、え、どうかしねえでい、いられるかよ」

 辺りがしーんとなった。

 その時である。不気味な瞬間を突いて北の手に幾間か離れた所から、何かしら訳の分らない「けっけっ」という甲高いわらい声が遠雷のように起った。全くそれは思いがけぬことだった。辺りが薄暗くて今まで彼等はそんなに近い所に人がいようとは知らなかった。で、みなの目は一斉にそこへ惹かれた。腹這いになっていた男は、如何にも莫迦にしたように体をよちよち起した。闇を通してみればそれは近所のびっこ乞食だった。

「えっへへ、成程立派な人間様だあ、よくも働いた、ざまあみやがれ、えっへへ」

 続け様に肝を潰すようなわらいをがらがらと挙げた。それきり再びへたへたと腹這いになって鳴りを沈めた。一同は仕方なさそうにお互い顔を見合わせて黙り込んだ。

 土城の南の方からは徳一老婆のしきりに何か叫んでいる声が聞えて来る。彼女は流れに攫われた任生員イムセンウォンの小娘の水霊と話し合っている訳なのだ。それは綺麗なはしっこい子だったので、土城廊の人々は彼女の死をどんなに悲しんだか知れない。無口な任生員は娘を奪い去った川へ下りて行っては、いつも棒でふらふらと水の中を掻き廻していた。丁度その頃土城廊土幕民の撤去問題は再燃した。朝鮮の貫通線が土城廊の前方を走っているので、国際的な体面上、又は都市美観上それは到底捨てておけぬことだった。土幕民達は土城の一所に集って騒いだ。その晩のことである。奉天行の急行列車が土城廊の前にさしかかった時、鋭い汽笛と共に慌ただしく急停車した。すんでのことで顛覆する所だった。線路の上には石が山と積まれ、ランタンをさし向けた時それは真赤な血で染まっていたのだ。それ以来任生員はいなくなった。だがこうして彼の父と娘は土城廊のお護りのように思われている。||狂女の喚き声はだんだん遠くの方へかすれて行く。老婆は一日一回ずつは必ず土城を北へ南へと喚いて廻るのだった。

 氷のように冷い沈黙が一座の上に落ちかかっていた。屠殺場から家畜の唸り声が吹きちぎられて、絶えず物悲しげに響いて来る。飛行機の飛び廻る音もかすかに聞えた。遠く灯の海をなしている城内の方では、サーチライトが青い光を放って幾つも空中を駆け廻っていた。それが重叉した中へ飛行機が捉われると、爆音も一層凄じくきこえ、蚊群のようにひらめいて見えた。一同は顔を上げて茫然とそれを眺めた。

「戦争の稽古だで」先達はやるせなさそうに呟いた。

 徳一老人は長竹(煙管)を地べたの石ころに二三度ふり叩いた。赤い火花がはじけ飛んだ。

「昔あここも戦場だった。土城一面に兵士共の死体むくろがごろごろしとったよ。え、怖ろしいこってねえか、全く、それも甲午乱(日清戦役)のこったけにもう五十年も近うなるだ······

 不意に先達の婦がエイッチェとくさめをした。吃男はそれには目もやらずに又いきなり火でも燃え附いたようにはね起きた。

「わ、わっしあ、その時に清、清兵共に家さ焼かれただ。兄弟もお袋も殺されやがった。······呪われ奴。一体わ、わっしに何の罪があるんだ。わっしあやっと生き伸びた······だが、わ、わっしあ、もう生きていられねえんだ······凡てが墓場だ、墓場よ!」

「何をそんげに騒ぐだよ」先達はとうとうしびれを切らして金切声を上げた。

「いんや、わ、わっしあ騒ぐだ。騒がねえでどんげするだ!」吃男は口に一杯泡を含んで首を滅茶苦茶に振った。

「すっかり気違えになりやがった······

 先達がそう忌々いまいましそうに呟いたので、一同は仕方なさそうにわらった。だが吃男は偏屈にも厳かな昂奮にとらわれていた。あたかも何か目に見えない怖ろしい力に駆り立てられてでもいるように。彼はみなの者に笑われたと思うと尚一層怒りっぽくなり、荒々しく座を蹴って立ち上った。そして何かぶつくさ呟きつつ振り返り下りて行ったが、つと立ち止って向き返ったと見ると目を怒らして、

「へん畜生」と叫んだ。「わ、わっしを莫迦にしてるだ!」

 婦は子を抱えたまま鴉の巣のような頭をこっくりしつつまどろんでいた。二つ三つむせぶように深い息を吸い込んだりする。牛糞みたいな乳房が垂れ下がり、くろずんだチマの裾から両足はぐんなりと投げ出され、その肩はなめらかな弧を描いていた。時々子供が泣きぼやくので、馬のように長い顔をしかめて婦はかぶりを振った。

「ちぇ、仕様のねえ餓鬼だよ」

 元三爺は彼女の寝呆け姿を何かに取り憑かれたように、火のような目でじっと見入っていた。舌をべろべろ舐めずり廻したが、脣がひどく乾いていた。

 月はもう大分傾いている。ポプラの葉が金色にさらさらとひらめいていた。

「三日月があねえに赤色じゃきっとひでえ大雨だで······

 徳一老人が呟いた。一同は今更のように月を眺めたが誰一人口を切るものはいなかった。



 土城廊はひどい暴風雨に襲われていた。

 元三ウォンサミの小屋から呶鳴るような歌声がちぎれちぎれに響いて来る。爺が喉笛を上げて歌うのだ。その後からおんなや男達の笑い声がどっとふるえ出たりする。

 中伏節だと云うので、爺は三四人を集めて祝酒をふるまっているのだった。いつも隣り近所に気前のいい所を見せようとしていたのがやっと、今日実現された訳なのである。爺は雨に濡れながら近所の土幕主を招待に出掛けて行った。

「うふふ、わしんとこ来てくれねえかな、う、酒もあるでな、全く何ちゅうひでえ雨だかよ」

 例の吃男は踞坐きょざして何か奇妙な呪文をぶつぶつ唱えているばかり、返事もくれぬのだ。爺が吃男の土幕の中を覗いたのはそれが始めてだった。薄暗い所に石油箱の祭壇がおかれ、その上に清水の器をおいていた。彼は今尚、上帝教の信者だった。こうして上帝の霊に触れ、今に地上天国が建設されればその時こそ自分には厚授あるものと信じている。

「お前さん、何してるだよ」

「叫※(「口+多」、第3水準1-15-2)※(「口+多」、第3水準1-15-2)太乙天上元君······」吃男は依然として奇妙な呪言を止めなかった。

 元三は不承不承今度は先達ソンダリの夫婦を誘いに行った。先達ははっと色を変えた。中伏節がどうのと酒まで買って来たのだが、それも自分の婦を悦ばせるために······と思うと、朱潮が耳元から燃え始めた。そして頬、額に転々して遂に目元まで飛んで行くのだ。

「酒をあおる所かえ?」と先達は金切声を上げた。「手前こそひき蛙みてえにぶくぶく酒でもあおってくたばりやがるがええ」

 そしてとたんに何かを投げ附けようとした。

 それで元三はほうほうの態で逃げ出した。だが、婦は這いずるようについて出て来た。その後姿を見射る先達の手はわなわなふるえていたのである。

牛公イーノミソ

ママ||

クーリヨ

イーイーイツ、クリヨー

 歌い終るや元三爺は汗みずくになった首筋を手でふきながらにやっと笑った。

「偉え六カ敷いでな。そりゃわっしの嬶ったらうめえ歌いもんだったよ」嬶という言葉を口にしてみただけでも爺はうれしいのだ。「あいつのいねえことを考えりゃ悲しくてならねえ······

「お前さんの嬶は今何処にいたっけなあ」中風症のためにぶるぶるふるえる手で酒の盃を取りつつ、徳一ドクイル老人は調子を附ける。

「きっと売っちまっただよ」

 例の跛は意地悪くくちばしを入れた。婦はぷっと吹き出した。

「とんでもねえ」と元三は目をむいた。「あいつあ疫病で斃ったちゅうて何度も云ったでねえかよ」

「ほう」

「そうだとも、う、餓鬼も三人一緒だで、可愛い奴でわっしの後嗣だったにな。みんな斃るちゅうなんて、全くひでえ因果だよ。う、どだい、云うて何になるだ||

 爺は今にも泣きそうになる。

「ええ加減するだよ、ええ加減に。嘘こくでねえよ」と婦はほろ酔い機嫌であしらった。

「何だって」爺は煙管をふり捨てた。「何で嘘こくだ? う、姐さんアズモニーは知りもしねえで。ふんとう、嘘でねえ、嘘でねえよ」

「おやおや」婦はさも呆れたように笑いこけた。「······爺や何時だったかは餓鬼あ二人でねえだったのけえ?」

 元三はうーと悲鳴を上げて向きをかえ、てれ臭そうに大きな頓馬とんま笑いを上げた。どこかで稲妻が青く光り雷鳴がごろごろと地を圧した。その拍子に彼は再び首をそっと廻して婦の顔を見ようとしたが、お互い目がかち合ったのでにたっと笑った。体に酒が廻ったせいかうずうずして胸が躍り、彼女も今日は殊更ことさら美しく見えるのだ。

 外は益々ひどい嵐に煙っていた。田野を吹きまくって来る壮烈な風が土城廊に吼え立てる。幾千の土幕は水煙に深く埋れた。ポプラの木立がへし折れそうにたわわに揺れている。土城の上からは水が滝をなしてひた押しに流れ落ちて来た。

 突然ことりと鼠が奥の箱の方へ飛び込んで行ったので、元三は大変だとばかりにひっくり返りざま箱を襲うた。鼠はあわてふためき箱の中をがたがた駆け廻って不意に飛び出て来た。恐怖に満ちて一寸立竦たちすくみ、敷藁をくぐって先達の婦の膝の間を抜けようとしたのだ。婦はアレレと悲鳴を上げた。元三はうふふ、うふふと今度は婦の方へ飛びかかった。鼠はいつの間にかすり抜けて背中をうねらせ一目散に逃げ去ってしまったが、この瞬間元三にとっては実に驚くべき事件が起った。それは爺が婦を抱いたからである。元三はどうした拍子にか婦のふとりじしを抱えたのだ。それと同時に爺は息も止まり全身に痙攣さえ起きたようだった。うーと滅入るような声を出してごろりと転び、彼女の肥じしの上に自分の顔をのせると、そのままとろけ込んでしまった。婦は手を振りつつうろたえた。だが元三はかすかな声で、

「鼠だー鼠だー」と喘いでいた。

 徳一や跛は腹を抱えて笑った。爺はやっと正気に返ったとみえ婦のももを放すと、ばつ悪そうに手をぼそぼそはたきながら起き上った。婦も手を叩いて笑いこけた。

「鼠あ全く利口もんだで」元三はへーと笑って見せた。

「お祝い米さ買っておいたら、う、どんげして嗅ぎ込んだだか盗みに来るでねえか」

(嗅ぎ込んだなあ鼠ばかりでねえかも知らねえ)と、跛や徳一は唾をごくりと呑みつつ考えるのだった。

 暫くすると彼等は再びもとのように盃をかわしつつにぎやかに喚き始めた。爺はつい又いつもの調子を出して、支械稼ぎの自慢や、近い中に城内に四五円位の貸部屋でも捜してみるつもりだ等と、立て続けに喋り立てた。「貸部屋を捜して何するだや」と婦は面白半分に質ねた。徳一老人は「お前さんを呼ぶだとよ」とへらへら笑いつつ婦をからかう。すると、元三は慌てて手を振った。婦は「何でや、そうでねえのけえ」と酒にとろけた体をゆすぶりながらいやに気をもたせて云うのだった。

 元三はしまったと考え、何度も後から婦の云ったことを繰返し考えてみた。爺にはどうしてもそれが通り一遍の冗談のようには聞えぬのだ。爺はだんだん胸の中がほてって来るのを感じた。

「えへへへ、又嘘をこきやがらあ」と突然跛は鼻を反り上げてわらい出した。「手前達あそれでここから抜け出られると思うのけえ? 一歩踏み出した矢先は地獄だ! 鬼共がうじうじ転がって待構えているんだ!」

 所が跛はふとわらい声をひそめ目をみはり耳をすました。どしゃっどしゃっと不気味な音が聞えて来たからである。何だかそれは近い所からのようだった。皆は思わず声を呑んでお互に不安そうな目を見合わした。と、今度は物でも毀れるように「どどしゃっ」と鈍重な音が響いて来た。

「んだ、又誰かが土幕をぶっ毀してるだな」徳一は忌々しそうに呟いた。

「誰だか」······元三は入口の方にずり寄って嵐の外を覗いてみた。顔に雨がざあざあ振りかかって始めはよく見えなかった。だがふと四五間先に影絵のように映ったものがある。それが激しい線を描いて動いているのだ。爺はぎょっとしていきなり飛び出した。泥にすべって前にのめりのめりつ這い上った。雨は容赦なしに降りかかる。風は悲鳴を上げて体にぶち当った。倒れかかるように後から抱き附いたが、男は怖ろしい激昂状態で土幕杙を振り上げ歯をきしきし鳴らしつつ、「放せノアラ! 放せノアラ!」と叫んだ。

 吃男だったのだ。

何事だよムスンイリノ!」元三爺は獅噛附しがみついて泣き声を上げた。「うーふ、何事だよ!」

 男はいよいよ狂乱に陥り両足を浮かして跳ね上った。そのはずみに二つの体は一緒にひっくり返ってずしゃりとぶっ倒れた。

「こらえるだよ、こらえるだ」元三は気違いのように叫んだ。

 暴雨は益々烈風に煽られて二人の上をくるくる舞いしていた。


 黄昏たそがれ近くなって雨はあがり風はいだ。雨霧をかき分けてポプラの木立がしずしずと浮かび上った。赤い肌をはだけ出した土城には、篠つく雨に取り毀された土幕の廃骸が幾つも見受けられた。傍には濡れ鼠になった人々が跼ったまま茫然としていた。吃男の土幕は木片微塵こっぱみじんに叩き潰されている。赤い水が上から防水壁を割って滝のように落ち込んだので、この上帝教信者は狂い立って飛び出し土幕杙を抜き取って、小屋を滅茶滅茶に叩きのめしたのだ。だがもはや吃男の姿は見えなかった。

 だんだんと土幕民達は小屋からのそのそ這い出して来た。丁度大雨に遭っていた鶏が夫々それぞれ雨宿りの下から濡れ羽を振って出て来たように。空はくろずんでいる。平野は雨霧に暮れ、川は激しい勢で流れていた。

 いつの間にかその一角では先達の夫婦が激しい掴み合いを始めていた。先達が病体をずり起し街へ稼ぎに行こうと出て来た所へ、元三から貰った米袋を振り振り顔の赤くむれた婦がやって来たのだ。彼はかっとのぼせた余り有無を云わせずに、いきなり婦の肩をめがけて支械を打ち下ろしたのである。

 婦は泥の上に尻餅をつき頭をしたたかぶっつけて低くあっと叫んだ。袋は放ね飛んで泥の上に口を開け白米を吐き出した。子供は土幕からおーとおびえて泣き声を挙げた。婦はむっくりと立ち上って彼の方へひょうのようにかぶりついて来た。

「ど畜生奴! 殺せ! 殺せ!」

 先達は一瞬よろめいた。婦は髪房がもつれ肩が激しく波打っている。

「殺せ、アヤ、アイタ、アヤ、殺せ!」

 先達は蹴り、打ち叩き、髪束を掴まえて地べたに婦を引き廻した。泥が四方にはね散る。······と見る間に彼女は投げ出されたのであろう、すってんてんによろけ足を宙にしてどうっと倒れてしまった。

「先達、どんげした訳だも?」

 全く魂消たまげた元三はおずおず近附いて言葉をふるわせた。だがそれはとぎれとぎれで丸で呟きのように小さく唸っただけだった。愚直な爺は先達をあの怖ろしい忿怒のとりこにさせたのが彼自身であることを迂濶うかつにも知らない。男はいよいよ火花のように燃え上って、元三の襟首をぎゅっと掴み寄せた。

「先達、わしが何しただ?」

 爺は喘いだ。だがふと自分の顔へ先達の頭が突き上って来るのを見た。と思う間に忽ち目から火が飛び、頭がくらくらし出した。爺は槍にさされた黒熊のようにばたばたのめった。

 婦は倒れたまま地べたを叩いて慟哭する。

「アイゴ! こんげ怨めしいことがあるだか、一体何が悪えだよ。わたしにこんな乞食ざまをさせるのあ一体何処どこ何奴どいつだよ······アイゴオオオ」

 跛乞食は泥の中にこぼれ落ちた白米の粒を袋の中へ拾い入れつつ呟くのだ。

「んだ。やっぱ生きてらあ、せいぜい喧嘩するがええだ」

 たそがれる土城の上には、土幕民達の黒い行列が長々と連なっていた。暴雨が降り続いて東側の低い沼地が大河のようになり、彼等は鉄道線路にまで出る道を捜すために騒ぎ合っているのだった。彼等は空腹を抱えて城内の方へ夕飯を貰いに出掛けるのだ。年寄りは杖をたよりに腰を屈めてたたずみ、子供達はよくぼやき、婦達は盛んに詰め寄って何かを心配顔に囁き合っている。

 灰色の鳥打。鼻まで深く被された古中折なかおれ。底の抜けた麦藁帽。濡れたぼやぼや髪。女の頭巾······そして皆裸足だった。

 遠く北の手の石橋を貨物自動車が警笛勇ましく走っていた。



 その一晩中先達ソンダリはまんじりともしなかった。横になったとみると、今度はこんこんと咳にむせて起き上った。手の甲に吐き附かれた血痰を真蒼な顔でじっと見下ろす。暗闇の中でそれはぎらりと光っていた。

 一番鶏が時をつくると彼はぼそぼそ支械を肩にかけて出て行った。婦は悄然と消え去る夫の姿をぼんやり見送っていた。雨は夜中にすっかり止んでいるが、まだ明方の空には険悪な雲が漂うていた。上流がよりひどい暴雨に遇い水量を増したのであろう、冷い水蒸気が江面の上に一杯立罩たちこめている。婦は首を突き出したまま長々欠伸あくびをし、薄どんより霞んでいる奔流に目をやった。そして腹立たしげに唾をべっと吐き出すと再び敷藁の上へごろりと横になった。

 いつの間にか夜が明け、朝のどんより曇った陽が江面に眩ゆく照り返す頃、土城廊には二人の洋服男が現われた。彼等は大きな帳簿と黒い革袋を抱えて土幕の間を縫い歩いていた。目に見えて刻々水量を増してゆく赤い流れは土城の下部をぐっと食い上げている。土幕から十二三尺下はもう渦を巻く流れである。今少しの所で流れに攫われそうになっている土幕も大部分見える。対岸にうずたかく積まれていた汚穢おわい物の山は黒く点々と島になり、低い所から濁流は田畑に舌舐めずりしつつ食い入っていた。中流には白い泡や藁屑が一杯漂い流れ、五六羽の燕がそれを追うて羽根を閃かしているのが、気味悪い程美しく見えた。

 元三ウォンサミはそんな風景に茫然と眺め入りながら、もういよいよ土城廊の生活もこれで終りなのかと悲しそうに考えた。何とはなしに孤独と絶望の念が胸をしめつけるのだった。だが忘れもしない。ずっと気になっている、昨日の婦の云った謎のような言葉、それはどういう意味にとっていいのであろう。城内に貸部屋でも見附ければほんとうに婦は来てくれるのだろうか。爺はようやく幸福な気持を取りもどし、胸をわくわくふるわせるのだった。

 それで二人の地代収金員が小屋へ現われた時は、いよいよ元三は相好をくずして迎えた。

「う、わしあ払うだけに、近きうち城内に一つ部屋さ頼みますだで」

 収金員達は呆気あっけに取られて何も答えなかった。爺は背中をちぢかめるとうんうん唸り古足袋ボソンを脱ぎ取った。白銅貨が三つばかりその中からばらばらと落ちる。それを急いで一つ一つ拾い上げると、

「う、十銭、五銭、十銭······」と手渡しつつ念を押した。

「う、二十五銭でがす、間違うでねえだ······わっしあ、丁元三だからな、ちゃんと払っただからな」

 そして悪臭のひどい蓬頭を収金員の帳簿の上に突っ込んで、如何にも自分の名を捜し当てようとするように太指をちらつかせた。収金員達は熱いストーブにでも近寄ったように体をおこして爺をじっと睨み附けた。元三はようやくそこでばつ悪そうに味噌歯をむき出して「くくく」と笑った。「見附からねえだかな」

 収金員達も笑った。そして急に顔をこわばらせ口をきゅっと歪めると黙ったまま立ち去った。

「んだ、これから行って姐さんに訊いてみるだで」爺はそう考えた。

 だが肩に支械をかけ泥を踏み分けて婦のいる小屋まで来たとたんに、爺は急に先達を思い出してこわくなり勇気が挫けた。

「出掛けるだよ、先達」

 爺はそう云った。

············

「全く大水でな」

············

 返事がないので変だと思って怪訝けげんそうに入口を覗き込んだ爺は、われ知らず小屋の壁へぴったり体をすり附けた。婦が子供に乳首をくわえさせて半裸体のまま横様よこざまに寝ているのだ。先達はもう出掛けた後だった。胸が激しくときめいた。伏兵でも起きるように、抑えられて来た感情のしぶきがひたひた押し上げて来る。咽喉がかわいてよく声が出なかった。

「姐さん」

 婦は深い睡りにおちているらしかった。

「姐さん」爺はもう一度声を切らして叫んでみた。

 と、婦は驚いてはね起きた。

「誰だや」

 爺はすくみ上った。もう駄目だった。

「う······わっしだよ············元三だよ」

「何うしただね」

「わっしあ············」爺は何と云っていいか分らなくて、しどろもどろとなったが、そうだ、自分がこれから何か訊くのだったなと思い起して、内心にたっと微笑んだ。「······どうも、そのう、こんげ云うなあ············つまり······わっしあ、一つ訊きてえことがあるだよ」

「何だや」

「う······つまり······どうも······こう訊くのあ悪えが、う······姐さん、ふんとうに············城内に行くだかね?」

「爺やは一体何を云うだね」婦は不審そうに質ねた。

「いや············姐さん、ゆうべ云うたでねえかよ············わしさ城内に部屋を見附けれや、う······来てくれるかちゅうんだよ······わっしあ······これから行って捜すだで」

「まあ、爺ったら」婦はうすら笑いを浮べて溜息をついた。「そう出来る結構な身分なら、心配はねえさ······

「ふんとけえ」爺は目を瞠って叫んだ。「だら、う、わし行って来るだよ······

 ||元三と先達の婦がくっついたという無実な噂が土城廊に拡がったのは、徳一ドクイルの老婆がこの光景を見届けてからのことである。狂女はきたない皺くちゃな顔に黒豆のような目を光らせて淫らな声できーきー笑った。驚いて元三が振り返って見ると、老婆は羽根でも生えたように土城の上の方へととんで逃げて行った。

 狂女はその後誰かに会う毎に、

「なあ、お前さん」と声をひそめ茶色の手を振ってみせた。

「知ってるだかね」

「何だや」

「何って、まだ知らねえのか」と老婆は目をむいて近寄り相手の耳に両手を当てて囁いた。

「元三と先達の婦がくっついたのさ」

 先達はその噂を聞き込んで以来、一層目に見えて病気が悪くなった。目はますます疑り深く底光り、脣はいつも白く乾いていた。

 彼は以前とは打って変って、この二三日は明方早くから雨をおかして出掛けさえした。そして深い雨霧が街路灯に薄黄色い円を描く夜明けの街や、野菜や真桑瓜売りの荷車が雑沓する市場や、静かに濡れそぼつ大同江の船着場などをとぼとぼさまよい歩いた。驚いたようにふと立ち止ることがある。又ぶつぶつ呟いたりした。この頃は殊にどうしたのか故郷のことがよく憶い出されるのだ。静かに頭を振りつつ忌々しい追憶から逃れようとしても、知らぬ間に彼の目の前には広漠とした郷里の田地がちらついて来る。岡の麓にはアカシヤの立っている村がある。子供の頃草刈りの帰りなど、小牛に乗ってよく澄み渡る声で歌ったあの畦道。

 春は苗代。夏は除草。秋は刈入れ。百姓は田圃の中に幾人も腰を屈めて列をつくり、対歌に打ち興じつつ進んでいた。大きな籠を頭に載せた娘達は田畦の方へやって来ると、手を振り振りはずむような声で叫ぶ。

何処だいばオドメガ||昼飯だよう」

 やがて冬となれば、男達はもみを売りに牛車の大王鈴の音もりんりんと賑やかに都会へ向う。だがこんな静愉せいゆな生活も永く続きはしなかった。何かしら見えない巨大な力に生活の台盤はだんだん蝕ばまれ、暮しは困窮になる一方だった。僅かの自作田もその中に他人の手へ移って彼は一介の貧農小作となった。やがて彼の所にも小作権移動の通知が舞い込んだのだ。それは夏も終る頃であったろうか。稲は高く伸び穂は重く垂れていた。先達は極度の絶望と忿怒で歯をがしがし研ぎ、目には赤い光を点していた。妻は舎音サウム(農監)の所へ哀願に出掛けた。だが深夜おどおど帰って来た婦の姿||泣き崩れる彼女の髪はふり乱れ、||上衣は揉みくちゃになり、その間から皮膚が白く覗いていたのである······

 追憶から突然我に返った。彼は頭を振った。悪夢からでも離れようとするように。そしておもむろに懐から小さな煙管を取り出した。そうだ、不貞腐ふてくされの婦が身を売ったために小作権がもとに返った時、いっそのこと婦を殺し自分も諸共もろとも死ねばよかったのに。だがやはり引きずるようにして共に村を去って来た自分ではないか。

 その時ふと足元に何かが引っかかったので驚いて先達は飛びしさった。そこは河岸の倉庫の軒の下で、誰かがむしろを被って寝ていた。それはびくっと動いたようである。踏み附けられた男が莚の下からうんと呻きながら首を突き出した時、彼は愕然と驚いて転げるように逃げ出した。吃男だったのだ。何だか自分の最後の姿を見せ附けられたようで彼は一目散に走って行った。そして怖ろしい妄想から逃れようとでもするように手当り次第何事にも無我夢中に働いた。それでこの数日間というものは元三の助けを借りなくても、自分でお米さえ稼いで来ることが出来た。

 或晩は殊に珍しい程いい機嫌になって婦に呟いたのである。

「二日後にあ倉庫の仕事をするだで」

 婦は目を丸くして驚いた。倉庫の仕事は組合加入者だけの手でなされるもので、支械軍のような浮浪労働者には許されぬことを婦は知っていた。

「そったらことお前さんに出来るだか」

「世話するちゅう男がいてな」

 その実、先達は帰り道で同じ村の炳吉ビョンギルに偶然遇ったのだった。それは気骨壮大な男で、もとは隣家の下男をしていたが今は組合に加入して働いていた。炳吉は或は先達の変り果てた姿に強い同情を覚えたのであろうか、無理をしてでも倉庫の仕事の仲間に入れてやろうと約束したのだった。その時先達は何とも云えなかった。ただ今はこんな下男出身の助けにまですがらねばならないのかと思えば、自分の身がうら悲しい限りだった。

「明後日の朝四時に来るがええ」炳吉は大きな手で彼のか弱い肩を二三度叩いて慰めると、からからと笑いつつどこかへ立ち去った。

「三円もくれるちゅうてな、炳吉さそう云うていたで」

 彼は面を輝かせて婦に囁いた。

 婦は微かに叫んだ。

「んにゃ、あの炳吉に遇っただか」

 先達は闇をすかしてじっと婦を見守った。そして静かに頭をこくって肯いてみせた。



 それから又二日雨が降った。

 土城廊は大海に浮び上った鯨のように氾濫の中を泳いでいる。ポプラの木が背筋の方に静かにそそり立っていた。冷い湿気を含んだ風が時々それを踊らせる。霧が辺り一面に流れ薄白い漂いの上には真昼の太陽が坐っている。対岸はもう海のように沈没し、威勢よい濁流が菜田や水田、粟畑等を遠くまでひたひた浸していた。電信柱や老木だけが流れの上に一つ二つ立ち並んでいる。北の方に連なっているアカシヤの並木路も洪水でおおわれ、ただ石造の長橋だけが白く冴え返ったまま浮んでいた。

 赤くよどみ切った濁流は怖ろしい勢で土城に襲いかかり、白く泡立ち渦を巻いた。流れに浸った土幕はばさりと足元の土を噛み砕かれて、一瞬間よろめいてみえめりめり毀れて流れへ落ちる。藁束の屋根は濁流の中へ逆立ちした。鼠が冷い水の中へ放うられて岸に向って慌てふためく。近くの小屋からは物事に驚いた人々の黒い首が現われ、そして又消える······。中流はまだまだ腹が高い。これからもますます水嵩が増す前兆に違いないのだ。柱や家具や家畜や農家の屋根さえ浮びつ沈みつ矢のように流れて行く。そしてそれ等がさして行く遠い南の彼方にも、大海のようにぎらぎらと輝く広い眺望が横たわっていた。

 土城の東側の沼地ははけ口のない雨水で湖のようになり、屠殺場も浸水して水に浮びそうである。幾十人かの男が張り廻した木柵の中から豚を追い出そうとしていた。彼等が泥沼の中を駆け廻りながら何かを盛んに喚き立てると、黒い豚の群はけたたましい声で騒ぎ立てながら、向いの高く盛り上った鉄道線路の方へなだれて行く。丁度今し方通りかかりの黒い列車は、線路の傍にまで迫って来た洪水に用心深くぴーぴー汽笛を鳴らしつつゆるゆるとかーぶを描いていた。その向うでは赤く宏壮な監獄の高い建物と、煙突の林立した灰白い都市の空がじっとこの風景を見守っていた。

 大空から一羽の鷹が翼を拡げて屠殺場へと下りて来た。貪婪どんらんくちばしを突き立てて四面を一渡り円舞し、急に首を丸め爪で嘴をとぎながら扇子のように拡げた翼をとじて直下の姿勢をとった。矢のように早い。だが小豚の群の近くまで下りて来たかとみると、そのまま体を吹き上げてさかのぼり空高く遠い方へと飛んで行く。空にはもはや密雲はなく、水野の上を濡れた湿っぽい風が漂うばかり。何万という程の蜻蛉は土城の上を網でも張ろうとするように、すいすいと飛び交っている。

 元三ウォンサミは何事も手につかなかった。爺は時々溜息をつき石油箱の中に木枕や、やぶれゴム靴や、醤油漬のようになった足袋などを入れながら立退きの準備をした。それでいてどうしても敷莚を畳んで他の人のようにさっぱりと引き払うことは出来なかった。城内に貸部屋をきめた訳でもないのだった。だがこの二三日来元三はどんなに街の中をさまよい人の家を質ね廻ったことだろう。

「部屋を貸して下せいまし」爺は何度も腰を曲げ手を揉んで頼んだ。

 自分には月四五円の部屋代位は訳なしに払えると思っているのだった。だが誰一人も彼に取り合ってはくれない。一度は或る没落した家の婆さんが胡散臭うさんくさそうに、

「何人連れかな」と質ねたものである。

「う」と爺は口に泡を含んですっかり悦び、「餓鬼まで四人家族であす、う、大水で家を流したでごぜえます」

 うっかり四人家族と口走った。爺はにべもなく断られたが、どうして嬶と二人きりだと云わなかったのだろうと思えば忌々しくてならなかった。

「大変じゃ」と老婆はぶつぶつ云って尻を振りつつはいって行ったのである。

 爺は再び他の家の大門をくぐった。今度こそ二人きりと云ってやろうと自分に云い聞かせるが、その後は誰も相手にしてはくれないで追い出した。爺は仕方なしに又のそのそと街を歩いた。役所の傍や銀行の脇や楼閣等にはどこにもここにも、田舎で洪水のために家や作物を流した人々が芋づるのようにせぐくまっていた。爺にはそれがひとのことのようには思われない。それで最後の一塊の土に噛り附いても、土城廊を離れてはならないとますます頑なになる彼だった。もともと土城は一年に一度はまって大洪水に襲われる。その度に土幕民はちりぢりに城内へ流離し全くの宿なしになるのだ。そして洪水が退けると、今度は又新しく追われた人々がこの土城廊へぞろぞろやって来る。こうして再び新しい営みが始まる。||さすがの元三にも今に自分の土幕が押し流されるだろうことがはっきり分った。自分や先達ソンダリの土幕の五六尺下はもはや濁流が渦巻いている。鳥肌立つ冷気が漂い上りぞくぞく身慄いした。

 爺はむっつりして這い出て来ると今度はぼんやりと空を眺めていたが、破れ落ちた壁に目をやれば云いようもない暗然とした気持になった。壁はすっかり雨に浸っているので、泥をこね上げて新しく土塊をつけて見てもぱさりと崩れ落ちるだけだった。上からの流れ水でも落ち込まぬように、下壁の廻りを築き上げても見た。だがどうしても仕事に身の入る筈がなかった。

 時々爺は倒れかかっている先達の小屋を打ち眺めては溜息をついた。直ぐに手入れをせねばなるまいと気に病んでみるが、又じき思い迷ってしまう。一体先達はどうするつもりであろう。今に土幕が崩れそうなのに、朝の三時から彼は倉庫へ働きに出掛けているのだ。婦は又どうしたのか小屋に俯伏せになっているきり顔さえ出さない。あの噂が立って以来爺は一度も先達の夫婦と打ち解けて、これからのことを相談したこともなかった。婦は爺が近附いて来る度に、何時も慌てて両手を前に突っ張り声をふるわせるのだった。

「寄るでねえ。人さ見るでねえか」

 爺はむんずと腕を組んだ。そして大きな胸をさらけ出すと無精ひげの顎を上下にふった。

 五六の土幕民が屑物を背負うて北の手の石橋の方へ避難して行く。一人の顔の黒い小柄な年寄りは、何か持ち出すものはないかと腰を屈め崩れた小屋の中を棒切れでほじくっていた。それを見るといよいよ爺は、目先のくらくら暗むような絶望感に打ちのめされた。

 ふとその時元三は背後の方にただならぬ喧騒を意識した。振り向いて土城の上を見上げた瞬間、彼はその場に釘附けになった。形相を変えた土幕民達がぞろぞろ並んで来る中に、一人の労働者風の男が背中に血まみれになった男を担いでいる。不吉な予感がさっと脳裡をかすめ、爺は反射的に駆け上った。果して背負われたのは先達である。ぐるぐる繃帯した頭がぼうふらのように肩越しに揺れていた。

「どいた、どいた」誰かが呶鳴った。

 彼等は雲のように先達の土幕の方へ下りて行く。幾人かは入口の前にはだかって、盛んに小突き合いつつがやがや騒ぎ立てた。

 怖ろしい不安に襲われた元三は暫くの間身動きも出来なかった。息がぜいぜいとなって苦しく悶え、爺はその場にがくんと坐り込んでしまいそうだった。

 だが彼は何かを思い切ったようにのっそりと近寄って行った。そして先達の土幕の前に立ちはだかると静かな重苦しい声で呟いた。

「どいてくれ」

 不幸のおこりは倉庫の仕事が他の労働者達に発見されたためだった。四時頃から人の目をはばかって息も細々に三十余名で始まった仕事は、朝日がちらちら洩れ込む頃にはもう大分はかどっていた。貯蔵穀物の三分の一以上を崩してしまえば、誰ももう後から入れて貰うことは出来ない。

 所が朝の七時頃、遅ればせにそれがいくらかの組合員達に見附かったのだ。倉庫の仕事は元来滅多にないようないい稼ぎ口なので、それに抜かれてあぶれてみれば憎悪と嫉妬の念に駆り立てられ殺気立つのも無理はなかった。それで三十名余りはただ頭も上げられずに、皆の白眼や罵りの中を小さくなって立ち廻っていた。二人が掛声も抜きに、一人に籾俵を背負わせると、その男は電気の持ち役に足元を照らされつつ長い踏板バルパンを伝って下りて行く。云うまでもなく先達はいよいよ浮足立っていた。始めからこの仕事に参加する資格のない彼である。それが体さえ弱いために電気の役に廻っていることだけでも二重三重心苦しいのに、組合員まで現われて来て喚き散らすからである。先達は見附かりはせぬかという怖れと激しい自己嫌悪のために穴にでもはいりたい位に苦しかった。だがどうしたものか赭ら顔の男に看破られ腕を捉えられたとき、彼は全く咄嗟とっさに男を拳で突き飛ばしたのだ。それと同時に二人は組み打ちをして倒れ、みなのものは押しかけて喚き罵り喊声を挙げた。

 それでも炳吉ビョンギルが逸早く駆けつけて制止したのでこの格闘は難なく収まり、気性の強い先達には、その実それという負傷もなかった。だが炳吉に体を支えられて立ち上った時、先達は急に悲しみがこみ上がってならなかった。顔を激しくしかめ歯を食いしばったが、熱い涙が口元へ流れ落ちた。

 先達はよろめきよろめき踏板を上って行った。今日はどうあっても稼がねばならない。

「担がしてくれ!」と彼は云った。

 男達は驚いたが、先達のただならない気配に怖れて黙って彼にも背負わした。彼はよろけた。果してそれは驚くべき程の膂力りょりょくであった。額に大きな汗をにじませ今に息も絶え兼ねまじい苦しい表情で、一歩一歩と踏板を下りて行くのだ。このように自分も一人前の働きをしていると皆に思わせたかったのであろうか。背骨はぞくぞくとひび割れるようで足元はぐらつき始めた。彼には余りにも重い荷であったからである。一寸した刹那せつなである。千仞せんじんの崖の上に立ったように目まいがした。急に目先が真暗になった。そしてそれが先達の最期だった。

 先達の屍体にはただ大きな黒い蠅の群が集まったり、ぶうんと離れたりする。取りまいている人々も死者のようにそれを誰一人取り払おうとはしなかった。血まみれの上衣チョゴリバジ。繃帯で巻かれている細い胴。棒切れのような黒い足。繃帯の下から半ば目は閉じたまま血光り、鼻腔には綿が詰め込まれていた。先達のこうした無慙な姿に、元三爺は深い悲しみに陥って、ただ臆病そうな目をじっと据えて身動きも出来なかった。

 先達を背負って来た炳吉は胡坐あぐらをかいた腿の上に両手を突き立て、婦の泣き悲しむ様を茫然と見守っていた。鼻梁のそばに痘痕のある顔を、時々ひくひくふるわせている。そげた頬の皮が痙攣するのだった。

 婦は赤く爛れた目をしょぼつかせつつ泣いていた。夫の屍体にくずおれ、彼女は凡てを詫び祈るような気持だった。子供は泣き疲れている。涙がよごれた頬を伝い、肋骨のあらわな胸を流れて大きな腹の方へ這い下りていた。

「お前さん、どうして死んだだよ。妾にこれからどんげしろちゅうのだよ」

 婦は激しく肩を波打たせて嗚咽した。

「我慢するだよ」炳吉は堪えかねたように云った。「こうなってはな、泣いたって仕様ねえだ。これからもまさか飢死にやしめえし」

 とうとう彼女はおうと声を出して泣いた。元三はどうしたものか軽く手をふるわせながら、顔色をかえて炳吉の方をじろっと眺めた。これは何うした男であろう。爺はそれが知りたかった。炳吉は解せないほのかな笑いを口元に浮べている。元三は婦の方へずり寄って行くと、はあはあ如何にもせわしそうな息使いで半ばうろたえつつ慰めるつもりでまくし立てた。

「どげん悲しいことだかわっしもしんねえよ。だがわっしあ明日の中にちゃんと先達を葬って来てやるだで。一緒に行くがええだ。わっしあ何度も人の葬式でベミ山さ行ったことがあるだからな」

 婦は心なしか少しばかり泣き止んだ。

 爺はいささか得意になって続けた。見知らない男の慰め言に一層泣き立てた彼女であるのに、自分の慰めにはすぐに泣き止んだと思うからである。

「それにここさもう危ねえだけに城内へ後で引越すがええだよ。わしあ此頃も一生懸命に捜しとるだが恰好なのがのうてな、う、だけどきっとわしあ捜して見せるだよ」

 そこで自分の云ったことが炳吉の云った言葉より確かに三倍は長いのに違いないと考えていよいよ爺は心を強くした。

 こごんだまま唖のように先達の惨死を弔っていた徳一ドクイル老人は、急にどこかずきんずきん痛み出したように顔をしかめた。そして歯を食いしばって中風症の足を組みかえると、鳴らない先の古時計みたいに暫くじりじりしてから云う。

「みんなどんげした因果パルチャだか」

 婦は無理に押しこらえようと大きく息をふーと吐いた。けれどその後から再び痙攣的な慟哭がつづいた。

 土城の上には救護隊が現われて赤い旗を振り廻していた。

「橋の方へ行くんだ。土城が潰れるぞ! 早く逃げろう!」

 土幕の人達は方々から相ついで土城の上へ登って行った。水葬になった方がよっぽどましだと思うものの、やはり列をなして石橋の方へ歩いて行くのだった。ただ鉄鎖のように生命が彼等を引きずるのである。先達の小屋の近所を通りながら、土幕民達は婦が盛んに哀哭しているのを聞いた。

 跛乞食は片足を重そうに引きずりつつ独りごとを呪うように呟き呟きしていた。

「おしめえだ······お終えだ······お終えだ」

 土城の向うの方では銅鑼のような狂女の嗄れ声が駆け廻っていた。

「人攫い奴、失せろ、失せろ!」

 それは洋服男達を遠くの方へと追ってゆくのであろう、だんだんと小さくなって行った。



 救護隊の叫び廻る声を聞いて元三ウォンサミはもぞもぞ出て来た。土城にはもう誰もいない、何だかこわくなって爺は上の方へのそりのそり這い上ってみた。そしてその一角に固く口を結んで突立った。漫々と漂う濁流の上に、夕陽の反照が赤々とそそがれている。流れを縦に切って鮮かなスペクトルが土城に迫っていた。遥か西の方の竜岳山の険しい峯の上には雨雲がわだかまり、太陽がその上に魔法使の投げた兜のようにふんわりと浮んでいた。

 元三は眩しそうに頬肉を畳み上げ顔をひどくしかめていた。厚ぽったい大きな脣がきゅっと歪められている。大きな両眼の縁には何か白いものが光って見えた。

 燕の群が中流の上を飛び交うている。無数の燕がぱっと舞い上っては宙で金色の逆光に突きさされて羽ばたいたかと見ると、今度は又嵐に吹き散る落葉のようにひらひらと落ちかかる。藁屋根が河馬のように横になり縦になりつつ立ちさわぐ渦巻の中を流れて来た。それを見て燕の群はさっとその上にことごとく舞い下りるのだ。

 それと共にどうしたのか急に落日の斜陽も薄れてしまった。土城廊はまるで死のようにしんとしずまりかえっている。誰一人の影も見えず狂女の叫び声もいつしか消え、屠殺場からは家畜の雄叫びさえ聞えなかった。ポプラが葉ずれの音も立てずに静かに揺れている。ただ濁流だけは押し合いへし合い渦を巻きつつごうごうと転ぶように流れていた。静かなる一瞬間であった。だが気の所為せいであろうか、暫くする中にどこかですあーすあーと不気味な騒音が聞え出したようだ。そしてそれがだんだんと強くなって来るようだった。土城の南の端の方でも崩れ出したのだろうか。奔流が東側の沼地の方へなだれ込む音ででもあろうか。爺は茫然と流れに目をやっている中に、自分も押し流されてしまいそうに急に目がくらくらするのを覚えた。心持ちよろけそうな足元をじっと据えたが、胸は緊め木で締め附けられたように激しく鼓動した。

「先達は死んじもうただ。姐さんとあの餓鬼あどんげするだか」元三は形相いかつく強ばって自分に呟いた。「ふんとうにわっしが先達の恩を忘れねえで助けにゃなあ」

 爺はどうしてもそう思いたいのだ。自分はやはりそうすることに依って先達にも報いることが出来る。そしてこの生き残った二人をやはり自分が助けるより仕方がないではないかと考える。婦、婦······、すると爺は思わず新たな歓びを覚えてにっと微笑を口元にほころばせた。いつの間にか婦への温かい感情が忍びやかに胸の中へ浸って来たのだ。だが直ぐに彼の想華はむざむざちぎれ出した。爺はぎょっとした。薄いヴェールを揺り分けるようにして、先達の血にまみれたはれぼったい脣がぴくぴく動き出したかと思うと、赤い歯並の間から押し出すように何かを先達が呶鳴ろうとする幻影が現われた。

 爺はよろけて三四歩後ずさりし息を殺した。そしてやっと気を静めて不安げに辺りを見廻した。

 向うの方から誰かはっきりしないが、二人の影が近附いて来るようである。もう辺りは大分薄暗くなっていた。一人は足取りの危げな老人らしく、杖に屈んだ体を支えつつよちよちやって来る。つれは老婆のようだった。大きな包みを担いでその後から何かぶつぶつ呟いている。ぶら下げた味の素のぶりき鑵が一度赤くきらりと光って見えた。それは徳一ドクイル老人の夫婦であった。やはり彼等二人も石橋の方へと命乞いに避難して行くのだ。

 元三は何かに突き刺されたようにやはり硬直したまま突っ立っていた。老人はそれが支械軍の元三であることに気がつくと、鼻の先まで近寄って来て炭のような手を顔先にちらつかせつつしあしあ喘いだ。

「お前さん、く、くだらねえ真似しようとするのけえ? 行くだ。なあ、行くだよ」

 狂女は急に歯をむき出してにんまりわらい、

「助平や、えききき······ちったあ悲しくなるだかね?」

 と云うと、きーきー異様な声でわらいながら走って行った。

 二人の姿は薄闇を縫うて北の方へと消えて行く。ひきずる足がつまずくのであろう、時々ぶりき鑵のごとごと鳴る音が不気味に聞えた。彼方向うの石橋の辺りには、背並びに薄明るく橋灯が線を描いて洪水の上を渡っている。城内は何か急にびっくりでもしたように灯の海になった。元三爺はながい間そのまま失神したように身動くことも忘れていた。土城を呑み砕いている濁流の音だけがますます騒々しくなって行った。時々ポプラの木の上で名も知らない鳥が羽ばたきしつつ巣の中で寝床を安らげる音が静かに聞える。だがどうしたはずみか爺は何かに驚いて反射的にぴたっと身を伏せた。そして恐怖に突き抜かれて顔を地べたにすり附け息を殺した。

 轟然地鳴りがしたのである。その時||

 南の方へ三四十間離れた土城の続きが遂に持ちこたえきれず、見る見る崩れて流の中へさかさに落ちかかったのだ。水のしぶきが十数尺も高く弾ね上った。それは闇の中に銀色にぴかぴか閃いて見えた。今度はその近くの土壌がめり込むらしく軽く水のはぜ返る音が聞え、再び大きな轟音が静けさを突きやぶって響いて来た。土城は最早決潰し出したのである。のしかかって来る濁流はそこにはけ口を見出してどっと押し寄せ、喊声を挙げながらざあざあ東側の低地へ落ちかかった。地鳴り、轟き、瀑布のどよめき。

 慄然として背筋には冷い惑乱が突っ走る。元三はいつの間にかへたへた俯伏せにちぢこまって、口では激しく喘ぎ手は地べたの泥をまさぐっていた。体を起そうともがいた。早く婦の所へ行って連れ出さねばならないと思ったのである。だがどうしても起き上れない。腰を浮し足を先にして下の方へと乗り出してみた。手が泥の上を辷って、あっと思うまに二三尺ずるずるとずり落ちた。それは泥水だらけで急傾斜だった。下は怖ろしい急流である。爺は慌てて再び起き上ろうとして膝を立てたが今度はそれががくんと辷ってころげ出した。

「姐さん!」元三は悲鳴を上げた。

 ただならぬ物音に驚いて婦は首を突き出した。だがその時はもう「あーっ!」と叫ぶまもなく、何か黒い物がどしんどしんと転び落ちていたのである。婦と炳吉ビョンギルは咄嗟に転げるように飛び出した。間に合わなかった。ぶすっという水の音が聞えたきりである。

「元三爺! 元三爺!」

 それらしいものがもはや数間先を流されている。婦は叫びながら岸伝いに走る。炳吉はばたばた流れに足をつけて追駆けた。爺は山男で水は知らないのだ。まだ岸から幾らも離れていないので、時々足を地べたに突き附けて起ち直ろうとしてはばたばたする。何か叫ぼうとしているようでもある。う、う、う、悲鳴を上げた。その拍子に水をがぶがぶ呑まされるのに違いない。だが確かに幾声か聞き取れたのである。

アズ······さんモニー······逃げ逃げろ······う、う」

「元三爺、元三爺!」婦はあらん限りの声を張り上げながら駆けて行く。時々辷りこけたりのめったりする、どたりと倒れては又起き上った。

「う、う······

「元三爺、しっかりするだよう、元三爺!」

「う、逃げ······逃げろ······

 喉苦しい声はそれきり聞えなくなった。水は赤く河は黒かった。何度か白いものが浮んで見え又消えながら、ますます深い所へ巻き込まれるように流されて行く。渦巻く濁流はべろりと舌を舐めずっていた。婦はそれでもよろめきながら死物狂いでついて走った。

「あっ、危い! そこは危い!」

 先に駆けていた炳吉は婦を押し止めてしっかと抱えた。婦はそれをふりほどこうとしてあがく。だが一間先には誰かの崩れた土幕の洞穴が横たわっていた。そしてもう既に遅いのだった。元三はいつの間にか何十間も先の遠くの方を流れている。だがふいに激しい渦巻きの中にはいったのであろうか、二三度ひらひらと閃いたかと思うと、もうそれ以上何も見えなくなったのである。

 婦は炳吉に身をもたせて顔をおおうた。男は茫然と元三爺の消え去った彼方をいつまでもいつまでも眺めていた。ごろごろと勢よく流れる濁流は依然茫漠とした流れをたたえていた。時々遠い所で又どうーんと土城の一角の崩れる音だけが一層不気味に聞えて来る。

 間もなく十六夜の月が出て来たので、流れは黄金の月光を浴びて悪魔の小踊りをくり展げていた。






底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社

   1999(平成11)年4月10日第1刷発行

   2005(平成17)年8月10日第2刷発行

底本の親本:「金史良全集 ※(ローマ数字1、1-13-21)」河出書房新社

   1973(昭和48)年2月28日初版発行

初出:「文芸首都」

   1940(昭和15)年2月号

※表題は底本では、「土城廊トソンラン」となっています。

※()内の任展慧氏による割り注は省略しました。

※底本の任展慧氏による注は省略しました。

入力:坂本真一

校正:富田晶子

2020年2月21日作成

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