敗者の当然ながら、
淵辺伊賀守の斬り死になどもかえりみてはいられず||敵に追われどおしで、とくに手越河原では残りすくない将士をさらにたくさん失い、今川、
ついに、ここでは直義も進退きわまったとみてか、
「腹掻き切って、
といったのを、
「何の、ここはお討死のつぼにあらず。いかなる恥をしのんでも、生きてこそ」
と、今川
直義の性格として、めったに斬り死にだの自害だのとは言いだしはしまい。もし事実なら、おそらくまわりの将士にさいごの決意を奮わすための指揮者の血相をみせたまでのものではなかったか。
なぜなれば、彼には、彼の身ひとつ以上な重任が考えられていたはずである。||鎌倉から救出して連れていた
また、べつに淵辺をやッて、このどさくさ
「ここは」
と、はや今日の鎌倉放抛を、大望第二期への峠として、独断、思いきった手段に出ていたこととわかる。
そして要するに、彼の胸にあったのは、長いあいだのもどかしさを、宮
とまれ、手越河原の難はからくも
ここは郷党の地だ。即、足利方の勢力範囲といっていい。直義は、みだい所の登子の身をひとまず一色村へあずけ、また成良親王は、そのまま兵をそえて都へお送りし奉った。そしてひたすら兄尊氏の下向を待ちつつ、また一面、奪回された鎌倉を、さらに再度奪回するの策やら準備におこたりなかった。
一方、都の空では。
つとに敗軍の報がひっきりなしに朝廷へも六波羅へもはいっていた。
まだ、直義の鎌倉放抛とまでは聞えないうちからである。尊氏は、
「あぶないもの」
と、はやくも形勢を察し、みずから
もっとも、尊氏が朝廷へ願い出ていたのは、ただたんに、
「こと火急。鎌倉は無勢。みずから
というだけのものではなかった。
同時に、このさい、
の
「もってのほかな!」
とする廷臣の強硬な反論のあろうことぐらい、彼が想見していないはずもない。知りつつ持ちだした奏請なのだ。尊氏も引くいろではなかった。
つまるところ、窮極は天皇の御採否一つにかかる。おそらく叡慮をなやまされたことであろう。
征夷大将軍
は武家最上の任である。それを尊氏にゆるすのは、かつての鎌倉将軍家の格式を彼に与え、幕府再建をみとめることにほかならない。
一日一日、日はすぎた。
朝廷はゆるさず、六波羅はうごかず、ただ東の、敗報ばかりが、矢つぎ早であった。
するうちに、鎌倉の放抛、直義の敗走、つづいて大塔ノ宮がその幽所で何者かに殺されたなどの取沙汰も聞えて、都じゅうは容易ならぬ
そうした八月一日。
朝廷は発表した。
鎌倉をのがれ出た
「殿は」
例の
「いや、その儀は、いましがた、ほかの筋から耳に入っておるよ。かさねて、そちから聞くにもおよばん」
尊氏は言った。いつもの尊氏とかわりもない。
いささか拍子抜けのかたちである。師直は、また出る顔の汗を懐紙でそっと叩きながら、それとは離れて、とっさに言った。
「いよいよ、お腹の決めどきでございまするな。朝廷がわのご態度はさだまりまいたで」
「いまさら何を」
尊氏はうすら笑って。
「そちには、用が多いぞ。いつでも廂ノ間へひかえておるようにいたせ。かかる折、執事のそちがどこへ行っておった」
「てまえならではなるまいかと存じ、
「道誉の許か」
「さようで」
「よく気がついた。気がかりはあの男のうごきにある。いたか」
「おりませぬ」
「参内か」
「でもございませぬ。はや佐女牛は無人同様で、昨夜、国元の伊吹へひきあげたと、留守の者が言いおりまいた」
「奴。さすがだな」
「そして、この一書を、足利殿へと、あとの家臣に託して行ったよしにござりまする」
文面を一読、尊氏は苦笑をみせ、それなりで黙っていた。
「殿」
と、師直は膝をすすめ、
「道誉が何を書き残しておりますので」
「見るがよい。||このさい二心なし、と道誉がわざわざこれに証判しておる。そして、わしの東国
「はアて?」
師直はうめいた。誇張したあきれ顔をその下に作って。
「まだ、ご当家の出勢は
「道誉は早耳だ。すでにその内定を、きのうのうち、知ったのだろう」
「それにしても、殿のご意中もようたださず、伊吹へ帰って、ご軍勢の通過を待つなどという先廻りは」
「よくいえば、機を見るに
「ではやはり?」
「師直。きょう中にあらゆる準備をぬかりなくすましておけ」
「ご発足は」
「明朝、あかつき」
「そして、朝廷へは」
「そのままでよい。お届けにはおよばん。再三、お願い出ではしてあるのだ。······のんべんくらりと、
事実、尊氏はいま刻々にそれが案じられていた。
天下の武士あらましは、公家政治に失望して王政ならぬべつな“何か”の形態を統一のうえに欲している。||北条残党ののろしが、東国の野でたちまち巨大な火勢となったのも、現状に不平な枯れ草が土壌いたる所にあるからだ。
これは、尊氏として、坐視できない。武士の不平は、彼にすれば、彼のいだく大望の理想楼閣をきずく良材なのだ。味方なのだ。その
かつは、朝廷としても、ここまできた北条討滅の意義は霧消してしまう。||だからたとえ朝命をまたず無断東征に
尊氏は、しいて自分の行為に、そう理由づける。
にもかかわらず、彼は師直へ、無断離京の準備を命じた。
ひとつには、望んでいた征夷大将軍の補任が
明けて、八月二日は、空もようまでが、ただならなかった。
「あれ、
「
と、殿上でも、
こんなところへの
「朝まだき、暗いうちに、足利の
「はや六波羅には、武者らしきものはひとりもいぬと申す」
「総勢千七、八百騎とか」
「いやいや、それが大津越えにかかる頃は、尊氏を慕うてあとより追っかけ加わる
「いずれにせよ、尊氏は、八座の宰相の身にありながら、君恩もわすれ、朝命も待たいで、無断、
「不忠不逞な臣」
「断乎たる御処分な
公卿口の
公卿ばかりでない。新田、名和、結城などの武臣も、ひっきりなしの参内だった。||わけて千種忠顕は早々に
「皇威にかかわります。勅使を立て、尊氏の意をただすべきでございましょう。もちろん、尊氏は理くつをならべ、朝命に
忠顕は言った。
||義貞をさし向けて討ち取るべきだという意見である。
すでに直義は東国でやぶれた敗残の将、尊氏は六波羅をすてて途中にある無拠地の旅軍、これを追ッて討つのは容易だともいうのだった。
「だがの」
ここは待たれよ、とする上卿たちの声もつよい。彼の無断
尊氏のこんどのばあい。
尊氏からいわせれば、そうも主張できようか。武士の間には、「軍中将軍ノ令ヲ聞クモ、天子ノ
こんな論議のうち、いつか
「在京の武門、あまたな武士ども、足利宰相のあとを
と、刻々その動揺ぶりは宮廷内へも聞えてくる。
すでにその頃、尊氏は瀬田大橋もこえ、彼の東下の軍勢は、
「えらい風」
と、尊氏はつぶやいた。
従う三千余騎もみな風の中である。歩兵はヨレヨレに
「吉良。追い風だな」
「は。西風で」
「舟にも似て、風を負って行くゆえ、駒も軽い」
「
「途中、
尊氏が「意気」と言ったには、ふくみが聞える。
吉良貞義は、ふと他の面々を見まわした。
高ノ師直、桃井直常、一色右馬介、引田妙源らはべつとし||自分をはじめ、仁木、畠山、
なぜならば、その誰もが、兄や弟や、我が子らを、東国の空においていたからで、
生きているやら?
はや死者のかずか
と、口にこそ出さないが、急へ
行く行く兵は増すばかりで、翌々日、近江番場へかかったとき、引田妙源は尊氏へ
「お供の軍勢はもう四千をかぞえまする」
と、告げていた。
在京の武門のほぼ三分の一は尊氏を慕って
やがて、不破ノ関は近い。
尊氏の姿を見ると、道誉は、宿場の一陣屋から立ち出て来た。そしていつもの
「
と、臣礼をとって、
「軍旅のお疲れもやと、あれにご休息の用意をさせおきまいてござりまする。······いかがでしょう。しばしお
と、誘いかけた。
「いや」
と尊氏は、
「知っての通りだ。直義の安否も気づかわれる矢さき、このまま行こう。御辺もすぐつづいてまいられい」
「もとより伊吹の手兵一千、挙げて参陣の心ぐみで、これにひかえておりましたなれど、寸時、彼方の陣屋の内で、このさい会うてお上げなされてはいかがなものと愚考しますが」
「会うてやれと? 誰に」
「ご一子、
「············」
「また、藤夜叉どのとも。······いやその藤どのは、名をかえて、いまでは
尊氏はふと胸をさいなまれた。
なろうなら目をふさいで過ぎてしまいたかったものを||その
道誉の言によれば。
藤夜叉は、越前ノ前と名をかえて不知哉丸とともにつつがなく伊吹の城にいるという。あれいらい三年になる。不知哉丸もはや十三か。
その母子をわすれているどころか尊氏は自己のおかした罪業のつぐないをいつかは果たさねばならぬものとして日頃にも悩んでいた。けれど実の子や妻とも一つにいられぬほどな時局だった。大望の達成までは、家庭や身辺の犠牲はやむをえないとあえて顧慮から忘れようとしていたのである。彼はわざと非情を顔に作って道誉へ言った。
「いや、御辺の親切気はかたじけないが、この日において、申さば、つまらぬもてなしというものよ。さし
「では、ご対面は」
「いたすまい」
「ふたりは、がっかりするでしょう。ここを御通過ときいて、ひそかにお会いがかなうかと、愉しんでいたふうですから」
「いまはそんな時ではない。いかに先をいそぐ身かは、御辺がよくわかっているはず」と、言い捨てた。そして「||妙源いるか。引田妙源」
と、ほかを見て呼び、軍の編成について早口にいいつけた。
「ここから加わる佐々木の伊吹兵一千は、二の備えに組み入れろ。||道誉。すぐ行くぞ。二の陣について来い」
軍命として言った彼のことばは、個人を超えたひびきで、もうそれに、私事をさしはさむ余地などなかった。従来の佐々木道誉も、
「はっ」
と、道誉は
その
美濃路||
尾張平野
道をひがしするほど、過ぐる日の颱風が、東国寄りの地方であったことがわかる。
行軍は、出水のあとや、まだ水カサのひかない川の渡河になやんだ。が、ようやくのこと、京都発足いらい七日目の八月八日、三河国に着いた。
「お見えか」
待ちかねていた
相互、無量な感であったろう。「梅松論」がいう||当夜、
そして翌九日。尊氏、直義の兄弟軍は、もうそこを発して、ただちに鎌倉へさしていた。
鎌倉を
御先代の軍
と、みずからを
その先代軍は、
「必定、敗北した直義の次に来るものは尊氏!」
と見、うらみかさなる尊氏、目にものみせんと、遠江からひがしの要所要所に陣地を構築して、備えには、おさおさ怠りなかったのである。
だが、先代軍の大将、名越式部
佐夜の中山合戦
駿河の高橋縄手(興津附近)
箱根越の山いくさ
相模川渡河戦
片瀬、七里ヶ浜
鎌倉口
と、敗走に敗走をかさねた。足利方は、要害七ヵ所七度のたたかいも、ついぞ負け色をみせず、行くところで勝ち、十九日、尊氏の馬は、もう鎌倉の内へ突き入っていたのである。
連戦わずか十日だった。この迅さ強さにみても、このときの足利勢が、いかに気鋭新鮮な、いわゆる風雲児の下に引率された軍であったかが察しられる。
道誉でさえも。
といってしまうと、彼は弱い凡将のようだが、彼の天分は別な面にあって実戦場ではむしろ
それは、相模川の合戦の日であった。
敵は、遠江から退いた名越式部の死にもの狂いな兵を中心に、伊豆の伊東
このとき、尊氏が、
「ここはよい。ここはよいから上野(太郎頼勝)の隊と、仁木(三郎太義照)の隊は、川の
と、軍令した。
これはきつい令である。決死隊にほかならない。
道誉は心で、ほかに足利
「ちッ」
と、思ったがぜひもなかった。
従軍はしても、彼は自分が子飼いの伊吹兵は、これを極力大事にして、武功と取り換える消耗はつねに巧く逃げている。
「······尊氏め、それを知って、おれを今日の難場に使ったな」とは思ったが、しかし彼の上には
こうして彼は、今川頼国と並んで、海道
とまれ、鎌倉はまた、足利方の下に
先代軍の
これで、鎌倉の地は、高時いらい、わずかな年月に、四たび
先代軍の北条時行
そして、今からはまた、尊氏が事実上の「鎌倉殿」たる座にすわった。
さきに直義がいた二階堂御所は手ぜまなので、さっそく、若宮小路に新邸が造営された。といっても全体の落成ではない。とりあえず一部を
人々はそこを、いつか、
大御所
と呼んだり、将軍御所といったりした。そして直義の二階堂の
世上ではこんどのいきさつを知っている。
なるほど尊氏は将軍
尊氏が、無断、都を発したあと朝議
征東将軍ニ
との沙汰をとどけていたのである。征夷大将軍でないべつな官称だ。これなら尊氏が幕府を再建するものとはならない。しかも似ている。という姑息な慰撫であったのだ。尊氏は笑っておうけしたが、直義はあとで、なぜ御返上しなかったかと、ひどく腹を立てたことだった。
だから、似て非なる征東将軍でも、将軍御所にはちがいない。また大御所と呼ぶのも不当ではなかった。けれど尊氏はそんな実のない敬称によろこんでもいず、また無頓着なほうでもあった。そしてこのさいは、諸将の功にむくいる行賞などの方にむしろ興味があったらしい。彼は、尻尾を振ってよろこぶ者を見るのが第一の好きらしく、余りに気前がよすぎるほどだった。それが過ぎて、すでに朝廷で没収していた旧北条遺領や、新田義貞が受領した土地までを、
それと彼は、降伏者には寛大だった。||直義はきびしい。峻烈に斬る者は斬る。||だが尊氏の耳にはいると、いつも彼がなだめる方にまわっていた。たいがいな旧怨も忘れ顔で助けてしまう。先代軍の余類からも少なからぬ降人があったなどは、しぜんそんな風評が武士間にあったからにちがいなかった。
こうしたうちに。十月。
都からは、ゆゆしい勅使の下向と聞えてきた。やがて、
「東国の逆乱もすみやかな
時局も時局である。しかも、勅の旨は、
尊氏みずから、すみやかに、上洛あるべし
という厳命だ。
勅使中院ノ
「いやなに
と、言い足した。そしてまたいうには、一族間の御協議などもおありであろうゆえ、両三日のことなら逗留してお待ち申すもよい。とにかく、明確なご返辞をえて帰洛したい、と釘を打つのだった。
「こころえてござりまする」
尊氏は、旨を拝した。
それなり沈黙におちている。||熟慮のうえでともいわず、即答したことでもない。
中院ノ具光がじっと観るところ、なにさま、尊氏の心中は困惑そのもののようにうかがわれる。くるしげな彼の立場と腹の中が鏡にかけてみるようにわかる気がするのであった。
ややあって、尊氏は、こころもち胸をただした。
さしうつ向いていたうちに、その苦渋を顔から
「いや両三日が間は、旅のおつかれを休め、まためったには東国への御下向もありますまいから、鎌倉あたりの御見物もなされませい。······それにせよ、尊氏が返答
「では」
と、具光は意外そうに。
「お召には、否やなく、ご承諾と仰せられるか」
「勅。なんで否やがありましょう。さきごろ、みゆるしも待たず、急遽、六波羅を出てまいりましたのも、もしその果断を取らなかったら、今日の勝利もなく、尊氏は弟直義を失い、都は北条遺臣軍の包囲を見、天下の再乱、君のおん大事は必至と、憂えられた以外、何の私心でもございません」
「ごもっともじゃ。さればその儀については、君もさらさら、お咎めではおわしまさぬ。そればかりか、
「もったいないことでした。不肖尊氏にたいする君の御優遇には、いつも心のそこからありがたいとおもっております。
「ううむ、おことばのまま、ようおつたえ申しあげよう。いかばかりおよろこびか」
「されば、
勅使の中院ノ
「これで安心いたした」
と、ひとまず宛てがわれた饗応屋敷へ引きとった。そして尊氏からは、
いつ上洛するか
の日取りを、数日中に答えることになったのだった。そのあいだの饗応役は、高ノ師直。これは適任であったろう。
がしかし。勅使下向のその日から、どことはなく全足利党は殺気立っていた。朝廷から何をいって来たのか。その難題とは何か。そこの饗応屋敷をめぐって険悪な臆測をさまざまにし、あたかも敵国の軍使でも迎えたかのような反抗気分さえあるのだった。
「万一でもあっては」
と、尊氏は上杉
「あとはたのむぞ」
と、尊氏は今、大御所の広間に居ながれた一同へ向って、
「ぜひなく自分は、勅を
と、言っていた。どうしようと
「············」
弟の直義。
以下、細川和氏、仁木、今川、一色、畠山、
「
と、彼も兄弟としての馴れなどはどこにも示さず、
「仰せではありますが、このさいの御上洛などは、もってのほかと存じられます。何とでも辞を構えて、ここはお断り申し上げておかれますように。······一同もひとしく同じ憂いに相違ございませぬ。いや、問わずもがな。揃って、お見合せのほどを、こうお願いつかまつッておりまする」
すると尊氏は、
「いや」
と、刎ね返すように、きっぱり言った。
「そうはまいらん。ほかならぬ勅のお
「ですが」
「ならんのだ、そこが」
「そこがと仰せられますが、しかし、時にもよれ、勅にもよること」
「直義」
「は」
「一同へも、かさねていう。すでに拝諾の旨は、勅使へお答え申しあげてしまったのだ。||時も時なる危うさは、尊氏とて、知らぬはずがあるものか。上洛なせば、堂上こぞって尊氏を
「では、どうありましても」
「む。上洛は変更し難い」
「いや私どもは、何としても、お止めせいではいられません。断じてお止めいたしまする!」
「いうな、直義」
尊氏は叱った。
だが。直義が黙ると、仁木、今川、細川、みな口を揃えて、
「何とかお考え直しを」
と、上洛の危険を説き、尊氏の決意を
佐々木道誉も、おなじ見解で、
「このさい、もしご上洛あらば、必ず義貞の要撃をうけて、天皇への御拝顔をとげる以前に、千種
と、ここで彼は知るかぎりな公卿間の内情をかたった。在京中には、千種や新田とも、つきあいよくつきあっていた道誉である。そのことばには、耳をかしていいものがある。
すでに、尊氏要撃の
そのほか、幾多の悪条件をかぞえて、極力、道誉も
「なにとぞ、ご賢慮を」
ぜひなく、一同は退出まぎわの一言に
その果てとみえる。
直義はただひとりで、一夜、下御所から兄の大御所をおそくに訪ねた。
「はやおやすみの時刻、あすにゆずろうかと思いましたが」
「いやまだ寝るにはちと早いから頼春(細川)を相手に
「いえ、ちとおはなしもございますから」
「なんだの」
「そのご、何かよいお考え直しがおつきでございましょうか。
「上洛の件か」
「はい」
「あれなりだ」
「あれなりとは」
「鎌倉の留守の方がむしろ心配でな。ご勅使への返答も迫っておるが、出発の日取りだけがつい決めかねておる」
「兄上」
「なんだ」
「ではまだお迷い中なので」
「迷ってはいない。一同の案じるところもよくわかっているが、勅命、
「ばかな!」
直義はついに張りつめている胸のものを破って、兄の、まともに
「勅が何ですっ、勅が。勅とあれば
尊氏は、
「············」
ものはいわず、それはただ兄の顔になりきっている。
これにぶつかると、直義は幼少からの習性に
直義にはつねに、
がしかし、一瞬だけの反逆だった。いつまで、ものもいわぬ兄の眼に、直義はつい気を崩した。そして
「
と、ことばを直した。自分の激血と兄の反射とをなだめ合うつもりで
「おたがい、いつか年をとりました。都の風にも吹かれ、一門三十二党それぞれに家運を伸ばし、わけて兄者は、正三位
「直義、直義······」
「いやもすこしいわせてください。そんな小さい望みのために。そ、そんな
「過ぎるぞ、口が」
「いいや、先祖家時公の置文などを御一門に誓わせたり、またこれまで、あらゆる恥に耐え、多くの者を奮い死なせ、その秘事のため、私はいまにいたるも妻を持たず、兄者は妻子はあるも妻子と一つに居ることもないなどの苦労は何もすることはなかったはずです」
「だまらんかっ、ばか」
ついに、苦しいものは、彼よりは尊氏を耐え難くして来た。尊氏もとうとう
「直義。きさまこそ少しどうかしておるぞ。それしきのこと、きさまから聞くまでのことはない。ちと、あたまを冷やせ」
「どちらが」
「なにっ」
「われらの大望はまだ中途でしょうが。だのに、はや公卿なみの優遇ぐらいで骨抜きにされ、勅とあれば理非なくありがたがる兄者なのでは情けない。直義は一同に代り、その
「だまれ。青臭い広言をば」
「お叱りは何とうけてもいい。かくなる上はだ。||兄者っ」
「なんだ、その
「僭上ですが、今日、勅使の方へは、尊氏事上洛つかまつらずと、兄者に代って、いや足利三十二党を代表して、直義からお断り申しておきました。勅使は明早々に、帰洛のはずです。もう御断念のほかはございますまい」
「な、なに」
尊氏はせきこんだ。あきれ返った
「き、きさまは、この兄をさしおいて、
「なんで。ばかな!」
直義は言い放した。もう腹をすえた眉なのだ。
位置を変えて、弟が逆に兄へ食ッてかかるときの盲目的な顔を見ては、その暴言の底のものに、尊氏もはっと
「そこがあなたの頭がどうかしている所だ。
「ああ、きさまもまだ依然むかしのままな青侍だったか。
尊氏は一歩自分を内省に退いている。ここで弟と争ったら全足利党は真二つに割れる。必死にことばを抑えている風なのだ。が、直義にはそれも弟への
「これやおかしい。すべてを直義の小才や無謀のせいになさるが、兄者はどうだ! その兄者はもう公卿風の毒に魅せられて、苦難の大業よりは、いまの栄位に小さく安んじていたいのだろう。大望に
「ちと、おちつけ、
「この私が」
「よく聞け。そもそも、われらの望みとは、そんな
「分りません! てんで分りませぬ! どうして朝廷をそう恐がるのか」
「ちがう。尊氏の意はちがう。どうなろうと、天皇はやはり至上の上にあがめおきたい。この国の美だ、また
「それなればだ、なぜ大望などいだいたのか。初めから矛盾でしょうが」
「いや矛盾でない。頼朝公はそれを成しとげた。いやもっとよい武家統治も不可能ではない」
「ちッ、それで兄者の夢は夢とわかった。幕府を廃し、武家を政治から無力にし、すべてを天皇の
「直義。いかにとはいえ、
「やめます! いう気力もありはせぬ。痴人の夢には、もう、がっかりだ」
「そちは大望を矛盾といったが、朝廷を上に
「もうお
「だからこそ、尊氏はひたすら機を待つに
「はて。いつ私が足利党のめざす希望をさまたげたろう。また、ぶち壊したと仰っしゃるのか。いくら兄者でも聞き捨てならん。これまで戦場の
「ではいうが。直義。きさまはまだこの兄にさらと打明けぬな」
「何をです」
「大塔ノ宮
「いやお耳には入れてある」
「それは一片の報告にすぎまい。部下の淵辺とかをやって、このたびのどさくさ紛れに、殺せといいつけたのは、ほかならぬきさまではないか。下手人は
「おお、ご存知ならいってしまおう。いかにも私が命じてやらせた。直義こそは下手人と世上から指さされても私はいい!」
「たわけめ。何でさような暴をむざとしたか。非情、無思慮、それで一軍の将といえるか。言語道断、いつかは、きさまを罰しずにはおかぬぞ」
「これは
「だまれ。かりそめにも
「では、
「············」
「それだ。そのように、あなたのすること、いうことは、すべて矛盾だらけなのだ。尻尾と頭とが一つでない。道誉を
「こやつ、止めぬな、悪口を」
「いうまいとしても、こよいばかりは直義も」
と、直義は眼のうちのものを煮えたぎらせた。ふと幼少の頃そっくりな顔にみえる。せつな、尊氏はいきなりその弟の頬をピシッと烈しく一つ
「いえッ。いくらでも申してみよ」
「打ちましたな、兄者!」
尊氏にもままかっとなる性情がなくはない。
そこもまた、直義からいわせれば、“矛盾の人”であるのだろう。けれどそれを外に出したせつなに彼は後悔する。いまもそうであった。弟を打つには打ッたが、とたんに胸は
「オオ打った。まだいうなら、いくらでも打つぞ」
と、
「············」
直義は蒼白な顔に
「兄上||」兄者とはいわなかった。「ついまたあまえて、言いたい放題を吐きすぎました。ご
救われたように尊氏もすぐ顔を
「いやおれも大人気ないわ。そちと二人だけでいると、とかくわがまま同士になりやすい。そのくせ兄のおれの中には亡父のおもかげや先祖の遺言などが常住無意識に住んでいる。それを直義にまで水臭くされるとこれまた淋しい。そこらが尊氏の矛盾だろうよ。だがどう争ッたところで、しょせん二人は兄弟なのだ。かんべんしろ、弟」
こういわれると直義は口ほどもなかった。ほろッと涙をこぼした。
尊氏はそのとき、その眸をじろっと斜め後ろへやった。近侍の細川頼春だろう。主君同士ふたりの争いを心配して、廊のそとにかがまっていたらしいが、すうと退がって行った気配である。尊氏はすぐ言った。
「な、直義。とかく口論してみても始まらぬ。大塔ノ宮
と、尊氏は襟もとに顔を埋めて、
「······いささか、わしも途方にくれる。さてどうしたものか」
と、つぶやいた。
「いやその儀なら」と、直義は初めからの覚悟のていで「||すべての悪名は私が着ます。いかなる難関にも身を以てあたる所存ではおりまする。がただ一つ、兄上の胸底には、いまなお、
「気がかりか」
「気がかりです」
「はははは」尊氏は、初めて笑い出して。「見損うな。殿上の衣冠などは
「えっ、仏門に?」
本気かと、直義は疑った。
だが、あいまい
「いや謹慎のためにだよ。近日中にわしはここの将軍邸を捨てて、寺へ移る。身はそのままな俗尊氏だがの」
「どうして急にさような思い立ちを」
「なんといたせ、大塔ノ宮を
「では、しばし仮の?」
「そうではない。また兄の矛盾よと笑うだろうが、本心、宮の
「あとは」
「そちがやれ」
「軍も諸政も」
「一切ここはそちに委す」
「かまいませぬか」
「ただしわしが今夜言ってきかせたことだけは以後踏みはずすな。
「ですが、朝廷の御目標と、わが足利家の大望とは、まったく相容れぬ逆です。出来るでしょうか、その両立が」
「できる」
「むずかしい」
「もとよりやさしくはない。百難もあろう」
「ですが、朝敵となるのをひたすら怖れてばかりいた日には、大事を成すなど思いもよらぬ難事ではありませぬか。いくら委すと仰せ下されても」
「時運はたえまなく動いているのだ。そうこだわるな。眼前の事態にのみ固着した
やがて、両三日後に、はやこのことは実現された。
尊氏は、細川頼春、一色右馬介らの近習小姓わずか七、八名を身につれただけで、突然、
の旨を内外に触れ、
いきさつは直義とおもなる者しか知るところでない。一門の族党は大きな驚愕に打たれた。しごく単純な武者ばらでもある。彼らは主君の謹慎のすがたをそのまま信じた。理由なく傷んだり何かへ憤慨したりした。そして一時的ではあるが、鎌倉は冴えない景色のうちにあった。
勅使、中院ノ
彼の見た“東景色”はそのまま朝廷へ復命された。||尊氏勅ヲ奉ゼズ||は、なかば予期されていたものの、いよいよ事実化されると、あらためて衝動は大きかった。朝敵尊氏ということばは、宮中公然な声になった。
連日の
「もはや僉議の要はない!」
この声は最もつよい。また多い。
彼ら若公卿はいう。
「尊氏の反逆は、すでに歴然といえる。それなのに再度の勅を奉じさせて、法勝寺の
「かつは御威光にかかわろう。朝廷に人なく軍威なきにも似る」
「それはすぐ在京武者に弱味をおもわせ、いたずらに
「すでに、足利の叛旗とみるや、諸家の武門を脱走して、ぞくぞく、鎌倉さして行く兵も少なくないとか」
「いや、それは憂えるほどなことでもない。事態の急に、京から鎌倉へと、身の処置をきめて行くのもある代りに、また都に
「いずれにせよ、もはや
「新田義貞に、逆賊討伐の朝命をさずけ、あるかぎりな王軍を催して、いまのうちに、
「それこそは、さきの大塔ノ宮
しかし、宮の御受難とは、ひろく知られていても、その死期のありさまなどは、まだとんと確かなことはわかっていない。||もっともひそかには、先代軍か足利勢の兇刃のもとに? という臆測もおこなわれていなくはなかったが、見た者はなし、確証もないことだった。||ただいえることは「これも尊氏が女奏の
この恨みは当然、大塔ノ宮遺臣のあいだに強かった。かねがね
異様な充血はしかしここだけの現象ではなかった。
千種
その忠顕は、外では義貞とむすび、公卿
この日ごろのお悩みは
いつの公卿僉議にも、
「······まずは」
とのみで
「考えておく」
とばかりで御裁可はない。
いわんや、千種忠顕が
「ま、さは
と、抑えてしまう。
要するに、
その左大臣坊門ノ宰相清忠ひとりは、ほかの激越な即戦主義者とは大いにちがって、
「尊氏にも功はある」
と、言い、
「その功もたちまち
というのであった。
これが衆論にうけつけられなかったのは、前述のとおりである。けれど後醍醐の顧慮のうちには、ほぼこれと同じなものが、たゆたっていた。
元来、この君としては、尊氏なる人間を、根からお嫌いではないのである。いや人間的には彼の一種魅力めいたものに引かれてさえおいでになる。君臣というかきさえなければ一
のお迷いはかくてつづくばかりだった。このさいにおける英断には、
それは何かといえば。鎌倉から発した
「かかる物が国元へまいりました由。
と、在京武門の国々から届け出てきたその数は、何十通にもおよんでいた。
尊氏の逆心を証拠だてるにはこれ
帝も御覧あるに。
新田右衛門佐 義貞
誅伐 セズンバ有ル可カラズ
一族相催シ
急ギ馳 セ参 ジラレヨ
と、すべて同文で、また、はなはだ簡である。そして日付けもみな一様に、一族相催シ
急ギ
十一月二日
の発になっている。
だが、署名は尊氏ではなく、
内覧ののち、僉議の公卿一統へ廻覧された。色めきたつ小声小声の下にすべての者がやがて見終る。
「みられたか」
千種忠顕、二条為冬など、声をそろえて。
「この
「
「しかも、尊氏の
という者もあった。
「檄の上に、わが名はあらわさず、弟直義の名を
このとき、坊門ノ清忠はなお、いつもの騒がない語調で、
「いやいや
「それよ、そこが尊氏の食えぬところとお気がつかぬか。||つたえ聞くところなら、
清忠は一言もなかった。
そのうえにも、また、ちょうどこのころ。大塔ノ宮の
朝廷が尊氏討伐を決定してこれを公卿
「公卿補任」をみるに、
陸奥守北畠
十一月十二日
鎮守府将軍ト
これはいうまでもなく東海東山両道から兵をすすめるのみでなく、北の奥羽からも官軍を攻めのぼらせて鎌倉を
ところが、「神皇正統記」にもみえる通り、ここに、
十一月十日あまりにや
謀叛のよし聞えける尊氏
かへつて
義貞追討の請 ひを
闕下 に奏し奉る
と、ある一ト波瀾が起き、これが問題の、尊氏が細川和氏を使者として、朝廷へさし出した“義貞謀叛のよし聞えける尊氏
かへつて
義貞追討の
尊氏ノ奏状到来
十一月十八日
との明記もあり。||いずれにせよ、すでに官軍発向の準備や任命などに、朝廷の内外ともに沸くばかりな空気のところへ、この奏状がとどいたことはたしかであった。十一月十八日
ところで、その上書なる物だが。そのなかで尊氏はこう訴えているのである。
義貞と自分との、年来にわたる
「||願わくば、乱将義貞
と、結んでいるのだ。
内覧のあと。
上卿のおもなる者もこれを見た日のことである。千種忠顕は参内の帰途、新田義貞の
「············」
義貞は読んでゆくなかばのうちに、もうありありと感情に燃やされた色で耳のあたりまで
「心外な」
と、一ト言いって。
「······千種どの。これに黙っていては、
「なんの、前例の顧慮などいるものか。すでに御辺は、王軍の大将として、ご内定もみておるのだ。||尊氏の奏状など、その一行の文も、おとりあげにはなっておらんが、それにせよ、ご潔白を立てる要はある」
その夜、義貞は灯をかきたてて、痛烈な反駁の一文を
義貞の上奏文は、じつに激越な文辞であった。自分に対する尊氏の弾劾状を、
一つ 臣義貞が上野 の旗上ゲは五月八日であり、尊氏が宮方へ返り忠して六波羅攻めに出たのは同月七日だった。相距ること八百余里。何で一日のまに連絡がとれよう。それを尊氏は、あたかも自分の令で新田を起たせたかのように誣奏 している。これ罪の一つ。
一つ 尊氏みずからはじっさいには元弘の鎌倉攻略に参加しておらず、幼弱な千寿王に少数の兵をつけて、新田の陣借 をしていただけのものにすぎない。しかるにそれも足利の功として誇っている。これ世上を欺瞞 し上を偽る。罪の二。
一つ 尊氏の六波羅にあるや、みだりにみずから奉行を称 え、上のみゆるしもなき御教書 を発し、親王の卒 をとらえて、これを斬刑 するなど、身、司直にもあらざるに法を執 り行う。これ罪の三。
一つ 東国にあっては、ひそかに禁府を開き、公 の物をもって、私の恩を売り、征夷大将軍の位名 を偽称す。その罪の四。
一つ 軍功の施与 は朝廷直々 の令に待つべきを、北条時行を追って府に入るや、僭上にも身勝手に諸所公領の地を割 いて、これを餓狼 の将士に分つ。罪の五たり。
一つ さきには讒構 をもうけて、巧みに、兵部卿 ノ親王(大塔ノ宮)を流離 に陥す。その罪の六。
一つ 親王の御罰 は、ひとえに宮の驕 りをこらす聖衷 に存するを、私怨 をふくんで、これを囹圄 に幽 す。罪の七。
一つ 混乱に乗 じて、部下の兇兵を使嗾 し、宮に害刃を加えたてまつる。天人ともに憎むところ。その罪の八。
以上のあとに、一つ 尊氏みずからはじっさいには元弘の鎌倉攻略に参加しておらず、幼弱な千寿王に少数の兵をつけて、新田の
一つ 尊氏の六波羅にあるや、みだりにみずから奉行を
一つ 東国にあっては、ひそかに禁府を開き、
一つ 軍功の
一つ さきには
一つ 親王の
一つ 混乱に
伏して請 ふ
乾臨明照 のもと
尊氏直義 以下
逆党の誅命 あらん事を
畏 みて 奏 し仰ぐ
義貞誠惶誠恐 謹言
とした長文だった。尊氏
逆党の
義貞
尊氏の言いぶん。
義貞の言いぶん。
いずれが
しかも、彼の昨今は、
「待ちに待ったる日が来た!」
と心を奮ッている風だった。得意さだった。
その義貞への朝命は、十八日に
朝敵追討大将軍の
それには当然、朝廷でもなみならぬ期待のもとに、ずいぶん、古式に
王軍をうごかす。
それじたいが、朝廷の浮沈もここに賭けたことになる。やぶれれば朝廷たりとも、
その大任を負って、新田
この人に
と祈りをこめた衆目だった。
義貞はそれを感じる。武門最上な本懐と感じる。彼はすでにかつての旗上げの日、郷土の
||古 ヨリ源平両家、朝 ニ仕 ヘテ、平氏世ヲ乱ストキハ、源氏コレヲ鎮 メ、源氏世ヲ侵 ス日ハ、平家コレヲ治 ム
と、告白していた。彼にもこの下心はあったのだ。いまや平氏の北条はない。足利が取って代ろうとしている。しかし自分も源氏の嫡流だ。有資格者である。八逆の賊尊氏を逐って、自分が覇武の権を取ッて代るに、世上の誰もふしぎとはしまい。しかも
朝廷では、万一このたびの東征にやぶれでもしたら、建武新政の
そして衛府の門を出ると、なに思ったか、
「高倉へ」
と、軍兵をうながして、彼の馬はとうとうと先をきって二条高倉ノ辻へ
「やよ船田ノ入道、朝敵退治の都立ちには古例がある。知っているか。古式いたせ」
と、一つの門を指さして、命令した。
そこは今は人もなき、旧足利
するとここの
上将軍の陣であった。
大将軍義貞のほかに、後醍醐の一ノ宮、
まもなく、義貞の軍は、
このさい、親王の
「あな
と、不吉感に吹かれたなどと古典太平記にはあるが、作為であろう。ほんととは思われない。
また兵力なども、
その数六万七千余騎
前陣すでに
尾張の熱田に着きけるに
後陣はまだ大津相坂 の関
四ノ宮河原にささへたり
などとあるのも大ゲサに過ぎたものだ。もちろん、物見、伝駅などの小隊は、先へ先へと、先行してはいたろうが、それにしてもの感がある。前陣すでに
尾張の熱田に着きけるに
後陣はまだ大津
四ノ宮河原にささへたり
じっさいの兵数は、中書軍をあわせても、二万がらみではなかったか。
親王の軍を、中書軍とよんだのは、親王が“
しかし軍の中堅は、ほとんどが
これになお、他家の大小名がある。勅にこたえて、一議なく官軍側に
千葉ノ介
宇都宮
菊池肥後守武重
大友左近将監
熱田ノ大宮司、薩摩守義遠などの百数十家、所領の分布からみても全国にわたっていた。まさに
なおこのほかに。
同日から三日おくれの都立ちで、尾張黒田から東山道をとって
それの大将には大智院ノ宮、弾正ノ
時をあわせ、奥州からは北畠顕家が一路南下の予定である。||この両翼を心にえがきながら、義貞は東海の征途にあった。||濃尾のあいだでは一矢も錦旗に
「尊氏は以前から戦にかけてはから下手よ。また直義は、たんなる血気の
このあいだにも、都の使いは、たびたび、義貞をはげましに下っていた。||朝廷では諸大寺の
鎌倉
むかし北条長時が何かの
「もどりまいてござりまする」
馬は山門の外に。
駒のあるじは今、旅ぼこりの身もそのまま、すぐ、ここにさきごろから引き
「
待ちかねたぞというばかりな顔である。が、大いに労をねぎらって。
「早かったな和氏。||海道の往復を、こんな日数でもどるには、さだめし道中夜もかけて帰って来たか。大儀大儀。して、上奏文の響きはなんとあったぞ」
「すでに朝議一決のあとにござりましたが」
「うむ」
「上書は、洞院ノ
「それでいい。だが、義貞の反応についてはどうだ。聞きおよぶところはなかったか」
「いや、それは大いにございました」
「大いにあったと? ふ、ふ」
予期していたものの手ごたえに、思わず彼の
使者の細川和氏も、これを土産として帰るには、よほどな苦心を要したらしく、やおら
「まず、ご一読を」
と、尊氏の前においた。
それは彼が和氏を使いとしてわざと朝廷へ提出した“義貞
和氏は殿上の誰かにそっと手を廻して、それの写しを入手してもどって来たものにちがいない。······尊氏は手にとるや、眼をそばめてその全文を黙読していた。
一つ、何
一つ、何
と箇条書きにしてある自分への痛烈な八罪なるものに目を通していながら、尊氏の面にはしかしなんの波紋も起って来ず、むしろ容認しているふうですらあった。いやもっと何か目的を別にした「||思うつぼ」とこれを読んで、ほぼ満足のうちに巻き収めていたといえないことでもなかった。一つ、何
「和氏。
「されば即日、朝廷からは義貞へ、尊氏追討の総大将を任ぜられ、
和氏はべつな覚書をふところから取り出して、その
「待て待て。わしは世に告げてあるとおり
晩の
大塔ノ宮の霊
高時の霊
いくたの
に心からな
もちろん、酒も魚肉も断ち、
したがって、近習の細川頼春と一色右馬介も、
「右馬どの」
「む?」
「貴公には分っておるだろ」
「何が」
「大殿の御本心だ。本心、このまま世捨て人となるおつもりだろうか」
「さあ、どうかな」
「幼少からのお
「いや、ご舎弟(直義)さまでさえ分らぬ兄といっておられる。どうして拙者などにわかるものか。······だが、ああしていらっしゃる今日は今日だけの御本心だとはいえるだろう」
「では、あしたは」
「あしたのことは、おそらく御自身でも······。いやもっと遠い先は観ておられるに相違ないが」
「つかみどころのないことを」
「そう、つかみどころがない||それがあのお方そのものだな。まだ又太郎さまだった十代のお若い頃からだ。······しかしそれは、ぼんやりしているのとは違う。何か、人とは
「············」
頼春は、目くばせした。寺の
「山の
と、馴れ馴れしく、そばへ来て、
「では、麦の粉はどうですえ。菓子にしたらええがの」
「いらんと申すに」
「お茶は」
「茶もある」
「でも、ことし
「解くな。荷を解いても、買いはせぬぞ」
追い払っていたときである。ちょうど
「頼春。買ってやれ、何ぞ」
「お。これはいつのまに」
「愛くるしい娘だ。その芋の
「運のよいやつだ。殿さまへようお礼を申せ」
頼春は、
「ありがとうございまする」
なんども、それをくり返し、またお願いいたしますると、やっと立って去りかけた。
その背へ、浴びせるように、
「これこれ。これに
右馬介が言った。けれど女は返辞もしなかった。そのくせ遠くから縁の尊氏の姿を二度も振り向いて行った。
尊氏はあとで二人へ訊ねた。
「あのむすめは、よくここへ見えるのか」
「いえ、里の物売りは、よくまいりますが、いまのような小娘は」
「初めてか」
「は。きょう初めて見たようにおもいまする」
「気をつけたがよい」
「それはまたどういうわけで」
「ただの山家女や
「右馬介」
「はっ」
「この裏山の
「は。いやしかし、つまらぬ地蔵でございますので」
「何でもよい。地蔵は母の信仰でもあり、わしの守護仏ともいわれておる。行ってみよう」
尊氏はもう歩いていた。
鎌倉の海もここの山も、冬を忘れたような小春日だった。右馬介たちが柴採りに来てふと見つけたという横穴を覗いてみると、二尺ばかりな石の地蔵が、ちょこんと石の台座に乗せてあった。
「これか」
「はい」
「地蔵だろうか?」
「
「やはり地蔵尊かの。しかしお顔も
「お目がねの通りです」と、頼春が答え||「これはいつの頃か、近くの漁師が海から拾い上げた物のよしで、
「ほ。網引き地蔵と」
尊氏は急にその前へうずくまった。そしてつらつら地蔵を見て、また、うやうやしく
「どうだ、地蔵のお顔は、この尊氏と、どこかよう似ているであろうが」
「お戯れを」
「いや戯れではない。網引き地蔵とは、おん名からして気に入った。粗略にするな」
このときは、ただこれだけで帰って来たので、二人には、尊氏が何でそのような冗談をいったのか、またひどく機嫌のいい
が、その意味がわかってきたのは数日の後だった。いやその晩、
「こよいは、お別れにまいりました」
直義は、冷静だった。
尊氏もそうと察していたらしく、かくべつ、怪しみもしなかった。
「出陣は明朝かの」
「は。すでに
「そうか」
「敵は、東海東山の両道を数万の大軍で急下してまいるよし。このたびこそは、天下分け目の一戦と期しているもののようにござりまする」
「むむ」
「おそらくはなかなかの苦戦。直義も生きてふたたびお目にかかれるや否やわかりませぬ」
「ぜひもない儀だ」
「一族の諸将は、このさい、まげても、大御所(尊氏)の御出馬を仰がずにはと、軍議
「············」
「
「なんの、軍事も諸政もすべてを捨てた
と、
「直義」
「は」
「このたびの戦の相手は一体誰だ?」
「
「いや心得ておかねばならん。敵は新田義貞であることを。皇室ではない、義貞であるのだ」
「が。その義貞は、朝命をこうむって、朝敵討伐の
「かたちは、さもあれ、
「はい」
「尊氏のあの上奏は、朝廷を相手どッたものではない。いや朝廷との対決を、わざと、足利新田両家の確執に
「ではあれも、そうした深いご用意であったので?」
「もちろん、実戦でもその
「心得ておきましょう」
ぜひなく、直義はそう言ってまもなく
すると、当夜の夜半だった。
何か、尊氏の寝所の方で、異様な物音がしたので、近習の二人は、押っ取り刀でそこへ駈けこんで行った。
「殿っ」
「おうっ、
「なんでございますな、いまの物音は」
「
「え、盗人が」
「あかりをつけろ」
「は。ただ今」
室はまっ暗だったのである。右馬介は
すると尊氏は、
「ほかの侍どもは入れるな」
と、頼春に命じて、廊の仕切り戸を閉めさせた。
寝所の内には、枕が飛んでいた。また
「お。そやつでございますな、曲者は」
二人はそばへ寄って行った。山着の筒袖に
「やっ?」
二人は思わず手を離した。きのう
「介||」と、あきれ顔でいる彼へ、尊氏は一方の座から声をかけて。「ま。やさしく訊いてやれよ。なんでこの尊氏の命を狙うなどの不敵を抱いてここへ忍んできたものか。ましてまだ年もゆかぬ小娘の身でよ。よほどな仔細がなくてはなるまい」
「では、これに落ちている刃は」
「その小娘の物だ。それをもって、わしの寝首を
「かしこまりました」
介が、そう答えると、すぐその尾について、小娘が言ったのだった。
「仰せられますな尊氏さま。いたわってなど、いただきたくはありません」
「ほ。いうたな」
「逆上もしておりませぬ。さむらいの娘です。仕損じた上の覚悟もしておりまする。あなたはよくよく悪運のつよいお方。わたくしは不運なお人たちの味方。それだけのこと。すぐご処分をしてくださいませ」
「よし」
尊氏は、うなずいた。
「望みのようにしてやる。だが、一応の理由を問わねば処分をくだし難い。まず訊こう。名は」
「
「棗か。して生国は」
「
「諏訪の
「はい。兄の三郎盛高は、鎌倉の亡ぶ日まで、御先代(高時)の近侍の内の一人でした。そしてわたくしは」
「あ。思い出したわ」
「ご存知でしたか」
「二位殿(高時の妾)の御所に仕えていた者であろ。······かねて
いつであったか。細川和氏の夜話に聞いたことがある。
高時滅亡の直後。
そして鎌倉の焦土に“犬神
戦後のちまたには、亡家の女たちが、みな身を売ったり浅ましい
「そのときの
「和氏さまのあのときのお情けは、いまも忘れてはおりませぬ」
「ではその折から、兄や父のいる諏訪へ帰って、亡君のわすれがたみ、亀寿さまのおそばに、再び仕えていたわけだの」
「はい。兄の三郎盛高は、あの日、亀寿さまを背に負うて、信濃へ落ちておりました」
「むむ。さすが北条遺臣の中には良い武士はあったのだな。さきごろ、信濃北越に大兵をおこし、わずか二十日の間でしかなかったが、一時にせよこの鎌倉の府を奪回した先代軍の大将は||その亀寿さまが名をかえた||北条時行どのであった」
「そうです。······足利直義どの以下を追い落し、ふたたび、亀寿さまをいただいて、この鎌倉へ入ったときの、一族方のよろこびは、ことばにも言いつくせません。けれどそれもわずか二十日、たちまち、京からあなた御自身が加勢に来て、あわれ私たちの夢は、二十日先代と、世の人が笑うほど、つかの
「ぜひもない。なべて、弱いものは、亡ぶしかない世の中だ」
「いいえ」
と、棗はするどく首を振った。解け落ちた頭巾の下も無造作なつかね髪にすぎず、紅白粉も知らない顔はただ
「おことばですが、ほんとの人らしい人は、弱い群れの中にこそ大勢います。弱いながら人の美しさを持って必死に生きているものを、そんな者は亡んでしまえとは、あなたらしい言い草です。だから、わ、わたくしは」
ふと、
尊氏は、じっと、見すえた。男にもこれほどの者は少ない。女である。しかも小娘だ。時代の風雲が作った荒磯の奇形な姫小松の一つともいうべきだろうか。
尊氏は、ふと、からかい気味に、
「だから、どうなのだ?」
と、反問すると、
「あなたを殺してやりたいと思ったのです!」
「なんで」
「あなたは強い」
「それだけか」
「それだけではありません。あなたは悪人だ。先には、ご恩顧ある北条家を裏切り、今また、朝臣の身で朝敵に立っている」
「はははは」
尊氏は笑った。だが、どこか
ふと。朝早い寒雀のさえずりが耳につく。
尊氏は三名をそこへおいたまま黙って廊へ出て行った。まもなくまた、ここへ戻ってきた彼は、衣服もかえ、洗顔や髪の手入れもすましていた。そして、
「
と求め、その袈裟を掛け、手に
「
「はっ」
しかし、二人は当惑顔を見あわせた。小娘とはいえ
「たまたま、わしの室へ舞い込んだ小鳥のようなものだ。逃げたいなら元の野へ放してやれ。居たいなら幾日でもここへおいてやれ。ま、遊ばせておけばよい」
ゆるい、しかし大きな跫音は、もう本堂のほうへ通う暗い廊を踏んで
みずから壇の
ただにそればかりでなく、後醍醐と尊氏とのあいだには、
「······。殿」
誰か、後ろでよんでいた。
われにかえると、尊氏の耳にも遠い所の
「
「はっ。ただいま山門まで、仁木殿が、出陣のごあいさつまでに、と申しまいて」
「見えたのか」
「はい」
「あいさつだけを受けておけ。
「かしこまりました」
まもなく、また来て。
石堂父子がお別れに参りましたと告げ。つづいては、畠山左京、今川
そして昼はまた、机によって、独り読書に
「介か。もそっと、ずっと前へすすめ。急にそちならではの用事ができた」
「は、何事で」
「極秘のこと、書状にしては万一が
「お使いでございますな」
「そうだ。直義の軍勢は今朝立ったが、佐々木道誉らの
「おやすいこと、さっそくにも」
「いや、やさしくない。味方のたれ一人にも知られてはまずいのだ。行く行く味方の陣地を通らねばならんが、そちの顔は余りにも味方には知れすぎておる」
「お案じなされますな。それほどの御秘命なら、頭を
「俄か坊主か。それやよかろう。道誉に会うて、
「いやあの疑いぶかい道誉ではあるな。そちの使いでも、言葉だけではなお、これほどな大事、なかなか信じぬかもしれぬ」
と、机の上の禅書に、目をおとしていたが、やがて朱筆をとって、その禅書の文字の諸所に、朱点を打ったり、棒を引いたり、また欄外に書き入れするなど、苦吟、長いことかかって、
「これでよい」
と、やっと筆をおいた。
「
「こころえました。ではおあずかりしてまいりまする」
「ときに」
と、尊氏はことばをかえて。
「昨夜の小娘||
「一室にふさぎこんでおりまする」
「
「与えました」
「逃げもせぬのか」
「は。朝餉を喰べたあとも、釜屋部屋の片すみに坐ったまま、じっと考えこんでいるのみで、べつに泣いてもおりませぬ。何か、ご処置のことでも」
「いやべつに」
「では、身の支度もございますので、このままおいとまを」
「待て待て」
「は」
「尊氏はつつしみの身、かかることを命じた者は、尊氏ではないぞ。裏山の網引き地蔵が命じるのだ。たとえ途中で
「申すことではございませぬ」
右馬介は退がって、こっそり一と間のうちで頭をまろめ、法衣、
同僚の頼春は、それを見て驚いた。しかしその頼春にさえ、介は、仔細を打ちあけなかった。そしてただ、
「どうだこの姿、お地蔵そっくりだろう。じつは裏山の網引き地蔵尊のお使いで急に西の旅へ立つ。頼春どの留守をたのむぞ。わけてあの小娘に油断するな」
とばかり、冗談に言いまぎらわし、たそがれの山門から
官軍は、十一月の二十五日、三河の
海道の合戦は、この日に始まり、交戦三日後には早やそこの
「残念だが、味方の来援を待つしかない」
とし、初めからおおうべからざる敗勢だった。
師泰らが、無念がったのも、むりではない。彼らは、すでに当初、
「矢矧川から西へは一歩も進んではならぬ」
という軍命令の下におかれていたのである。当然、こんな制約下では士気もあがらず、積極的な作戦もとれなかったにちがいない。||そのため、まもなく仁木、細川、今川、吉良などの味方を加えるには加えたが、鷺坂のふせぎもならず、またぞろ、駿州の手越河原まで敗退するの余儀ない
官軍は強かった。
わけて新田義貞の
加うるに、
王軍
の威光もあった。なんといっても錦の旗には人心がひかれる。多くの犠牲を捨てながらも、兵数は逆にふくれあがっていた。土地土地の土豪の参加、降参兵の投入。勝敗の
一方。
鎌倉をややおくれて出た足利
「もしここでもやぶれたら、われらの途は死しかないぞ。万事は
と、みずから指揮の陣頭に立った。||宿敵義貞と一騎打ちの覚悟であった。
激戦幾昼夜。
しかしここでも一戦ごとに、足利勢は敗色を否みようなくしていた。その上にもである。突如、
「佐々木道誉の一軍が、義貞へ降参をちかって寝返った」
という驚くべき声が陣中を騒がせはじめた。
「よもや?」
直義はなお信じかね、また、とくに、道誉とは
「そんなばかな。おそらく、それは敵方の
と、頑強に否定していた。けれど彼の信念も
「すわ!」
と、ここに暁の総なだれをおこし、その日から翌日へかけ、海道は敗走の足利兵がひきもきらず、直義はやがて、箱根の
このとき。もし官軍が急追さらに急追撃を加えていたら、直義は危なかったかもしれず、鎌倉も一挙に義貞の
どんどん、どん······
さっきから山門の外を烈しく叩いている者がある。朝だが、まだ星があって、浄光明寺の内はまっ暗だった。
だが、尊氏はすでに起床していた。いつものとおり
すぐ
「殿。何ぞお召で」
「お」
と言って、尊氏はまた、遠い所の音を待つように
「頼春。外は風だな。聞えなかったか?」
「はて。何かお耳に」
「しきりに山門を打叩く者があった。風の音とも思われぬ」
「それはどうも。······
「いやいや、一両人でない、馬のいななきもしたようだった。うかと門を開けず、まず何者かをたしかめて来い」
頼春はかしこまって、すぐ外へ駈けだして行った。
そのとき、山門の外の者は、あきらめたのか、鳴りをひそめていた。が、なるほど少なからぬ人馬が
頼春は、太刀の鯉口をかたくつかんだ。武者の習性といっていい。すぐ不測な敵の襲来が胸をつきぬけていたのである。そこで彼はいわれたとおり、
そしてまもなく。
彼は、門外の者の答えを持って、もとの本堂へもどって来た。
が、尊氏は、はや
「············」
いつか堂の
「どうした? 門外のことは」
「お味方の
「味方」
「は。······戦場より抜けてこれへ急使としておいでなされた
「ならば門をあけてやれ」
「お目通りへ
「む。二人だけを」
「では、すぐこれへ」
頼春は、飛んで戻った。そして山門をひらくと、
尊氏は道服に
通されて平伏した二人は
「
と、命じ、さらに、
「堂の四面の扉を閉めろ」
と、先にいいつけた。
それから使者二人の話を聞き、また直義からの書状も見て、さて言った。
「むむ。いくさは負けか。直義以下そんなにもさんざんにやぶれたのか」
「まことに面目もござりませぬ。
「そうだろう。||兵数においても味方は敵の四分の一。||初めから負けは分っていたといえなくもない」
「いやしかし、もし矢矧川より先へは出るなとの制約さえなければ、濃尾の
「だまれ」
「はっ」
「元々、尊氏は朝廷を敵とする意志でない。さればこそ、恭順の意を
「ゆめ、泣き言など申しはしません!」と、上杉伊豆守(重房)は大声で言い返した。これは
「······まずはお聞きくださいまし。直義さまはいわずもがな、足利方の諸士、みな名に恥じぬ戦はしたとおもいます。けれど、敵は官軍の名に誇り、いまや三万におよぶ大兵を
「わかった。いま、直義の書状に見るも、その
「なぜ、ご無理ですか」
「尊氏は公約しておる。本心、朝敵たるは好まぬところと」
「でも、過ぐる日、朝廷では、尊氏ノ官位ヲ
「仔細ない、仔細ない」
「のみならず、軍状その他、すべて官軍の合言葉は、逆臣尊氏でしかありませぬ」
「それもよし」
「いや殿はそうでも、朝廷方では、殿の恭順など一切みとめてなどおりません。||ひとたび、官軍がここへ迫らば、たとえ
「············」
「申しては
重房が言い疲れると、代ってまた、須賀左衛門が言って、尊氏へ迫った。
じっと、恐い目をしたまま、黙りこくっている尊氏へ。
「何としても、おきき入れかなわぬ上はこれまでのものです。御一門の
「············」
「また直義さまも、孤軍の味方も、箱根の一
「············」
「ですが、これがわが殿のご誓約であったでしょうか。||そもそも元弘の初め、はじめてわが足利勢が上洛の途中、
「············」
「しかるに今日、殿には、恭順を
ことばは、
「左衛門ッ。これまでだ。殿はつんぼとみえる。もう申すもせんない。やめろっ、腹切ッてお目にかけるばかりだわ」
「おうっ、
二人は坐り直した。革胴の紐を解いて短刀を左に持った。||が、尊氏はそれも見ている気か、なお黙っていた。
しかし、尊氏の蔭に控えていた頼春が、ばっと進み出て二人を止めた。たかぶる声と声の下に三名のからだは一つものに見え、相擁しながら、主君を後ろに、その主君を罵倒し、
「見損った! ああ、見損ったおれたち家来も馬鹿だッた」
と、無念泣きに泣き入ってしまったのであった。すると尊氏は初めて、
「頼春」
と、重い口をひらき、身に掛けていた
「
と、いいつけた。何か
「や、や?」
頼春は
「
「おおよ!」
遠くの
本堂前には
「すぐ行け」
と、何事かを命じていた。
ふたりはすぐ馬にとび乗って山門を出て行った。おそらくは鎌倉じゅうを駈けまわり、なお各所の木戸や屋敷には多少残っている留守の将士へ、尊氏の出馬を告げ、
「すぐ御馬前へ集まれ」
と、
尊氏はそのあとで
かつての元弘の年。
はじめて、彼が高時の命で上方へ出陣したときは、父貞氏の
しかし彼は、こんな形式事を気に病むものではないらしい。粥腹に
もちろん心はもう戦場へとんでいよう。自分が駈けつけてゆくまで弟の
しかも、この敗退の因は、彼にある。尊氏が初めから起たなかった出ばなの士気の不振にあったと言っていい。||その大事な機会を||なぜ彼はわれから恭順をとなえて寺へなど
後世の史家は、これを尊氏が打った“賊名のがれの芝居”であったと結論する。
なるほど多分に意識的な計算のあとはある。だが、これが彼の名分だけの擬態であったとするなら、何もこうまで、あぶない橋は渡るまい。足利一門の致命ともなりかねないような最悪の最後まで、じっと、
おもうに。||彼が後醍醐の
矛盾の兄、と
「行くぞ、頼春」
尊氏は、方丈から起つやいな、大きくどなった。
「それっ、お出ましだぞ」
寺中の将士は、尊氏につづき、一せいに山門の外へ流れ出た。といってもすべてで四、五十人をこえてはいない。このわずかなものがじつに尊氏の、天下の分け目をみかどと争う門出の兵力であったのだ。
つい今朝はまだ、身に
「頼春、頼春」
「はっ」
「わしの馬の尻について、よく駈けてくる
「ごぞんじの
「女か」
「はいっ。先夜の」
「なんであんな者を連れてまいる。追っ返せ」
「ききません。何といってもきかないのです。けれどあくまで殿のおん供をして行くのだと」
「
「
「どういう
「わかりません、まったくわからぬ女です。······が、察しまするに、これまで自分が考えていた足利の大殿というものと、目に見た殿とは、まったくちがっていたと、いたく
「ふうむ」
「そのうえ、ここ幾日を共にいて、殿のご起居から一切を知るにおよび、いよいよ初めの恨みも
「まるで、やんちゃ娘だな、ただならぬ生死のちまたを、なんとも恐れていぬなどは」
「ここを追われても、行く所はないとも言っておりました」
「それはそうだ。先代軍などは、はや一ト村雨の露とどこかへ消えてしまった。女の兄の諏訪三郎なども生きてはおるまい。
「この明け方も、いちどは、おん供などは相ならんと、追っ払ったのでございましたが、どこか近くの農家にでも預け置いてあったものか、たちまち、小姓具足を身に着け直し、殿が御出門となるやいな、ああしておあとについて来たものにござりまする。お目ざわりなれば、もいちど叱ッて、追い返しましょうか」
「いや待て」
尊氏は、振返って。
「ほッとけ、放ッとけ」
彼の駒足、彼の前後につづく駒足、自然に駒と駒とは勇みを競ッて、加速度に流れは早くなっていた。
また、辻々へかかるたび、その参加者も激増していた。||すでに伊豆守重房と須賀左衛門とが、ふれ廻っていたことなので、鎌倉じゅうの留守屋敷は、この朝、その老幼までをあげて身の
かくて由比ヶ浜を西へこの一勢が急いだときは、老兵童卒を加えおよそ六、七百の兵数にはなっていた。
時は、真冬だった。諸書に
建武二年
十二月八日
鎌倉をお立出で······
と一致しているから、尊氏の発向は、この日とみてまちがいないが、以後の合戦中には、十二月八日
鎌倉をお立出で······
「タビタビノ氷雨 」
とか、「終夜ノ風」
とかの記録がまま出て来るから、終始、天候はよくなかったようである。ところで
大体、古典の戦記物なる物では、たたかいの奇略、一騎打のさま、筆を惜しまず、つぶさな描写はこころみられているが、これを絵画的でなく、理念でたどると、しょせん現代人にはウ呑みにできかねる。
たとえば、このさいの、
箱根、竹の下合戦
の一条もまたしかりで||両軍の配置、地理、兵数、機動の経路||そして尊氏が断行した兵略の根底など、すべて大切なことはなに一つそれからは知ることができないといっても決して言い過ぎでない。
というようなわけで、ここでもまた、
と、まず前提して||そしてその推定から尊氏軍の進路を
「ありがたし。これこそ
と、直義の口上を持って、さっそく出迎えの将士がこれへ来合せたことと思われる。
それもあり、また伊豆や海道筋からも味方の相当数が「尊氏出馬」の声から声をつたえ聞いて集まり、
しかも彼は、このさい、
「直義から迎えによこした武者どもは、ただちにまた、直義の陣所へ返って、そこのみをかたく守れ」
と、その数百人も、自軍には加えなかった。
この意外な指令に驚いたのは、細川頼春、上杉重房、須賀左衛門らの左右だけではない。あたりの将士はみな、耳を疑った顔つきで、
「||では、いったい、孤軍の味方も援けに向わず、この軍はどこへ行くのか?」
と、一せいな怪しみを尊氏へそそぎあった。
尊氏はしかし何のためらいもなく、それらの一隊は元の箱根路へ返し、自身は自軍だけで、さらに
つい言いのこしていることがある。
それはさきに、尊氏の密命をうけて、浄光明寺の門から、旅の一
その右馬介は、尊氏の軍が
「途中、ご出馬と噂をきき、ここにお待ち申しておりました」
と、どこからともなく姿を現わし、彼の前へ来て初めてその
「
待ちかねていた尊氏は人を避けてすぐ彼とふたりだけで駅の伝馬役所の内に入り、しばし密談をかわしていた。
要は、介の報告であったにちがいない。||報告の内容に尊氏は満足した容子であった。彼がこれから臨まんとするいちかばちの戦場の賭けは、このときにおいて
「
「いずこかは存じませぬが、いとやすいことにござりまする。して次はどこへ」
「直義の陣場へだ」
「こころえまいてござりまする」
「直義一
「きっとおつたえ申しまする。いやおん兄君の御出馬とお聞きあれば、それだけでも勇気は百倍。およろこび目にみえまする。そのほか何ぞおつたえは」
「書面はいらん。そちの口だけで充分だろう。序戦、そちが遠くへ策に出ていたなどは、直義もまた、何も知っていないのだ。そこを打明けて、よう話せ」
「ご遠謀には、さぞお驚きなされましょうず。では」
「待て待て。いま、そちから敵状の仔細あらまし聞きとったが、もいちど、念のため、覚えをしておきたい」と、尊氏はよろいの袖から小さい
「ま、こんなことでいい。いくら確かとそちが見ておいたことでも、軍は生き物だ、いくらでも動く。その動きを見こして把握せねばならぬ」
「しかし、三島あたりの町沙汰でも、義貞はじめ、官軍の公卿大将
「そこがありがたい。······ありがたい無形な味方と申さずばなるまい。||では右馬介」
「は。おいとまを」
「裏から出て行けよ」
「そのつもりで笠、杖なども離しておりません。さらば御武運を」
介は、一礼して、伝馬役所の裏から誰にもその面を知られず立去ってしまった。じつにこの一布石があったればこそ、尊氏も自信をもって、直義が迎えの一隊も返し、自軍のみで目ざす山波深くへ進んで行ったものであったろう。
いったい、どこへ。
歩いている将士すら軍の方向は知らなかった。が、翌日の彼らはもう
竹の下
さらに三島まで一路
しかし、そこまでを見とどけたのは、先駆の物見隊だけで、尊氏の本隊は、なお地蔵堂のあたりにとどまり、吹きすさぶ
地名、竹の下とは“
「旗は」
と、尊氏は物見の者に、彼らが眼で知りえたかぎりの旗じるしなど聞きとっていた。
それによって、敵の主陣は、義貞の弟、脇屋
また
「よしよし、ほかの大名旗本勢など、いちいち知る要もない。まずは
と、これは物見隊へだけでなく、全軍の将士へも同様な令でつたえられた。
けれど腰兵糧は氷を噛むようなものだし、火の気はもちろんゆるされず、その寒烈は骨を刺す。が、それでもいつか横たわると三千の兵は死んだように眠っていた。眠っているまが人間の本望を充たしている最良の時でもあるかのように。
尊氏も一とき眠った。
そのほかは地蔵堂の縁をめぐって思い思いな寝相をえがいていたが、折々には、むくと誰かが首をもたげて耳をたてた。そしてまた眠りにおちた。
こうして
「あの真ん中へ突っ込め」
そしてまた、
「坂下へ廻るな。いつも敵の上に足場をとっていためつけろ」
と、追っかけに注意した。
まだ夜は明けていず、足もとすらもまっ暗なのだ。||敵の驚きはいうまでもない。寝耳に水の奇襲だった。脇屋義助の本陣のあたりが、
また。近くの足柄明神もすぐ黒煙にくるまれていた。中書ノ宮をはじめ長袖の公卿大将ばらは、うろたえに
何か、地異天変のような
七千人の
「まずかった」
脇屋義助。兄の義貞にまさるこの勇将は、どこかで地だんだ踏んだことだろう。
「これというのも、足手まといな中書ノ宮や、公卿大将の大勢を、上に奉じていたためだ」
と、くやしがったにもちがいない。
およそ兵略として、夜の陣を、山腹の急坂において眠るなどは、法外な無知である。||と知りつつも、つい竹の下にとどまったのは、足柄明神や民家の屋根もあるので、宮以下の陣座の便宜につい
「もう追いつかぬ!」
彼の号令も、今は一兵の足さえ踏みとどまらせる力にはならなかった。||敵は、金時山を負って、逆落しに、猛火は山風を
しかも
「気をつけろ、新手の敵は足利の宰相らしいぞ」
と、はや尊氏の出現を知って、尊氏の名を口から口へつたえていた。そしてこれも予想になかった
時に、当の本軍たる新田義貞はどこに陣していたかといえば、この日の前日も箱根山中の一要害||足利直義の孤軍を||まだ攻めあぐねていたのであり、この明け方の、
尊氏来たる
の声には、ここでもまた、竹の下と同様な寝耳に水の驚きと共に、総退却を余儀なくしていた。
なぜならば、竹の下や足柄明神から崩れ立った兵は、みな渓流三島口へ落ちかたまり、その三島口は、義貞の本軍からもただ一路の後方陣地だったからで、
「なに、尊氏の軍が」
と、ここでは、その恐慌状態を背後からうけたかたちだったのである。
義貞もあわてた。
足柄峠を突破して、尊氏自身が、背後へ深く廻ってくるなどは、よくよく捨て身の戦法に出て来たものにちがいない。||おそらくは精兵をすぐり、決死の兵でもあるだろう。恐るべし、決死の軍には当るべからず、として彼は急に、
「全軍、退け」
と令して、その大軍を、徐々に、
すぐ。前面にあった足利直義らの孤軍は一せいに攻撃に出てきた。また新田方のうちからも突如、寝返り軍が行動を起すなど、みるまに義貞の本軍はズタズタに乱れ、その陣地変えさえおぼつかなく見えてきた。
果てなく戦場の地域はひろがっていた。
ひょうひょうとこの日は風があって白い風花が旗や剣槍を吹きかすめた。義貞はひとまず三島ノ国府に兵をまとめて陣容をたて直すつもりで
「裏切りとは何者の裏切りだ。一体、誰のどこの軍が、寝返ったのか」
と、前後の騎影に訊いていた。しかし
「船田、船田。あれなる小高い岡へ旗を立て、義貞ここにありと味方へ知らせろ」
そこは三島に近く、西に黄瀬川をのぞんだ
船田ノ入道はまっさきに登って行って一引両の
けれど、味方をよび集めるための
黄瀬川の向うには、足柄峠から脇屋義助と中書軍とを追いくだしてきた尊氏の
もちろん、
烈風なので、矢は用をなさず、どこでも騎馬歩兵の接戦だった。そのうち国府(三島)方面から黒煙がのぼりはじめた。官軍にとっての重要な本営地である。義貞は愕然とした。
「や、や。退路を断った敵があるぞ!」
もはや三島の内からも寝返り軍の出たことは疑ってみる余地がなかった。いや今暁来の裏切り者が、誰と誰であったかも今はほぼわかって来た。
四十人、五十人と、組々で敵へ降参してゆく小族などは物の数でもなかったが、千、二千という兵をつれて敵へ寝返ッた大物もある。そのうちの優なる者は、
出雲の
近江の佐々木道誉
などであると聞えた。
「えっ、道誉が?」
と、それには義貞も唖然とした。||その道誉は、つい先ごろには足利方として
「さては」
と、今にして思い当らぬわけにゆかない。
出雲の
「しまった!」
何処かで、あの薄らあばたが||そのあばたをみな笑クボにしているような尊氏の顔が||義貞の瞼に、ふと見えた。
風花はひる頃からほんとの雪に変り出していた。
その雪雲の下に、炎々と焼けつつある国府(三島)の町屋根が望まれる。
新田軍は三島を捨てた。ぜひなく、
「
こう訊きながら義貞はひと息ついた。鈴川の近くであった。
旗本十六騎のうち、そばにいたのは
「いや、もう先です」と、旗本の中の一人がいう。
「||宮の軍は、はや富士川まで落ちて行ったと聞きまする。しかし二条の中将為冬卿はお討死とか」
「二条殿は死んだか」
「ほか二、三の公卿大将も討たれ、その手にあった諸家の兵など、どうなったのか、ほとんど確かにはわかりません」
「義助(脇屋)はまだ後だな」
「ご舎弟様の一軍は、黄瀬川の上を取って、烈しく敵をくいとめ、船田ノ入道なども、必死な
まもなく烏山
「おお殿」
と、残念そうに、みな義貞の駒のまわりに寄って来た。
が、なお義助が見えないので、
「いかにせし」
と、義貞は気が気でない。けれどその義助もやがて見え、わが子、
この式部
「馬もうごかず、お疲れでもありましょうが、ここで夜は過ごせませぬ。どうでも夜のうちに富士川を越え渡らねば危険です」
「大敗だなあ」
と、義貞は
「きのうまでのあの大勝が、こんな一敗地に終ろうとは」
「無念です。まったく尊氏めにしてやられました。||大友、塩冶、佐々木などの寝返りさえなくば」
「それはやはり尊氏の計だったのか」
「||としか考えられません。思うに、
「むむ。······」
義貞のせつなの眉を、このとき、誰も正視にたえなかった。
「よしっ、忘れまいぞ。いつかは尊氏にこの逆の目を見せずにおこうや。が、ぜひもない。今は無念をのんで
全軍、富士川を雪の夜半にやっと渡った。
一方。
足利勢は三島を中心に夜っぴての凱歌だった。降りやまぬ雪の下にはまだ炎々と民家が焼けているのだが消し手はなく、ただ戦勝の
尊氏と
「いまは何もいえぬ」
と、いう尊氏に、
「私もただ胸がいっぱいで」
と、直義も眼をうるませ、二人はあとの陣務に追われていた。
その降将のうちでも、とくべつに尊氏が
「道誉。健在でまずめでたいの」
「おかげで。ははは」
「いやこのたびの
「お賞めにあずかって身の面目でおざる。したが、およそ道誉のいたしたことは、武門の名誉とはうらはらなもの。おかげで道誉は海内随一の寝返り上手という名を
「人には人の才能がある。それも器量の一つ。道誉にあらずんばなしえない」
「お賞めやら? お
「
と、尊氏も
「この後も使うぞ」
と、顔じゅうのあばたを笑クボにして言った。
入れ代りに、
「
と、つい出たことばを、言いあらためて。
「兄上。||一夜考えておく||との昨夜の
「む。この後の方針か」
「されば。いちど鎌倉へひきあげて地固めするか。または、このまま義貞を追ッて都へ迫るかの、二途ですが」
「きめたよ、直義」
「どう?」
「このまま行こう」
「即日?」
「今日にも」
「こころえました」
「鎌倉などは欲しいものにくれてやれ。直義、
「そこまでのお腹をうかがえばわれら死んでも本望です」
「ばかを申せ。死ぬに苦労はいらん。これからこそ
「朝敵とよばれても」
「
「お待ち下さい。さっき師直が、降参の将の
直義はあわてて出て行った。まもなく発向の貝が鳴った。この朝の足利勢は、一夜に万を超える兵力となっていた。
ほとんど抵抗らしい抵抗もみず、以後の足利勢は、行く先々でいよいよその兵力を強大にするばかりであった。
当日、加島に夜営
翌朝、富士川渡河
次の日、興津
やがて手越、大井川と一路東海の道は足利色に
しかしその間、大雨の一昼夜もあったので、尊氏は新田の敗残勢力を叩くよりも、これ以上、自軍を疲れさせまいと心していた。わけて海道一の大河、天龍川を越えるには、しょせん一ト難儀はとしていたのである。
ところが、ほどなく遠州に入りその天龍川を前に眺めわたすと、濁流満々ながら対岸にいたるまで堅固な舟橋がえんえんとなお無事に
「これはどうだ!」
と、軍勢は笑いどよめいた。
「新田勢のあわてぶりよ。逃げるに急であとの舟橋を
が、尊氏は、
「はて? うかと渡るな」
と、全軍を待たせた。
そして附近の川小屋から
すると彼らは。||これはつい四、五日前のこと。新田勢がさんざんな
「まる二日二た晩は、馬やら兵が西へ西へ越え行かれましたが、てまえどもはまたこれへ呼びつけられ、やい聞け、われらの
「む、新田がの」
「いえ、
「叱ッた?」
「はい。おことばには、敗軍のわれらさえ
「そうか。······川守どもに褒美をやれ」
そして、尊氏はそれから言った。感に打たれている
「さすがは義貞よ。逃げつつも見事な
途中、さらに軍の強化に努めながら、やがて足利軍は、近江へ達した。近江
何を感じるのだろう、痩せ犬すらも目を光らしてどこかに異常なふうである。ちまたの人間はいうまでもない、都じゅうが日ごろの姿一切を
敗軍の新田勢が洛内にぞろぞろたどりついて来たのが二十五、六日のこと。それからは一日たりと兵馬の
「西も、東もか」
「都はどうなる?」
「どうなるものか、都はふくろの中の何とやらじゃ」
「いや、わしらはよ」
「こうなったら、どうしようもあろうか。命一つをかかえて、戦のやむまで、どこぞへじっとかがんでいるほか思案もないわ」
さるほどに||
と、古典はいとかんたんに書いている。京、白河には
家をこぼちて堀に入れ
財を積んでは持ち運ぶ······
明けた年は、建武三年。||だがそれは後世には、北朝側の年号とされ、後には同じ年を、
だからその意味で、南北二朝に別れた最初の年だ。
その年の始め。
一月元旦というのに瀬田ノ大橋では戦争の支度だった。いやその防禦工事中も、しばしば敵陣からの奇襲におびえ、どこかではもう不吉な年の前ぶれに似て、魔の声みたいな矢うなりが
瀬田方面、三千騎 総大将 千種ノ中将
宇治方面、五千騎 楠木左衛門
淀方面、一万騎 新田右衛門佐義貞
山崎方面、七千騎 脇屋駿河守義助
遊軍、
ほかに
この兵力と配置でもよくわかるのは、義貞の敗報いたるや、いかに今はと朝廷もあわてたかということである。在京の地方軍はもちろんのこと、公卿指揮者、滝口の兵、叡山の僧兵までをあげて都門の東西にそそぎこみ、
「万が一にも、ここにやぶれなば」
と、
そしてまいど、守備のほうが、そのたび破られていることも例外がない。
という前例もあるので、このたびはと、千種
瀬田から石山の下へかけ、川へ向って諸所に
もちろん、大橋の橋板はすべて撤去し、橋づめの口には、厳重な
そしてなお、川の中には、
「天野
正月元日より十一日迄
連日の合戦
警固毎日
高矢櫓 にありて
軍忠に抽 んづ
とあり、いかに肉薄戦がむずかしく、遠矢合戦に暮れていたかがわかる。連日の合戦
警固毎日
軍忠に
が、これは正面大手だけのことだった。
||宇治方面では楠木正成の五千騎が、宇治橋を
魔風、大厦 に吹きかけ
宇治平等院 の宝蔵仏閣
たちまちに焼けうせしこそ
浅ましけれ
と、古典の筆者も古来の文化財が宇治
たちまちに焼けうせしこそ
浅ましけれ
いやそのような暴状はここだけでなく、石山寺の宝蔵もこのときに破壊され、淀、八幡、山崎へかけても同様だった。とまれ都門の東西南北、今やぐるりと剣槍の長城だったわけである。
また、ここで視野を大きく、全国的なうごきへも目を
さきに足利方が、直義の名で、諸国へ飛ばしておいた
五畿 、七道、四国九州、全土の朝敵
一時に蜂起 すと聞えしかば
朝野 肝 を消さずといふ事なし
とあるような情勢にもあったので、都はまさに一時に
だから尊氏には、確信があった。心に期して、あせらなかったようである。
彼は
足利方の兵力は、官軍より数倍多かったようである。
勝てばどっと降兵を加えて強大となり、負くれば一夜にその
とまれ、尊氏は敵に数倍する兵を計算に入れて、ひとつの人海戦術に出た。
それは上手な戦法では決してない。坐しての政略には富むが、馬上実戦の奇手などはない彼である。しかし、策はあった。
その日、七日から八日へかけて。
かねがね、しめしあわせを持っていた足利軍は、瀬田、宇治、大渡、山崎、丹波口、のこらずの前線から一せいに攻撃をおこした。||主力はもちろん尊氏の
そして、翌九日、
「山崎の口も、細川
との伝令をうけたとき、尊氏は口にこそ出さないが、
「もう、しめたもの」
と、思ったような
はじめ、彼は宇治を突破口と考えたが、その手の守りには菊水の旗が見えた。すると、彼は、
「楠木勢だな」
と、すぐ
もし尊氏がそこの守りを突いたら、楠木勢も一敗地にまみれていたかもしれなかった。なぜなら、瀬田、
けれどまた、もし楠木へぶつかって行ったら、尊氏軍の死傷もおそらくかず知れなかったことだろう。||尊氏はよくそれを予察していた。||いや正成を
「縁あらば」
と、他日一つの酒を
十日の昼合戦は、伏見、鳥羽、桂川の沿岸など、長い戦線で展開された。||しかし細川定禅、赤松円心らの四国、中国勢は、すでに洛内の一角に入っていた。||義貞の一万余騎は、いくつもに分裂し、日没前、諸所に乱れ立つのが見えた。
「宇治もやぶれた······」
とは、その時刻の声だった。
尊氏の軍は、伏見へ出、このさいまたも、馬淵義綱、田上正氏などの降将とその兵九百人を加えていた。
そして味方の細川定禅、赤松円心
「本望を遂げまいた」
と、円心は言った。この円心も、いぜんは宮方であったが、例の建武恩賞のさい、余りにもひどい冷遇に怒って、いらい国元の播州にひき籠っていた者であった。
瀬田はひがしの関門だが、都の西の
尊氏はいつも目先の障害にとらわれない。先のたたかいをたたかって行く。万難を排して、今やこの方面の赤松円心や細川定禅らの西国勢と手をむすび、そして
「洛内の占領も、はや、今夜のうち!」
当然、
「あしたにする」
と、急に、この日の合戦を、ひとまず都の郊外にとどめ、そして、
「もう急ぐことはない。むしろ宇治、大渡、丹波口などに、なお、うごめく敵へそなえて、味方をかためろ」
と、いう令を出した。
この日、十日は厭 み日(悪日)なればとて、洛中攻めは翌日にのばす||
として、あえて尊氏の気もちには入っていない。しかしそんな血に狂う
「まず、こよい一夜は、ご猶予を差上げておくべきか」
と、したのがその胸底であったと思う。
この
まさに、その通りで。
洛中は早や死の街に似、どこか戦線の
「いかにせん?」
との、御評議もまたたくまだった。||主上には
十日の宵には、瀬田はまだ陥ちていない。
前線の義貞からは、夕方、
「お気づかいあるな」
と、宮門まで強気な伝令もあったりしている。にもかかわらず、洛内の危機感は、刻々、不気味さを
主上、山門へ御動座
の
こんな例は、平家都落ちのむかし、木曾義仲の侵入にあたって、一時、後白河法皇が叡山へ難をお避けになったあれ以来のことである。しかも後白河のばあいは、源平両勢力の上になお中立的な余地を残しておられたが、こんどはそうでない。||後醍醐はその経過やら
だからおなじ
それから、まもなく。
これらの巨大な洞窟の宝財はチラチラと煙のなかに静かなそして妖しいばかり美しい火を持ち出していた。飛び火か。兵の放火か。バチバチとしばらくは火ハゼの音であったが、やがて天に冲す炎の柱になり出した。||その中天には、寒烈一月十日の、月があった。
ここわづか天下一統して
朝恩にほこりし月卿 雲客
さしたる事もなきに
武具もたしなみ
弓馬を好みて
朝儀、道に違 ひ
礼法、則 に背 きしなど
いつかは
かかる不思議の
出来 るべき前表 なりけん
とは、古典にみえる朝恩にほこりし
さしたる事もなきに
武具もたしなみ
弓馬を好みて
朝儀、道に
礼法、
いつかは
かかる不思議の
が、かくと知って、途中からは、追い追いと、お供の人影なども増していた。
すると、このうちにあった
「いや君のお供をして叡山へ行くよりは」
と、急に
「少々、思い立ったことがござりますゆえ、それがし一人は、ここにておいとま申しあげます。主上へは、よそながら後日にでもよろしく
と、理由もいわずに、元の道へ蹌々ともどってしまった。||親光ほどな侍さえ臆病風か? と口惜しがらぬ者はなかった。
瀬田口は依然としている。諸所の守りで官軍は破れたが、ここのみは頑強だった。
「
と、
副将の
戦線は瀬田川の
だがまだ、一騎も対岸へ駈け渡ってはいない。
無数な人馬の
「師泰。どうかならんか。何かよい策はないか、何か······」
「さあ。死傷もかぞえきれません。さまざま、手を変えてみるものの」
「くりかえしだな」
「ただ
「だが
「師泰とて笑われ者、歯ガミを禁じえませぬが、これ以上の死者を出すのもどうかと考えられまする。ま、明朝ともなれば」
「明朝、何が?」
「道誉の船手が、湖上、遅くもこれへ着きましょう」
「その佐々木は、
先に道誉が味方を救った二度寝返りの芸などは、いかに大きな軍功であろうと、直義には内心、軽蔑の感しか残されていない。尊氏はとかく珍重しているが、もとから彼には性の合わない男なのだ。苦戦、このさいにおいてはなおさらだった。
ところがである。十二日の未明だった。
まだほの暗い湖上を、数十の船影が、瀬田の岸へ寄って来た。佐々木勢であったのだ。道誉は、直義に会うとすぐ言った、
「ご苦戦もさぞと、心はせいていましたが、船手の準備に日がかかり、途中敵の舟陣の目をかすめるなども容易でなく、思わぬ日時を費やしました」と。
「いや、むりもない」
直義は怒りもわすれた。正直、百倍の力を得たよろこびだった。がしかし、そのすぐ次に、道誉は容易ならぬ情報を彼に告げた。||それには、船手の加勢をえた直義の強味も、差引き、大きな狼狽を余さずにいられなかった。
何事かといえば。
かねがね、予測はされていたことだが、奥州の北畠
「なに。||北畠顕家の奥州軍が、今日にも愛知川へ着くというのか」
足の裏から地ひびきでも聞いたように、直義は恐れ慌てた。予期はしていたが、こう
「もしその大敵を
と、道誉と共に作戦をねッた。そして
この湖上奇襲はみごと功をそうし、直義と道誉の兵が、やがて
時に、この十一日。
一方の尊氏軍は都の西から入洛して、
同日、こんな事件があった。
尊氏もまだそこへ
「申し上げまする。||
と、営門の将から伺いを立てて来た。
折ふし||降参ノ輩、
その伝命で、大友左近将監は、すぐ親光をつれて陣所を出た。そして
「はや、そこが御門前。法なればお腰の
「こころえた」
と、親光は太刀を
「年来、そこもととは、武士のおつきあいをして来たが、よも、こんな降参のお扱いを願おうとは思わなかったな」
「まったくじゃ。したが名よりも実だ、今の世は」
「げに、そこもとは気転がよいな。伊豆三島の合戦に官軍が破れたのは、まったく御辺と佐々木が寝返りのためであったと聞く。||おおッ、人非人! よくも戦友を売り、君恩を裏切ッたなッ」
「あッ!」
と、大友は
大友もまた、翌る日、息がたえた。この騒動は日常血ぐさい戦陣での出来事ながら、余りに無節操な降将やら時の人心をいたく衝撃したようだった。||また前夜、後醍醐に
主上はすでに
大宮の彼岸所 に御座 あれど
未 だ参 ずる大衆一人もなし
さては
衆徒も心を変じぬるや······
と、あるのを見ても、この日まだ、山門の意向さえも、はっきりしていなかった形勢であったとみえる。大宮の
さては
衆徒も心を変じぬるや······
おそらくは、山門の
お味方か、中立か
の二論にわかれていたのだろう。尊氏軍の洛中占領も、直義の瀬田陥落も、山上にはわかっていたはずである。いやそこから手をかざせば、洛中洛外の兵火は、一望に見えもする。
「もし叡山が、足利がたへ傾いたら?」
これを思うと、
主上以下、皇室の大御家族は、
まさに、後醍醐御一生のうちでも、この日はもっとも険しい、そして、あやうい御浮沈の刻々だった。
が、ひる頃。
はじめて、藤本坊の
「まずは三千の衆徒、
と、
さらに、南岸坊の
山上、十禅寺の
およそ戦雲のつばさはどんな
けれど、よく幾日を、ここにささえられるだろうか。
千種、楠木、新田、名和、それらの味方とここの
「······ああ、
奥州軍||
ここでそれの動きを見るには、どうしてもまず北畠
こんどの、尊氏討伐の大命が発せられたさい||あの去年十一月二十日のころ||朝廷ではそれと同時に、遠い地の
の
郷軍、鎮台兵ノ全力ヲ挙ゲテ、北方ヨリ
と逐次、朝命を急達していた。
しかし、当時としては何しろたいへんな遠隔だった。
鎮守府の
京ヲ去ル、一千五百里
と見え||もちろんこれは
「すわ、
顕家は、勅を拝すなりその遠さにまず胸がつかえた。
鎌倉までとしても半月の余はかかる。彼は父の
「案じられる! このたびの大乱こそ、御国のありかたを決するものだ! 一日のまも猶予はならぬ。わしは今日にも多賀城を立つ。||家の子郎党の
顕家は時に十八歳だった。
おととし十六の秋に、奥州鎮定の大任を負い、幼い
陸羽の奥はまだ
後見の父親房は、あの「神皇正統記」の
そのむかし、この顕家もまだ十四歳の左中将の若者であったころ、北山
よほどその
ともあれ、どう急いでも顕家がその
みちのくの山はすべてまッ白だった。行軍は明け暮れ吹雪になやまされた。
「行く行く、途中で参陣の約ある者三、四千はかぞえられる。いまは兵力よりも一日でも早く立つほうが、はるか大事ぞ」
と、言って出た。いかに彼の純真な意気が行くてを急いでいたかわかる。
軍中には、父親房も交じっている。その親房は、ことし八歳の義良親王を
旗は、錦の旗の一
が、顕家の南下を、
||やらじ
と、さまたげたのは、途上の風雪だけではない。
「親王を奪い、顕家、親房を討って取れ」
と、あらゆる妨害と、またしばしばの奇襲に出た。
しかしまた、顕家の軍も、遠からず参会の将を加えて、威風堂々をなしてきた。そのおもなる隊には、
だが、予想以上な日かずを費やされたのはぜひもない。
何しろ
もし、それに間に合っていたなら、
こうして、顕家の奥州軍は、年の瀬も正月もなく急いでいたが、都へ近づくほど、官軍方の聞えは悲風ばかりで、足利方の優勢は断然たるものがあり、一夜の宿陣も気が気ではなく、
みかどは
都の姿もどうなったか
と、奥州出発いらい、およそ二十八、九日めに、やっと近江
「船はないか。叡山はここから見えるが、瀬田、大津は敵の陣地だ。一刻も早く、これを彼方の行宮へ知らせたいが」
と、またはたとその連絡には当惑していた。
船集めは容易でない。
まして敵地だ。数千の兵馬が着いた日すぐ湖上を渡ったなどは考えられぬことである。おそらくは、顕家が着くいぜんに、先発隊が来てすでに幾日も前から
いやそれにしても、湖東や湖南に住む水上生活者の協力がなければできないことだった。古来、堅田や
とまれ、奥州軍七千は、湖東と堅田の間を幾往復もくりかえして、十三日から十四、十五の三日間にわたり全軍琵琶湖を船で渡った。
このさい、陸路では、瀬田ノ大橋が落ちているし、また足利方の占領区域ではあり、どうしても、奥州軍は一兵のこらず水路によったものと見るしかない。
「おお、援軍が見えたぞ! 援軍が着いた!」
「奥州の猛卒猛将」
「しかも七千が」
「万歳」
「万歳っ」
東坂本はまるで狂気のあらしだった。山門の大鐘も全山の衆徒へ、ごんごんと告げ鳴らしている。||これはすでに前日から分っていたことだが、
そうしたうちに、麓からは、
「顕家、参内」
の由が
お待ちかねだった。
「来たか。||あの
と、お口をついて仰っしゃったほどだった。
花陵王とは、かつて、顕家が十四のとき、花の御宴に陵王を舞ってお目にとまったときからの、帝が彼をよぶ愛称だった。||その顕家は十八となり、花の将軍となって、お目の前にぬかずいていた。後醍醐は彼の援軍をえて、再生のお気もちでもあったが、あの小陵王が、こんなけなげな者になったかというご感慨なども入りまじり、あらゆるおことばで、顕家の労をねぎらわれた。
「············」
顕家は感泣していた。かぞえ年の十八はまだ年少な香をもっている。感情の
父親房は、やがて親王にお添いして、准后の院へ伺候して行った。||が、顕家はなお御前にのこって、宵のころまで御酒を賜わり、その夜は
まだらな残雪に見える。十四日の月のこぼれだ。
顕家は
それに吹きさらしな行宮の外廊は、氷に坐しているようだった。だが、これは彼が求めてしていた
「顕家、覚えておるか」
と、元弘元年の北山
それで彼は北山殿でも花の
||あれは春の
花を見ばや
の北山
中宮を初め、女院の鏡子や
やがて、
なお、それにもまさる聞き物は、
暮れかかるほどに
花の木間 、夕日花やかに移ろひて、陵王 (扮装せる当年十四歳の顕家)のかがやき出でたるは、えもいはず、おもしろし。
そのほど
うへ(後醍醐)にも、御引直衣 にて、椅子 につかせ給ひて、御笛を吹かせ給ふ。||宰相ノ中将顕家 、陵王の入綾 を、いみじう尽して罷 づるを、召返して、前 ノ関白殿、御衣 とりてかづけ給ふ。
紅梅の上は着、二あゐの衣 なり。左の肩にかけて、いささか一曲舞ひて罷 かン出ぬ。右の大臣、太鼓打ち給ふ······
「ああ、夢よ」花の
そのほど
うへ(後醍醐)にも、
紅梅の上は着、二あゐの
顕家は目醒めた。
しかし、太鼓は夢でない。何が起ったのか。とうとうと麓で陣太鼓が鳴っている。
あの君、この公卿。夢の中の人にしてなお今日も生きている人が何人あるだろうか。顕家の瞼には、一瞬、
「やっ? 敵の襲来か」
あたりは急に騒然とし、坂本、
夜すがらな山下のあらしは、明けてみれば、それも味方の吉事とわかった。
洛内のすみに追いこまれていた新田義貞の手が、敵中突破に成功して、やっと東坂本へたどり着いて来たものだった。
また。宇治の手の楠木も、千種、脇屋、名和などもそれいぜんにみな
「いまは時
と、義貞は衆に豪語していた。その日の評定においてである。
顕家も加わっていた。
「······ですが」と、彼は年少なので、いと控え目に、
「われら、千五百里の道(古里の数)を昼夜なく
「オオ花の将軍北畠殿よな」と、義貞の総大将ぶりも、その人へは眸を
と、
顕家は赤面して、
「よくわかりました」
といったきりで黙った。次いで諸将の発言もあったが、多くは義貞の意向ですすめられ、みかどのご裁可をみるや、ただちに大規模な作戦活動に移っていた。
「しまった」
と、尊氏方の細川定禅は、すぐ洛中の尊氏、直義の許へ、火急に! と援軍を求めていたに相違ない。
さきごろから尊氏の命で、定禅の軍は、ここを足場に、
が、叡山は嶮だし、伝教以来のゆゆしい
義貞は
さきの箱根、
はや三井寺には黒煙があがっている。||一番、千葉ノ介
洛内はさっそく兵糧に欠乏していた。
首都占領の優位も、大軍勢も、その点では、無条件に楽観してはいられなかった。
「円心。
尊氏は、赤松円心を見るたびにこう
昨今、山陽道は
「はて、負ければさんざん、勝ってもこの餓鬼のすがた。とかく、戦とは、難しいことがいろいろ起るものだ」
と、尊氏はつらつら痛感していた。||それでも数万の兵が何とか食っているからだった。そのかわりあらゆる軍の悪に目をつぶっていなければならないのである。彼にはそれが自分の悪行みたいにつらく見えた。
そして彼のあたまは、朝夕、本陣の床几の前に据えられる敵将の首を見るなどよりも、どうしてもほかへ熱意をひかれていた。わけていま、彼が求めていたのは、性急な戦果ではなかった。その戦果を確実なものにする戦争名分であった。
「わからんか。お行方は?」
今日も尊氏は、つい司令部の貴重な一刻を、それの
彼が求めるものの捜査の主任は、例により一色右馬介が命ぜられていた。右馬介はあの雲水姿を
「なんとしても、お一ト方すら分りませぬ。これ以上は叡山にでも登ってみぬことには」
と、毎度のむなしい復命をまたくりかえしていた。
「ではやはり······」と、尊氏も今は半ばあきらめ顔に。
「
「
「それに相違ございますまい。およそ御避難ありそうな先は、くまなくお捜し申しあげまいたこと。······が、なお、望みはないでもございません」
「さはいえ、叡山では、近づきまいらせる手もあるまい」
「いえ。持明院統の臣で、
「たれか」
「日野
「日野?」
「はい。むかし、佐渡ヶ島の配所で、あえなく亡くなられた
「それは絶好なお取次だ。資名どのを捜し出せ。資名を
「いえ、まだ······」と、介は首を振って。「これから捜すわけですが、しかし、手がかりもないではございませぬ」
「はやくいたせ。||もはや今日の戦いは、足利と新田のいくさとは見せようがない。この尊氏は朝敵とみられておる。我に名分がないのは、軍に旗がないのにひとしい。||大きな弱みだ。一日も早く、持明院統の院宣を
「は。きっと、急ぎまする」
「して。その日野資名の居どころを、どこに捜すの?」
「戦前ですが、仁和寺の尼長屋に、佐渡で亡くなられた
「む。資名には、
「そうです。その後家
「おおあの、小右京か」
「おそらくはこの戦乱で、尼長屋の人々もどこぞへ散り去ったかもわかりません。······けれど仁和寺のあたりへ行けば、知れぬことはございますまい。また資朝卿の後家ぎみに会いさえすれば、しぜん資名どのの居る所も分ろうかとも存じられます」
はしなく、小右京の名を聞いて、尊氏は、この大きな世の波濤に会ってその姿も見せなくしている無数な弱き者||磯べの貝殻のような力なきもの||
が、そのとき、陣外は急に騒然としていた。
「黒煙が望まれる!」
「園城寺だ、三井寺の方ではないか」
尊氏は、さすがすぐ床几を立って、さっと
「
「はっ」
「いくさの勝敗はまだいずれともわからん。しかしそちに命じておいたことは目前の一勝一敗にかかわらぬ大事中の大事だ。はやくそちはそちの使命に向って吉報を持って来い」
「では、後刻また」
追われるように右馬介は笠をかぶって
その巷は、狂奔する兵馬以外には、ただの
「なあに、大丈夫さ」
と、尊氏の本陣とにらみ合せてたかをくくっていたが、たそがれ近くから模様は妙に険しく変り出していた。
尊氏の陣営内へ入って行った
「
直義はくやしがった。
「またしても、
後手を取った。
と、直義が
たしかにわずかな時間差だった。洛中の足利方は、みるみるうちに、その優位を逆転されて、苦しい守勢を余儀なくされた。
だが、立場をかえていえば、新田勢を中心とする官軍方のこの迅速な巻きかえしは、まったく義貞の捨て身な勇が人の予想をこえていたもので||彼は箱根、足柄で
「この勢いで、洛中へ突きすすめ!」
と、はやくも次の段階へ指揮を振るッていたものだった。
そして味方一同の勝ち誇りにも、
「まだ、早い」
と、
が、諸軍はとにかく、北畠顕家の奥州勢は、ここの
「余りにも······」
と、その疲労を思いやる声もあった。けれど義貞は、
「いや、ここで
と、耳もかすことではなかった。またすでに
「すべて次のさしずを待て。もし飯を食ってなどいる間に、洛中の尊氏、直義が大挙してこれへ来たら、三井寺の一勝も、またたちどころに水の泡となる。この勝ちを、勝ちとさだめるまで、少々我慢させい」
と、これをすら無視して、全軍すぐ前進に移っていた。だからその迅さには、
「
と、義貞はそれの追撃に躍り
「瓜生の
「百五十人がやや欠けました。およそ百二、三十人、あとに駈けつづいておりまする」
「よしっ。その者どもの
「あっ。心得ました」
瓜生隊の中には忍者組織があったのである。同様な第五列に馴れている者は、越後新田党の羽川一族や烏山一族にもある。
義貞は、それらの
宵はすでに暗かったし、三井寺衆徒のうちには、正規の僧兵のみでなく、服色一様でない土民兵もたくさん交じっていたことでもある。||そのうえ細川、
三井寺の失墜などは、いわば一橋頭堡の争奪にすぎず、それへ主力をうごかすまでのことはないと、たかをくくっていた尊氏も、
「なに」
と、耳を疑い、
「着いたばかりの奥州勢も加え、敵は義貞以下、総勢をあげて、三条口へ出て来たのか」
と
そして偵察を放つと。
義貞は、自己の陣地を、粟田口から十禅寺ノ辻の辺に占め、楠木勢は、
「さすがは」
尊氏はその手際を聞き、
「義貞は戦上手よ」
と、淡々としてつぶやいた。そして、
「義貞は元来、平場(平地)の駈けを好み、またそれが得意の騎馬隊が中心なのに、前に川を当て、後ろに山を負った布陣は、どういう腹か」
と、すこし無気味な感を抱いたふうでもあった。
おもえば、百余年来、郷国を隣にし合い、代々
「すべてはわが大望の
尊氏は苦笑をたたえた。
だがこの夜、彼の不敵さ以上にも敵を呑んでいた者は、義貞であったろう。義貞にはすでに必勝の算があった。悠々、その夜は休んで朝を待った。
十七日、夜は矢さけびに明けた||。両岸の矢いくさに始まり、やがて加茂川河原の上下にわたっての接戦となった。くわしい一騎打ち合戦はここでは
しかし官軍側も、追撃また追撃にまかせすぎて、あまりにその力を分散させ過ぎた嫌いがある。これが司令者の一失であったことは、その晩のうちに証拠だてられた。
いちど総退却した足利勢は、夜半からふたたび活動をおこし、全市の路地にくたくたとなって
まったくの暗闇合戦で、この市街戦では、新田の重臣、船田ノ入道義昌が戦死し、千葉ノ介
総じて官軍は、わけて義貞の旗は、派手な敗れ方をして、きのうの戦果も、いちどに
ぜひなく、官軍は川の東へ、総ひきあげを呼び交わし、加茂の上流、
このさい。俄な新手が補強され出したというわけは、先に、
「主戦場は都へと変った」
「いまは引っ返せ」
と、
これに、三千の僧兵も、向きを変えて、叡山の布陣は、すべてここに、
山の東側から西側へ
と、まったく移った。||そして以後の十日間||正月二十七日までは、両軍共に、次の大決戦にのぞむべく、その陣立てや整備に過ごし、物見同士の小ゼリ合いのほかは、たいして見るべき戦もなかった。
状況は、いわゆる四ツの相撲になったのである。
もしこの期間に、尊氏が期するところの、
持明院統の三皇
に接近するの機会をつかみえていたなら、なんらかのかたちで、彼の軍旗の上に、それが
しかも彼はこの日の戦いで大敗した。
賊軍、逆賊、不逞な反軍と、口にまかせて敵が罵る声々をあびて彼の部下は総くずれに崩れ立った。||錦の旗の前に
すでに、洛中占領の当初から食糧政策には欠けていた。いや皆無であった。都へ入れば食糧はあるものときめ、兵たち個々の心理までおなじだった。
ところが、官の
「悪兵は用をなさず、か」
大敗した尊氏はすぐそのことばに思い当っていた。
それにしても、この日の惨敗はみじめ極まるもので、主戦場となった
「だめだ! もはやここでは」
気がもろい。というよりも彼にはすぐ先の見通しがついてしまう。しかし、勝負は時の運、最後の最後までは||としているのは、いつもながら強気な弟
彼はどこまで
「
と、尊氏を後陣に
直義の
「退くやつは斬るぞ」
その

これに満足する直義ではない。天まだ暗い翌暁からさらに攻勢を烈しくして、
「
と、号令していた。
すると、どこからとなく、
「||敵は大原から
と、聞えた。
義貞も、また
「それみろ。味方が苦しいときは敵もまた苦しいのだ。兵力の底はつき、叡山の兵糧も乏しくなったに相違ない」
と、直義は誇った。
が、その見解を、甘い見方として、
「いや、敵の偽計だ。おそらくは
と、いさめる声も多かった。石堂、荒川、仁木、畠山などの部将らだった。
こんな乱軍中の浮説が、いかに危なッかしいものであるかの実例には、つい十日前の闇夜合戦のあとでも、
「敵将の楠木正成と脇屋義助が昨夜討死した」
と、その首まで拾って来て立ち騒いだことなどある。もとよりそれは
果たして。||官軍方の北国落ちなども、その日の夕には、第五列の流言とわかった。しかし、そのときもう直義の軍は深入りをしすぎていた。敵は、山に
そして、山科から粟田口へかけても、北畠顕家の奥州勢が、とつぜん、直義のうしろを通って、いきなり二条の尊氏の本陣へ、突進していた。
形からみても、足利軍は、四分五裂のほかなかった。
そのうえ、楠木、名和、千種などの、昼から陣旗をひそめていた部隊が、五条、七条を渡河して、
「逆賊、のがさじ」
と、尊氏の退路とみられる所へ、所かまわず火を
尊氏の旗本は奮戦した。明け方まで市街の辻でふせぎ戦った。||が、驚くべきことが起った。二引両の足利旗の真ン中に墨を塗って、急に、新田旗の一引両の旗に拵え直して持ち廻っている隊がたくさんある。||早くも寝返りが続出していたのであった。
尊氏の行方、
が、あれほどな足利勢も
その日は正月の三十日で、尊氏の洛中没落も、
「都にあらでは」
と、即日、
まる一ト月の余であった。宮廷すべての大御家族を連れての
しかもである。
「内裏は一時どこへおく?」
と、御随身以外の者はそのおちつく所もまだ知らなかった。||なぜなれば
へ入らせられたが、ここも手ぜまやら御不便となって、あくる日すぐまた、
花山院亭
へお移りになった。
いかに難に屈しない御性格のみかどであったことか。翌二月二日には、はやくも仮の政庁にたって諸政や軍務にたずさわっておられたのだった。過般来の合戦にぬきんでた功のあった人々への
遠路をしのぎて
たちまちに参洛 し
おん大事に会 ふの条
御感 ななめならず······
という特別なたちまちに
おん大事に
洛中はこうしてさかんな凱歌にわいた。この声につられて山野の疎開者もたちまち元のわが家へ帰っていたろう。すなわち、一日のまもおかなかった還幸の急は、洛民へのそのねらいが第一であったものとおもわれる。
一方。||一時は戦死説までつたえられていた尊氏、
九死に一生をえてたどりついた篠村八幡の森は、尊氏に再生の思いだけでない何かをさらに誓わせていたにちがいない。
ここには、かつて自分が旗上げの日に
「直義」
「は」
「いたか」
「途中、何度かお姿を見失いかけましたが」
「つかれたなあ、さすが」
「茫として、つかれた感じすら今はわかりませぬ」
「そんなことではならぬ。まずおちつけ。ここの御堂は尊氏にとって、何かといえば峠の茶屋のような
拝殿へむかって
「直義、妙源はいるか、引田妙源は」
「ついに見えませぬ」
「
「師直、師泰の兄弟も」
「いないか」
「ほかの道へ落ちたものとみえまする」
「道誉はどうした?」
「
「では、近江路かの」
「おそらくは、道誉もまた、味方の敗北と共に、二引両の間を墨で塗りつぶした旗をかつぎ廻った組の一人ではありますまいか」
そこへ宮司が見えた。尊氏は宮司のあいさつをうけたのち、さっそく兵たちに食わせる
ほどなく土地の内藤三郎兵衛
「こよいは休み、ここは、明朝立つ」
と、ふれさせた。
あくる朝、ここを立つさい、彼は篠村八幡宮へ
「ご先祖義家公にも、奥州征伐のみぎりには、ただ七騎とならせ給うた例があります。はじめの負けは御当家の
と、なぐさめた。
尊氏は、大きにさようだと、うなずいて、
「負けもよし。ふかく思えば、きのうまで勝ってばかりいたことのほうが、むしろ不吉だった」
と、左右へ言った。
その朝(二月三日)の情報によれば、官軍は西山峰ノ堂から大江山ぐちまでは追ってきたが、以後は見えないとのことだった。さらば行けと、尊氏は裏丹波を西へさして行った。
尊氏の行くての先は兵庫であった。山陽道と四国をむすぶ兵庫を無視して勝目はないとしていたからだ。
その兵庫への道を、彼の落ちてゆく残軍は、裏丹波の
いま向ふ方 は明石 の
浦ながら
まだ晴れやらぬ
わがおもひかな
尊氏の歌である。浦ながら
まだ晴れやらぬ
わがおもひかな
彼が
だが、この歌の意味は、どうにもとれる。
大望の道、まだまだ遠し、とする心にも。
または、やるかたない敗軍の将の
あるいは、家郷をも失わせて、ちりぢりにさまよわせている子や妻や愛する者たちへのつぶやきかとも解いて解かれないことはない。
もしたれかが、
「さようなお歌の意にございましょうな」
というとしたら、尊氏は「うん」とうなずいて、わが意をえたりとしたろうか。おそらくはそのどれへも笑ってうなずいたかもしれぬ。けれどもわが意を
「
彼が、切望に切望していた
右馬介をして、序戦のうちからそれの
日野資名と行き会えないのか。小右京の行方もさがし出せずにいるのか。あるいは、後醍醐の
「······さても」
と、彼にはそれが成るか成らぬかの便りだけでも待ちびさしかった。万が一、事が絶望とでもなればいかにせんと、行くての
道は
山路を降り、明石の大蔵谷へ行きつくと、この方面、
「おお御無事だった」
桃井直常、引田妙源らが、まっさきに来てよろこびあい、
「どれほどおさがし申したことかしれませぬ。すぐ味方じゅうへ」
と、これを兵庫から播磨境までの諸所へわたって触れわたした。
明石の陣は、一夜にすぎず、尊氏は次の日さっそくその陣所を兵庫(現・神戸市)へすすめた。||港にちかい
兵庫は建武の初年いらい楠木正成の勢力範囲にはいっている。が、正成の代官もここに見えなかったのはいうまでもない。生田、和田ノみさき、
「兄上」
「なおこれほどなお味方はのこっています。そのうえに今朝、
「おう」
と、尊氏も眉をひらいた。これも待ちに待っていたものである。
「大内や
「ご安心なされませ。つづいては九州の大友、
だが、直義のいうようなものでもない。その事実はまだ軍の装備や編成も
いわく。
また、二次の報では。
楠木正成は、
尊氏の床几をめぐる性急な軍議では、
「この不揃いな装備のまま打って出るのは
と、ひとまずは、受けて守るが利とする説が多かった。
「すぐうしろには
という意見なのだ。
すると、佐々木道誉が、笑って言った。
「それはまずかろう。いちど大負けに負けているうえ、両大将が
道誉というと、たれもが
「よくいった。道誉の言はただしい。攻勢に出るとしよう」
ちらと、直義に不満がみえた。自分がいいたかった主張を、道誉に
「直義、異議あるまいな」
「ありませぬ」
「ではすぐ
「は」
「先陣には、細川、赤松」
「いや私も」
「よし、直義もまいれ。次いで尊氏も馬をすすめよう。道誉はわしの中軍に付け」
そのほか、指令をうけた各将は、すぐ軍議の場から散って行った。そしてこの日もう六甲のふもとや
いかに官軍側の急追が怒濤の急であったかわかる。またすでに、敗残の賊軍などただ
その官軍の先鋒は、西の宮に陣していた楠木正成の手勢だった。||いまはこの人も河内、
「ぬかるな」
「計られるな」
「めったに出るな」
と、かたくなって、つねに手固い対陣になりやすかった。
ところが、どうしたのか。
菊水の旗は、一夜のうちに、どこへか見えなくなっていた。前線から後陣へまわされたふうなのである。||或る説では、河内へひきあげてしまったなどの噂すらあった。
しかしそれは事実でない。足利方の
「そうか」
尊氏は、誰へも言っていない。じつは自分がやったことをである。
彼は正成をきらったのだ。正成とは戦いたくない。むしろ味方に求めたい。他日を待っても彼とは共に天下
だから避けたのだった。尊氏は、正成宛ての
「だが、正成には気の毒」
と、ほくそ笑みにも、ふと
ひろい六甲の山野から打出ヶ浜の
正成の菊水
「賊軍の息のねをとめろ」
となす総攻撃の開始か。
新田義貞の本軍と、それの左翼をなす北畠顕家の万余の兵も、すべて、
いや、足利方にとって、もっと脅威的なものは、有馬越えから六甲の中腹を通って住吉川へ出て来ようとする一軍の敵もみえていたことである。||これが越後新田党の精鋭だとわかったときは、さすがの
「しゃッ、一大事だ」
身の毛をよだてずにいられなかった。||もしその猛兵に
「
彼は声をからした。
そして直義自身は、赤松円心の手勢とがっちりくんで、浜寄りのなぎさと、
この急迫を見ては、はるかうしろな尊氏の陣といえ、
尊氏のまわりには。
刻々の戦況をききながら、尊氏はこのうちの将を引き抜いては、
「
と、しばしば、応援をおくり出していた。
||するうちに、この日、明石の沖あいに、大小数百そうの兵船群が列をなして見えてきた。これがわかると
「
と、歓呼しあった。
けれど次にはやがて大きな失望と戸惑いが諸陣の兵の顔を吹いた。||兵庫島へ着いた兵船も多かったが、うち二百余そうの
あとでは分った。
四国の宮方、
官軍方へも海上の新手が参加し、足利方の兵庫島にも
あすこそは||
と前線の
||きっと
と、いって来た。
よし
と、尊氏は答えに附して、なお、かんたんに、
さあれ、義貞は戦上手、わけて
と、注意をさずけて、伝令を返していた。
尊氏は夜すがら寝もやれぬふうだった。彼の待ちかねていたこと(持明院統の院宣)はもう絶望にちかい。直義をはじめ奮戦の中にある諸将はすべて強気だが、いくさを意気だけで勝てるとする単純にまではなりきれぬ尊氏でもある。あすの勝敗にかかわらず、彼のあたまは大局から万一のときの副線へも思いをいたさずにいられなかった。
やがてのこと。||道誉がそっとそこへ呼ばれていた。尊氏のあたまの気泡が何かその一つをかたづけておこうと、急に思いついたものらしく、
「ほかでもないが」
と、声をひそめた。あたりは夜営
「道誉。事にわかだが、御辺はここを脱けて、近江へ帰ってくれまいか。
「ほ。······?」と、一驚のいろの下に「またこの道誉へ、寝返れとでも仰せあるか」
「いや、同じ手は二度
「さては早やお見通しか」
「尊氏は身一ツのみのいくさはしておられん。多くの者の運命をにのうておる」
「近江へもどれとの
「されば、尊氏がここに敗れて、しばらく
「こころえ申した。したが千寿王どのや御台所は」
「三河においてあればこれはさして
それからも、両者のあいだには、たれ知らぬ密談が交わされていた。そして道誉はこの深夜ひそかに一族一隊をつれて、
すると、すぐそのあとのことである。||夜の
尊氏はおどろいた。その物見組の一将校が語るのを聞けば||
「されば、有馬街道から西の
「で、
「はっ」
「
「やはりお心あたりのある者で?」
「む、ちと
有縁どころか、尊氏には叔母にあたるひと、また、いとこにあたる覚一なのだ。それにせよ、どうしてこんな戦場の夜をさまようていたものか。
まもなく丘の下から兵にともなわれて来るたどたどしい二人があった。尊氏は
「
「オ、尊氏さま」
と、草心尼は、旅のわらじのまま居住居をちょっとかえて。
「おもいがけなくお目にかかり、またお変りもあらせられず、こんなうれしいことはございませぬ」
「いや
と、自嘲して。
「が、われらは是非もない。これや
「いえ、洛中こそが、居るところもない修羅地獄でございました」
「おおそうよの。
「あなたこなた、逃げさまよい、火にも追われ、ぜひなく、明石の知る辺をたよって、淀の西をまいる途中、新田殿の御陣に捕まり、きのうまでは、御陣について、歩き暮れておりました」
「では、義貞のそばに」
「はい、むかしの世良田殿も、いまはいかめしゅう、総大将の陣座にわせられ、
「では、無断でそこを去って出たのか」
「とは申せ、
言いながら、尼は、うしろの覚一へいたいたしい目をやった。背の琵琶を重たげに、覚一はさっきから、墨絵の中の者みたいに、うつむいたままでいた。
覚一はやつれていた。
あわれなほど、草心尼にもそれは見えるが、若くして若さの影もない覚一の痩せは、ただの
ひと
尊氏は彼へはなしかけたが、たちまち目をそらしてしまった。
何か、この盲法師が、無言の責めを尊氏へ責めているように思われたらしい。
しかし、覚一は、そんな片言も言ってはいない。人のしている
「して?」
と、尊氏はすぐ、
「明石の、何処へ」
尼へことばを向けかえた。
「明石の浦に、
「はて、為定どのは、とうに亡きお方だが」
「いえ、幾たりとなく、歌の同門たちが、早くから戦を避けて住もうておりまする。わたくしたちも、覚一がお覚えをうけた東宮の御門や女院さまにおすがりすれば、身の無事はえられましょうが、覚一はそれを好みませぬ。またふと、
「なに。巷で、
「はい」
「いつ、どこで」
「つい都を離れる前の日ごろ。
「介のおる所を、その折、どこか聞かなんだかの」
「
「ああ、まだ日野資名どのに会えずにおるのか。······いや何」
と、急に語尾を消して、
「おう、はやまもなく朝が来よう。朝ともなれば、たちまちここは戦場のちまた。
「はっ。おめしで」
引田妙源の姿を、とばりの裾に見ると、尊氏はそれにいいつけた。
「この二人を馬に乗せ、兵庫の魚見堂まで送らせい。そして、よういたわり取らせたうえ、さらに二人のたずねる明石の冷泉殿の家まで兵を添えてとどけてやれ。心ききたる兵数名をつけて、過ちのないようにな」
「かしこまりました。では」
「おおすぐがよい。
尊氏は何か、急に、心せわしげであった。そしてこの二人を見送るとすぐ、薬師丸という小姓武者を、陣の内からよびよせていた。
未成年者は一様に
十三、四から六、七歳の年少もかなり軍中にいたことは事実で、うちには寵童もまじっていたといわれるが、尊氏には美童を愛していたようなあとはない。その多くは将座に
薬師丸もまたそのひとりで、可憐な童体だった。髪を
おん前に||
と、かたのごとく、いつもの
「薬師丸か。もそっと寄れ」
「はい」
「そちはたしか、熊野山の別当
「はい」
「日野殿のお家と
「母は日野家から
「そうだったなあ。御一門の一家、日野
「············」
「いや、そのようなわけがらはいま申すにも及ばん。要は、そちの所縁がたのみだ。尊氏の旨をおびて、その資名、資明二卿のいずれかに、いそいでお会いできる工夫はないか。わしに代ってだ。どうじゃな、薬師丸」
「できぬことはございません。おいとまさえいただけば」
「もとよりすぐ都へ立たねばなるまい。したが、右馬介以下十人ほどを、京にのこしおき、八方おさがし申すといえども、いまだに
「まず
「む! たのもしい」
尊氏は俄に
「
童体の一小武者に、このような大秘事を託して、二次の追っかけに洛中へやったなどをみても、尊氏がいかにそれを急ぎまた重要視していたかもわかる。一説には、これは赤松
大覚寺統の君がただしい皇統なら、持明院統の君もまたまぎれない皇統であることぐらいな常識は当年のどんな武者でも持っている。
だから赤松円心ひとりでなく尊氏
ところが。後醍醐のご警戒きびしく、当時、持明院統のおかたも、みな叡山へ移され、近づきまいらせる手がかりなどはまったくなかった。||そしてやがて御帰洛を見たころには、足利方は総敗北||洛外遠くへ没落の日であった。
だから「梅松論」や古典「太平記」も、尊氏が院宣を
このたたかひを
皇 と皇 との
お争ひになさばや
と彼が言って、急遽、薬師丸をみやこへやったというお争ひになさばや
しかし、後にはこれが南北両帝分立の正因にもなるのである。ここらは大いに熟考を要しよう。
かりにもそんな大秘事が、敗北のすえの土壇場へきて、俄に思いつかれたなどは、信じられぬはなしである。||尊氏の政治的才能からみても、それはすでに義貞を追って、海道を
||けれど万事は休した。
その院宣はついに、西の宮、
「いまは」
と、彼はワラをつかむ気もちで、薬師丸まで追ッかけの使いにやったが、しかしまだ元服前の一童子武者である。それへ大きな望みは望んでみてもムリだった。
しかも戦況は、その日頃をさかいに、悪化の一路をたどっていた。今はすこしでも味方を損じまいとして、尊氏はしきりに退却をうながしたが、直義は
これが救出のために、尊氏も馬を出してついには乱軍中の人となった。
後世、伝承された“尊氏馬上像”はこのときの彼の奮戦像であるという。||ようやく、負けいくさの手勢を
「これまで」
と、尊氏は見切りをつけて、ついに船へ移った。いや逃げたという方がここではただしい。
ただの陸地における総退却にしても、いわゆる“負け引き”には非常な危険がともなうといわれている。ましてこの折の足利勢がまたまた、大混乱におち、おびただしい犠牲を浜のなぎさに捨てたのはぜひもない。
かねて大小の兵船三百そうの用意はあったが、
「すわ、大殿には海上へ移られたぞ」
と、おめきあって、われがちに船へなだれこんだ一ときの騒ぎは言語に絶していた。うしろには早や官軍がせまっていたし、
尊氏もいまは、非情に、
「つづく者はつづいて来よう。わが船よりまず帆をあげて西へ急げ」
と、船手の者を、せきたてた。このさい、時をかせば、官軍方にも四国の兵船二百余そうがいたのである。海上で包囲されるおそれも多分にあったのだ。
それゆえ、
もしこの機に、官軍方が、陸上の顧慮を一切おいて、
「今こそだ。足利一族を海のもくずに」
と、すぐその戦力を四国船隊の上へ移して、海上、さらに追撃をつづけていたなら、おそらくは尊氏もついに逃げきれなかったかもわからない。||が、なぜか義貞はそれを敢行しなかった。野戦の
「これほどに打ちたたいたこと、尊氏とて、もはや再起はおぼつかなかろう」
と、敵を見くびッての、
もっとも、官軍側には、公卿大将も多かった。そして古来、堂上の制としては、
これを
追捕は武士を以て任ず
「あとは、義貞まかせ」
とし、義貞もつい、
「まずは兵馬を休めろ」
と令して、みすみすここに
なにしても、ここは尊氏の
僥倖といえば、海上での風向きも、その日は、尊氏に
お座 ふね
辰 ノ刻 (午前八時)に出さる
俄に、西風吹きけり
是 はたつと云つて
追手なりければ
寅 ノ刻(翌・午前四時)
ばかりに室 ノ津 へ御著
とあり、また。俄に、西風吹きけり
追手なりければ
ばかりに
もし順風なくば
一期 の御浮沈たるべきに
ひとへに
神仏の御加護也 とて
下御所 (直義 )には
渡海のあひだに
舎利 ノ御剣 を
龍神へ向て海底に沈 らる
と書いている。これでみても尊氏以下の兵庫脱出の困難さが、いかにあぶないものだったか、想像以上なものだったろう。ひとへに
神仏の御加護
渡海のあひだに
龍神へ向て海底に
それとまた、あの
新田義貞が鎌倉攻めのさいに稲村ヶ崎で剣を龍神へむかって
また、すでにそうした伝承心理が一般のあいだに根ぶかくあったとすれば、その心理を兵法に利用して、士気を振るわすなどのことは、兵家の常套手段でもあった。義貞もしたろうし、直義もまたこのさいは、意識的にそれを演じて、
「われらの武運はまだつきぬところぞ。心落すな人々」
と、大いにその偶然を
けれど、これの半面には、脱落者が多かったことも証拠だてられている。||おん船に従ひ奉る船三百余
さるほどに
おん供仕 つるべき大将共
その中の七八人は
京都へ赴 くあり
後日、降参 とぞ聞えし
などの記事もあるのだ。おん供
その中の七八人は
京都へ
後日、
このとき一方の旗頭たる大将たちが七、八人も降参洩れしていたなどは、決して少ない兵数の減少ではない。
||当然、たたかい破れて落ちてゆく船上には、落莫な感、悲痛な顔が、おもたく口をとじ合っていたことだろう。そしてこういう中に在る日こそ、その全体の上にある首将の人間そのものが、微妙に、末端の一兵士にまですぐ敏感なひびきをもって映ってゆくものだが、その点でも、尊氏のすがたにはなんのとげとげしさも沈痛な気色もなかった。さっぱり日頃とも余りかわりのない彼だった。
「やれ、着いたか」
と、彼はまもなく船上を立った。そしてまだほのぐらい
「
と、赤松円心の人数を先に、
室ノ津は室の遊女でも知られている古い
が、尊氏の軍令で、ほどなく、日頃以上な生業の活気に返った。室山の城へも湾内の兵船のうちへも、多くの物資や食糧が買上げられ、ここ両三日、小さな軍需景気を見たのであった。
「まずは
出航の奉行は、彼と、赤松一族の信濃守
「円心。忘れはおかんぞ。赤松一族の助力なくば、尊氏も今度はどうなっていたかわからぬ」
「仰せられな」と、円心入道は猛気な人だが、尊氏の前ではつねに低目であった。「お味方であるからには、あたりまえなこと。あくまで大御所と喜憂も共にの所存でおざる。一に君の御人徳と申すもので」
「はて、まずい戦ばかりしつづけてきた尊氏に、なお、何の人徳などがあるだろうか」
「いやあの佐々木すらも、さように申しておりまいた」
「道誉が」
「失意のときこそ、総大将の人間のまことがわかる。この敗軍で、つくづく、足利の
「はははは」
笑い消して。
「負けいくさに感心するやつもないものだ。道誉らしいわ」
そこへ直義が迎えに来た。
城中の広間に、はや一同が顔をそろえ、出座をお待ちしているというのである。この日、さいごの評議をすまし、そしてこよい、尊氏はここを出航、筑紫へさして行くというかねてからの計画だった。
もとより敗戦は予定していたものではない。しかし、いついかなる変で、都落ちを見まいものでないとして、尊氏は、とうから腹に副線を持っていたらしいかたちがある。
ゆらい、九州の武族は、強豪な聞えが高い。尊氏はまだ六波羅のころから、筑紫の
その期するものとは、いうまでもなく、
すなわち。
この播州地方には、赤松円心一族を防ぎにのこす。
また、備中には今川頼貞、頼兼の兄弟を。備前には、尾張
さらに
そして四国は、細川阿波守や細川定禅の軍で固め、山陰にも仁木、上杉の族を配しておくなど、すべて後日のための考慮がなされた。
すべて他日のための
「······したが?」
と、諸将は不安をのこした。
やがて衆座のうちから、大内豊前守義弘がすすんでその疑点をただした。
「おそれながら、おうかがいつかまつりますが」
「豊前か||」と、尊氏は眼をやって「何事よの?」
「仰せのように、山陽、山陰、四国へまで、ここの御軍勢を分けて留めおかれましては、筑紫へ渡らせられる宰相のおん供には、どれほどな兵力がお付添いできましょうか」
「さ。······どれほどあとに残るかな。直義」
訊かれた直義はまた、かたわらの師直を見て。
「師直。千五、六百人程はひッさげて行かれようか」
「いや、とんでもない」
と、師直は首を振った。
「その半数にも足りますまい。せいぜい、筑紫落ちのおん供は五、六百人に過ぎぬかと存じられまする」
「それでいい!」
と、尊氏はためらいなく二人の横から断をくだして。
「手勢は五百もつれておれば充分。尊氏の兵力は行く先々においてある。||が、師直はいま何と申したか」
「はっ。······?」
「筑紫落ちといったな。たわけめ。尊氏の
「これは、師直の失言でござりました。平におゆるしを」
「余人ならともかく、執事のそちが知ってないはずはない。かねがね筑紫の武者どもへは、他日のため、何くれとなく手を打っておいたことぞ。尊氏はその刈入れに
こう師直を叱っておいて、尊氏はそのおもてを全体の武将たちへむけ直した。そして筑紫入りにいたずらな大兵は要すまいという見解に次いで、
「むしろ、瀬戸内の海路こそ、あとの大事。もし沿岸の国々が敵手に落ちたら、わが再上洛もむずかしくなるだろう。尊氏の先途を案じるよりは、各

と、説明もし、またことばづよく励ました。
大勢のうえに、どよめきと明るさがただよった。敗戦のただよい以来、やっと、よみがえッてきたいささかな活気であった。||筑紫びらき、ということばが諸将の口からしばしば談笑になって流れたりした。
軍議の席はそのまま酒宴の夕となった。晩には、赤松一族をこの地にのこす以外、みな船へ移ってそれぞれの国へさして別れ去る||。その別宴でもあり、またこれは、筑紫びらきの
しかもまた。この宵、久しく、尊氏へも消息を絶っていた一色右馬介が、折も折、早馬でここ室ノ津へいま着いたと、城門からの知らせが入った。
「何。
待ちに待っていた者だ。しかし尊氏はなぜか諸将のいる座をついとはずして、べつな一室へ移って行った。そして、これへと侍に命じ、そこで介を待ったのだった。
おそらくは、ひそかに、事の
もしこのさい、ここへもたらしてくる介の報告が、かねがねの切望を裏切って||持明院統の
時も時だ。大きなうつろを味方にまねき、ひいては、他日の結束にも
「············」
やがて侍の声がし、介だけが、そっとそこへ入って来て、平伏した。
例の
「おう、
「申しわけもございませぬ」
「なに、申しわけがない?」
「余りにも日時をついやし、それに今日まで、何らのお便りもつかまつらず······」
「あの乱軍つづき。しかもそちは都の中だ。いちいち仔細の連絡がとれぬなどは仕方もない。それよりは、結句、どういう情勢か。······持明院統の方々へ、ちかづきまいらする手づるは得たのか。また駄目か」
「およろこびなされませ。首尾ようお
「えっ。かなえられたと?」
「はいっ」
「では院宣の
「しかと」
「······が、その
「すぐてまえのあとよりこの
「そうか」
尊氏は初めてその胸をのばして大きく呼吸した。そして介の労をいたわると、
「いえいえ。てまえのはたらきなどは微々たるもので」
と、恥じて言った。
「こうさっそくに、事のはこびがついてきましたのは、まったくお差向けの薬師丸が
「お、薬師丸が、そちの許へたずねて行ったか」
「されば、その薬師丸のみちびきで、資名どのの弟御、三宝院の僧、日野
「ではその賢俊より院へ」
「はい。その
「ム、さもあろう」
「が、賢俊御坊には、これぞ持明院統の時節到来と、必死な御助力でございました。そこでついに光厳上皇の御院宣を拝受いたし、それを肌身に秘めるやいな、てまえが京を立つ日と同時に、賢俊御坊と薬師丸のふたりも、
宿望の院宣はもうお手に入るばかりなのだ。
尊氏がどんなに狂喜するだろうかを、介は、期待していたが、案外その人にはなんの表情もうごいてこず、かえって、介のことばのはしに、ふとおもてを曇らせて。
「相違ないのか。介」
「
「しかし、院宣の
「や。申しおくれました。まったくは佐々木道誉の計らいによることでございました」
「道誉の?」
「病のため、兵庫から御陣を離れて、近江へ帰るのだと申す道誉が、途中、
「む」
「聞けば、病とは表向き、
「では、源太左衛門安綱が、御使の賢俊と薬師丸を、送って来るのか」
「さらに道誉の家臣、田子大弥太も干魚船の
「そちはなぜ、べつに?」
「万一のさいには、誰がわが殿へこれをお知らせいたしましょうか。それも思い、また一刻もはやくと、てまえは陸路をムチ打って先にまいったわけでござりまする。
ここまで聞くと、尊氏は初めて高い感激に体じゅうを耐えられない程なものにした。幼年からの愛臣
が、すぐ尊氏はたちあがって、
「
と、言いのこして去った。
やがてしばらくすると、彼方の広間なる大酒盛りの席が、一瞬しいんとひそまった。それからである。尊氏のことばによって、
「それっ、船を出せ」
「御使に万一あっては」
と、その席からも、ただちに、数人の将がどやどや駈け出し、介もまた、人々と共に、港のほうへ駈けていた。
つづいて、尊氏以下、諸軍もみな城を出払って、
こうしたうちに、
「おう、見えた」
「御使の迎えに行った船がもどって来るわ」
と、港いっぱいに
まさしくそれであろう。この夜は二月十六日であったから雲間にはまろい月があり、
院の
はやくも大船の
「あなたが足利の宰相尊氏どのでおわされるか」
賢俊のことばであった。
個人的な応答と察して、尊氏がしかる由をこたえると、賢俊もまた、
「拙僧は三宝院ノ僧正賢俊と申すものですが、つい
と、その身分を一応あきらかにしたうえで。
「このままでは世はどう成りゆくことでしょう。
「············」
「足利どの」
「はっ」
「同慶のいたりです。ここに
陣中、三方の用意もない。
賢俊はそれの
月のひかりに紙の白さがなお白かった。光厳(先の
義貞と与党 一類を誅伐 して
天下平穏の来 らん日を
一日も早かれと
汝 の忠誠に待つ
という意味のものだった。天下平穏の
一日も早かれと
これによれば、相手は大覚寺統でもなし後醍醐でもない。義貞こそが
尊氏も、ここに錦の旗を持った。すでに名分においては同等な立場となった。ただ錦の旗と錦の旗。天下の人心が、そのいずれを選ぶかだけにある。
「直義」
尊氏は、そばへ呼んで。
「
直義は、かしこまって、親船のみよしから
「聞けよ人々。新院
と、一人の郎党に命じて、長い竿を持たせ、そのさきに、錦の旗を解いて、月の空へ高々と振らせた。
声は船から船へ、一ときのまに、つたえられてはいた。夜目ながら錦の旗も月影に見たことだろう。やがて港じゅうが
「さらば後日」
「さらば、またの再会に」
と、呼びあいながら、かねての
尊氏の船も、この夜、室ノ津を離れて西へ去った。
多くは、それぞれの自国へさして一たん
その中に、日野賢俊もついて行った。
彼はそのまま陣中僧として、尊氏のために犬馬の労をとり、後、室町幕府成立の日にいたッては、その
元々、日野家は貴族中の名門でもあり、これが機縁で後には足利家とも通婚した。そしてかの東山殿(足利義政)の妻として、利殖に
ここでは、尊氏にせよ賢俊にしろ、明日の運命すら何でよく知りえようか、である。||わけて尊氏はまだ茫洋な感だったろう。行くての九州に、なお何が待つかも、予知はできない。
味方の一将、石橋
そして、長門にとどまった。
すると月の二十五日。
筑紫の
「筑紫びらきの御案内に」
と、迎えに来た。
これへの迎えも、来る方は容易ではなかったのだ。九州諸党の多くは朝廷の召しに応じて京都へ出ていた。||大友
そのうちの大友だけは、海道箱根ノ合戦で、道誉や
ちょうど、尊氏の流亡軍が、筑前
その二月二十九日。
都では、改元の令があった。
と改められ、
やれ、車をぶつけたとか。
車のあるじが礼を欠いたとか。
なにしろ、尊氏の
しかし、ほんとの姿にはまだまだ遠く、いたるところは焼け跡だらけな洛内なのだ。||その中へ過日来の兵庫からの凱旋軍が、何万となく入りこんで、各

「やあ、おめでとう」
「いや
ここにたれよりも百戦の功を
そのうえこのほど官位も、
に
彼の得意時代が今や来たかのようである。今日も親しくみかどに召されて「以後、山陰山陽十六ヵ国の事を管領せよ」との朝命を拝して
近く、義貞はまた、尊氏
「ここ七日以内に」
と、義貞はその発向の日どりまでを今日はおちかいして来たのである。一族将兵たちの休養もだが、自身もまた去年いらいの血臭い生活をこの日に少し
「お。······左中将どの」
すると、
「左中将どの。一度折入って、おはなし申したい儀もあるが」
「うけたまわりましょう。ここでよろしければ」
「いや、ここではちと」
千種忠顕は
「尊氏
「お待ちする」
「今宵にでも」
「けっこうです。ただ近来家中も急増して手ぜまのため、旧居は弟の義助にゆずり、それがしは高倉ノ辻にいますが」
「御新亭の方か」
「いや新居などではありません。もと足利
「ならば人目も遠くてなおよい都合だ。じつは自分のほかに、もひとりお連れしてまいるお方もあるしの······」
「あなたのほかに」
「む。それは、
忠顕も忙しげだった。
私邸に帰れば彼を待つ客や軍務はここにも山とつかえていた。“時の人義貞”にまたたく春の半日は暮れてしまう。「
「折入ってとは?」
千種とは、
それよりも、その千種が連れてくるといった女性とは誰なのか。そのことのほうが彼には昼から気がかりだった。思い当りがないでもなく、あるいはと、心が浮いてくるからでもある。
との恩命に接したのは、さきごろ兵庫合戦でまだ在陣中のことだったが、凱旋の日、さっそくそれのお礼とご報告とをかねて参内し、たいそう面目をほどこしたのみならず、宮中の慣例にもないほどな、おもてなしを
後醍醐は御酒がおつよい。諸卿はみな知っているが、義貞は正直におあいてしていたので、ついに酔いつぶれてしまったらしく、やがてふと気づいたときは誰もみえない
あ、草心尼?
と、叫びかけて、おもわずはしたない驚きの目をしばらく彼女の
忘れかねて。
そのご、このことを忠顕にもらすと、忠顕がまたそれを、みかどのお耳へ達したらしく、みかどのおことばとして「||左中将がそれほど忘れかねる女なら、左中将へつかわしてもよいの」と、仰せられたということだった。||それもまた
まさか。
よしんば、帝がほんとにそう仰っしゃったにしろ、女を賜うなどとは、かりそめのお戯れにちがいない||
それとは義貞も心で打消してはいたが、やはり多少はそぞろめいて、その折、千種忠顕から女の名やら素姓などは訊きさぐってみたのであった。||で、知りえたところによると、彼女は一条行房の妹で、宮中での
と呼ばれているという。
内侍とあるからにはもちろん
けれど、栄達と名声と、彼の昨今には、彼を
「············」
湯ぶねのうちで、義貞はうっとり
ふるさとの花、
その人と、勾当ノ内侍とは、瞼のうちで、けじめもつかぬほどよく似ている。まだ髪をおろさぬ若後家ごろの草心尼と||。
いや草心尼といえば。つい先頃も彼には妙なことがあった。
摂津の戦場で、兵に捕われて来た旅の
しょせん尊氏は亡びる。尊氏を頼って行っても行くすえ頼む人にはなるまい。自分の陣にいたがよい、と||それはもうむかしの美しさは
「······殿。······殿」
湯殿の外の声だった。
「新兵衛か」
「は。新兵衛にございますが」
「いま出る。いますぐ」
「お耳へまでちょっと」
「千種どのが見えたのであろう」
「さようで」
「いいつけておいたように
「はい」
「おひとりか」
「いえ、
「老女か。お若い方か」
「み車を降りさせ給うたとき、よそながら拝しただけでございますが、花うるしのきらやかな

「ふ······ム」
義貞は内で体を拭いていた。壮者のゆたかな
用意されていたことなので、主客はすぐ酒になっていたが、義貞はまだ、
「いや、おひきあわせはあとにいたそう。その前にちとすましておかねばならぬおはなしもありますから」
と、問わぬ先に忠顕のほうから言った。そのひとは、どこか別室にでもおいて、まず用談を先にとしているらしいのである。
「仰せください」義貞はさいそくした。「||ここは
「じつはの······」と、語気を
「ほ。そのことなら義貞も聞いていました。さきごろ大江山より道誉が使いを出して、あなたの御門へ、降参のおとりなしを、すがって来たとか」
「いやこの忠顕だけに来たわけではない。
「はははは。およしなさい、およしなさい」
義貞は手を振った。
「あの道誉が、いまさら前非を悔いたなどとは、
「なるほど。左中将どのには、あくまで御反対と聞いていたが」
「されば宮中にても御内議ありとうかがったせつ、義貞は
「お嫌いかの。あの人物は」
「さような感情からではありませぬ。去年、海道諸所の合戦では、二度まで
「しかし彼のみではない。いまの武将は」
「いやいかに道義が
「さ。それで困る。元々、佐々木道誉なる者は、
「············」
「ところが、左中将には御不服との聞えがある。いま御辺につむじをまげられたら、これまた朝廷のみならず
「ご苦労でした」
義貞は冷たい杯を手に挙げて白く笑った。
「申しおくが」
義貞は、あらたまって。
「准后のおぼしめしは
「が、人には功罪いずれもある」
「道誉に何の功がかぞえられましょうか」
「まだ北条の勢威もさかんだった
「
「いちがいに打算とのみは言いきれん。
「それはある」
「また、隠岐護送のおん供の
「すでに最前うかがった」
「さらに、みかど
「千種どの」
「ム?」
「あなたもまた、彼にみつがれていたお一人だったのか」
「受けんとはいわぬ。彼のみつぎをうけぬ大官はまずないからの。なんとなれば、道誉の佐々木支族は、南海から出雲地方にまでおよんでおる。それらを通じて、彼は海外との交易をやらせ、およそ都に見られる
「お待ちください。それは
「軍功ではない。しかし軍功にもつながるものだ」
「義貞は武人、軍は論じますが、商論はぞんじません」
「元々、道誉は純な武将とはいいかねる。半商半武人とも申すべきか。そうした人物も経世の面ではまた要なしとせぬ。まずは彼の旧領を助けおいて、後日、その能才を得意な方に働かせるぐらいな寛度もあってよかろう」
「はははは。ご熱心よな。仔細の商論は伺った。お取引はご随意に」
「それではこまる」
「と申されても」
「はて。このままでは二人の仲もついに論争の物別れになりかねん。左中将どの。もう
「酒はすでに酌んでいる」
「いやお連れしてまいった御方を加え、なごやかにと申すのだ。お待ちあれ······」
何思ったか、
義貞は独り
道誉の無節操を罵ッたが、義貞といえ、北条遺臣の中先代軍からいわせれば、主家に弓をひいた離反者のほかではなく、天下の武門あらましも寝返りの前科者であらぬはない。
「つまらぬ強情を」
と、義貞はかえりみて、忠顕との論争もやや後悔されだしてきた。それは
おそらく忠顕のおとずれは、廉子の命で来たものだろう。||とすれば、彼が連れて来た
「目をつぶろう······」
義貞は自我をなだめた。准后と事を構えて争うなどはおろかである。また争って勝てッこはない。現朝廷の
すくなくも自分の忠誠は現帝の御理想へささげているのだ。道誉のごとき男、尊氏のごとき者と、同列であってはならない。
「······お召しあそばしましたか」
と、どこやらで声が
きれいなせせらぎの階音にも似た
「たれだ?」
「わたくしです」
「わたくしとは」
「············」
答えにつまって、そして
「や、そなたは」
「勾当ノ内侍でございまする」
「······これは」
義貞はあきれた。茫然と口もきけなかった。
声で、もしやと思わぬでもなかったが、あまりに
「はて、人の悪い」
義貞は、胸の戸まどいを、ふとそんな呟きにして。
「では、千種どのが、こよいお連れあった女性というは」
「私でございました」
内侍は、どこかに
「お召ゆえ、この
「いや、義貞は呼んだ覚えはない。ないどころか、連れがそなたとも知らなかった。して千種どのはどこに」
「はやお帰りになりました」
「えっ。帰った?」
ふしぎな行為をするものだ。なんでこんな謎めいたまねを彼はするのか。
義貞には、忠顕の腹が、彼の腹芸みたいな行為が、
「妙な?」
としか考えられない。何かウラが? とさえ疑われてくる。
しかし残された勾当ノ内侍が、ひとり残っていることをすこしも疑っていないのは一体どういうわけだろう。義貞がそのことをただすと、彼女は消えも入りたげな姿をみせてやっと答えた。
「どうぞおそばにお置き給わりませ。内裏のおいとまも今日を限りに、いまよりはお館にいるようにとの、仰せつけを
「仰せつけ? ······。はて、たれの?」
「もとよりお
「みかどのおことばだと仰っしゃるのか」
「くわしいことは千種さまから、はやお耳かとぞんじますが」
「いやなにも聞いていない」
「まだ、なにも」
「まったくなにも」
「············」
彼女は初めてうろたえの色をあらわした。しずかでいた眸よりは、
ともあれと、彼はべつな小部屋へ彼女を
「内侍。そなたのいうに従えば、そなたもこのままいることを、承知のうえで今宵これへ参ったように聞えるが」
「はい。もしお
「それがわからぬ」
「どうしてですか」
「みかどのお心も」
「でもお上には左中将との一約、ぜひもなければと私へお言いふくめでございました」
「約束と仰せられて」
「はい」
「······約束とな」
あとの呟きはほとんど口のうちだった。義貞は心のちぢむ思いがした。忠顕から洩れ聞いていた叡慮とはやはり一時のお戯れではなかったのか、と。
どうしよう。急に彼は
彼のそうした容子がふと内侍を不安にさせてきたのかもしれなかった。急に、つきつめたその眸に涙さえ差しぐんで。
「左中将さま。居てもよろしいのでございましょうか」
「居てもとは」
「おそばに」
「そなたさえ居る心なら」
「わたくしはもう······」
と、彼女は思いきったようにあふるる涙と共に言った。
「ここへ来て、真実ほっといたしました。内裏という
義貞は内侍のことばをあやしんだ。内裏も火宅同様とは。
内裏の後宮もまたそんな所だろうか。勾当ノ内侍は、問われて袂を濡らすばかりだったが、やがて、とぎれとぎれに語りだした。いまは義貞にゆだねるしかない女の一生と、どこかで観念のみえるのもあわれであった。
彼女の生家は公卿中での名門である。とくに兄の一条
これだけならば、彼女になんの不足があろう。後宮を
が、やがて彼女は、みかどの寵幸が厚うなればなるほど、
身をいとしんで、珠の

かつて、みかどが隠岐脱出のさいには、なおまだ三人の妃がおそばに仕えていた。廉子、大納言ノ局、小宰相の三名である。ところがそのうちで身ごもっていた小宰相ノ君だけが、
······ふびんや、過ッて船着きの折、海へ落ちて。
と、廉子は後日、
世にそんな恐ろしいことがと、疑われもし悲しまれて、内侍はそれをしおに病といって後宮へはもどらずにいた。しかし、みかどからは「······いかにせし?」と、そのごも再三なお
これにはまた、みかども常々お悩みらしくあって、近ごろはとみに自分への寵幸も
世間は暗かった。洛中、一種の鬼気が深夜になるとただよってくる。
義貞には体でわかる。
なにしろ兵は野性だ。将も人間である。本能やりばなき、血のなかのものを、義貞もいま、三条高倉邸の
おれも
と覚らざるをえまい。||目のまえの勾当の内侍は、ともすればただうつむきがちだった。あれから義貞はそこへ酒をはこばせてしきりに酔いをいそぎ、そして内侍へも、
「飲まぬか」
と、すすめていたが、ふたりの仲はたやすく
「······そなた、
義貞はふと、こんな
「ええ······」と、内侍もやや頬の
「さいぜん、内裏は火宅じゃとの
「いいえ、人誰もの
「
「もとより女でございますから」
「内裏にはそれすらないか」
「みかどはおひとりでいらせられます。かしずく後宮の私たちは、
「真実になれば燃えように」
「そのような
「ここならば」
「でも、殿のお心はまだわかりませぬ。この私というものは、恩賞の品代りに、みかどから殿へ下されたもの。私は人形です。自分の気もちを余り言ってはいけないのでした」
「いやそなたは
義貞は杯を横へ
今朝。
「なに。義助(脇屋)や貞満(堀口)らが、はや
いちど、書院に姿をおいたが、こう言ってまた
「内侍、さびしかろ」
「どうしてですか」
「こわらしき男ばかりだ。内裏のさまとは、おそらく余りな違い方」
「それがかえって、そぞろにうれしゅうございます。人の中に立ちまじって、自分も世間のひとりになったことかと」
「いまに街も見せてやる。
「いえ、ただもうこうしているだけでも」
そのあかるい
「内侍、したくは」
「お待ちしておりました」
「
中ノ坪を前にした一室へ移り、給仕人もしりぞけて、ふたりだけで膳についた。内侍にしても、このような朝餉のためしは宮中ではなかったであろう。ひそと女の幸福感を
「それにしても······」と、内侍はさっそく今朝の噂にしていった。「······おかしな千種さま。どうして昨夜は黙って、帰ってしまわれたのでございましょうか」
「いや、忠顕どのの腹、准后のお胸、いぶかりはみな解けた。そなたは何も知らぬままがよい。義貞もまた、彼に会うても一切知らぬ顔で通すつもりだ······。そして、道誉降参の一件なども」
「道誉と仰せられますのは」
「佐々木道誉だ。いや、わずらわしい。そなたがきいてもせんないこと」
次の部屋へ近侍が来ていた。
ふたりの声がとぎれると。
「殿。······江田行義、篠塚伊賀守などが、明日先発のうちあわせとかで、さいぜんよりお表の
「いま参る。しばし休息しておれといえ」
義貞はつい起つのが惜しまれてはそう言っていた。久しい戦陣の飢渇が花野の露にでも逢ったようで飽かない心地なのである。するとまた、青侍の足音がして、思わぬ客の来訪を告げた。
「······誰だ。客とは」
「河内守正成どのでございまする」
「楠木が。······?」
いちど、黙考してから。
「また来てもらおう。今日は播磨へ発向の先発をえらび、かたがた、軍議に一日を要する。御用あらば、また明日にでも来給え、と申してやれ」
たそがれ、正成は、京での居宅、六条油小路の門で、駒を降りた。
ひる、義貞を三条高倉の邸におとずれたが、会えなかったので、
「お帰りなされませ」
帰れば、いつもまっ先にとび出してくるのは、
「やれやれ、さぞやお疲れで」
と、正成の手から駒のたづなを取るとすぐ、正成の顔を読んで、その出先から胸のうちまでを、ちゃんと見てしまうのも、この左近であった。
油小路の邸は、正成が和泉河内の守護をかねて、摂津
ただ恩智をはじめとし、妹聟の服部治郎左衛門元成、一族の松尾、南江、和田のともがらや、郷土の若殿ばらが、黒い板じきにずらと並んで、
「お帰り」
と一
「何事もなかったか」
と、
総じて、彼の位置は、官職にしても大きく昇進したはずだが、暮らし方はいぜんむかしの河内の一豪族とさして変った風もなかった。あたかもこれを家憲としているかのようにである。
そこで公卿たちのあいだには、
河内のつくね芋殿
などという蔭口がまま聞かれた。どろくさいという意味だろう。正成自身もそのことは知らなくはない。
しょせん自分は地中の
と、みずから自己の性をどうしようもないとして、世事の
しかし昨今、上下とも、戦勝気分にわきかえっている洛中にあって、ここ一門だけが、何とも列外におかれた感で、正成はともかく、老臣若党ばらは、
過ぐる兵庫合戦の日においてである。||打出ヶ浜から
もちろん、総大将義貞にすれば、理由はあったことであろう。それは尊氏の筆になる正成宛ての密書だといわれている。
しかし、嫌疑はすでにはれているはずだった。それが尊氏の偽計であったことは、降参の将の談話で、そのご証拠だてられており、検断所の公卿裁きでも、
ほかからも同文の書があらわれたゆえ、あれはおかしい||
といわれているのだ。にもかかわらず、義貞だけは、それの訂正も声明していず、さらには、二次の発向にも、ここへは何らの沙汰さえまだ来ていない。
次の尊氏追討は、当然、山陽九州への出兵なので、すべて命は武門の大将一司令下にゆだねられる。楠木といえ義貞の命によらねばうごけないことなのだ。
「左中将どのへ、今日は親しくお会いなされましてございまするか」
やがて室に灯を見ると、左近は案じ顔の下から、正成へそっとたずねた。
「いや、会えなんだ」
と、正成は、これは正成のもちまえだが、口おもたげにぽつんと答えたのみだった。
||これはまずい、と爺の左近はすぐ
「||そうそう。ひる、おるす中に、
「
「は。御状をたずさえて」
「見ようか」
「お夜食は」
「あとにする」
東国の常陸
長い書面だった。
見終ると。
「飛脚の武士を呼んでくれい」
「お会いなされますか」
「ム、東国の事情を訊こう」
「あちらの形勢など深い事情は余りわきまえぬかのような
「それでもよい」
これの話がまた長かった。
しかし彼にすれば、正家の書状の内容とあわせ観て、何かうるところがあるのだろう。やがておそく寝所へ入った。
枕は彼の
「せんない憂いを」
と、彼は思う。
一個の力などではどうにもならない限界と、
それは誰も見ていよう。そして人の目で見得る範囲と深度だけを人と同じように見ているほど気の安いものはない。けれど正成の
世間の目一般は、天皇軍対尊氏だけにとらわれ、はや北条遺臣軍の、信濃、越後、裏日本へわたる
ところがそうでない。
奥州も、てんやわんやだ。北畠
さもあらば。
みかどとみかどの争いだ。
二つの日輪がせめぎ闘うて全土の上に燃え狂うときは地上も寸土をあまさぬ血に染まるだろう。
······正成は寝返りを打った。老人のように、その肩は
「······そうさせては」
ならじ! と彼は寝つつも寝られず体を硬くするのだった。さきには大塔ノ宮のあえなき死を、人皆も見ているのに、と痛憤に似たものが涙をすらふとついてくる。
「が、正成ひとりでは」
と、無力の感がげっそりと彼の疲労を誘ってきてやがては自然眠りにおちた。その間だけ彼は救われた寝顔を持った。
「なんだ?」
朝の役宅へ入って行ったばかりだが、また門へひっ返してきて、六条油小路の往来へ首を出していた。
門外では八尾ノ新介、富田正光らの若侍から組頭たちまでたちまじって、しきりに「道誉が」とか「佐々木が」とか言い
訊けば。近くの
「それやいぶかしいな」
了現は、さらにたずねた。
「
「それが帰って来たのです」と富田五郎正光は、ゆゆしい
「たしかなのか」
「見てきたのです」
「ふうん? ······」
「わけがわからん、なんとも、このごろの世態や武門は」
「この了現も、なんの沙汰も聞いておらぬ。みかどへ
「道誉の、またぞろな降参など、それこそ沙汰のかぎりでしょう。よもやいかに、しっ腰のない左金吾殿でも、また、みかどのおうちにしろ」
「ばかげたことだ」
たれかが呟いたしおに。
「やめろ、やめろ、こんな往来評議もこけのひまつぶしでしかないわ。はははは」
正成がこれを耳にしたのは、やかたの奥で爺の左近のかしずきを受けながら、外出の身支度をしていたときだった。
「······道誉がの」
と、彼は笑った。そして、
「いまさら不審がるにも当るまい。彼は彼の道をあるいているのだ。もそっと、べつな所には表に見えぬ醜事や奇怪事が数しれずひそんでいよう。世はいぶかしいことだらけよ。······爺、爺はさように思わぬか」
ともいった。
この日も彼は左中将新田義貞の高倉の亭をおとずれに出たのである。が、きのうの約もむなしく会えなかった。「||弟、義助でよくば」との伝言だったが「また」と彼は辞して去った。
事実、門前には播磨へ先発する軍兵が
「
と、それが少しばかりは残念だった。彼にはいま、これ以外に世を救うみちはない、と思いつめている一信念があったのだ。ついてはまずたれよりも義貞とじっくりはなしあってみたい。そう考えて二日
この思い。
これしかないと正成が思いきわめている考えは、義貞に会い、とくと義貞の大度量と理解とを求めるしかない問題だった。
およそ陰謀などは彼にない才覚だし、よしまた義貞に会いえても、得意の絶頂にある今の左中将の耳には、正成が抱いている考えなどは、とうてい、善意にうけられそうもない。
「はて······」
帰路の馬は路頭に迷った。
義貞がだめならば||
いやいや、千種は義貞と親しい仲、すぐ義貞へ通じるだろう。直接でなく人を
「ならば······」
正成は心のうちで他をさがす。
力がなさすぎる。やっと一方の公卿大将たるのが関のやまの人で、大局の動向を察したり勇断をもつ人ではない。
在京の鎮守府将軍北畠顕家の名もかれの胸にうかんでいた。
すがすがしいほど純で忠誠一筋な人とはおもう。けれど多くの日をみちのくに送り当今の複雑怪奇な時局を知れといってもムリである。かたがた年も若く、それに父北畠親房卿ときては、地位、学問、階級などに左右される意識が濃く、気位がたかい。またついぞ、河内守正成などいう者が
「······語る相手はたれもない」
ひるの京洛は人間で息れていた。
辻々は黒山な庶民。隊伍をなして西へ行くのは、播磨の赤松攻めへさす諸家の兵であろう。ひがしの方へ行く軍隊もみえる。それは尊氏一族の本国三河を
彼の心は路頭をさまよう子に似ていた。
こんなとき、むかしからの
だがそれのできる正成でもなかった。
もしこの重い
しかし、
むずかしい。考えられない。
でも正成の責任はそれで消えぬ、この正成の······と笠置の過去をかえりみたとき、彼ははっと、いまの
正成はその日、六条へもどるとすぐ、祐筆の安間了現に願書をもたせて、宮廷の大納言ノつかさ(職局)へ使いにやった。
「||何とぞ
「戻りまいた。||折よく閑院ノ権大納言さまにお目通りを得、仰せには、はかろうてやる、お沙汰を待てとのこと。まずは
了現の返事であった。
大納言のつかさは「天下
「そうか」
正成は安堵のていで、
「閑院の侍従がお扱いくださるるとあれば||」
と、やがての沙汰を待った。
この日いらい、どこやらに腹のきまったとも見える姿が彼の一両日を
ちょうど正成もそのいささかなおちつきにあった間のことである。||一族の楠木弥四郎や和田弥五郎など十騎ほどの従者にまもられて、正成の一子
「母ぎみのお使いで」
と、これへ父を訪ねてきた。
元服を去年すまして、幼名
||とは、正成も察している。そして正行が、
「これは、母ぎみからです」
と、父の前にかしこまってすぐさし出したのを
······去年 の冬から初春 へかけて、都の御陣は、やごとなきあたりからあなたさまやら郎党たちまで、矢たけびのなかに明け暮れのおすごしとあるのに、河内の奥は何事ものう、正月は正月の真似びもしたり、この頃の麦踏み唄にも、近年にない百姓衆の長閑 かな励みが見られるなど、みなお蔭によるものと、もったいのう存じて、ただ朝夕の蔭膳へのみ、一日も早くと、御世のしずもりを祈っているのが、私たちのせめてもな力でしかございませぬ||
などと見え、そのあたりの文字には正成もふと瞼を熱く持ったことだった。しかし彼の後顧の安心と家族への張合いもそれ以外なものではなかった。正行は母に似て小づくりだった。おもざしも父の自分よりは
「······十四となったか」
正成はこの正月もついに家郷を見ずにしまったので、いま、妻の手紙を巻きおさめながら、その妻の手塩の愛を||可憐な
「······正行、大きくなったな。しかしよう母がそちを手放してよこしたの」
と、男親の幅のひろい目でゆったり眺めた。
正行はかたくなっていた。
だが、
「はい。お願いしても、初めなかなか母上のおゆるしが出ませんでした」
「そうだろう」と苦笑して||「めったに、ゆるすはずはない。世上は
「ですが父上。河内の奥にばかりいると、無性に正行は遠くが知りたくなって来ます。居ても立ってもいられなくなって来て」
「どうしてだ」
「日本じゅうが戦争なのに、河内の奥で自分だけがこんなにしていていいのかしらと思うのです」
「悪いことを、母がさせておくはずはない。あいかわらず観心寺の御坊の許へ通って、勉強はしているのであろうが」
「はい」
「それでいいのだ。そちも世を案じるなら、学問に精出して、今の世情などにはわき目をふるな。すぐそちたちが、いまの大人に代って、その乱脈な世をになう時が来る」
「でも、叔父
「
「はい。四天王寺の御陣所からです。······それでじつは、叔父君を四天王寺にお訪ねして、京へ廻って来たのです」
「ははは······。さては母がゆるさぬので、正季を頼んで出て来たわけだの。して正季はそちに、何を教え、何を見せたか」
「四天王寺を中心に、
「正季の
「ええ。それから······正行も
「ふム······」
と、正成はあいまいな顔してまた笑った。
「いけません? 父上」
「従軍の望みか」
「叔父上のおことばでは、たとえ一時は
「それは
「ですから」
「ははは、単純だの。正季もその程度か。しかしな正行、覚悟はいるが、日はわからぬ。いつの日尊氏がそう出て来るか||」
「でも、それを待たず、左中将どの以下、みな播磨から西国へまで、攻めてくだるのでございましょう。そのいくさへ、正行もお供させてくださいませ」
「まあ待て」
と、正成は子の
「
「今のいくさは正義ではないのですか」
「さてさて、そちもなかなか
「············」
「いや、こんな話、まだそちには、ちと難しかろ。とまれこの父はの、元来が
「はい」
正行はききわけた。これ以上は、叱られることを知っている。また叱言となればきびしいことも知りすぎていた。
正行がここにいたのは、わずか三日ほどだった。||滞京中には、服部治郎左衛門に連れられて、洛中を見てあるき、東西の
折ふしまた、正成へは、同日、大納言のつかさから、
特ニ
参内アルベキ
待ちぬかれていたことである。そのため、正行の訪れも、国の便りも、じつは心の外だったような容子がなくもなかった。事実、彼はこの参内と、そして、めったにはめぐまれえない天子直々の拝謁を機に、或る
早朝から正成は
やがて定刻が来ていた。
一だん低く。
正成は“
もとよりここは花山院の
「廷尉」
「はっ」
「
一公卿の声だった。
侍座には坊門ノ清忠、
「時局、容易ならぬときにいたりましてござりまする。······そのうえに、
「む······」
と、後醍醐のおうなずきが洩れた。
後醍醐も、この功臣を、おわすれでは決してないが、なにぶん、群臣あまたな中である。とかく家柄の低い一廷尉正成をとくに日頃お召というわけにもゆかない。······折ふし正成からの願いだった。······何かは知らぬが、きいてやろうという
「正成」
「はっ」
「遠慮なく申せ、なんぞ
「さようにござりまする。もし今をおいて、このまま推移いたしましては、悔いを百年におよぼし、また、せっかく建武の御新政を見て、ここ三年の聖業も、ついには、いかがなろうかと、昼夜、案じられます余りに······」
「要は?」
「正成の存念を、直言つかまつるなれば、なにとぞ、いまを以て、
「公武一体とな」
「は」
「
「いえ。勅を賜うて、足利尊氏をなだめ、親しくお
「では、尊氏へ、和を
「なんで天下の目に、さようなことに
「しっ」
と、そのとき、公卿列座の中の一つの顔が、正成の注意を
「廷尉。不吉な言はつつしまれい!」
「············」正成は、そのためちょっと絶句したが、しかし姿勢は
「勝ちは負けの始めとか。まことに不吉な
「待て······」
後醍醐が仰せられた。
「そちが憂いとは、つまり後日となれば、
「
「正成。······それはそちの案じすぎぞ。筑紫にも誠忠の士は多い。四国、中国とても同様。そのうえに、義貞もくだってゆく。何条、尊氏の意のままになろうや」
「······あいや、申すも畏れ多くはありますが、建武の制として、新たにお示しあらせられた御政事の主旨は、かならずしも、武士どもの心から迎えているものでございません」
「尊氏一類の
「しかるに、尊氏には同調しても、聖慮を
「義貞はそれほど諸武士に気うけが悪いか」
「人の蔭口に似て、申すも
おそらくは、おん眉をひそめておわすに相違ない。わけて
時の人、左中将義貞をさして、こんなにまで無遠慮に評価し切った者がほかにあるだろうか。公卿たちは、正成の正気をさえ疑って、ただあきれるのみだった。
しかし後醍醐はさすが、帝王の
「正成」
と、呼ばれていた。
「はっ」
「そちは、尊氏が何者なるかを、わきまえておるのか。あきらかに、彼は幕府を立て、おのれその幕府の上に臨まんとする者だぞ」
「
「しかるに、そちは言ったな。君臣一和、公武合体の制をとれとか」
「はい」
「ならば、王政一新の実はどこにおくか。幕府を
「さは相なるまいかと思いまする」
「どうして」
「
「それ自体、幕府をみとめることではないか」
「いや、頼朝いらい、幕府の害、また思いあがりは、朝政にくちばしをいれ、皇統のお
「さような制を、武家が守れるはずはない。わけて尊氏めは、おのれ第二の頼朝にならんと、望んでおるものを」
「まこと、
「して、義貞はどういたすか。義貞の同意なくして」
「されば、左中将どのの許へも、自身二度もお訪ね申してはおりました。||しかし左中将どのが、やすやす、御同意あろうとはおもわれません。ぜひなくば、新田はこれを討つ、とするもまたやむをえぬかと考えられます」
「新田を討つ?」
「まこと、よんどころなくば」
「そうしてまでも、尊氏とは、たたかいを避けろというのか」
「皇統の長き御未来のため。大きくは、民ぐさのためにも。······聖慮におん
「ばかな」
ついに、
「ならん! ······。さような進言なれば聞くにも
「······ただただ憂いのみにござりまする。いまや尊氏の許には、
低すぎるくらいな声で、声の表に感情は出ていない。彼の悪い方の片目のまぶたとひとしく静かに
||申すことにも事を欠いて。
||
と、みな色を失い、彼ら
しかし、そこも
ややあって。
「正成······」
と、御諚、おもたげに、
「いかにもそちの申すがごとく、持明院統の院宣が、尊氏の手に渡ったとは、ちかごろ四国中国の武士どもが、しきりと揚言するところとは聞いておる······。が、それはまことではない。風説にすぎん。朝廷での調べでは」
「あいや、おそれながら、正成が知るかぎりにおきましては、かなしいかな、
「なにをいう。たとえ尊氏が
「げによき
このとき、ついにたまりかねたように、公卿座のうちから、参議坊門ノ清忠が、
「廷尉! 廷尉」
と、制止して、
「なにさま、
と、言った。いや叱った。
「は。······
と、正成は、ほんのこころもち、その膝を、公卿たちのほうへ向けかえて。
「||
「では、あくまで
「一
「さてこそ、先頃じゅうの噂も噂ではなかったわい。······かねてより尊氏と正成とは、よほどよほど、ねんごろな仲であったとみえる。······もはや、何をかいわんや。はははは」
侮辱だ。聞き捨てはなるまい。と公卿たちにさえ、清忠の言は、
「ちと、言い過ぎ」
と、おもわれた。
意見の相違はともかく。正成の誠意はたれにもわかっている。その必死な
けれど、正成は、清忠の嘲笑を浴びると、じぶんも共に、その面に、うっすらと苦笑を持って、
「おからかいを······」
と、かろく危険な一瞬を交わしていた。
そして、自分は尊氏を、世の敵としては憎むが、
世の敵と、憎む理由は、これまでは尊氏が、
われも廷臣
足利も皇軍
と名のるからには、手のくだしようもないではないか。
また、世上沙汰さるる如く、
「このいくさを、君と君とのお争いにせばや」
と彼が
正成は
「およそ何が浅ましい、何が
と、一人一人の胸に訴え。
「持明院統もただしい皇統。また現朝廷の大覚寺統もひとつ皇統。いずれが
と、痛嘆した。
さらに、その弁も
「正成ごときが申しあげるまでもなく、ここには博識な方々のみ。つとに御存知と拝察しますが、このさい御一考として、かの
と、
「なに。七歩の詩?」
人々のあいだに、小さい


七歩ノ詩とは。
||みな沈黙におちたが、訊きかえす公卿はない。
正成も説明はしなかった。なまじな説明はかえって反感をかうだろう。異国の
文帝はかの三国志中の
つまり風流子というものか。諸般の芸事には通じ、
だが、世は戦雲の下。
或るとき。一閣の内に弟を呼びつけて。
「
と、いいわたした。
「やめられません!」と、曹植はひざまずいて、涙の目で兄を見あげた。「||私。ほかに
「ああ、きさまというやつは······。しかし群臣の目、
「やめられません」
「よしっ。斬れッ」
と、文帝は後ろの兵へ手を上げた。がまた「いや待て」と、何かを思い返したらしく、
「
「はい」
「わしがここで、一イ二ウ三イ······と七ツまでかぞえるから、声に従って、七歩あるけ。そして七歩のあいだに一詩を作ってみせろ。出来なかったら途端に首を落すぞ。もし
と、厳命した。
豆ヲ煮 ルニ
豆ノ
ヲ燃 ク
豆ハ釜中 ニ在 リ泣ク
本 コレ同根 ヨリ生 ズルモノヲ
相 ヒ煎 ルコトノ
何 ンゾ太 ダシク急 ナル
詩は、豆ノ

豆ハ
文帝も詩の真理にうごかされ、以後は弟の天性とその好む所にまかせたとのことである。
七歩ノ詩は聖慮にとり決してご愉快な詩であろうはずがない。万民は
たとえ、どういう御理想によろうが、たたかいは帝王の最大な罪と御自身責められているはずである。
まさに、今の世を
豆は、何を
正成は、豆に代って、豆の怨みを
「だまれ、無用な雑談」
と、公卿のひとりが、こう自己を
「知らぬか、廷尉。||
と、その公卿は、おなじ列にある清忠のほうを見て。
「さだめしお
「ウむ」
と、清忠が、玉座へむかって、
正成は、おもわず、
「······あ」
と、両手を下へつかえ直した。なろうものなら、その手は、帝のおん
「廷尉。
「······は」
「
「はい」
「なにを猶予」
「
「それどころでない。
「正成の身、たとえいかような罪に問われましょうとも、その儀はいといません。ただ何とぞ以て、いま一度の御評議でも」
「何と、物の見えぬ
と、公卿たちは一せいに立った。
そして声のない笑いを正成の背へ向けながらみな去った。