「蒲団は||お
船宿のお
息が、白く、冬の夜の闇に見えた。
寒々と
「おう」
と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、
「あの······船のお支度が」
と、女中へ告げた。
上杉家の国家老、
さても見事になあ
振って振りこむ花槍は
雪かあらぬか
さっさ ちらちら白鳥毛
振れさ どっこい
「お振って振りこむ花槍は
雪かあらぬか
さっさ ちらちら白鳥毛
振れさ どっこい
「殿様、おあぶない、肩にお手を」
「||船は、どこじゃ。船は」
「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の
さても是非なや
兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、||なびかんせ
台傘、立傘、恋風に
ずんとのばして
しゃんとうけたる柳腰
「きゃーッ」台傘、立傘、恋風に
ずんとのばして
しゃんとうけたる柳腰
前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。||と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、
「あっッ」
と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、
「||な、何とした事。これやひどい、
兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。||すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。
じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、
(来たな!)
と、
(いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士||かれらの
と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。
「ふいに、驚かせて、失礼いたした。||ちと、お訊ねいたすが」
案外だった。||その言葉のていねいなのに。
のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、
「町方じゃの」
兵部がいうと、
「左様||」と、肩で、
「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の
「存ぜぬ」
と、兵部は、無駄だった気がまえを
「||狂人かの」と、訊ねた。
「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、
「ふむ······それが、女の生首を抱えてとは」
「実は、この堀の涙橋に」と、同心は、兵部の人物と、軽い
「||江戸唄の師匠をしておる、
「む······」
「だが、一方の浪人と、どうして手を
「わかった」
と、兵部は、もう興味がないように、
「それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に」
「かたじけない。御免を」
と、二人の同心は、彼にいわれて、急に手傷の痛みと、場合とを、思い出したらしく、何か、
そこに、腰かけたまま、兵部は、手を鳴らして、
「女ども、女ども」
しかし、誰も来なかった。ただ、気のつよい船宿のお
「は······はい」
と、
「お前は、そこにいたのか。||羽織を脱いで、貸してくれい」
「羽織は、着ておりませぬ」
「いかさま······では、いや、あれにある、
兵部が、指さしたのは、羽織ではない。小座敷の窓に掛けてある、派手な、女小袖だった。お内儀が、それを
「||頭巾には、ちと、
と、
闇が、
初めから||かの女は、知っていた。
それは、役人より早く、女たちの眼を、
けれど、気のつよい、船宿のお内儀の背すじを凍らせたのは、その人影でも血刀でもなかった。||それは、兵部が同心と話している間に、極めて、ひそやかに、ある目的を遂行していた暗闇の動作である。作業である。
憎むが如く、笑うが如く、また泣くが如く||そこに屈んでいた人間は、女の
||そこへ。
「武士のお情け||」
四尺ばかり、進んで、兵部のすぐ後ろへ、ひたと、両手をついた。
「どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん」
「||無事な所まで、
「それは、あまり」
「いや······」と、兵部は立って、
「内儀」
「はい。今||お
「足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ||と、よいか、最前の、
「覚えておりまする」
「そして······」
と、自分の後ろから、小袖を、
「夢||人には告げるな。||わしの浮気を」
「||寒かろう、はいってはどうだ」
中の兵部は、こう、外へ声をかけた。
小袖をかぶったまま、
「何、ここで······。すぐ其処の
「まあ、そう申すな、
それを、
「オッ、寒いっ」
と、思わず、くさめを一つして、小袖で口を
「風邪をひくぞよ、
「えッ?」
男は、そう言った兵部の声を、疑うように、
「俺を、一角と知っているおめえは?」
「うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄を
「あっ、しまったッ」
「何で逃げる。||たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か」
「||面目次第もございませぬ」
屈み込んで、がばと、顔を伏せた。その手を、兵部は、すくい取って、ずるずると中へ、
「清水一角と申したの」
「はっ、御、御意にござります」
「たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年······。あれは、
「もはや、四、五年前、流浪中の事にござります」
「只今も、流浪中ではないのか」
「はっ」
一角は、穴でもあったらはいりたかった。なぜこの人に救われたかを後悔するのだった。
「そちの仕官中に、
「この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お
「見遁せとは」
「何事も、お
「
「立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったが
「それや、無理もない。
兵部は、つぶやいて、
「ひとつ、飲まんか」
「恐れいります。御大身のお
「あとも、
「||だがの一角、もうこの辺が、考え所ではないかの。人間も年三十に近いとなれば」
炬燵ぶとんへ、兵部は、顔を横に当てて、うつうつと、何か考え込んでいるふう。大きな宿題が||苦労が||胸にあるらしい。そういえば、才識に経世に、
で、実は。
この三月でいい出府を、彼は、
上杉家では||いや藩の輿論よりは、太守の綱憲自身が、しきりと聞える、赤穂浪士たちの潜行的な噂に対して、
(もし、父を討たれては)
と、躍起となった。
(そして上杉家の名折れ、謙信以来の武門の恥、どうかせねば)
と、江戸家老の
(
と本所から上野介の身を夜陰、そこに移して、秘密の上にも、秘密を守って、警戒していた。
(大事!
と、兵部は、その、余りにも無謀な||浪士と上杉家との対立を敢てする策に||驚いて国元から駈けつけるとすぐ、綱憲に、その失計を説きたてた。
綱憲も、その非を覚って、兵部の
何よりも、彼が第一に、
(さて、人間はいないものだ)
とつくづく、当惑したのは、上野介の身辺を警戒するにたる腕のしっかりした人物だった。
(剣客などは、いくらでも)
と、ふだんは考えられる江戸にも、さてとなって、求めると、実に、その人がない。
町道場で、相当に、認められている人物でも、ひそかに交渉させてみると、
(吉良の屋敷では)
と、断るのが、多いし、上杉の藩士を
今||およそ兵部の
で||兵部は、そういう点で、ふと、清水一角の名を、思い出した事があったし、また、米沢の国元にも、藩士でさえなければ、眼ぼしいのが、二、三名はいるが······などと
今夜なども、飲めない酒を飲んでまで||また、老いと苦悩の、
(これが、自分が大石の立場であるなら、ふえる
と、心で、自嘲しながら、ふっと、頭をもたげた時、
「||殿様、
と、船が、急に
冷たい杯を置いたまま、じっと、俯向いていた一角が、すぐ首を出して、
「お、着けてくれ。||俺はそこで」
と、立ちかけると、兵部が、
「いや、そのまま、行け、着けてはならん」
と、船を河心へ返させて、一角へ、
「さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船を
「あ······」
一角は、小障子を
船が、
「ちッ、
と、
ゆすり、辻斬、ばくち場荒し。一角の兇状は、一つや二つの首では足りない。
「一歩でも、出て来たら」
と、町方は、意地にもなって、
「千坂の屋敷から、半年でも一年でも、眼を離すな」
と、伏せを
「物騒だが······
と、当の兵部は、召使から邸外の様子を聞いて、苦笑しながら||
「急ぐことゆえ、今宵にも、米沢表へ」
と、あれから急に、旅立つことになった一角へ、
旅といっても、一角は、相変らずな着ながし一枚、もう
「では、いずれまた」
と、貰った編笠を、横に抱いて、書院の縁に立った兵部の姿へ、目礼を。兵部はそこから、うなずいて、
「
と、特に、見込んで||に力をいれて、
「······頼んだぞ」
といった。
ひらりっと、庭戸を押して、一角は、裏門の外へ走っていた。||と、すぐばたばたっと附近から
だいぶ、
「誰か、見届けて来い」
と、いいつけた。
やがて、およそ半日も経って、やっと帰って来た家臣の口から、彼が、難なく町方のかこいを
「||そうか」
と、初めて、ほっと、
「人は使いよう······。一角も、こんどは胆に
頼もしげに、そしてまた、一つの心の負担をも、軽くしたように、
春だが、寒かった。
山の
(四年ぶりだ||)
と、数えながら、一角は、笠のつばを上げて、
そこから、米沢城下の町、川、橋、黒い天主、さまざまな思い出の一廓を見出すと、なつかしさ、などという常人のする感情は、すぐ消えて、
(しまッた。なぜ俺は、
と、いつか、屋根船に救われた夜と、同じ後悔を、ここでも、
「思えば、飛んでもねえ事を、頼まれてしまった」
と、呟いた。
自分では、
「うまく、兵部に抱き込まれた。||だが、どうせ、どう捨てても転んでも、惜しくはねえ体だから、いいようなものの······」
城下へはいった一角は、その翌日、藩の
「どうしたんだ? 一角」
ふたりは、眼を
お互いに、
「まあ、
と、すぐに、
「||風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが」
「いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、
「勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって」
「そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい」
「どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては」
「今さら||」
と、苦笑して、
「実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で」
「そいつは、目出度い話だ、どこへ」
「相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが······。どうだ、乗るか」
「吾々は、藩に籍のある体、そうままには」
「そこは、万々、心得ての上だ。||五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう」
「誰だ、相手というのは。||どこの藩だかそれを先に」
「あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人を
「なに、嘘だものか」
「見てくれ、手金さえ、持って来ている」
「ふふむ······」
「いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。||それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが」
「||つまり、俺たちを、召抱えたいというのか」
「まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから」
「それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが」
「そこが、相談。うん、といえ」
「だが先に||」
「いや、先にゃ、話せねえ。||何しろ、洩れたら」
「では、誓う」
「脱藩をか」
「いや、他言を||」
「友達を、疑いたかあねえが、これだけは。||何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは」
「じゃ、俺は······」
と、
「待て待て。||返辞はいつまでか」
「早いに、越した事はねえ。
「じゃ、
「花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ」
と、一角は、二人に別れて、宿へ帰った。
「なぜ、俺ほど、やくざな人間が、兵部に頼むといわれた時、いやだと、断りきれなかったろう?」
宿屋の一間で、腹ン這いになりながら、一角はまたしても、同じ悔いを、胸の中で、呟いた。
「やっぱり||
ぽろんと、
「お里のにおいが」
と、ぞっと、背中に寒いものを、感じた。
まだ、女の
かっと一時の感情で、自分の手に
「||いけねえ、どう考えても、お里の弟だ。その木村丈八郎へ、
そこへ、女中が、
「おふたり連れで······。
「お、来たか」
あわてて、釵をふところに、
「||通してくれ」
青砥弥助と、湧井半太夫は、
「よくよく、思案してみると、今の世の中では、
と、同意の返答だった。
「有難い、それで俺も顔が立つ」
ふたりへ、百金ずつの金を渡して、
「実は、貴公たちをお
「げっ、あの吉良か」
「表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。||で、妙な縁で、俺が、国家老の
「なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。||それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ」
「それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公||五年という年を限っての話だし」
「もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。||けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか」
「いや、まだ丈八郎へは」
「あれ程、急いでおるのに」
非常な苦痛のように||
「丈八郎へは、貴公たちから、
「む······話してもよいが」
痛いものを
「たのむ、是非」
と、一角は言った。||ほんとに、腹の底から、頼む、という語韻で、
「実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ」
「何か、弱味でも、あるのか」
「丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里」
「ム。米沢きっての美人だった。||不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる」
「今さらいうのも、
「えっ? ······。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か」
「川
「ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか」
「そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと」
「なるほど、尤もだ。||そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、
「だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。||行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に」
「いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで······。それよりは、吉良殿の方の一件を」
「すぐ、行ってくれるか」
「吉報を、待っていろ」
翌日は||と首を長くしていたが、沙汰がない。次の日も、二人は、見えなかった。
「こじれているな、話が」
そう感じて、一角は、なお二人から返辞のいいことを祈った。自分の役目ばかりでなく、もし、兵部の秘策を明かして、先が、聞き入れない場合は、首にして、帰らなければならないからだった。
「お里を手に
と、考えると、祈らずに、いられなかった。||どうか、難なく、丈八郎が、吉良家へ身売りする事を、承知してくれればいいがと。
「そうだ、返辞を待っている間に」
顔を、笠でかくして、彼は、急に思い立ったらしく、宿屋を出て行った。
すぐ、分った。
城下の南郊、梅が、ふくらんでいる。生前に、お里から聞いていた木村家の
「む、ここか」
と、探しだした、一つの墓。
あたりを見廻した。||
今日まで、肌に、抱いているにも、捨ててしまうにも、気にかかって、このまま、なお持っていると、病気にでも取ッつかれそうな気がしていた
悪夢を、封じたように、
「ああ、これで、さっぱりだ」
と、一角は、
春の雲が白い。||紅梅が紅い。
からん、からん、と笑いたいように、心が軽くなった。
「気一つだ」
だらだらと、丘を降りて来た。
すると||
「オヤ、何処かで?」
と、初めは、そんな程度の注意だったが、両方から近づくにつれて、
「やっ?」
何ものかに、押し返されるように、彼は、たたたと、後へ戻った||いや
「不思議だ、お里が来る、お里が?」
||と、一角にしては、おかしいくらい、あわてて、顔いろさえ変えて、呟いた。
「丈八郎という男は、今時の、若いに似あわぬ
宿へ帰ると||青砥弥助に湧井のふたりが待っていて、一角の顔を見るなり、こう言って、
「どうする?」
と、彼の決意を聞くのだった。
「じゃ、兵部様の腹中を、
「少しは、
「しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。||貴公たちは、先へ、
「承知した」
その晩のうちに、湧井と青砥は、脱藩して、城下から姿を消してしまった。||軽輩だけに大した余波もないらしいが、一角は、後に残って、これからが、仕事だと思った。
(丈八郎を、
に、彼は、迷った。
五日目ぐらいには、宿をかえて、宵になると、番士小路の木村丈八郎の家の附近をうろついていた。丈八郎は、米沢城の
(討つ気なら、
一角は、そう考えたが、毎夜のようにのぞく彼の家に、留守をしている二人の
「成程、青砥弥助が言っていたが、この家は、美人の
と、感心した。
自分と逃げて、江戸で終ったお里は一番娘であった。そのお里に、まるで、生写しに、似ているのが、いつぞや、墓地で見かけた、二番娘のお八重。||三番目のお
「||どう見ても、お里そっくりだ。いくら
墓地で、ふいに会った時は、場所も場所だし、自分の気持も、妙に尖っていたので、そんな心は出なかったが||。
夜と、昼も、彼はお八重の顔を頭に描いた。||お八重か、お里か、けじめのない一つの眸が、いつも、彼の前にちらついた。
「はてな、俺は恋を? ······」
一度思った女は、きっと、命がけでも取ってきた一角の経験と興味が、また、春と一緒に、胸の中に、頭を
だが、恋はしても、恋には悩まない一角だった。いや、悩んでいる時間すら持たない男だった。

「お里どの。お里」
と、呼びとめた。
「え?」
案のじょう、お八重は、びっくりした眼を、彼に向けて、
「||姉の名を、お呼びになって、貴方様は」
「や、人違い。||余りよく似ているので」
「どこかで、お見かけしたような?」
「四年ほど前に、浪人した清水一角」
「あ、よく姉がお噂をしていた······」
「そのお里どのが
「姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に」
「えっ、死んだ······。それは、ちっとも知らなかったが」
「私たち
もう、美人薄命が真に近いように、美人は
人なつこい||柔らかな感じ。そして、男のことばを、怖ろしく、異性的にうけて、
「これは、思いのほか、手なずけ易い。······それに出戻りの女は」
と、もう甘い香を||雪国の女の特有な肌を||官能の中に
「いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし······」
「ええ、どうぞ」
「また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては」
「丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。······お信はいても」
と、お八重の求めている気持は、眼で分った。一角は、編笠の中に、暗い笑みを、
「では、近いうちに」
と、彼女を、辻に捨てて、ぷいと横丁へ曲がってしまった。
渡り鳥が、夜ごとに空をよぎって行く。
「
一角は、つぶやいた。
反撥のある、妙に強気な、江戸の女を知ってから、お里に、不足を覚えたように、そのお里に似ているという、ほんの、軽い出来心だった彼の
「俺も、物好き」
と、彼を、微苦笑させた。
美人にはちがいないが、お八重は、
「旦那様、あの、お手紙が」
宿屋の女中が、取次いできたのを、一角は封をきらないで、
「少し、風邪ぎみで、寝ているといってくれ」
すぐ、お八重の文字と分るのであるが、||一角は、五、六度の遊戯で、もう何の感興も燃えなかった。同時に、この頃は、前のお里のことも、ふッつりと、頭にこだわらなくなった。
「べら棒な。||ほかに男をこしらえた女、俺が手に
明くる日もまた、女中が、
「旦那様」
「また、手紙か」
根負けがして、彼は、次の夜にお八重をたずねた。||しかし、
「丈八郎に出会ったら一討ち!」
と、むしろそれを、希望していた。
が、その夜も、丈八郎は留守で、裏の木戸には、末娘のお信が立っていた。この
お八重は、彼を見ると、
「まあ、憎い······」と、
「あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで」
「いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ」
「でも、返辞を書くぐらいな事······。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう」
ああ、平凡だ。
でも||
すると、外にいたお信が、
「あっ、兄様が!」
ばたばたっと家の中へ、駈けこんで来て、姉へ告げた。
「帰って来ました。兄様が」
「えっ、丈八郎が」
お八重は、ふるえ声で、
「あなた。はやく······。裏口から」
一角は、うごかなかった。後ろの脇差へ飛びついて、片膝を立てたのみである。お八重は、顔いろを||身の置場を失って、意味の聞きとれない言葉を発しながら、一角の手をつかんで、無理に、
「ここにいては。裏! ······あっ、いけない、そこの
一角は、その手を、振り払って、
「||
途端に。
ばさっと、庭先の
「||おのれっ、一角だな」
「おっ、木村丈八郎か」
「人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ||」
と、
(この男か)
と、一角は、そういって、ジリジリと前へ迫ってくる鋭い
(······ウーム、なるほどできるな)
直感的に一角も、ぴりっと、構えを、
「丈八!」
と、威圧的に、あびせて、
「いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう」
「だまれ、この場合に。||それを問うのではない、何で! 何の用があって! 女ばかりの留守を
「それは、てめえの姉に
「な、なにっ」
「しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損||まあ、それは後の裁きにまかせる。||俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえに
「恥知らずめ」
丈八郎は、憎悪そのものの眸を、
「不義を見つけられて、居直る所存だな」
と、
あざ笑って、
「てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、
「賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、
「では、どうあっても、嫌か」
「とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ」
「待てっ。||俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには」
立つ||同時に、
「丈八郎、命はもらった」
と、
風を切って||横に。
ばすっと、丈八郎が一角の出ばなを
「あっッ······兄様っ」
「お信、あぶない」
「やめて! やめて!」
「ええ、邪魔」
と、妹をつき倒して。||
「さあ、来い一角」
「おう、
「何を」
ち、ち、ち、ち······と刃と刃の先が鳴り合った。
押す。もどす。||丈八郎は、
(この顔ッ)
と、真っ向を睨んで、斬りつけた。
だっッと、一角は、退がった。背なかを、
(しめた)
と、丈八郎は、盲目的に、躍って、
(それは柱だっ)
と、
丈八郎の刀は、
ウーム······と、誰か、分らない
ウウム······と、二度目の苦鳴を聞いたとたんに、
「あッ||お信が」
と、発狂したように、お八重がさけんだ。
丈八郎も、一角も、はッと気を抜いて、
「おうっ?」
と、跳びひらいたまま、一瞬、
「妹の仇っ」
と、
「||動くなっ、そこを」
と、小脇差で、突っかけた。
組長屋である、裏の屋敷でも、隣でも、深夜の物音にさわぎ出した様子である。一角は、書院窓を蹴やぶって、縁から、飛び下りた。
盗賊。||盗賊。
そんな声が、八方に聞えて、彼はよけいに戸惑ったが、うしろから、
「卑怯ッ」
と、よぶ丈八郎へ、
「後日っ」
と、言い返して、木戸へ、肩をぶつけて突き破るがはやいか、地を躍って、深い闇へ、
「||斬られたと? だ、だれが」
「盗賊ではないのか」
「灯りを。||どなたか、灯りを先に
組長屋のものが寄って、そこに、ぶち
勝手口の戸が一枚、開いていた。||恥かしい! と丈八郎はくちびるを噛んだが、人々が、驚きと、
「||助かる。背すじだ、
来あわせた老人が、お信の黒髪を、膝にかかえ入れて、
「た、助かるでしょうか」
「切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。||
「お信っ。お信っ······」
丈八郎の眼はうるんでいた。
医者がくる。お信は、意識をひらくとすぐ、
「姉さんは······」
と、ほそい声で、訊ねた。
「そんな事、訊いてくれるな」
夜具の下で、手を握りあって、丈八郎とお信は泣いた。||
(お八重さんが見えない||)
(男と逃げたらしい)
組長屋から、家中へ、そんな噂が、ぱっと立った。
傷は、日にまして
「兄は留守がちだが、お前は、いつも家にいたのだ。あの一角と、姉と、不義のほかに、何か
丈八郎が、ある日、こう問いつめると、
「いいえ」
と、お信は、首を振った。
「ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、
「そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない」
「じゃ······」と、お信は、考えて、
「何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ」
「む······」
「一番上の||お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか」
「えっ。どうして」
「でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。||それでも||殺されても
「不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡
「いいえ、嘘です。||それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです」
「どうしてお前は、それを、はっきり言える」
「お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀の
「お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて······」
「だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが」
「血だなあ」
丈八郎は、ほっと、重い吐息をついて、
「||争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。||お信、その釵はここにあるか」
「いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません」
「そうか。······いやそうだろう。あの銀の釵なら、
「兄様。いま仰っしゃった
「
夜具の襟が、さめざめと、ふるえるのだった。丈八郎は、
「泣くな」
と、
「おまえと、わしは。······おまえと、わしだけは。ほんとの武士の子だ、武士の娘だ」
と、蒲団ぐるみ、抱きしめた。
そこへ、裏町の||軽輩な家中へ内職の
「丈八郎殿、貴公、とんだ
と、尖った
「何事ですか、この、丈八郎の
「貴公、清水一角から、金を取っておるか」
「ばかな」と、一苦笑に、
「なんで、
「ところが、世間は、そう視ておらん。||例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の
と、硬骨老人も、そこだけは、少し、遠慮していうように、
「||一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておる
「ウウム······左様でござりますか」
「処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。||わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに」
「あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と······」
「いや、逃げるといったのは、わしが悪い。
「は」
と、丈八郎の眼が光った。
「一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それより
「有難う存じます。よくこそ、御注意を」
で、||なくとも、燃えるような憎悪。血こそちがえ、姉の
彼の家も、それから、ここ二、三日の後には、住み手のない空家となった。まだ、
「若いな。······は、は、は」
その二人を、門口から見送った朝、何か、意味ありげに、こう笑って、
(おや? ここでも会った。||妙に何処でも会う老人)
と、思うまに、
(おや)
と、いう眼いろを
涼しい木蔭では必ず会う。酒を売る所、三味線のある所、この老人に、出会わないことはない。
「駕屋、一汗拭け」
「ありがとう存じます。||旦那あ、短気だから
「
松の根がたに、駕を置かせて、ずっと日蔭へはいると、さっきから、馴つッこい顔を向けていた
「おっと、と、と。旦那あ、其処は」
「なんだ」
「よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、
「そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう」
「はははは。
「二、三度、
「旦那も、覚えておいでになりますか」
ぷっと、
「足かけ
「何屋だい||老人は」
「どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが」
「そうだな······。
「さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います」
「薬屋でもなし、呉服屋でも」
「だんだんお近くなりますな。実は、その辺||
「繭買か。なるほど」
「いやですぜ、顔を見て。||顔がさなぎに似ているなんぞは」
「人間のさなぎは、
と、自嘲をうかべた。
「
と、銀六老人は、首を振って、
「どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした」
「ひどく、感心するな」
「いたしますとも、真昼、北上川の
「よくねえ
「は、は、は、は。それからまだ||福島から来ていた後家殿を何して」
「もう沢山」
と、
「亭主、代りを」
しゃべっているまに、軽く五合はのんでいる。
近頃は、酒が、水みたいに飲めるのである。
(
と、一角は、自分で自分の早い転落を、あきれた眼で、ながめられた。
(人間も三十に近いとなれば||)
と、心機の一転を啓発されて、江戸を、立った頃は、もう底まで行ったやくざ者と、自分の
(
と、腐ってゆく、身の
第一の原因は、木村丈八郎の話の不調。それから、こっちの密策が洩れたこと。お八重が、うすうす自分とお里の秘事を知ったらしいこと。清水一角ともあるものが、罪もない小娘を、
一つも、いい事はない。
(千坂兵部へ、何といって、顔をあわせよう。||見込んでといわれて、米沢へ。||ああいけねえ。男が、男に、見込んでといわれる程、苦手なものはねえ)
で、つい||
(ままよ)
と、酒。女。||若い骨が、腐るまでと、五十年の道中を、たった、三月か半年に、縮めようと努力している一角だった。
「どれ、そろそろ」
と、腰を上げると、
「今夜は、白河で」
「いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう」
「ついでの事に、夜旅をかけてもいい。
「行くか、
異存はなかった。
駕へ、酒をつませて、今市を指して飛ばした。夜を越して、草露に濡れた駕が、へとへとに疲れて、酒と白粉の宿場へ、
三日ほど遊んでいるうちに。
「驚いた
と、繭買の銀六老に、一種の尊敬をもってきた。
「なぜ、おめえは、
と、一角が、上わ唇を
「あいつが、楽な商売に見えますかい」
と、老人は、一蹴に答えて、
「それよか、旦那あ、なぜ一本ですむ物を二本差して、
女たちが、話の深味を、はきちがえて、
「
「そうそう」と、老人は、膝を打って、
「陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな」
「行こう」
思い立つと、すぐだった。
気まぐれではない||ここの払いをしてみると、一角は、もう底の透いてみえる持ち金に、少し、心細さもあったのである。
あぶら
「馬鹿なやつじゃねえか。あれが、ほんとの、
香りの高い
「ふふむ、あの浪人者か。山の
「
「だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな」
「先へ行く路銀も失くなったんだろう。
「
連れの銀六老人は、いつともなく、別れたものと見える。
「ううむ······」と、寝返りを打って、あぶなく、板束の上から、転がりかけて抱きついた。
「
職人たちは、べっと、
「おう、何をしているんだお八重、はやく来ねえか」
向う側の参道並木||杉や
板小屋の横をのぞいた女の顔が、それへ、あわてながら、
「はい、今すぐに||」と、答えながら、一角の寝すがたへ、何か、結んだ
ひら、ひら、と白い結び文は、
今、眼をさましたのか、寝ているはずの一角の眼は、赤く濁った眼を開いて、じっとそれを見ているのだった。今、通りすぎた
やがて。
むっくりと起きて、それを拾った。読むとすぐ、裂いて、
「ああ、喉が
と、まだ幾分か、
風が、山をうごかしてきた。喬木の
「ちょっと伺います。||職人衆、仕事のお手を止めて、恐れ入ります」
仕切帳でも包んであるのか、小風呂敷を腰から前へ結んで、矢立に、道中差、
「||来るぜ、ひと夕立」
と、
「なんだい。物売りなら、
いい加減に、答えていると、
「いえいえ、てまえは、
「
「おい。邪魔だな、あぶねえぜ」
「はいはい、相済みません。||その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらと
「知らねえよ、一角なんていうな」
「でも、
「
「やがて三十近い||どこか
「じゃ、あれじゃねえか。
「えっ」
と、身をかわすように、縮布屋は飛び
「||何処に?」
「おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか」
すると、一人が、
「あの浪人者なら、たった今、町から
「え、宇都宮の方へ。||そうですか、いや大きに」
縮布屋の手代は、そう聞くと、笠を持ち直して、まっしぐらに、
「あっ兄様。ここに」
と、十五、六の順礼娘が、
「分りましたか」
と、側へ駈けてきた。
「おお、お信。よろこんでくれ」
と、息の弾みにも、その欣びを
「相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっと
「ほんとに、不思議な。||今朝
「いや人間の字だよ」と、
「お前は、そうして順礼姿、わしは、縮布屋の丈八と身なりまで変えて、こうして相手の一角を
ぽつと、雨が、顔に触った。
「オオ」と、丈八は、落着かない眼を空に、
「今、普請場できいた話には、その一角は、たった今ほど、宇都宮の方へ行ったというのだ。||お前は女の足、わしと一緒には、駈けきれまいし、といって、ここで一歩の差は、百里の差になる。······ああ困ったな」
と、
すると、さっきから、森の薄暗がりに、黙然と腕を
「丈八さん、お信どのは、わしが預っておる。そんな事に、気をひかれずに、早く相手を追ッて行きなさい」
「やっ、御老人」
と、丈八はびっくりして、
「あなたは、米沢の裏町にいた||」
「まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、
「もしや、ゆうべのお報らせは」
「実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、
「存ぜぬために、お礼も申さず」
「いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。||だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては」
「では、お信は、まだあの
「ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける」
「安心しました、それでは」
「一角も、剣を把ると、名だたる
「その儀は」
と、初めて、明るい一笑を投げて、丈八は、宙を
みだれる雲||
× × ×
「あっ||傘が」
と、
び、び、び、と傘の耳を鋭い風の
お八重は、今市の茶屋へ、出たばかりな女だった。道中悪にかどわかされて、そこへ、捨て売りにされただけに、
(どうだ、景気は)
などと、そのお八重を連れて、二人で、見せびらかしにでも歩くように、
で、一角とも、場所で、二度か三度は、会ったはずである。||だが、お八重は、

きょうは、細尾の身内に、祝い事があるので、山を降りた。お八重は、それをどんなに待ちかねたろう。酉兵衛が、駕でというのを、何のかのと、歩かせて来たのも、彼女の考えからだった。
「みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか」
「でも、相傘なら、いいじゃありませんか」
傘の蔭から、お八重は、時々、後ろを気にしていた。そして、跫音を感じると、
「あらっ」
と、不意に、傘の手を離して、それを、追うように見せて、身を
「あぶねえ。
雨に、眼をつぶりながら、振向いたとたんである。
「何をしやがる」
「かッ!」
蓑を
「ウーム······」と、真ッ赤なものを吐く
どぼうん||と大谷川に、
激流は、人間の血あぶらと、背なかだけを見せた丸っこい死骸とを、一瞬のまに、流して行った。
「しばらくだったなあ······」
一本のやぶれ傘の中で、
きょうまで、どんなに苦労をしたろう、探したろう、そして、寝る間も||というような事を、女は、雨も
「金は」
一角は、お八重が、いい加減、言いくたびれるのを待って、
「||持って来たろうな」
「金なんか······。江戸へゆけば、思案の上で、どうにかなるでしょう。路銀さえあれば」と、帯を、ちらと覗いた。
「じゃ、支度をして来なかったのか」
「ええ。······だって、とても
女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、
「でも、私は、嬉しい」
と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。
(馬鹿。馬鹿。馬鹿)
自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。||まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが!
(金なのだ。俺がいま欲しいのは。||江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体)
だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている||
「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、
「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」
「そんなに、この頃は、飲むのですか」
「半日も、
「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう
一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。
「あら、何処へ」
「居酒屋だ」
戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、
ぐうっと、眼をねむって一息に||
「おお、
一升の
「オイ。銭を払え」
お八重が、帯の間から数える小銭を見て、彼は、さらに、女の貧しさを憎んだ。それは、二晩の
「面倒だ||
さすがに、
「濡れますよ。傘の中に、はいっていないと」
「ええ、小うるせえ」
と、女の手を、肩を振って、振り落して、
「||てめえは一体、どこへ行く気だ?」
「あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから」
「だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。||ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ······」
「清水さん。おまえ、それは本気で」
「本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ······。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。······へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も······は、は、は」
「何が······何がおかしいのですえ。······じゃ清水さんは、初めから私を」
「あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、
「な、なんですッ」
「おっ||あ、あぶねえ、食いつくのか」
「口惜しいっ······。く、口惜しいっ······」
「泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。······おお、何か落ちた、
お八重は、雨の中へ、手をのばして、
「あ······姉さんの
「姉さん?」
「||堪忍して、堪忍して」
と、拾った小さい物を、抱きしめた。
ぎょっと、彼女の手へ、一角は||酒と血とを、交ぜたような、どろんとした眼を、すえて、
「何だ? ······それは」
「
「畜生ッ」
雨が||きゃあッ||という悲鳴を吹き
小脇差で、たった一打ちに、お八重の首を、ぶらんと、斬って伏せた一角は、どっどと、
どこの追分で、道をちがえたか、それとも、裏街道と、早まって、先へ追い越してしまったのか、
江戸らしい。どうしても。
あらゆる物証からも、六感からも、丈八はそう教えられて、日ごとに、江戸中を探していた。
初秋の二百十日過ぎ。||町には、祭りの
「御用っ」
左衛門橋を、ばらばらっと人が||声が飛んでった。
砂利場の砂利に、腰を下ろして、
(銀六老人にも、あのまま、別れっ放しだが、お信は、守っていてくれてるだろうか。あの物堅い老人ゆえ、安心は安心だが)
と、すこし疲れた面もちに、考えていた
「何か?」
と、橋の跫音に、顔を上げた。
とたんに||一箇の物体が、視線をかすって、橋の袂から、河へ。||と思うと、どぼうんと、白い
「石?」
と、丈八は、思ったが、橋の
「飛びこんだ、飛びこんだ」
「あの辺に||」
「水がうごいている」
わいわいと、指さしているうちに、町方同心が、指図をする。捕手たちが、そこらの舟へ飛びうつる。
「||はてな?」
丈八だけは、その人々が、みんな視力の錯覚にかかっているように見えた。で||何気なく、そこを離れて、
ごくッ······と、丈八は、
場所||地の理||
どこの仮巣へ帰るのか。
祭りの赤い宵空に、夕月の映るを見ながら、竹屋河岸の酒屋の軒ばを出て、ぶら、ぶら、と
(よしっ、今だ)
と見て、丈八が、
「待てっ。一角っ」
と、するどく、ぶつけて、
「だ、誰だ」
「酔をさませ。木村丈八郎だ」
「来たかっ、丈八」
「米沢への江戸
「ばッ、ばかなッ。······わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、
「だまれ、姉の怨みも」
「それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ」
「何の」
「くそうッ」
ちかッと、青い夕月の光が、脇差の刃に
だっッ、と足で
(不覚)
と、丈八は、
(おのれっ!)
と、払ッた。
びゅっと、風の立つような勢いで、一角は後へ跳んでいた。でも、切っ尖は、彼の
とたんに丈八は、見事に五体を、抛られていたのである。本能的に、刀だけは、ぴたっと、前へかまえていた、そして、一角はと見ると、大刀は抜かず、小脇を払って、あれが、ほんとの一角の眼か||と見られる
「止めろっ。おいっ! あぶない!」
突然、誰か、こう呶鳴った。
そして、一角のうしろからも、丈八郎の後ろからも、むずと、抱きすくめた者がある。
「や、
「おう、
丈八郎も、一角も、同じように驚いた。そして、互いに、叫び、
「待てっ、
と、二人は、必死に制した。
「え。千坂様が」
さらに、意外に
「駕、駕」
と、桐ばたけの蔭の灯を呼んだ。
飛んできた、町駕が二つ。||湧井は、無理やりに、
「さ、はいってくれ。討つとも、討たれるとも、とにかく、話はお屋敷で」
その後に
「||早く、早く」
と、湧井半太夫と、青砥弥助とは、駕を
祭りを見せるといって、
「さ、見つかった」
と、
「はてな、何処へ」
と、遠ざかった駕を、必死に、追いかけて行った。
だが||それがやがて、千坂家の表門へ、駕通しに、ずっと呑まれてしまったのを見届けると、
「ああ、しまった!」
と、何もかも、
「どうも、しかたがない。||やはりそれだけ、千坂兵部の手が大きいのだ。お信さんや······」と、振り向いて、
「お前も、いろいろ、苦労をしなすったね。だが、これからは、大きな人物のふところで、雨にも、風にもあたるまい。木村丈八郎の妹だといって、そこの家をたずねなさい。······何、わしかい? わしはまあ、遠慮しよう。じゃ、御機嫌よく」
と、お信を置いて、それなり、風のように姿をかくしてしまった。
本所松坂町の吉良家の侍部屋で、もう一年と幾月かを、思わず暮してしまった丈八郎は、
(なんと、人間は、ふしぎな生きもの)
と、感ぜざるを得なかった。人がではない、自分がである。自分の変化がわからないのである。
一つ釜の飯の同化力はおそろしいものだ、と思った。||この、吉良殿の首番としてごろごろしている侍部屋には、今、十一人の剣客がいる。自分もそのひとり、清水一角も、その一人だ。
「||たのむ。お家のために、吉良殿ではない、上杉家の
あの、
「私怨は、わすれてくれ。わしが、たのむ」
と、手をついたではないか。手を。
(
丈八郎は、
(一角とは、桐ばたけで、
と答えたのだった。
ところが||初めは、朝夕に、顔をみるさえ、影をみるさえ、むらっと、殺意に燃えた一角が、誰より、一番ふかい自分の友だちになっている。一つ釜の飯の感化なのか、今では、憎もうとしても、憎めない。
「さあ来い。酒を賭けるか」
と、
「よく、無宿者が集まりやあがったぜ。ここは、人間のさなぎが寄った無宿人の国だ。どうだい、今日は、おれが、貸元になるから、無宿者の真似をして、遊ぼうじゃねえか」
飲むか、寝るか、女ばなしか、する事がないので、大びらに、
「左様な事は、相成らぬ」
とも、いえなかった。
丈八郎は、たった一つの希望、お信のことだけを、時折、思いだしたが、その将来は、千坂兵部が誓ってくれている。何の、思いのこす事はないのである。
(いつでも)
と、死を待つ、さわやかな気持が、非常に、彼を自由にした。どんな
||殊に一角に対する考えは、前とは、まるで変っていたし、一角も、やや心の落着きと、その居所を得たというのか、だいぶ、
「雪だ」
というので、まかない方へ、
「こん夜は、
と、それを、十一人でとり囲んで、ぐっすり寝込んだ晩だった。まさに、十二月の十四日である。
屋根の雪なだれ||かと、思っていた物音に、耳をすますと、陣太鼓。
がばっと、真っ先に、一角が、
「丈八郎」
と、蒲団を
「起きているか」
「お······。いぶかしいぞ」
「来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た||俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ」
もう、
「赤穂の浪士、何ほどのことがあろう」
「丈八郎! 俺と一緒に働け」
一角は、一枚の雪戸を蹴ってさけんだ。眼を
裏門、表門。||室内へ、庭口へ。
烏のような人数が、どっと、なだれ込んだ。誰が将、誰が
一角は、
「丈八郎、いるか。||丈八郎」
と、たえず、彼を呼びながら、
「けなげな、赤穂の浪人、清水一角のいるからには、ここは一歩も」
と、奥書院にかよう、中門に立った。
「推参ッ」
と、
「うぬ!」
だっと追って、片手に大刀を、左手に、小脇差をもって、飛びかかった。雪をもった、松の梢が、間へ、ばさっと落ちた。
「
それを、ささえるように、がっしりと、武装をした一人が、さけんで、
「||赤穂の旧藩士、
と、槍をくりのばした。
「何ッ」
ふと、声に覚えがあったので、片手を、上段に、ふり向いた一角は、
「あッ? 老人」
と、ど肝を抜かれて、叫んだ。
敵は、笑って、
「
「さては、老人、赤穂の廻し者であったな」
「むろん、米沢あたりにも、一人や二人の
「おっ、よい敵だ」
半弓の矢が、どこからか、飛んで来た。二、三合、刃まぜをする間に、奥田孫太夫は、あっと
「残念ッ」と、いいながら、雪の上に、腰をくだいた。
「弱いぞ、銀六。||いや奥田老人」
振りすてて、走り去ると、奥田老人は、
「卑怯卑怯、返せ、一角」
と、どなった。
乱れ髪に雪を||全身に血を、浴びて、一角は、斬りまわった。もう、白い雪と、赤い血としか、何ものも見えなかった。人影と見れば、双方から、ぶつかッて、刃をあわせた。
「||おッ、そこにいたか」
池のふちに、苦戦の丈八郎を見出して、
「||助太刀ッ」
と、味方へ、気勢をつけて、その群れへ、斬りこんだ。
誰か、雪を真っ赤にして俯ッ伏していた赤穂方の一人が、ふいに見た、一角の足を、刀でなぐった。
「ええッ、
しきりと、室内から、半弓を射て、味方を助ける者があった。||また、ひと群れが、庭木戸から、押しもどって、どっと、雪が、まっ黒になるほど、
「丈八······俺を······丈八······俺を······」
そこを、斬り破って、刀を杖に、よろめいてゆく一角の顔は、もう、あらかた血と、青い皮膚だった。
木村丈八郎の腕を、自分の脇の下へ、かたく抱きこみながら、
「さ。······どこか。······何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を······斬れ······。斬ってくれ」
「しっかりしろ! 一角、まだ、まだ」
「いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。······貴様だって······立派だ······立派に頼まれただけの事はやった。
「もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。||二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角」
「いけねえ。······それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、
彼は、雪をつかんで、
「||赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、
「ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身||」
「よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。||千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ!」
丈八郎は、初めて、一角の眼に、涙というものを見た。口へ押しこんだ、雪をかみながら、濡れた
「······さっ、斬れ、おいっ。頼むから、きれいに、