大阪にて 喜多村緑郎
『明治のおもかげ』という随筆を書いたから、序文を書け、という手紙を留守宅から回送して来たのだが、日も迫っているし、旅にいる身の、内容を知るすべもない。しかしいずれの方面に筆をとられたものとしても、これこそ作者独得の
擅場、充分
蘊蓄を
披瀝されることを望ましく思う。単に『明治のおもかげ』という題名を聞いただけでも、わたしに取っては
頗るなつかしい極みである。
そもそも、
金升君との雅交の始めは、わたしが二十一の年だったから、顧みると既に六十年を越している。
······勿論いまだ役者などになっていない時なのだった。その頃、松永町の鶯亭庵へ集った
······というより押かけていた八人組という、われわれの群れがあって毎日毎夜といっていいほど、真剣に雑俳研究に没頭したことが
想い出される。
······それも
何んだか、きのう、きょう、のようにさえ思えてならない。それは、わたしが
下総の店から東京へ帰って、
浅草の
三谷堀、待乳山の
裾に住っていたころで、
······それにしても八人のうちでわたし一人が何んの仕事も持たない
風来坊だったから、それこそ雨が降っても風が吹いても根気よく、松永町へ御百度を踏みつづけたものだった。我家といえども親がかり、毎夜のこととなると、そうそうおおっぴらに
叩き起す気力がなくなって、
立竦むことが多かった。
落語に、商家の子息が
発句に凝って締出しをくう、と、向うの家の娘も
歌留多の集りで遅くなって家へはいれない。そこで同情して、男が誘って
伯父の処へ泊めてもらおうと行く、意気な伯父さん
早合点で、「よく取ったよく取った」
······こんなことで二人の縁が結ばれる。
噺の方は色気があるが、
此方はお色気には縁の遠い方だった。だが色っぽくないことは、八人組も
御多聞に
洩れないのが多かった。いずれも情歌の作品には情緒
纏綿という連中だったが、茶屋酒どころか、いかがわしい場所へ足を入れるものは
殆ど
尠なかった。この点、庵主金升もその主義だった。正に
稀らしい
寄合といえる。だが、家のものとしては、年頃でいて、のらくらと
夜更しの連続では、愛想をつかす方が
尤もと思うと、
雨垂れほどに戸も叩けず、すごすご近くの
聖天山で夜を明かすのが例にさえなった。
······いろいろと
隅田川の夜明けの景色だけは深く身に
沁みて今になお忘れない。
昔日の夢を序にかえる。