風の寒い
勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。
やや茶色がかった皮膚には健康らしい
勝子は
すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。
まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。
勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。
そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。
が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かつた。
彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。
街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。
彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。
明るい電燈の
すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸
そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。
もはや彼女は黒い外套の男が、自分の跡をつけていることを疑わなかった。けれども何が目的で跡をつけるのであろう。一体彼は誰であろうか。
だが、橋を渡って停車場の前まで来ると、とうとう男が追いついて、
「失礼ですが、ちょっとお話がしたいのですが」
勝子は男の態度が意外に丁寧だったので、やや
「あなたはどなたですか?」
こう勝子が訊いた。
すると男はどう切り出していいか迷っているらしく、暫らく黙っていたが、落着きのないおどおどした調子で、
「私は
こう云う彼の言葉に、ほとんど哀願的と云っていいほどの熱心がこもっていて、息使いを
そして不思議にも、勝子は相手のどぎまぎしているのを見ると、
「なんでございますか、大変なお話って?」
「一口には云えないのです」
「なんですか?」
「順序を追って話さなくては解りません。寒いですから歩きましょう。歩きながら話しますから、公園の方へ行きましょう」
勝子はこの狂人のような男と別れて、早く停車場へ入りたい気がしたが、なんだか大変な話と云うのが気にも懸るので、
しばらく二人は黙っていた。
まず重くるしい沈黙を破ったのは勝子であった。
「大変な話って何ですか?」
「私は宮地銀三と云いまして」と、男は二度目に自分の名を繰返して、「友人と二人で郊外に宮地製氷所と云う小さい工場を持っている男ですけれども商売のほうは、この頃は友人にまかせきりで、私は一日の大部分を散歩についやしているのです」
「散歩?」
耳を疑うように勝子が問いかえした。
「ええ、散歩についやしているのです」
「なぜ?」
「なにも考えず、街をぶらぶら歩きながら、通りすがりの人の顔を見るのが私の道楽なのです。私は絵を見るよりも骨董品をつつくより、いろんな人の顔を見て歩くのが好きなのです」
「まア!」
おどろいたようにこう云って、彼女はくすくす笑うのであった。
が、男は彼女が笑うのには頓着せず、低い力のこもった臆病げな声で続けた。
「日本人の顔も悪くはないが、本当に陰影があって面白いのは外国人の顔です。ことに白人や印度人の顔はいつまで見ていても
「失礼ですが御用事と云うのはなんでございますか? あたし、早く帰りたいのですけれど||」
「いや、これが要点に入る前置きなのです。前置きなしには話せない。だしぬけに要点を話したら、
こう云って、男が口を
二人はいつのまにか、静な夜の公園を歩いていた。
しばらくして勝子が独言のように低い声で、
「わかった!」と呟いた。
「なんですか?」
「あなたは私の顔に興味をお感じになって、絵をかくためにモデルになってくれと仰有るのでしょう?」
「いいえ、少し違います。まア、もすこし辛抱して聞いて下さい。私は夜なぞじッと自分の顔を鏡に映して見るのが好きです。そして長い間、自分の顔を見ている中に、私は自分の運命を予言できるようになりました」
「どうして?」
「予言と云うのは少々
「死の相でも表れていたのですか?」
「いいえ」
「ではどうして?」
「私はあなたの顔を一目見て、これが私の妻となる人だと知りました」
すると勝子が静な夜の空気を震わして、だしぬけに高い声でからから笑い、笑い終った時にこう訊ねた。
「あなたはブレークのようなことを仰有るのね。あたしの顔のどんな処を見て、そんな判断をなさったのです?」
けれども男は真面目であった。寒いのに額の汗をハンケチで拭きながら、声を顫わして云うのであった。
「ブレークの場合とは違います。彼は突発的に妻を直覚したのですが、私のは今日だけは直覚でも何でもない。実は以前に幾度もあなたを見たことがあるのです。今夜はじめて見るのではないのです」
「どこで見たのです?」
「幻で見ました。私には随分前から、時々自分の妻の顔を見ようと思って、静な部屋で眼をつぶる習慣があったのです。すると私の眼の前に、何時も同じ幻が現れて来ました。それは右手に高い黒い倉庫のような建物があって、あたりが黄昏のように暗いのに、向うの空が青く晴れて、その空を背景にして、一人の女が立って、私の方を見ながら招くように微笑しているのです。私はその女の顔をいつでもはっきり見ることが出来ます。
彼女は何と云っていいか解らなかった。男の云うことは常識ではとても信じられないが、それかと云って、彼の態度や話の調子から判断して、
彼女が黙って聞いていると、男は調子にのって何時までも
どうせ聞いていても、別に損になるわけではないと思って、勝子は狐につままれた心地で、ただぼんやりと、恰度波に揺られる気持で相手の言葉に耳を貸していた。愛の言葉と云うものは、たとえそれがどんな形式で語られようと、女の耳にピアノと同じ響きを持つものであらねばならぬ。
あたりは静で、葉の落ちた高い梢の上の電燈が、湿っぽい夜の闇を照していた。
このことがあった翌日、だしぬけに銀三が行方不明になった。銀三の親友でもあれば事業上のパートナーでもある
「宮地君は二ヶ月前から発狂していたのです。それが三日前に何処へ行ったか、帰って来なくなったのです。何しろ精神病者ですから、
「なに、御安心なさい、私が徹底的に調べれば直ぐ行方は解ります。失礼ですが貴方は?」
「私は暮松と云つて、宮地君の昔からの友人で、今まで二人でこの工場を経営して来ました」
「宮地さんの経歴は?」
「両親が莫大の資産を残して早く死んだので、宮地君は中学を出ると伯父と相談の上で米国へ行き、シカゴ大学で製氷術を研究して、日本へ帰って私と一緒にこの工場を起したのです。この工場を起して今年で五年になります」
「精神病者としての兆候は?」
「宮地君が発狂したのは、余りに製氷に熱中したからだろうと思うのです。その熱心は次第に烈しくなって、ことにこの二ヶ月以来と云うものは白熱的で、そばで見ていられないほどでした。氷の前に立った宮地君は、まるで宝石の前に立った宝石屋のようでした。また実際宮地君は氷を宝石とでも思っているらしく、光線を受けて奇妙な光を発する複雑な角度を持ったいろんな氷を作って楽しんでいました。一時間も二時間も氷の前に立って、黙って見つめているようなことがよくありました。それに神経が非常に鋭敏になりまして、工場の男が
一通り話を聞くと、警部と巡査は、暮松に案内されて、建物の中を見て廻った。建物は狭い事務室、大きな工場、銀三の部屋、銀三の世話をする老女中の部屋、台所、浴室の六つに区切られている。暮松は自分の家から昼間だけ事務室に通勤しているのだ。
三人は先ず事務室から始めて、浴室、台所、女中部屋、工場、銀三の部屋と順々に見て廻った。
広い工場には、直径一間もある車輪が音も立てずに廻転し、長いベルトが凄じい勢いで滑って、数人の男が脇目もふらず働いていた。
しかし警部に取って最も興味があったのは、銀三の部屋であった。大体、この建物は、郊外の工場なぞによくある、粗末な南京下見のあまり立派でない建物ではあるが、ただ銀三の部屋のみは、まるで別世界のごとく立派に飾られ、広さは僅か十五六畳だが、壁と天井には一面に緑色の勝った品のいい壁紙を貼り、その壁の一方の、押入の如く窪んだ処に、厚い織物のカーテンをかけてその中に贅沢なベッドを作り、床には歩いても音のせぬ厚い緑色の
それから奇妙なことには、壁には数個の額縁がかかっているのだが、それがどれもこれも氷の絵で、中でも太陽を受けて
警部と巡査が一通り銀三の部屋の飾りつけを見終った頃、暮松は銀三のデスクの
「ここに海底の写真のようなものがございましょう?
「成程」
「それからこれは写真ではよく解りませんが、この点のようなものが皆いろいろの色なんです。虹の七色を配列したのです。宮地君はこの色彩の配列を考えるのに殆ど一週間の間も食事も忘れるほど頭を
三人はデスクの抽斗を一つ一つ開けて、その中から他処から来た手紙や雑多な書類を取り出して調べてみたが、銀三の行方を推量すべき手掛りになるものは何もなかった。本棚には英独の書物が一杯につまっていたが、それがまるで氷に関する文学と科学の書物であったことは云うまでもない。
本棚を調べ終ると、警部は短かく刈った口髭のあたりを右手でつつきながら、
「もう部屋はこの他にはありませんか?」
「はあ、事務室と工場と、女中部屋と台所と浴場と、それからこの部屋と、みんな御覧に入れました」
すると警部が
いままで始終、快活な微笑を浮かべていた暮松は、急に真顔になって、警部の半ば
「なぜです?」
だが、警部はこの問には答えないで、黙ったまま考えていたが、やがて第二の質問を発した。
「この家には、今はどこにも電燈がついていないでしょう?」
「昼は電燈を点けません」
「電線から来る電力は、どこにも使ってないのですね?」
と云って警部は念を押すように暮松の顔を見た。
「はあ」
「それァ、不思議だ! ちょっとこちらへ来てごらんなさい」
警部は二人を導いて、台所へ連れて行き、そこの戸棚の上の、壁にそなえつけてある電燈の
「よくごらんなさい。あの計量器の輪が動いています」
こう云われて、二人が眼を細くして仰いで見ると、なるほど、暗くてよくは見えないけれど、計量器の中の白い輪が、恰度蓄音器のレコードのように、たえずぐるぐる廻転している。
しばらく計量器を仰いでいた暮松は、ほッと長い溜息とともに警部を振返って、
「なるほど、不思議ですね! 計量器が動いているとすればどこかに電気が使ってなければならないですが······」
すると今まで始終黙っていた巡査がそばから口を出して、
「計量器から続いている電線を調べてみれば解りますよ。一つ私が天井に上って、電線を一つ一つ調べてみましょうか?」
「けれども」と、暮松は考深そうな落着いた声で、「こんなことは宮地君の行方とは何の関係もないことです、わざわざ天井にお上りにならなくてもいいでしょう」
警部はにやにや笑いながら、重々しい声で云った。
「天井には上らんでもいい。実はさっき計量器が動いているのに、各室とも電燈がついていないので、どうも可笑しいと思ってあの部屋の絨氈をちょっとまくって見たのです。すると確に床の上を電線が一本這っていました。こちらへ来てごらんなさい」
三人はまたもとの銀三の部屋へ帰った。そして警部がしゃがんで、部屋の角の絨氈をまくると、厚い床板の上に、黒い電線が一本張ってあるのが見えた。巡査と暮松は先刻警部が絨氈をまくっているのを見ないではなかったが、警部が「これは立派な絨氈だ」と云っていたので、床をしらべているとは思わなかったのである。
警部は体を起して、ハンケチで手を拭きながら、
「この部屋には天井から垂れた電燈が一つと、あのデスクの上のランプが一つと、二つ電燈がありますね。しかしこの電線が、天井の電燈につづいていないことは確かですし、また調べてみなくては確なことは解りませんが、多分デスクの上に置いてある電燈とも、つづいていないだろうと思うのです」
紫色の傘のかかったデスクの上の電燈のコードを調べるには、時間はかからなかった。デスクから下へ垂れさがったコードは、すぐそばの壁際のソッケットへつないであるだけで、床の上へは引っぱってなかった。
「さア、床の上の電線の行方を調べてみましょう」
云いながら、警部がデスクの処から元の処へ帰ると、暮松と巡査が邪魔物の洋箪笥を少し脇へよせた。
そして三人が重い絨氈のすみを広々とはぐってみると、壁の下から出た黒い電線は、二尺ばかり床の上を斜に這って、床板の隙間の中に入っていた。
床板の隙間をナイフや庖丁でつついていたら、厚さ二寸もある重い床板が、やっとのことで起上ったが、よく見ると起き上った三枚の床板には、内側から横木を二本打ちつけて、三枚が一枚の如く一緒に動くようになっていて、恰度壁際のところの内側には、丈夫な
彼等はそこから下を覗いて見た。
そこには真っ黒い穴が口を開けていた。
よく見ると幅が三尺ばかりある
警部は怖る怖るその階段を下りはじめた。
巡査と暮松もあとにつづいた。
彼らはあたりが暗いので、時々両側の冷たい壁を
だが、下へ降りれば降りるほど、湿っぽい、土くさい空気が鼻をつき、その上次第に温度が下って、骨の髄までしみる寒さであった。
そして長い階段の一番下まで来た時には、彼らは極度の興奮と寒さのためにぶるぶる顫え、何故と云う確実な理由は別にないのだが、恐らくはただ茫とした一種の恐怖心に支配されて、
やがて警部が静にポケットから
しばらくすると、三人は一とかたまりになって、片方の壁を手捜りながら歩きはじめた。階段の位置や、歩いて行く方向から判断すれば、恰度その辺が工場の真下のあたりに当るらしく、或は工場から数条の鉄管でも下りているのか、手足が凍えるほど冷たかった。
階段を降りて
警部はまた燐寸を擦ろうと思って、片手をポケットに入れたが、深い沈黙を破るのが怖かったので中止して、用心しながら両手で扉を捜った。不安な予感と、緊張した期待に、三人が三人とも胸を烈しく轟かせて、寒さのために歯の根が合わぬほど顫えた。
やがて警部がハンドルを捜りあて、丈夫な手で握って静に右へ廻すと、扉は音もなく後へ開いた。
と、その途端に彼らは、思わず「あっ!」と叫んで身を縮ませた。
扉の向うには、やや離れた処に、一つの大きな窓があってあたりが一面に
だが、彼らがそれを窓と意識したのは、ほんの僅かの間で、次の瞬間には、それが一つの大きな氷の塊で、内側から血のように濃い橙色の電光に照明されているのだと直ぐに解った。
彼らは急いで
そして近くに寄って見て、また二度目に、
「あッ!」
と叫んで、身を縮ませた。
その氷の中には、小さい白い花を持つ軟らかい草花が、高い処にも、低い処にも、一面に唐草模様のごとく暴れ狂っていて、まんなかになにも身にまとわぬ一人の女が横向きに立っているのである。
その女は、輪廓の正しい横顔を見せ、ぱっちりした巴旦杏型の眼を、さながら生けるが如く大きく見開いているのであるが、興味あるのはその姿勢で、それは優雅なパウロワや自由なダンカンを真似たものでもなければ、またロダン一派の近代彫刻を真似たものでもなく、ただ右に向いて歩くように足を軽く前後にひろげ、掌を開き肘を直角に曲げた右腕を前に出し、左腕は自然に下に垂れているのである。てっとりばやく云えば、ちょっと歩きながら挙手の礼をしているのを横から見た形であるが、それにしては手が顔と離れすぎているから、むしろ右手を高くあげて、それを自分で眺めていると云った方がよく、
そして暫くして、やっと氷から眼を離して足元を見ると、そこに劇薬を
(一九二八年一月)