おきくと弟

　空（そら）が曇（くも）っていました。

　正（しょう）ちゃんが、学校（がっこう）へゆくときに、お母（かあ）さんは、ガラス戸（ど）から、外（そと）をながめて、

「今日（きょう）は、降（ふ）りそうだから雨（あま）マントを持（も）っておいで。」と、注意（ちゅうい）なさいました。

「じゃまでしかたないんだよ。もしか、降（ふ）ったら、一、二っと駈（か）けだしてくるから。」と、答（こた）えて正（しょう）ちゃんは、すなおにお母（かあ）さんのいうことをききませんでした。

　どこか、曇（くも）った空（そら）にも明（あか）るいところがあって、すぐに降（ふ）りそうに思（おも）われません。お母（かあ）さんは、新聞（しんぶん）の天気予報（てんきよほう）には、どうなっているかとそれを見（み）ようとなさっている間（ま）に、もう正（しょう）ちゃんは、家（うち）を飛（と）び出（だ）して、門（もん）を曲（ま）がってしまった時分（じぶん）であります。

「やはり、くもり後（のち）雨（あめ）とある。なぜこう、いうことを聞（き）かない人（ひと）でしょう······。」と、お母（かあ）さんは、ひとり言（ごと）をされました。

　まだ、正午（しょうご）にもならぬうちから、はたして雨（あめ）は降（ふ）り出（だ）しました。はじめは細（こま）かで、目（め）にはいらぬくらいでしたが、だんだん本降（ほんぶ）りになってきました。いくら元気（げんき）な正（しょう）ちゃんでも駈（か）け出（だ）してくるわけにはいかないのです。

「おとなしく、雨（あま）マントを持（も）っていってくれればいいものを······。」

　お母（かあ）さんは、子供（こども）の身（み）の上（うえ）を心配（しんぱい）なさいました。そして、もう学校（がっこう）の退（ひ）ける時分（じぶん）に、女中（じょちゅう）に向（む）かって、

「きくや、ご苦労（くろう）でも学校（がっこう）までマントを持（も）っていっておくれ。そして帰（かえ）りに、どこか、げた屋（や）へ寄（よ）って、あの鼻緒（はなお）の切（き）れたあしだの鼻緒（はなお）をたてかえてきてくれない。」といわれました。

　晩（ばん）の仕度（したく）をしかけていた十八ばかりになる女中（じょちゅう）は、奥（おく）さまのいいつけに従（したが）って、さっそく汚（よご）れた前（まえ）かけをはずして、出（で）かける用意（ようい）にとりかかりました。まだ、この家（うち）に奉公（ほうこう）して、三月（みつき）とたたないので、坊（ぼっ）ちゃんの学校（がっこう）をよく知（し）らないのです。それで、奥（おく）さまから道（みち）を聞（き）いて、雨（あめ）の降（ふ）る中（なか）をげたをさげ、マントを抱（かか）えて出（で）かけてゆきました。

　もう、そろそろ授業（じゅぎょう）が終（お）わって、退（ひ）けかかるので、おきくは、坊（ぼっ）ちゃんが出（で）てくるのを学校（がっこう）の入（い）り口（ぐち）で立（た）って待（ま）っていました。風（かぜ）の吹（ふ）くたびに冷（つめ）たい雨（あめ）のしぶきが、彼女（かのじょ）のほおにかかりました。天気（てんき）のよくない日（ひ）は、あたりが暗（くら）く、日（ひ）がいっそう短（みじか）いように思（おも）われたのです。小鳥（ことり）がぬれながら、あちらの木（き）の枝（えだ）にとまりました。

「いまごろ弟（おとうと）は、どうしたろう······。」と、おきくは、故郷（こきょう）の小（ちい）さな弟（おとうと）のことを思（おも）い出（だ）しました。

　こちらへくるまでは、雨（あめ）が降（ふ）ったときは、やはりこうして弟（おとうと）を迎（むか）えにいったのでした。自分（じぶん）がこちらへきてしまってから、もはや降（ふ）っても、だれも迎（むか）えにいってやるものがありません。母親（ははおや）は、まだ幼（おさな）い弟（おとうと）の守（も）りをしながら、内職（ないしょく）に忙（いそが）しいからです。そして、北国（ほっこく）は、いま冬（ふゆ）の最中（さいちゅう）でした。こちらは、梅（うめ）の花（はな）が咲（さ）きかけているが、そして雪（ゆき）ひとつないが、北国（ほっこく）は、明（あ）けても暮（く）れても、雪（ゆき）が降（ふ）っているのであります。

「ほんとうに、弟（おとうと）は、どうしているだろう？　もう、学校（がっこう）から、家（うち）へ帰（かえ）った時分（じぶん）かしらん。」

　こんなことをぼんやりと考（かんが）えているとき、坊（ぼっ）ちゃんが、彼女（かのじょ）を見（み）つけて、

「ねえや、マントを持（も）ってきてくれたの、ありがとう。」といって、元気（げんき）よく受（う）け取（と）って被（き）ると、お友（とも）だちといっしょに話（はな）しながら、さっさとおきくを後（あと）に残（のこ）していってしまいました。彼女（かのじょ）は、その活発（かっぱつ）な子供（こども）らしい姿（すがた）を見送（みおく）って、ほほえんだのでありました。

　その夜（よ）のこと、明（あか）るいランプの下（した）で、家（うち）の人（ひと）たちは、楽（たの）しく語（かた）り合（あ）ったときに、正（しょう）ちゃんはおきくに向（む）かって、

「ねえや、おまえには弟（おとうと）があるの？」と、ききました。すると、彼女（かのじょ）は、赤（あか）いほおに、笑（わら）いを浮（う）かべて、

「今年（ことし）九つになる弟（おとうと）があります。このごろは、雪（ゆき）の中（なか）を毎日（まいにち）、学校（がっこう）へいっていますでしょう。」と、答（こた）えました。

　村（むら）から、学校（がっこう）へゆくには、原（はら）を越（こ）さなければならない。そこは、いつも風（かぜ）の強（つよ）いところだ。あの小（ちい）さいのに、どうして、そこを通（かよ）うことだろうと思（おも）うと、彼女（かのじょ）の心（こころ）は、暗（くら）くなりました。

「そんなに雪（ゆき）が降（ふ）るの？」と、正（しょう）ちゃんは、目（め）をまるくしたのです。

「たくさん降（ふ）ります。三尺（じゃく）も四尺（しゃく）ももっと降（ふ）ることがあります。」と、おきくは答（こた）えた。

「たいへんだね。」

「たいへんでございます。」

「どんな雑誌（ざっし）をとっているの······。」と、正（しょう）ちゃんは、雑誌（ざっし）を見（み）ながらききました。

「弟（おとうと）ですか？　雑誌（ざっし）なんかとっていません。貧乏（びんぼう）で、とってやることができないのですもの。」

　これをきくと、正（しょう）ちゃんは、だまっていましたが、本箱（ほんばこ）の中（なか）から、幾冊（いくさつ）かの雑誌（ざっし）を取（と）り出（だ）してきて、おきくの前（まえ）に置（お）いて、

「僕（ぼく）の読（よ）んだ、古（ふる）いのだけど送（おく）っておやりよ、ね。」と、しんせつにいいました。

「ああ、それはいいことだよ。」と、正（しょう）ちゃんのお母（かあ）さんもそばからいわれました。

「どんなにか、喜（よろこ）ぶことでしょう。」と、おきくはいって、いくたびも頭（あたま）を下（さ）げたのです。

　みんながやすんでから、彼女（かのじょ）は自分（じぶん）のへやにはいって、ふるさとへ出（だ）す手紙（てがみ）をしたためました。それには、

「いまいる家（うち）の坊（ぼっ）ちゃんは、やさしくて、おりこうで······。」と書（か）いて、弟（おとうと）にいってやろうとしましたが、彼女（かのじょ）は、ふと筆（ふで）を止（と）めて、考（かんが）えました。そして、それを破（やぶ）りました。

　小（ちい）さな弟（おとうと）が、風（かぜ）と雪（ゆき）と戦（たたか）って、やっと家（うち）に帰（かえ）ると、すぐに末（すえ）の弟（おとうと）の世話（せわ）をさせられることを思（おも）うと、もう、なにもいうことができなかったからです。

「私（わたし）がいなくなってから、弟（おとうと）が、お母（かあ）さんの手助（てだす）けをするのだもの······。」

　彼女（かのじょ）は、目（め）に涙（なみだ）を浮（う）かべました。そして坊（ぼっ）ちゃんから、おまえにくだされたのだと簡単（かんたん）に書（か）いて、それから、体（からだ）を大事（だいじ）にするようにといってやりました。