遠い、あちらの
町の
中に、
宝石店がありました。
ある
日のこと、みすぼらしいふうをした
娘がきて、
「これを、どうぞ
買っていただきたいのですが。」
といって、
小さな
紙包みの
中から、
赤い
魚の
目のように、
美しく
光る
石のはいった
指輪を
出してみせました。
ちょうど、
主人の
留守で、トム
吉が
手にとってながめますと、これほど、
性のいいルビーは、めったに
見たことがないと
思いましたから、しばらく
感心して、
掌にのせてながめていました。
娘は、
小僧さんが、なんというだろうかと、さも
心配そうな
顔つきをしていました。
(もし、これが、いい
値に
売れなかったら、
病気の
弟をどうしたらいいだろう。そればかりでない、
明日から
私たちは
食べてゆくことができないのだ。)
と、いろいろ
思っていたのです。
「この
指輪を、どこでお
求めでございましたか。」と、トム
吉は、たずねました。
すると、
娘は、
正直にその
指輪について
話したのです。
「それは、
死なれたお
母さんが、お
祖母さんからもらって、
大事になさっていたのを、お
亡くなりなされる
時分、
指からぬいて、これはいい
指輪だから、よほどのときでなければ、はなしてはいけないとおっしゃって、
私にくださったものです
······。」
と、
娘は、いまの
不自由をしていることまで、
物語りました。
トム
吉は、だまって、
娘さんのいうことをきいていましたが、
「じゃ、
弟さんがご
病気で、この
大事になさっている
指輪をお
売りなさるというのですか。」
と、たずねました。
娘は、かなしそうに、
目にいっぱい
涙を
浮かべながら、うなずきました。
「いや、まことにけっこうな
石です。」
といって、トム
吉は、
真物の
相場どおりに
高値で
買ったのでした。
娘は、いい
値に
指輪が
売れたので、たいそうよろこんで、これもお
母さんのおかげだと
思って、はやく
弟の
治療をするために
立ち
去りました。ちょうど、それと
入れちがいに、
主人がもどってきました。
トム
吉は、
主人の
顔を
見ると、
「こんな
性のいいルビーが
出ました。」
といって、
娘から
買った
指輪を
見せたのであります。
主人は、
眼鏡をかけて
見ていましたが、
「なるほど、
珍しい、たいした
代物だな。」と、
微笑みながら、
「これを、いくらで
買ったか。」と、たずねました。
いつも、こうした
取引にかけては、
万事、
自分を
見まねていて、ぬけめがないとは
思いましたが、
念のためにきいたのでした。
しかし、トム
吉が、
真物どおりの
相場で、
正直に
買ったと
知ると、たちまち、
主人の
顔は
不機嫌に
変わって、
怒り
出しました。
「いま、
出ていったあの
娘だろう。あんな
素人をごまかせないということがあるもんか。みんな、おまえが、
商売に
不熱心だからだ。」
といって、しかりました。
いったい、
宝石ばかりは、
目のあかるい
人でなければ、
真物か、
偽物か、
容易に
見分けのつくものでありません。また、
性のいいわるいについても
同じことです。だから、
不正直の
商人になると、そこをつけこんで、いい
品でもわるいといって、
安く
買い、わるい
品でもいいといって、
高く
売ったりして、もうけるものです。
トム
吉は、こうした、
曲がったことをする
主人に
使われていましたが、かわいそうな
娘のようすを
見たり、また、その
話をきくと、
真物を
偽物といってごまかされなかったばかりでなく、
指輪を
売って、
弟の
病気を
快くしようというやさしい
情に
感心せずにはいられなかったのでした。
しかし、この
正直であったことが、
禍いとなって、
「おまえみたいなばか
者は、
私が
留守のときには、なんの
役にもたつものでない。」
といって、ついにトム
吉は、
暇を
出されてしまいました。
「
私にも、やさしい
姉さんがあるのだ。」
といって、トム
吉は、この
町を
去って、ごく
自分の
小さい
時分にいたことのある
町を
指して、
旅立ちをしたのであります。
彼は、
途中で、
自分と
同じ
年ごろの
男と
道づれになりました。
砂漠を
越しての、
長い、
長い、
旅でありますから、
二人は、いつしか
打ちとけて
親しくなり、たがいの
身の
上などを
話し
合うようになりました。この
若者も、これから、なにかしら
仕事をして、
成功しようという
希望を
抱いていました。
青い
草もない、
単調な
砂漠の
中を
歩いてゆくときでも、
二人の
話はよく
合って、べつに
退屈を
感ずるということがなかったのです。また、
烈しい
太陽の
光に
照らされて、なんでも
黄色く
見えるような
日でも、
二人が
語り
合っているときは、
心の
中に
涼しい
風が
吹いたのであります。
ある
日のことでした。
二人が、
並んで
道を
歩いていると、ふいに、
若者は
立ち
止まって、つまさきで
砂をかき、
砂の
中から、なにか
小さい
石ころのようなものを
拾いあげました。
「こんなものを
見つけたが、なんだろう?」
と、
若者は、それを
手の
上にころがして、ながめていました。
青みがかった、
虫の
形をした
石です。その
石に
光るものが
彫り
込んであって、
端のところに、
糸の
通りそうな
小さな
穴があいていました。
「きっと、ここを
通った
人が
落としたものだろうが、なににしたものかな。」
と、
若者は、
頭をかしげていました。
「こうして、
自分の
目にはいったのだから、
捨てずに、
記念として
持ってゆこうか。」
と、
若者は、
青い
石を
掌の
中でころがしながら、
朗らかに
笑いました。
「どれ、どんなものを
拾ったのですか。」
と、トム
吉は、
若者の
拾った
青い
石を
見せてもらいました。よく
見ると、それは、また、すばらしいものです。トム
吉は、
見ているうちにほしくなりました。
自分の
持っているものなら、なんでもやって、
代えてもらいたかったのです。それほどすばらしい
品でした。しかし、トム
吉は、
驚きの
色を
顔に
出すまいとしました。これは、
宝石商の
店に
使われている
時分の
癖が
出たのです。そして、
心の
中で、どうかしてごまかして、
自分のものにすることはできないものかと
思っていました。
「
小さい
穴があいているが、なににしたものでしょうね。」
と、
若者は、そんなたいしたものとは
知るはずがなく、こう
問いました。
「さあ
······。」といって、トム
吉は、
口ごもりました。そして、
胸の
中では、なぜこの
石がはやくおれの
目に
見つからなかったろうというくやしさでいっぱいでした。
この
青みがかった
穴のあいている
石は、
太古の
曲玉であって、
光るのは、ダイヤモンドでありました。トム
吉は、
宝石商の
店にいる
間に、これと
同じものを一
度見たことがあります。そして、それが
驚くほど
高価に
取り
引きされたのを
記憶していました。いま、この
珍貴な
曲玉が、
砂漠の
中で
見つかったというのは、
昔、
隊商の
群れが、ここを
往来したからです。
「これが、おれのものだったら、どんなに
大金持ちになれるだろう
······。」と、トム
吉は、
残念がりました。
彼は、
若者が、この
石の
値打ちを
知らないのを
幸いに、この
砂漠の
中を
旅する
間に、どうかして、
自分のものとする
工夫はないかと
思ったので、わざと
平気な
顔つきをして、
「ボタンにしては、あまりお
粗末なものですね。どうせ、
土人の
子供が
頸にかけたものかもしれません。」
こういって、
若者の
手に
返しました。
快活な
若者は、
荷物のひもをほぐして
糸を
造り、
曲玉に
通して、
道化半分に、
自分の
頸にかけて
歩きました。そして、いつかその
石のことなど
忘れて、なにかほかの
話に
興がって、
笑っていました。
ひとり、トム
吉は、
若者の
頸にかかった
曲玉が
歩くたびに
揺れるのを
見たり、ダイヤモンドが
長い
間砂にうもれて、いくぶん
曇っているけれど、みがけば、どんなにでも
光るのだと
思うと、そのほうに
気をとられて、ぼんやりと、あいづちを
打つだけで、いままでのように、
話に
実がはいりませんでした。
それよりか、ただ、トム
吉は、
「どんなようにいったら、うまくだまして、あの
曲玉を
自分のものにすることができるだろう。」
と、
考えていました。
トム
吉は、
渺々とした
砂漠の
上に、あらわれた
白い
雲を
仰ぎながら、
「
人間の
運命なんて、わからないものだ。いま
二人は、こうして
同じように
貧乏をしているが、これから、あちらの
町へ
着いて、あの
曲玉が、
宝石商に
売られたら、そのときから、この
男は、もう
貧乏人でなく、
大金持ちになれるのだ。そして、
自分は、やはり、このままの
姿であろう。」
と、
思ったのでありました。
そのうちに、
日数がたって、
砂漠も
通りすぎてしまいました。ある
日の
晩方、
二人は、
前方に、
紫色の
海を
見たのであります。
「あ、
海だ!」
「
海だ!」
二人は、
同時に
叫びました。
赤い
夕日は、ちょうど
波間に
沈もうとしています。
二人は、
遠く
歩いてきた
道をかえり
見ながら、
岩の
上に
腰を
下ろして
休みました。
押し
寄せる
波が、
足もとに
砕けて、
引き
返しては、また
押し
寄せているのです。
トム
吉にも、また、
若者自身にも、おそらくわからなかったことであったろうが、
若者は
頸にかけた
糸をいつのまにかはずして、
人さし
指にはめて、くるくるとまわしていました。そして、トム
吉が、はっと
思ったしゅんかんに、
糸は
指からはなれて、
曲玉は、
波の
中に
落ちて
呑み
込まれてしまいました。
若者は、そんなことには
気にもとめずに、
口笛を
鳴らして、このかぎりない
美しい
景色に
見とれていましたが、トム
吉は、
失望と
悔恨とくやしさとで、
顔の
色は、すっかり
青ざめていました。
翌日、ここまで
道づれになってきた
二人も、いよいよ
別れなければなりませんでした。
若者は、トム
吉に
向かって、
「もし、
私が、
成功をして
大金持ちになったら、きっとあなたの
町へたずねてゆきます。そして、あなたを、お
助けいたします。どうか、お
達者でいてください。」
といって、
堅く、その
手を
握りました。そして、
右と
左に、
別れてゆきました。
トム
吉は、
立ち
止まって、だんだんに
遠ざかってゆく
若者のうしろ
姿を
見送っていましたが、まったくその
姿が
見えなくなると、そこに
身を
投げ
出して、すすり
泣きをはじめました。
「なんて、おれは、あのとき、あさましい
考えを
起こしたのだろう、もし、
正直だったら、そして、
自分が
骨をおって、あの
宝石を
高く
売ってやったら、あの
男は、
思いがけないもうけに
喜んで、
半分はお
金を
分けてくれたにちがいない。そうすれば、
二人とも
幸福で、いまごろは、
楽しい
旅をつづけていたであろう
······。」
と、
後悔しました。トム
吉は、しばらくしてから、
立ち
上がりました。
「これからは、いつでも
正直にして、
自分だけもうけようなどとは
考えまい。そうだ、おれには、やさしい
姉さんがあった。
町へ
帰ったら、
姉さんのためにつくそう
······。」
と、トム
吉は、
志す
町の
方に
向かって
歩いていきました。