おばあさんは、まだ、
若い
時分に、なにかの
雑誌についている
口絵で
見た、
軽気球の
空に
上がっている
姿を、いつまでも
忘れることができませんでした。
青い
色が、ところどころに
出て、
雲の
乱れた
空を
高く、その
軽気球は、
風船球を
飛ばしたように、
上がっていました。それには、
人が
乗っていて、
下方にたむろしている
敵軍のようすを
偵察していたのであります。すると、これを
射落そうと、
敵の
騎兵が
軽気球を
目がけて、
発砲していました。その
白い
煙が
輪を
巻いているのすら、
記憶に
残っています。
これは、
☆普仏戦争の
画報でありました。いっしょに、この
絵を
見たおじいさんは、いいました。もとより、おじいさんも
若かったのです。
「いんまに、きっと、
人間が、
鳥のように、
空を
飛ぶようになるぞ。」
「それは、いつのことでしょうか?」と、おばあさんは
聞きました。
「五十
年や、百
年は
後のことであろう。そうなると、この
太陽の
下をかすめて、
人間の
頭の
上を
飛ぶのだよ。そして、
鉄砲を
打ったり、
爆烈弾を
落とすようになる。そうなれば、
戦争は、なくなってしまうかもしれないが、なんといっても
怖ろしいことだ。あまり
世の
中がこういう
方面にばかり
発達すると、
神も、
仏もなくなってしまう。まあ、
私たちは、そんな
時分まで
生きていないからいいが、だれでも、
分際を
知らないほど、
怖ろしいことはない。」
「もし、そんな
時代になりましたら、どんなでしょうか?」
「さあ、そんなことは
考えつかないが、
人間は、
道徳などというものをまったく
忘れて、
強いもの
勝ちとなり、
国と
国の
約束などというものはなくなってしまうだろう
······。
私は、そんな
時代を
見たいとは
思わないよ。」
こう、おじいさんはいわれた。
おばあさんは、おじいさんのいわれたことは、みんな
正しいと
信じていました。そして、なるほど、それにちがいないと
感じたのです。
平常から、
達者だったおじいさんは、まだ、そんなに
年寄りでもなかったのに、とつぜん、
中風にかかって
死にました。
日ごろ、おじいさんの
亡くなられるときは、やがて
自分も
死ぬときだと
思っていましたが、おばあさんは、そのときから、すでに、十
年あまりも
生きながらえてきました。
息子や、
孫たちは、おばあさんに
対して、しんせつでありました。
「おばあさん、
飛行機がとんでいますよ。ここへ
出て、ごらんなさい。」と、
孫たちは、おばあさんにいいました。
「そうかい、
飛行機も、もう、たびたび
見たから、あまり
見たくもない。あんなものに、なぜ
人間は
乗るのか、また
落ちなければいいがのう。」と、おばあさんは、うつむきながらいわれました。
子供たちは、おばあさんのいうことを
聞いて、わけもなくおかしがりました。
「おばあさん、
飛行機は、
汽船よりも、
汽車よりも
速いんですよ。あれに
乗れば、一
日で、
北海道から、
九州までも
飛べるんです。これからの
戦争は、
飛行機になりますよ。」
こう、
孫たちが
説明すると、おばあさんは、だまって
聞いていられました。そして、ふと
頭の
中に、
昔、
雑誌の
口絵で
見た、
軽気球の
上がっている
光景が、ありありとして、
映ったのであります。
あたりは、
静かでした。
庭さきには、
日があたっていました。ちょうど、その
日は、こんなような
日であったが、なにもかも、すぎ
去って、二十
年も、三十
年も、
前になってしまったのでした。
そのころは、
自分も、どんなに
働きがいがある、
目も
耳も
手も
足も
達者で、なすことが
楽しかったか? そんなことを
考えると、おばあさんは、
悲しくなって、しわの
寄った
目じりに
涙がにじんできたのです。
当時から
見ると、なるほど、
世の
中は
進歩したが、のんびりとしたところがなくなって、
暮らしづらくなりました。おじいさんのいわれたことは、みんなほんとうなのでした。
「
世の
中は、あなたのおっしゃったとおりでした。」
おばあさんは、
自分も
墓にいったとき、こうおじいさんに
向かっていいたかった。
そのうち、おばあさんは、
病気になられたのです。ちょうどそのころ、ドイツから、ツェッペリン
伯号が、
日本へ
飛んでくるといううわさがたっていました。
「おばあさん、こんど、六十
間もある
大きな
飛行船が、三千
里も
遠い、ドイツから、わずか
四日か
五日間で、
日本へ
飛んでくるというんですよ。はやく、
病気をなおして、
東京の
空を
飛ぶのをごらんなさい。」と、
孫たちは、おばあさんを
元気づけていいました。
「いよいよ、そんなことになったかい。この
後に、また
戦争があるのでないか? そんなものができるのは、どうせいいことでないのだよ。」
「おばあさん、
長く
生きるということは
幸福です。まだ、この
後、どんなものが
発明されるかしれません。」
「そうだのう。その
飛行船というのを
見られればいいが
······。」と、おばあさんは、いわれました。
「だいじょうぶ
見られますよ。
途中で、
落ちないかぎりは
······。もう一
週間たてば、
東京へきて
頭の
上を
飛びます。それまでにおばあさん、
早くなおらなければいけませんよ。」
「そのときは、どんなにしても
出て
見る。」と、おばあさんは、
床の
中で、
白髪の
頭を
動かして、
答えられた。
そのうちに、ツェッペリンは、
出発したのでした。そして、その
日、その
日の
記事が、はやくも
無線電信で、
新聞に
報告せられました。
子供たちや、またくる
人々が、みんなこの
話でもちきったのです。
「これが
成功したら、まったく、
世の
中が
変わってしまうだろう。いったい、この
先、どこまで
科学の
力は
進歩するものだろうか?」
こんな
話をしているのが、おばあさんの
耳にはいると、おばあさんは、どうせ
自分は、もうじきに
死んでゆくのだけれど、
息子や
孫たちはこの
後、いろいろな
苦労をすることだろうと
思われたのでした。しかし、おばあさんも、その
空の
怪物を
見たいものと、
毎日、
毎日、みんなからうわさを
聞きながら
待っていました。
「おばあさん、いよいよ
明日の
昼過ぎごろ、
東京へきますよ。サイレンが
鳴ったら、
外をのぞいてごらんなさい。」と、
子供たちはいいました。
いよいよその
日となったのであります。
「
今日は、その
大きな
飛行船がくるのかい。」と、おばあさんは、
問われました。そして、二十
年前に、
雑誌の
口絵で
見たのと、どれだけちがっているか、
自分は
頭の
中でくらべてみようと
思いました。
「もう、じきに
見えるでしょう。三千
里もあるところを、わずか
四日間ほどで、
昼も
夜も
休みなしに
飛んできたのです。」と、
孫たちは、おばあさんに
新聞で
見たとおりを
話した。
「
私も、まあ
命があって、
昔の
人の
知らないものを
見られる
······。」と、おばあさんは
答えたが、なんだか、すべてが
信じられないような、またそれを
見るのが、
怖ろしいような、
気さえしたのでありました。
たちまち、
外が
騒がしくなりました。サイレンの
音がきこえました。
「ツェッペリンがきたのですよ。」
家の
人々は、みんな
外へ
出たり、二
階へ
上がったり、また
窓から
顔を
出したりしました。おばあさんも、
窓から
顔を
出されました。しかし、どこにも、それらしいものが
見えませんでした。
「
見えたかい?」
「
見えない。」
こういう
声が、
方々からしました。この
空の
征服者は、
自分の
勇ましい
姿を、はっきりと、そして、だれにも、よく
見せようというしんせつ
心から、できるだけ、
低く、
街の
上を
飛んだのでした。けれど、
街は、
彼らが
思ったように、
平かではなかった。くぼ
地もあれば、
兵の
[#「兵の」はママ]蔭となっているようなところもあった。そして、おばあさんの
家は、やはり、
低地だったのです。それがために、ツェッペリンの
姿は、
建物の
蔭にさえぎられて、
目の
中にはいらず、みんなの
焦るうちに
知らぬ
顔で、この
怪物は、
永久に、あちらへ
去ってしまったのでした。
「おばあさん、
残念でしたね。ここらの
人たちは、みんな
見なかったのです。」と、
家じゅうの
人は、おばあさんをなぐさめました。
「ここで
見えないようなものなら、
話に
聞くほど、たいしたものではないんだよ。」と、おばあさんはまだ、この
世の
中が、そう
急に
変わろうはずがないと
知った
安心から、おちついていわれた。
その
後いくばくもなくして、おばあさんは、
安らかに、
息子や、
孫たちに
見守られて、
平和にこの
世から
去られました。もし、あの
世で、おじいさんにあわれても、ツェッペリンの
話はされなかったでしょう。
偶然のことで、
新時代は、そこまできながら、だれよりも、まじめに
迎えたであろうおばあさんに、
触れずにしまいました。
||一九二九・一二作||
☆普仏戦争||一八七〇年から翌年にかけて、プロシアを主とする北ドイツとフランスとの間におこった戦争。