それは、もう
冬に
近い、
朝のことでした。一ぴきのとんぼは、
冷たい
地の
上に
落ちて、じっとしていました。
両方の
羽は
夜露にぬれてしっとりとしている。もはや、とんぼには、
飛び
立つほどの
元気がなかったのです。
昨日の
夕方、
彼は、この
山茶花のところへ
飛んできました。さびしくなった
圃の
方から
夕日の
光を
身に
受け、やってきて、この
美しい、
紅い
花を
見たときに、とんぼは、どんなに
喜んだでありましょう。
「まだ、こんなに、
美しい
花が
咲いているではないか。そう
悲しむこともない。」と、
思ったのでした。
彼は
山茶花の
葉の
上に
止まりました。そこにも、あたたかな
夕日の
光が、
赤々として
輝っていました。
「このごろ、あなたたちの
姿を
見ませんが、あなたは、おひとりですか?」と、
山茶花はとんぼに
向かって、たずねました。
「みんな、もういってしまったのです。」と、
彼は、
答えたが、さすがに、そのようすは、さびしそうであった。
ほんとうに、いつのまにか、こんなに、
寂しくなったろう。ついこのあいだまで、やかましいくらい
鳴いていたせみもいなくなれば、またとんぼの
影も
見えなくなったのでした。
「あなたは、どうして、ひとり
残ったのですか。」と、
山茶花は、けっして、
悪いつもりではなく、
思ったままをたずねました。
「
私は、まだゆきたくないのです。もっと
遊んでいたいのです。こうして、
美しい
花が
咲いているのですもの
······。」と、とんぼは
答えた。
山茶花は、
夕日に、
赤い
花弁をひらめかしながら、
「
花といいましても、
私は、
冬にかけて
咲く
花なんですよ。あなたのお
友だちで、
私の
姿を
見ないものがたくさんあると
思います。」といいました。
とんぼと
山茶花は、それから、
四方山の
話をしているうちに、
日はまったく
暮れてしまった。
花は、
闇の
中で、とんぼを
見ることができなかった。その
晩は、
前日よりもさらに
冷たかったのであります。
翌日、
山茶花は、あたりが
明るくなったときに、とんぼの
止まっていたあたりを
見ますと、そこには、
小さな
影が
見えなかった。どうしたのだろう? と、
花は、
思ったのでした。
うすく
湿った、
地面に
落ちたとんぼは、もう
話しかけることすらできなければ、その
身を
運命にまかせるより、ほかになかったのでした。やがて、ありが、それを
見つけたら、
自分たちの
巣の
方へ
引いてゆくでありましょう
······。
このとき、お
嬢さんが、
窓から、
山茶花を
見ていましたが、げたをはいて、
庭へ
出てきて、
木の
下に
立ったのです。
「
日当たりがいいから、まあ、よく
咲いたこと。」といって、
花を
指さきでつついていましたが、ふと
足もとを
見て、そこに、とんぼが
落ちているのに
気づくと、
「まあ、かわいそうに
······。」といって、お
嬢さんは、
拾い
上げました。
「きっと、
昨夜、
寒かったので、
飛べなくなったのだわ。」
彼女は、どうかして、とんぼを
元気づけて、
飛ばしてやりたいと
思いました。もし、
自分の
力で、それができたら、どんなにうれしいであろうと
思いました。
「
太陽が
出て、あたたかになって、
力がつきさえすれば
飛べるわ。」と、お
嬢さんは、いいました。そして、とんぼも、どんなにか
飛べることを
願ったでありましょう。
お
嬢さんは、
寒さのために、
飛べなくなったとんぼを
唇のところへ
持ってきて、
温かな
息を
幾たびも、
幾たびもかけてやりました。とんぼは、
体があたたまると、
元気づきました。
「さあ、
飛んでおゆき。」
お
嬢さんは、
最後に、もう一
度、あたたかい
息を
吹きかけてやりました。とんぼは、
彼女の
手の
中で、
強く
羽ばたきを
打ったが、つういと、ふいに
大空を
目がけて
飛び
立ちました。
もはや、
空には、
太陽の
光と
熱とがみなぎっていました。とんぼは、ちょうど
昨日、
屈託も
知らずに、
遊んでいたように、
圃へ
降りると、そこで、ぼんやりと、また一
日を
過ごしたのでした。
とんぼにとっては、この一
日は
長かったのであります。しかし、その
日もいつしか
暮れかかったのでした。
彼は、どこを
見ても、
友だちの
影を
見なかった。それをひじょうにさびしく
思いました。
昨夜よりも、もっと
冷たい、
強い
風が、どんよりと
曇った
空の
下を
吹いていました。とんぼは、しっかりと
棒の
先に
止まって、
風に
吹き
倒されまいとしていた。このとき、
風は、とんぼに
向かって、
「
早く、あなたも、お
友だちのいるところへおゆきなさい。
私が、つれていってあげましょう
······。」と、とんぼの
耳にささやいたのでした。
とんぼは、
嵐の
言葉にふるえて、
黙っていました。その
晩、とんぼの
小さな
魂は、
青い、
青い
空を、
上へ、
上へと
駆けていました。
遠方の、
清らかに
輝いている
星の
世界へと
旅立ったのであります。
星の
光は、それを
迎えるように、にこにこと
笑っていました。そして、うるんだ、
美しい
目で、じっと、
下界を
見下ろしながら、
「
来年の
夏まで、ここへきて、ゆっくり
休むがいい。そしてまた
来年になったら、そちらへ
旅立つがいい。」といったのでした。
そんなことも
知らず、お
嬢さんは、
木枯らしの
吹く
晩に、
窓のところで、ピアノを
弾いていました。ストーブのそばには、
土を
破ったばかりのヒヤシンスの
鉢植えが
置いてありました。この
草がすがすがしい
空色の
花を
咲くときは、
春になるのでした。
冬と
春とが、
隣り
合わせになって、もう
間近にきていました。
月日の
流れは、このように
速かったのでした。いま、お
嬢さんは、
無心でピアノを
弾いていましたが、ふと
手を
休めて
外をながめますと、
雲切れのした
空に、ぴかぴかと
光る
星が、
葉の
落ちつくした、
林のいただきに
見えたのでした。そして
庭に
咲いた
山茶花が、ガラス
窓をとおして、へやから
射す
燈火に、ほんのりと
白く
浮いていました。
「そう、そう、
今朝、
拾って、
逃がしてやったとんぼは、
今夜も、
寒いが、どうしたでしょう
······。」と、お
嬢さんは
思いました。
この
世の
中にいるときは、
西から、
東へと
飛んで
歩いたとんぼの
羽は、もはや、いらなくなった。それを
嵐は、おもしろそうに、もてあそんでいたのです。
そのうちに、
嵐は、だんだんきちがいじみてきた。しまいに
羽を
捲き
上げて、
空中を
落ち
葉といっしょに、
吹き
飛ばしたのでした。
お
嬢さんは、ふと、
窓の
外に、ちらと
光るものを
認めました。なんだろうと
思って、
見たときは、もう、
闇の
中に
消えてしまったが、それは、とんぼの
羽だったのでした。
||一九二七・一〇||