その科目は、何であつたか今私は忘却してしまつたが、その科目の受持教授は、数年前に物故された
「あゝ、あの一番隅の学生!」
講義の途中で突然先生は叫ばれた。学生たちが一斉に筆記を止めて後ろを振り向いたが、まさか私はそれが私に向けられた言葉であらうとは思はなかつたから、私も慌てゝ後ろを向き、其処が壁であるのに驚いて、更に首を窓の方へ振り向けやうとした時、
「いゝえ、君ですよ||」と教壇の上からさす先生の指が私の鼻を指してゐるのに気がついた。「何事です、君は、教室で居眠りをしてゐるとは何事ですか、それ位ならお帰りなさいツ!」
私は別段帰らうともせず黙つてうつむき、間もなく先生の講義は続いたが、その他にも、何か利口気な質問を発して「お黙りなさいツ!」と一喝された者や、あまりに愚かな質問を発して「君は今日限り退学した方が好いでせう。」と青筋を立てゝ憤られた者、その他学究上の問題で先生の厳しい神経に触れて震え上つた者は多かつた。大概の文科の教授は学生が居眠りをしてゐようと落書をしてゐやうと平気で自己の講義をすゝめてゐたし、また何んな愚問を発しやうと、懇切に答へるか、失笑するかで、憤慨の気色を現はすなどゝいふことはなかつた。しかし片上先生は、先づ術語の用法に関して飽くまでも厳密で、凡そその採点標準が凜烈である||とは先生自らも常々申されてゐたことであつた。
だから先生の試験の日が迫つた時には、就中臆病な私は、何んな六ヶ敷い問題が出るだらう||と思ふと、激しく胸が震えて、今更の如くいら/\として、一冊分の
学生達は唖然として「たつたそれだけですか?」とか「その答へを書くのですか?」などと叫ぶ者があつた。先生は、その文字のやうに大きく点頭かれたまゝ、無言で室を出られ、私達は、先生の、夢のやうな靴の音が静かに階段の下に消えるのを聞いた。その時、陰気に満ちたドツといふ嗤ひ声が起つたが、忽ちもとの静粛に戻つて学生はさらさらと一気呵成に答案のスタートを起した。||私は、窓の外を眺めて、切りと答案のプロツトを模索するのであつたが、二時間経つて終了のベルが鳴つても、断じて冒頭の一句さへ浮ばぬのであつた。
爾来十余年、私は学生時代の不勉強を後悔して、あちこちの田舎にかくれながら、心象の苦悶と放浪性を古典書の翻読や創作の机上に求めて寧日もなき有様であるが、不図疑惑の想ひに駆られて空を見あげる度に、空一杯の大文字で屡々「文学とは何ぞや」と掲示するのであるが、相変らずその答案の冒頭の一句さへ浮ばぬのである。今は学生ではないから二時間のうちに答案を作成する要はないのであるが、是非とも私は、やがてのことにはこの宿題を解決せねばならぬのだ。
いつか私の面上からは一切の笑ひの動きが影を潜めて、あの試験場で放心的な眼を開いて呆然と窓外を眺めてゐたまゝの表情が、不断の私の顔と化してしまつた。私はプラトンの「芸術否定論」とポウの「ユレカ」のナンセンス振りに接触する時だけ、わづかに笑ひを覚えるのであるが、直ぐにその表情はそのまゝ石膏細工のやうに硬化して、で或日私は験しにその面をそつと壊れぬよう保つて鏡の前に運んで見ると、それは笑はうとしてゐるのか怒らうとしてゐるのか、はたまた悲しまうとしてゐるのか区別を知らぬ
それだのに私は、何事に触れてもわらへぬ私の心象の事実に反比例して切なく、やがての私の念願は「笑ひの文学」の創作である。私は、過去に於いて、この念願の一端をも満足させた経験は持たぬのであるが、あの試験場で、落第を覚悟しながら頬杖を突いて、明るい窓の下の円型の芝生を見降ろすと大音寺といふ他科の私の友達が、此方を見あげて何か合図をおくつたのであるが、私はそれどころでなく慌てゝ、向方の校合の窓へ視線を脱し、そして晴れ渡つた空を仰いだが、その時不図そんな大それた念願を抱いてゐたことを覚えてゐる。その男が後刻その時の私の表情を評して、恰も後架へ走りたいのを我慢してゐる鬼のやうな顔だつたぞ、貴様は||と苗字に適はしい大男で大声の彼が同情したものであつたが、あゝ、それほどの昔からの、それと同じ面貌を保ちつゞける私の、あゝ、それは人生そのものゝ如く何んなものか一向不可解な「文学」といふものに寄せるまことに難渋な、私にして見れば大音寺もどきの大声で呼びかけたい||実にも滑稽な念願である。
そして「滑稽小説」||。
どうぞ、この想ひが悲劇に終らぬやうに||。