(十月十六日)
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きのふ、おとゝひ、さきおとゝひ||と、あゝ、何といふ浅ましさであらう、嫌はれ、軽蔑され、憎がられて、ウマクもない酒をのんでの気違騒ぎ、あゝ、もう厭だ、断然、酒は御免だ。ペンを執らうにも、体全体がガタ/\とふるへてゐて、一向に埒はあかぬ。
メフイストフエレス「先づ第一に飲助達に御紹介申しませう。さうするとあなたは必ず此世は大変簡単に渡られるものだといふ合点がゆくに違ひない。奴等と来たら毎日毎日お祭り騒ぎの大浮れで、恰も猫が自分の尻尾に戯れまはるかのやうに、少しばかりの頓智に自惚れて狭いところをぐる/\廻つて居るのです。訴へるほどの頭痛でもない限り、酒場の亭主に信用のある限りは、何の苦労もなくあゝした態の大浮れです。」
これはメフイストがフアウストに酒場の学生を紹介する野暮な科白であるが、俺は失敗してはならないと思ふ酒の場合には、そつとこいつを思ひ出して要心するのだが、うつかりと、また大失敗を演じてしまつた。凡そ俺は知る限りの酒客の中で斯んな科白を投げられて適当と思ふ人物を発見したためしはないのであるが、たつたひとり俺だけは、この言葉に厭といふほど打ちのめされる思ひがするのが常例なのだ。あの時酒場のジーベルやアルトマイエルは、メフイストの科白に憤慨をして決闘を申し込んだが、俺にはそんな生気が皆無で、後悔と憂鬱ばかりなんだから悲惨だ。俺も盃を執つて以来、指折り数えて見れば、はや十余年、||嫌はれ、軽蔑され、憎がられて十余年、友達に、恋人に、そして親に||。
これはどうも常規を脱して俺は俺の酒を罵つてばかりゐるが、そして白面の俺に好意をもつても誰ひとりとして俺の酔態を許した者とてもなかつたところが、あの「自然と純粋」の著者は、||余は寧ろ君の酔態に好感を持つ云々といふやうなことを云つて俺を驚かせた。あれには俺は、ほんとうに驚いてしまつた。何故なら、あいつと来たら就中俺の酔態などといふものは顰しゆくしさうな、一見すると、
この夏の頃、この本の巻末に載せられるといふ筈であつた「河上徹太郎の印象」といふものを少しばかり書きかけて、間に合はなかつたのだが、それをまとめるには大分の時間を要するので、いづれ完結しようと思つてゐる。こんな不体裁なものをおくる位ひなら、未完のそれでもをと思つたのであるが、それは、やはり完成の上にしたいと考へ直した。
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次の一節は、今、これを誌す前に、書きかけて、反古にしようとしたものであるが、何故、反古にしようとしたのかわからなくなつたので、また附け足したのである。
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或夜私たちは、アザミさん、アザミさん、と叫びながら美しいアザミさんの行衛を追ひ求めてゐました。尤も私だけが一番さかんな声を挙げてゐたのですが||。アザミさんは四五日前にG・R(酒場)へ移りましたよ、と私たちがたどりついた酒場で云はれましたので、それつ! とばかりに、雨をおかして私たちはG・Rへ走りました。アザミさんは二三日前にXへ変りましたよ、とG・Rで教はつたので、更に私たちがXへ向ふと、あゝ、あのひとはきのふからパントムで働いて居りますよ。||ところが、パントムといふ酒場のありかが、一向に見当がつかないぢやありませんか。西銀座の裏通りです。私たちは二手にも三手にもわかれて、パントムのあかりを探しまはるのですが、次の街角で落胆の顔だけが出合ふばかりでした。そして口々に、これほど探しても解らないのではあきらめるより他はない、折角の酔が醒めてしまふよ、止めよう/\と云ひ出されて、私だけが悲しくなつてゐたところ、不図うしろを振り返つて見ると、向方からこうもり傘を構へて、ゆつたりとしたあしどりで雨の中を歩いて来る私たちの一人の伴れを見出しました。私たちばかりが先へ立つて騒いでゐるので、とうに帰つてしまつたかと思つてゐたのです。私は意外に思ひました。で私は、彼に近づいて、これ/\の状態となつて皆な疲れてしまつたから別のところへ引きあげようといふやうなことを申しますと、無論、私たちのやうにはしやいだりしてゐない何となくおとなし気な顔の彼のことでありますから、即坐に賛同するであらうと見ると、彼は恰もうらゝかな春霞を眺めてゐるやうな陶然の
それからといふものアザミさんは彼になみなみならぬ好意を寄せるようになつてしまつて、私などがひとりで出かけて行つても、彼のことばかりを話材にしたがつて、折さへあれば怪しからぬ想ひのたけを打ちあけようと身構えてゐる私には一向無頓着になつて了つたのです。彼女は、彼のことばかりを、妾はあゝいふ人が好きだとか、たのもしさうな方だとかなどゝ云ふばかりで、つまり私はその反対の人物として扱はれ、卑俗な言葉で云ふならば、彼のおかげでまんまと私は振られてしまつたのです。その後彼はパントムへ行つたか何うか知りません。私も口惜しかつたので、アザミさんの話は彼にも誰にもそれ以来ぷつつりと口を閉ぢてしまひました。||つい先日アザミさんが結婚先から寄した手紙の中にも、彼の動静に関する質問の個所を私は見出しましたが、未だ返事も出しません。
(下略)