······去年の春だつた。七郎は一時逆車輪を過つて機械体操からすべり落ち、気を失つた。
ふと吾に返ると沢田が汗みづくになつて自分を背負つてゆく。紅く上気した沢田の頬に桜の花が影を落してゐた。||その儘又沢田の背中で気が遠くなつて、病院の一室に、心配さうに凝と自分の顔を瞶めて居る沢田を見出したまでは、七郎は何にも知らなかつた。
同じ年の秋、T中学と対校マラソンが催された時、二人は選手の任を帯びて出場した。二人の勝利は自校の名誉を輝かしたのであつた。その時沢田は悦びのあまり、自分の手を堅く握つて、
「岡村君! これは皆君のコーチのおかげだよ。||僕達二人は一生互に援け合うて暮さうね。」といつた。
沢田の事を想ひ出せば、七郎には未だこんなことは限りもなく数へられた。今迄沈むだ顔をしながらも
「沢田君! 何故君は僕を残して行つたんだ?」七郎は眼を上げて、思にず溜息をついた。
沢田は、その夏丁度七郎が止むを得ない父の用事で遠方へ旅行中、二人でよく毎日乗りまはした燕(沢田が命名したボート)に乗つて唯一人沖へ出た。
燕は急潮にすべつたに違ひない。でなければあれ程腕のさえた沢田が進路を過る筈は絶対にない。||燕が何処まで流されたか、それは沢田より他に知る人はないが、その日の夕暮から霰のやうな雨が、海の魔と握手したかのやうに降り出した。怖しい土用波は、一瞬にして燕と最愛の友とをあはせて、海底に拉し去つた。
一ヶ月も経つてから燕の破片が、波打際で七郎の手に拾はれた。七郎は朝となく晩となく海辺に来ては、遥かの沖を眺めてゐたのであつた。
七郎はその破片で、机の上に置ける程の燕を形造つた。木屑は香の代りにいぶして、逝ける友の俤を偲むだ。
「岡村君!」と突然自分の名を呼ばれたので、七郎はハツと気付いて後を振り向くと、級友の米村が猛烈な勢ひで駆けて居た足を止めて、
「どうしたんだ! 何をぼんやりして居るんだい。明日は愈々予選会ぢやないか。今年が第二回目の戦なんだから、今度の成績で君の
「あゝ。」と七郎は返事はしたものゝ、気は益々滅入つてゆくばかりだつた。
「さあ。」と米村は再び手を取つて促がした。運動場はまるで大きな廻り灯籠のやうになつてゐた。校長までが出張つて皆の練習を励ましてゐた。多勢の生徒等は、目をむき出し、唇を噛むで練習に余念がなかつた。
七郎は仕方がなくまた駆け出した。その後を米村が一所懸命に踏むで行つた。金色の小春日が二人の後姿を照らした。空は水のやうに晴れて居た。
その秋のマラソンは「名月マラソン」といふ名目で、十五夜の晩決行されることになつてゐた。O町の海岸からT町まで、海岸線五
空は蒼々と澄み渡つて居た。お伽噺のそれの如く、大きな月は未だ暮れきれぬ中から中空に白銀のやうに光つて居た。
町民は熱狂した。花火はひつきりなしにあげられた。砂浜は見物の人、応援の人々で麻のやうに乱れた。海岸の所々には目標の為の篝火が燃え始めた。||その夜米村と共に選手の重任を帯びた七郎が、何れ程衆目を集め、又味方の人々から期待されたかは、こゝにしるすまでもあるまい。
やがて割れるやうな歓呼に送られて、選手達は徐ろにスタートを切つた!
余り長くもない町を出てしまふと、たゞ遠くに祭のやうなぞめきが、聞える許り。それもだんだんに消えてゆくと、もう月と海とさうして海辺の松とより他に見てゐるものはなかつた。水面に投げられた月光の反射が松林の奥まで光つて居た。さゞ波はパサパサと駆ける七郎の足音に韻律を合せて居た。
「何といふ美しい月だらう!」
七郎は駆りながら思はず呟いた。||自分の心とは全然離れて、たゞ足だけが機械のやうに動いてゐるのであつた。あとにも先にも人影は見へなかつたから、自分が勝つてゐるだか、敗けてゐるのだか解らなかつた。||今が今、あれ程多勢にさわがれて送り出された自分であるとは、どうしても考へられなかつた。それ程月は美しく静かに照つてゐた。······今にも沢田の声が聞えるかのやうに、波は小さく囁いてゐた。今夜のやうな良夜なら、月の世界にもゆけさうに思へた。月とお話も出来さうに思はれた。死ぬことゝ生きることは、別にさう大した区別のあるものとは思はれなかつた。さうなると七郎は今迄沢田の死を悲しく思つて居た事が、何だか無意味のやうに思はれ出した。
「さう、沢田は今頃どんなに幸福に暮してゐるかわからない······」
もう悲しむまい。さうして沢田が居る時と同じやうに、愉快に楽しく送れないわけはない。何故なら沢田はすぐそこの月の窓から、自分に話しかけてゐるのだもの······。
「沢田君、今日から又二人で
誰にいふともなくかう言つた、七郎の瞳は新しい希望にもえて来た。
「岡村君、君は思ひ違ひをしてゐるよ。君は僕が死んだと思つて悲しむでゐるが、僕は決して死にはしないよ。そら、去年と同じやうに君と一緒に駆けて居るじやないか。」といふかのやうに見えた。
七郎は思はず微笑むだ。
「沢田君、一緒に駆けよう。」と云つて、七郎は今度こそ本気になつて走り出した。
間もなくT町の目標に達した。其処には先方の応援隊ががや/\と犇めき合つてゐた。
「岡村が敗けた! 岡村が敗けてゐる! 痛快痛快!」
「ヤーイ、岡村の奴、敗けたもので口惜しがつて涙をこぼしてゐやがる。いゝざまだ!」
その声で七郎は始めて気が付いた。手を当てゝ見ると、成る程涙にぬれてゐる。
「こりやいかん!」と七郎は屹と応援隊の方へ眼をそらして、
「沢田君、敗けてるんだよ、敗けてるんだよ。ヘビーを出さう。」と
七郎の速度は雲に乗つた風のやうだつた。いつどこで相手を抜いたか気付かなかつたが、O町の決勝点に入つた七郎の胸には、輝やかしい一等賞のメタルが、月の光のやうに光つてゐた。
其の夜七郎が群集にとりまかれて街を歩いて居ると、月も同じやうに七郎の頭上で輝かしい歩みを運んでゐた。七郎は胸におさえきれぬ悦びを、そツと月に向つて微笑むだ。