フットボールは、あまり
坊ちゃんや、お
嬢さんたちが、
乱暴に
取り
扱いなさるので、
弱りきっていました。どうせ、
踏んだり、
蹴ったりされるものではありましたけれども、すこしは、
自分の
身になって
考えてみてくれてもいいと
思ったのであります。
しかし、ボールが
思うようなことは、
子供らに
考えられるはずがありませんでした。
彼らは、きゃっ、きゃっといって、
思うぞんぶんにまりを
踏んだり、
蹴ったりして
遊んでいました。まりは、
石塊の
上をころげたり、
土の
上を
走ったりしました。そして、
体じゅうに
無数の
傷ができていました。
どうかして、
子供らの
手から、のがれたいものだと
思いましたけれども、それは、かなわない
望みでありました。
夜になると、
体じゅうが
痛んで、どうすることもできませんでした。まれに
雨の
降る
日だけは、
楽々とされたものの、そのかわり、すこし
雨が
晴れると、
水たまりの
中へ
投げ
込まれたり、また、
体じゅうを
泥で
汚されてしまうのでした。
雨の
日が
長くつづけば、つづくほど、その
後では、いっそうみんなから、
手ひどく
取り
扱われなければならないので、まりにとっては、
雨の
降る
日さえが、その
後のことを
考えると、あまりうれしいものではなかったのです。
あるとき、フットボールは、みんなから、
残酷なめにあわされるので、ほとんどいたたまらなくなりました。そして、いつも、いつも、こんなひどいめにあわされるなら、
革が
破れて、はやく、
役にたたなくなってしまいたいとまで
思いました。
こんなことを
思っていましたとき、
彼は、
力まかせに
蹴飛ばされました。そして、やぶの
中へ
飛び
込んでしまいました。まりは、しげった
木枝の
蔭に
隠れてしまったのです。
「まりが
見つからないよ。」
「どこへいったろう?」
子供たちは、おおぜいでやぶの
中へはいってきて、まりを
探しました。しかし、だれも、ボールがちょっとした、
木枝の
蔭に
隠れていようとは、
気づかなかったのであります。
「ここんとこではない。ほかのところかもしれないよ。」
子供らは、ほかの
方面へいって
探しはじめました。そして、
見つからないので、みんなはがっかりとしてしまって、いつしか、どこへかいってしまいました。
あとに、まりは、
独り
残されていました。しかし、また、
子供たちがやってくるにちがいない。そして、
見つかったら、いっそうさかんに
投げたり、
蹴られたりすることだろうと
思うと、まりは、ため
息をせずにはいられませんでした。
フットボールが、
木枝の
蔭で、
小さくなっているのを、
空の
上で、
雲が、じっと
見ていました。なぜなら、
雲は、まりが
子供らから、いじめられるのを、かわいそうに
思っていたからであります。
雲は、だれにも
気づかれないように、そっと
空から
下へ
降りてきました。
「フットボールさん、お
気の
毒です。
私は、なんでもよく
知っています。あなたほど、やさしい
正直ないい
方はありません。それだのに、
毎日、ひどいめにおあいなれされています。
幸い、だれも、いまは
気づきませんから、この
間に、
私といっしょに
空へおいでなさい。そうすれば、もう、みんなの
手がとどかないから
安心です。そうなさい。」と、
雲はいいました。フットボールは、こういわれると、
日ごろから、
空にいて、じっと
下を
見ていた
白い
雲でありましたから、なつかしそうに、
「ごしんせつにいってくださって、ありがとうぞんじます。
私みたいなものが、あの
美しい
空へいって、すんでいるところがありましょうか?」といって、たずねました。
雲は、にこやかに
笑いました。
「それには、いい
考えがあることです。はやくなさらないとだめですから
······。」といって、
雲は、まりを
急きたてました。
フットボールは、
雲の
言葉に
従いました。そして、
雲に
乗って、
空へ、
高く、
高く、
昇ってしまったのであります。
「まりさん、
私は、
夜になると、こういうように
月を
乗せて、
大空を
歩くのです。しかし
月は、
夜でなければ、やってきません。あなたは
昼間は、
月のかわりに、ここからじっと
下界を
見物していなされたがいいと
思います。」と、
雲はいいました。
フットボールは、
白い
月のように、
円い
顔を
雲の
間から
出して、
下をながめていました。だれも、
自分をまりだと
思うものはありませんでした。
「あすこに、
昼のお
月さまが
出ているよ。」といって、
子供たちは、
仰ぎながらいっているのを、まりは
聞いたのであります。
フットボールが、
見えなくなってしまってから、
子供たちは、ほんとうにさびしそうでした。
広場へ
集まってきても、いままでのように、きゃっ、きゃっといって、
遊ぶこともなくなりました。
「あのフットボールは、どこへいったろうね。」と、
一人がいいますと、
「いいまりだったね。」と、ほかの
一人が、なくなったまりをほめました。
「あんまり、ひどく
蹴ったから、いけないんだね。」と、なかには、
後悔したものもありました。
子供たちのいうことを、
空で
聞いていたまりは、かつて、
自分のことなど、
口にも
出さなかったのに、いまはこんなに
自分のことを
子供たちが
思っているかと
思うと、うれしいような、
悲しいような
気持ちがしたのであります。そして、それほどまでに、
自分を
愛してくれるなら、たとえ
自分は、どんなにつらいめをみても、
子供たちを、
喜ばしてやりたいというような
考えになりました。
まったく、まりは、いまは
雲の
上にいて
安全でありましたけれど、
毎日、
毎日、
仕事もなく、
運動もせず、
単調に
倦いていました。そして、だんだん
地の
上が
恋しくなりはじめたのでありました。
まりは、
地上に
帰ろうかと
考えました。そのとき、
風は、
彼にささやいたのであります。
「そんな
気を
起こすものではない。もしおまえさんが
帰ったら、もう二
度とここにはこられないだろう。そして、いままでよりか、もっといじめられるだろう
······。」と、
風はいったのであります。
雲は、また、まりに
向かって、
「もう、あなたは
苦しいことを
忘れたのですか。ここに、こうしていたら、どんなに
安心であるかしれない。あの
子供たちも、じきにあなたのことなどは
忘れてしまいます。」といいました。
まりは、
子供たちといっしょになっていた
時分が、やはり
恋しかったのです。そして、
独りぼっちとなり、やがて、みんなから
忘れられてしまうと
考えると、もうじっとしているわけにはいきませんでした。
「
雲さん、
長い
間、どうもお
世話になりまして、お
礼の
申しあげようもありません。
私は、
下界へゆきます。そして、
坊ちゃんや、お
嬢さんたちのお
仲間入りをいたします。
私は、もう、さびしくて、さびしくてかないません
······。」と、まりはいいました。
雲は、このことを
聞くと、また、まりの
心持ちに
同情をしました。
「それほど、あなたが
帰りたいなら、つれていってあげましょう。」と、
雲はいいました。
ある
夜、
雲は、まりを
乗せて
下界へ
降りてきました。そして、いつかまりの
隠れていたやぶの
中へ、そっと
降ろしてくれました。
「まりさん、お
達者にお
暮らしなさい。さようなら
······。」と、
雲は、
名残惜しげに
別れを
告げました。
「ありがとうございました。」と、まりは、お
礼をいいました。
やがて、
夜が
明け
放れると、やぶの
中へ
朝日がさし
込みました。
小鳥は
木の
頂で
鳴きました。そして、ぼけの
花が、
真紅な
唇でまりを
接吻してくれました。
「まりさん、どこへいままでいっていなさいました? みんなが、
毎日、あなたを
探していましたよ。」と、ぼけは、なつかしげにまりをながめていいました。
まりは、この
地上のものを
美しく、うれしく
思いました。なぜ、
自分は、この
下界を
捨てて、
空の
上などへ、すこしの
間なりとゆく
気になったろう。もう、これからは、
不平をいわずに、みんなといっしょに
暮らすことにしようと
思いました。
子供たちは、どうしてもフットボールのことを
思いきれませんでした。そして、またやぶの
中へ
探しにきました。
彼らは、
思いがけなくまりを
見つけたのであります。
「あった! あった! まりが
見つかったよ。」
「おうい、フットボールが
見つかった!」
「みんな、
早くおいでよ。」
その
日から、
広場で、
前のようにフットボールがはじまりました。
子供たちは、その
当座は
気をつけてまりを
大事にしました。
しかし、いつのまにか、また
乱暴にまりを
取り
扱ったのであります。なんとされてもまりは、だまっていました。
こうしているうちに、まりは、もう
年をとってしまいました。はね
返る
元気もなくなれば、
不平をいったり、
逃れようとする
勇気もなくなってしまいました。
子供たちのするままになって、
終日外へほうり
出されているようなこともありました。
空の
雲は、まりが
疲れて、
広野にころがっているのを
見ました。
雲は、あわれなまりを、
気の
毒に
思ったのであります。もし、二
度と
空へくるような
気があるなら、つれてきてやろうと
思って、
雲は、だれも、
人のいないときを
見はからって、
空から
降りてきました。
「もし、もし、まりさん。」と、
雲は
呼びかけました。しかし、
耳も
遠くなって、
目のかすんだまりは、せっかくの
雲の
呼び
声にも
気づきませんでした。
雲は、
哀しそうに
去ってゆきました。
||一九二五・四作||