父親は、
遠い
街に
住んでいる
息子が、どんな
暮らしをしているかと
思いました。そして、どうか一
度いってみたいものだと
思っていました。
しかし、
年を
取ると、なかなか
知らぬところへ
出かけるのはおっくうなものです。そして、
自分の
長らく
住んでいたところがいちばんいいのであります。
「
私は、こんなに
年をとったのに、せがれはどんな
暮らしをしているか
心配でならない。
今年こそはいってみよう。」
父親は、
遠い
旅をして、
息子の
住んでいる
街にやってきました。それは、にぎやかな
都会でありました。
静かな、
夜などは、
物音ひとつ
聞こえず、まったくさびしい
田舎に
住んでいました
人が、
停車場に
降りると、あたりが
明るく、
夜でも
昼間のようであり、
馬車や、
電車や、
自動車が、
往来しているにぎやかな
有り
様を
見て、びっくりするのは
無理のないことです。
父親も、やはりその
一人でした。
「お
父さん、よくおいでくださいました。」といって、
息子はどんなに
喜んで
迎えたかしれません。
息子はいまでは、この
都でなに
不自由なく
暮らしていられる
身柄でありましたから、
父親に、なんでも
珍しそうなものを
持ってきて、もてなしました。また、
方々へ
見物にもつれていったりいたしました。
父親は、はじめのうちは、どこへいってもにぎやかなので
驚いていました。また、いままで
口にいれたことのないようなものを
食べたりして、こうして、
人間が
暮らしてゆかれたら、しあわせなものだとも
考えられたのでした。
五日、
六日というふうに
同じことがつづきますと、そのにぎやかさが、ただそうぞうしいものになり、また、
毎日ごちそうを
食べることも、これが
人間の
幸福であるとは、
思われなくなりました。
「お
父さん、おもしろい
芝居が、はじまりましたから、いってごらんになりませんか。」
「いいや、
見たくない。」
「お
父さん、これから、なにかうまいものを
食べに
出かけましょう。」
「いいや、なにも
食べたくない。」
父親は、じっとして、
家の
中に、すわっていました。
「どうしたのですか? お
父さん。」と、
息子は、なにをいっても、
父親が
気乗りをしないので、
心配して
問うたのでありました。
「
私は、
国へ
帰りたくなった。」と、
父親は
答えました。
息子は、これを
聞くと、
目を
円くして、
「あんなさびしい
山の
中へ
帰ってもしかたがないではありませんか。どうして、あの
不便なところがいいのですか?」と、
息子は、
父親の
心をはかりかねて、たずねました。
「
私は、
国へ
帰りたい。」と、
父親は
答えました。
「お
父さん、なにかいけないところがあったら、いってください。また
私たちが、
気のつかないところがあったら、これから
気をつけるようにしますから、もっと、こちらにいてくださいまし。そのうちに、お
父さんは、この
街の
生活にも、おなれでありましょうから
······。」と、
息子は、ひたすら
真心をあらわしていいました。
すると、
父親は、
頭を
振って、
「いや、
私は、かえっておまえが
国に
帰るように、つれにきたのだが、おまえは、
帰らないか?」といいました。
「どうして、お
父さん、
私が、
帰ることができましょう?」
息子は、
父親の
顔を
見つめて、あきれた
顔つきをしました。
それから、
日ならずして、
老人の
故郷に
向かって
旅立ってゆく、
姿が
見られたのであります。
その
日は、一
日、
息子は、
家にいて、
父親のことを
案じていました。
「あんなに、お
年をとっていられるから、
道中なにか
変わったことがなければいいが
······。」
「いまごろ、
汽車はどのあたりを
通っているだろうか
······。」
いろいろと
息子は、
思いました。そして、
道すがらの
景色などを
思い
出しては、
目に
描いていたのであります。
汽車は、
高い
山々のふもとを
通りました。
大きな
河にかかっている
鉄橋を
渡りました。また、
黒いこんもりとした
林に
添って
走りました。
白壁の
土蔵があったり、
高い
火の
見やぐらの
建っている
村をも
過ぎました。そして、
翌日の
昼過ぎには、
故郷に
近い
停車場に
着くのでありました。
「いまごろは、お
父さんは、あの
街道の
松並木の
下を
歩いていなさるだろう
······。」と、
息子は、
都にいて
思っていました。
それは、
広々とした、
野中を
通っている、
昔ながらの
道筋でありました。
年とった
松が
道の
両側に
生い
立っていました。
野の
面を
見わたすと、だんだん
北の
海の
方に
伸びるに
従って、
低くなっていました。そして、その
方の
地平線は、
夕暮れ
方になっても、
明るくありました。
山には、せみやひぐらしが
鳴いていました。
老人は、もう
多年この
山の
中に
生活をしています。
道すがらの
木も、
草も、
石も、またこの
山にすんでいる
小鳥や、せみや、ひぐらしにいたるまで、
毎日のように、この
山道を
歩く
老人の
咳ばらいや、
足音や、
姿を
知らぬものはありません。
父親が、
街道を
歩いていますと、
電信柱の
付近に
鳴いているつばめは、「いま、お
帰りですか。」と、いうように
聞こえました。
夕焼けの
空は、
昔も、
今も、この
赤い、
悲しい
色に
変わりがありません。
父親は、
夕焼けの
空をながめました。
「よく、
自分は、せがれの
手を
引いて、
夕暮れ
方、
町から
帰ったものだ。あの
時分のせがれは、どんなに
無邪気で、かわいらしかったか。あのせがれがいまでは、りっぱな
人間になったのだ。
私が、こんなに
年をとったのも、
無理はない
······。」と、
考えにふけったのでした。
そして、
老人は、いよいよ
山道にさしかかりますと、
山の
上は、まだ、ふもとよりは、もっと
明るくて、ちょうが
飛んでいました。
「いま、おじいさんお
帰りですか?」と、いっているように、
人なつかしげに、
老人の
身のまわりを
飛んでいました。せみも、ひぐらしも、このとき、みんな
声をそろえて
鳴きたてました。
「よう
帰っておいでなさいました。あなたのお
山は、いつでも
平和です。おじいさん、あなたは、いつまでもこのお
山においでなさい。そして、けっして、ほかへゆくなどと
思いなさいますな。」と、みんなしていっているように
聞こえました。
おじいさんは、にこにこしていました。
「なんで、こんないいところを
捨てて、
他国へなどゆけるものか。」
いつまでも、いつまでも、この
山の
中の
自分の
家に、
暮らそうものと
思いました。そして、その
憐れげな、
小さな
影を
道の
上に
落としながら、一
歩、一
歩、
登ってゆきました。
こうして、
父親は、また、
故郷の
人となったのであります。
こんどは、
息子が、
毎日のように
父親の
身の
上を
心配しました。
「お
父さんは、ほんとうに
年をとられた。」と、
彼は
父親の
姿を
目に
思い
浮かべました。
自分が
子供のとき、
父親の
後からついて
町へゆき、また
山に
帰ったときは、
父親は、まだ
若く、
力が
強く、
達者であったのです。そう
考えると、なぜ
早く、この
都へ
越してこられないものかと
案じていました。
「あのさびしい、
不便な、
田舎がなんでいいことがあろう。ぜひ、
今年の
中に、
迎えにいってつれてこなければならない。」と、
息子は
毎日のように
思っていました。
それに、
秋から、
冬にかけて、
山の
中は、
風が
寒く、
吹雪がすさまじいのでありました。
息子は、
故郷にいた
時分の
記憶をけっして、
忘れることができません。
「
雪の
積もる
冬は、お
父さんは、どうしてあんなところで
暮らされよう。」
息子は、とうとうお
父さんを、
自分の
住んでいるにぎやかな
街へ
迎えるために、
久しぶりで
故郷へ
帰ったのであります。
息子は、
自分の
生まれた、
古い
家の
中へはいりました。すると、いろいろの
思い
出が、そのままよみがえってくるのでした。
壁板に
書いた、
子供の
時分の
楽器が、なおうすく
残っています。よく
鳥かごをかけた、
戸口の
柱の
小刀の
削り
痕もそのままであります。
雨の
降る
日には、
土間で
独楽をまわした。そして、よく、かち
当てた
敷石もちゃんとしていました。なにもかも、
昔のままであったのであります。
息子は、ぼんやりとした
気持ちで、二、三
日は
過ごしてしまいました。
「お
父さんは、
都へおいでになりませんか。」と、
息子は、いいました。
「いや、どうして、この
長く
住み
慣れた
家を、
捨ててゆけよう。」と、
父親は、
頭を
振りました。
「おまえこそ、ここへ
帰ってきて、いっしょに
暮らしたがいい。」と、
父親は、
息子に
向かっていいました。
息子は、
都に
残してきた、
仕事のことを
思い
出しました。そして、どうしても
都に
帰らなければなりませんでした。
二人は、たがいに
別れて
暮らさなければならないのを
悲しく
思いました。
「これは、おまえが
子供の
時分に、
裏の
庭さきで
拾って
大事にしていた
石だ。」と、
父親はいって、
床の
間の
台の
上に
乗せてあった
黒い
石を
取りあげて、
息子に
見せました。
「
私は、おまえが
子供の
時分に、
持っていたおもちゃは、みんな
粗末にしないでしまっておく。そして、ときどき
出してみては、おまえのことを
思い
暮らすのだ。」と、
父親はいいました。
これを
聞くと、
息子は、どんなに
父親の
情けをありがたく
感じたかしれません。そして、その
黒い
石を、
手に
取ってつくづくとながめますと、やはり、
自分にも
子供の
時分のことが
思い
出されたのであります。
ほとんど、
幾十
年の
間、その
石は、
故郷のうす
暗い、
家の
床の
間に、ほこりを
浴びて
置かれていました。
「お
父さん、
私は、この
石を
持っていってもようございますか?」と、
息子は、
父親にたずねました。
「ああ、いいとも、おまえの
持ってゆくぶんにはさしつかえない。なんでもほしいものがあったら
持ってゆくといい。」と、
父親は
答えました。
長い、
長い
間、こうして、じっとしていた
石が、ここから、どこかへ、まったく
知らぬところへ
持ってゆかれることになりました。それは
思いもよらないことで、
変化というものがどんなものの
上にもくることを、
思わせたのであります。
石は、
息子のかばんの
中へ、
紙に
包まれてはいりました。
彼は、また
外に
出て、
子供の
時分、よく
遊んだ
草原へやってきました。そこには、いろいろな
草が、
紫や、
青や、
白の
花を
咲かせていました。その
花は、このあたりにはたくさんあっても、
都ではとても
見ることができませんでした。
彼は、その
花の一つ、一つを
昔のお
友だちにでもあったように、なつかしげにながめました。とんぼが
飛んできて、かがやかしい
羽を、
花に
止まって
休めています。それに、じっと
見入っていると、そのころ、いっしょに
草の
葉や、
花をつんで
遊んだ
近所の
女の
子や、
男の
子の
姿が、ありありと
目さきにちらつくように
映ってくるのでした。
しかし、その
女の
子も、
男の
子も、もういまではこの
土地にはいません。みんな
大人になって、
女の
子はお
母さんになり、
男の
子はお
父さんになっているのです。けれど、この
草原の
景色は、
昔とすこしの
変わりもありませんでした。
草に
咲いている
花の
色も、またとんぼの
羽もすこしの
変わりがありませんでした。
息子は
考えました。「この
草も
都へ
持ってゆこう。そして、
朝晩ながめて、
故郷のことを
思い、
子供の
時分のことを
考えよう
······。」と、
彼は、
紫色の
花の
咲いている
草を、
根をつけて
掘り
取ったのであります。
やがて
息子は、
都に
帰ることになりました。
父親に、
別れなければならぬ
悲しみで、
胸いっぱいにして
旅立ちました。
汽車は、くるときと
同じ
道を
通って、ついにふたたび
故郷から
遠く
去ってしまったのであります。
幾百
里も、
遠いところを
石と
草とが
運ばれました。
石や
草はどうして、こんな
遠いところへくるなどと
思ってましたでしょう?
息子は、
植木屋に、
草といっしょに
石も
鉢へ
移させました。そして、
草と
石とを、ときどき
見ようとしたのであります。
植木屋は、
鉢の
中へ、
草を
植え、
程いいところへ
石を
置きました。
「これで
根がつけば、たいしたものです。」と、
植木屋はいいました。
息子は、
植木屋に
向かって、「これをどこに
置いたらいいだろうか。」と
聞きました。
「さようです、
寒いところに
生える
草ですから、
風当たりのいい、
高いところがいいと
思います。」と、
植木屋は
答えました。
息子は、これをバルコニーに
出しておきました。そこからは、
都会のいろいろな
工場から
上がる
煙が
黒くなって
見られました。ちょうど
黒いへびのはい
上がるように、いつしか
青い
空に、
煙は
吸い
込まれて
消えているのでありました。
また、いろいろの、
巷から
起こる
音が
聞こえてきました。
風は、いままでは、つねに
南から
吹いていましたが、だんだん
北から
吹くほうが
多くなると、
季節も
変わって、
熱さは
去っていったのです。
つばめは
鳴いたり、すずめもまれにきて、
屋根の
上などで
鳴きましたけれど、
草は、
故郷の
草原で
聞いたような、いい
小鳥の
声にはふたたび
出あいませんでした。
太陽は、
東から
出て、
西に
沈みました。けれど、あの
黒い
森影から
上がって、あの
高い
雲の
光る
山のかなたに
沈むのではありませんでした。いつもほこりっぽい
建物の
屋根から
上がって、あちらの
屋根の
間に
落ちるのでした。
草は、
夜々、
大空に
輝く
星の
光を
仰いで、
独りさびしさに
泣いたのです。
故郷の
露深い、
虫の
声のしげき
草原が
慕われたからです。そこにいまもなお
花の
咲いている
姉妹や
友だちがいるのが、かぎりなく
恋しかったのです。
ある
日、
草は、
下に
黙ってすわっていた
石に
向かっていいました。
「あなたも、
遠くからきなされたのですか。」
「ええ、やはり
汽車に
乗って、あなたといっしょにまいりましたのです。」と、
石は
答えました。
すると、
草はさも
疲れたというようすをして、
「あなたは、
体がおじょうぶですから、どこにいられてもいいのですけれども、わたしは、もうこんなに
弱っています。ついここにくるまでは、はかない
自分の
運命というものに
考えつかなかったのです。」と、さも
後悔したように
語りました。
これを
聞くと、さすがに
黙っていた
石も、
感慨に
堪えないふうで、
「
私は、
長い
幾十
年かの
間、
無事に
暮らしてきました。そして、おそらく、
永久にそのように
暮らされるものと
思っていました。それが、
思いがけなく、こんな
身の
上になってしまったのです。これから
先のことを
考えると
不安でなりません。」と、
石はいいました。
やさしい
草は、
自分の
身を
忘れて、
石に
同情したらしかった。
「けれど、あなたはおじょうぶですから、
安心なさいまし。わたしは、
枯れれば、
明日にもあの
人通りの
多い
道の
上に
捨てられてしまうかもしれません。そうすれば、あの
怖ろしい
車や、
馬にふまれて、わたしの
体は、
跡形もなく
砕かれてしまうでしょう。」と、
草はいいました。
「いえ、
私だって
同じことです。」と、
石はいいました。
こうして、
草と
石とが
相慰め
合ったのも、
束の
間のことでありました。
草は、とうとう
枯れてしまったのです。
息子は、
草の
枯れたのを、どんなに
悲しんだかしれません。
「そのうちに、なにか、かわりのいい
草を
見つけてきて
植えてさしあげます。」と、
植木屋はいいました。
ある
日のこと、
植木屋は、バルコニーに
上がりました。そして、
枯れた
草の
鉢を
持って
降りてきました。なにか、それに
代わりの
草を
植えようと
思ったからです。
その
後のことでありました。
息子は、
夜床の
中にはいってから、
枯れた
草や、
持ってきた
石のことを
思い
出しました。せめてあの
石なりと
大事にして、
記念にしておこうと
思いました。そして、
夜の
明けるのを
待ってバルコニーに
出てみますと、いつのまにか、そこには
新しい
草の
植わった
鉢が
置いてありました。そして、もとより
枯れた
草も、
石も
影だに
見られませんでした。
「この
草は、どうしたのだ?」といって、
家内のものに
聞きますと、
「
昨日、
植木屋が、あなたのお
留守に
持ってきましたのです。」と
答えました。
息子は、
枯れた
草はしかたがないとしても、
石は、どこへいったろう。
植木屋に
聞いてみようと、さっそく、
植木屋を
呼びにやりました。
「あの、
草の
下にあった、
黒い
石でございますか。つまらない
石だと
思って、
捨ててしまいました。」と、
植木屋は
答えました。
息子は、これを
聞くとたいそう
驚きました。
「あの
石は、
私の
大事な
石だ。どこへ
捨ててしまった?」と
問いました。
すると、
植木屋は、しばらく
考えていましたが、
「たしか、ここからの
帰り
途に、あちらの
広い
空き
地に
捨ててしまいました。」と
答えたのであります。
その
空き
地は、もと
建物があったのですが、いまはなにもなく
草が
茫々として
生えていました。そして、
子供らはその
中に
遊び、
通行する
人たちは、
近道するために、その
空き
地を
横ぎったのであります。
息子は、どんなに、がっかりしたかしれません。どうしても、その
石を
忘れることができませんでした。すると、
黒い
石が、
夜露にしっとりと
湿れて、
広場の
中で、
月の
光に
照らされて
輝いている
夢を
見ました。
ふと
目をさましますと、
外は、ちょうどその
夢に
見たようないい
月夜で、
小さな
窓が
明るく
月光に
照らされていました。
彼は、さっそく、
起き
上がりました。そして、その
広場へ、
石が
落ちていないかと
探しにゆきました。
すっかり
秋の
景色となって、こおろぎが
鳴いていました。うすもやが一
面に
降りて、
建物の
間や、
林の
木の
間や、
広場の
上に
渦巻いているようにも
見られました。
息子は、あたりが、すでに
眠静まった
真夜中ごろ、
一人広場にやってきますと、はたしてさびしい
月の
光が、
草の
葉をば
照らしていました。
けれど、
黒い
石が、どこにあるか、もとより
容易に
見当てることができませんでした。
彼はあちらへゆき、こちらへさまよっていますと、うすもやの
中に、しょんぼりと
立っている
人影を
見いだしました。
「いまごろ、
何人が
立っているのだろう。」と、
怪しみながら、よく
見つめますと、それは、
美しい、
若い
女でありました。
彼は、
好奇心から、つい、そのそばに
近づいてみる
気になりました。
「いまごろ、あなたは、そこになにをしていられますか?」と、
彼はたずねました。
美しい
女は、ぱっちりとした、すずしい
目をこちらに
向けました。そして、
彼を
見ていましたが、にっこりと
笑って、
「わたしは、かんざしの
珠をさがしています。もう
幾十
年も
前のことでありました。わたしは、お
嫁にゆく
前に、ちょうどこのあたりであった
窓から、ある
日の
夕暮れ
方、かんざしの
珠をあやまって
落としますと、それがころげてどこへいったか
見えなくなったのです。それから、わたしは、いくら
探したかしれません。お
母さんからはしかられました。けれど、どうしても、なくした
珠は
見つからなかったのです。わたしは、
一生そのことを
忘れませんでした。
今夜も、また、わたしは、その
珠のことを
思い
出して
探しにきたのです。」と、その
若い
女は、
答えたのであります。
彼は、この
話をきくと、なんとなく
体じゅうが、ぞっとしました。
女の
姿を
見ると、
長い
黒い
髪は
結ばずに、
後ろに
垂れていました。
若い、
美しい
女は、いっしょうけんめいに、
足もとの
草を
分けて、
珠を
探していました。
彼も、また
草を
分けて、なにかそのあたりに
落ちていないかと、
熱心にたずねましたけれど、べつになにも
見あたりませんでした。
「どんな
色の
珠でしたか?」
こういって、
彼は、
顔を
上げて、もう一
度子細に
若い
女を
見ようとしますと、どこにも
女の
影は、
見えなかったのです。
不思議なことがあれば、あるものだと
思って、しばらく
彼は、
茫然として、たたずんでいました。
月は、
西に
傾きました。そして、
思いなしか、
東の
空は
白んで、どこからか、
暁を
告げるに
鶏の
鳴く
声が
聞こえてきました。もやは、いつしか
晴れて、
空は
青みをまして
頭の
上に
垂れかかっていました。