「ねえ、いゝものあげようか?」
すると二人はお縁に飛んで出て、いつしよに手を出してさけびました。
「おくれ、僕に!」
「あたしに
ところが、宗ちやんがその箱のふたを開けた時、二人はびつくりして手をひつこめました。箱の中には、まつ黒い
「びつくりした! お
有一君はすぐさういつて、箱の中をのぞきましたが、真奈ちやんは、すつかりおこつてしまひました。
「宗ちやんのバカ! あたし、まだ胸がドクドクしてるわ。ちつともいゝものぢやないぢやないの。そんな虫なんて、
すると、兄さんの有一君が笑つていひました。
「真奈、さうおこるなよ。これは珍しい虫なんだぞ。こゝへ来てよく見ろよ。まるで、陸軍のタンクみたいだぞ。こいつ、頭に
それから有一君は、真奈ちやんに、小さいおもちやの汽車や、電車や、自動車や、大砲や、タンクや、乳母車などを、ありつたけ持つて来るやうにいひつけました。
「ね、早く持つておいでよ。甲虫に引かすんだから。とつても面白いんだぞ。」
「ぢや、待つてゝ。」
さう云つて真奈ちやんが、子供部屋へおもちやを取りに行くと、有一君は女中部屋へ、甲虫をくゝる糸をもらひに行きました。
「甲虫をくゝるんですね。おもちやの車を引かすんですか。ぢや、赤い糸が、きれいでいゝでせう。だけど、甲虫はおつかなくて、なか/\くゝれませんよ。わたしがくゝつてあげませうよ。」
さういつて、十五になる小さい女中のお
お君も小さい頃、よく田舎の森や林で甲虫を取つて来てマッチの箱を引かしたりして遊んだことがあつたからです。
お縁に来てみると、
「あらまあ、大へんなおもちやですね。」
お
甲虫は六本の足をひろげて、
「強いなあ。」
「面白いなあ。」
みんなよろこびました。
「オリンピックをさせてごらんなさい。もつと面白いから。五匹を一列に並べて。」
お君がさういふと、すぐ、みんなでその通りにしました。そして大騒ぎになりました。台所からお母様が、ねえやのお君をお呼びになつても、有一君と真奈ちやんはお君を行かせませんでした。みんな甲虫の
「だめ/\、お母さん。ねえやも応援してるんだから。今、オリンピック大会が始まつてるんだよ。」
「お母さんも来てごらん。日本の甲虫が第一着になりさうなの。早く来て応援してよ。フレー/\日本選手!」
「フレー/\、甲虫!」
その声を聞いて、お母様も見に来られました。そして甲虫が五つも六つものおもちやの車をひいて、尻を指先でたゝかれながら、エッチラオッチラとオリンピックをさせられてゐるのを、可哀さうに思はれました。
「まあ、可哀さうに。
お母様はほそい
「ほら。あたいの甲虫は、こんなにきれいなものをひつぱるのよ。早いでせう。」
真奈ちやんは得意です。
「よし、僕のは強いんだから、もつといゝものをひつぱるんだ。ねえ
「うん。」
「いゝもの、持つて来よう!」
その時お母さんとお君が出て行きましたので、有一君は自分の部屋へ行きましたが、何もいゝものが見つかりません。そこで鉛筆とナイフを持つて来て、甲虫の赤い糸にくゝりつけましたが、真奈ちやんの甲虫には勝てません。そこで真奈ちやんの甲虫を、指先でひつくりかへしてしまひました。
「ひどいわ、
でも真奈ちやんは、おつかなくて手が出せません。自分の甲虫も起してやれないのです。
ひつくりかへされた
みんなポカンとして見てゐるうちに、甲虫は庭の空を横切つて、
「あッ!」
みんなびつくりしました。大騒ぎになりました。庭に出て高い枝を見あげましたが、
お母さんを呼び、お父さんを呼んで来ました。けれど、お母さんはまぶしさうに見あげるばかりですし、中学校の英語の先生であるお父さんは、昔から木登りなんか少しも出来ないので、みんな見あげてはさわぐだけです。真奈ちやんは泣けさうになつて来ました。
「ねえ、お父さん、指環をとりもどして。ねえ、真奈のだいじな、だいじな、
お父さんは困つてしまひました。柿の木の根元に立つて見あげると、なるほど十メートルばかり上に赤い糸にブラ下つた小さい指環が、キラリ・キラリと光つてゆれてゐます。けれど、登つて行くことは出来ないし、物干竿なんかではどうにもなりません。
お母さまも困つてしまひました。
「あなたにも、あれを取ることは出来ませんか? いゝ
「少し高すぎるからな。木登りは出来ないしな······ハハア。」
そこへ、裏庭の方から、ねえやのお君が出て来ました。そしてニコ/\しながら、ひとりごとのやうに小声でいひました。
「とつてあげませうか? あの柿の木へ逃げて行つたんですか?」
すると真奈ちやんが、すぐお君のそばへとんで行つて、お君の
「ほら、見えるでせう。あんな高いところへ、逃げて行つちやつたんだけど、とれる? ねえやにとれる?」
「とれますとも。登つて行けば、すぐとれますよ。」
さういつて、ねえやはニコ/\笑つて、
「でも、みんな見てゐらつしやると恥かしいわ。わたし一人なら、すぐ登つて取るんだけど。」と、いひました。
「あら、ねえやにとれるッて! お母さん、お父さん、ねえやは木登りが出来るんだつて! あの指環ぐらゐ、すぐ取つてくれるんですつて!」
真奈ちやんがさわぐので、お君はまつ赤な顔をしてしまひました。
「さうを。おまへ、ほんとなの?」
お母様がさうおつしやると、お父様も有一君も、ねえやをほめました。
「さうかねえ、木登りが出来るのかねえ? だが、あれを取つて来られるのかァ?」
「ねえやはえらいんだねえ、お父さんよりもえらいや!」
ねえやのお君は、都会の人はみんな賢くて、えらいんだと恐れてゐましたが、なんだか案外つまらない者のやうな気がして来るのでした。このくらゐの
「ほんとに取りたいんでしたら、ほんとに取つて来てあげませうか?」
お君は、
「ほんとに取つて!」と、真奈ちやんが、せがみました。
「だけど、おまへ、ほんとに木登りが出来るの? おつこちたら大へんですよ。」と、お母様が心配さうにいひました。
「あぶないぞ。ほんとに大丈夫なのか?」と、お父様も心配さうにいひました。
「いゝよ、大丈夫なんだよ。ねえ、ねえや。早く登れ。僕、下から見てゐてやるから。」と、有一君は励ましました。
ねえやはニコ/\笑ひながらほんとに登つて取つて来てみせようと決心しました。
「ぢや、ほんとに取つて来てあげませうね。」
さういふと、ねえやは両手の内側に
みんな不思議さうに、ぢつと見あげて突つ立つたまゝです。もし一本の手か足かゞ離れたなら、たちまちドスーンと落ちるにきまつてゐると思ふと、
ねえやは、だん/\上へ上へと登つて行つて、大きな枝に足をかけました。そしてしばらくぢつと休みました。それからまた、よぢ登りはじめました。もう
下で見てゐる者たちは、ハラハラしました。もし今、あの甲虫が飛び出したら、もうそれきりですし、もしその拍子に、ねえやが手でも離したら、それこそ大へんなことが、今すぐ持ちあがるぞと思ふのでした。
けれど、ねえやは、落ちつきはらつて、だん/\上へ登つて行きます。
ねえやは、たうとう赤い糸にブラ下つてゐる
「あゝ、よかつた!」
「さわぐな。これからが危いのだ。気をゆるめるな、お君。」
落ちついて、お父様がいひました。
お君は落ちつきはらつて、はじめて真下にゐるみんなを見下しました。そして自分の足下に、仰向いてゐる
お君は、はじめて自分がみんなにも負けないだけの、ある強い力を持つてゐるといふことが感じられ、急に大胆な気持になれるのでした。そしてこの心持を忘れずに、住みにくい苦しい世の中を、元気にわたつてゆかねばならぬのだと、おぼろげながら考へるのでした。
「とれましたよ。だけど投げると、また飛んで逃げるかも知れないから、持つておりてあげませう。」
お君はニコ/\笑つたあとでさういふと、スルスルウと、太い幹をすべりおり、下に脱ぎ
「ほれ、お嬢さん。もう飛ばさないやうになさいな。」
下におりると、お君はさういつて、指環のついてゐる甲虫を、真奈ちやんに渡しました。そしてみんなが感心して、ほめるのを聞かうともせずに、すぐ、だまつて裏口の井戸端の方へ行つてしまひました。
みんなは、それを見ると、またほめました。
「えらい
「さうですわ。だまつてゐますけど、あの
「さうさ。お父さんなんかよりえらいや。女の子のくせに、あんなとこまで登れるんだもの。」
「ねえやは、ゴウケツね。」
真奈ちやんがさう言つたので、みんな笑ひ出しました。笑ひながら、みんなお縁から座敷へあがつて来ました。