橋のそばに、
一人のみすぼらしいふうをした
女が、
冷たい
大地の
上へむしろを
敷いて、その
上にすわり、
粗末な
三味線を
抱えて
唄をうたっていました。
あちらにともっている
街燈の
光が、わずかに、
寒い
風の
吹く
中を
漂ってきて、この
髪のほつれた、
哀れな
女を、
闇のうちに、ほんのりと
浮き
出すように
照らしているばかりなので、
顔もはっきりとわからなかったが、どうやら
女は
両方の
目とも
見えなかったようです。
多くの
人々は、いろいろの
運命に
支配されるのでした。だれも、
自分の
未来についてわからなければ、また、
他人の
生活についても、わかるものでありません。ただ、この
哀れな
女が、ひとりぼっちになって、この
橋のたもとにすわって
三味線を
弾き、
前を
通る
知らぬ
人たちに、
同情をこわなければならぬまでには、
少なからぬ
苦労をしてきたことと
思われるのでした。
病気のために、
働こうと
思っても、
思うように
働けなかったこともあろうし、また、いくら
働いても、
働いても、
親兄弟の
世話をしなければならぬために
貧乏から
脱れられなかったり、その
間にどういう
複雑な
事情があったことかしれません。もし
私たちが、そういう
世の
中の
不幸な
人にあって、
話を
聞いてみたら、たいていの
場合は、その
人に
対して、
同情をせずにはいられなかったでありましょう。
とはいうものの、
人間は、たいていの
場合、
自分のことばかり
考えているものでした。そして、ここを
通る
人たちも、
多くは、この
哀れな
女のことを
深く
気にとめるものはなかったのでした。
「おお
寒い、
早く
家へ
帰ろう。」といって、てんで
道のそばに、そんな
女がすわって、
三味線を
弾いているということなどに
気をとめないものもありました。
また、
中には、
見ても
見ぬふりをしてゆく
紳士もありました。その
紳士は、
良心があったから、
心のうちでは、こうした
不幸の
人間をかわいそうだと
思わないではなかった。しかし、ずんずんその
前を
通り
過ぎてしまったのです。
「あ、もしもし、二
銭でも、三
銭でも、
投げてやったら、どうだ?」と
風が、
後を
追いかけていって、
紳士の
耳にささやきました。
すると、
紳士は、ちょっと
立ち
止まったが、そして
頭を
傾けたが、
自分の
弱気のせいだというように
考えて、
「おれは、
三味線の
音を
聞かないようにして、
耳を
押さえて
通ったはずだ
······。」と、こう
申しわけをしていってしまいました。こんど、
風は、そこに
立っていた、やさしそうな
女の
耳にささやきました。
「さっきから、ここに
立って、
三味線を
聞いているではないか、おあしを
投げておやんなさい。」
女は、
急に、あたりを
見まわしました。そして、だれに
向かっていうとなく、
「わたしは、ほかのことを
考えていたのよ、あの
三味線の
音も、
唄も、
耳に
入れてはいやあしなかったわ。」と
弁解して、さっさと
立ち
去ってしまいました。
こんどは
星が、
先刻から、
感心して、
唄を
聞いている、
商人ふうの
男に、
「いくらでもいいから、お
金をやったらどうだ
······さっきから、
感心しておまえさんは
聞いているではないか。」といいました。
男は、はじめて
自分が、そこに
立っていることに
気づいたというふうに、
「どうして、あの
女は
目がつぶれたのだろうな。こうして
歌っていたって、いくらにもなるまい。
俺はあいにく
家に
財布を
忘れてきた
······。」と、その
男も、
自分の
良心をごまかしていってしまった。
さすがに、
無情の
吹く
風ですら、
人間の
心のあさましさにあきれてしまったように、さも
腹だたしげに、
強く
強く
吹いて、
道の
上の
砂塵をまいて
人間を
困らしてやろうとしました。
空の
星は、なにもかもじっと
見て
知っているといわぬばかりに
輝いていました。
いつしか、
夜は、
更けていきました。
人通りがだんだん
少なくなりました。
哀れな
女の
弾く
三味線の
音は、
風に
吹き
消されて、
唄をうたっている
声は、
空しく
星晴れのした
空の
下にかすれていました。
女は、そろそろ
帰るしたくにとりかかったのです。そして、
軽い
財布を
握って、つくづくと
悲しくなりました。
「
私は
目が
見えないのです。だから、ほかにする
仕事も
見つかりません。こうして、
未熟な
三味線を
弾いて、
人さまに
聞かして、いくらかなりとお
金をもらおうと
思うのでありますが、だれも、
見返るものがない。
考えれば、それがほんとうなのかもしれません。しかし、
私は、この
世の
中の
情けある
人さまの
救いにすがらなければ、この
身でどうして
暮らしてゆくことができましょう
······。」と、
見えない
目で
空を
仰ぎながら、
訴えたのでした。
寒い
風に
吹かれながら、
彼女は、とぼとぼと
暗い
道を、
三味線を
抱えて
帰ってゆきました。
町の
中は、だいぶ
静まってしまった。このとき、
道の
傍から、
小さな
足音がして、
少女が
走り
出ました。
「おばさん、おばさん。」といって、
彼女を
呼び
止めるのでした。
彼女は、いろいろのことを
頭の
中に
考えていたが、その
声を
聞きつけると、
自分を
呼んでいるのだなと
思って、
立ち
止まったのであります。
「どなたですか。」と、
彼女は
見えない
目をその
方に
向けました。
少女の
声には、
聞き
覚えがなかったのでありました。
「おばさん、わたしは
困っています。お
母さんは、
家に
病気でねているのです。わたしは、まだ
昼のご
飯も
食べません。どうか、わたしに、おあしをくださいな。」と、
頼みました。
彼女は、これを
聞くと、
当惑せずにはいられなかったのでした。
自分はどうしたら、いいだろう? なぜこの
子は、
自分のような、
貧しい
困っているものに
訴えたのだろうか。ほかのお
金のありそうな
人に、
頼んでくれればよかったものをと
思いました。がまた、
彼女はこの
世の
中に、
困っているものは、ひとり、
自分ばかりじゃない。こうして、まだ
年のいかない
子供が、この
寒冬の
下にふるえていると
思うと、つれなく、
断ることができなかったのです。
「まあ、それはかわいそうに。
私も、もう
日が
暮れて
困っているのですよ。ここに、これんばかりしかお
金がありません、
少ないがこれだけ、あなたにあげましょう。」と、
哀れな
女は、
軽い
財布を
振って、
少女にいくらかお
金を
与えたものでした。
少女はそれを
手に
受けると、
「おばさん、ありがとう、おばさん、ご
恩は
忘れませんよ。わたしの
力でできることなら、おばさんになんでもいたします
······。」といいました。
「あんたは、まだ、
小さいから、なんにもしてくださらなくてもよいのです、さあ、
早く、お
家へお
帰りなさい。そして、よくお
母さんの
看病をして、おあげなさい。」と、
彼女は
答えた。
いつしか
少女は、どこかへ
去ってしまい、
彼女は、さびしい
道を
歩いてゆきました。
翌日の
晩も、
彼女は
橋のほとりにすわって
三味線を
弾き、
唄をうたっていました。
美しいふうをした
女や、
男は
道ばたに、こうして、
哀れな
女が、
救いを
求めているということを、
見向きもせずに、さっさとゆきすぎてしまったのです。
女はこれに
対してだれをうらむこともできませんでした。
ちょうど、このとき、どこからか、
青い
色の
着物を
着た、
少女が、
女の
前へやってきました。
「おばさん、
昨日はありがとうございました。おかげさまで、お
母さんは、だいぶいいのです。それで
今夜はわたしが、お
礼にまいりました。わたしが、ここで
踊りますから、おばさんは
唄をうたってください
······。」といって、
少女は、
女の
弾く
三味線に
合わせて、みごとに
踊ったのであります。
彼女は、
昨夜のことを
思い
出しました。
目に
見ることはできなかったけれども、それは、たしかにあのときの
少女でありました。そして、すべてが
気魄に
感ぜられると、どうしてこんなに
踊りが
上手だろうかと
不思議でならなかったのでした。
通る
人たちは、みんな
足を
止めて、
少女の
踊りをながめました。
「まあかわいいこと。」
「よく
小さいのに、こんなに
踊れるものだ。」と
口々にいって、
感歎しました。そして、いつしか、
心ない
人々までが
財布の
口を
解いて、お
金をむしろの
上へ
投げたのであります。
「おばさん、
今夜はこんなに、たくさんお
金が
集まりましたよ。」と
少女は、そこに
落ちている
銅貨や
銀貨を
拾って、
女の
手に
渡したのでした。すると
女は、
「これをみんな
私がもらうことはできません。
半分、お
家へ
持って
帰って、お
母さんになにか
買ってください。」といいました。
しかし
少女は、これには
耳も
傾けずに、
「おばさん、また、わたしは、いいものを
持ってきてあげますよ。」といい
残して、どこへかいってしまいました。
哀れな
女は、ついに
少女の
住んでいるところすら
知らなかったのです。それから、
幾日もたって、
年を
越しました。
春といっても、まだ
寒く、あたりはさびしかった。
ある
夜、
女は、いつものごとく、
橋のそばにすわっていました。
水の
音が、
細く、
悲しく、
闇の
中に
消えています。このとき
小さな
足音が、すぐ
前にしたかと
思えば、
「おばさん、
花を
持ってきましたのよ。これをかいでごらんなさい、きっと
今年は、しあわせなことがありますから。」といって、
少女は
一束の
花を
女の
手に
渡しました。
「まあ、なんの
花でございますか?
私は、
目が
見えないが、どんなに、
美しいことでしょう
······。」と、
女はいいました。
「おばさんのような、やさしい、いい
人が、いつまでも
苦しむなんていうことは、ありませんもの。」と
少女はいったのでした。
この
少女は、
青い
空へ、
吸い
込まれてしまったものか、そのまま
音もなく、
影を
消してしまった。
後で、
女は、
花束の
香りをかぎました。それは、
春はやく
咲く、ヒヤシンスに、フリージアでした。そして
彼女は、
花の
香をかいでいるうちに、ふと
弟のことを
思い
出したのです。
弟は
外国へいって
幾年にもなるが、
消息が
絶えていました。
「もしかすると、
弟が
帰ってくるのではないかしらん。」と、
彼女は
空想しました。
すると、
彼女の
胸を
悲しく、
閉じこめていた
氷が
解けるような
気がしました。そして、どこを
見ても、まだ
冬空であったが、
春の
風が、
町や、
木立を
吹くような
気がしました。そして、
彼女の
顔に
当たる、
寒い
風も、
彼女には、
南の
海を
渡ってくるあたたかな
風のように
感じられたのでした。
哀れな
女は、
見えぬ
目をみはって、しばらく、うっとりとしました。
彼女は、
弟の
帰ってくる
日のことを
楽しく、
頭の
中に
描いたのでした。