少年は、
海をながめていました。
青黒い
水平線は、うねりうねっていました。それはちょうど、一
連の
遠い
山脈を
見るように
思われたのです。そして、いまにもなにか
不思議な、
珍しいものが、その
小山のいただきのあたりに
跳り
上がらないかと、はかない
空想を
抱きながら
待っていたのでした。
「もう、この
海にも、じきにお
別れしなければならない。」
こう
思うと、
彼の
胸は、
迫ってくるのでした。それほど、この
自然に
親しんだばかりでなく、この
村の
子供たちとも
仲よくなったのでした。
「なに、
見ているの?」
短い
着物をきて、
頭の
髪をぐるぐる
巻きにした十三、四の
女の
子が、
少年がだまって、
砂の
上に
腰をおろして、じっと
沖の
方を
見ているそばへ
寄ってきました。そして、それがなんであるか、
自分も
見ようと
思って、
黒い
瞳をば
波の
上へ
馳せたのです。
海は、
生きているもののように
動いていました。かすかにうなり
声をたて、
波があちらへ
引いたかと
思うと、つぎには、もっと
大きな
怒り
声に
変わって、
勢いよく
襲ってきたのです。しかも、
同じことを
根気よくくりかえしていました。おそらく
幾千
万年の
昔から、そのことに、
変わりはなかったでありましょう。
「わたしには、なんにも
見えはしないわ。」
彼女は、こういいました。
海の
上の
空は、
雲切れがして、
青いところは、そこにも
海があるように、まったく
海の
色と
同じかったのであります。
「あちらを
見ていてごらん、いまになにか
見えるから
······。」と、
少年は、いいました。
「もうすこしたつと、
新潟の
方から、
汽船がくるわ。まだ、
黒い
煙も
見えやしないわ。」
彼女は、
風に
吹かれながら
立っていましたが、やがて、
自分もまた
砂の
上へすわったのです。そして、やはり
海の
方を
見ていました。
「
僕は、なにかの
雑誌で
見たんだよ。
黒い
海坊主が、にょっきりと
波の
上から、
頭を
出したのを
······。いんまに、
海坊主が、あちらの
沖へ
見えるかもしれない。」と、
少年は、いいました。
彼女は、
少年の
顔をなつかしげに
見あげて、
「その
雑誌見たいけど、いま
持っているの
······。」
「
持っていない。」
「
泊まっている
家にあるの?」
「
東京に
······。」
少年は、
東京という
言葉を
口にすると、
帰る
日が
迫ったということにすぐ
気がつきました。ここへきてからあまり
思い
出さなかった、にぎやかな
景色が、ありありと
目に
浮かんだのであります。
自動車や、
電車の
通っている
広い
通りは、まだ
暑そうに、
日がてらしている、
人間の
姿が
小さなありのように、その
間に
動いている
有り
様などが
想像されたのでした。しかし、しばらくそこを
離れていると、なんとなく
都へ
帰るのがうれしかった。
東京にも、たくさんなお
友だちがあって、なかには、
自分の
帰るのを
待っていてくれるものもあると
思ったからです。
しかし、
彼は、ここにいる
少女をはじめ、ここへきてお
友だちとなった
村の
子供たちと
別れるのが、なにより
悲しかったのでした。
「いつ、
坊ちゃん
帰るんか
······。」
「もうじき、
帰るの。」
彼女は、このとき、
急に、
両手を
顔にあてて
泣き
出しました。
「なぜ、
泣くの?」と、
少年は、
少女の
顔をのぞきこんだ。けれど、
彼女は、だまっていました。
泣く
声は、だんだん
小さくなりました。しまいにはむせぴ
声となり、いつしか、それは、
波の
音に
消されてしまいました。
「ねえ、
僕帰ったら、
手紙をおくれよ。
僕もあげるから。」と、
少年は、
彼女が、やっと
顔をあげたときに、いったのでした。
「わたし、
字を
知らないのだもの
······。」
彼女は、はずかしそうに、こういって、また
下を
向いたのです。
「
学校へいかなかったのかい?」
少年は、こう
問うと、
少女[#「少女」は底本では「小女」]は、
顔を
赤くしながら、うなずきました。
彼は、
東京へ
帰ったら、ここへきて、いちばん
先にお
友だちとなったこの
少女へ、
手紙を
出そうと
思ったのも、むなしくなったのを
残念に
思いました。けれど、
文字を
知らないということが、なんで、
彼女をばかにする
理由となろう?
「
東京は、
広い?」
「いくら、
広くても、
電車や、
自動車に
乗れば、
端から
端まで、ぞうさなくいけるのだよ。」
「なんにも
乗らんけりゃ、みんな
歩くのに、
幾日かかるか?」
「そんなこと、
僕にもわかるもんか。」
二人は、こんなことを
話していました。そのうちに、
日は、
海のかなたへ
沈んでゆきました。
波の
上は、
美しく
彩られたのです。それは、ちょうど
花びらを
空へふりまいたように
見られたのでした。
少年が、いよいよ
帰る
日に、
少女は、
海岸を
歩いて、ほんとうに、
美しい、めずらしいいろいろの
形の、また
色をした
貝がらを
拾い
集めてきて、
東京への
土産にするようにくれました。
貝の
種類のいたって
少ない
北海には、こんな
貝がらは、
珍しいものかしれないけれど、
波の
穏やかな
南の
海岸には、もっときれいな
貝がらが
少なくなかったのでした。しかし、この
貧しい、
哀れな
少女の
志は、どんな
貴い
真珠も、さんごもおよばなかったでありましょう。
少年は、
厚く
礼をいって、
喜んで
持って
帰ることにいたしました。
半年は、
過ぎ、一
年は、たちました。また
来年こそは、もう一
度北の
海岸へゆこうなどと
思ったのも、そのときになると
家庭に
用事ができたり、もしくは、ほかへゆくようなことになって、
少年は、ただはるかに、
北海の
夏の
夕暮れの
景色などを
思い
出して、いろいろ
空想したにすぎなかった。そして、いつしか
秋となり、
早くも
木枯らしが
吹くころになると、まもなく
吹雪にみまわれなければならぬ、この
北の
風の
叫ぶ
森や、
砂浜などを
目にさびしく
描いたのでした。
「いまごろ、あのあたりはどんなだろう?」
それこそ、ものすごい
水平線の
上を、
黒い
海坊主が、
大またに
歩いているかもしれぬと
思われたのです。
しかし、それも、いつしか
過去の
夢とうすれ、
消えてゆく
日がありました。
ある
夏の
日の
午後のことでありました。
小さな
弟が、
玄関に
立って、なにか
売りにきたものを
断っていました。
「いらない
······、いらない
······、いらない!」
けれど、
売りにきたものは、なかなか
帰ろうとしないようすでした。
小さな
弟は、
耳のあたりを
赤くして、
外の
方をじっと
見つめています。
このようすを
見たとき、
彼は、なんだろうと、
弟のそばへいって、
外をのぞいたのでありました。
怪しげなふうをした、
田舎娘が、
短い
着物に、かさをかぶって、かごのようなものをかついでいましたが、そのときは、
女はこちらを
見ずに、
子細ありげに
庭さきの
垣根の
下を
見つめて
立っていました。
「
兄さん、あの
女は、なかなか
帰っていかないのだよ。」と、
弟は、
兄をふり
向いていいました。
彼は、その
女がなにをしているのだろう? と、だまって
見ていると、そのうちに
女は、かごをかついだまま、
門から
往来の
方へ
出てゆきました。
二人は、
奥へはいって、このことを
家の
人たちに
話しますと、
「
庭の
木戸は、しめておくのですよ。」と、
姉さんが
注意されたのです。
少年は、
庭へ
出て、
先刻女が、じっと
目を
落としていた
垣根のあたりを
見ると、そこには、
水盤が
置いてあって、いつか
北の
方の
海岸へいったとき、あの
少女が
拾ってくれた
貝がらや、
石が
中にはいっていて、いまも
美しく
見えたのでした。
彼は、
思わず、はっとしました。
「いまの
女は、どちらへいったろう?」
こう
叫ぶと、
門の
外へ
走り
出ました。けれど、だいぶ
時がたっていたから、わかろうはずがありません。むなしく、
水盤の
前へもどると、
彼は、もしや
彼女ではなかったかと、いい
知れぬ
悲しさにおそわれたのでありました。