何処からともなく一人の僧侶が、この村に入って来た。色の褪せた茶色の衣を着て、
草鞋を
穿いていた。小さな
磐を鳴らして、片手に黒塗の椀を
持て、
戸毎、戸毎に立って、経を唱え托鉢をして歩いた。
その僧は、物穏かな五十余りの年格好であった。静かな調子で経を唱える。伏目になって経を唱えている間も、何事をか深く考えている様子であった。眉毛は、白く長く延びていた。頭にはもはや、幾たびか、雨に当り、風に
晒されて色づいた笠を被っている。短かい秋の日でも落付いて、戸毎、戸毎に立って家の者が挨拶をするまでは去らなかった。
羽子の衰えた
蜻蛉は、赤く色づいた柿の葉に止っては立ち上り、また下りて来て止っている。磐の音は穏かに、風のない静かな昼に響いた。
眤と僧は立止って、お経を唱えている。
この僧を見た人は、「またお坊さんが村へお
出なさった。」といった。家の
中からは、「お通り。」という声がする時もあった。その時には、僧は静かにその家の前を立去った。また或時は「出ない。」と、子供の声で
怒鳴る時もあった。その時にも僧は静かにその家の前を立去った。また或時は、若者の声で「通れ。」と叱り付けるように言う時もあった。その時にも僧は、やはり穏かにその家の前を立去った。一軒の家を立去ればその隣の家へと行って、同じ穏かな調子で経文を唱えた。磐の音はゆるやかに響いた。何事をか考え、何事をか、その家に祈っているように、白い長い眉は、瞑黙した眼の上に見られた。
圃には、赤く枯れた
かぼちゃの蔓や、枯れ残った草の葉に、薄い、秋の日が照る時もあった。
一時、この村には、隔った町から移って来た人などもあって、
其等の人々の中には、
病身勝な者や、気の狂っている者もあった。秋も末になると寒い風が吹く。村の木立は、
何れも
西北の風に、葉が振い落ちて、村の中が何となく
淋れて来た。
藁屋の、今迄、圃の繁りや、木の枝に隠れて見えなかったのが、急に圃も、森も、裸となって、灰色の
家根が現われ、その家の前で物を乾したり、働いている人の姿などが見えた。
弱い日の光りが、雲に
浸んで、其等の景色をほんのりと明るく見せていたかと思うと、急に風が変って、雨が降って来る。
晩方にかけては、空は暗くなって、
霰や、
霙なども混って降って来た。圃の
畦には白く溜って、枯れた草の上も白くなった。風は、
益々加わって、家々は、早く戸を閉めてしまう。この時、僧は何処へ去るであろうかと思わしめた。
明る日は、外は白くなっていた。空は不安に、雲が乱れていて、もはや雪の来る始めの日であることが分った。昼時分、やはり何処からともなく僧は村に入って来た。或長屋の角に立って、磐を鳴らして、霙混りの
泥途の中に立って、やはり眼を
閉って経を唱えていた。
家の中から、
女房の声がして、
「さあ、
上ますぜね。」といって、つづいてぱらぱらと穴銭の、黒い托鉢の中に落ちる音がした。やがて、
女房の姿は、家の中に隠れてしまう。外は、寒い、
荒風が吹いて、西北の方から黒雲が押し寄せて来た。僧は、落付いて、
何時までも立って、経を唱えていたが、やがてその家の前を去ったのである。
斯様風に、この僧は、毎日、毎日、村を歩き廻った。十日も続いたかと思うと、何時しか
何処にか去って村へ来なくなった。村の人は何時からこの僧が来なくなったかを知る者がない。多分、他を廻っていて、この村へは来ないのだろうと思った。それから、一年経って来る時もあった。また二三年経って来る時もあった。
誰も、この僧の年を取ったのを見分るものがなかった。何時、見る時も、
曾て、この村に来た時と同じい年頃に見受けた。そればかりでなく、
身形も余り変っていると思った者がない。或時は、秋から冬にかけて、僧はこの村に入って来た。或時は、春の初めに入って来た。その来る時は
定っていなかった。
然るに、或年のこと村に斯様噂が立った。
「あの
僧侶は年を取らない。あの坊さんが来ると、きっとこの村で一人ずつ死ぬ。誰か死ぬ時に、あの坊さんが来る。」
······ 誰も、この噂を信じたものがなかった。
春の初め、何処からともなくこの僧が村に入って来た。その時、再びこの噂が持上った。この噂からして、村の或者は、来るたびに僧に銭をやったものがある。或者は、僧が来ると戸を閉めて留守を装っていた。十日
許すると僧は、何処にかこの村を去ってしまった。
村の者は言い合った。
「坊さんは来なくなった。昨日も来なかった。
一昨日も来なかった。」
「ちょうど今日で五日来ない。」
この時分から、始めて僧の来たり、去ったりするのが村人の注意に上った。
僧が去ってから、十日経たぬうちに村に事件が起った。
村端に住んでいた年若い男の
狂人と母親の二人が同時に死んだことだ。この二人はその筋から
僅かばかりの給助を得て日を送って来た。村の人々もこの母親を
憫んで物品を恵んだ。昔は、武士で殿様から
碌を貰っていたが、後になって公債の金で細く暮している内、狂人の父親は死に、息子は十五の時発狂して今日迄その
儘となっている。何時しか公債は
費い果してしまった。母親の親戚は町にあるというが、来て顧みてくれる者もなかった。
気狂は、時々、
檻を破って外に逃げ出した。
頭髪は
垢染て肌色の分らぬ程黒くなった顔に垂れ下って、肩の破れた
衣物を着て、縄の帯を占めて
裸跣で、口の中で何をか
囁きながら、
何処ともなく歩き廻り、外に遊んでいる子供を驚かした。
雪のまだ降らない、秋の末の日であった。子供
等の群は、寺の墓場に近い、大きな
胡桃の木の下で遊んでいた。十五六を
頭に八九歳を下に
鬼事をやっていると、
彼方から、
「オイ、英語を知っているか、
己が教えてやる。」と
叫きながら、とぼとぼと来かかったものがあった。見ると、長い頭髪は肩に垂れて、手に細い杖を
鳴しながら、鋭い眼を見廻して来るのは、村で知らぬ者がない狂人であった。これ迄、幾度となく刃物を持出したということ、自分の母に斬り付けようとして、母が、戸の外に逃出したことを見たり、聞いたりして知っている子供
等は声を上げて我れ先にと逃げ出した。中には
後れて泣き叫んだものがあった。
この事が村に
広った時、四五人の者は、母を
憐れんで、この狂人の捜索に出た。その夜、寺の林で取り押えて再び檻を修繕して
裡に入れたという。
西の夕焼が紅く、寺の
墓畔に立つ胡桃の木の枝を染める時、この景色を見た子供等は、きっと狂人のことを思い出して話し合った。
村の人が、この狂人親子の惨死を遂げているのを発見した時、短刀で、我が児の
咽喉を
突貫して、自分がその死骸の上に折り
合って自殺を遂げていた母を見た。外には、
吹雪がしていた。陰気な光線は戸の隙間を
洩れて、この火の気すらなかった
家を悲しげに照していた。何一つ道具らしいものはなかった。死ぬ時まで、内職をしていた
燈心が、黒い、傷の付いた板の
辺に散っているのを見た。
その血は青い色をしていた。その燈心の白は、色を抜き取った色の如く、見る人の心を茫然たらしめた。
或る一人はこういった。一昨日の大吹雪に傘も差さずに急いで町の方から、狂人の母親が帰って来るのを見た。鼻緒の
弛るんだ下駄は雪に埋って、指は紅く凍えて、見るからに血の枯れた
白髪は風に吹かれて
傷ましげであった。
村の人々は、
何故、母が子を殺して自殺したかを疑った。この上他人に迷惑をかけまいと思ってか?
饑と寒さに堪え
兼てか? 中にはこう言ったものがあった。昔は武士の家庭に育った娘だ。これ位の決心はあるだろうと。その者の言った言葉は、
其処に
立会ていた者に、花の時代を思わしめた。
曾て二十、十八九の時分、この老婆は
······と様々の幻想を描かしめた。それも
束の
間であった。今、目の前に、見るに堪えぬ
死態をしている。衣物は、薄い
単衣で、それすら、破れた肩を幾度となく
継いであった。
他の一人は、やや違った解釈をした。それは、何時、
年老て自分が死ぬか分らない。自分が死んだ
後、誰がこの狂人の世話をしてくれる者があろうか。それより、自分の手にかけて殺し、自分も
直にその後を追ってやはり、死んでからも親子であるという考えからやったことだといった。
何故かこの一言は、其処に居た一同を涙ぐませた。村の人は丁寧に二人の死骸を埋葬してやった。
或年の夏、
何処からとなく、僧がこの村に入って来た。
今は、この僧が来ると、誰か一人この村で死ぬのでないかという
疑を抱かぬ者はなかった。曾て誰やら言った噂を気にせない者はないようになった。
「また、あの坊さんが来た。」と人々は気味悪い眼で僧を眺めた。
子供等は群をなして、僧の後に
従いた。それも二三
間隔って互にひそひそと話合った。
「あの坊さんが来ると人が死ぬんだと。」七ツ
許りの女の児が言うと、
「あの坊主に石を投げてやればいい。」と乳飲児を
負っていた子守が言った。
斯様風に、村の人は、この僧を遠ざけようとして、或る者は、村の家々を一軒毎に言い触れて歩いた。物をやるからこの村に入って来るのだ。何もやらなけれや、この村に入って来ない。決して物をやってはならないと言い触れた。中には迷信的に坊さんを
有難がっている家もあったが、物をやって、却って村の者から
悪まれるようでは馬鹿らしいと言って、坊さんが来ても知らぬ
振をしていた。僧は、常の如く、家の前に立って穏かな口調で経を唱えた。磬の音はゆるやかに響いた。戸の隙から、
一寸覗いて見ると、やはり眼を
閉って何事をか念じているように、太い、白い眉は、何処か、
普通の僧でないという感じを抱かせた。
知らぬ振をしていても僧は何時までもこの家の前を去らなかった。迷信家の女は、胸を
躍せて、極めて小さな声で、
「お通り下さい。」と言った。
赫と顔が
熱って、心臓がどきどきした。何となく、女は済まぬような気がした。
この極めて小さな言葉も、僧の耳には、はっきりと入ったが如く思われた。僧は静かにこの家の前を去った。
この時は、村では僧に何も与えたものがなかった。けれど僧は毎日この村を歩いた。一軒残らず家の前に立って、常の如く経を唱え、磐を
鳴した。物をやる者はなかったが、僧は務めの如く毎日村を托鉢し歩いた。それが十日もつづくと、
飄然何処ともなく姿を隠してしまった。
村の人は、誰しも僧が来なくなったと思い、この後が
暫らく不安だと感じないものはなかった。
「やっと坊さんは来なくなった。」と心の上に
置れた重い石を取り除けられたような気持で一人がいった。
「暫らく、不安心だ。」と一人は、噂に、動かし難い力のあることを感じて言った。
「文明の世の中に
其様ことはない。」と、強いて文明は、何物をも怖しく見せるものでないと、自分の心を文明の二字でまぎらわせようとした。
この三人の会話は、
「暫らく
経ちゃ分る。」という
落着に終った。
誰が最初、斯様噂をし始めたのかと詮義した。けれどこの噂は
出所が分らずにしまった。
僧が去って、五日と
経ぬうちにこの村で不幸があった。
人々は今更の如く顔を見合った。
死んだ人は、五十五の男だ。彼は長らく踏切番を務めていた。北の海岸から走って来た電信柱は
高低に南へと
連っている。彼は、
鈍色の光線が照り返っているレールに添うて淋しい野中の細道を見廻った時、彼の
水腫のした体は、紺の褪めた洋服を着て、とぼとぼと歩くたびに力の入っていない両手は、無意識に動揺した。
怪物が
叫いて、静かな、広い野を地響を
打て来た時、眠っている草、木、家は眼醒めた。黄色な窓から頭を出している者で、踏切番の
小舎の前に
立て白い旗を出していたこの男に眼を止めたものがあろう、或者は、黙って見て過ぎた。或者は唾を吐いて過ぎた。中には
哀な老人だ。
何様暮しをしているものだろうと考えながら過ぎたものもあろう。
男は、余り口数をきかぬ
性質であった。長らく中風に
罹っていて左の手と耳が
能く働らかなかった。家に居ると、何という木か知らぬが、赤い実の
生っている植木鉢を
日当に出して水をやっていた。この男の死ぬ前の日もこの赤い実の生っている木に水をやっていたのを見たものがある。
男は、どんよりと曇った朝、
近傍の川に釣に出かけた。青い水は足の
許まで浮き上っていた。それを見詰めているうちにぐらぐらと眼が
暈って来始めた。
此処は河だと考えたが、急に畳の上にでも居るような
弛んだ気持になって、その儘、倒れると水を呑んで
悶掻たが、死んでしまった。
村人が、男を
引上に行った時、草の繁っている蔭に、手足を縮めて、丸くなって、溺れている男を見た。顔は青白く、短かい髭が顎に生えている。生きている時と、色艶の悪いのには格別の変りがなかった。
それからというもの、この僧の来るたび毎に必ず村に人の死ぬことにきまっていた。
月日は水の流るる如く過ぎた。それも今では昔の話となった。この村にも幾たびか変遷があった。或年の大水に田畑が荒らされてから村を出て他に移った者が多い。或は、町へ出、或は他の村へ行った。
今は僅かに三軒の家がこの村に残っているばかりである。この村は、小さな村で一方は河に
遮られ、往還から遠く隔っていて、暗い、淋しい、陰気な村である。古い大きな杉は村の周囲に繁っている。少し明るくなっている圃には、桑が一面に黒い、大きな
掌のような葉を日に輝かしている。
三軒の家は、二軒は並んでこの桑圃の中に立っていた。一軒は暗い森の中に建っていた。二軒の家には貧しい人が住んでいる。他の者が町へ出たり、他へ移ってしまったのに、自分等はその力がないといって、まだこの村に
止まっているのだ。森の中の家は、昔から、この村での財産家であった。家は古く、大きく、屋敷には幾百年も経った古木が繁っている。この
家の人は如何なることがあっても、その屋敷から移るようなことがなかった。
窓の余り沢山付いていない大きな家の内は湿気に満ちていた。日の光りを透さずに、枝と枝とが
交えて、空を塞いでいる。白い幹が赤い幹と交って
突立ているのが目に入った。この家に出入する者は、或は、大きな蛇が、枝に絡み付いて、雀を
的っているのを見たといった。また、この森の奥にある家へ入って行くまでには、森の下を歩いて
種々な
見慣ぬ虫を見たといった。家に入って、この家の人に話をする時は、この家の人の顔が青白く見えて気味が悪いと言った。またこの家には、代々病人が絶えたことがないと言った。
この家には、三十二になってまだ嫁にやらずにいる娘がある。娘は子供の時分から、この暗い家から外に出されずにしまった。ただ森に当る風の音を聞いたばかり、音なく降る雨を見たばかり。雲が切れて、青い空が僅かに森を透して見えることがあった。夕暮になると何処からともなく鳥がこの森に集って来て啼いた。その啼声を聞いたばかり。娘は自分の家に使っている黄銅の
湯沸や、青い錆の出た昔の鏡や、その他、
総て古くから伝わっていた器物以外に眼を
娯ましたような、鮮かな緑、
活々とした紅、冴え冴えしい青、その他美しい色のついた品物を持って見なかった。
金があるというばかりで、家の内は陰気であった。
古からあった一
挺の三味線は、娘の子供の時分までは、よく母親の弾いた音を聞いたが、或年の梅雨の頃、その三味線の胴皮が、ぼこぼこに
弛んで音が出なくなってから何処へか隠されてしまった。
勿論、張り換るような処がこの近傍になかったからでもあろう。それからというものは、家の内は常に
寂然としていて笑い声すら洩れなかった。
最もその三味線を弾く時、母親の歌った声は、まだ娘の耳に残っている。その歌は、その頃、よく分らなかったから覚えている筈がない。ただ歌の調子が、いかにも哀れっぽい、
怨めしい、陰気な、形容が出来ないが、調子は忘れ難い印象をとどめている。何んでも母が、まだ若くて
頭髪も黒く、
艶かで、白い顔を少し横に向けて、三味線を抱えて庭の方を見ながら歌った。青い木の葉が、ぼんやりと夕暮の空気の中に浮き出ていた。
娘は、まだ十八九の頃は、物思いに沈んだことが多かった。その頃は、赤い色を懐かしく思った。また折々子供の時分に聞いた三味線の調子を思い出して、耳に、
戦い付くその怨めしいような歌の声を考えた。
「何処へ、あの三味線は行ったろう。」と探して見た。けれど遂に見付けられなかった。
その頃は、
晩方、森に来て啼く鳥の声を聞き、青い空を見、月の光りを見ると、海を見たいと思ったこともあった。また或時は
誰人かに待たれるような心地がした。
今は、身に白と黒の色があるばかりで、赤も青も、紫もない。もはや昔のように黒い家の窓から外を覗いて、虚空に細かな縞を織るように風に動いている森を見て
空想に
耽るようなことがない。心は冷たい石となってしまったかと思われる程、
身形に構わなくなった。色の青白い顔に根の弛んだ髪は解けて肩のあたりまで散りかかっている。身には女らしい赤や、紫の色は
着いていなかった。女は
稀れに窓から顔を出して夕空を覗うことがあるけれど、それがために何物をか恋い、憧がれてほっと顔を赤くするようなことがない。ただ
冷かに笑った。その笑いは世を
嘲笑い、人を嘲笑うのでないかと思われるような冷たな、白々しい笑いであった。
娘の母は、もはや白髪の老婆となっている。この老母は、出入する者に言った。
「娘は病気だから、そう大きな声を出したり、笑っておくれでない。」と、して見るとこの女は病気であるのかも知れなかった。
黒く空に
聳えた森は、この家を隠している。さながら、この家を守っているように見えた。稀にしかこの家へ出入するものがなかった。森に居る小鳥の他
何うして家の内の
其等の人はいるかを知らなかった。
二軒並んでいる一軒は、
平常戸を閉めて
女房は畑に出ていない。夫というのは旅商人で、海岸を歩いて隣の国の方まで旅をして多くは家にいなかった。山の多い国を旅する者は、海に
従て行かねばならなかった。海に臨んだ処には村がある、町がある。其等の潮風の吹く町や、村に入って、魚の
臭、磯の香を嗅いで商いする。町には白い旗が、青い海を背景に翻っているものもあった。
裸体で
赤銅色に焼けた男や女を相手にして、次の村から村へ、町から町へと歩き、いつしか国境を越えて隣の国へ入った。其様風で夫の留守の間、女房は畑に出て野菜を耕やしている。この小さな、軒の傾いた家の前を通った者は、いつもこの家の戸が閉っていたのを見た。別に訪ねて来る人もない。夏の盛りに、
真黄に咲いた
日廻草は、脊高く延びて、朝日が、まだ東の空をほんのりと染めた
間際に東を向いて開いたかと思うと、日が
漸々上って、南へ南へと廻る時分には、この大きな黄色の花輪は、中の太い
蕊を見せて、日を追い始める。日輪が正午に近づいた頃には、花は緑色の葉を日光に輝かして、さながら汗ばんだように銀色の光を反射して、ぐんなりと頭を日に向って垂れている。
々たる日輪は
たるんでいる大空を
揺つつ動いた。長い真昼の間、花の咲いている家は戸が閉っていた。やがて日輪が桑畑に傾いて地平線が血のように紅く色づき黒く聳えている森に赤色の光線が映ずる頃になると日廻草の一部は蔭って、花は
尚も
執念く奈落に落ちた日を見ようと、地を向いて突立っていた。
北国の夏の空は、暮るると間もなく濃紺に澄み渡る。星は千年も二千年も前に輝いた光と同じく、
今宵始めて、この世を照すように新しく、鮮やかに、
湿ぽい光は草の葉の上や、
藁家の上に流れた。
虫の啼く、
粗壁の出た、今一軒の家には老夫婦が住んでいた。
爺は
老耄して、
媼は頭が真白であった。一人の息子が、町の時計屋に奉公していて、毎月、少しばかりの金を送って
寄来した。それを頼りに細い
烟を上げていた。老夫婦は家の
周囲には少しばかりの野菜を植えていた。別に売る程の物を取るのでない、ただそれを取って暮していた。初秋の風が吹いて、
唐辛が赤くなると、昼間でも、枯枝の落ちた蔭で虫が啼いた。空は水のように青く冴えて、北へと雁が飛んで行くのが見えた。
朝起きて、取り残した赤い唐辛の傍に行って見ると、
昨夜、霜が下りたと見えて、僅かばかり出た青い葉が白く凍えていた。
弱い日の光りが、薄赤い荒壁に当っているのを見るとこの村の盛衰が思い出された。
毎年のように、他国から
薬売がこの村に入って来たものだ。まだこの小さな村が
洪水で荒されない前、この桑畑に人家が幾軒もあった頃、まだこの村の人が町や、他へ移って行かなかった前までは、人家も
可なりあったので、その薬売は、毎年夏になるとやって来た。彼等は、日本国中、
何様小さな村でも見舞わずに通り過ぎることがなかった。今年、或家に黄色な薬袋を
置て去ると、来年、忘れずにその家を見舞って、古いのを新しいのと取り換えて行った。立去る時に、家の人に振向いて、
「また来年来ますから。」と言った。
その薬売が、来年になってその家へ来た時、昨年取次に出た婆さんは、昨年の秋死んでしまって、居なかったこともあった。
然るにその薬売は、
何うしたか、はや二三年も前からこの村を訪れなかった。その他、毎年のようにきまってこの村に入って来た
繭買や、
余の物売なども来なくなった。其等のものが来なくなったと同時に、いつしか毎年のように来た、
彼の僧も来なくなった。この村に長らく住んでいる老夫婦のものは、今でも彼の僧を記憶している。色の褪めた衣を着て、笠を
目深に被って家々の前に立って、経を唱え、磐を鳴らし托鉢に歩いた姿を忘れはしない。また、
「あの坊さんが、村に入って来ると、きっと誰か死ぬる。」と
云噂のあった事をも忘れはしなかった。
風が吹き、雨が降り、雪となって、年は暮れ、この村が、今の有様となるまでに十余年の月日は流れた。中風症の、踏切番人が溺死してから、この村に幾たびの変遷はあったがそれ以来、彼の僧は稀にこの村に入って来て托鉢をして歩いたが、人々が少くなって村が衰微してから全く来なくなった。もはや幾年となく来ないので、
漸く昔話となった。或は何処かでこの僧は
横死を遂げたのでないかと思われた。
而して再びこの僧が、この村に入って来るなどとは考えられなかった。
然るに突然十年目でこの僧が托鉢にやって来た。
中にも老夫婦の者は眼を白黒して驚いた。もはや自分等の死ななければならない時が来たのかと悲んだ。二人は、一夜、こういって語り合った。今ではこの村に住んでいる者は、暗い森の中の
家と私共と、隣の
女房の家ばかりだ。たったこの三軒を
当にして、坊さんがこの村に入って来なさるとは合点が行かない。やはり今日来た坊さんは昔来た坊さんだろうかと
婆が言った。
既に
老耄している
爺は、この時ばかり気が確かであった。而して断言した。
「十年前に来た坊さんだ。同じい坊さんだ。」夜は暗く、小舎の軒に迫っていた。耳を傾げて家の中の様子を立聞しているようだ。
「あの時分の坊さんなら、もっと年を取っている筈だ。」と婆がいった。
爺は、少しも変った処がない。
身形から、様子から、その時の儘であると語った。
婆さんは悲しんで、次のようなことを小声で物語った。
きっと今度死ぬのは私等でない、あの森の中の家の娘さんだと思う。先頃、
一寸見た時に真青な顔をしていた。私は、死人の形相だと思った。漆のような髪は顔にかかって眼が落ち窪んで、手足が痩せて、その姿を見た時
戦慄とした。私は、もはや長くないと思った。きっと坊さんのお
出なされたのは、
彼の娘を迎いに来られたのだと思う。
静かな、暗い夜であった。白髪の婆さんと向い合って、歯の抜けた頭の禿げた爺さんが坐っていた。暗いランプは、家の内を心もとなく照していた。
バラバラと窓に当る音がした。けれど婆さんは聞き付けずに
尚お語り出した。
「
彼大水のあった時より、あの
悪病の
流行た時が怖しかった。どうしてこの村は、人が長く落付かないだろう。私共も早く
悴が一人前となって、店でも出すようになったら、町へ越して行きたいものだ。」
「あ、雨が降って来たな。」と耳を傾げていた爺が言った。
「
暮方西の方が、大変に暗かった。静かな晩だから降るかも知れない。」
と婆が言った。
暫らく爺と婆と
対い合って黙っていたが、外で雨の降る音が
しとしとと聞えた。
「なんで坊さんは、この村にばかり来るんでしょう。」と不審に堪えぬという風で、婆が言った。
「何、この村の者が死に絶えてしまうまでやって来るだろう。」
といって、爺は眼を
瞑ったまま下を向いて言った。
僧侶は二三日この村を托鉢して歩いたが何時しか何処にか去った。老夫婦は、暗い森の方を見るたびに、近いうちに
柩があの森の中から出るだろうと語り合った。
独り留守をしている
女房は、遠く、海の鳴音の聞える北の方に思いをやって、夫の身の上を案じていた。土の色は白く乾いて、木の葉は大抵落ちた。圃に残った桑の葉は、黒く
凋んだ。天地は
終日音もなく、死んだように静かであった。
「雪が、間近に来る。」
と爺は戸口に出て、物を取り片づけながら言った。
空にはただ白い、眤として動かない雲が張り詰めていた。森も、家も、圃も、頭から
経帷子を被ったように黙って、陰気であった。
この総べて音の死んだような極めて静かな日に老夫婦に知らせが来た。
町の時計屋に奉公している息子が急病に死んだ
||と。