陰気な建物には小さな窓があった。大きな灰色をした怪物に、いくつかの眼があいているようだ。怪物は大分年を取っていた。
夜になると、このいくつかの眼に赤く燈火が
壊れたベンチと、傷が付いて塗った机がどの室にも置いてあった。机の上の傷は
Kはベンチに腰をかけたまま何か書いていた。彼は昨夜も食堂に出て来なかった。Bは床を出ると早速Kの室にやって来たが、
Bは自分の室へ帰ってからも、Kのことが気になってならなかった。真白な厚い蒲団の上に肥えた身体を投げ出して
Bには、Kのすることが気にかかってならない。BにはKの言ったことには不思議に反抗が出来なかった。
BはまたKの室の前に来た。中の様子を気遣いながら、腰を
Bは腫れた顔に不安の色を漂わして頭を傾げた。朝の湿った空気の底に灰色の建物は沈んでいて静かだ。Bの眼には蜂の針のように尖ったペンが紙の上を動いて行くのがありありと見えた。動いた
Bは大きな頭を振って、歩いて見たが、もはやこの身体が自分のものでないように運ぶのが
朝飯のベルが、冷たい空気に染み渡った。
Bは、こっちの隅に自分の体を隠すようにして、戸を押して入って来る人を眺めていた。いずれも生気のない顔をして、
Bは気が気でなかった。
やはりKは自分のことを何か書いているのだろう。そうでなければ何を書いているだろう?······まだ後れて来るかも知れないとBは食物も
その
いっそ、「何を書いていますか。」といって何気ない風で、Kの室に入って聞いて見ようか知らん。いや、それはいけない。却って私の顔を見ると、思わなかった悪感を抱いて余計なことを書くかも知れない。また万一、今書いていることが自分の身の上に関したことでなかったのが、自分の顔を見て、印象を強めたために、自分の身の上のことにしてしまうかも知れない。なるたけこの際自分の顔を見せない方がいいと考えた。
Bは一人、建物の外側に出て、石の上に腰を下ろした。空に汚い雲が往来していた。まだ冬が去るには間があった。
青
ずっと遠くへ行けば変った国がある。そしてこんな陰気な思いをせずに住むことが出来るような気がした。Bはそこへは自分の力で行くことが出来ぬと思った。
「やはり、この建物にいるのだ。」といって石から
彼は
Bは、三たびKの室の前に来た。また、障子の孔から覗いた。Kの姿が見えなかった。Bは狂せんばかりに胸が騒いだ。ああ、この時だ。何を書いたか見なければならぬ。
「早く、早く、すぐKが入って来るぞ。」
その囁いた者は、Bの眼にはっきりとその姿は見られなかった。ただ自分よりもずっと体が大きくて、背が高くて、その色が茫漠としていた。別に眼がない。口がない。けれどこの者が囁いたのを不思議と思わなかった。Bは障子を開けて入った。金ペンにはまだインキが乾いていない。書かれた紙の数は分らなかった。Bの眼にはただ虫が紙の上に
文字よりも、金ペンの光るのに気を取られていた。······なにもせず
足音がした! Bは始めて、気が付いてその室を逃れ出た。······振り向いて、病的にもう一度金ペンの光っているのを見た。
あれだけの時間があったのに、なぜ文字が読めなかったろう。ただ、青い屈折の多い線が見えたばかりだ。なぜこの脳が働かなかったろう。その瞬間に全く文字を忘れてしまったとは思われない。たしかに心には余裕があった。金ペンに青いインキが染まった具合から、窓から洩れる灰色の光線に輝く一種の調子すら、眼に印象となって残っている。······
Bは、白い床の上に
しばらく、Bは疲れて眠った。
眼の前にKが立っていた。赤いネクタイが見えた。黒い洋服が夜の色よりはっきりとした。痩せた、
「もう一度君に厄介をかけようと思ってやって来た。」と笑いもせず、Kは冷やかにいった。Bは黙っていた。
「もう一度君はかかってくれまいか?」
Bは、この言葉を聞いて身の毛が
外では風が出たと見えて、
「もう一度かかってくれまいか?」
この無口のKが、こう頼むことはないのだ。
Bは、白い床の上に坐ったまま身動きをしなかった。
「もう、お前の秘密はみんな知っているのだ。」とKはいった。
それでも、Bは黙っていた。
「お前が厭だといっても私は君をかけることが出来る。」と冷やかにKが笑った。
Bは、
「昨日私は
とBは堪えきれず言った。
Kは冷やかに穴のあくほどBの顔をじっと見て、笑っていた。
Bは、こうやっている間にかけられるのでないかと思ってわざとKの顔を見ずに下を向いていた。
「話したよ。」と、Kは冷やかに、薄気味悪く笑った。
「何だと言いましたか。」
「お前に分りそうなものだ。心に思っている秘密はみんな言ってしまった。」
と、Kは
「
「だが、君は僕にかかることを許してくれたのでないか。」
「かかることは許しても、秘密を聞けとは言わなかった。」とBが怒った。
痩せた、背の高いKは窪んだ眼を輝かしてハハハハハと、冷やかに笑った。
「かかってしまってからは私のものだ。私の自由になってしまう。」
「もう僕は貴君の自由にならない。」と、Bは
「駄目です。」とKは両手をズボンの隠しに入れて少し背を伸ばした。
「なにが駄目なことがあるものか、もう僕は君の自由にならぬ。」
「いや、君にはもはや僕に対して反抗力が
「なに?」······
「君は僕の勝手になるのです。一生君は僕の自由にならなければならぬ。」
「なに? 君の言う意味が分らぬ。」
「分らぬ筈がない。
Kは調子を
「厭だ。飽くまで反抗して見せる。」
Bは勇気を出して、起ち上るとベンチに腰をかけた。
「じゃ仕方がない。僕は僕の力を信ずる。君の許しがなくとも自由に君をかけて見せる。」と、KはBの前に立った。
「待ちたまえ。」といってBはベンチから
Kは逃がさないように慌てて出口の扉を
「僕は決して逃げやしない。ただ君に聞くことがある。」
とBはいった。Kは大股に歩いてBの前に
「もう逃がしやしない。」
「昨日はどんなことを話しましたか。」······
「それを聞いて君は何とするのだ。」
と、Kは笑っていた顔を
「ただ聞いて見たい。」
「君は秘密をみんな語った。」
「君はその秘密を聞いて何をするんです。」
「それは君に言われない。」
「どんなことを話しましたか。」
「君は生れた故郷を言った。次に親の名前から、自分が学んだ学校を語った······。」
「それから······。」
「学校にあった頃の話をした。」
「それから······。」
「初恋の女とその関係まで語った。」
「え、そんなことまで私は言ったろうか?」
「それは言ったとも。なにも驚くことはない。お前は
「それは話したかも知れない。」
「それを人に聞かれたからって、恥じることはない。」
「それは事実だから決して恥じない。」
「お前はまだ多くの事実を語った。」
「どんなことを話したか。」
「お前は胸に抱いている計画から、人に聞かれては困るような秘密をみんな話してしまった。」
「え、そんなことを私は言ったろうか?」
「言ったとも、お前はこんな陰気な建物に長くいるのは厭だ。遠くの国へ行きたい、けれど自分の力では行くことが出来ぬといった。」
「そう言ったでしょうか。」
「お前もよほどの空想家と見えるな。」
「そればかりならいい。お前はこの建物の中に住んでいる者に対して、変な考えを持っている。Aに、Cに、Dに対しても、僕に対しても、変な考えを持っている。」
「············。」
「まだお前自身にも意外だと思うようなことを語った。その秘密は言えない。」
「それを聞かして下さい。」
「もう一度かかってくれい。」
「厭です。」
「お前はこの場を逃げ出ることが出来ると思うか。」
「厭です。私は、もう決してかからない。」
Bは
「どこへ行く?」といって、KはBの片腕を捉えた。
「ハハハハハ、もうお前はかかっている!」
と、冷やかな声で
「なに、かかるものか。」といってBはKの腕を振り離して扉に突き当った。
「駄目だよ。」と落着き払った声でKはいって女の腰でも抱える時のように
「そらかかった! もうかかったよ!」
と、両手をBの体から離して冷やかに彼を見遣った。
Bの体はふらふらとして倒れかかる。
KはBの体を、白い床の上に
何の音もしない。ただ外では風が吹いていた。
二三歩
Kは、Bの耳許に口を当てた。眼を白くして、ニヤリと冷やかに笑った。······
「待て!」と、Kは起ち上った、出口の扉を堅く閉めて、
「ヨシ! それから······。」
何も聞えなかった。
ただ外に風が吹いていた。時々硝子窓に風の当る音がした。······何も聞えなかった。······時々、Kがこっちを向いて、ニヤリと眼を白くして冷たく笑った
烏が窓の側を近く通って行った。慌しげに啼きもせず······。
広い食堂兼控所に十六人のものが集ってKを囲んだ。
Kの顔色は青白く、頭髪は乱れていた。各自は手を組んで、じっとKの顔を見詰めていた。
「犠牲になったのは誰だ?」
「B||だ。」
また、四辺はしんとして静まり返った。
「塾長、早く言えばいいに······。」と一人がいう。
「もう暗くなるんだ。」
「何を考えているんだい。」
「············。」
Kは、沈痛な言葉でいった。
「私は、幾日か夜も眠らず、食を廃して研究して見ました。」
「世の中に不思議な事実はない。今まで私が不思議と思っていたことは潜在意識に他ならなかったのです······。」
「この分で研究が進んで行ったなら、
Kは、更に沈痛な顔色に
「B君は犠牲になりました。みずから進んで被験者となってくれました。潜在意識の研究はもとより、今度の実験で人間というものが日頃のひととなりに反し||全く矛盾している||秘密を持っていることが分ったのです。」
「Bに、どんな秘密があったろう······。」
「明日その研究の結果を報告いたします。」
「もう暗くなった。」
「Bは、死んだのかい。」と誰やらがいった。
夜の色が黒い鳥の翼のように、だんだん低く灰色の家の上に垂れかかった。闇の
Kは、じっと
鳥でないか?
鳥にしては白い鳥でない。ランプの光りは弱いながら、窓の口までは泳ぎ着いている。白い色なら見える筈だ。雪のように白くなくとも、古綿のように
黒い鳥であろう? 黒い鳥に相違ない!
なんで黒い鳥がこの窓に来て当るのだろう。また、バサバサと鳴った。たしかに翼の音に相違ない。しかしその当る力は衰えていた。大空を
病気の鳥ででもあるか知らん?
翼を
それともこの闇に道を失った鳥であろう。帰るべき道を迷っている鳥であろう。ただこの広い野中に、ただ一つ真夜中に点っているこの室の
ガタ、ガタと嵐が窓に当った。次第に嵐は激しくなった。黒い鳥は突き当るのに間が置いた。
それともこの嵐に妨げられて、飛ぶことが出来ないのでないか?
もう黒い鳥の音がしなくなった!
怪物のような建物は平地に横たわっていた。嵐は思い思いに叫んでその
Kは神経質の眼を、まだ闇の中に突き入れていた。
ランプの飴色の光りは、赤いネクタイ、黒い洋服の縞の目にくぐり込んだ。青いインキは金ペンの
青い
重なり合っている紙の、上から六枚目では、早く遠い国へ行きたい。
「それはどこの国だ。何という国だ。」
「名は知らない。」
「南の方か?」
「南の方だ。」
「いつその国を知った。」
「ある時町へ出て、好い香りのする石鹸を買った。その包袋に、真紅な花が咲いていた。美しい
十三枚目には、青い線が殊に
「Kは悪魔だ、黒い洋服を着たKは魔法使だ。||とても抵抗が出来ぬ。駄目だ。駄目だ。悪魔! 悪魔!」
* * *
Kは
バサ、バサと鳴った。それは地面に散っていた枯葉が、風に吹き上げられて窓に当った音であった。
Kは突立ったまま、この怪しげな音に耳を傾けた。彼は、慌しげに室の中を歩き始めた。
黒い夜が、窓に迫った。大きな翼を拡げ始めた。
真夜中であった。
先刻、三人の友は死んだBの扉の外で語り合った。
Aは、コツ、コツと
「B君! B君!」
けれど、何の音もしなかった。
考え込んでいたCは、鍵を探した。そして、ポケットから小さな光るのを、錠に当てて見たが
Aは、また叩いた。
「B君! B君! 開け
Sは、
「聞えないのだ。Kがこの鍵を持っているに相違ない。」
AとCは、互に顔を見合った。
「Kはどういう人物だろう。」とAがいった。
「さあ······分らない。」とCの眼が怪しく光った。
「Kが殺したのだろう。」とSが言った。
「いや決してそんなことはない。」とAが打ち消した。
「夜が明けたら分る。」とCが言った。
「僕らは余りKを信じ過ぎていた。Bは平常Kを嫌っていた。僕はKを余り好かない。用心しなければならぬ。」とSがいった。
「夜が明けたら分るだろう。」
といって、A、C、SはBの扉の前を去った。
嵐は、
白い床の上に、闇の中にBが横たわっていた。全くこの室には微かな音すらなかった。
それはコロロホルムの入っていた罎であった。その罎をしっかりと握っていた手は床の外に出ていた。
嵐の音が益々激しくなった。この怪物の家が
灰色の漠然とした大きな影! 目もない、口もない、鼻もない巨人がBの
「早く、その罎を隠せ!」
音なく、冷やかに、闇の中に横たわっていた体と、その手が動いた。そしてその罎を隠した。沈黙を破った鍵の音!
音なく、闇の中に更に暗い穴が開いた。間もなく、また穴が閉じて闇は一色に塗られた。パッと青い光りが出た。狭い室の中が真青に燃えた。同時に黒い服を着たKの窪んだ眼が光った。彼は懐中電気を握ったまま、しばらく耳を
何の音もしない。
彼は、慌しげに室の中を探し始めた。······Kの顔色は、Bの死んだ顔色と同じく真青だ。
「ない!」
再び、窓に当る翼の音。バサ! バサ! バサ!