二郎は
昨夜見た夢が余り不思議なもんで、これを兄の太郎に話そうかと思っていましたが、まだいい
折がありません。昼過ぎに母親は前の
圃で
妹を相手にして話をしていたから、裏庭へ出て兄を
探ねると、大きな
合歓の木の下で、日蔭の涼しい処で黙って考え込んでいるのであります。二郎は心配そうに傍に寄り添うて、
「兄さん、何を
其様に考えているんです、
何処か悪いんでありませんか。え、兄さん。僕は昨夜不思議な夢を見たから話そうと思って来たんです。」
兄は驚いた風で、少し
急込んで、
「お前は、どんな夢を見たんだ。」
と問いました。二郎は余り兄の
狼狽たのを意外に思ったけれど、声を一段と低めて、昨夜の夢のあらましを話しました。
「兄さん! 僕の
真実の母さんは生ているよ。隣村の杉の森の中に住んでいて、僕が行って
遇うた夢を見たよ。大変に喜んで可愛がってくれたよ。僕は今のお母さんも好きだけど、死んだ母さんも好きだなあ。」
と語る。と兄は顔の色を紅く染めて、
「二郎や、僕もそれと同じい夢を見た。母さんは初め遇うた時に
知なかったが、なんでもよく似ている人だと思って、
取縋って見ると母さんであったのだろう
······。」
「うん、そうだったよ。じゃ兄さんも見たのか。」
「ああ、僕も見たよ。」
「じゃ、これは大変だ! 大変だ!」と二郎は気の狂うたように
躍り上りました。
「何するんだ馬鹿ッ!」
「何馬鹿だ?」と二郎は嬉しいやら、懐かしいやら、不思議やらで
暫時心の狂って、
其処にあった棒で兄を
擲りました。
「痛い! 痛い! ああ痛い!
······」と太郎は泣き出して「母さん!
······二郎ちゃんが
打った
······エン、エン
······」と泣き出した、母親はこの時家にいたものと見えて、早速この泣声をききつけて駆けて来ました。今の母親は
継母でしたけれど、それはそれは実の母親も及ばない程に二人を可愛がってくれたのであります。ですから二人は今の母さんをば前の母さんを慕うように慕っています。
母親は物優しく「まあ二郎ちゃん、お前さんは何をしだい、何もしない兄さんを
打なんて、お父さんがお帰りですと叱られたら
何なさいます。さあお
詫をなさい。」
と言いました。
二郎は物やさしく母親に言われて、心が少し
落付たもので、初めて自分が悪かったと知ったから、太郎に向って、
「兄さん、堪忍しておくれ。」と頭を下げました。太郎は黙ってしゃくり泣きをしていますと、母親は、
「太郎や何処か傷は付かなかったの、もう痛みはとまって。」
と、親切に言われるので、この時太郎も二郎も
斯様優しい母さんがあるのに、前の母さんを恋しく思うのは
罰が当るように思われて、二人は昨夜の夢の話を母さんに言われませんでした。母親は夕飯の仕度をするからといって、又家の内へ入りました後で、二郎は「兄さん、痛くはないか
······」と言って伏目になって
足下に落ちている棒に
眸を移しました。
兄は黙って
頭を振って、「もう痛くはないよ。」と寂しそうに笑顔を作ったのであります。
太郎は十二歳で二郎は十歳であります。その晩二人は寝床へ入ってから、
明朝自分達を生んでくれた
旧の母さんを尋ねに三里
彼方の、隣村の杉の木の森を
探ねに出る約束をしたのです。夜が明けますと太郎と二郎と二人して、弁当を腰に下げて、杖を
持て、
草鞋を
穿いて、同じ、
扮粧で出掛たのであります。
橋を渡り、畑や、圃の中の小道を過ぎて、目ざす隣村の村
端れに来かかりますと、広い野原の中に一筋の道が走っています。二人は昨夜の夢に見た通りの道ですから、驚きました。
「二郎や、この道をお前も夢に見たかい。」
「ああ、やっぱりこの道を行ったんです。」
「この、杉林も通ってまだまだ奥へ行ったよ。」
「僕も
······あれ、兄さんこの道は
此処で二筋に分れてしまった。」
今迄二人の歩いて来た、道が二筋に分れて一つは広い道幅の
平な道であります、それに比べると他の一筋は小石のごろごろと転っている、
険岨の道で草の中に半分隠れていて余り人の通らない道のようであります。
「二郎やこの広い道を行くんだよ。」
「いいえ兄さんこの細い道を
行んですよ。」
「だって、僕は夢にこの道へ行ったのを見た。」
「僕はこの道を行ったよ。」
「この道の方が
真実だ。」
「いいえこちらが真実だ。」
「僕は
此方へ行く。」
「僕は此方へ行きたいな。」
「二郎ちゃんこの方が歩きよくていいや。」
「兄さん、此方へお
出でよ。」
「いやだ!」
「じゃ、
私は一人で行くわ。」
兄は怒った、さっさっと広い道の方を歩いて行きます。今は二郎も意地
張て、
己は此方へ行くと歩いて、細い道を辿り辿り、一
丁も来て、兄の後姿を見送った時には、いつか峠に
遮られて、道は曲っていて、兄の姿は見えなくなったのであります。又一二丁も来ると道がだんだん
嶮しくなります。
傍の雑木林で
四十雀や、
山雀が鳴いています。ただしんとして
四辺には風の折々、さわさわと木の葉の鳴る音ばかりで
渓間に
蜩の鳴くのが聞えて、なんだか非常に心細くなって、後へ戻って兄を追うかと思いました。その時、
道端の草に埋もれている石地蔵様が「さっさっと
真直に
行きやれ行きやれ」と物を言わっしゃる。二郎はこれこそきっと神様のお告げだと思って、この道さえ真直に行けば恋しい、
母あさんに遇われるのだと勇気を出して歩きました。又二三町きて、やはり道が
当なく、草原につづいているばかりで、目ざす森も見えませんければ、人家もないのでがっかりとして、もと来た道を帰ろうかと立止って考えますと何処からか山鳩が一羽飛んで来て、ちょうど頭の上の木の梢にとまって、「二郎さん二郎さん早くお出でよ、トテッポーッポー、脇見をせんでお出でなさい。トテッポーッポー」と二郎に力づけて、又
何処へか去ったのであります。二郎はやっとのことで平の場所へ出たかと思うと広い野原であります。
昔は大名か何かの、奇麗な御殿があった所だと見えて、大きな
礎石や、
瓦の
欠や、石垣などが残っています。その荒れた城跡に草の
茫々と生えた中で、夕暮方の空を眺めて一人の
痩た乞食が
胡弓を鳴らして、悲しい歌を歌っていました。二郎は物怖ろしくなって、乞食の知らない間に通り抜けようと駆け出しましたが、乞食は別に此方を振向こうともせんで、やはり疲れた風で泣くような胡弓を鳴らしていたのであります。二郎は昼の
中に弁当を食べ尽して、何か
食物を買うところはないかと思って、考えていますと、遠くの方で太鼓の音が聞えているので、早速その方を
志して道を急ぎました。
案の如く
彼方に大きな森が見えたのであります。二郎はこの時昨夜の夢を思い出して、少しもこの辺の景色が違っていないことをたしかめました。「ああ、兄さんは何処へ行ったろう。」と兄の身の上を案じながらも、早く母さんに遇おうと思う一念で森の
燈火の見えるのをそれと思って駆けて参りました。だんだん暗い大きな森の中へ入って行きますと、月の光も差さず、物凄い風の音が聞えて、始めのうちは狐にばかされたと思っていましたが、その中に
遽ち目の前に賑やかな、お祭の景色が見えました。紅、青、紫色の燈火が星のように輝やいて、
行手の道の両側には
見物店や、食物店が、それはそれはちょうど九段の
招魂社の祭りに行ったように奇麗に居並んでいて、
其処を
往来するお姫様や、
小供の姿が手に取るように見えます。しかし余程隔っていると見えて物音は何も聞えず、ただ立派な着物の縞や、人の顔などが
朧ろに見えるばかりで、眠むそうな太鼓の音が時々、どんどんと聞えるばかりであります。二郎はこれが母さんのいなさる処かと心のうちで思い込んで、早く行ってその祭を見たいと駆け寄りますと、ちらりとお母さんの笑顔が
幻しに見えたかと思うとぱっとしてその影は何処へか消えてしまいました。
二郎は魂の抜け去ったように
茫っとして
佇んでいますと、頭の上の大きな杉林に風の音が物凄く、月の光りがちらちらと洩れて
梟の
啼声が聞えます。もはや
堪えられんで二郎は泣出そうとした時に、
先刻のみすぼらしい乞食が現われて、私がお
家へ
連て行って
上ましょう。と先に立って、例の哀しい胡弓を鳴らしながら今来た道をもどって行くのであります。二郎は恐る恐る、「母さんに遇いたいが、お前さんは、母さんのいるところを知らないか。」と
聞と乞食は、「母さんのところへ連れて行って上ましょう。」とやはり今来た道を帰るのであります。二郎は堪えかねて、
「
小父さん、
真実の母さんは何処にいましょう、僕は真実の母さんに遇いに来たのだよ。」
と、言うと乞食は
不審そうな
顔付をして、立止って二郎の顔をつくづくと眺めて、
「真実の母さんてば
······二郎さん、お前さんはどうかしていますね、きっと狐にばかされて此処へ来たのですよ。」
と、後は何かぶつぶつと口の中で
独言をいうて、草藪の中を分けて行きます。二郎は悲しくなって、涙ぐんで黙って後についてまいりました。夜嵐は杉の木の梢に鳴り渡って、泣くように悲しい
音を出す胡弓は、たえだえに聞かれるのであります。
「二郎ちゃん!」と一声何処かで声がする。二郎は歩みを止めて
佇ずみました。
誰れか自分の名を呼んだなと思いましたけれど、それっきり聞こえませんでした。余程来たかと思う時分に杉林の奥の方で太鼓の
音がまたしても聞こえます。振り向くと、またしても、紅、青、紫の燈火が美しう輝やいていて、お祭りの賑かな景色が見えて、人通りの
混雑ている中に此方を向いて手招きをする女はたしかに自分の死んだ母親の顔であります。
「お母さん!」と、思い存分に
叫きますと、その声は
木精にひびいて確かに母さんの耳にも聞えたのです。乞食は
不意に後を向いて「やかましい。」と言いざまに持っている胡弓で二郎を力存分に打ちました。胡弓の
柄はぽっきりと三つばかりに折れたかと思うと、物凄い夜嵐の音も、
怒れる乞食の姿も美しいお祭の景色も
総べて消えてしまって、いつしか二郎は
月明の下に我が家の前に立っていたのであります。
太郎は途中からよして、自分よりは
疾くに家に帰っていて、二郎の帰るのを待ちつつ母や妹と心配しながら、果物などを食べていたところであります。母親だけは果物も何も食べんで寂しそうな顔付をしていました。
これから兄弟とも今の母親の言うことをきいて孝行を
尽しまして、母も
益々二人を愛したそうであります。