男が出かけようとすると、
実際、女は日に日に瘠せおとろえていたのである、あごの尖ったのや、ほっそりと顔全体が毎日
かの女の眼底にはいつも黒ずんだ男の姿が、はっきりと仕事台に向って終日こつこつと彫りものをしている手つきまでが映っていて、それが異様な単に黒ずんだ影のようになってみえるときと、その顔まで生白く映ってくるときと、また別な余り見たことのない他人のように見えるときとあった。一つの材料に向って毎日彫りものをしている
男は夕がたになると外へでかけた。男にはあきらかに女ができていることも、そとで初めて明るく
「いっていらっしゃいまし。」
そう言って茶いろの帽子をわたすだけで特に
女は日に日に瘠せるばかりで、どういうときにも音というものを立てなかった。すうと襖をあけたり、猫のような柔らかい足つきで畳の上を
「············」と何かの用事をいうとき、男はおともなく開いた障子と同じいいろをした女を見ると、わけもなくぎっくりした。障子に半分以上を隠した顔が半分に切った鶏卵のように、つやを失って見えたからである。おどおどしながら、はじめ半分ばかり見せた顔をだんだんに障子のそとに隠してしまうのであった。
「どうしてお前はおれに
男が鑿で荒彫りを
「いいえ。べつに恐がっているわけじゃありませんの。」
殆ど
「それならそれでいいがお前のように一日考え込んでばかりいるとしまいには病気になる。いまもからだが悪いようじゃないか。めっきり瘠せてしまったじゃないか。」
女の肩のさびしい斜線の、すうとうすい鉛筆でひいたように薄く流れているのを、男はその細い腕のあたりまで目にいれて言った。
「自分じゃ
「お前の瘠せかたがあまりひどいんだ。考えない方がいいのだ。」
男がこう言ったとき「瘠せたことは知っているんですが······、」と女はこたえると、袖のところを
「お前は取越し苦労ばかりをしているんだ。つまらないことは一切考えない方がいいんだ。」
男が煙草を喫いながら言うと、女は何か言おうとしながら口を
「············」女は黙って、目をあげて男をながめた。男はその目のいろを見ると、そこから奥深い、女がもつ特有な炎をかんじた。
「も少し仕事をしよう。あっちへ行っていてくれ。」
男はこんどは女の方を向かないで、鑿のさきでコツコツと細部の彫りものにかかりはじめ、
女は自分の室にかえると、ぺっとりと糊のように坐って、手を膝の上においてぼんやり何か考えこんだ。
日が
かの女は玄関へ出て、れいの茶色の帽子をとって細っそりと立ちあがった、そのとき、男は自分の室からぶらりと玄関へ出てきて、女を見るとびっくりして顔いろを変えた。ふしぎにどういう時にでも、外出するときになると、どういう忙しい仕事をしていても女はいつも先廻りをして玄関へ出て待っているのが常であった。それが食後なれば外出することを感じやすいのは誰でもあるが、食事前にでも女はいつもれいの茶いろの帽子をもって、音のない水のように立っているのである。それゆえ男は暗いいろをした襖をうしろにして今の今、こうして女が立っているのを見ると、ぎっくりと胸にこたえた。あれほど静かに着換えをしていたのに、もう感じ出したのかと、そっとひと目くれると、女はしめった声で、
「いっていらっしゃいまし。」
そう言って茶いろの帽子をさし出した。ほそい
水気ぐんだ暗みが夕明りの隅々に
男の姿がそれほど明瞭にうつってくるのにひきかえ、女のほうは影のようにぼんやりして、いくら
「わたしが毎晩こうしてあのひとのことを考えているうちに、だんだん瘠せほそってゆくのだ。わたしはあのひとが毎晩出て行ってからのことをすっかり永い間見ている。あのひとはそれを知らない。わたしは見まいとしながらも引き
女は恐ろしいものから
「時計がうごいていたのだ。」そう言って女はうっすりした微笑をうかべた。笑っているのかいないのか判らないほどの、きわめて変な微笑であった。間もなくも一度時計を見るとこんどは気味悪く声にまで出して微笑ったとき、女は自分で自分の微笑い声にびっくりしてあたりを見まわした。そのとき九時を三十分過ぎた針がおたまじゃくしのようにちょろちょろ泳いでいるように見えた。
十時がすぎ、十一時がすぎ、最終列車の汽笛がいつものようにしたときまで、女はやっぱり坐ったまま眠るでもなく醒めるでもない、うつらうつらした籠に揺られるような気でゆらゆらしていた。が間もなく何時ものようにその時刻から尻のほうから逆に上ってくるような水のようなものをかんじ、はっきりと目薬をさしたように瞳が冴え返ってくることをかんじるのであった。何が故であるか、その
かの女はそのとき目を閉じて耳だけを澄ましていたのである。奇妙な下駄の音はすこしずつはっきりしてきて、坂のようなところを上ってきた。ふた側の新しい家並みも寝しずまっていて、男の黒ずんだ姿だけが闇のなかに、もっと暗い影をひいていた。「あそこの角は果物屋になって居り、となりが床屋になっている。床屋だけが寝しずまった通りに明るい電燈を道路に投げている。そこへ暗い影が浮き出た。男がいまそこを通ったのである。それから
女はすっと立って玄関へでた。
「おかえりなさいまし。」
茶いろの帽子はまた女の手にもどったが、それはすぐ帽子掛にかけられた。男は酔った声で低く遠慮しているような声でささやいた。
「誰もこなかったかね。郵便も。」
「いえ。どなたもお見えになりませんでした。」
女はそう言って、ちらりと男の顔をみると先刻の男と異っているところがなかった。いもりのような唇をしている女が、玄関の内側に
「そうか。さびしかったかな。おそいから寝たらいいだろう。」
男はそういいながら女の顔をみると、夕方出て行ったときから、また一と皮だけやつれてみえた。顔いろが日に日にわるくなってゆくのも目についた。
「お床をとりましょう。」
女はそう言いながら床をとってしまうと、男はぐったりと疲れたからだを横にした。ほんとに気味の悪い女だ。なにも彼も見ていたように変なかおをしている。そう思って細目に眼をあけてみると、女は閾のところに手をついて、
「おやすみなさいまし。」
男の顔をまじまじと見たが、すっと音のしないように立って自分の室へ行った。変な女だ。猫のように音をたてない。上目してじっと見つめられると、何も彼も写真に撮ったように知った顔をするのだ。男はそう思っているうちにうとうととした。
女は着物をきかえながらほっそりした胸を鏡にうつして、女自身もふしぎに瘠せほそったからだをつくづく眺めこんだ。ちいさい乳房や鳩胸のさびしい高まり、それに喉ぐちがほっそりと上へ向けて伸べられていた。喉のうえにはれいの蒼白い首があった。女は全身のなまなましいからだから放つ紙のような白さを、
ふふ······と
男の室から小さいいびきが起りはじめた。うさぎのように耳をつっ立てた女が、それをきくと見る間に憂鬱な曇った眉と目とのあいだから、さめざめと泣き出した。一時にためた様々な悲しそうな長い忍び泣きがつづいた。それはふしぎに笛のような声にも似ていたし、鼻でくんくん啼く犬のこえにも何処か似ていた。
男はある日仕事場の鉋屑をまぜ返したり、道具箱をがちゃがちゃ鳴らしたりして、しきりに何か捜しているようであった。雨は飴いろにそとの空気をそめた陰気な午后であった。
女がひょこり仕事場に顔を出すと、男はあわてた恰好でたずねた。
「鑿が見えない。鑿が······。」
鉋屑を
「そう。箱のなかにないでしょうか。」と女は道具箱を覗き込んだが、そこにもなかったのだ。
「いや箱にはないのだ。ふしぎだ。実にふしぎだ。現に今使っていたんだが。」
男はそう言ってぼんやり女のかおを見た。女はそのとき鋭くあたりに目をくばって、そこらの棚や仕上物や材木のあたりを
男は何気なくふと女の眼を見ると、すぐ驚いた。それはあまりに
「あのなかに
「俵のなかにかね。」
「ええ。」
「まさか||こうっと、さっき鉋屑をつめこんで······と······何か堅いものが手にあたらなかったかしら······。」
男は考えこんでしばらくすると、びっくりしてすぐ俵のそばへ寄った。
「あ。たしかに木屑と一しょにつめ込んだのだ。」
そう言って男は鉋屑をつかみ出した。と、一
「危ないところだった。それにしても能く怪我をしなかったものだ。」
男は刃わたりを手のひらで
「しかしお前にはどうして鑿が俵のなかにあることがわかったのだ。」
こう言われると女は微笑って言った。
「でもあそこより
「それもそうだが······。」
男はそれきり黙って気味悪く女をみつめた。そのとき男はいつもの女とは異ったものを見たような気がした。何かわからなかったが男にないものを女がそのからだに含んでいるように思ったのであった。何かこう特別な電気とか
女はそっと次の室に行ったあとで、男はいろいろなことを考えた。女がたえまなく沈んで何かをしつこく考え
日が暮れた。男は女が庭へ出ている間に手早く仕事着をぬぎすてると、そと着をひっかけた。そして急いで玄関へ出たとき、男はびっくりして一尺ばかり飛び上った。そこに何時の間に

「いまお前は庭に出ていたようであったが、それとも家にいたのか。」
男は帽子をとると、こう言って女のかおをながめた。
「でもおでかけのようでございましたから······。」
女は答えると玄関の障子をそっとあけて、
「いっていらっしゃいまし。」
手をついて言った。指のないような
「うむ······。」
男は下駄をひっかけてそとへ出た。夕明りがまだ漂うている中空に、くらい
「どうもあの女には別な気もちがあるらしい。しょっちゅう考え込んで何かを
家では男が出ていったあとで、女は又ぺったりと坐って、うつらうつらと何か考えていたようだったが、いきなり
「はてな。」
女はちいさい声でつぶやいたとき、外では男が湿った板戸にぴったりと平蜘蛛のように忍びよったところであった。星ぞらではあったが、もう完全な暗がそこらじゅうを染めあげ、あるものはだらりと暗く地上を這うていた。
「とすると······あの方は橋のあたりから引きかえしてきて、勝手の板戸のところにいるのにちがいない。」
女はそう心でつぶやいたとき、はっきりとうす暗く忍んでいる男の姿が、よこ板を使った勝手の板戸に平たく、黒い斑点のようになっているのを考えついた。そしてぶるぶると
時計はそのあいだに十分二十分を過ぎた。間もなく三十分を過ぎた。夜はしずかに小雨あがりの湿っぽい土になく虫の音のほか、何事をも起りそうもない沈んだ静かさのうちに、闇はしだいに
そとの姿はやはり板戸にくッついて、それが二枚の障子に写しかえられて女の眼にますます濃い姿をうつさせた。女のかおは糊のように乾いてただそれは一枚の紙きれにすぎない死んだような白さであった。呼吸はますます苦しそうに見えた。れいの斜視は最初の十分からもう一時間以上を経ていた。
と、そとの影が板戸をすうっと引っぺかしたように離れたそのとき障子のかげもずるずると動いた。女の斜視はZ形にひらめいたとき、
「
と、女はひくい声で心臓のはげしい鼓動と一しょの息ぎれでかぞえはじめた。柔らかい土には音がなかったが、女が五歩まで数えたとき障子のかげはすっかりなくなって、いきなり玄関の格子ががらがらと雷のような音をたてて男がはいってきた。が、その格子の音がするほんの二秒ほど前に女は恐ろしい驚くべき緊張と凝視との世界から切りはなたれて、ほそ腰から二つに折れたように気を失って前へつっ
間もなく女は床についた。その目はいつも光線のある方を向かないで壁や障子のあるところ、隅々のくらみをもったところに注がれていたのである。彼女は乾した
ものうく自分の指紋をしらべたり、ほそい腕をさらさらと臆病そうに撫でさすって見たりするほか、うとうとと少しばかりの
「一二三四五······。」
それが何の理由もなく繰りかえされ通されたのである。医者は脳神経衰弱であるといい、殆ど精神病者に近い憂鬱症に陥っているということを男に注意した。
男はその仕事のひまひまには女の室へ行って、
「なにかほしいものがないか。」
よく尋ねたが、女はあたまを振って、
「いいえ。
そう答えるだけで目を閉じるのであった。かれはその蒼白くやせ込んだ額や首すじをみたりすると、いつかの晩の気絶したときの女の変にゆがんで、死人のようにくたくたに柔らかくなった身体をすぐおもい出した。それは手も首もはなればなれにぐなぐなになっていたからである。首を起すと、だらだらと流れるように肩のつけ根から下がった腕と、俯向けになった手首が畳の上に擦れて、げじげじ虫でも這うような厭な掻くような音をたてたからであった。
「わたし今どういう風にねていたんですか、言ってください。」
こう女が言って、うっすりと目をあけたとき、男は気味悪いほど女が何故気絶したかを次第にわかるような気がしたのであった。
「俯向けに||こういう風に。」
男は自分で腰を折って、つッ伏した姿をしてみせたとき、女は嬉しそうな表情になって、
「まあ······。」
と言って男のかおをちらと見て微笑んだ。それがまた男にはわざとされたような気で、きゅうに黙りこんでしまったのである。
男は仕事場にかえって、こつこつと彫りものをはじめた。そうしているうちに、かれはそっと障子をあけて次の室の病人がどういう風に寝ているかということが気になって、四ツ這いになって、つぎの障子戸までしずかに忍びよったのである。
男は障子のすき間から覗いたとき、起き上った女が真青になって、男の忍びよったことを
「なにか御用でございますの。」
その声は落ちついていた。男は
「そんなことをなすっても、ちゃんとわかりますの。」
言われたとき、男はおもいきって障子をさらりとあけた。女は微笑んでみせた。つめたい亀のように瘠せた皺が額のところに寄った。
「どうしてお前におれの姿がみえるのだ。気味の悪い||。」
男は棒立ちになって、なまじろい女のはだけた胸をみつめながら言ったとき、
「あなたこそ気味の悪い、四ツ這いになって忍びよるなんて。」
そう女がこたえると、男は又冷たくなって急に言葉もでなかった。ただ不思議なものをみるように、この変な女をつくづく眺めた。いまは彼女はただ気持ばかりで生きているほど細ながく伸ばされたようになっていたのである。横になればなったままで、のろのろと這い出し兼ねないぬらぬらと細く、きみわるい蒼白さに澄んでいたからである。
「ほんとにどうしてお前はおれが忍んできたことがわかるのだ。」
女はぐんにゃりと微笑って、
「どうしてって······どうしても見えるんですもの。」
男は青くなって、やはり立ったまま女の耳をふいと目に入れた。それは薄手な白い
「眼を
男は自分の質問の変なことを心でそれとかんじながらいうと、
「どちらでもないの······。」
「どちらでもないのか······。」
男はそう答えて黙ってひきかえそうとした。女はそのとき又床のなかへからだを入れようとした。わき腹のほねが規則正しく波をうって、むしろざらざらした感じで目に映ったので、男はこりこりなあばらの骨を手で撫でたような悪寒をかんじた。
「そこを閉めていってください。」
女はそういうとぬっと、生白い首を布団から辷り出した。男はわけなくぞっとして障子を閉めた。閉めたあとまでさきの姿が目にのこっていて離れなかった。
男はそとへ出ていても、すぐ女の青白い顔がうつり出してきて落ちつかなかった。電車に乗っていてもふいと乗り合せの女のかおを目にいれると、ふしぎに家にいる女のかおが
男は電車を下りると、いつも行きつけたひっそりした家へはいった。そこは街裏の何処か艶めいたすだれや肘かけや
「しばらくいらっしゃいませんでしたね。おかけしましょうか。」
女中がそう言うと、男は疲れたようなこえで、
「あ、それから急いで酒をもってきて呉れ。」
男がこう命じると、すぐ女中が去ってしまって、いつものようにぼんやりと一人ひろい座敷におかれた。雨のない重いような曇ったそとの空気は、ひっそりと家内をしずまらしていた。間もなく電話の鈴が鳴った。女にかけているらしいのである。
男はたばこをふかしながら、いつになく家をでるとき「早くおかえりなさいまし。」と女が言ったことをおもい出した。病気になってから久しぶりに出かけようとしたとき、れいの蒼白い首を床から乗り出して女がそう言ったのだ。ぎらぎらした鱗のような目と、やせて尖った小鼻とがまた目にうつり出してきた。
「いけない、妙に気がかりになっていけない。」
男はたばこをやめて、また、退屈な五六分をおくると、そこへ静かに目ざめるような派手な扮装をした女が膝をついた。男はすぐさま明るい顔になった。
「お久しぶりなのね。」とすこし膝を乗り出した。いそいで来たものらしく、おしろいの
「妙に黙り込んでいらっしゃるわね。どうかして||。」
「いや、別に何も考えていないのだ。重くるしい厭な日だな。」
「きょうは変なことばかりあったのよ。お湯屋の時計が停っていたし、うちのも三時で止っていたし、それに
男はこう聞くと機械的に、
「ふむ||。」と帯のあいだをさぐって、辷り出した時計を出して眺めた。小さな音をきざんでいたので、ほっとしたように女は明るくなって、
「まあ嬉しい。あなたのも止っていたらあたしどうしようかと思っていたの。あたし妙に神経質で、かつぎ屋なの。」
男はふいと欄間のところをみると、そこに小さな襖戸が開けられてあって、何か影のようなものをちらと見たような気がしてしかたがなかった。特に何者であるということが
「変だわね。あなたは······さっきから話の腰ばかり折って落ちつかないのね。」
女はあちこち見廻す男の目を追ってこう言うと、
「そうかな。何んだか落ちつかないんだ。変に静かなせいもある。」
男はそういうと、女はすぐ、
「どんなお客でもみんな考え込んで、へんに沈み込んでいるのね。しょっちゅう何か心のうちで捜っているようなところがあるわ。何を考えているんでしょう。」
「家のあるものは家のことを考えているんだろう。」男は横になった長いものや、障子と壁の方にむいた蒼白い顔を目にふいと入れると、もしかすると今夜あたりわるくなっていはしないか。あれが死ぬようなことがあれば、あれが死ぬようなことはないが、しかし悪くなるとすると······考えこむと、女はにっこりして、
「おくさんのある方はやっぱりおくさんの事を考え出すんでしょうね。」
まじめな声で言った。
「まあそうだね。」
男は
「いけないわ。また、あんなものを見ちゃいけないわ。」
男は気のくさくさするときは香爐の蓋をながめる癖があった。蓋のうらには精細な、美しい男と女とが
「気がくさくさするんだ。見たってかまうものか。」
男は蓋をとりあげると、まじまじと眺めた。これを見ていると、くだらないことを忘れてしまえるからいいのだ。かれはそれを横にしたり透かしたりしていると、
「おかしいわ。そんなに見ちゃ、は、は、は。」
女は微笑って引ったくろうとした。と、かっきり描かれたようないもりのような腹赤な唇が、男の目にいきいきとうつってきたのである。男はぐなぐなな手をとろうとする。そのとき、ぴっしりと
「
「何んにもしなくてよ。誰か叩いたようだったわね。」
「誰かが叩いたようだとは||。」
「あたしじゃないわ。こっちの手に煙草をもっているでしょう。だから叩くことができないわ。おかしいわね。は、は、は。」
男は女の左の手をみると、指とおなじい長さと白さをもった紙巻が挟まれて、しずかに煙をあげていた。
「嘘を
「は、は、は、だ。」
女は
「ああ······。」そうだ聞える。いやな。男はがっくりと首を床の上から畳に擦れ落ちたような音を耳にした。もしものことがあるとやはり可哀想だ。今夜あたりは危ないのだ。家にいてやればよかったと、男は考え出したときは、もう
「どうしたの。苦しいの。」
「莫迦をいえ。酒をもっと持ってきてくれ。あつくして。」
女が
「と、何かこう
そのとき階下へおりた女が、長い廊下をしずかに歩いてくる足音がした。そして室へはいると、
「まあ恐い||。」と言って顔いろを変えた。
「どうして怖いのだ。」
「どうしても恐かった。でも目ばかりくりくりさせているんですもの、きょうはどうかしていらっしゃいますわ。」
「いつもと異っているかな。」
「ほんとに変よ。手に何をもっていらっしゃるの。」
「何って······何をさ······。」
気がつくとまだ男は香爐の蓋をしっかりと握っていた。握っていた手が殆ど無感覚になるほど、永くつかんでいた。
「いやなひと。まだあんな物をつかんでいるんだもの。」
女は言って又引き
「すっかり忘れていたのだ。渡してたまるものか。」
男はそう言って頑固に堅く握っていた。むずむずと這い出るような二疋の生きものの絵を、あたまに柔らかく
「じゃ、いつまででも持っていらっしゃい。は、は。」
女は仕方なしにこう言って、また酒をつぎ出した。男はいつか女に尋ねて見ようと思っていて、つい言い出せなかった喉のところの傷のことをたずねた。それは変に栗いろの二分ほどの、長さの気味の悪い傷であった。いろいろな想像を加えれば加えられる傷でもあった。
「何んでもないのよ。おできを切ったあとが残ったの。」
女は言って人さし指で、その傷の上をなでてみた。柔らかい生白い、たえずろくろのように廻っているような首すじ、その喉笛のしたにぽっちりついた傷が男には忌わしい妄念を
「おできなのか。おれはまた心中でも
「そうなら気がきいているんだけれど······。」
男は言ってきゅうに黙り込んだ。「何かがあったのだ。おれが気のつく程度で何事かがあったのだ。あの傷はただの傷ではない。決してただの傷ではない。」男はそう考え出した。女も黙り込んだ。男はすぐまた家にいる女の生白い首すじ、ねじ切れそうな白葱のような首すじを考えた。ほんとに何も起っていてくれなければいいが、男は苦しそうに心でむしろそれを「何も起る筈がないのだ。ああして壁の方を向いてやすやすと睡っているにちがいないのだ、」と考えて。ほっとして杯を口にした。
「何事が起り得る筈があるものか。生むは案じるより安しだ。
男は鑿のことや、玄関の隣の間から
「あたし今夜はこれで帰らしてほしいわ。よそから口がかかっているんですし······。」
女は恐そうに男の眼が異様に輝くのを眺めながら、おどおどと言って、男が承諾するかどうかを
「帰るか。ふむ。くちがかかっているんならいいよ。止めないから。」
男は反対に怒りが沈みきって、森とした頭になった。
「わるく思わないでくださいな。」
女はわざと男のかおを覗き込むように、猫のような
金を払うと、のっそりと池の端のまわりを歩き出した。
「ともかく帰ろう。何にも起ってないことはちゃんと信じているのだ。きっとだ。」男は
酔っていたせいで、すこし眼が
男が電車に乗ったころ、女は蒼白い蛙のようになって、床から半身を乗り出し、極度の疲労と凝視との世界から
女はそのとき、男が今何処の通りを歩いているかという自分との隔離を、その次第に近づいて来る隔離を殆ど透明なものを
男が土橋をわたりかけると、その樽の上でも叩くような跫音が女の耳そこにきこえたとき、かの女はすっぽりと毛布をかむって、やすやすと睡った風をした。表があいた、くらい土間から上ってくると、すぐ障子をすらりとあけた。そして、
「べつに変化りはないか。睡っているのか
「おかえりなさいまし。たいへん晩うございましたのね。」
女はこれだけ言って、いつもより親しそうな微笑をうかべた。「何事もなかったのだ。もしかすると非常な不吉なことが、起っていはしないかと思っていたのだ。」男は安心したような顔で、
「うむ。すこし手間のとれることがあって晩くなった。変化りがなくて何よりいい
真面目に落ちついてこう言うと、女はくっすりと微笑って、すぐ元のまじめな顔になり澄ました。へんな奴だ。ああいう微笑いがおをこのごろになって時時するのだ。そんなときおれの方で何時も何か言いあてられたような気がするのだ。男は黙って自分の室へもどろうとすると、女は、
「あの······すこし······。」
と言い
「見せてくださいましな。」
女がこう言って、ぐんにゃりと伸ばされたように微笑ったとき、ぎっくりして男は機械的に袂から香爐の蓋をとり出した。出したとき男は羞恥も顧慮も無い、平明な、むしろ
「見たってしょうがないじゃないか。
そう言い棄てると、女はいきなり長い蛇のような白い手をぬらぬらと這わせるように、布団のあいだから引きずり出した。そしてその香爐の蓋を手にとると、これも又突然に殆ど奇声ともいうべき高い猿のような叫びごえを立てた。が直ぐどうなるかと思うくらい病的にわなわなと震え出した。つぎの瞬間には崩れるようにげらげら笑い出して、
「あ、おかしい。あ、可笑しい。」
と、そこらじゅうを転がりはじめた。白い馬鈴薯のような細いからだが、
「馬鹿。」
男はこう
そうかと思うと訳のわからない
「ひょっとすると気がふれたかも知れない。あの眼はただごとではないぞ。ひょっとするとだ。だが
「落ちついたらいいぜ。なんだそのだらしのない恰好は······じっと落ちついて······じっと動かないでいるんだ。」
なだめるように慌てて低いこえで言うと、女はさっと目も鼻も一時に死んだような静けさに返ったが、また、ぐらぐらとその澄んだ静かな表情をいきなり叩きこわしてしまって、目は火のような炎を吐きながら正面に男にすえ込んだ。「も一度言ってごらんなさい。何ですて。しかし一体これは何です。何んです。ああ、これは何んです。」
と又ぴったりと香爐の蓋を手にとって今にもそれに噛み附くように、ぎりぎりと恐ろしい歯がみを
「これが一体何んです。」
こうまた新しく叫び出してむっくりと起きあがって、その生白い首を据えたかとおもうと、いきなり壁のところに香爐の蓋をちから一杯に叩きつけた。古い陶器は白い肌をあらわして微塵に砕け散った。
「やったな。······。」
男がおもわずこう叫び返したとき女は何やら昂奮以上の昂奮で又叫び出したが、間もなくげらげら笑い出して、
「ああ、おかしい。おかしい。」
そう言って又転がり始めた。が、そのときその転がり方は弱弱しく力なく、間もなく車の輪のやすむようにばったり停ったかと思うと、
「ああ······。」
と