漁師の
その時、反対の町から魚やの盤台のような板の上に、四角なガラス
「
李一は人込みの中から覗いてみると、美しい白魚のような形をした、それでいて、瞳もあり、足や手のある美しい人間のような魚であったので、なお、ふしぎそうに眺め込んでいました。わけても、その眼はきらきらとした美しい黒い色をしているのです。
男はこう言ってガラスの箱をゆすぶって見せるのでした。
「この魚は夜になると啼くのです。あなたがたはこれが夜になると、みな水の上へ出ていろいろな唄をうたうことをお考えなすったら、どうか二つずつお求めください。銀貨一
男は箱の中へ手を入れて、水を
見物人のひとりは、
「これが十銭かい||」
というのがいました。
「ええ十銭です。この通り美しいさかなです。これは
男はそういうと、その一
「麻糸を買うのを忘れてくれるな、明日は漁に出るのだ。」
そう言ったのを今考え出したので、李一は残念ながら、男の手の上の魚を物ほしげに見ていました。
手の上の魚は、夕方の明るみの中へ浮いてその手や足を一杯にひろげていて、その小ぢんまりした美しさは、絵にも見たことがなかった程でした。
「おれに一疋売ってくれ。」
近くの
そういう残酷なことを言って、指さきでつまんで、店へ這入って行ったが、男は
「もう夜に近いから唄がきこえる。唄をききたい人があったらみんな集りなさい。お前さんがたの聴いたことのない美しい唄だ。」
男はそういうと川べりの石垣の上へ荷を下ろして、川から水を汲んで来て、水の入れかえを済しました。下流の方はまだ明るいが、山の方からは
「いまに唄い出すだろう。」
男はそう言って石垣の上で、銭を勘定し出しました。十銭の銀貨が十六粒と、五十銭の大銀貨が三枚あったが、男はそれを何度も数え直し、繰り返して、げらげらひとりで笑っていました。
「すると、みんなで三十一疋売ったのだな。」
李一は三十一疋の白い魚がこの町で離れ離れになっているのを可哀そうに思い浮べました。男はそんなことを考えないで、同じい銀貨に歯をあてて見たり、銀貨と銀貨とをカチ当てて鳴るのを聞いたりして、にせ金でないかと疑い深く試しているのです。
そのうち、夜が来ました。蒼い空には月もない星あかりの夜であった。見物人は十二三人いてふしぎそうにガラスの箱の中を見つめていました。
その時どこからともなく、波のような遠い音がして、誰かが何か唄っているのが聞えて来たのだが、どうも向岸らしく、よほど遠くぼやけて聴えてくるのでした。
そのとき
「あッははは······」
皆はびっくりしてその男の方へ、首をねじ向けました。
「お前さんがたは何を感心してそんなにうっとりしていなさるのだ。」
そう言って男は見物人の顔をひとわたり眺めました。その中に一人の強そうな服を着けた青年が怒ったような
「君にあの唄がきこえないのかい、あんなに美しい唄がわからんのか。」
男はまた笑いました。
「ははア、あの唄かい。」男は鼻さきであしらった。「あれは
「向う岸からさ。」
強そうな青年はそう答えました。
「お前さんらの耳は
男はにくらしげにそう言って、こんどはガラスの箱のふたを
「たった十銭!」
男はそう言ってガラスの箱のふたをするのだった。唄は波が引いてゆくときのように遠退いて、ふたが
李一はそのとき
「どうぞ、わたくしをお買いくださいまし。わたくしはあなたの住んでいらっしゃる海にいるものです。わたくしを助けて海の中へお放しくださいまし。あなたが今お買いくださらなければわたくしはどうなるか分りません。」
李一は驚いて
李一はそれでなくとも欲しかったので、財布の中から二十銭の銀貨を一枚取り出して、男の手の上に渡しました。
「買いなさるのか?」
「二疋だけ売って下さい。」
李一は小さいガラスの瓶に二疋の人魚を入れて、いまは全く夜になった海岸の町を指して帰ってゆく
「わたくしはこれで海へもどることができるのでございます。お礼はきっと今にいたします。」
と云う声がしたが、気がつくともう白い魚は瓶の中にいませんでした。
李一はその晩、父親からひどく叱られて、麻糸を
秋の終りころに
鰯の大群は
こういう時は漁師の間にも
李一の父親は蒼い顔をして、じっと鰯の群れを眺めていたが、
「どうも南の方へずって行くようだ。盛り方が南へ高くなって行く。」
そう言ってがっかりした顔付でいたが、隣村の船はそろそろ網を張るために、船と船との距離をひろげて行くのでした。実際、鰯の大群は煮え立つように南の方へすこしずつ動いているのでした。
李一は自分の家の貧しいこと、二十銭の麻糸さえも大切である暮しのことを考えると、こんどの鰯の漁がはずれると間もなく冬になるので、今年は収入のないことを考えると、どうかして鰯がこちらへ来る方法はないかと思うのだったが、そんなことはお構いなしに今度は猛烈な勢いで、鰯の大群はぎらぎら沸き立って、南の方へ、鉛をながし込んだように動いて行きました。その早さは驚くほどの速力でした。そのため水が少しずつ動いて、李一の船までが引かれる程であった。隣村の漁師らの網はすっかり張られ、もう、鰯は網の中へずり込んで行ったのでした。
李一は父親の顔を見ていると、それはまるで死人のように蒼ざめているのでした。その筈です、こんどの船も
鰯が隣村の網の目へかかったときに、ふしぎに、先刻から沖の方にいた鴎の大群が一時に鰯の群れを襲ったのです。すると鰯の群れが
李一の方の船は二方に分れて、網の用意をしました。父親は真青になって声をかぎりに叫び立てました。
「李一、船をできるだけ分けろ。」
李一の船はずっと分れて鰯のうしろに廻りました。父親は前から押して行ったのでしたが、沖の方の空いた口から鰯が流れるように逃げ出すのでした。
「早く、早く!」
父親は叫んで早く網を引くように李一に叫んだが、李一は船を自由にできなくて、唯、あわてるばかりでした。
「これまでになって何をぐずついているのだ。」
父親はそう言ったが、李一にはどうにもならなかったのです。そのうち鰯はなだれを打って沖へずり出しました。
その時、沖の方から何か真白なものの群れが押し寄せて来たのです。白い肌をした美しい手足の魚です。そのため、なだれを打った鰯はまたぎらぎら沸き立って、戻りはじめたのです。
「早く、早く。」
李一はその時すっかり網を鰯の群れに巻いてしまったのです。それと同時に白い肌をした魚の群れは沖の方へかえって行きました。李一は見たことのある魚だと思ったが、よく分らなかったのでした。
父親は、「ああいう魚は始めて見た、一たい何という魚だろう、あれが押して来なければ切角の鰯も捕れなかったのだ。」
そう言って大漁を喜んで、岸の方へさして船を漕ぐのでした。これで今年の冬がくらせると父親は
李一は鰯を網から外すとき、ふと、二疋の白い肌をした魚が網の目にかかっているのを眺めた。白い魚の方でも李一を見詰めたが、李一は
「さよなら、ありがとう。」
李一はそう言って手をふるのだったが、二疋の白い魚もまた、泳ぎながら、沖の方へ行きました。
「どうも、あの魚はふしぎな魚だ。」
父親はしょっちゅう、そう言いつづけるのでしたが、李一は黙ってそのことを話さずに置いたのでした。