これは何となく人間の老境にかんじられるものを童話でも小説でも散文でもない姿であらわそうとしたものである。||
舟のへさきに白い小鳥が一羽、静かに翼を

「お母様はどうなすったのでございましょう? あんなにお急ぎになったのに||わたしちょいと見てまいりましょうか。」
「すぐ来るだろうから、とにかく
「纜をおときになっては厭でございます。舟が出てしまいますもの。」
「大丈夫だよ。湖から吹く風だからあと戻りしても沖へは吹かれはしない。」
娘はすらりと舟の上に乗ったとき、尾の脚の
「あの鳥が出ると、島の方がはっきり見えますのね。」
「あの鳥が一羽でも飛んでいたら、晴れるにきまっているんだよ。||それに晴れると白魚がたくさん群れて岸へあつまってくるのも不思議だ。」
眠元朗は纜をといてから、舟を渚から少しずつ
「お母さまが
「出しはしないんだよ。」
「でも気になるんですもの。いつかのようにどんどん舟を出しておしまいなさるかも分らないんですもの。||わたしお父さまのなさることを後ではらはら思うことが沢山ありますの。
眠元朗はひとりで
「そうあの日は島まで漕いでしまったが、||あとでお母さんが来られないことが分ったじゃないか。」
「ご遠慮なすったのよ、このごろはお母さまは舟に乗ることをお喜びにならないようですわ。わたしなんだかそんな気がしますの。」
「舟に乗ることを喜ばないって||お前にそれが分るのかね。」
「きょうも
片手を水の上にひたせ、水をなぶっている
「お前はお父さまが好きか、又お母さまが好きか、もう一度それを言って見てくれないか。」
娘はそういう父の顔の、ずっと奥の方にある
「どちらも好き||。」
「それはいけない、どっちかに余計好きなところがあるに違いがないから||二羽の
娘はやはり水の上を指でいじくり、そら眼でほほ笑んで父の眼を見上げている。そして当惑した考えを無理にまとめようとしているらしい無邪気さが、
「こまるわ、そんな事||。」
娘はすぐ言葉を
「そんなことをお聞きになって何になさるの。どちらが好きでもかまわないじゃありませんか。わたしよそへ行きはしないし、誰一人として
「誰一人いないところだから、お父さんはそうお前にききたいんだよ。お父さんはそれを聞くのが楽しみなんだよ。」
「ではお母さんより好きだといえば、いいお気もちになりますの。」
娘はそういうと黙っている眠元朗をかえり見た。
眠元朗は心のかたくななのに
「お父さまがお喜びになるなら、わたしお父さまが好きだと言ってもいいわ。」
眠元朗は返辞をしないで、桃花村のある島の向うに眼を漂わせていた。それは娘の返辞のそれから
「お父さま、そんな顔をなさいますと、わたしきゅうに恐くなってまいりますの、おねがいですからそんな顔をしないでくださいな。」
娘の顔は美しいなりでその美しさが悲しそうに
「これはお父さまのくせなんだから、気にかけないでくれ、||もう、こわくはないだろう。」
「けれども······。」
娘はつとめて微笑おうとしたが、なぜか窮屈な硬ばりをおのれの顔にかんじた。||父はかならず自分の微笑いがおを見ることを望んでいるだろうと思ったが、やはり微笑えなかった。
しばらくしてから、弱々しい娘の顔はもとのように晴れかかってすこしの曇りのない色に戻った。父はそれを
「お父さんは何も分らないお前に分って貰おうとしたことは悪かった。」
かれはそういうと、又黙って桃花村の方を波の間に間に、ほんのりと染った色をくるしげに眺めた。||父は黙って、その桃花村を指してあれを見よと娘に言った。
「まあ、一日ずつ紅くなってまいりますのね。」
「あのなかに白い四角なものがあるだろう、あれは何のためにあるのかお前は知っているかね。」
「いいえ。」
「あそこにわれわれと同じい人間がいるんだよ、お前は知らないけれど······。」
娘はその美しい桃花村一帯のかげが、湖べりに映ってきらきら耀いているのを眺めていたが、べつに何とも言わなかった。||そこへは遠くもあり父にしても母にしても、まだ行ったことのないらしいところだった。
||或る波の穏やかな日に、娘は母おやと
「お母さま。」
娘はそう母親を呼びかけて、「わたしあの村へ行って見たい気がしますの。」と瞳をいきらせて言った。
が、母親の返辞は意外にも娘の耳もとに、
「いいえ、あそこへ行ってはなりません。あそこはお前のような綺麗な心を
「どうしてでしょう。||それに、わたしはそう綺麗な心をもっていはしないんでございますけれど······。」
娘はふと母親の顔を見たが、すっかり顔色が硬ばって
「お前は
「ええ。」
「母さんの大切なお前だから||そちらを向いてはなりません。それにもう泣かないでもいいのだろう。」
娘は母親の手を肩さきに感じながら、自分の言い出したことが母親を苦しめたことを悔んで、そして泣きしずんでいた。||
その日から娘は母親とその村のことを話し出したりすることを止めた。にも
「お父さま、なぜお母さまはあの村のことを話すると、あんなに寂しい顔をなさるのでしょうかね。」
娘は父の膝の上に手を置いて、うっとりと村の方に見とれながら言った。||が、父親の返辞がないので、何心なくふりかえって見ると、眠元朗は
「わたしそれが分らないもんですから······。」娘は父親の胸のあたりの着物をなでながら、あまえた中にうっすりと悲しげな皺のある声で言った。
「それはお父さんにもよくわからないことなんだ。||だが、お前はそんなことを知ろうとしてはいけない。」
いや、知ろうとする気になるまで、誰がそういう心にならせたのであろう、眠元朗はあんなにまで清浄な心でいた娘が、いつの間にか父と母の心の斑点に、優しい爪を立て始めたのであろうと思った。
「やはり黙っていなければならないんでございますか。」
娘はしくしく泣きはじめた。父親の膝の上に||眠元朗はその娘の髪の上に自分の手を置いて、悲しげに桃花村を
「お前はお父さんを好いているだろうね。」
娘はそのこえを
「ええ。」
眠元朗はしばらくしてから、舟が湖心に漂うていることに気がついた。||娘もいまは紫色をした島影が、舟の上を半ば覆うているのを幾らか冷やりとした気もちの上に感じた。それと同時に眠元朗の耳もとをつんざいた女の声があった。しかも遠くから湖面をつたうてくる声だった。||娘は渚の方へ向いて、そして始めて驚いた声を上げた。
「お母さまが呼んでいらっしゃる||。」
眠元朗は娘と同じ方向に眼を遣ったが、しかし落着いた声で言った。
「母さまは寂しいことはないだろう||。」
父親は棹をとろうとしなかった。が、娘は棹を父にもたした。
「舟をもどしてくださいな。」
そういう娘の瞳は、渚に立つ母親の方へ動かずに凝らされていた。眠元朗はその娘の瞳を悲しげに眺め、なかば諦めたような顔つきをして、ぐいと、水馴棹を立てると、大きな島影は石油色をした虹のような小波を立てて、ゆらりとその静かな影を揺れくずし初めた。
眠元朗はおのれの妻である女と、そして娘とだけを眺めてくらした。その他の何ものをもかれらの眼を刺戟するものがなかった。白い無数の小鳥と、波間の魚介と、砂丘に這う紫色の藤蔓とだけだった。||かれらは此処でどれだけの月日を送ったか、その間は非常に永いようにも又短いようにも思われるほど、何事も平板にあぶら流しに過ぎ去って行った。眠元朗は女と、小さな家の、浜松のかげにある素朴な腰掛けに坐りながら、同じ窓さきにいる娘をみいみい、ほとんど居眠りと退屈とを相半ばする
眠元朗はふと女が同じ腰樹けに坐って眠っている顔をみると、いつものように穏やかな気もちになることを感じた。
渚には舟がもやがれ、波にもまれながら平和に低くなったり高められたりしながら揺れていた。||眠元朗は舟に片足をかけ、そして乗り移ったときに、ふと女の方をふりかえって見たが、なお女も娘もふかぶかと眠っているらしく身うごきさえしていなかった。眠元朗はそれを目に入れると、急に舟を漕ぎ始めた。||湖面はしずかに波を打って乱れたが、その舟が島影へ着かない前に、渚からの娘の呼ぶ声がした。見ると女も立ち上って、眠元朗の方に向いて声を上げている。||かれは
舟が渚につくと、娘はすぐ父親に抱きついて、あまえた声で言った。
「まあ、ひどいお父さま||。」
「どうして。」
「お一人でいらっしゃるんですもの。わたしだちの眠っている間に、||ひどいわ、そんなことを
眠元朗はあたまを掻いて、娘の手の甲をぴちゃぴちゃ叩きながら微笑った。
「そりゃお父さんがわるかった、まあ、がまんして呉れ。」
眠元朗は娘の肩ごしに、ふと女を見た。そのとき何年にも見たことがない||そう、ずっと古くに見たことのある女の顔が、いつの間にか今の表情に入れかわっているのを驚いて見た。この平明なくらしのなかで今までにこの女が、このような顔をしたことがなかった。
「お前は眠っている間に大そう
「いいえ、それよりもあなたのお顔もかわっていらっしゃいますわ、いつものようではございません。」
眠元朗はあわてて自分の顔に両手を遣ってみた。そして女があんなにまで穏やかな眼をしていたのに、いまの変りようはどうだろう||眠元朗はこんどは娘の方をふり向いて見たが、しなやかな顔つきはのびのびとそれ自身夢のように静まり、瞳はまんまるく美しい白味にまもられ、艶やかに微笑っていた。
「お父さんの顔がへいぜいとは違って見えるかね、それをよく見て話してくれ。」
「いえ、お父さま、」
娘はあたまを振ってみせた。||母親も娘にちかづいて、同じことを娘に問いただしたが、娘はやはり変ったところがないと言ってほそぼそとおかしそうに微笑った。
「まあ、おかしなお母さま、||おふたりともどうかなすったのね。」
娘は自分のすぐ顔のちかくに、父と母との顔をこんなにまで近く、しかも
「母さまが悪かった、||お前が悪いのではない······。」
暫らく経ってから母親は娘を抱きすくめ、そして髪をなでながら優しく言った。娘は一そう悲しくなって泣き出した。
「母さま、なぜお父さまとああいう目付をなさいますの。わたしあんなときに、どこかで、ああいう眼をいくどもいくども見たことがあるような気がして、それを考えようとして、考えあてられなくて辛い気がいたしますの。」
母親は娘の目を見た。そしてはっきりした声で
「それはお前の考えちがいですよ、あんないやらしい
「いえ、いえ、わたしずっと古くに、そう、まだ
母親は黙って娘のくちをふさごうとした。娘はその手を払い退けようとあせりながら、指の間から漏れたこえを出した。
「わたしは怖い||何んだか一杯にいろいろなものが見えてくるんですもの。」
「何が······。」
「あんなに怖い眼ばかりが見えてくるんです。」
母親は
「お前はつまらないことを考え出さないでおくれ、此処まで来て母さまの気を狂わさないでおくれ。」
そういうと母親は、娘を抱いたまま
「お父さまは?」
娘は岩かげから出てくると、母親にそう言いかけ、渚の方へ目をやると、抱き膝をした眠元朗はすこし仰向きに顔を湖づらへ向けて坐っていた。||桃花村はかすんで見えなかった。が、なにか竹筒でも吹くような美しい楽の音いろが湖の上の
「お呼びしましょうか。」
母親は娘を手でもって、静かにするように止めた。
「暗くなったらおかえりでしょうから······。」
二人は肩をならべ歩き出したときに、眠元朗も立ちあがった。そして先きになった二人の姿を目に入れた。が、別に
小さい見すぼらしい灰褐色のみで造られたような家||に、なお灰色の釣らんぷが卵黄のようにぼやけて
「お母さま、どうしてお父さまは
母親は砂の上に夕闇とはもっと濃い影をひいて歩いてくる父親の垂れた手と、うつ向きがちな顔とを目に入れた。
「あれはお父さんの、ずっとむかしからなさる癖なんですよ。||しかし此処にまで来てなおああも寂しそうに考え込んで居らっしゃろうとは思わなかった。||そういう考えることはわたしだちは一度に棄ててしまったんですけれど······。」
娘はふしぎそうに母親を見た。
「どうして考えることを母さまはお棄てになったの||でも、やはり毎日なにかお考えになっていらっしゃるじゃありませんか。」
「それは······。」母親は溜息をついた。「それは何も彼もすっかりこの世間のことが新しくなって、わたしだちは何時の間にか三人きりになってしまったときにも、やはりわたしだちは
娘は幾度も頭をかたげていたが、夢を半分切りぬいたように何も彼もわからないらしかった。
||そのとき眠元朗は窓の外に立って、そこに出した娘の手を把った。娘は父親に甘えたこえを出した。
「お父さま、晩になったから又話してくださいね。」
眠元朗は考えながら、「お父さんの話することをすっかりお前が聞いてしまったら、お前は
そう言って母親の顔をみた。母親も父の眼を見入った。
「どうしてでしょう?」
「お前の好きなことが此処にはなくて、お父さまの話の中にあるのだから?」
娘は父親の両手をとって、そして拝むような眼をして言った。
「その話をして頂戴。わたしその話が聞きたくてならないんでございます。||母さまからもおねがいしてくださいな、ほらこんなに聞きたいんですもの。」
母親は
「お父さま、
父親もその手を娘の胸の上に置いた。何という匂い深く謹んだ花のような息づかいであったろう||眠元朗は掌につたわる息づかいを一弁ずつほぐれる花にも増して、やさしく心悲しく感じた。
「お父さま、聞えて······。」
「あ、きこえる。」
母親はあちらむきになって、
ドアが半分開いていて、白い砂の肌が一そう白く、一そう震えた青みを
「ドアをしめるな。」
三人が食卓に向ったときに、灰褐色のふしぎな家のまわりに、同じい蒼みある灰色の光が一杯に閉じ込めていた。そして誰かがその四角な小窓から眼を室内へうつしたら、そこになぜ三つの影があったかということに驚くにちがいない||。
かれが再び卓についたときに、
「話して下さいな||おねがいでございますから。」
しかし二人は黙っていた。そして娘の胸の上が低くなったり高くなったりするのを凝乎として眺めていた。かれらは気むずかしく哀しげな
あらゆるものは静かな一色の灰色でなければ、それを一そう濃くしたような
こういう晩をどれだけ
「これは何という
しかも眠元朗の感情は、遠い世のそれから引続いたものを持って、絶えず何かにあこがれようとしている。かれのあこがれが何であるかも、そのあこがれに対って妻が絶えずその目をそそいでいることも、あまりに明るすぎるくらい分っている。||一度夢を棄てたかれらにいつの間にか夢は戻ってきて、二人の間になお暗い遠い世のつながりを置いている。いまはそれすらもおたがいに
「あれらは決して夜ではない||あれらほど正確なものはなかったに違いない。」
かれの眼底にはなお紙片は去らずに、その青い窓のある家々の扉を開いて、扉の内部にあるあの世の平和と
「あれか、おれのいる家は?」
かれは
彼女はうしろ向きになって、髪をすきながら己が姿をこの清い水たまりに映していた。その白い
「まあ、お父さま!」
眠元朗はあわてて
「お前どうして今時分こんなところへ来ているのか?」
娘は父親のそばへ来て、やっと安心をしたような息づかいをした。
「わたしいつもこの水たまりへまいりますの。此処へくるとわたしお話しができるものですから。」
「誰と?」
娘は目を伏せて
「水の中の人と?」
「お前のかげとかね。」
眠元朗は娘をはじめて女として見るような気になった。||なおかれの眼底を去らないのは、先刻見た女としての娘だった。
「さあ下りよう、お母さまはきっと寂しがっているだろうから。」
一軒きりの燈影は、ここからは
「お前は自分を美しいとでも思って、それゆえああして影をうつして話をしているのかね、お前にはわたしや母親がいるではないか。」
眠元朗は黙っている娘が、すき間さえあれば父と母との目から離れて行って、そして何かひとりで考えごとをしているのを思い当てて、物に
「けれども······。」娘ははにかんでいたが、思い切って、「わたし時々ひとりでいたいんですの。わたしは美しいと思ったことがないんですけれど······。」
眠元朗は低い湿り気のある娘のこえを哀れにかんじた。
「お前はまだお前の外に美しいものを見たことがないから||お前はもう父や母のそばにいたくないのかも知れない、お前のような年頃にはそんなことがよくあるものだ。」
「いえ、わたしは
眠元朗は岩壁の坂を下りながら、突然
が、つぎの一瞬にはきわめて穏やかにかれは娘の肩をなでた。そしてしっかり小さいからだを抱いた。
「お前は父さん一人を置いてきぼりにしないでくれ。見なさいお父さんはこんな道を歩くのにも胸がさわいで苦しくなってくるのだ。」
娘の手のひらには、そうぞうしい或る雑音が心臓から感じられた。そして烈しい息切れがした。||娘はふと何気なく父の顔を目に入れると、そこには
「お父さまはこのごろ急に弱りなさいましたのね。以前にはこんなではなかったんですが。」
眠元朗は黙って、心で
「お父さんは一人であるときは元気があるのだ。しかしお前と一しょにいると、いつの間にかお前の若さに負けてしまってよろよろするのだ。」
「どうしてでしょうか?」
「さあ、||。」
眠元朗は何故か返辞ができなかった。||かれらは砂原の上へ出た。褐色の木とその色からできた家の窓のそばに母親はいたが、眠元朗と娘とをみると、あわてて家の前へ出た。||母親の顔にも退窟な夜の疲れがぼんやりあらわれていた。
かれらが卓子に向い合っても、
「わたしだちは此処に何時まで居なければならないんでしょうか、わたしは心まで遠くにあるような気がしますの。」
女はそういうと身体を灯のかげから起した。
「お前も退窟しているな、だが、どうにもならないのだ。こうして何時までも居なければならないのだろう。それが此処での宿命なんだろう||。此処へきては宿命そのものすら身動きのならないほど退窟なものだ。」
眠元朗のその言葉はむしろ冷やかすぎるくらいの、誰に向ってするということもない嘲りを含んでいた。
「ではわたしだちは何の
「やはり生きてゆくためだろう||それより外の何ものでもない。」
娘はらんぷの顔からそのつやつやした顔を父親の方へ向けた。
「一たい生きてゆくことがこんなにまで退窟で、そして興味くないものでしょうか。」
眠元朗は、娘と母親の顔とを見くらべ、一つはしなびてしまい、一つは開こうとしている、と、そう頭にうかべた。
「生きてゆくことは疑いなく退窟だ、だが、お前はそんなに退窟はしないだろう。わたしどものようなことはないだろう。」
眠元朗は、女をながめたが、女もその言葉には
「わたし最うすっかり退窟してしまいましたの。何一つおもしろいこともございませんし······。」
父親は苦笑した。そしてまじまじと娘の顔をながめると、思い切ったように言った。
「お前がわたしだちのそばを離れてしまったら、そんなに退窟はしなくなるだろう、けれどもわたしはお前をはなさない||。」
「なぜ?」
母親は父の顔を見てそういうと父はしょぼしょぼした目で寂しそうに、こんどは娘の方をながめた。
「お父さま御自身が寂しくなるからでしょう。ねえ、母さま、そうじゃないんでしょうか。」
眠元朗は心で、全くそれにちがいない、おれは娘を人にわたすことができない、と、呟いて見たが、なぜかいまわしい感じが
「そうね、しかしお父さまはどう思っていらっしゃるのか||。」
女は眠元朗をちらりと見た。眠元朗は全く
「わたしたちはみんな面白くなくて、そしてみんな退窟をしているんでしょうね。いつまでもそれが癒らない間は、こうして居なければならないんでしょうね。」
女はひとり言のようにそういうと、むっつりした夫と、まだ夢のような目付で、父と母とを眺めている娘とを見た。が、誰も何も言わなかった。夜とともに濃くなる褐色の空気はこの家も砂原も、そうして湖の上まで飴のように固めてしまっていた。
娘は父親と渚をあるきながら其処に乱れている美しい貝殻を手に拾い、そして温んだ湖水がおりおり足を洗うのに、心から興じていた。
「こんなに温かくなると、貝殻までが沖へ向って帆を立てるように、みんな起き上っているようですわね。ほらこんなに片っ方の貝が開いているんですもの。」
「なるほど、みんな片貝を立てているようだね。」
眠元朗は寄せられた貝殻や、蜆に似てまだ生きているこの不思議な生きものにも、温かい湖水へ向って何かを憧れているようにも思われた。
「お前あれが見えるかね。今朝はあんなに美しい色をして露ばんで、まるで真紅じゃないか? そして影が長くつづいているのが見えないか。」
「さっきからわたし見ていますの、ひとりでお父さまにもこっそりと黙って行ってみたい気がいたしますわ。」
眠元朗はもう燃えるだけで燃えきった桃花村が、これ以上美しくなることがないだろうと思われるくらい、
「では一人で思い立って行ったらいいじゃないか? 何も父さまにそんなに遠慮しなくともいいではないか。」
「けれども······。」
娘は憂わしげな眼で父親をそっと穏やかに見上げた。
「わたしが
娘の眼はその瞬間にやさしい
「お前がかえらなかったら||そうだな、お父さまはお前をさがしに出掛けるだろうよ、そして何処かでお前をどんなに困難してもさがし出すかも知れない||しかし此処へつれてかえるかどうかは分らないが、捜すだけは捜す||。」
「そして
「そんな筈はないお父さまの生涯をその為に潰してもきっと捜し当てて見せる。それでもお前はどこかに隠れ
娘は真寂しい父親の顔に日の光が射しているためか、なお一層悲しげにその目をみつめながら、自分の考えていることを言わずにいられなかった。そのためどんなに父がさびしい思いをするだろうという気はあったが、何んだか言ってみたかった。
「ええ、わたしきっと隠れてしまいますわ。そしてお父さまがもうがっかりしてしまうまでも、ずっとずっと隠れていますわ。
しまいにお父さまがわたしのことなんかすっかりお諦らめなさいますまで||。」
「いや、おれはそんなことで諦らめたりなんかするものか、きっとさがし出して見せるよ。」
そういう眠元朗のこえは何時の間にか、かすかな震えを帯びるほど或る恐怖に似た不安と憂慮を交えていた。その上いつの間に娘がこうまで執念深く自分の心を傷めるようになっただろうかと思った。||しかし心の奥では最初たわむれて言ったことが、次第に娘の本気をさそい出したことを何よりも悔まれた。
「いいえ、わたしきっと今に隠れてしまいますわ。見ていらっしゃい、きっと、きっとお父さまのそばから居なくなってしまいますから。」
眠元朗はそのときふと娘の眼をみた。娘の目のふちは赧らんで、白みのまんなかにある黒瞳は動かずにすわったきり、何を見ることもなく底輝きをもっていた。危ないと眠元朗は思った。かれはそういう美しい思いつめた眼を何と久し振りで見たことであろう? しかも分身のなかにこんなにまで美しい眼があったこと、その眼がいつの間にか自分に馴れなくて
「お前それを本気になって言っているのかね。」
「ええ、本気ですわ、本気でなくて何でしょう。わたし全くお父さまからはなれてしまいますの。」
眠元朗は
「もっと落着いてくれ、そんなにお前のように
娘はそのまんまるい目を父の目に向けた。そのまんまるさは次第に大きくはなったが、しかし輪廓をぼやけさせてゆがんで、それを持ちこらえられなくなって、いきなり飛びついて悲しげに甲斐絹のような
「わたしどこへも行きはしません。きっときっと行きはしません。」
娘はそういうとなお
「お父さま、わたしがわるうございましたから勘忍してくださいな。もうもうあんなことを言わないようにいたしますから||ねえ、どうかもとのお父さまになってくださいまし。お願いでございますから。」
眠元朗はあわてて娘の手をとって、その手を合そうとするのをほつれさせ、そうして悲しげに何度も
「あやまるのはお前でなくて、わたしだ。わたしはお前を何度も何度もだました。そしておれ自身が寂しいためにお前をこんなに寂しいとこへ連れてきて、遠い世の何ものも見せまいとした。お前には人生そのものすら存在しないまでに、そんなにまで
眠元朗のさびしい顔にはたぎって走るあらしのむれが、耳鳴りのするほど凄じくながれた。かれは娘を抱いて、そしてかれらは自然に両方のもたれ気味な姿勢が、最後にぺたりと砂原へ崩れるまで続けていた。
「お前はしょっちゅうお父さまにいろいろな話をききたがったが、しかしお父さんはお前になるべく遠い世の話をしようとしなかったばかりか、つとめてお前にその話を避けさせていたくらいだ。お前がどんなに人生に出たくとも、そのためどんなに寂しくともわたしはそれを考えようとはしなくて、そしてお前の心までいつまでも黙らせてしまったのだ。」
眠元朗は切ない苦しげな目で、娘に或る許しを乞う色をした。
「わたしはわたしばかりの事を考えていたのだ。お前というものがわたしの事情以外にも、何でこの世の中へ出てわるかっただろう? いや、お前はもっと早くにもっと素晴らしい人生へ出て行くべきであったに、わたしの
眠元朗は急に胸が拡がるような、或る鬱積したものが発散する清々しさを感じた。かれははじめて自分の娘をゆっくりと眺められるような気がした。
「見てごらん、あんなによく日が当って、桃花村がきらきら光って見えるではないか。今こそお前はいつでも桃花村へ行けるのだ。」
娘はその永い啜り泣きのあとで、ぼんやり夢でもさめたような父の顔をながめ、父の眼路を辿って、日の光をあびた美しい桃花村をながめた。そこからふしぎな音楽が花と花とに埋れたなかから、玲瓏とした楽しい音色をつづけた。気のせいか幾隻とない美しい竜旗を掲げたような舟が、朝日の湖にぽっかりと長閑げに浮いて見えた。
「お父さま、わたしお父さまの
しかし娘は反対な桃花村をながめ、そこへ心はふしぎに憧れた。けれども何故かそう嘘をつかなければならなかった。
「お前はわたしのそばに居なくともよいのだ。お前の好きなところへ、そして勇ましく出て行ってくれ。」
眠元朗は娘を渚へつれて行ってそう言うと、不意に舟を渚から水の上へ辷り出させた。湖水の上には青い竜のような影をひいた日の光が、ななめに桃花村へ向いて、金色の巨鱗を打ちひろげていた。
「いえ、お父さまそんなことをなさいますと、あとでお母さまがお怨みなさいますわ。」
「誰も怨まないのだ||さあ、お乗り! そしてお前の手のつづくかぎり漕いで行くんです。」
娘はしかたなく船に乗りうつったときに、舟は父の手によって水の上へ辷り出された。青い竜のかげは乱れた。舟は白い小さい手によって漕がれた。||娘はそのときこれまでにないはっきりした顔をして、そして鋭い嬉しそうな声をあげた。
「もう行ってもようございますの。」
「いいとも······お前は何という嬉しい顔をしているだろう。」
父親の声はさすがに寂しくかすれていた。
「え、わたし嬉しくて||ではお父さまお大切になさいまし。」
眠元朗はしゃがんで、走る娘の舟を見つめた。舟は桃花村のある方へ白い水脈をひいて、目ぐるわしく