むかし、あるところに、それはそれは正直なおばあさんが住んでいました。けれども、このおばあさんは子もなければ、孫もないので、ほんとうの一人ぼっちでした。その上、おばあさんの住んでいたところは、さびしい野原の一軒家で、となりの村へ行くのには、高い山の峠を越さねばなりませんでしたし、また別のとなり村へ行くには、大きな川をわたらねばなりませんでした。
だから、おばあさんは毎日々々ほとけ様の前に坐って、
それに、食べるものは裏の畑に出来ましたし、お米は月に一度か、二ヶ月に一度川向うの村へ買いに行くので用は足りましたし、水は表の森のそばに、
ただ、時々近くの
ある日の夕方のことでした。一人の旅人がこの家の前を通りかかりまして、これから急用があって、夜通しで山を越えて行かねばならぬものだが、少し休ましてほしいとおばあさんに頼みました。
「お安いことじゃ。どうぞ遠慮なくお休みなさい、」とおばあさんはいいました。
そこで、旅人はおばあさんからお茶などを呼ばれながら、縁側に腰を下ろしてしばらく休んでいましたが、さて疲れもなおりましたので、
「おばあさん、いろいろ御馳走さまでした、」といって、お礼に少しばかりのお金を紙に包んでおこうとしますと、
「そんなものは入りません、どうぞこれはおしまい下さい、」とおばあさんはびっくりした顔をしていいました。「わたしの
「いや、それはそうであろうが、これはわしのほんの志なんだから、どうか取っておいて下さい、」と旅人はまた旅人で、いろいろにいって勧めましたが、どうしてもおばあさんの方では受取ろうとしません。が、おばあさんはふと何か思いついたと見えて、
「そんなら旅の方、」といいました。「そんなら、わたしの方からお願いして、
「外のものというのは、どういうものですか?」と旅人は不思議そうな顔をして聞きかえしました。
「外のものというのは、外のものでもありませんが、」とおばあさんがいいますには、「御覧の通りわたしは年寄で、こんな一軒家に一人ぼっちで住んでいるものですから、外に何の
「おばあさんにつかい道のあるものというのは何だね?」と旅人はおばあさんの話が廻りくどいので、こう
「それはね、ほら、あそこに仏壇がありますでしょう、」とおばあさんはやっぱり落着いた調子で、「わたしは暇さえあると、あそこにお線香を立てたり、花を立てたりして、そしてただ鉦を叩いて拝んでいるだけなのでございます。······」
「そのほとけ様が一体どうしたというんだい、おばあさん?」と旅人は少しいらいらしながら尋ねました。
「それで、おばあさんはわしに何がほしいというんです?」
「それで、そのわたしは、」とおばあさんは相変らずゆっくりと、「そうして毎日ひまさえあると、鉦を叩いて拝んでいるのですが、ただ拝んでいるばかりで、お経の文句を少しも知らないもんですから、誠に不自由をしているんでございます。それで、旅の方、わたしのお願いというのは、お経の文句を教えていただきたいので、それならわたしに早速有難くつかい道があります訳で······」
「お経の文句!」と旅人は
「ね、旅の方、お見受けしたところ、あなたはお立派な方だから、きっとお経の文句を御存知に違いない。どうぞ、ほんの少しでも
お立派な方、といわれたので、旅人は
「そりゃお経の文句ぐらいなら知っているが······」と答えました。
「御存知なら、どうぞ、旅の方、是非お教え下さいませ。実はこれまでにいろんなお方にお願いしたのですが、この辺を通る方に、お経の文句を知ってる人が一人もありませんので······
こういわれると、ますます旅人は
「さあ、どうぞ早く教えて下さい、」とおばあさんが
「香炉や、花立や、花立や、香炉や、」と唱えました。すると、おばあさんはその文句と節をそっくり
「香炉や、花立や、花立や、香炉や、」といって、「チン」と叩き
旅人は困って、もう一度、「香炉や、花立や、花立や、香炉や······」と同じことをいっているうちに、何か外のものを見つけて、それを読み込もうと気をくばっていますと、仏壇の
「かと思ったら、すぐに逃げてしまったア、」といいました。おばあさんはそんな事とは知りませんからそれが真面目なお経だと思って、「鼠が一疋御入来、鼠が一疋御入来。かと思ったら、すぐに逃げてしまったア、」と唱えて、そこでまた、「チン」と鉦を叩きました。
「ほんとうに、これはこれは分りやすい、結構なお経でございます。」とおばあさんは大喜びでいいました。「これなら、わたしのような年寄りでもよく覚えられます。旅の方、どうぞもう少しその先をお教え下さいませ。」
旅人はまた困りましたが、仕様がありませんので、その先を、「鼠が一疋御入来、かと思ったら、すぐに逃げてしまったア、」とくり返して唱えているうちに何か思いつくだろうと、仏壇の方を見ていますと、
「今度は二疋連れで、何だか相談をしながら、ちょろちょろと御入来。ところが驚いて、大急ぎで逃げて帰ったア、」とおばあさんは相変らず大真面目で、旅人の唱えた通りに唱えて、「チン」と
それを半分まで聞いていないうちに、「結構々々、」と旅人は
その晩のことでした。そういう正直なおばあさんの家のことですから、別に夜になっても、戸締りをするようなことはありません。ただ、冬は寒い風が吹く時に戸を締めておき、夏は暑苦しい時に戸を
その晩、となり村から山を越えて来て、別のとなり村の方へ川を渡って行こうとする、二人連れの男がこのおばあさんの家の前を通りかかりました。この二人は泥棒が商売で、これから川を越して、向うの村へ着くと夜中頃になりますから、そこで一と仕事をするつもりだったのです。が、泥棒のことですから、ふと、このおばあさんの家の前を通りかかると、戸が開け放しになっていて、
「おい、お前、ここで
その時、家の中ではおばあさんが、
「香炉や、花立や、花立や、香炉や······」
そこへ、泥棒の甲がそッとおばあさんに見えないように家の中に忍び込んで行きました。ところがびっくりしました。
「鼠が一疋御入来······」とおばあさんがいっています。人のことを鼠だというばかりでなく、見えるはずがないのに人が入って来たのが見えるのか知ら、と泥棒は思って、気味が悪くなったものですから一度表へ引返そうとしますと、おばあさんのお経はつづいて、
「かと思ったら、すぐに逃げてしまったア、······」
泥棒の甲はもうびっくりしてしまって、あわてて表に飛び出して待っていた相棒に、
「どうも気味の悪い
そこで、今度は二人連れでそッと家の中に忍び込みました。忍び足で歩きながら、泥棒の甲が乙に、
「あのおばあさんだよ。ああして向う向いていながら、後に目があるんじゃアないか、と思うんだ、」と耳の
「今度は二疋連れで、何だか相談をしながら、ちょろちょろと御入来、チン」と鉦を叩きながらおばあさんがお経の文句を続けました。
泥棒はそれが出鱈目に教わったお経を読んでいるのだとは気がつきませんから、びっくりして、あわてて引返そうとしますと、
「ところが驚いて、大急ぎで逃げて帰ったア。チン、」とおばあさんはお経をつづけました。
それを背中に聞きながら、二人の泥棒は夢中で表に逃げて出ました。
「ああ、驚いた。あのおばあさんは何だろう。きっと
おばあさんは、自分の知らない
とまた初めからさらい出しました。が、今度はもう鼠も泥棒も出て来ませんでした。
この一篇は岸辺福雄 先生が、「鼠経 」という題で、私の友人が人形芝居をした時に、人形をつかわせながらされた話の筋を、大体そのまま借用して作ったのです。だから、この話の面白いところは岸辺先生のもので、下手 なところは私のせいです。