虚と実とは裏と表である。実にして虚、虚にして実なるが故に尊い。何れは先づ実相のまことを観、観て、深く到り得て、更に高く離れむ事をわたくしは願つてゐる。
実相に新旧のけぢめは無い。常に正しく新らしいからである。これを旧しとなすは観て馴れ過ぎたからである。一時の流行は時とともに滅びる。而も人はただ新奇を奔り求める事に於てのみ、その詩境を進め得るものと思つてゐる。然し何ぞ知らむ。此の東に於てひたすら彼の西の旧を趁うて新らしと成す秋に、却て西に於ては此の東方に道を求める事が常に新風発生の素因を成してゐる。かうなると何が新らしいかと思はせられる。
再び云ふ。実相のまことこそ常に正しく新らしいものである。いつ観てもまことなる事に於て渝りは無い。芭蕉の説いた不易はこの永生の流に通ずるまことの詩の精神である。詩の正風はさうした精神に根柢を置く。この精神は殊に我が東洋芸術の真髄と成すところのものである。
此の集の詩もおそらくは今人の眼に旧しとせられるであらう。それでわたくしはいいのである。詩境の高さは観相そのものの高さに由る。気品は巧みて得らるるもので無い。その人のおのづからなる円光である。だからわたくしは所謂新奇に浮かれて飽かざる事よりも詩のまことの大道をただ一筋に修めて行けばいいのである。
此の集には詩文(私は散文詩なる飜訳語を好まない。)と長歌体の詩篇とを収めた。詩文には口語脈と雅文脈との二種がある。何れも純粋の意味に於ける詩として書き下ろしたので無い。私にとつてはこれらは矢張り詩文であると遜る方がほんたうである。一方にまた長歌体を選んだのはさう成る可き内容だつたからである。長歌は万葉に由来するが、わたくしのものは万葉のそれとも違ふ。わたくしの詩の内容にその形式を採つたのである。此の形式のすぐれたところはかの絃楽の如く絶えんとして続き、続きつつ縹緲としてまた絶えんとする一流れのリズムの起き伏しにある。ことさらに行を別けず其まま書き下したのもその故である。兎角、日本のものはかういふ風にしぜんに書き下すのがほんたうのやうである。
わたくしはまた、この頃流行の自由詩の殆ど多くを真の詩とも自由詩とも思つてゐない。どう考へても行を別けただけの散文で、すぐれた或る種の文章よりももつと弛緩したリズムの、而も粗雑な思想の概念をただ放恣に非音楽的に述べたに過ぎぬと思つてゐる。
詩は詩である。詩に重んず可きはその高い精神である、韻律である、香気である、気韻である。
大正十一年六月
小田原にて
白秋識
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古風の庭 大正十年秋、上州富岡某氏別荘にて
紅葉を焚いて 同七年秋、名古屋月見坂にて
山中消息 同七年冬、小田原伝肇寺にて
紅葉を焚いて 同七年秋、名古屋月見坂にて
山中消息 同七年冬、小田原伝肇寺にて
さびしいが
日は
濁つた池の
あまりにかけ離れた、世間の
それでも
鶺鴒が来た。おや、ひんこつひんこつとやつてゐる。やや寒うなりかけた
紅葉して来た。庭の楓が紅葉して来た。紅葉ばかりになつて了うた。寒くなつたと私が云へば、妻も左様で御座います、寒い朝でと袖を合せる。旅の事ゆゑ、なほさら寒さも
煙が立つ。煙が立つ。庭の楓の紅葉の蔭から、煙が立つ。紅葉を焚いて、ふすふすと白うくすぼる煙のかげで、
紅葉して来た。庭の楓が紅葉して来た。紅葉ばかりになつて了うた。旅に来て長らく病んだが、心細いものだ。俳諧の聖芭蕉でさへも、旅に病んでは寂しかつたか、夢は枯野をかけ
寂しいものは山の住居だと人もいふ。人里を少しでも離れると、けつく気楽なと思はぬでもないが、さりとて、人に逢はねばやつぱし寂しいものだ。たまさか通りがかりの人声の、小荷駄馬でも曳き、蓆でも着て、裏の岨路を、えつちやほう、はいしとうとうと叱りながらに上 り下 りする、耳につき、つい目につくのも心丈夫な思ひがする。いよいよ死にました、小 さい赤んぼでございましたと、小さい棺 をかついで来てさへなほさらだ。生きとし生ける鵯 や百舌、鶫 のたぐひ、木々の枯葉に驚く声も、けけつちやう、ちやうちやう、きいりきいりと親まる。
空は晴れても、冬は日あしが短うて、いつとなく黄ばみかけると、早くも夕焼方の風向 となる。縁に出て、ぽつねんと眺めてゐると、何ともないやうでゐて心ぼそさが身に染みる。傾いた萱屋根の山門も、向うに見えて、其処から続いた一筋道の、此方はさらに奥ぶかくて、雀のお宿とでも云ひさうな、これが私の住居かと思へば、堪へられぬ。朽ちはてた外柱 には、日あたりがよくてか、覇王樹 や竜舌蘭など匍ひ絡んではゐるものの、掛け忘られた数珠の緒の二くさり三くさり、もうぼろぼろに腐れかけてる。これが仏のゐられる寺だ。
寒々 と揺れてゐるものは、孟宗のほづえ、ささ栗のそばの榧 の木、枯枝の桐の莟、墓原の香 のけむり。井戸端の紅 い山茶花は散りつくして、昨日 咲いた庭の白薔薇だけが新らしかつたが、今朝 人が来て切つて了つた。ところどころに白い萱の穂もそよげば、一羽の白い鶏でさへ、吹かれどほしで消えもやらぬ。それは寂しい揺れ方だ。
遠々 に消えてゆくものは雀のかげ、冬陽 の名残、時雨も幽かにわたつてゆくが、ともすると、いつのまにやら雪になつてる。函根あたりは猶さらだ、白い白い雪の野山だ。
簡素だと思へば簡素、寂しいと云へば寂しい。一人でゐてもゐられるものの、なまじ、二人で慰め顔に、エネチアまがひの古い洋燈 など点 して見るので悲しくなる。
人は人、どうせ私は私だと思つて見ても、その人ごとが忘れられぬので、便りも待つ、いぢらしくもなれば腹も立つ。郵便くばりにも番茶の一つもほうじて出す。それかと云うて、その日その日の新聞紙でさへ、日が暮れてからやつと着くのでよくは読めず。夜 はひとしほ波の音までが聞えるゆゑ、明日 の日和なぞ気にかかつて、月の光が白い障子に射すまでは、雨戸も閉めねば、寝ねもせず。
夜 が夜中、厠に立てば、裏の山には月が澄んで、畑 の葱さへ一つ一つに真青 だ。虫ももう鳴かぬが、それだけ凄い。首を竦めて、咳 く時の寒さと云へばまた格別だ。せめて風邪でもひかぬやうにと、頸巻なぞして、手水つかへば水も凍つた。
かうした私のこの頃です。
[#改丁]空は晴れても、冬は日あしが短うて、いつとなく黄ばみかけると、早くも夕焼方の
簡素だと思へば簡素、寂しいと云へば寂しい。一人でゐてもゐられるものの、なまじ、二人で慰め顔に、エネチアまがひの古い
人は人、どうせ私は私だと思つて見ても、その人ごとが忘れられぬので、便りも待つ、いぢらしくもなれば腹も立つ。郵便くばりにも番茶の一つもほうじて出す。それかと云うて、その日その日の新聞紙でさへ、日が暮れてからやつと着くのでよくは読めず。
かうした私のこの頃です。
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黎明の不尽外二篇 大正十年秋、妻菊子ととも御殿場を経て伊豆吉奈温泉に行く、その時の詩。
遠山脈の歌 大正十年秋、上州富岡にて。
上つ毛の加牟良 の北に天 そそる妙義荒船、遥 ばろと眺めに出 れば、この日暮ふりさけ見れば、いや遠し遠き山脈 、いや高し高き山脈、いやが上 に空に続きて、いや寒く襞 を重ねて、幾重ね、幾畳 り、末遂に雲居にぞ入る。かりそめの旅にはあれど、夕されば内にも堪へず、外 に出でてひとり在りけり。向ひ吹く川の瀬の風、川風の吹きの凍 えに、我が向ひ辿る高崖、遥か見る北 の山脈 。冬も早や絹のつや雲、巻雲の巻きのなびきに、氷 凝 り雲層雲 の群、重ね雲、寂び金の雲、下明 り雲ともわかず、薄ぎらひ山ともわかず、たださへも現 ならぬを、たださへも果てしわかぬを、日の射すか末広の虹、幾すぢか透きて落せり。かうがうしその薄光、寂び寂びしプラチナのすぢ、濃き淡き峰の畳みに、引きちがふ山の小襞に、また雨と和 み注げり、柔かき金色の霧。あな遠し遠き山脈 、あな高し高き山脈 、立ちとまり見れども消えず、目ふたぎて傷めど尽きず、目翳 げして遥けみ見れば、いや寂し薄き陽 の虹、また見ればさらに彼方に、いや高き連山 の雪、いや遠き連山の雪、ひえびえと、つぎつぎと、続きつづきて輝 きいでぬ。
ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅の傍 に斑牛 ひとり居りけり。安らかに繋がれてけり。山峡の湯どころの秋、出て見れば下の小橋を、杖つきて渡る子もあり。垂稲の黄ばむ田づらは、をりふしに雀むれ立ち、道ぞひの茅屋の庭に、白菊の盛り見せたる、胡麻と栗並べ干したる、暇ある心に見れば、なかなかに今日は安けし。向つべに日のかげる山、なほ明く温かき山、その空の白き綿雲、ちろちろと禽 渡るさへ、なかなかにあはれとも見れ。妻と来て二人来て、七日まり住み馴れてのち、やうやうに紅葉色づく遠近 の、この眺めなる。あなあはれ、ねもごろの日のあたりかも、そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅のかげに斑牛ひとり居りけり。繋がれてただねんねんと草食みにけり。
秋山のなぞへの薄 、ひとつらね揺りかがやけり。秋山の名も無き山の、草山の、山の端薄、その穂の薄、揺りかがやけり。この夕、出でて見て、向ひ見て、丸木橋妻とわたりて、また見れば、まだかがやけり。その薄刈る人もあり、また負ひて降 り来 るもあり。下 り来て、行きすぎざまに、さわさわと背 見せゆく、さわさわの背の薄、またかがやけり。雲白くうかべる峡の日屯 の空間 の中 、こまごまと飛べる羽虫も、よく見れば一つ一つに、命あり、舞ひ立ち光る。閑 かなり、ただ安らなり。まだ深き日のあたりなる。暑からず、寒くしもなく、まだ温 き日のかげりなる。湯どころのうしろの山の、秋山の、その柔かき草山の、このもかのもにさわさわと音する薄、穂薄の、今日来て見れば、揺りかがやけり。あなあはれ、我も見て、妻も出て、二人ながむるさわさわ薄、そのさわさわ薄。
[#改丁]凡て、大正十年秋の木兎の家の生活より
[#改ページ]わが門 の竹の林に、曼珠沙華赤く咲きたり。竹の根の一つ一つに、この華 や六つ七つづつ、日に増しに数かさみゆく。怪しくも赤き巻髭、髭細の蓮華なす華 、咲き盛るその華見れば、おのづから秋も澄みけり。いよいよに風も寂びけり。隣り寺、寺の古墓、日あたりは未 だも暑けど、墓掃くとかがむ影すら、閼伽 汲むと寄るすらも無し。あなあはれ、摩訶曼珠沙華、出で入るとひとり眺めて、時をりは妻と眺めて、昨日 よりいよよ殖 えしと、まだ今日も赤しとぞ見る。孟宗のしだれ笹ゆゑ、陽 は射せどいぶせき藪を、常くぐり我は在りけり。わびしけど遊び馴れけり。山住の心安さは、藪越しに浪の音聴き、里囃子うれしとも聴け、施餓鬼過ぎ流石さびしく、人訪はぬ今は堪へえね、また出でて竹の根見れば、曼珠沙華赤く赤きに、ちらと向き、釣眼 野狐、うしろ向き尖り口して、小藪吹き、吹き吹く風に、日の暮に、あな、飛び飛びて消えつつ失せぬ。
わが宿の竹の林に、夕あかりかがよふ見れば、その竹の湿 る根ごとに、何か散り、深く光れり。その節のひとつひとつに、何かまた留 り光れり。その笹のさみどりの葉に、何かまた揺れて光れり。金色 のその光るもの、こまごまと眼に染 みるもの、雨ふりてあかれるのちは、とりわけて揺れてうつくし。寂しくて見てゐるきはは、いよいよに消えてうつくし。揺るるともただ見て居 らむ、消ゆるともまた見て居らむ、堪へ堪へて日の暮るるまで、なほなほに寂しがりつつ。わがやどの竹の林の夕あかり、裏山松の松風の音のこなたに。
俳句
蜩が二つ啼きまた一つがこもごもに
わが宿の岡のなぞへに、杉いくつ屯 せりけり、せうせうと屯 せりけり。鉾杉のひとむら木立、鉾杉の鉾を並べて、この朝明 しぐるる見れば、霧ふかく時雨るる見れば、うち霧らひ、霧立つ空に、いや黒くその秀 うかび、いや重く下べ鎮 もり、いや古く並び鎮もる、凡 てこれ墨の絵の杉、見るからに寒し厳 かし、かうがうし寂 し崇高 し。あなあはれ岡の鉾杉、をちこちの小竹 のむら笹、柿もみぢ、梅が枝 の蔦、とりどりに色に出づれど、神無月すゑの時雨に濡れ濡れて、その葉枯れず、落葉せず、透かず、薄れず、ただ上 べわづか赭 みて天鵞絨 の焦茶いろすれ、深 ぶかと黒くか青く、常久に古び鎮 もる。寂しくも寂しき姿、堪へ堪へて常立つ心。あなあはれ冬の鉾杉、海ちかき岡の鉾杉、鉾杉の渦成 す霧に、涯 知れぬ海も見わかず、ひさかたの空もえわかね、時をりは、渡りの鳥のはぐれ鳥 ちりぢりと落ち、羽重 の一羽鴉も飛びなづみ、ややに来て揺る。あなあはれ雨の鉾杉、見てあれば幽かに揺れて、ふる雨に幽かに揺れて、ただせうせうと音たてにけり。
さわさわと揺るるものあり。午夜 ふけて揺るるものあり。わが
の硝子戸の外 、真透 かせば月に影して凍 え雲絶えず走れり。円 かなる望月ながら、生蒼 く隈 する月の、傾けばいよよ薄きを、あな寒や揺るる竹あり。孟宗の重きしだれの重 なりのその上 に抜けて、ただひとり揺るる秀 のあり。目か醒めし、夜風か出でし、さわさわと揺れて遊べり。しだれつつ前にうしろに、照りかげり揺れて遊べり。円かなる望月ながら、生蒼 く隈する月の飛び雲の叢雲 が間 、ふと洩れて時をり急に明るかと思ふ時なり。目に見えてさわさわさわと、照り浮ぶ孟宗の、あな、一きは強き狐光 のその月に、さながら生きて踊るかに、近明 りして、勢 ひ舞ふ、かと見ればまた、何か暗く薄かげりして、揺らぎ止み、揺 らぎ騒立 つ。この夜 さや、夜鳥も啼かず、藪かげの隣 の寺もしんしんと雨戸鎖 したれ。時として川瀬の音の浪の音と響き添ふのみ。それもただ遠し、気疎し。あなあはれ、この夜の山に、何しらず目のさめしもの、我のみか、揺れそよぐあり。揺れそよぎ、独り遊ぶと、揺れそよぎこの目の外 に、またさわさわと音立ててゐる。

大正十年冬、小田原近郊の散策より
[#改ページ]玉くしげ函根の山は短か日のことに短かく、み冬さり霜下 り来れば、午過ぎて日の目も知らず。向つべの山は明れど、こなたなる高山の岨、風寒く木の葉ちるのみ。早や早やも土は凝 りて、岩角の犬羊歯が下、枯れ枯れの雑木の根ごと、そくそくと氷柱 さがれり。ほきほきと氷柱 掻き折り、かりかりと噛みもて行けば、あな冷 た、つめたかりけり。妻もまた冷 たよと云ふ。二人ゆく高崖の上、何の枝 ぞ透きてこまかにつや黒の果 をちらつかす、ふり仰ぎ透かし見すれば、高く澄む空の青きにひえびえといそぐ雲あり、また薄く消ゆるものあり。長尾鳥飛びて叫ぶに、行きなづみ蹲 みて瞰 れば、あな寒むや渓裾紅葉、鉾杉の暗みを出でてひと明 り紅 く燃えたり、その紅葉淵に映れり。人知らぬ寂びと静けさ。その下 に飛び飛びの岩、岩もまた幽けかりけり。冬はなほ幽けかりけり。あなあはれ、欅の枯木行き行けば見る眼に聳え、滝落ちてかげり陽 迅し、あなあはれ、山の端薄陽 。下 見れば早や塔の沢、こちごちに湯の香煙りて、ちらちらと揺るる燈の見ゆ、海見えて漁火 つく見ゆ。この岨や馴れし山岨、遠く来し旅にもあらね、さは急ぐ道にもあらず。我がどちや言 にこそ出 ね、今さらの連れにもあらねば、ただ二人ほつりほつりと、日の暮はほつりほつりと、また家路さし下るのみなり、降りるのみなり。
丘窪の冬の棚田はねもごろにうれしき棚田、寂び寂びて明るき棚田。たまさかに鶸茶の刈田、小豆いろ、温かきいろ、うち湿 る珈琲の土 。下田 にはいくつ稲村白金 の笠めき和 め、上畑は緑の縞目、わづかにも麦ぞ萠えたる。その畑に動く群禽 つくづくと尾羽根振りては、また空へ飛び立ち翔 る。あな冷 た群の鶺鴒群れ飛べど目にもとまらず。いづこにか鵯は叫べど、風騒ぐけはひも聴かず。ただ低き日あたりの中、茅屋根の物静かなる、紫に寂び沈みたる、人気なき庭にはあれど背戸ごとに柿の実も見ゆ。裏丘へのぼる小径 は孟宗の林に見えて、その藪の上の日向に蜜柑もぐ人もよく見ゆ、声高になにか語りて燧石 切る莨火も見ゆ。珍らかにいとど澄めばか、遠近の枯葉のくぬぎ、草もみぢ、耀く薄、おしなべてかくて安 けし。あなあはれ、ここの丘窪、明るけど古さび棚田、うれしけど冬の日棚田、その空に翔 る群禽 、鶺鴒の薄黄の羽根のただ波うちて影もとまらず、影もとまらず。
ひとりゆくこの山岨 は、落葉のみ溜り湿 れり。落葉踏み踏みつつ行けば、いづく飛び鵯高音うつ。かさこそり、櫟 の枯葉わがかたへまた声立てぬ。日おもての草崖薄 、その穂にも落葉かかれり。草紅葉まだ温 くけれど、その上 にも落葉うごけり。向ひ山、こなたの小丘、見るものはみな枯木のみ。空ぐるま軋るを見れば、上岨 を尻毛振る赤馬 、ひようひようと吹かれゆく馬子、みな寒き冬のものなり。渓の上 の小茶屋の椅子も紅葉積み、その渓かけて、はらはらと落葉ちりゆく。山窪の幾むら藁屋、水ぐるま廻 れる見れば、ほとほとに水も痩せたり。欅原 ただ目に寒く、雨のごとちる落葉あり、よく見ればいよいよ繁し、声立てていよいよ寂 し。ほうほうと立てる雑木の岨路 ゆき、別れ径 ゆき、当処 さへ果てはわかねど、風のまま歩みのままに、行き行けばただ落葉なり、前うしろただ落葉なり、かさこそと、また、はらはらと、空にも地にも声ばかりして。
かうかうと照る月ながら、雨のごと飛ぶ落葉かな。ああ落葉、その影見れば、秋も早や老いにたるらし。ああ落葉、その声きけば、おのづから冬か待たるる。身の老 といふにはあらね、おのれまた若しともなし。さやけさはかかる夜ながら、見の惚 れむ光にあらず、杉木立青きはあれど、隣山 早やも痩せたり。枯れ枯れの木の枝 を透きて、月はただ遠くあらはに、落葉また風に吹かれて、へうへうとかぎりも知らず。いつの日かまたと還らむ、いつの世か久しかりちふ。これやこの常なかる世に年月の移らふまにま、我はあり、我はあれども、いつ知らず後 べのみ見る。なほなほも先 ぞ気遠き。而かもなほ過ちにけり。つくづくと恥ぢ泣きにけり。さりとては諦 も得ず、また和 の悟りをも見ね、ただすこしおのれ知るからただ堪へて遜 るのみ。ややややにかくてあるまで。寂しがり寂しがるなる。ほとほとに堪へは得ぬとも、この寂びや、身もて得し寂び、せめてものまだ頼りなる。ただたのみただ守るべき。ただひとり物も思はむ。さてひとり歩み歩まむ。あはれなる末の末かも、飛びちらふ落葉なるべき。落葉なら風のまかせよ。照る月に、北山風に、夜あらしに、影は影とし、はらはらと、ただ、はらはらと声ばかりせよ。
俳句
おらもまたあなたまかせよ一茶坊
[#改丁]大正十一年の早春、小田原木兎の家の生活より
[#改ページ]


聴けよ、妻、ふるもののあり。かすかにもふるもののあり。初夜過ぎて夜の幽けさとやなりけらし。ふりいでにけり。何かしらふりいでにけり。声のして、ふりまさるなり。雨ならし。いな、雪ならし。雪なりし。雪ならば初 の雪なる。よくふりぬ。さてもめづらにふる雪のよくこそはふれ、ふりいでにけれ。さらさらと、また音たてて、しづかなり、ただ深むなり。聴けよ、妻、そのふる雪の、満ち満ちて、ただこの闇に、舞ひ深むなり、ふりつもるなり。
俳句
たまさかに浪の音して夜 の雪なり
あな疎忽 、吐息 いでたり。気にかけそ、何といふ事もあらぬを。また妻よ、焙 じてむ玄米の茶を。来む春の話、水仙の話、やがて生れむ子のことなども話してむ。元旦のこの夜 の深さ、山住の我らなるゆゑ、いついつとかはりは無けど、今日はまたとりわけて、よろしかりけり。全 く今しづかなりけり。今さらに何をかや云ふ。この夜 さのこの安けさは神ぞただ守りますべき。心ゆくうれしさの中 、我はただ詩を思ふなる、汝 また差しのぞくなる。しづかなり、ただあはれなり。筆動く音のみぞする。身じろきの、息のみぞする。さてあらば夜も明けぬべし。あれ聴けよ、鶏 啼くらしき。また聴けよ、浪の音なる。二人ただかくて起きゐて、まこと今ただ二人なる。二人なるいのちの息の、おのづから触れかよふかな。親しくもゆき通ふかな。蜜柑なと一つむきてむ。近々 と火にむかひゐむ。またすこし炭つぎ足して、さて待たむ、二日の朝の海原の紅 き日の出を。
新らしき蕗の薹かな。珍らしき苦 き香 ぞする。その蕗の薹、一つ刺し、二つ刺し、竹の小串に三つ刺して、さて味噌つけて、火に焼きて、あな苦 さよと一つ食べ、あなうまさよと二つ食べ、あないつくしと三つ食べて、さてさびしやと我ゐたり。春さきの、あは雪の、消 なば消 ぬかの、声聴きてけり、そのしばらくは。
わが庵の竹の林に、こぬか雨今朝も湿 れり。春さきのこぬか雨なり。ふるとしも見えぬ雨なり。こぬか雨笹にこもりて、香 
けば香 もしめりて、事もなし、ただ明 るけし。こまごまと濡れかかるのみ、縹緲と煙曳くのみ。しづかなり、ただ安らなり。顔出して、つくづく居れば、笹子啼き、目白寄り来る、笹葉揺り揺りてまた去る。散りたまる去年 の枯葉も、寂しけど寒しともなみ、何かしら萠ゆる緑の、春は早や竹の根にあり。よき湿 りかくて湿 らば、竹煮草、葛、蕗の薹ややややにすずろき出でむ。髭長の藪の菎蒻、菫などやがて咲くべし。松風の声は沈めど、常ならぬさびしさならず。裏岨 ののぼりくだりに、ほつほつと通る馬さへ、時をりは青きつけつつ、声高 の人の話も、濡れながら行けば親しよ。静こころ香 をつぎつつ、さて、今日もうら安くこそ。こぬか雨ふるがごとくに、こまごまといつくしみてむ春さきの我の思を。

春さきのころころ蛙 、一つ鳴き、二つ鳴き、ころころと後 続け鳴き、ふと鳴き止み、くぐみ鳴き、また急に湧きかへり鳴く。いよいよに声合せ鳴く。近き田のころころ蛙、よく聴けば声変り鳴く。声変り、一つ一つに、あなをかし、鳴けるさま見ゆ。あちら向きこちら向き、飛び飛びて、また水くぐり、うちひそみ、頬をふくらかし、鳴き鳴ける咽喉のさま見ゆ。あなをかし、近田の蛙、さみどりの根芹か湿 る、塗畔 かまだ新らしき。雨もよひ雨よぶ声の、寒けども寒しともなし、寂しけどなにか笑へり。友よびてまた鳴く蛙、遠田にも遥かどよもす。あなあはれ、遠田の蛙、また聴けば、遠く隔てて、夜の闇の瀬の音 隔てて、いや離 りうち霞み鳴く。また寄せて近まさり鳴く。遠つ浪辺 に寄するごと、遠つ風吹き寄するごと、その声は夜空つたひて、いよいよに近く響きて、さて絶えて、また続け鳴く。近き田もまた競ひ湧く。初夜過ぎてまた後夜ふけて、なほなほにどよもす声の、おそらくは夜の明くるまで。萠黄月、月の円暈 、遠近の薄き飛び雲、濡れ濡れてちろめく星の、糠星のかげ白むまで。ころころと、またころころと、夜もすがら、夜をただ一夜、春さきのをさな蛙が、声かぎり、また声かぎり、ここだく鳴くも。
[#改丁]大正五年、葛飾小岩の紫煙草舎の生活より。
但し、鳥の啼くこゑ外一篇は当時の作。
その他は十年春作。
但し、鳥の啼くこゑ外一篇は当時の作。
その他は十年春作。
霜ふかき野川の堰 、あはれよと今朝 見に来れば、いつとなく水量 涸 れつつ、隙間なく氷張りけり。枯すすき、土堤 の枯草、凍 りつき白くきびしく、両側 の立枯並木 、いよいよに白くさびしく、雪空の薄墨色にこまごまと梢明 り、下空 の小枝 のほそ枝立ちつづき、見れども飽かず、入り交り網目して透く。両側 の立枯並木、下 見れば一側 並木 、時をりにとまる鴉もその枝の霜にすぼまり、渡り鳥ちらばる鳥もその空に薄煙 立つ。風吹けばかすかに揺れ、雪ふればいよよしづもり、さむざむと時雨るる夜半も、月あかり落ちゆく暁 も、消 なんとし消 たずかすかに、現 にもうつしけなくも、ただ寂し薄し果敢なし。霜ふかき野川の堰 、今朝もまた氷張りけり。その川の両側 つづき、隙間なく枯木つづけり。あなあはれ立枯並木。
すな真菰、真菰が中に菖蒲さく潮来 の入江、はるばると我が求 め来れば、そのかみの潮来の出嶋荒れ果てて今は冬なる。旅やどり、消ゆるばかりに、一夜寝て寝ざめて見れば、霜しろし水 の辺 の柳、何一つ音もこそせね、薄墨の空の霧 らひにただ白く枝垂 れ深めり。枝垂 れつつ水にとどけり。また白き葦にとどけり。そのかげの小さき苫舟、いよいよに霜の凍りて、こまごまと霜の凍りて、舟縁 も苫も真白く、櫓も梶も絶えて真白し。つくづくと眺めてあれば、閑 かなる入江のさまや、苫舟にのぼる煙も、風無 けば直 ぐに一すぢ、ほそぼそとしばしのぼれり。広重のその絵の煙、目に見れば浮世なりけり。あなあはれ水 の辺 の柳、あなあはれかかりの小舟、寂しとも寂しとも見れ。折からや苫をはね出て、舟縁 の霜にそびえて、この朝の紅 き鶏冠 の雄の鶏 が、早やかうかうと啼き出 けるかも。
この夜 さも雪はふりけり。かの夜 さも雪はふりけり。その声や霊 も消 ぬかに、降り積り、消 ぬる白雪。白雪のふれば幽かに、たまゆらは澄みてありけど、白雪の消 ぬるたまゆら、ほのかなるまたも消 にけり。白雪のはかな心地 の、我身にも遣 るかたもなし。
かおかおと啼くは鴉、ぴよぴよと啼くは雛鶏 、雀子はちゆちゆとさへづり、子を思ふ焼野の雉子 、けんけんと夜 も高音 うつ。現身 の鳥の啼く音 の、なぞもかく物あはれなる。天 わたる秋の雁金 、春くれば遠き雲井にかりかりと消えて跡なし。
[#改丁]大正五年葛飾小岩の生活より、十年春作。
[#改ページ]アツシジの聖 フランチエスコの物語。フランチエスコは雀子を愛 しみ給ひき。雀子も慕ひまつりき。現身 の人にてませば、かの人も亦 、人のごと寂しくましき。寂しくて貧しくましき。寂しくて貧しきが故、遜 り、常に悲しくましましき。いといと悲しくましましき。それ故に、末 遂に神を知らしき。その聖道のべに立たしめたまへば、雀子は御後 べ慕ひ、御手 にのり、肩にとまりき。さてちゆんちゆんと鳴いたりき。あなあはれ、雀子よとて雀子を撫でさすり、掻い撫でさすり、偽りなせそ、むさぼりそよ、おのづからなれ、正しく、直 く、常童 にて、天地 の神ごころにも通へとぞ、悲しかれよと宣 りましき。御法 説かしき。雀子を愛 しみたまへば、雀子も慕ひまつりき。雀子にも解 きやすき御言葉なれば、雀子も御言葉ををろがみまつり、羽根をすり頭 さげてき。またちゆんちゆんと鳴いたりき。さて徒 に物を欲り、浮かれ、たばかり、盗まざりけり。偽らず、安らなりけり。かかる時、草原に露満ちて、虫鳴きそそり、飾り無き野の花のかをりも吹く風の涼しきままに、空は円く澄みわたりて、また、塵ひとつだにとどめざりければ、聖の御頭 かすかに後光をはなち、差しのべたまへる両 つの御手 の十の御指は皆輝きて、その掌 の雀子さへも光るばかりに喜び羽うち、御前 に輪を成す雀のむれもみなみな雀の後光をかすかに立ててぞ啼き恍 れ遊ぶ。フランチエスコは御空を仰ぎて、主よ、主の奴僕 はかくありぬ、かく貧しきが故にこそ世のあらゆるもろもろの御宝をも却つて主のごとく、この身ひとつに保ちまつる、ありがたやハレルヤとぞ、涙ながして讃 め祷 りませば、雀もともに、ハレルヤ、ハレルヤと、眼を上げ涙ながして御空を仰ぐ。現身 の人の聖 と現身 の鳥の雀と、雀とフランチエスコと、朝夕に常かくなりき。あなあはれ、世の常 の事にはあらずよ。温かき御心ゆゑぞ、大きなる博 き御心もてぞ、ありとある愛 しみたまへば、御心は神にもいたり、雀にも通ひましけむ。あなあはれ、人のこの世の現 にも、かかる聖 のましまししものか。
一
ましら玉、しら玉あはれ。白玉の米、玉の米、米の玉あはれ。そを一粒、また二粒、三粒、四粒と数ふれば白玉あはれ。うすき瀬戸白の小皿に、幾すくひすくへどあはれ、かそかそと声ばかりして、ころころと音ばかりして、掻き寄せて十粒に足らず、ひろへれど十粒を出でず、かそかそところころと、声するは、空しき櫃の、空櫃 の米櫃の底。ましら玉、しら玉あはれ。白玉の米、玉の米、米の玉あはれ。
二
ましら玉、しら玉あはれ。白玉の米、玉の米、米の玉あはれ。そを一粒、また二粒、三粒、四粒と数ふれば白玉あはれ。掻きよせて十粒に足らず、ひろへれど十粒を出でず。今は早や我は饑ゑなむを、我妻もかつゑはてむを、ましら玉しら玉あはれ。さは云へど米のしら玉、貧しとてすべな白玉、その玉を雀子も欲れ、ひもじきは誰もひとつよ、雀子も来ては覗き、饑ゑて鳴き、鳴きては遊び、遊びては求食 り、求食 るを、米の玉あはれ。雀来よ、雀来よ来よ、いとせめて啄 めよこの米、ひもじくばふふめこの米、汝 らが饑ゑずしあらば、うまからば、うれしくかはゆく鳴くならば、白玉あはれ。わがどちはこの我は、わが妻とても、今さらに食 さずともよし、食 さずともよし。ましら玉、しら玉あはれ。しら玉の米、玉の米、米の玉あはれ。
三
ましら玉、しら玉あはれ。しら玉の米、玉の米、米の玉あはれ。絶ち絶ちて幾日をか経し、饑ゑ饑ゑて幾夜をか経し、この我や生きて貧しく、生きんすべせんすべだにもなきものを、米の玉、しら玉あはれ。はづかなるあるかなきかの金を得て、かきよせて、市のちまたに米買ふと破 れし嚢を手にさげて、これに米、すこし賜 べよと乞ひのめば、入れて賜びけり、さらさらと入れて賜びけり。うれしくて走り出づれば金賜べと人の驚く。忘れたり、ゆるされませと赤らみて、金置きてまた駈け出 れば、うしろより米はとおらぶ。驚きて、また忘れたり、ゆるされと、此度 はしかと、しら玉の米の嚢をひきかつぎかかへて戻る。米の玉、しら玉あはれ。現なるこれや現か、ゆめならず、現なりけり。その現、現なるこそうれしかりけれ。しら玉の、ましら玉の、ましら玉の、しら玉あはれ。しら玉の米、玉の米、米の玉あはれ。
一
犬の子に白き飯皿 、子鴉に青き飯皿、朝夕に同じ飯盛り、おのがじじ食 せよと呼 べば、犬の子は己 が飯惜しと、子鴉は己 が飯惜しと、犬の子は子鴉が飯、子鴉は犬の子が飯、ひたぶるに奪ひ取らむと、ひたぶるに盗み食 さむと、ただ啼きつ吼えつ噛みつす。己 が飯はすでにあまるを。己 が飯に足れりとはせで、なじかさは他 の物欲 る、なじかさはよその物欲る。同じことかはゆきものを、同じこと飯は盛れるを。犬の子よ、子鴉よ、あはれ。
二
あなあはれ、みぎりひだりに、子鴉と犬の子と寄る。此方 向けば子鴉あはれ、其方 向けば犬の子あはれ。二方 の鳥よ獣 よ。ひとしけくかはゆきものを、同じけくかなしきものを、いづれ別 きいづれ隔てむ。かにかくに両手あげつつかろく叩き、撫でてあやせば、羽根はたき尻尾ふりきる。ひもじきかさらば食 せよと、一つ掌 に牛の乳 盛れば、子鴉はみぎりより来て、犬の子は左よりきて、嘴 と口つつき合せて、啄 き嘗 め、啄き嘗めつす。また、そねみ、惜み、にくまず。あなあはれ空飛ぶ鳥と、地 を匐ふ家の畜 と、いつのまにかくや馴れけむ、なじかさはかくも親しき。これやこの人の我が掌 に相睦 み和 むを見れば、今さらに喜ぶ見れば、この我や、みぎりひだりにとみかう見涙しながる。
[#改丁]大正二年|三年、麻布の生活より。
[#改ページ]麻布山浅く霞みて、春はまだ寂 し御寺 に、母と我が詣でに来れば、日あたりに子供つどひて、凧をあげ独楽を廻せり。立ちとまり眺めてあれば、思ほゆる我がかぶろ髪。ほほゑみて母を仰げば、母もまたほほと笑ませり。けだしくや我がかぶろ髪、母もまた忍ばすらむか。我が母は何も宣 らさね、子の我 も何もきこえね、かかる日のかかる春べに、うつつなく遊ぶ子供を見てあれば涙しながる。
[#ページの左右中央]
[#改丁]
大正二年、麻布にて。
[#改ページ]ゆめはうつつにあらざりき。うつつはゆめよりなほいとし。まぼろしよりも甲斐なきはなし。
幽かなるこそすべなけれ。美しきものみなもろし。尊きものはさらにも云はず。
ひとのいのちはいとせめて、日の光こそすべなけれ。麗かなるこそなほ果敢な。星、月、そよかぜ、うすぐものゆくにまかする空なれども。
ふりそそぐものみなあはれなり。雨、雪、霰、雹に霙、それさへたちまち消えうせぬ。
土に置く霜、露のたま、靄、霧、霞、宵の稲づま、ほのかなれども水陽炎のそれさへ頼むに足るものなし。
煙こそあはれなれども、捉へられねばよしもなし。山家にゆけど、野にゆけども、水のながれを堰 くすべもなや。
ちちろと歎く蓑虫も、蛍の尻もみな幽けし、なまじ寝鳥の寝もやらぬ春のこころの愁はしさよ。
色ならば、利休鼠か、水あさぎ、黄は薄くとも温かければ、卵いろとも人のいふ。
水藻、ヒヤシンスの根、海には薔薇 のり、風味あやしき蓴菜は濁りに濁りし沼に咲く、なまじ清水に魚も住まず。
花と云へば、風鈴草、高山の虫取菫、蒜の花。一輪咲いたが一輪草、二輪咲くのが二輪草、まことの花を知る人もなし。
葉は山椒の葉、アスパロガス。蔓は豌豆、藤かづら。芥子に恨みはなけれども、その葉ゆゑこそ香も青く、ひとに未練はなけれども、思ひ出のみに身はほそる。
あはれなるもの、木の梢。細やかなるもの、竹の枝、菅の根の根のその根のほそ毛、絹糸、うどんげ、人参の髯。
はろかなるもの、山の路。疲れていそぐは秋の鳥、とまるものなき空なればこそ、こがれあこがれわたるなれ。玻璃器のなかの目高さへ、それと知りなば果敢なみやせん。
巣にあるものはその巣をはなれ、住家なきもの家をさがす。栗鼠 は野山に日を暮らし、巡礼しばしもとどまらず。殻を負ひたる蝸牛 はいつまで殻を負うてゆくらむ。
かへり見らるる船のみち、背後 の花火、すれちがひたる麝香連理 の草花の籠、ひとの襟あしみなほのかなれ。
笛の音の類、朝立ちの駅路 の鈴、訪ふ人もなき隠れ家のべるの釦のほのかに白き、小夜ふけてきくりんのたま。
影はなによりまた寂し。踊子のかげ、扇のかげ、動く兎の紫のかげ、花瓶のかげ、皿に転がる林檎のかげはセザンヌ翁をも泣かすらむ。
夏はリキユール、日曜の朝麦藁つけて吸ふがよし。熱き紅茶は春のくれ、雪のふる日はアイスクリーム、秋ふけて立つる日本茶、利休ならねどなほさら寂し。
味気なきは折ふしの移りかはり、祭ののち、時花歌 のすぐ廃 れゆく。活動写真の酔漢 の絹帽 に鳴くこほろぎ。
さらに冷たきもの、真珠、鏡、水銀のたま、二枚わかれし蛇の舌、華魁 の眸 。
しみじみと身に染みるもの、油、香水、痒ゆきところに手のとどく人が梳櫛 。こぼれ落ちるものは頭垢 と涙。湧きいづるものは、泉、乳、虱、接吻 のあとの噎 び、紅き薔薇 の虫、白蟻。
誤ち易きは、人のみち、算盤 の珠。迷ひ易きは、女衒 の口、恋のみち、謎 、手品、本郷の西片町、ほれぼれと惚れてだまされたるかなし。
忘れがたきは薄なさけ。一に好色、二に酒の味 、三にさんげの歌枕。わが思ふ人ありやなしやと問ふまでもなし都鳥、忘れな草の忘れられたるなほいとし。
浅くとも清きながれのかきつばた。偽れる、薄く澄ませる、また寂し。まことなきものげに寂し。まことあるものなほ寂し。しんじつ一人は堪へがたし。人と生れしなほ切なけれ。
思ひまはせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足りぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく。
頼みなきもの、捉へがたく、表現 はしがたく、口にしがたく、聴きわきがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねどこの世は寂し。
まんまろきもの、輪のごときもの、いつまでも相逢はず平行 びゆくもの、また廻 るもの、はじめなく終りなきもの、煙るもの、消 なば消 ぬかに縺れゆくものみなあはれ。
芸は永く命みじかし、とは云ふものの、滅び易きはうき世のならひ。うたも、しらべも、いろどりもゆめのまたゆめ。
うつつをゆめともおもはねど、うつつはゆめよりなほ果敢な、悲しければぞなほ果敢な、幻よりもなほ果敢な。
幽かなるこそすべなけれ。美しきものみなもろし。尊きものはさらにも云はず。
ひとのいのちはいとせめて、日の光こそすべなけれ。麗かなるこそなほ果敢な。星、月、そよかぜ、うすぐものゆくにまかする空なれども。
ふりそそぐものみなあはれなり。雨、雪、霰、雹に霙、それさへたちまち消えうせぬ。
土に置く霜、露のたま、靄、霧、霞、宵の稲づま、ほのかなれども水陽炎のそれさへ頼むに足るものなし。
煙こそあはれなれども、捉へられねばよしもなし。山家にゆけど、野にゆけども、水のながれを
ちちろと歎く蓑虫も、蛍の尻もみな幽けし、なまじ寝鳥の寝もやらぬ春のこころの愁はしさよ。
色ならば、利休鼠か、水あさぎ、黄は薄くとも温かければ、卵いろとも人のいふ。
水藻、ヒヤシンスの根、海には
花と云へば、風鈴草、高山の虫取菫、蒜の花。一輪咲いたが一輪草、二輪咲くのが二輪草、まことの花を知る人もなし。
葉は山椒の葉、アスパロガス。蔓は豌豆、藤かづら。芥子に恨みはなけれども、その葉ゆゑこそ香も青く、ひとに未練はなけれども、思ひ出のみに身はほそる。
あはれなるもの、木の梢。細やかなるもの、竹の枝、菅の根の根のその根のほそ毛、絹糸、うどんげ、人参の髯。
はろかなるもの、山の路。疲れていそぐは秋の鳥、とまるものなき空なればこそ、こがれあこがれわたるなれ。玻璃器のなかの目高さへ、それと知りなば果敢なみやせん。
巣にあるものはその巣をはなれ、住家なきもの家をさがす。
かへり見らるる船のみち、
笛の音の類、朝立ちの
影はなによりまた寂し。踊子のかげ、扇のかげ、動く兎の紫のかげ、花瓶のかげ、皿に転がる林檎のかげはセザンヌ翁をも泣かすらむ。
夏はリキユール、日曜の朝麦藁つけて吸ふがよし。熱き紅茶は春のくれ、雪のふる日はアイスクリーム、秋ふけて立つる日本茶、利休ならねどなほさら寂し。
味気なきは折ふしの移りかはり、祭ののち、
さらに冷たきもの、真珠、鏡、水銀のたま、二枚わかれし蛇の舌、
しみじみと身に染みるもの、油、香水、痒ゆきところに手のとどく人が
誤ち易きは、人のみち、
忘れがたきは薄なさけ。一に好色、二に酒の
浅くとも清きながれのかきつばた。偽れる、薄く澄ませる、また寂し。まことなきものげに寂し。まことあるものなほ寂し。しんじつ一人は堪へがたし。人と生れしなほ切なけれ。
思ひまはせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足りぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく。
頼みなきもの、捉へがたく、
まんまろきもの、輪のごときもの、いつまでも相逢はず
芸は永く命みじかし、とは云ふものの、滅び易きはうき世のならひ。うたも、しらべも、いろどりもゆめのまたゆめ。
うつつをゆめともおもはねど、うつつはゆめよりなほ果敢な、悲しければぞなほ果敢な、幻よりもなほ果敢な。