正坊のおじいさんは、
有名な
船乗りでした。
年をとって、もはや、
航海をすることができなくなってからは、
家にいて、ぼんやりと
若い
時分のことなどをおもい
出して、
暮らしていられました。
おじいさんは、しまいには、もうろくをされたようです。すくなくも、みんなには、そう
思われたのでした。なぜなら、
海の
中から
拾ってきたような、
朽ちかかった一
枚の
黒い
板をたいせつにして、いつまでもそれを
大事にして
持っていられたからです。
また、おじいさんは、
家の
前に
立って、あちらの
山のいただきをながめながら、
「まだ、こないかいな。」といわれました。
みんなは、それを
不思議に
思ったのです。
「おじいさん、だれがくるのですか?」と、
家の
人が
聞きますと、
「
海から、
私を
迎えにこなければならぬはずじゃ。」と、おじいさんは、
答えられました。
おじいさんが、とうとう
亡くなられてしまってから、おばあさんは、
正坊に、よくおじいさんの
話をして
聞かせました。
「おまえのおじいさんは、
有名な
船乗りだった。しかし、
年を
取られてから、もうろくをなさって、
毎日、あちらの
山の
方を
見て、
海から、だれか
呼びにくるはずじゃといっていられた
······。」
正坊は、おじいさんの
話を
聞くたびに、なんとなく
不思議な
感じがしたのです。そして、そのことを、まったくもうろくからの
言葉ばかりでないというような
気がしたのでした。
それで、
正坊は、やはり、
家の
前に
立って、あちらの
山をながめていました。
青い
空の
下に
山の
線が、すその
方へなだらかに
流れている。
夜になると、
山の
上には、さびしく
星が
輝いたのである。
春から、
夏にかけて、その
山は
紫に
見えました。そして、
冬になると、
山は
真っ
白になりました。
「
雪が、あのように
積もっては、どんな
男も
山を
越してくることはできぬだろう。
······しかし、その
勇士は、また
非凡な
術で、
雪の
上を
渡ってこないともかぎらない。」と、
冬の
晩方など、
正坊は、
外に
立ってながめていたこともありました。
おばあさんは、
古くから
家にあるのだといって、あめ
色のガラスびんを
大事にして、たなの
上に
飾っておかれました。
雪の
降るころ、
南天の
実が
赤くなると、おばあさんは
切ってきて、そのびんにさして
仏さまにあげました。また、
春になると、つばきの
枝などを
折ってきて、びんにさして、やはり
仏壇の
前に
供えられたのです。
正坊は、なんとなく、そのびんがほしくてなりませんでした。
「おばあさん、あのびんを
僕におくれよ。」とねだった。
おばあさんは、なかなか
正坊のいうことを
聞かれなかった。
「あのびんは、
昔から
家にあるびんだから、おもちゃにして
壊すといけない。」といわれた。
そう
聞くと、
正坊は、ますますそのびんが
欲しくなりました。
昔、
酒かなにかはいって、
渡ってきたらしくもあれば、また、おじいさんが、
船乗りをしていなさる
時分、どこかで
手にいれたものらしくも
思われました。
ある
日、
正坊は、こっそりと、おばあさんに
気づかれぬように、たなの
上からびんを
取り
下ろして、
外へ
持って
出ました。そして、びんの
口に
目を
当て、
太陽の
方に
向かって
仰ぎました。すると、
一人の
男が、
馬にまたがって、
遠い
地平線から
駈けてくるのが
見えます。
正坊は、あわてて
目を
放して、
向こうを
見ると、どこにもそんな
影らしいものはなかった。
正坊は、このとき、そのびんを
魔法のびんだと
知ったのでした。そして、このことをおばあさんに
話すと、
「ばか、なにをいう。」といって、おばあさんは
取り
上げられませんでした。
正坊は、
亡くなられたおじいさんが、
待っていられた
使いというのは、このびんの
中に
見える
馬に
乗った
男のことでないかと
考えました。もうろくされたおじいさんは、このびんの
中に
見える
男が、いつか、あの
山を
越えてくるのだと
思われたのであろう、と
考えました。
しかし、
不思議なことは、二
度めに、
正坊がびんの
口に
目をつけて、
空を
見たときには、
馬に
乗った
男の
影が
見えずに、
赤い
花の
咲いた
野原に、はるかに、
町の
姿が
小さくなって
見えたことです。
三
度めに、
彼が、そのびんからのぞいて、かなたを
見たときには、
前に
見たような
景色は
見えなくて、
茫々とした
海原の
中を、ただ一そうの
船がゆく
影が
見えたのでした。そして、この三つの
場面が、びんの
口をのぞくたびに、そのときどきに
入れ
変わって
見えるだけであって、
他の
景色は
見えなかったのであります。ある
日のこと、
「そう、そのびんを
外へ
持って
出て、いつか
壊すといけない。」と、おばあさんがいわれたのを、
正坊は、わざと
聞かぬふうをして
外へ
持って
出ました。
彼は、
往来の
上に
立って、それをのぞきながら、
友だちがやってきたら
友だちにものぞかせて
自慢をしてやろうと
思っていました。
このときどこからか、
一人の
男が、ほんとうに
馬に
乗ってやってきました。そして
正坊を
見ると、ふいに、
馬を
止めました。
「ちょっとそのびんをお
見せ。」といって、
男はびんを
取り
上げて、
口に
目を
当ててのぞきました。
「まことに
珍しいびんだ。
私は、このびんを
探していたのだ。
坊は、
私といっしょにこないか?」と、
馬に
乗っている
男はいいました。
正坊は、かねて、おばあさんから、おじいさんの
話を
聞いていました。「おじいさんは、
山を
越して、だれか、きっと
迎えにくるといって
待っていられたそうだ。それは、けっして、もうろくなされたから、そんなことをおっしゃられたのでなかろう。その
男というのは、きっと、この
人にちがいない
······。」と、
正坊は
心の
中で
思いました。
「おじさんは、どこからこられたのですか?」と、
正坊は、たずねました。
「
海からきた。」と、
馬に
乗っている
人は
答えた。
それで、
正坊は、まさしくこの
人だと
思いましたから、その
男のすすめるままに、いってみようと、
即座に
決心しました。
男は、
自分の
脇に
正坊を
乗せて、
馬にむちを
当てました。その
馬の
脚は
速かったのです。
森や、
川や、
丘を
過ぎてゆくと、いろいろの
美しい
花の
咲いた
野原に
出ました。はるか、あちらを
見ると、
町の
屋根が
地平線に
浮き
上がって
見えたのです。
「あ、いつかびんの
口から、のぞいて
見た
景色だ!」と、
正坊は、
思いました。
「おじさん、どこへゆくの
······。」と、
正坊はたずねた。
「あの
町へゆくのだ。」と、
男は、
答えました。
やがて
町へはいろうとすると、
建物の
間から、
青黒い
海が
見えました。
町へはいって、しばらく
走ると、
馬は、ひさしの
深く
差し
出た、
昔ふうの
家の
前へきて
止まりました。
男は
馬から
降りて、
内へ
向かって
声をかけました。すると
脊の
低い
老人が、
腰を
曲げて
出てきました。
「お
父さん、ようやく、あなたが、もう一
度見たいとおっしゃられたびんを
持ってきました。これでございましょう
······。」
老人は、
歯の
抜けた
口をもぐもぐさしていましたが、
細い、しわだらけの
手を
出して、びんを
受け
取りました。そして、びんのまわりをなでまわしていましたが、その
口に
目をあてて
正坊がするように、
太陽に
向かって
仰いだのです。
「あ、これ、これ、これにちがいない!」と、
老人はうれしそうにわめきました。
「
私は、やっと、このびんにめぐりあった。もはや、一
生のうちに、めぐりあわないかと
思っていた。しかし、おまえのおじいさんは、
死になされたとみえる
······。」
老人は、びんを
持って、
暗い
家の
内へはいりました。しばらくたつと
老人は、びんの
中へ、ほんとうにわずかばかりの
油をいれて
二人の
前へあらわれました。
「
永年しまっておいた
油は、もうこればかしになってしまった。もうすこし
長く
月日がたったら、
油は、一
滴もなくなってしまっただろう
······。
私が、
海の
上で
生活をしていた
時分、
兄弟の
約束をした
仲間があった。
二人は、たがいに
助けつ、
助けられつした。そして、
別れる
時分に、
二人は、もう一
度たずね
合ってあいたいというまじないから、インドの
魔法使いからもらったびんと
中身の
油とを
別々に
持って
帰った。こうすれば、いつか、びんと
油は、かならずめぐりあうといった
魔法使いの
言葉を
信じたのだ。
子供! おまえのおじいさんは、
黒い
板を
持っていなされたろう
······。この
油をともして、その
板を
見るがよい
······。」といって、
油のはいったびんを
正坊に
渡したのでした。
正坊は、この
町と、このおじいさんと、この
家をよくおぼえておこうと
熱心にながめていました。
男は、ふたたび、
正坊を
馬に
乗せてくれました。そして
自分も
乗り、
馬にむちを
当てると、
馬はきた
時分の
道を
走り
出しました。
日は、いつしか
海に
沈んで、
野原に
咲いている
赤い
花も
黒ずんで
見えたのであります。そして、
月が
大空に
上がり、その
下を
流れている
川の
水が、
一筋の
銀の
棒を
置いたように、
白く
光って
見えたのでした。
二人を
乗せた
馬は、
村の
往来までくると
止まりました。そこからは、もう、
正坊のお
家がじきだったのです。
「さあ、もうここからなら、ひとりで
帰れるだろう。」といって、
男は、
正坊を
馬の
脊から
下ろしてくれました。
「おじさん、あの
町は、なんというの?」と、
正坊は、
振り
返って
問いました。
「
············」と、
男は、いい
残して、
馬にむちをあてて
去りました。
正坊は、
男のいった
言葉が、よく、はっきりと
耳にはいらなかった。そのうちに、ひづめの
音は
遠ざかり、
影は、
月の
明かりに、だんだん
小さくかすんだのです。
おばあさんは、
門から
出たり、
入ったりして、
正坊を
探していられた。そこへ、
正坊は
帰って、その
日のできごとの
話をすると、おばあさんは、
頭を
振って、
「ばか、なにをいう。きっと、おまえは、きつねにでもばかされたのだろう
······。」といわれました。
正坊は、
町の
名を
聞きもらしたのが
残念でした。おそらくそのことは、
永久に、
彼にとって
残念であったにちがいない。なぜなら
子供の
頭で、いつまでも、
町をおぼえていることは
不可能であったから
······。
しかし、それが
夢でないことは、びんの
中に
油がはいっていたことでした。すぐに、
土器にうつして、
火をつけて、
正坊は、おばあさんと
二人で、
黒い
板を
見ました
||。
異様な、
帆船の
姿が、ありありと
板の
面に
見えたかと
思うと、また、その
姿は、
煙のごとく、しだいにうすれて
消えてしまった。