毎日のように、
村の
方から、
町へ
出ていく
乞食がありました。
女房もなければ、また
子供もない、まったくひとりぽっちの、
人間のように
思われたのであります。
その
男は、もういいかげんに
年をとっていましたから、
働こうとしても
働けず、どうにもすることができなかった、
果てのことと
思われました。
町へいけば、そこにはたくさんの
人間が
住んでいるから、
中には、
自分の
身の
上に
同情を
寄せてくれる
人もあろうと
思って、
男は、こうして、
毎日のように、
田舎道を
歩いてやってきたのです。
しかし、だれも、その
男が
思っているように、
歩いているのをとどまって、
男の
身の
上話を
聞いて、
同情を
寄せてくれるような
人はありませんでした。なぜなら、みんなは
自分たちのこと
考えているので、
頭の
中がいっぱいだからでした。まれには、その
男のようすを
見て、
気の
毒に
思って
財布からお
金を
出して、ほんの
志ばかりでもやっていく
人がないことはなかったけれど、それすら、
日によっては、まったくないこともありました。
男は、
空腹を
抱えながら、
町の
中をさまよわなければなりませんでした。
美しい
品物を、いっぱい
並べた
店の
前や、おいしそうな
匂いのする
料理店の
前を
通ったときに、
男は、どんなに
世の
中を
味けなく
感じたでしょう。
彼はしかたなく、
疲れた
足を
引きずって、
田舎道を
歩いて、さびしい、
自分の
小屋のある、
村の
方へ
帰っていくのでした。
ここにその
途中のところで、
道ばたに一
軒の
家がありました。そう
大きな
家ではなかったが、さっぱりとして、
多分役人かなにかの
住んでいる
家のように
思われました。この
道をいく
人々は、ちょうど、その
窓の
下を
通るようになっていたのであります。
ある
日のこと、
男は、その
窓の
下に
立って、
上を
仰ぎながら、あわれみを
乞うたのでありました。どうせ、
家の
内からは
返答がないだろうと
思いました。なぜなら、
町では、あのように、
顔を
見合わせて、
手を
合わせて
頼んでも、
知らぬふうをしていき、また
振り
向こうともしないものを、
窓の
下から、しかも
外の
往来の
上で
頼んでも、なんの
役にも
立つものでないと
考えられたからです。
「どうぞ、
哀れなものですが、おねがいいたします。」と、
男は、
重ねていった。
ひっそりとして、
人のいるけはいもしなかったのが、このとき、ふいに
窓の
障子が
開きました。
顔を
出したのは、
眼鏡をかけた
色の
白い、
髪のちぢれた
女の
人でした。その
人は、たいへんやさしそうな
人に
見えました。
男は、
頭を
下げて、
「どうか、なにかおめぐみください。」と
願いました。
その
女の
人は、
男が
思ったように、ほんとうにやさしい、いい
人でありました。じっと、
男の
顔を
見ていましたが、
「そういうように、おなりなさるまでには、いろいろなことがおありでしたでしょうね。」といいました。
男は、はじめて、
他人からそういうように、やさしい
言葉で
問いかけられたのでした。
「よくお
聞きくださいましてありがとうぞんじます。
妻には
死に
別れ、
頼りとする
子供も、また
病気でなくなり、
私は、
中風の
気味で、
半身がよくきかなくなりましたので、
働くにも
働かれず、たとえ
番人にさえも
雇ってくれる
人がありませんので、おはずかしいながら、こんな
姿になってしまったのです。」と、
涙ながらに
答えました。
女の
人も、やはり、
目をうるませていました。
「
私の
父が、ちょうどあなたの
年ごろなんですよ。
都合のために、
遠くはなれてくらしていますが、あつさ・さむさにつけて、
父のことを
思い
出します。だれでも、
若いうちに
働いてきたものは、
年をとってからは、
楽にくらしていけるのがほんとうだと
思います。それが、この
世の
中では、
思うようにならないんですのね。」と、
女の
人はいいました。
男は、だまって、うなだれて
女の
人のいうことを
聞いていました。
女の
人は、いくらか
銭を
哀れな
男に
与えました。
男は、しわだらけな、
色つやのよくない
手をのばしてそれを
受け
取って、いただきました。その
銭は、たとえすこしではありましたけれど、
深いなさけがこもっていましたので、
男には、たいへんにありがたかったのです。
男は、いくたびもお
礼を
述べて、そこを
立ち
去りました。そのうしろ
姿を
女の
人は、
気の
毒そうに
見送っていました。
その
後、
男は、
町へいくたびに、この
家の
窓の
下を
通ったのでした。けれど、たびたびあわれみを
乞うては
悪い
気がしました。よくよく
困ったときででもなければ、
願うまいと
決心したのであります。
しかし、その
長い
間には、
雨の
降る
日もあれば、また
風の
吹く
日もありました。そして、一
日町の
中を
歩いても、すこしも、もらわないような
日もあったのであります。
彼はしかたなく、この
家の
窓の
下に
立って、
「どうぞお
願いいたします。」と、
上を
仰いで、いわなければならなかった。
すると、
障子が
開いて、
眼鏡をかけた、
色の
白い、
髪のちぢれた
女の
人が、
顔を
出しました。そして、いやな
顔もせずに、
「さあ、あげますよ。」といって、
銭を
男の
手に
渡したのでした。
乞食の
男は、それをいただいて、
「ありがとうぞんじます。」と、いくたびも
礼をいって
立ち
去りました。
風の
吹く、さびしい
村の
方へ
男は
帰っていきました。たとえ、わずかばかりのお
金であっても、
空腹をしのぐことができたのであります。
この
広い
世の
中に、だれ
一人、
自分のために
思ってくれるもののないのに、こうして
心から
同情してもらうということは、
頼りない
男に、どれほど、
明るい
気持ちを
与えたかしれません。
男は、
毎日、この
家の
窓の
下を
通るときに、この
家の
人々の
身の
上に
幸福あれかしと
祈らないことはなかったのです。
こうして、
長い
月日が
過ぎました。ある
日、
男はいつものように
村から、
道を
歩いてきますと、いつになく、その
家の
窓の
雨戸が
堅くしまっていました。どうしたことだろうと
思いました。それから、
子細に
周囲をしらべてみますと、その
家は、
空き
家になっていました。
あのやさしい、しんせつな、
女の
家の
人たちは、どこへか
越していったと
思われました。
「どこへお
越しになったのだろう
······。」と、
男は
思った。
それから、
近所の
人々に、それとなしに
聞いてみると、なんでも
遠方へ
越していかれたようです。
相手が、きたならしい
乞食であるので、だれもくわしく、しんせつにものをいって
教えてくれるものがなかったのです。
男は、ついに
知ることができませんでした。
哀れな
男は、またまったく
世の
中から、
見捨てられた、さびしい
人間となってしまいました。いつまで、
同じところに、さまよっていてもしかたがなかったから、
村から
村へ、
町から
町へあてもなく、さすらいの
旅をすることとなりました。その
間に、また、
長い
月日は、しぜんにたっていきました。いろいろの
土地を
歩きましたが、
乞食の
男は、ふたたび、あのしんせつな
女の
人にめぐりあうことはなかったのです。
男は、どうかして、もう一
度めぐりあいたいものだと
思いました。しんせつにしてもらった
恩を
忘れなかったのであります。
ある
年のこと、
男は、
街道を
歩いていました。
北の
方の
国であって、
夏のはじめというのに、
国境の
山々には、まだ、ところどころ、
白い
雪が
消えずに
残っていたのでした。けれど、
野原にはいろいろの
花が
咲いて、
澄んだ
空の
下で、
日の
光にかがやき、また、どこともなく
吹く
風に、さびしそうに
揺らいでいました。
男は、そんな
景色を
見ながら
歩いているうちに、
死んだ
女房のことや、
子供のことなどを
思ったのでした。また、
自分が
子供の
時分、
友だちと
竹馬に
乗って、
駆けっこをしたり、
往来の
上で
輪をまわして、
遊んだことなどを
記憶から
呼び
起こしたのであります。しかし、それは、
遠い
昔のことであり、また、
自分のうまれた
国は、たいへんにここからは
離れていたのでありました。
ちょうど、このとき、あちらの
方に
汽車の
笛の
音がしたのでした。やがて
平原を、こちらに
向かって
走ってくる
汽車の
小さな
影を
認めたのでした。
男は、しばらくなにもかも
忘れて、
子供のようになって、その
汽車を
見まもっていました。
静かな、うららかな
天気の
日であったのです。よく
子供の
時分に、
迷信ともつかず、ただ、
魔法を
使うのだといって、
口のうちで、おなじことを三べんくりかえしていうと、きっと
思ったとおりになると
信じたことがありましたが、
男は、ふと
子供の
時分に、やったことを
思い
出して、
「とまれ、とまれ、とまれ!」と、
汽車の
走ってくるのをながめながら、ぜんぜん
子供の
気持ちになって、
汽車に
向かっていったのでした。
普通に
考えてみても、そんなことをいったとて、
汽車がとまる
道理がありません。けれどこの
年とった
男は、いまにもとまりはしないかと
空想に
描きながら、
汽車を
見つめていました。
汽車は、だんだん
近づいてきました。そして、
見ていると、その
速力がしだいにゆるくなってきて、
彼が、あまりのふしぎに、
胸をとどろかしながら
見ていると、すぐ
前にきたときに、まったく
汽車はとまってしまったのでした。
男は、どうしたらいいだろうかとあわてて、すぐにも
逃げ
出そうかとしました。
汽車に
乗っている
人々は、みんな
窓から
顔を
出して、
何事が
起こったのだろうかと
線路の
上をながめていました。
運転手や、
車掌や、
汽車に
乗っている
係の
人々は、
汽車から
降りて、
機関車の
下あたりをのぞいていました。
機械の
力で
動いている
汽車が、
機械に
故障を
生じた
時分に
止まるのは、なんのふしぎもないことでした。ただ、
男が、そんなことを
口の
中でいったときに、
偶然、
機械に
故障を
生じたのがふしぎだったのであります。
男は、
頭を
上げて、
汽車の
窓からのぞいている
人々の
顔をながめていました。
「この
人たちは、どこまでいくのだろう
······。」と、そんなことを
思ったのでした。
そのうちに、
男は、はっとして、びっくりしました。
金縁の
眼鏡をかけて、
色の
白い、
髪のちぢれた
女の
人が、やはり、
汽車の
窓から
顔を
出して、のぞいていたからです。その
人は、
数年前に、あの
家の
窓の
下を
通った
時分に、しんせつに
恵んでくれたその
人そっくりでありました。
けれど、ただちがっていることは、いま、
前に
見る
人は
若く、あのときの
人は、もっと
年をとっていたことです。
「あの
女の
人の
子供さんにしては、
大きいし、この
人は、あの
人の
妹さんであろう
······。」と、
男は
思いました。
いつか、その
女の
人は、
自分を
見て、
遠くはなれている
父親のことを
思うといったが、これは、またなんという
奇妙なことであろうと、
男は
考えたのでした。そして、
前に
汽車の
窓から、
顔を
出している
若い
女の
人を、あの
女の
人の
妹さんであると
心に
決めてしまいました。
若い
女の
人は、
若いりっぱな
服装をした
紳士といっしょに
乗っていたのでした。
男は、
心から、その
人たちの
未来の
幸福を
祈ったのであります。
このとき、
汽車の
故障は
直って、
汽笛を
鳴らすと、ふたたびうごき
出しました。
男は、その
汽車のゆくえをさびしそうに
見送っていましたが、やがてとぼとぼと
平野を
一人であてなく
歩いていったのであります。
||一九二六・五||