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フレップの実は赤く、トリップの実は黒い。いずれも樺太 のツンドラ地帯に生ずる小灌木の名である。採りて酒を製する。所謂 樺太葡萄酒である。
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心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱 よ、空高く······
揺れ揺れ、
おそらく心からの微笑が
見ろ、組み合せた二つのスリッパまでが踊っている。金文字入りの黒い
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
私の今度の航海は必ずしも物の哀れの歌枕でも世の
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
ハロウとでも呼びかけたい八月の
なんとまた巨大な通風筒の
なんとまた高いマストだろう。その豪壮な、天に
ゆさりともせぬ左舷右舷の吊り
黄色い二つの大煙突。
あ、渡り鳥が来た。
煙だ。白い湯気だ。その無尽蔵に涌出するむくりむくりの塊り。
しかも、見るものは空と海との大円盤である。近くは深沈としたブリュウブラックの
北へ北へと進みつつある。
ハロウ、ハロウだ。
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
そこで、私は支那服をつけているのだ。初めてつけたこの麻の支那服の
今朝から変装して見て、すこしく気恥かしいが、私には却ってこの方がしっくりする。悠々とくつろげていい。
なんと青い深い耀きをもった空の色だろう。私はマッチを擦る。
香炎、
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
いい旅だなと、私は思う。
こうして海洋の旅を続けるのは、私としては

今度という今度、
ましてや、誰よりも私のこの長旅行を喜んでくだすったのは私の両親であった。その前夜には、二人の弟もその妻たちも妹もそろって大森の両親のもとに
当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって
「なに、いや、そのう、銀座でこれをやっていたんでね。」と左を利かせる。あくまでも
「こりゃああぶないぜ、吉植君、これから上陸する時には、よほど気をつけないと、それこそ
誰やらが一本参った。
「いや、大丈夫、僕がついてるから。」
「その兄さんがまたあぶないからな。」
「そこは俺が引き受ける。」
「どうだか、二人ともさぞきこしめすだろうな、こいつあ、どっちも
また後ろで奇声をあげたのがいた。
ジャランジャランジャランと
イツテクルヨ、ランランラン
こう私は小田原の妻子へ打電するように弟に頼んだが、船が出ると船員が私の前に「電報がまいっております。」と私を探しに来た。イツテラツシヤイ、バンザイ、パパ、バンザアイ
私は微笑した。そうして竹林の中の草深い私の家を、土間の篠竹を、また紅い健在であれ。
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
とにかく、
や、鯨だ鯨だと騒ぐ声がする。
まあいい。そこで、今度の話は
何といってもこの船一の特等室である。談話室と寝室と便器附きの広い浴室と、
朝鮮の王さまもおもしろい。万事のんびりとやってやろ。
そこでこの支那服だが、これはむろん私のものではない。
「これはいい、僕が貰っとく。」
そこで、私の麻の浴衣と脱ぎ換えさしてしまった。すると、背の低い小さい小さい実直そうなお爺さんの頭にのっけた鼠の頭巾が目についた。
「お爺さん、その帽子はいただきますよ。」
小さなお爺さんはちょこちょこと私の前に来て、その頭巾を「へい、どうぞ。」と差出した。
「朝鮮の王さま出来ました。」と誰やらが
一同礼拝、ハハッ、であった。
こうして身につけてしまったのであったが、朝になると、浴衣と帯とは談話室の椅子の上に畳んでキチンと載っけてあった。となると、支那服は返さねばなるまいが、どうにも欲しい。で、朝から両手に桜
「どうだね、これは貰っときたいが。」とやった。
「かまいませんさ。私が話しときますたい。著ておいでなさい。」
欲しいものは貰ったがいいだろうと私も思った。
「ちょっとそういって来ますたい。」と、とつかわY君は飛び出した。やっぱり九州人はいいなと思ったものだ。
「大丈夫、くれます。」
「しめた。どうしたい。」
「何ですたい。」と、どかりとソファに
「話して見ましたもんな。あの爺さん、何でもあれを神戸で
「しかし、惜しがってるのを無理に貰うのはいけないな。」
「うん、よかよか。とっときなさい。短冊でんくれてやんなさり。そっでよかたい。」と片手を
「あん爺さんもおもしろか。何でん、下の関で車輛会社をやっとるちいよったが、うん、やっぱり変っとる。いまに酒でん提げて来させまっするたい。」
元気旺溢である。
「そりから、まだえれえ奴がおりますたい。肥前の
「鯨の
「鯨ん鼻ん
ここで話が一転して、もう一人の支那服の白髪のお爺さんの噂へ移る。
私はそのお爺さんが初めから目についていた。日本人には珍らしい、若い時はさぞ秀麗だったろうと思える、
「おい。」と、
「あのお爺さんどうだい。みんながね、白秋さんはどの人だろうと探している様子だから、ひとつ、あのお爺さんがそうだといってやろうかね。おもしろい。」
「
「いや、いいよ。あれだあれだ。」と頭をかかえて笑い出した。
その話がまた出ると、
「まあいいさ。ゆうべですっかりお里がわかっちまったんだから。」
「あのお爺さんも余程おもしろかったと見えて、おしまいまで、一緒に飲んだり跳ねたりしていたぜ、君。」
「知っとる、知っとる。ほんに酒好きけんな。飲ます
「それでむしょうにうれしがっていたぜ、君。そして君のことをまるでやんちゃの赤ん坊だ、あれでなくちゃ詩も歌もできまいと。」
「君の稲葉小僧の新助もだろう。」
アッハッハッと、政友本党では
何でも、今度の観光団は面白そうだとなった。一同で選挙した団長が日露役の志士
「とにかく、あれでよかったんだ。」
そうだと私も思った。
と、「先生はおいでですか。」と誰やらがいきなり飛び込んで来たものだ。
「
「うむおもしろか、やろ。」とY。
「これでいいんですか、この支那服のままで、それならかまいませんよ。」
「やあ、結構です。ではお願いします。どうせまた明日引っ張り出しに来ます。」
「いやあ。」といっているうちに、またポンと飛び出してしまった。
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
まったく
第一日は室内の整理やら、入浴やら、何かとそわそわとして暮れてしまったし、明るい食堂の晩餐をも
ただ、J・O・A・K、こちらは東京放送局であります。と、はっきりと大きくは
翌朝はまだ暗いうちから取り騒いだが、大洋の
妻子には、
トクトウニカハツタ、イマヨコハマヨリ二〇〇ノツト、
イチロヘイアン、アア、ヒロイウミ、アヲイウミ
また、ある東京の友人にはこうも打った。イチロヘイアン、アア、ヒロイウミ、アヲイウミ
アア、ソラトウミ、ナミヲハシルハエントツノカゲ
私はまた「紅茶を二つ。」
「こんどは珈琲だ。」
「菓子、菓子。水菓子。
遠い、いささか薄紫に煙った北方の空を
ひろいひろい大うねりの黒い波間には、小さな
それに船側に添って乱れて

午後になって、左舷の遥かに
「ここまで来れば、何も
「無だな。」とまた誰かがその言葉を飛ばした。
「ロウリング、ロウリング、ロウリング。」と、ある少年は両手と両足とを思うさま踏鳴らして舞って廻った。
何処やらでは、のうのうと、声をそろえて
笛を吹く人もあった。
まったく、大洋はいいなと思った。
何が世の騒壇であろう。幽人高士のあまりに少い今の乱脈さは、その気品の低く、香気の薄く、守ることの浅い不見識は、あの
私がもし秦の始皇帝ならば、
芸術とはあんなものでない。
この空を、この雲を、この風を、この海を、この
私は今日も、空を吸う、雲を吸う、風を吸う、海を吸う、この光耀を吸う。
ハロウだ、まさしく。
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
また、腹が
どれ、ケビンの甲板に
や、ゴルフをやってるな。
誰だ、いったい。あの桃いろのスカアトを跳ね跳ねして、まるで乳房の張った
すばらしい、すばらしい。
心は安く、気はかろし、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
[#改ページ]揺れ揺れ、帆綱よ、空高く······
銀の雄弁といいたいが、これは銀
またなんと恐ろしくしゃべる、ちょっぴり髭の赤いぺらぺらの舌であろう。
私は呆れて見入っているのみだ。
時は八月の九日午後二時||三時、
演者は誰ともわからぬ。
俗間に濶歩するお
まず、初めは、「近頃流行の
安来千軒 、名の出たところ、
コラサッと、この時、コラサッ。
それは頓狂な、両肩両腕を大袈裟に振り立てる。「ええ、今度は詩吟入り、おなじく安来節。」と日の丸の軍扇が胸を叩く。
「よし来た。コラサッと。」
黒んぼの奴、すっかりお調子に乗って、いよいよ出でていよいよ妙ちきりんな
ああ、日は小さくもないのにな。夜になれば夜で、月も星も光るのにな。
考えると、踊にも
鰌すくいはそこらの百姓が踊ればそこらの鰌はすくえるであろう。だが、月の光は、星のまたたきは、
月の光を切々とすくう鰌すくいの
それに、何ぞや、この日の丸は、黒んぼは。
さて、それでも黒んぼの鰌すくい、流石におしまいにはへとへとに疲れたと見えて、くるくるくると小鼠のように転廻すると、右手に並んで取澄ました仮装団のまん中へとどたりわアところげてしまった。と、
ところが、金モウルの日の丸の意気はいささかも衰えないから呆れたものである。
「さて、このたびは追分。」
やや仰向き加減に眼を細め、口をすぼめて。それでも
大島ア·········小じまアの·········
あいとお······るウ······ふねエエエは···
江差 し······がよ······いかアよオ·········
なつかし···イイ···や························
「もうひとつ。」あいとお······るウ······ふねエエエは···
なつかし···イイ···や························
帯も······十勝 ······に············
その···ま······ま······ねむ···ろ·········
落石 ···イイ······なみだ···は············
ほろい······ず······ウウウ···ウ···み······
「うまいぞッ。」と声がかかる。拍手拍手。その···ま······ま······ねむ···ろ·········
ほろい······ず······ウウウ···ウ···み······
「ええ、今度は新潟甚句。」「ええ、さてその次といたしまして三がい節。」「関の五本松。」「さのさ。」「
鈴木主水 というさむらいは
女房こどものあるその中に、
きょうもあすもと女郎買いばかり。·········
カッタカタア、カッタカタ。
「ええ、こんどはストトン節、籠の鳥、枯れすすき、女房こどものあるその中に、
きょうもあすもと女郎買いばかり。·········
カッタカタア、カッタカタ。
それがやっと済むか済まぬに、また姿勢を立て直すと、やりもやったり、
「ええ、さて、今度も一人で代りあいまする事なり、
励む、サーイ、励む励むと烏賊釣商売、今日はよい凪、日も入りござる。勝浦、法木 の島船 、小船、浦の真船 の出鼻 を見れば、姐 も妹 も皆乗り出して、艪 をおし押し、にまきの先に、おせなおせなとさぶかぜ通れば、凪もいし、かつまを通れば、せじた宵烏賊、せがらし宵烏賊、ながせながさき流れて通れば、風は南風 で、下 り帆が早い、おしゃく沖から錨 を下ろす。波も静かでねぶりすりすり、簑鞘 はずす。空のすんばり、荒崎沖よ。明星 出 れば船足 遅い。遅い船足たのしり沖よ。これでなるまい、楫 をかきかきおとじをはずす。おとじはずせば法木の前よ。ちかちか明 の鴉 の鳴くこえきけば、首尾えい首尾えいと島中に告げる。内の婆 さまたち早や目をさます。にまにつきたる子供のはても、遊ぶひまなく大漁 繁昌で暮らす。ヤンレ。
なにかかにか出そうだ。なにかかにか出そうだ、何舞とかに舞と、地蔵舞を見さえな。地蔵舞を見さえな。地蔵よ地蔵よ。地蔵は尊 だから、何して鼠にかじられべ。鼠こそ地蔵よ。鼠こそ地蔵なら、何して猫にくわれべ。猫こそ地蔵よ。猫こそ地蔵なら何して狼に負けべ。狼こそ地蔵よ。······
何とか何とか何とかで、何とか何とか申すなら、何とか何とかべいしゃらで、何とか何とがべえしゃらで、そのまた何かが何とかで、ええ、何とか何とか何とかじゃあ············
「えろう、
「へへん、
「あやつアくさい。
「どうしましたい。まだやってますかい。やれやれ。」
「驚いたね。よくもあの舌が廻るもんだな。ハーン。」
「えれえ、えれっちゃ。」
「ヤハハイ、ヤハイ。」と少年たち。
「
「ああ、ああ。」
「ああ、ああ。」
「ああ、ああだ。」
「はあ、へえだ。」
初めはその諧謔、
「誰だい、いったい、
「誰だか、何だか、海坊主でも
誰ひとり、その銀鍍金の饒舌家を知る人はなさそうに見えた。何でもうまく変貌していたにちがいない。
ところで、前に書くはずなのを、うっかりしていたが、ちょうど、この日の
壊れバケツに金紙の両眼を貼り、金の髭をつけ、それを一人が
だが、青毛布のバケツ頭の金の眼の獅子の勇気は譬えようもなかった。まことに獅子こそは百獣の王だと見られた。しかしだ、それも二度か三度か跳ね廻ると、意外にもくたくたと解体して、青毛布は尻尾の方にずるずると持って行かれてしまった。それから黒んぼの鰌すくいだが、これも汗みどろの大吐息で、顔から手から
それにもかかわらず、「何とか何とかどうじゃいな。」はたった一人でもおかまいなしの、ペラペラペラで、いつになったら
で、私は甲板をひと
が、私はその
あのペラペラが、日の丸がフッと掻き消えていたのである。そればかりではない。仮装の連中も観客の一人の影さえ、もう
それは一時間と経つことか。たった十分か十五分のほんのちょっとした短時間のことである。それがどうだろう。あの恐るべき饒舌の何の名残も、あの金扇や日の丸の朱も、チョビ髭も、サーベルも、金モールも、お
「何と驚いたお
私はまたあたりを眺めまわした。
津軽の連山は
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旅にまで来て、十五、六年前の幽霊をかついでまわるのは何という愚かなことだと、私はつくづく
こうした歌を校正しているうちに
さみどりのちひさ河豚の子上げ潮のしほさゐ安く群るるこの頃
という風の歌が出来る。そうした時には、私はきっと二十七歳の夏の私に還っている。ちょうど第二詩集の「思ひ出」を上梓した頃だ。私は筋肉炎という未だかつて聞きもしなかった病気にとりつかれて
あかしやの花さく見れば水の上 にはかなき夏の夢もやどりぬ
片恋のわれをあはれと鈴麦の花さく傍 を通ひ来にけり
夕青き微光の中をあがりゆく足長蜂は足を垂らせり
玉赤き蝋マツチする草のなかすでに蛍の臭気 むせべり
片恋のわれをあはれと鈴麦の花さく
夕青き微光の中をあがりゆく足長蜂は足を垂らせり
玉赤き蝋マツチする草のなかすでに蛍の
こうした
ああ、あの頃だ。私は若かった。木下杢太郎も

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外 の面 の草に日の入る夕べ
歎けとて今はた目白僧園の夕べの鐘も鳴りいでにけむ
鐸 鳴らす路加 病院のおそざくら春も今しかをはりなるらむ
草わかば色鉛筆の赤き粉 のちるがいとしく寝て削るなり
いつしかに春のなごりとなりにけり昆布干場 のたんぽぽの花
手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
横網に一銭蒸汽近よるとまはるうねりも君おもはする
歎けとて今はた目白僧園の夕べの鐘も鳴りいでにけむ
草わかば色鉛筆の赤き
いつしかに春のなごりとなりにけり昆布
手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
横網に一銭蒸汽近よるとまはるうねりも君おもはする
こうしたわかき日の抒情歌にうき身をやつした軽い背広の私ではなかったか。
あかしやの金と赤とがちるぞえな、
やはらかな秋の光にちるぞえな。
やはらかな秋の光にちるぞえな。
あの小唄は私の爾後の歌謡体の機縁を開いた。永井荷風氏が
だが、時は過ぎた。赤い蒸汽の船腹の過ぎゆくごとくである。
「かお、かお、かお、かあ、くるっくるっ。」
や、鴉だなと私は向うの電柱の
「くるっくるっ。」
これは鴉の
鴉は並んだり、向きを換えたり、上へ跳ねたりする。子鴉だなと私は見ている。と、
この現実の灰色の
だが、せめて北の方でも一枚ぐらいは開けてもよさそうだと、私は卓上電話の受話機を採る。とその埃りっぽい
「小樽というところは鴉の多い港だよ。」私は小田原の我が子へ書く。
スイカダ、スイカダ、ランチ、ランチ
つい、着いたばかりに発信したが、あの高麗丸から海岸の西瓜の山をそこだ、現代の未来派でやっつければ、
鴉、鴉、鴉、鴉、
灰色、灰色、灰、灰、灰、亜鉛 、亜鉛、亜鉛、
尖塔、電柱、線、線、線、
+×△□、!!!!!
2幽霊、H2O 過酸化マンガン。チリチリチリン。
灰色、灰色、灰、灰、灰、
尖塔、電柱、線、線、線、
+×△□、!!!!!
2幽霊、H2O 過酸化マンガン。チリチリチリン。
である。
私はまた「桐の花」の校正刷に目を移す。船中でもこれのお蔭で随分と陰鬱にもされた。弟の
が、何という鴉だろう。話にきくと、北海の
今の私は以前の私ではない。現実という黒い鴉が私を見ている。
白き猫膝に抱けばわが思ひ音なく暮れて病む心地する
この浮薄と
白き猫ひそけき見れば月かげのこぼるる庭にひとり戯 れぬ
これと換えよう。どうだと、
*
「種馬の交尾でも見に行った方がよかった。」と私はまた灰色の空と海とを眺める。
それはこういうことなのだ。
いよいよ高麗丸が錨を下ろすと、船中が一斉にざわつき出した。私たちもすっかり身支度を済ました上で、ともかく甲板の
「やあはっはっ、」と庄亮が頭をかかえて、顔を赤くしながら笑い笑い出て来た。「どうしたんだ。」と訊くと、
「そのなんだよ。」と生真面目になって、「種馬の交尾をないしょで見せたいといってるがね。君、どうする。」
「ほう、何処で見せるんだ、それは。」
「道庁の牧場だといっていたぜ。すばらしいんだそうだ。」
「そりゃそうだろう。だが、今晩の歓迎会はどうだ。」
「それもだが、君が校正を済まさないと、僕は鉄雄さんに
「
「だが、僕は困る、ちゃんと仕事させますと約束して来たんだからな。」
「驚いたな。君の監督も怪しいもんだぜ。」
「あっはっはっ、僕だけは一杯やりに行く。君の邪魔になる。」
「置いてきぼりかい、いやだなア。」
で、種馬見物は帰りにでもということにしてもらって、ぞろぞろと出迎いの歌人たちに交って
「兄さん、おい、兄さん。」と、別の大型のランチから、
「やあ、Oかい、いたのかい。」
「いたのかいもないでしょう。わたしが小樽に来ていることは、兄さんだって知っているはずだ。もう一年にもなるじゃないか。のんきだな。」
「のんきだといっても、すっかり忘れていたんだ。あっはっ、いたのかい。」
「いたのかいもないもんだ。さっきから二度も三度も呼んでいるじゃないか。」
「そりゃあ誰か呼んでるとは思ったさ、だが、俺を呼んでるとは思わなかった。君だったかい。」
「そうさ、ランチまで持って来ているじゃないか、早く
庄亮は「あれは僕の甥でね、やっぱり印旛沼だよ。あっはっ、すっかり
そこで皆が大型の方へ乗り移ると、ぼうと汽笛が
壮快壮快、海岸には西瓜の山だ。丘だ、煙突だ、レールだ、そして防波堤だ、
波を蹴立てて、風の薄寒い港内を一まわりすると、ランチが岸へ着いた。横浜を出て四日ぶりで陸地を踏むのである。うれしくないことはない。気が軽い。それが一、二町も歩くか歩かないうちに、旅館へ送られてしまった。
「実は、その、白秋君はね、仕事を持って来てるんで、非常にいそがしいんだ。で、一人で置かないと勉強して貰えないのでね。とにかく奉って、夕方の歌会の時に迎えに来てほしいんだがね。実いうと折角A君が種馬の交尾を見せるというのを断ったくらいなんだからね。」
早速にその社中の歌人たちを帰すと、庄亮自身も飛び出してしまった。
やれやれと私は思った。それからくるっくるっの子鴉の啼声になったのである。
私は浴衣の肩や膝や畳の上に巻煙草の灰ばかり落して、手は赤インキだらけになって、それで何一つ片づきそうにもない。
上陸する

全く私は北海道の旅館といえば、もっと暗鬱で、女中などはアイヌ見たようなのがいて、言葉も
二十一、二の頃、そうだ、私が石川啄木に逢ってまだほんの二、三度目の時だったと思う。
「君のお国はどちらです。」と私が訊いたら、
「盛岡の在です。」と彼は答えた。
「そうですか、奥州や北海道は、僕の国では鬼でもいそうなところだと思っていますよ。五、六百里も北だからね。」それはほんの何の気もなく、むしろ親和の心で私は微笑していったのが、それが彼の性来の
「I君、君も鬼のいる国の人だね。」
と両肩をスッと
「君、君、僕の国だって
と大真面目であった。
「じゃあ、鬼の一種だね。」
「うむ、そうだよ、君の方から見れば鬼の一種だろう、やっぱり。」
あの頃も何かといえば反抗心の強い、負けずぎらいの少年だったな、啄木は。もっとも細君は持っていたが。
「
と今も私は頼んだ。女中はカチカチやっていたが、その皿がお膳から
「牛肉と
それに
やっと食膳を片づけさして、またぽつねんと一人となると、やっぱり札幌の牧場にでも行って種馬の見物でもした方が、よっぽど有意義だったろうと悔しくなる。雄大な自然の中で、奔放な種馬が跳躍し交尾し歓喜する壮観は、それは稀に見るすばらしさだろうとも思える。それに光り輝く光線、風、草いきれ。
それに私は幽霊の二乗を背負って、折角の真夏の旅の一日を引っ籠っているのだ。
たまたま下の洗面所に顔でも洗いにゆくと、目に入るものは、赤錆いろの鉄分の強い坪ばかりの池の水と、
*
二時頃になって、庄亮が、小樽新聞社のM氏と連れ立って帰って来た。二人とも相当に酔っている。氏は三木羅風君の
「何処で飲んだのだい。」と私は庄亮をふり返った。
「いや、つい近所の洋食屋だがね。」といっているうちに、女中はトマトにマイナスソースをかけたのと、蟹のコキールとを二皿持って来た。これらは感心に勉強していたので御褒美だそうである。
牛肉はコチコチだったが、トマトの新鮮で美味なのには驚いた。流石に北海道だと思えた。
これは素敵だ、これは素敵だで、とうとう私一人で食べ尽してしまった。
そうして光りかがやく
かつて小笠原の
ただ、あの島の日光は全く
と、島独特の黄色い円い
だが、小樽や札幌のトマト畠が果してどうした香気の風景であるか。その
「吉植君。君も印旛沼を開墾したらトマトをこさえろ。」
「こさえるとも。」
「五十町歩すっかりトマト畠にしてしまいたまい。」
「やああ、それでは飯が食えなくなる。」
*
私の語法は現在格で進める。この方が楽だからである。
そこで、フイルムが変る。
夕方、庄亮の主宰する
「どうも北海道は悠長ですよ。」と誰やらがいう。
「それも何処か雄大でいいさ。」と私が笑う。
「雄大は妙ですな。」
八時半にやっと総勢で自動車に乗る。
「や、明るい明るい。」
全く、通りは広いし、電燈飾は華美だし、雑踏する群集も真夏の軽装だし、一々にそれらが鮮新な発光体となって遊泳して、両側のショウウィンドウの中までが、まるで水晶宮のように水々しく照り反すと、花屋がある、植木屋がある。それから活動小舎がある。絵看板がある。
「縁日だね。」
という間に何か公園の入口らしいところで自動車が停まる。矢野
二階の広間へ上ると、四十余名の会者がすでに集って三方に居流れている。
潮音の旧い社友で、土地の歌壇で元老株のお医者さんの
まあ、立ち上って大広間のまん中に進んで見た。
「エー、今晩は偶然の好機会で、こうして皆さんにお目にかかれたことを愉快に思います。何かいろいろお話したいと思いますが、どうも私には結論が先きへ来て困る。皆さんも顔だけ見ればいいといわれる。で、とにかくこれが私||白秋です。よく見て下さい、一寸と廻って見よう。」
そして三遍同一点でぐるぐると廻ったが、廻っているうちにおかしくなって笑い出してしまった。
座につくと、「今のは踊の手が交ったようですな。」と誰やらがいう。
「そうかな。踊じゃないよ。」
庄亮はと見ると、本来が雄弁家だが一人で
それから歌会に移ったが、一方の壁に半紙一枚に一首ずつ歌を書いて、四十余枚の歌を一々に批評するのである。庄亮君は坐ったまま、
「このお歌を拝見いたしまするとお。」と一々に演説口調でいう。
私は貼紙の傍まで行って、朱筆で、難点に傍線を引いて、何かと指摘しては、こうむつかしくしてはいけないかなとも考えさせられる。庄亮は馴れているが、本来私には歌会の形式が好きでない。
思うに運座とか互選とかは、こう大勢ではともすると無意義になるのである。一視同律であまりに
だが、この晩の歌会は非常に静粛に
二次会は
「あまり書いてはいけないよ。」と庄亮から叱られる。帰り途の自動車の中ではO君から
「あまり踊ってはいけませんよ。」
とまた叱られる。
「おもしろくてしょうがなかったんだ。やあ。」
一寸と頭をかかえてしまった。
*
「や、すばらしいトマトだな。」
若紳士戸塚君が実に清新なトマトを一籠
「これはいい、船で十分に食べられるぜ。」と庄亮が喜ぶ。
「大きいのは俺が食べることにする。」
「や、そりゃとにかく、君は仕事はどうしたい。」
「もう
「そうか。わかった。もう何にもいわぬ。」
さあ出かけようとなる。決断してしまうと、心から晴々しい。口笛でも吹きたくなる。往来に出る。
心は軽く、気は安し、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く·········
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く·········
「やあ、先生。」と九州男子のY君が胸を
「やあ、どうしました。」
「
日本医専の生徒の美少年のSがまた角帽で、絵具函を片手にぶら提げ、小躍りしながらやって来る。
「先生、札幌はいいです。あかしやがいい。大通りの中に花畑があって、子供が遊んでいて、実際美しかったですよ。東京よりいいです。それに大学や植物園の
「ほう、いいな。画いて来た。」
「ええ、沢山。」
京都の若い警部さんで温厚で真撃な紳士A君がまた眼鏡を輝かし輝かし帰って来る。
「牧場はいいですよ。
惜しいことをしたなと思う。
と、
「先生、ようべはお楽しみ。お盛んでしたな。へへへ。」
「や、あんたもあの家へ行っていましたかね、向うで騒いでいたのはきっと、そうだ。」
「先生、鎌かけよっとばい。そげんすぐ欺されなはんならでけん。こん爺さん
「ふふ。」と爺さん笑い出した。
「わしあ、よか
ランチだ、ランチが出るぞう。
ぼうう·········。ランラン、ラン、ジャン、
「やあ、高麗丸だ、高麗丸だ。」
「幽霊退散万歳。」
「そうだ、万歳。」
心は軽るし、気は安し、
揺れ揺れ、帆綱よ、空高く。
[#改ページ]揺れ揺れ、帆綱よ、空高く。
光り耀かぬ波、一面に滑らかな乳黄色の波、何かしら薄ら寒い遠い眺めの海。明るいようでも、それは
「見たまえ、あんなに日が当っても、波の面一つ光らないんだからね。」
私の友はこういって、甲板の籐椅子から延びあがって見て、またのそりと腰を下ろした。ノートにしきりに歌を書きつけている。
「そうだな、何だか急に昼が短かくなったようだ。」
私も隣の籐椅子に
「お腹も空いたようだな。君、何か食べないかい。」
「それより、お湯にはいりたいね。」
「そうだな、夕飯でまた一杯やるとして、その前にはいっとくかな。それにしても紅茶でも取ろうや。」
「よく、君はいけるね。よっぽど健康な胃ぶくろだと見える。」
「健康だとも。いいかい。
私たちはまた自分たちの談話室にはいり込んでしまった。
と例の九州男のY君が、一人の実直そうな
「やッ、先生、この仁ですたい。松浦王の息子さんですもんな。ほんによかけん。」
「ほう。」と私はその方を見た。「さあどうぞ。」とクッション附きの
Y君はどかりと窓際のソファに腰を下ろして、グッと後ろへ
「出して見なはり、その鑵詰ば。」と、それから
「こつですたい、鯨の鼻骨は。粕漬ですもんな。まだ野菜漬もあったろが。うむ、そりそり。」と、またもう一つの鑵詰を新来の客に出させる。
「こりば、先生に
「それは
そこで、角罎の栓がポンと鳴る。
「へへへへ。」と赤ら顔の車輛会社のS爺さんがひょろりとやって来た。もうだいぶきこしめしている。
「お酒盛ですかい。先生、わしはお恨みを申しに来ましたがな。へへ。」
「どうしたのです。まあ、お掛けなさいよ。」
「ええ、難有う。」と、ソファの尻、Y君の隣に、ぐにゃりとして、両膝に手をついた。眼がとろんとしている。鯨の
「支那服ですがな。支那服。あれは喜んで進上申すと、このY君にもいうときました。先生の御希望じゃ。それはありがたい。結構じゃで、喜んで、進上と。」
「こん人酔うとる。もうそげんか
「いや、お恨み申す。それをそのお返しになった。これは理窟じゃが、折角の志。」
「そりゃあ、僕も欲しかったんだがね、ちょっと惜しそうに、あんたがしていたというから、お返したまでさ。人が物惜みするのを貰ったってしょうがない。」
「物惜しみ。これはおかしい。いったい、どの仁がそう申したか。
「俺がいうた。ほんな
「うん、よかたい。一杯飲みなはれ。」
「いや、いただきますまい。わしがボーイを呼ぶ。そういう事なら、一倍お恨み申す。わしの
「よし、よし、わかった。わかった。」
「わかりゃしませんがな。わしの子分を連れて来る。ボーイ、
ふらふらと立ち上って、そのまま甲板へ出たと思うと、
「おおい、おおい。」
おおい、おおいと、海豹 も
海のなかから呼んでます。
どうせ、薄雲、北の海、
おおいおおいで日が暮れる。
海のなかから呼んでます。
どうせ、薄雲、北の海、
おおいおおいで日が暮れる。
*
とうとう日が暮れてしまった。
いかにも何かしら物寂しい風と煙である。色と
あ、書くのを忘れた。あの後、私は専用の
私は
フネガデルデルカラフトヘ
小樽を出る時、私は小田原の妻子へ、こう打電したものだ。つい三、四時間前のことであった。私たちは一旦着換を済ますと、しばらくは右舷へ集って、応接にその波濤の

「おい、何を考えてる。」
こうした時、ぽんと肩でも叩かれたら、私は恐らく顔を
「郷愁だな。」
そうしたものだろうなと私は私自身にも答えても見た。
私ばかりでなく、これは籐椅子、木の椅子、安楽椅子のこれらの一列の人々の凡ての顔にも表われている。
おおいおおいと誰やらが
海のはてから呼んでます。
どうせ、ぬか星、北の海、
おおいおおいで日が暮れる。
海のはてから呼んでます。
どうせ、ぬか星、北の海、
おおいおおいで日が暮れる。
と、一斉に
*
ここで、この一等船客の食堂について、多少の説明をして置こう。先ず食器棚の両方の入口からはいると、奥の正面にはピアノが一台装飾的に据えてある。ピアノの上にはどす黒いラジオの
私と庄亮とはO氏やA博士やH君夫妻を向う斜めに見わたせる、船舶課側の窓際のクッションに凭れる、末席の方だが、このテエブルには若い船医や京都府の警部さんのA君やと大概は同席である。だが、今は私たちの前には某銀行の重役のBさん夫妻が並んでいる。私たちの隣室の客だ。Bさんは
右舷寄りのテエブルには、音楽会の晩、私に利休鼠の頭巾を貸してくれた、小さな小さな商人風の、若山牧水に似た顔のお爺さんと、その連れの須田町のある旅館の主人だという、これも江戸っ子式の快活な中爺さんと、例によって酒が賑やかだ。これは珍らしく向うの隅っこで気勢を挙げる。
私たちの席はいつも私たちだけが残されてしまう。時には外のテエブルに
こう見渡したところ、その他の船客たちも
それが申し合せたように、今夜は不思議に静粛である。庄亮までが、風邪気味で
「止すか。」
「うむ。御飯にしょう。」
何とまたH夫人の鼠色の眼鏡が寂しいことだ。
*
、こちらは東京、ゴウゴウゴウ、放送、ガバガバガバ、局であ、グワウグワウ、す、す、す、す、ジャオジャオジャオ。
「何だ、いったい、こりゃあ、しょうがないな。」
と、誰やらが、心細い声を出した。まだ宵のくちの一等談話室のソファである。
「今頃は半七さ、グワウグワウグワウ。ジャオオ。」
「ああ、ああ。」とまた一人が立ち上った。
「ラジオにもいよいよ見放されるのかな。」
と、また一人が、しみじみと、眼鏡をはずして、浴衣の
と、また新来の若い中脊の背広の紳士が、その台の方へ行ってしきりに二つのレシーバーを耳に
「もういけない。ひどい無電だ。」
私はラジオはどうにも好きでない。ラジオを聴くといらいらして来る。ああ、化物じみた、非音楽的の非人情の音響で、神経を刺戟されてはとても坐っているに堪えられないのだ。一つには私が文明化された電気というものとあまりに交渉のない生活をして来たせいかも知れぬ。この四、五年こそ電燈の下で創作もしているが、この十五年来、ほとんど縁がなかった。いや、ずっと以前にも、そうだ、明治三十八、九年の早稲田時代にも、私たちは下宿から下宿へ引越車の後を
「や、活動が初まったな。」
総立ちに出て見ると、もう、左舷の甲板は観客でいっぱいになっている。自分の船室への通路も全く塞がれてしまった。それよりか、丸窓もはいり口も
で、私もその前に
チカチカチカチカ、コチコチコチコチ、パッとまた幕面が白く
「や、
現れたる青い画面には溌剌とした鰊の数千数万本が飜る。小蒸汽とモオタア船の甲板である。日光、漁夫、モリ、舷側の飛沫。
影、影、影、光、光、光。
鰊だ、眼だ、腹だ、尻尾だ、
密集、重積、氾濫、迷眩、混乱。
帆だ、帆だ、帆だ、
運搬、駛走、海洋、巻雲。煙、煙、煙。
と、砕氷船。
「大きいぞ。」と声がかかる。
と、たちまち、船影は消えて、一面の氷結した極寒の海峡が真白く、白く、暗い影の底から遥かに遥かに光る。輝く。寒い寒い雲だ。あっ、樺太だ、確かに。
と、来た来た、氷を
ピー。
あっと、一同が振り向くと、それは白髪の白い支那服のタゴール爺さんだ。吹きも吹いたり。とてつもない鋭い口笛だ。「あっはっはあ。」「ヤハイハイ。」
パッパッパッ。「
雪、雪、雪、煙突、倉庫、店看板、防寒帽子、毛ごろも、手袋、がんじき、
パルプだ。突進、突進、突進。
と、牛肉だ、肉塊だ、犬だ、頭だ、うおうおっうおうおっ、頭、頭、頭、口、口、口、や、舌、舌、舌。
食慾だ。争闘だ。血だ、血だ、血だ。
「氷上の魚獲。」
静かな月光、声のない声。雪白の
ついと、こちらを見て笑ったギリヤアク土人の顔、しょぼしょぼの眼。毛皮の帽子。
や、また、一人、二人、三人。
砕く砕く。一心に、懸命に、こつこつこつこつ。
振り上げた手、手、手。
跳ねた。水だ。や、魚 だ。魚だ。魚だ。
黒、黒、黒、穴、穴、穴、穴、穴。
「馴鹿 。」
飛躍、飛躍、
角 、角、角、
雪だ。パッ。「今晩はこれきり。」
ほっと、みんなが吐息をついた。
そうだそうだ。これから今夜にも宗谷 海峡を過ぎるであろう。
その先は韃靼 海。
や、また、一人、二人、三人。
砕く砕く。一心に、懸命に、こつこつこつこつ。
振り上げた手、手、手。
跳ねた。水だ。や、
黒、黒、黒、穴、穴、穴、穴、穴。
「
飛躍、飛躍、
雪だ。パッ。「今晩はこれきり。」
ほっと、みんなが吐息をついた。
そうだそうだ。これから今夜にも
その先は
*
「今夜は妙に湿っぽいじゃないか。」
「うむ、僕もどうも工合がわるい。あの、それ、いつか煽風機をかけっぱなしで寝たことがあるだろう。あれからのらしいのだ。咽喉が痛くて、悪寒がする。これはどうもいけない。」
「寝たまえ。今から病気だと大変だよ。お、いい薬がある。」
私は立って黒皮のケースを取り出して来る。
「独逸製の薬品だがね。バイエルアスピリンというんだ。こういう時はありがたいね。」
「そりゃいい、貰って見るかな。」
「そうしたまえ。それから王様の寝台は君にゆずるよ。交代だ。」
「しめた。俺も王様になるかな。あっはっは。」
「ははは、その元気があれば大丈夫。じゃあ寝たまえ。僕は少し仕事をしよう。何だか、やっぱり弟の方が気になる。とにかく「桐の花」だけは済まそう。」
「そうだな。そうしてくれるとありがたいな。僕も申訳がたつ。」
じゃあということになって、一人は別室の
卓上には、水芋のような、青い縞入りの葉が大きいのと小さいのと二枚。南洋植物の一鉢である。電燈の光も静かである。
「おおい、おおい、ボーイ。げっぷ、うえっぷ、げっ。」
ひょろひょろと、車輛会社が、セルの着流しで。
「や、御免。御勉強ですかな。これはお邪魔で。」
困ったと思ったが、そうもいえず、
「や、まあ、おかけなさい。」
「へえ、御邪魔なら、どうも失礼で。||帰りましょかな。」
「まあ、いいさ。」
「坐りましょかな。」
「どちらでも。」
「どちらでもとはおひどいな。そのなア、支那服の一件じゃで、夕方、申しときましたろが。お恨みに存じ申すと、面目がつぶれた。わしの
「やりましたね。また。」
「へえ、どうもなア、いやにその浪の音がな。どもならんというておりますわい。」
「ははあ、弱ったね、それじゃ。」
「弱りゃしませんがな。支那服のし返しじゃ。飲みましょかいな。おおい、ボーイ。」
ぽんとボーイが飛び込んだ。
「抜け、P公。先生、これはわしの子分でな。いい男でしょうがな。おい、抜け、コップを三つ持って来オい。」
「持ってまいっております。」
「そうかあ。えらい奴じゃのう。
「へ、お注ぎいたしてあります。」
「やああ、これはどうも恐れ入る。よしよし。おっとっとうと。」
「君はSさんの附きかい。」と私はボーイの方を見た。
「は、そうであります。」
「軍隊式だね。」
「へ。」
実直そうな、それでなかなか
「これはな、先生。わしの子分じゃ。国のものでな、P公、うう、P公と申す。先生にお願いがあるそうじゃで、わし、引っ張って来申した。」
「どんなことかね。」と私も笑った。
P公は、「は。」といって、チラとSさんの方を見た。
「申し上げ。なんで黙っておるのじゃな。よし、わしがいうてやろ。ええ、何かひとつ書いておもらい申したい。そうじゃろ、何か書いて。」
「は。」と直立不動で、ニッケルのお盆を持って、白服の詰襟である。髪を立てて撫で上げている。
「持っておいで、短冊でも、明日でいいだろう。」
「は。小樽で買ってあります。」と、ありがとうとはいえないで、頭を垂れた。
「そこでと、吉植さんは、おいでならんとかな。吉植さん。」
「吉植君は風邪で弱ってますよ。」
と、「やああ。」と寝室の方から、我が庄亮が浴衣の胸をはだけて、ぬっと坊さん頭を突き出した。ちょっと
「どうもそのね、北原君は
「これは御挨拶、痛み入る。しかしじゃ、先生はよろしい、飲もうというてござるじゃて、ようござりましょうがな。お邪魔ならおいとま申す。それは失礼。だがな、どもならんそうじゃて、どもならん。」
「浪の音だそうだよ。」と私はまた笑った。
「ええ、浪の音。そうじゃ、あっはっは。いやにその。」
「まあいい。君は寝ていたまえ。障るとわるい。」
私はこれはやはりどもならんと思ったので、麦酒のコップを
「困るなア、それではね。僕がお附き合いしよう。よし、かまわぬ。さあ飲むぞ飲むぞ。」
「これはありがたい。夜あかしじゃ。」
「夜あかしゃ困るよ。」
「あっはっはあはあ、そりゃ困る。」と庄亮が両手で頭を引っ
「や、Sさん、
「どうも。」と眉を顰めるとまた、赤っ面を振って、
「さびしゅうしてならんけん。
「どもならんというておりますわいだろう。Sさん。」
「へ、浪の音がな。その浪。」
「もうよし、飲もう飲もう。吉植君、君は王様の寝台だ。」私も観念した。だが、何か私とてもまんざら寂しくないことはない。キリキリキリキリと帆綱の
「や、僕も少しやっつけよう。飲むよ。飲むよ。」
そこで、三本にまた追加が五本。
キリキリキリと帆綱の鐶。
浪の音がな。浪の音。
*
「おや、車輛会社はどうした。」
と、私は南洋植物の青縞の葉の下を透かした。
「や、
「P公、P公、や、
「車輛会社にゃかなわん。
「おや、吉植もいないじゃないか。寝たかな。」
「寝ましたくさい。弱っとらした。」
「弱るなア、僕も、寝ようかな。」
「でけん、でけん。
「ぐうぐう
「うん、あん時ゃぐうぐう
「行ってもいい。だが、ちょっと待ちたまえ。」
私ももうかなりに酔っていた。ふらふらする足取りで、隔ての青いカーテンを寄せると、いわゆる王様の大きい寝台に近づいて見た。この寝室は全く広くて贅沢な、それで
私はそっと
私は白カバーの毛布をはだけた彼の浴衣の胸まで引き上げて、それから、そうっと、その二分刈りの坊主頭の汗じみた額の上へと私の左の手を当てて見た。熱はない。が、私の
私はまた差し覗いた。何という無雑作な酔態だろう、この眠りざまであろう。
私は、ふらふらと、その足元に匍い上った。そうして向き直ると、両足をブランブランさした。
酔ってる、酔ってる、酔ってます。
「先生、
「おっ、ちょっと待ちたまい、眠ってるよ、吉植が。」
「よか、三等へ行こう。あっちも
「行こう行こう。」と私はそっと寝台を飛び下りると、談話室を抜けた。
「吉植はよく眠っているよ。なんだか俺は泣き出しそうだよ、よう、おい。」
ザザザザ、ザアッと浪が舷側を撃った。外は暗い。キリキリキリと帆綱の
「先生。」といきなりYがかじりついて来た。逞ましい大きい両手だ。
「先生。わしも泣く。わしは、わしは子供を棄てて来た。見殺しにして来た。どうなっとるじゃいわからん。わしが出る時なア、もう危篤じゃった。とても助かっとるめえ。行かにゃならん、仕方んなか。死ぬなら死ねちいうて出て来た。葬式は
「うむ、
きょうきょうと、何かが翔る。
*
「もうよし、君のところへ行こう。」
「ええ、行こう行こう。」
「や、ちょっと待て、一等の
「よかよか、人ん
「だが、心配だよ。ちょっと覗いて見よう。さあ手を握れ。一緒に行こう。
酔ってる、酔ってる、酔ってます。
え、おい、歌おう歌おう。」
「
眠ている、眠ている、眠とらすたい。か。
酔っぱらって、酔っぱらって、梯子酒 か。」
酔っぱらって、酔っぱらって、
「おい、
醒めてる、醒めてる、醒めてます。
こう聞えないかい。眠ている、眠ているが。」
「歌うて見なはれ、もう一度、きこえるかも知れん。うむ、きこえるような気もしますたい。」
眠ている、眠ている、眠ています。
酔ってる、酔ってる、酔ってます。
酔ってる、酔ってる、酔ってます。
「おや、まだ起きてるようだな。いや、風かい。」
私たちはもう、一等食堂の前の階段を下りかけていた。
「お、よく眠ている。」
私はすっかり
「
「Hさん夫婦は眠てますかい。」
「莫迦。叱っ。」
その長い両側につぎつぎと並んだ浅葱の重いカーテンは何れもしっとりと垂れ下って、そよとの音もしなかった。すやすやとしたいい寝息がした。
「よく眠ている。万歳。あっ、誰だか寝返りした。そうっと、そうっと、いいか、すり抜けるんだ。そうっと。」
私たちはまた肩を組んで甲板へ出た。
「今度は二等室だ。おい。」
「もうよかろ。もう起きとらん。」
「眠ていりゃ
私たちはまた船尾の方へ廻った。
階段を下りる。と、
危うく転びそうになって、私たちはやっと私たちの
其処は通路を中にした広い広い雑居の寝室であった。通路には紅い緒の草履や、スリッパが脱ぎ散らしてあった。
両側の雑然たる寝姿、それは白い蒲団は両側に整列しているが、足元や枕元には旅行案内、地図、トランク、雑嚢、水筒、ゲエトル、浴衣、
老いたるもの、若きもの、更に
「よく眠ている。よく眠ている。」
「あっ、起きた。」
と、左側の中央部に、互に蒲団をきっちりと引きつけて、そうして、近々と向き合って寝ていた一組の若い夫妻の、その妻君の方が、ふっと眼を開けて、驚いたようにくるりと背を向けてしまった。
「あ。」
といったまま、私は階段を駈けあがった。
「いけない、いけない。早く早く。」
私たちはまた暗い甲板の上を歩いていた。
「や、無線電信が起きている。だな。じゃないかな。そうっとそうっと。」
幽かな、それは幽かな金属性の音律が、

「あ、きこえる、あ、きこえる。」
*
「おおい、
船首へまた大迂回して、測量室の下まで来たところで、Yはいきなり大声を挙げて、三等船室の階段を駈け下りた。
「居る、居る、パンクしとる。先生、車輛会社が居りますたい。早うござり。」
成程、車輛会社は、三つ四つ並べた
「どうした。Sさん。」
「ううむ、どもならん。」
「浪の音、ソリャ、どっこい、浪の音ウか。どんこつ、おいか。」
「ううむ、お恨み申すじゃよ。」
「はっはっはっ、P公はどげんどんしたかな。P公。」
向うっ
三等の食堂は一段上になっているので、下の雑居室は真上からそのまま
「おおい、起きろ。や、起きとんな。しめた。先生が来た。さあ起きた。」
と、また、
「医専、慶応、早稲田ァ、二高、日本歯科、青年団、写真班、鹿児島ァ起きろ。」
と、起きた起きた。二等よりもより雑然たる諸相の中から、湧き出る、溢れ出る、転がり出る、飛び出る、それらの如く、
「やあ。」
「やあ。」
「やあ。」
「やあ。」
「ほう。」
P・Q・R、もまた叩き起されてしまった。
「酒だ、酒だ、やろう、おい。やりまっしゅう、先生、万歳だ。」
「やろう、やろう。」
祝杯。
「T君、君たちは起きていたのか。」
「え、なに寝てはいたんです。こんな晩にはしょうがないんですからね。でもねむってはいなかったんです。助かった。」
「僕も何ですよ、ねむったふりしていたんだ、つまらないんですからね。」
「俺だって、そうだ。Sさんのパンクだって知ってらあ。P公が弱りはてていたぜ。」
「そうだ、そうだ、どもならんどもならんだろう。」
「浪の音ウさ。ふっ。」
「や、まあ、いい、それじゃまあ飲もうや。」
「有難い。」
「歌おう、歌おう、や、やれ。」
関の五本松、一本伐 りゃ四本、
「や、誰だ。」と下を。「おうい、こっちだ、こっちだ。」
「起きて来い。」
「行っていいか。」
「おいで、おいで。」
また一人が、むくりと飛び起きた。
「出よう出よう、ね、諸君、僕のところの甲板に来たまえ。ここは安眠妨害だよ。さあ、出よう。」
出ましょう出ましょうで、一同がどかどかと階段を駈け上る。それ、
でかんしょ、でかんしょと、山家 の猿は、ヨイヨイ。花のお江戸で芝居する。
ヨウイヨウイ、でっかんしょ。
でかんしょ、でかんしょで、半年ゃ暮らす、ヨイヨイ、あとの半年ゃ寝て暮らす。
ヨウイヨウイ、でっかんしょ。
青年はいい。活気そのものである。風の音も、大海の浪の響も、今は彼らの感興を煽るばかりに、暗く暗く輝いて来た。ヨウイヨウイ、でっかんしょ。
でかんしょ、でかんしょで、半年ゃ暮らす、ヨイヨイ、あとの半年ゃ寝て暮らす。
ヨウイヨウイ、でっかんしょ。
「さあ、ここだ。とうとう還って来た。そこで、そこらの籐椅子をすっかり集めた。そうだ。一列に、みんなくっつけて。よし、さあ、歌った、歌った。」
一同はこれに
「ああ、もう知らねえ。」
「
「寝ようや。もう。」
「万歳。」
どっこいしょと腰を叩く奴、ううむと唸る、ああと一人が両手を高く差し上げて
「泣きたくなったよ、おい。」と、また一人が駈け出してしまった。
「じゃあ、これで解散だ。君が代君が代。」
流石は、そこで、粛として、並んで唱えた。
ほろほろと涙が
「万歳さよなら。」
「万歳さよなら。」
「諸君。また明日だ、さよなら、さよなら。」
後はしんとした。
キリキリキリと帆綱の
「先生、わし、先生の裾の方へ泊めてもらいますばい。よかろ。」
Yだけは跡に一人残った。そうして談話室までまたはいり込んで来た。
「泊る。泊れ。だが、どうかな、君は九州っぽうだからな。」
「莫迦いいなさい。」
「俺はまだ美少年だし。」
「ふっ。なんちゅうこつじゃい。」
「いうにいわれぬ、その。」
「へっ。莫迦いいなさい。わしあ、そげん
そんなら泊れと、私はソファの一つに寝て毛布を引っかぶる。Yは鍵の手なりに、私の足へその毛むくじゃらの両足を向けると、すぐに、そのまま、ぐうぐうと深い鼾をかき出した。
私もまたそれなりぐっすりと
ふっと、眼を醒ますと、まだ夜は暗かった。足元を見ると、いつの間にかYの姿は掻き消えていた。
ああ、浪の音だ。
宗谷海峡も過ぎたであろう。もう夜が明ければ樺太だが。
キリキリキリキリと帆綱の鐶。
空はまだ暗い暗い暗い。
おおいおおいと何やらが
海の底から呼んでます。
どうせ、くらやみ、北の海、
おおいおおいで夜もふける。
[#改ページ]海の底から呼んでます。
どうせ、くらやみ、北の海、
おおいおおいで夜もふける。
アレキサンドロフスク 北方約三十里
十三日の午前のことである。どうにもひどい強雨であった。
*
本来からいえば、小樽を出て翌朝、私たちは樺太西海岸の
「今夜はともするとひどい
すれちがいに私に挨拶した事務長の言葉がこれであった。
「
「さあ、どうも、ちとむつかしそうですな。ここの海岸線はかなり荒いようですからね。」
そうして帽を一寸脱いで、向うへスッスと行ってしまった。
これまで、私たちはあまりに恵まれた航海を楽み過ぎて来た。少しくらいは時化にでも遭った方が面白そうな気もしたが、夜に入っていよいよ本ぶりになると、誰もが言い合わせたように晩飯もそこそこに済ますと、早くからてんでの
終夜が波の響と風の音と、それに雑多の||それは
「おやおや。」と私は思った。だが、いつのまにかぐっすりと眠入ってしまったものらしい。夜が明けると、早くから飛び起きて、すぐにメリヤスの
「なるほど、樺太は寒いな。」と。
オートミルとフライエッグスと一、二杯の
「どうにもこれがいい。」
「うむ。やっぱりな。」
私と庄亮とは、自分たちの談話室のソファに
「咽喉はどうだね。」
「まだどうもいけない。妙にそのお、ここが痛んでね。」と反対にぼんの
「湿布でもするといいんだがな。」
「いや、僕には
「あのアスピリンはどうだ。」
「やあ、あれも君のをもう半分もいただいたんだがね。熱は下ったようだが、腹の工合がどうもよくない。」
「西洋の薬はそうしたものだよ。局部的なんだからね。利くには利くんだが、何かの反応が外へ禍する。いわゆる全科的じゃないんだね。だから僕は
「そうかなあ。」
「そうだと思うね。煎薬というものは微妙なものだよ。たとえば風邪の薬にしたって胃の薬も腸の薬も適度につまんで入れるし、十種も二十種も調合して、それは丹念に刻み込むんだからね。あれがまた同じ処法でも、やはりコツがあるそうだよ。極めて精神的なもので、それは創作的なものだそうだ。芸術にしたところで、何といっても東洋精神に限るよ。」
「
「近頃の歌壇の慣用語でいえば、そうさ。だが、写生の語義を伝神とか実相観入とかに転用するのはちょっと変だね。写生は普遍化された語義としてはやはり単なる写生だからね。子規の写生にしてからが、空想味の深い
「あっはっは、こりゃおもしろい。聴くよお。」と庄亮は、両肩から首を振って、豪傑笑いをすると、両手を蠅のごとくに頭の上で
「いったい、この頃は芸術でも教育でも何でも
「歌とおんなじだね。」
「そうだ。実相観入だね。あははは。そこでその先生は自分でコツコツと刻むのだ。一人前の薬を三十分もかかって
「あ、あれか。僕も知ってる。それ、君のところで
「そうそう。あの時は君も参ったようだったね。」
「ところで、何かい、T君は今どうしている。」
「台北へ行っている。中学の英語の先生さ。止むを得ない事情があってね。だが、すぐに帰って来るだろう。H先生の内弟子に住み込む覚悟でいるんだからね。何でも台北で病気をした時、総督府の病院へは行かないで、ないしょで土人の医者のところへ礼を厚うして診てもらいに行っていたとかで、同僚たちからすっかり愛想をつかされてしまったらしい。いや、みんなが呆れてしまって、旧弊も旧弊、
「そりゃ、こっちでいう事だよ。俺んところの
「そりゃ、君のところの野菜はすばらしいさ。印旛沼は格別だよ。ところで、僕にしたってこの頃はすっかり調味法が変ったね。ほとんど生のままの味で煮出している。それにだんだん菜食党になって来た。そりゃ年齢にもよるだろうが、やはり東洋精神への還元だね。」
「なるほど、そこで水墨集ができたわけかね。」
「僕ばかしじゃないよ。画の方だって、だんだん還元して来るからおもしろい。とにかく東洋は東洋だよ。真の象徴芸術は東洋にあると思うね。」
「ウイスキーより、俺あ日本酒だ。」
「だろう。だから芭蕉の句なぞが、
「だから、俺は印旛沼を開墾するというのだ。よかろう。やるぞやるぞ。」
と、「安別だ。安別だ。」と誰か走ってゆく声がする。
「や、安別だな。」
「おお、そうか。着いたな。」
驚いて、二人は立ち上った。
激しい雨の音と、波の響だ。
*
鮮かな緑の低い丘陵、そのところどころの黒と立枯れのうそ寒いとど松林、それだけの眺めの下に、ぽつぽつと家が五、六戸。冬ならば、とても
これが日露国境の安別かと思うと、鬼界ヶ島にでもまざまざと流されて来た感じである。
いや、それでもまだ平らかな丘の
見ていても激しい荒波である。それも強雨の霧しぶきの中の浜辺で、あちこちと奔走している黒い人影までが、つぎつぎと吹き飛ばされそうに
ぼう、わう、わう。
あ、犬が
と、小さな
その時、私たちは思い思いの防水用意をして、既に右舷のブリッジのそばに
ランチは程よい距離に近づいたところで、
雨は幾分かずつ小降りになるようであるが、波のあおりはいよいよ激しくなるばかしである。ともすると、艀が舷側のブリッジの中程まで
「そおれ、あぶないぞ。放せ、放せ。」
「やいやい、そのロップを投げろ。」
「それっ。ちぇっ。駄目だ駄目だ。」
「莫迦、こっちへ寄越せ、なあんだ。あっはっは。」
それも、やっとのことで、どうにかブリッジに
と、ランチにまたロップを
「万歳。」と艦上から誰やらが麦稈帽を振る。艀からは、タオルをかぶるもの、マントの頭巾に眼ばかりのもの、蝙蝠傘、ハンチング、誰、誰、誰、誰、いつも見知っているそれらが一斉に「万歳。」である。弥次る、はしゃぐ、手を振る、顔で笑う。
すばらしい波と雨と霧。艀は見えつ隠れつ、思わぬところに帽子の幾つかを見せてまた波の向うにずり込んでしまう。そうして割合いに早く小さくなってゆく。その間にも浜ではもう一つの
「これは大変だな。命がけだな。」と笑っていると、つい傍にH夫人が
「や、あなたもいらっしゃるのですか。驚いた。」
「ほほ、えらいでしょ。この恰好。」
「えらいな。タオルはいい。僕もかぶって見ようかな。もう一つこの上から。」
「そうなさいましよ。これ、浴室のタオルですの。」
「しめた」笑ってると、いきなりぴしゃりとズボンのお尻を叩かれた。
「白秋さん、しっかりなさいよ。」
ひょいと振り返ると、旦那様のH君だ。
「やあ、しっかりしている、している。」
これには驚いてしまった。
ところで、私たちの第一班がようやく艀に乗り込んだ時には、第三班のそれらより恐らく一時間は遅れていたろう。
と見ると、もう先発の一群は黒蟻のように、北寄りの緑の斜面を、黙々と
「あれが国境だな。」と私は見た。
波のなだれが
*
それから、白木の角標の
そこで、さきほどからの強雨はいくらか細めになったが、細身の
こうして私は国境安別の砂浜に立ったのであった。
上って見ると、沖から見た通りの、それは荒涼たる寒村であった。
先ず目についたのは鑵詰工場らしい、ほとんど吹き
とうとう国境まで来たのかと思うと、ひえびえと私は雨の湿りに
「や、
それは樺太事前草とでもいうのだろう。すばらしく大きな葉だ。それが踏めば実に柔らかな緑をしている。砂浜から一段上ると、その車前草に縁どられた
「や、驚いた。
内地では五、六月の薄紫の馬鈴薯の花だ。
「や、菜の花だな。これは驚いた。」
とある漁師の家の窓からは女の子がたった一人
この国土のはてに来て、この鮮かな野菜の花を見ることは。この
私はまたびしゃびしゃと緑の上を歩いてゆく。この車前草の踏み心地は。
雨がしだいにあがりかけて来た。が、まだ横なぐりに吹きつけるものがある。
砂浜には、細い丸太の長方形の高い柵が、その雨と風との中にさびしくわびしく続いている。網小屋のようなのも目につく。私は道連れの巡査さんに訊ねて見た。
「これは何です。」
「
「この小屋は。」
「これは
その
と
ぞろぞろと汚らしい男女の
大きい納壺の一つは戸が開けっぱなしになって、とてもすばらしい黒熊の毛皮がその形なりにぶら下っていた。その黒い黄の交った粗々しい毛並には雨霧が降っかかり、内側の白い皮までがすべすべと冷えきって何か無気味な、その納壺の奥には網が網臭く積まれ、土間には赤子を負った赤い髪の目の大きな女の子が、ただむっつりと
駐在所があり、郵便局があった。
だが、何という巨大な
それは燃え立つような細い赤い実のつやつやとむらがった名も知らぬ木の
「あれは何の実。」
「ななかまど。」
と一人の男の子が私の問に答えた。
風と雨とがまた激しく音を立て初めた。
「おおい、おおい。」
前から、後から、わが団員の数々が、その風と雨と、しぶきで飛んでゆく霧の中から呼び応える。
こうして、私たちは国境の天測点へと、草ばかりの一つの丘の
*
既に天測点を見極めて続々と降りて来る誰彼は、頭の上に大きな驚くべき
「ほう、それが樺太蕗ですか。」
「ええ、大きいでしょう。」
「何処に生えています。」
「やたら一面です。」
ほうとまた驚きながら私は登る。靴に巻きゲエトルだが、わざわざと普請して土もまだ柔かなところへ、大勢で雨の中を踏みくずしたのだ。靴も何も泥まみれになる。それに足がかりも悪く、坂は急になるので
斜面の中腹に出たところに、例の
まことに赤いシトロンと草の緑は天幕の内部を明るくする。
私は麦酒を技いて貰ったが、凄まじい強雨と荒海の潮鳴りとに耳傾けながら、この国境の山上で
*
そこらは虎杖の花盛りであった。樺太虎杖の花は内地で見るようなほのぼのとした
太い丸太の無雑作な二坪ばかりの周囲の柵があった。その柵は朽ちかけて、既に外皮のところどころはボロボロにくずれかけていた。その中に日本と
北を眺めると、その海岸線は南と同じようなさして高からぬ丘陵が続いて、立枯れのとど松の疎林が、しきりなく流るる雨雲の下にほうほうとうち煙って見えた。
露西亜人村のピレオはつい、一つ二つ向うの丘の蔭にあるのだと聞いた。時々出猟する彼らの或る者の姿さえ見かけることがあるともいう話であった。国境とはいえ、警備隊も監督官もいるわけではなし、出入自在であるようにも見られた。簡単なものだと私たちはまた顔を見合せた。
ここでカメラを向ける者がかなりパチパチやった。
私と友とは、ここで一つ撮ってもらった。武田信玄と国定忠次という奇異な恰好でである。
誰だか露西亜の方を向いてつくづくと放尿していた。
天測点はついその上にあった。海上一キロメートル若干の地点である。
其処にも虎杖の花は今がまさに盛りであった。
この虎杖は露西亜領の花
歌の四五句が口をついて出た。だが、一二三句はどうしても出来ないで、私はまた帰路についた。
そこで
「麦酒の代は払って置きますよ。」
それからシトロンを一本あけてもらったが、また金は払わずに飛び出す私を私は見出した。
慌ててまた引き返した。
すばらしい斜面の緑、
*
ワレラコクキヤウニアリ
妻子を初め東京の諸友に、その安別から打電した時には、私もまた意気軒昂たるものがあった。小学校の粗末なテエブルの上で、私はしきりに頼信紙の
「これはどうだい。」と訊くから、
「そうした四五句は僕の三崎の歌にもあったよ。」というと、
「こりゃ困ったな。馬鈴薯の花でなくちゃならねえところなんだがな。」と、笑って頭を掻いた。
「君も気がついたんだね。」というと、
「驚いたよ。全く。あの馬鈴薯の花の新鮮なことったらないじゃないか。あっはっはっ、こりゃ困ったな。とにかく。」となって
ことごとく名は知らぬ草ばな
と訂正した。
駐在巡査のYさんが、そこで扇面など拡げて来る。が、しかたなしに私も筆を執った。
この虎杖は露西亜領の花
「半分しか出来ておりませんよ。」
この時こそ、泥靴の、びしょ濡れの、異様奇体の団員の群集で、いっぱいに充たされた校舎であった。騒々囂々たるものであった。
熱い熱い湯気のたつ番茶の土瓶を持ってしきりに奔走していた人の中で、まだ若い都会風の色の白い夫人があった。郵便局長の奥さんだということであったが、誰だか、
「こうした処においでになってお寂しくはありませんか。」とそぞろに同情している者があった。
「おほほ、それは寂しうございますけれど、馴れればそれほどでもありませんの。」
「でも、冬はたいへんでしょう。」
「ええ、それはもう。」と流石に肩をすぼめたものである。
見まわすと、窓の上、四方の板壁には、フランクリン、リンコルン、ビスマークだ、西郷南洲、そうした世界的英雄の
「童謡はやっておいでですか。自由詩は。」
「いや、一向にまだやらしておりません。内地にいました時は、考えてもいましたが、こうした辺鄙な処では、ごくごく程度が低いのですからな。お恥かしい次第です。」と教員さんの一人がすっかり恐縮してしまった。
生徒といえば、あの納壺の熊の毛皮の傍にいた赤毛の大目玉の女の子や、アイヌ式の、または

黄ストロン 一本参拾銭
赤キング 一本参拾銭
水雷サイダア 一本弐拾五銭
と赤キング 一本参拾銭
水雷サイダア 一本弐拾五銭
その黄ストロンをまた一本あけてもらった。
*
本船へ帰ると、私たちは初めて自分たちの
午後には、やや西の方が
能楽の笛がまた何処かの甲板に鳴り出した。
人々はまた椅子を持ち出し初めた。ずらりと外洋を向いては並んでいる。
「
「とにかく、現代はあまりに無秩序です。学生間にでもですな、この際大いに尊皇の精神を鼓吹せなくちゃならぬ。そこでですな。私は天照皇太神宮と、阿弥陀仏と、我が皇室と、この三体を一つに祭って、いやその祭壇を私の家庭にこさえたのです。私は神でなければならぬ仏でなければならぬというような偏狭でなしに、それに皇室と、つまり神を敬い仏を信じ皇室を尊むという、この主義信念を持って毎日礼拝している。家人にも礼拝させる。訪ねて来る学生にも礼拝させる。これが実に日本人であるところの。」
「あれは誰だい。まるで中学生の演説口調じゃないか。」と一人が伸び上ると、
「京大のA博士だよ。
「そうです。現代の人心は実に浮薄です。救うべからずです。」とまた頭の頂辺から火のついたような、
「へへん。」と医専が舌を出した。「ブルジョアが何だい。階級が何だい。チェッ。」と何かしきりにスケッチをしている。
「
「喧嘩じゃないかね。びどく
「なに、あれは地声だよ。薩摩人だよ。ほら、あのA爺さんさ。」
「そうか。あの人はたしか城山に家があるといっていたね。」
「うむ、あれで、汽船も持っていれば自動車も持っている。山も持っているという話だ。何でも富豪だと聞いている。」
「えらい元気だね。喧嘩だったらひとつ出てやろうと思ったがね。」
「ぬうっとかね。」
「あっはっは。」
「お得意の剣道も
「やあ、これは参った。いつかの歌の会のテエブルスピーチかい。失敬失敬。」
「だが、今日はずいぶんみんなが亢奮してるじゃないか。」
「草根木皮の祟りだろうよ。」
「あははは。まあ紅茶を一杯いただこう。」
私たちは、早速に
「今夜は飲めそうかね。」
「いや、どうも咽喉がこれじゃあね。」
「困ったね。大切にしたまえ。僕は三等へでも行って遊んで来よう。気楽でいい。」
「三等も今夜は亢奮してるぜ。」
「何にしろ、あの吹き
「だが、A博士はなかなか国粋党だね。」
「あれでね。まあいいさ。日本精神への復帰ということだろうから。僕はこれで真実の尊皇だからね。」
「そうだな。それは知ってる。」
「結局日本は日本だよ。日本人は日本人だ。」
「となるね。」
「何でも東洋芸術に限る。そう思わないのかな。」
「あっはっは、思うよお。」と、我が庄亮は、また蠅の如くにその両手を頭の上で揉みあげた。
銅鑼が鳴る。
お、夕餐だ。
船が出る。スクリューが響く。汽笛が鳴る。お馴染の
附記
安別の小学の生徒たちのために、私は一つの童謡を
海は鞋鞍 、
夏の暮。
犬よ、のそりと
出て見ぬか。
鰊乾場 の
葱坊主、
鴉 つついて
啼かないか。
ここはお国の
北のはて、
赤い夕日も
もう寒い。
[#改ページ]夏の暮。
犬よ、のそりと
出て見ぬか。
葱坊主、
啼かないか。
ここはお国の
北のはて、
赤い夕日も
もう寒い。
甚深
時にまた、レールの上、十二、三
と、第一の丸太が流れてその関門にかかって来る。恐ろしい
丸太はすでにその荒皮を剥がれているのだ。何時のまに如何なる機械によって、かくもすべすべとなまなまと、木地も
じゅう······である。
その膨れて張った、すべすべとつやつやとした美女の生肌の、丸太の首根っこに、灰銀色の旋転光の截断刃が、物の気持ちよく、それも音もなく、(恐らく
じゅう······ううである。
そのまま、じいいい······と、底無しに喰い入り、
じゅう······である。すうっである。
幽深
神性の惨虐、虚無。
私は息を呑んだ。
丸太はまた、次から次から流れて来る。菜っ葉服はただ、上下槓を下げまた上へ放つ。これしも黙々と、秒をはかり、吋を見、じいいと深く、それも瞬時に圧えて、殺して、すうっと放つだけである。
だが、何とすばらしい截断であったろう、虐殺で。
静かに
私はまったく美女の胴体を、その戦慄の対照として想像した。ああ、このいい知れぬ怪異の殺人。
そればかりでない。私は流るる丸太に自分自身の肉体をすら感じていた。
じゅう······である。
何といい気持ちだろう。ああ、一思いに
廻転する截断刃は、劉喨と、また、音なき音を深める。何という霊妙な誘惑、誘惑、誘惑。
そうだ。じっと目を
あっ、私はその時、青くなって、飛びあがって、我に返って、駈け出す私を見た。
*
斧だ。
大きな部厚な斧、上の
これが、ゆっくりと、
截断された丸太が、ころりころりと、ころがって
鼻が無くてしかもかの象の鼻のアンダンテ。
斧は重くて軽い。ちょいである。
これはまた
知るがごとく知らぬがごとく、鈍重で、宏量で、斧はうなずく。虚心平気とはこの事であろう。
斧はうなずく。
「則天無私。」「則天無私。」
ちょい、すん、ぱらり。
漱石の非人情もここまで来ればおもしろい。
天とは、言葉を換えていえば、「絶対の冷酷」そのものであろうか。
*
混雑、擾乱、圧搾、粉砕、散乱、
や、木っ羽だ、木っ羽木っ羽、木っ羽微塵だ。流出だ。氾濫だ。と、私は呆然とした。
コトリコトリ、トンタンと、割られた、丸太の、
何とすばらしい短時分の粉砕、まさにこれ、
椴松の、丸太の、美女の胴体の、今のこの
型態すでになし。椴松の生体はここに
何とまた驚くべき強力の、暗室内の惨虐だろう。
思うに、前の大斧は則天無私のちょいであったが、これはまた魔神の怪異である。少くとも一千人の金剛力者は、この機械の中に暴れて居る。何という破壊力だ。
「おそろしい機械だな。」と参観の誰かがいった。
「パルプといやはるのは、へえ、この木っぱだすかいな。」と誰かが、その木っぱの二、三片をその生っ白い
ああ、そうだ。パルプ、パルプ。
高麗丸船上から、この朝、私たちが
パルプ、パルプ。
*
観光団員の一人は、鼠色のセメントの壁面に挿まれた、
「毒
「あははは、亜硫酸
そこで、また、どかどかとあがった。それでも半数は階下の開き戸から表へ飛び出してしまった。空気、空気、空気。
なにしろ、一同、生れて初めて見た截断刃、大斧、粉砕機などに仰天し戦慄し畏怖しきっているのだから、突然、しゅうしゅうと斜め下ろしに吹きまくって来た亜硫酸瓦斯の悪気流には、全くのところたじたじたじとなったにちがいない。
蒸し熱い、激しく臭う、沸々沸々沸々とした何かが、階上に充ち満ちていた。樺太とはいっても八月の炎暑である。鼠色の壁の幾つかの煤けた
ハタハタと白い扇子やハンカチーフが群蝶のように舞い出した。おおかたは鼻口を固くふさいだものだ。ところで、「やあ、こりゃあ、どえらい羊の胃袋だなあ。驚いた。」と、頓狂な、金魚
見ると、大きな大きな木釜のどれもが、にちゃにちゃと、まるで口の中で噛みつぶしたラブレタアそのままの椴松の繊維で、薄ぐろく、盛り高く、一杯に満ち溢れていた。
だが、片々に粉砕されたとはいえ、あのパルプの薄紅い光沢の木っ羽が、木の肉片がこのもこもことした、
沸々沸々と、瓦斯の立つ
階下はおそらく焦熱地獄の機関室であろうか。
沸々、沸々、沸々々々·········沸。
*
空気は沈静し、天井は高く、光はほの青い何かの陰影と織り交って、ひえびえと、そうして明るく、幾つかの室内は次から次へ見通しに広い。そうしてまた場外の外光が遠くの遠くに小さく、正方形に白く
その取っつきの本堂といったところに、高さ百吋以上の巨大な鉄製の機械が二列に、間を広くあけて並んでいた。如何にも均斉を保った配置であった。それらの凡てがまた極めて摩訶不思議な生命力の威厳を顕現しているのである。
静中の動、動中の静、兼ね備えたこれらの
何とまた其処らに動いている菜っ葉服の人間の、そうして参観人の私たちの小さなことだ。私たちは唖然として見上げてゆく。セメントの床を踏む靴音までも畏れて謹んでそうして
あの固形体のパルプが、ねとねとの
あの
何とまた、あの幅の広い広い、そうして薄手の薄手の白紙が、ローラーからローラーへ、一
ほんのたまさか、それも奉仕(そうだ、監視ではない、奉仕そのものだ。)している人間の過失で、何か触れた手の
積まれ積まれる白紙は、所定の、高さに
若い女たちも、実に機敏で手馴れたものである。卓の数列に向って並んで、手頃に重ねた幅広い白紙の層を、ちょいと片端へ右の手の指を触れると、ハラハラハラハラとめくる。その速さには驚く。また、破損紙を識る直覚的の眼と指の確実さと速さにも驚く。だが、
ここにまた、碧い包装紙を拡げ、検査された完全紙の層を、としりとしとしと載せ、重ねて、揃えて、整えて、またパタパタと四方から包み、サッサッと
ところでまた、見ている間に破損紙が天井に届くばかりに積まれ高まってゆくのにも、私は目を
さて、私は一人の
そこで、原料
戦場のような騒ぎはまた荷造りにある。しかし此処にも誰として一の私語すら発する余裕を与えられた高麗鼠はいない。事実空気は沈静している。ただ機械力の冷酷と暴虐とはこの工場の空間のあらゆる隅々までにも及んでいるのだ。あの無量生産から寸時の
圧搾機がある。既に包装され、レッテルを貼られた紙の数連が送られて載る、パタパタパタ、トントンと四方に板を当てる、
また紙包みが来る。
また来る。
また来る。
また来る。
また来る。
また来る。
また来る。
また来る。
また来る。
丸太の截断から、この荷造りまで、果して何分間を要したであろう。恐らく、私たちの見た時間は二十分と経っていない。
畏怖と驚駭と感嘆と、絶大の圧迫感と、憎悪と崇拝と、私たちはあまりに
夏、夏、夏、夏、
「ああ、青空だ。」
私はほっとした。
雲が見えた。山の緑が、そうして
いや、それよりも、私たちの立っている
あ、白い門が見える。門の
「あ、もし、もし、便所はどちらですかな。」誰かの声がした。
一斉に、また、観光団員の群集が、一、二丁も向うにあるW・Cへ向って、いっさんに駈け出して行った。
[#改ページ]
十四日の午前、その美しい波の上に来た。
前の夜、国境安別の海岸と別れた私たちの高麗丸は、元来た南へ南へと下航して、
浪はやはり激しく起伏していた。それでも野田よりはいくらか時も経って気勢が衰えていた。これなら
桟橋へ上って見て私の第一に喜んだのは、その前の広場に
「こりゃいい、ひとつ後で乗って見たいね。」と私はいった。
「よかろう。」と庄亮も御機嫌だった。メリヤスのズボン下の
「写生しておいてくれよ。」というから、
「よろし。」と私も早速黄色い小型のノートを開いた。
空はよく晴れていた。そうして真岡の街は歓迎門が建ち、黄や赤や緑や紫の万国旗で
真っ直に一、二丁行って左折すると広い坂になって、白い白い銀の葉裏を

「独逸
その前に普請中のなにがし新聞社があった。やっぱり内地ではない何かが感じられた。その隣りが役場で、階上が商業会議所であった。
その階上で歓迎の茶菓を饗せられて、『樺太要覧』という小本と絵葉書とを一同が貰って、また少し
昨日、殿下の御休憩所に当てられた一室をその戸口から拝観すると、広い、
それから少し歩るいて、いよいよ例の馬車に乗った。一台にはA博士夫妻が乗って、真岡工場の方へ駈け去り、他の一台に庄亮とA博士の令息と私とが三人、早速の市街見物である。りんりんりんりん、りんりんりんりん、いくら行ってもさした
工場の参観は改めてここに書かない。此所で「樺太のパルプ
真岡は原名エンルモコマブ、樺太西海岸での第一の殷賑な小都会で、鰊漁で有名だというが、パルプ工場以外、夏にはさして興味を惹く街でもなさそうに見えた。
「つまらないじゃないか。停車場へ行って待っていよう。」
「や、何か
「
「しょうがねえでさあ。あんな
「とにかく、お
「や、しめた、蕎麦屋がある。物は試しだ。はいって見ようじゃないか。」
それは汚ない縄
だが、蕎麦は不思議にうまかった。蠅がいること、蠅がいること。
(真岡をここまで書いたが、書いていて自ら興味のないことおびただしい。前のパルプ工場で緊張したので一寸気抜けのした体 である。こうした記録的紀行は書きたくないのだが、いったい真岡という街が雅味のない街だったのだ。此処の駅を出てしまったら、何とか筆はかわるだろう。ここまではまず、息休めのブランクペエジとでも見てほしい。観光団のおつきあいで。)
汽車は
玩具のような、小さな、薄汚ない、ゴトゴトゴトゴトピイの二三輛の聯結列車である。それが私たち観光団第一班のためにわざわざ臨時に仕立てたというのである。これがまた、真岡、アイヌ語のモウカ「美しい波の上」という美しい語義を持った樺太西海岸での第一の市街から、南へ南へ、終点本斗を指して出た、や、それは今出たばかりの煙の、むくり、むくり、むくり、ぽっ、ぽっぽっである。
汽車は駛る。
さして高くない一連の
「や、これはひどいな、まるでザラザラの石ころまじりの、赤土ばかりじゃないか。この斜面は。」
「それでも上の方に
「や、
「どうも土地が

「や、
「まだほのあかき唐黍の花、か。」
「もう歌かい。」
汽車は駛る。
私は見ている。
「や、すかんぽだ、すっかり枯れてる。どうもおかしいな。だが、いい色だな。カステラのふちそっくりの渋さだな、あの穂は。
や、また、すかんぽだな。
虎杖とすかんぽばかりだな。
や、
虎杖から顔を出した。」
汽車は駛る。
「Kさん、二班と三班はどうなりましたね。」と誰やらが声をかけると、
「ええ、二班は真岡泊りで、三班は野田へ引っ還すはずになって居ります。」Kさんは東京鉄道局の旅客掛である。
「今朝はどうも野田はひどうございましたな。どうもあの波ではとても上れそうではございませんで。」と老団長。
「そうでした。上れればよかったんですが、
「野田はおもしろそうですか。」と私。
「いえ、別に。」
「それは気の毒しましたね。
「じゃあ、真岡組が一番当ったというんですかい。」タゴール老だ。
「いや、これで、ここだけの話ですが、一班の方が、実は大当りで。あした、少し引き還して、アイヌの部落を見に行くことになって居りますので。」Kさんが伏目で、気の弱そうな笑顔をする。
「あ、アイヌ部落。それは何処です。」これは小樽からの新来の客の一人で、ラジオ狂で、いつかの晩ももう碌にJ・O・A・Kが聞えないと悲観していたF君。テニス界の清水氏の夫人の兄さんだ。
「ええ、この沿線です。
「樺太アイヌですな。」と京大のA博士。
「さようで。」
「その部落ばかりですか、アイヌのいるのは。」
「や、まだ、東海岸に五箇所西海岸には三、四箇所ぐらいはありますですが、ええ、此処らでは多蘭泊ぐらいですな。野田の一つ隣りに
「へへん、何やろかいな。アイヌにも
「あっはっはっはっ。」「ははははは。」「ひっ。」
ここで、
「Nさん、
「やああ、こりゃ、あっはっはっはっ。」と庄亮、両手を頭の横でうち振りうち振り、豪傑笑いだ。
汽車は駛る。
西日が強いので、左側はすっかり
一つ落とす。暑い光がかっと差し込む。
見える、見える、
「や、高麗丸が行ってる。」
その
「なるほど、今行くんだな。」
「ちょうど、同時になるでしょうね。それとも
「そりゃ遅れるでしょうね。向うが。」
「だが、心丈夫ですな。」
そうだそうだと、誰もがこの時は同感したであろう。永い間自分たちの家にして来た
あ、光ってる、光ってる。あれは舵機室の硝子だ。
あ、あの
あ、黄だ、白だ、紫だ、赤だ。
あ、通風筒、あ、あの
あ、あれが自分たちの
あ、誰か
おおい、おおいと、汽車の窓に乗り出して、一人が麦藁帽を振ると、
おおい、おおいと、また一人が麦藁帽を振ると、
おおい、おおいと、また一人が白扇を振ると、
おおい、おおいと、またまた一人がハンカチーフを振ると、
おおい、おおいと、あ、向うで何か振った、振った、振った。
光る、光る、光る、光る。一面の波の光だ。
汽車は駛る。
カーブだ。や、砂浜だな。
木柵、木柵、木柵、
海老茶だ、あ、すかんぽだ、あ、お
あ、
あ、裸の子供だ。
「わあい。」
「わあい。」
「わあい。」
「ばんざあい。」
「べんじゃあい。」
「じゃあい。」
と、
「北原さん、無線電信は来てましたかい。」
当った、と思った。
私の上衣のポケットの中には、つい、先程旅客課のKさんから受取ったばかりの、今年四歳になる坊やからの無電のそれがはいっていたのであった。
カゼサンヤンドクレパパノオフネ
アブナイヨ
アブナイヨ
汽車が停った。
やや、開けた山裾、家があちこち、みんな日の丸の旗を掲げた、つい前もお祭り気分の運送屋、
毛糸があります
と、貼り紙した店の横の雨戸袋。ぞろぞろと汽車から下りる、またプラットフォムを駈けて来る。茄子とトマトの籠、赤ん坊の目、目、頭、帯、々、足。違う違う、顔色が違う。眉の毛の深い女、娘、
「アイヌだ。」
「アイヌだ。」
「や、なるほど。」
「へえ、なある、これはよろしいね、なかなか別嬪やないか。毛深うおまんな、へへん。」
「Nさん、本斗がありますよ。」
「そやかて、待ちなはれ。へへん。」
と、
「皆さん、此処が
ピーと、玩具人形の駅長さんの
片手を一の字。
汽車が駛る。
あ、
あ、また。
どうだ、あの色の新鮮なことは、不思議だな。小田原あたりよりもずっと色が純粋で明るいな。
あ、また葵だ。高い高い高い。
「や、アイヌの家だ。」
「出ている、出ている。」
「どれ。」
「ほうら。」
「やあ。」
「あ。」
汽車が駛る。駛る、駛る。
アイヌ、まことにアイヌの村にちがいない。彼らはまったくアイヌだと、私は観た。
アイヌは、アエオイナ神、別名アイヌ・ラク・グル(アイヌの臭いある人)に依って創造された祖先の後裔だと自身に彼らを思っている。アイヌは


アイヌは
何とあの彼ら及び彼女らの髪の濃く眉の濃く髯の濃いことであろう。
紅葵は鮮紅で、
向日葵の大輪の
家は低い草葺である。でなければ鮮人の
だが、アイヌである。人種は確かにアイヌである。だが彼らの服装は浴衣がけである。シャツにズボンである。浅ましいのはまた乞食同様の風俗もしている。
が、紅葵の傍、向日葵の
おお、みんなが今空を見上げている。
おお、またいわゆるアイヌ模様の
何と、かの爺どもの胡麻塩の
あ、トルストイがいる。トルストイがいる。
おや、あの爺どもも空を仰いだ。
と、
「鷲だッ」と、誰かが窓から見あげた。
はっと仰ぐと、アイヌ部落の、そのややうち開けた谿谷の上、海に迫った丘陵の椴松の黒い疎林の、その真っ蒼な空に一点、颯爽と
あ、たしかに鷲だ。
鷲は飛ぶ。
向うところは韃靼の黒い遥かな大うねりの波濤の彼方である。
鷹ひとつ見つけてうれし伊良古崎 芭蕉
これだなと私は思った。
あ、アイヌが
青い青い空ではある。
汽車は駛る。
汽車は鉄橋にかかり、
「皆さん、鰊漁のお話をいたすそうです。」札幌鉄道局のS君が戸口で、立って帽子を
まだ若い車掌が、切符改めの通りすがりを、赤い顔して、引き留められて、克明にハッと頭をさげた。
「こりゃいい。頼みますぜ。」
と、誰かが手を
旅へ出ると老人組までが、いや却って茶目にもなる。
ピーと、またタゴール爺さんが口笛を吹いた。
「へえ、へえ。」と、車掌は目を伏せて、「ちょっとちょっと。」と
汽車は駛る。
鷲を見つけてから、私の心は
私は海を、遠い荒波を、通り過ぎる目の前の浜の小石を眺めている。
汽車は今、ひたひたと湛えた
韃靼海の八月のやや赤みかけた円い太陽が、まだ水平線から、うち見に四、五尺の空に輝き輝きしている。だがその下の遥かの遥かの寒い霞の曇りはどうだ。向うの何処かに沿海州。
荒れてる、荒れてる。外は
あ、鳥がいる。
飛び飛びの岩のひとつひとつに、どれもが同じ北の一方を向いて、
外の波濤は穂がしら白く、内のとろみは乳黄で、またやや光った銅色で、閑かなようでもどうにもならない
澱みは凡てが昆布である。
子供がひとり、つッと
昆布が海を腐らしている。飛び飛びの岩の弧の線まで。
あ、たんぽぽだ。
汽車が停まった。
「
老紳士は山高を脱った。そうして、謹直な
本斗の町長であった。
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「おおい。まだかあい。」
と、こちらの二階の
「おおい。もうじきだよう。」
広い通りを隔てた向うの
八月十四日の、樺太は
そうして、沖には高麗丸の
チャラン、チャラン、チャラン。
何やら金属性の透った音もきこえて来る。
「お腹が空いたぞお、いい加減にしないかア。」
と、また、乗り出す。
「じきだよオ。待ちたまえ。」
「頭は済んだかあい。」
「済んだよ。これからお
「
「洒落れはしねえ。」
と、剃刀がピカリと上へ反れた。危険危険、後ろ斜めに
ピーと、按摩の笛。
おもしろいおもしろい、按摩も白の背広で、
背広といえば小樽で見た按摩も、これは霜ふりではあったがやはり背広でカラをはめ、薄汚れてねじれてはいたが、何か黒に赤みがかったネクタイを結んでいた。キト旅館でひとりで机に向っていた時のことである。縁側からにじり込んで、
「ア······ン······マでごさいます。」
眼をぱしぱしで仰向いた。
流石に北海樺太はちがっている。
白、コツコツコツ、白、白、コツコツ、ピー。
「エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノ、エンヤラヤノヤアヤ。」
跳ね跳ねして、ちいさな二人の女の子と男の子とが、ややほの白い広い通りのまんなかを歌って来る。これも白っぽいなと見ていると、またその後からのはのっぽで白で、
「エンヤラヤアノヤアヤ。」である。
ひらひらと、海の空では
あ、波の音らしい。急にざわついて、またひっそりとなった。
「まだかあい。おい。」
妙に心がひもじくなる。で、煙草に、マッチをシュッと擦る。
と、隣りの
またその隣りの室でも咳をした。
欄干に出た。
白の支那服の、
こうして、アーク燈のような薄い紫の空気の、遠くは重い匂いの紫となる。
海暮れて鴨の声ほのかに白し 芭蕉
*
白い障子を閉めきって、何だか薄ら寒いなとなった。夏は夏でも夜分は急に冷えるのがここらの気候だと思われる。
そこでお盆の上の
お、
ところで豪傑笑いの友人はまだ帰って見えない。
「あはは、どうです。今夜はひとつ探険にでも出かけますか。」
隣りから声をかけた。小樽からのちかづきの、あの俊敏な紳士の、
「だが随分長い旅行だぜ、誰だって一度ぐらいは気まずい思いをするものだよ。」とまた笑ったら、「あっはっはっ、僕なら大丈夫。」と頭を振り立てて豪傑笑いをした。その庄亮はまた、いつもになく、チョボチョボの不精髭など剃っている。
「出かけるかな。だが、飲めないでしょう。お酒は。」
「麦酒なら少々はいけますよ。」
「でも、ここの麦酒じゃね。」とHさんが
書き忘れたが、
「エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノヤアヤ。」とまた表を通ってゆく。
「エンヤラヤアノヤって、ありゃいったい何の唄です。」とF君。
「ソオレ漕げ、ヤアレ漕げというのです。たしか中国辺の船唄だったと思います。
「なるほど。でも、何だかちがってやしませんか。あのエンヤラヤラヤアノヤアヤは。」
「そう、少々妙ですね。」
「や、はるかに見ゆるは本斗の港とやっていますよ。」
「ほう、それじゃ
「本場じゃないんですね。追分はどうです。」
「
「信濃の追分というと。」
「あれこそ追分の本元でしょう。
「すると、こちらの追分とはどうちがいます。」
「こちらのは船頭唄の追分です。節廻しが
「おもしろい。はは、それで、どっちも追分ですか。文句もおなじな。」
「いや、やはり信濃のが本場の追分ですね。西は追分だとか、今の小諸出て見りゃだとか、
小諸出て見りゃ浅間 の嶽にけさも三筋のけむり立つ
さまが来ぬ夜は雲場 の草で刈る人もなしひとり寝る
浅間山から鬼や尻 出して鎌でかっ切るような屁を垂れた
さまが来ぬ夜は
浅間山から鬼や
あはは。まったく浅間山の麓から生れた唄ですな。あの信州の追分は今では
送りましょかよ送られましょか、せめて峠の茶屋までも
というようなものになっています。この信濃追分が北越の航路から蝦夷地へ流れ流れてゆくうちに、いつとなく波の響きや艪拍子の中で洗われ
忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷 まで
帯は十勝 にそのまま根室 、落つる涙の幌泉
帯は
これがこちらでの最も古い追分でしょう。この頃では前唄とか本唄とか組にしているようですが、そうそう、前唄の方はいわゆる松前前歌で、調子が軽い。」
「忍路高島には義経伝説がどうとかいいますが。」とHさん。
「
「替唄というものも沢山ありますかしら。」F君がまたこちらを眼鏡越しに透かした。
「それは年代が経つうちに、その歌曲に合せた新作も出来るでしょうし、諸国の
男伊達 なら千ヶ崎沖の潮の早いのを留めて見よ
という大島のがっしゃがしゃが節が、小笠原の父島では八丈のしょめ節で
男伊達ならワントネの岬 の潮のながれを留めて見な
という風に転化されて、それが小笠原特有の歌のように思われたりします。それにおかしかったのは、つい昨年でしたが、中央公論か何かで或る人の島々の民謡の事を書かれた中に、私の八丈風の新作の民謡が、昔からの八丈の古謡として入れられてあったことです。向うで歌っていたので、生粋のしょめ節の唄と思いちがえたでしょうが、こうした例はいくらもあるでしょう。で、多少とも年代的に知って置かないと飛んだ恥をかくことになります。民謡の精髄というものはやはりその土地で生れたところに生命があるのですからね。樺太本斗のエンヤラヤアノヤアは、こりゃ
と、「やああ」と、やや顔を赤めて大にこにこで、庄亮が飛び込んで来た。つるりと片手で刈りたての頭を撫でて、着ふくれた
それを見ると急にまたひもじくもなって来る。
「どうしたんだい。もう夕飯だよ。」
「あっはっはっ。失敬。」と、眼を細めて、首を振り振り、坐ると、また、「やああ。」と肩をゆすった。
「お洒落だなあ。いつまで
「なにそのお、海岸へ行っていたんだよ。
「見て来たかい。」
「うむむ。釣れるそうだ。舟でひとつ出かけるか。」
「どんな魚です。」とF君。
「いやあ、しまった。訊くのを忘れた。なんでも魚だよ。」
「のんきだなあ。」と、今度はこちらで笑い出した。
「樺太横断はどうする。きまったら真岡の自動車屋へ電話を掛けることになっているんじゃないか。」
「どうもそのお、この
「少々弱ったね。」
「今夜は按摩でも呼んでひとつ。」
「按摩はさっき通ったよ。白の背広で。だがよく按摩の好きな人だな。僕なぞは
「はっはっはっ。君はとても駄目だよ。」
「それにしても飯の遅いには困るな。ベルをひとつ押してくれ。」
「よおし。」と後ろの床柱の方を向く。
「はははは、ベルはさっきからのべつに押してますよ。」そこはF君抜け目がない。
「だが随分悠長ですな、ここの家は。北海道から
「凍っちゃったんでしょうよ。」
「ですがね。すこし変ってますよ。じゃないですか。」
「まったく、これあ、虐待ですよ。」
「それにしても、まるでバラックですね。
ここでいって置くが、このSS旅館なるもの、何か下等な材木の木の
「手を
「や、待っていようよ。神妙にしよう。恐れ入った。」
と、ポンポンポンポンポン。さては和製タゴール老か、警部さんか。これはきびしいせっかちだ。
「エンヤラヤノ、エンヤラヤノ、エンヤラヤアノヤアヤ。」
外は祭りの電光飾。
*
「へへん、来やがれ、畜生、何が何だって、今頃になって、
痩形の、小柄の、巾着切りか刑事見たいな、眼が迫って険しい、青いしゃっ
のっけから、あまりもののお客とやられて、思わずギョッとしたのは、庄亮、H、F、白秋だ。
悲観した。
「ふっ、あまりものとはひどいじゃないか。」とF君。
「へっ、これは御勘弁を。それでも何で、やっぱりBB旅館のあぶれ······。」
「あっはっはっ。あぶれは驚いた。こいつはおもしれえ。」と庄亮。
「あぶれのお客をおっつけやがって。||と。」
「おいおい、いい加減にしないか。」とF君。
「あぶれだよ、あぶれだよ。」と白秋。
「おもしれえ、おもしれえ。」
「あぶれじゃないよ。こっちの勝手で、別れて来たまでさ。BB旅館があまり混んでいるようでね。まだ団長へも私たちがここに来ていることを知らしてないくらいだからね。あまりものを向うで意地わるく押しつけたという訳でもないさ。」これは重厚だ。
「失敬きわまる。出ようじゃありませんか。」これは俊敏だ。
実際私たちは、怪しいお客の
何でも鉄道局との打ち合せも済んでいたものと思われたし、東京の旅客課のK君も附いていることなり、や、お疲れさま、どうぞとあったので、そこで一同が安心して鞄を投げ出し、埃っぽい編上げの紐も解いたのである。だが少々渋ったのは桃色のスカートの、鼠色の
「へへ、どうも相済みませんで、お客様には何とも申し訳ございませんが、じたい、こうしたいきさつでがして、へい。」と、スッスッと乗り出した。この
青い青い青い青い、青臭い。
「いや、なんでございますな。
公徳がおかしいのか、ふふっと誰かが笑った。
「てめえどもは、御覧のとおり、
「梯子段はえれえよ。」
「へっへ、御常談でしょう。」とちょっとたじたじとなったが、それでもすぐに立て直して、ギョロリ
「何がBB、何が町長でございますだ。
「ほほう、相互扶助。」
「へえへえ、そうした理窟じゃありますまいか。よしんばプロでもブルでも水平社でもでさあ。」
「おもしれえ、おもしれえ。」と、庄亮。
「恩を着せるにゃあたらねえ。畜生、生意気ぬかすな、と、ここまでこう
「そうかい。ふうむ、流石だ。」F君も茶目だ。
「ところで、畜生、今朝になって、話がちがった、三十人しか来ない。こちらだけで引受ける。はいさようなら。よくもぬかした。
「そうそう。」とHさんもうまく遣る。
「それに町長も町長でがさあ。そうなれば知らぬ顔の半兵衛さんだ。山高でフロックコートで、お
「温厚ないい町長さんじゃないか。風采の立派な、ちょっと珍らしいよ。」と、これは私だ。
「そりゃあ押し出しは立派でがしょう。知れたもんじゃありゃせん。お客さんが這入られた。今度は頼むだ。ちぇっ、莫迦にしていやがる。」
「まあ怒るなよ。七、八人でも僕らが来たからいいじゃないかい。」
「いけません。」
「
「そりゃ差し上げます。でがすがな。三百人の二分の一で、百五十人だ。よしきた、やっつけで、暗いうちからコツコツコツコツコツ、なにしろ、切り込みでも容易なこっちゃねえんで、やっと用意が出来て、さあいつでも来やがれとなったところで、たった八人、それもあまりものの。」
「おいおい、よしてくれ、またまた、あまりものかい。」
「へへえ、それでも癪に障りやがるんで。や、こいつあ失礼を、はっはっ。」
「笑いごっちゃないじゃないか。もう支度は出来ているんだろう。」で、じりじりとなったのはF君である。
「いや、昨日の御行啓の後でして、なにしろ、樺太庁のお役人は来る、新聞記者は騒ぐ、それに軍人、商人、何々団員で、すっかり満員の大盛況で、実は家内中へとへとになったところで、今朝の切り込みで、それで見事にスカ喰ったんですからな。一同張り合い抜けの
「悲観、悲観。」
「おやおや。」
「おもしれえ、おもしれえ。」
あはははと、みんなで笑いくずれたが、
「ともかく、食べさせるのか、いったい。」
「へええ、差し上げますには差し上げますですがな。もう
「それでも百五十人分。」
「いや、あれは胸くそがわるいので、根こそぎ
外のお客さま方が呆れる。我々の外には一室か二室しか塞がっていないのにと思うと噴き出したくもなったが。
「そこで、こっちはどうなるんだい。」とまたF君。
「ええ、とんとまだ何ですがな。支度を致させますならこれからでがす。」
「ふふむ。」
「や、どうも、へへ、それでは宿帳の方をなにぶん。」
くるりと身を
*
「驚いたな、これは。」
「おやおや、鑵詰の筍かい。」
隣りは隣りで、
「やああ。酸っぱい椎茸だな。これは固い。や、なんだ、大和煮か。」
「はは、
「どうです、食べられますか。ひどい
「プーアですな。プーアだな。」
「おもしれえ、おもしれえ。」
「吉植、おもしれえおもしれえで両手を振ってばかりいたって七面鳥の卵が湧いて来るはずはないぞ。ベルをひとつ押してくれ。」
「あっはっはっ、美食家の君にはたまるまい。俺はこのトマトで結構。」
「トマトだって
「そのビフテーキが小樽式。いや、もっとコチコチだろうよ。」
「弱ったな。F君。これはやっていますか。」と、そこで左手を一寸と口の
「サイダーにしましたよ。麦酒はまたサクラでしょうからな。」
「こっちはいってあるかい、酒は。」と庄亮の方へ。
「いいつけといたはずだがね。あっはっは、とんと
「
「そうかい、鼬かい。あっはっは。」
「弱る。俺はもうむぐっちょで、高麗丸へ帰りたくなった。」
「印旛沼なら、この頃は鯉のあらいに
「俺のところだって、この頃は鮎のフライがある。それに
「茄子、
「だが、あの大蒜には閉口した。」
「あっはっはっ。あの時の君の
「ほう。そうかい。」
「ところで、ここの料理だがね。鑵詰物なぞにしなくても、なんでこの土地の新鮮な魚や野菜を附けないのかな。」
「内地の物だと何でもいいことにしてるんじゃないかね。これでも優遇のつもりかも知れん。」
「優遇じゃありませんよ。」と向うから声がする。
「
「うむ、ありがてえ。」
と、そこで口を盃へ、顔を見合せると、二人とも、や、や、や、
「駄目だな、どうも。」
「こりゃいけねえ。」
と、その時、旅客課のK君が「やあ。」と這入って来た。何かおどおどして、気弱そうな微笑を眼の
「どうも手違いばかりいたしまして、今日はすっかり失敗です。こちらは
「面白いですよ。なかなか。」
「あっはっ、素敵素敵。」
「虐待極れりです。」
「いや、いいでしょう。まあ。」
立ち
「いや、あちらでは団長が怒り出しましてね。」
「やっぱり鮨詰めですか。」
「ええ、何分
「鉄道省の方ではあらかじめ何か打ち合せしてあったんでしょう。」
「ええ、手筈はよくついていた訳なんですが。」
「まあ、いいでしょう。」
「と、こちらの方がまだ優待ですぜ。」
「じゃあ。どうぞあしからず。」と頭を下げて、K君は出て行った。
麦酒の方がまだましだろうとなって、それから、
「玉子焼きにでもするか。」
「玉子焼きとは窮したね。」
出来るかと、女中に訊くと、出来ますという。そこで
待てども待てども玉子焼きは出て来ない。
「按摩でも呼ぶかな。おい姐さん。」
「玉子焼きはまだかい。おい姐さん。」
かれこれ一時間も経ったか。やっと、両手でウントコサと擁え込んだのを見ると驚くべし、直径一尺五寸余もあろうと思われる雅味のない大皿に盛りも盛ったり、恐らく十人前は焼いたであろうところの部厚な
「おい。二十四匹の
「おもしれえ、おもしれえ。」
(ここで書き添えて置くが、この玉子焼きは翌日の
外はあかるい電光飾。
*
エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノヤアヤ。············
「あ、やってるな。」
山の手寄りの駅の空では赤や緑の
たまさかに、障子が橙色の
だが、こうした見知らぬこの北方の夏の夜の雰囲気の何処かで、内地で聴くようなあの三絃の
大きな貸座敷風の構えも一戸二戸はあった。大概はまた待合風の怪しい景情であった。
「よう。
N老人が突然立ち留って、上を仰ぐと哄笑した。
土蔵風の階上の窓は開かれて、その窓の
「押しかけますぜ。ないしょごとはすぐ
「や、これは、上りたまえ。」
今は仕方なしという風、それで、どかどかと這入って、何処だ何処だと、梯子段から上って、やあやあやあである。
「これは驚きましたね。かねての謹厳組たる皆さんが。やあ、Kさん、貴方もですか。」
そこにはわが親友Mの
神戸の
我々一同着座。ほどよい陣形に割り込むと、さて、盃の雨がふる。
「へへん、何やな、おまはん狐やろかい。見なはれ。これでも芸妓はんいうてますさかい、阿呆らしやな。」
「ちぇ、どうせ、狐ですよう。」と、三味線をペコペコやっていたのが、口をヒョイと尖らした。眼の
「Kさんききなはれ、これが化け猫や。樺太いうところは凄いもんやな。エンヤラヤアノヤアヤや。」
「エンヤラヤアノヤアヤはおもしろいね。歌って御覧。」
「はるかに見ゆるは本斗の
「やはり、何だな、本斗の港だな。」
「行啓記念の唄やいいよる。へんな唄やな。」
「ははあ、そうか、ほう。」
これでわかった。
Nさんはいよいよ出て卑猥になる。
「ストトンストトンと通わせてえ。これが流行のストトン節や。」
「知ってますようだ。」
「今さら嫌とはどうよくなや。」
「嫌なら嫌だと最初から。でしょう。」
「いえばストトンと通わせぬ。」
「ストトン、ストトン。」
「籠の鳥はどうやな、籠の鳥。」
「知ってますよお。逢いたさ見たさに怖さもわすれえ·········。」
「さあ立とう、立とう、皆さん。」
「まあ、まあ、よろしいやおまへんか。ええやええや。」
それでも、流石に勘定高い。切り上げることは知っている。すぐに一緒に立ちかけた。そしてひょろひょろと狐の面にしなだれかかった。
「あら||だ。いやあ。助けてええ·········。」
と、「なに泣いてはるのや。さあ、来なはれ。」
「出るに出られぬ·········籠の鳥。·········」
海には高麗丸。
*
星。
星。
星。
星。
空馬車、
空馬車。
ぽつり、ぽつり、ぽつりと、奉迎門の明るい電光飾に、三人の
空は暗い。
波の音がする。
高麗丸の灯も
あ、ひらひらと何やら白いものが飛んでいる。
私は両耳に両手をあてる。
ほういほういと声がする。
と、巨大な奉迎門の黒い影、影、影、
正門と両側の小門。
あまりにシンメトリカルなその投影。
私たちは明るい反射光の中を通り抜ける。
緑の杉の葉のアーチには、
昆布がある。
暗い、青い、赤い。
私は脚柱の一つに耳を当てる。
韃靼海の深い、遠い、
あ、きこえる、きこえる。
「や、君は
左手の脚柱の暗い投影の中に、濃い鼠の
テントの中のカンテラの灯、血のような豆の灯。
「
「何を。」
「あの鰊や蟹を。」
おお、そうして、昆布を、貝類を、鮭を、荒布を、
エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノ、エンヤラヤアノヤアヤ··················
暗い暗い海、
星。
星。
星。
白いひらひら。
ほういほういと声がする。
[#改ページ]
ひどい自動車である。幌は破れ、車体は
西海岸の真岡から、樺太庁の所在地たる豊原まで、二十余里の山野を、
「さあ吾々の団長を選挙しようじゃないか。」となる。N老人が最年長者だ、
真岡駅へ着いたのが九時。その駅前のなにがし洋食店の階下から見た外光はすでに白く輝いていた。自動車の来るのを待つ間に私たちは幽かに
と、自動車の爆音がした。それが、このひどいぼろぼろの幌の、タイヤであった。高等の大型だというのがこれである。それにやっと六人が膝と膝とを突き合せると、運転手がすぐに一人十五円ずつの切符を切りはじめた。一台六十円の貸切りという約束とは違っている。それにまた山高帽に青風呂敷の
「俺は、何だそのぉ、日本新聞聯盟の外報部長をしている。」
「へへ。」
「鉄道省の鉄道会員としても視察に来たものだがね。第一貸切りであるか、そのぉ、乗合いであるか。が問題だろうじゃねえか。貸切りならば約束外の切符制は間違っている。が、そのぉ、乗合いとするとぉ、すでにその規定人員を超過して、しかもなおかつ暴利をぉ·········。」
プ············ッ、ピッピッピッピッピッ、急に帽子の後頭をすくめた運転手は、やたらに逃げ腰の、ハンドルにばかりしがみついた。わぁわぁわぁわぁっという私たちの歓声に追っかけられて。
だが、危険危険、このぼろ自動車の揺れ方といったら。
*
光、光、緑、緑、
キャベツ、キャベツ、キャベツ、キャベツ、キャベツ。
おや、パルプだ、小舎だ、あ、
崖だ、椴松だ、熊笹だ。あ、
と、パンクだ。
「やったな。」と揃って飛び下りる。
と、また私たちは、高原の、一路坦々たる、
虎杖のやや赤ちゃけた虫くい葉の日盛りである。
自動車は投げ出されたように傾いている。黒と灰色との巨大な昆虫だ。暑い土埃がふっかけて遠く白く奔ってゆく。運転手はまた同じような擦り減らしのタイヤと取り替える。しきりと尻から
しんしんと虫の
さらさらと何かの葉ずれがする。
強い強い草いきれである。青、青、青。
そこで六人が、A、A、A、A、A、Aの形に帽子を脱いで駆け出して見る。
「あ、紫だ、や。」
「ブシの花だよ。」
アイヌのブシ矢の塗料の有毒植物のブシの花の新鮮さ。
私はすなわち
ひゅう、ひょう。·········
あ、ほととぎすが
*
第二のパンクした時、私たちは青い青い樺太
おそらく一丈にも近いだろうと思われる樺太蕗のすばらしい高さ、その紅い線の通った六角形の
なんと爽快な嵐、
なんとまた大きな
JOAK、こちらは東京放送局であります。
あっ、そうだ、今はちょうど童謡の時間だ。
そこで、サンドウィッチだ。
私は道端の巨大な蕗の根に両足を投げ出した。清浄な、また沁み出るような葉緑素の濃い香気がした。いや、氾濫だ、大洪水。
庄亮は向うの蕗林を掻き分け掻き分け見えなくなった。野天の排泄、と思うと深い呼吸がこちらからも放たれてゆく。
開放された、全く。原始の自由のこの簡朴。
ただ、黙々と光る麦稈帽。
私はしみじみとまた、私のホワイトシャツの、自分の汗のにおいを嗅いだ。流るるようなこの汗。
なんとすいすいしたサラダと
「どうですい。」と、
驚くべき葉脈の太い線。その亀の子形。
緑色の太陽。
ポキリと音がした。
あっ、折ったのだな。
おお、歩いて来る、動いて来る、輝いて来る、
私はマッチを擦った。一本。なんと生きた赤い火だ。
カメラだ。そこだ。パチッだ。
*
第三のパンクした時、私たちは
木の橋があった。
水は澄み、何か走る魚鱗の光が見えた。
「
「いや、

向こうに山があった。椴松の林があった。熊笹の柔かそうな微風の深い斜面の裾にはまた、
「何の花だろう。」と私は訊いた。
「
来る道でもよく目についた花だったなと、私は
黄色い、安別で
その銀、銀、銀。
水面のまた閑かな投影、
白い雲、やや
私はまた立ちながら、ポケットから赤い一箇のトマトを取り出して、しゃぷしゃぷかじった。
おお、
「ええ、おい、桃太郎の桃でも流れて来そうなところだな。」
*
道は椴松の原野から椴松の山林に入り、
そうして山々はますます深く、自動車は迂廻し、迂廻し、山腹をのぼってゆく。
椴松の梢は寒く、林は黒く、そうしてその間からちらと青い空を覗かせてはまた濃く黒く密叢した林となる。
「ここは何という峠だね。」
「熊笹峠です。」と運転手が答えた。
なるほど、熊笹の大なだれの波のうねりは驚くべく光滑に、また底に暗んで、しかもいかにも寝よげな絨氈の青みを重ねた。それが近づけば近づくほどの深みを撓めて見えた。
光が天の一方から流れる、流れる、流れる。
ああ、古蒼なさるおがせが椴松の高い枝にかかっている。
からまつの林に入りて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり、
旅ゆくはさびしかりけり。
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり、
旅ゆくはさびしかりけり。
この落葉松の私の詩を、私はまた思い出した。
ああ、その落葉松の林にもはいった。
*
おそらく、私たちを乗せた巨大な
霧は霧を追って
と、遥かに、思わぬところに海の一面が見えた。
あ、黒い黒い
真夏の
まさしく、自動車は逆行しつつある。と思う刹那にまた山頂の一角を
真岡から此処までのうち、私たちは、ほんの二、三戸の一部落を見たのみであった。
と、
「君とォわかァれて、コラサ。」である。
「松原ゆゥけェばァ、コラサ。」
や、赤、赤、赤、黄、黄、黄、白、白、白。
安来ぶしだ、
三味線だ。
飾り屋台だ。
や、や、や、
一、二、三、四、五人。
コラサッと
しかも、くわっと明った真っ白い大道のまん中である。コラサッ。
私たちの自動車は、思わぬこの
コラサッと、コラサッと、
無言の
いったい、
何たる奇怪。
私は眼をこすった。
一同も総立ちになった。
「安来せんげェ······エェ······ン······ン※[#小書き片仮名ン、216-11]。コラサイイ。」
「なアンだ、後家さんか。わっはっ。」N老人が、そして、ひゅうと指笛を鳴らした。
「おもしれえ、おもしれえ。」庄亮だ。
「あっはっはっ、こりゃいい、白秋さんどうです。」
飛び込んで、よっぽど、その踊の輪の中に這入って見ようかと、麦稈帽を笊に、ワイシャツの、ハンケチの頬かぶりで思わず立ちかけたが、相手を見ればそうもならず、ただ顔をあかくして笑っていると、いると、
「白秋やれやれ。」と庄亮が後ろから背中をこづいた、こづいた。
それは全く踊りたかったのだが、惜しいことをした。夫子まだ悟入しないと恥入ったな。
だが人ひとりにも絶えて遭わなかったしんしんとした原生林のこの道中の、突如として起った、この三味線の、紅の襷の、鰌すくいである。私の動悸はまだ収まらなかったらしい。
よく見れば、
小さな、
だが、あたりには家も見えなければ人影も見えないのだ。
天には日がちいさいちいさい。
F君が銭を投げた。
ところで、また、
色っぽい、色っぽい。
「やははい。」と顎を出す、眼で挑む、「旦那やア。」となる。
それ逃げ出せと、甲虫の突進だ。
サッと、娘子軍途を開く。そこで私も銀銭を目つぶし、チャリンと
「へい、ありがとう。」
「行ってらっしゃい。」「ごきげんよう。」「また、今晩ね。」チュウと鼠鳴きだ。
狐につままれたかな。
ああ、椴松、椴松。さるおがせ。
*
「あいつら何です。」
「
「あ、家が見えて来た。」
「どれ、ほう、村だな、村だな。」
「や、お祭りらしいよ。」
それでわかった。あの娘子軍の一行、浮かれ浮かれて、村はずれを、人の気もない山へ山へと練り出した、そこで
「ストップ」と誰だか
ビールやサイダアのビラがある、「ひやむぎ」と書いた貼紙、店は開け放して、長い
物珍らしさに、私たちはその土間へずかずかと這入って見た。そうして黙々と肢や脚を
「ひやむぎでもやるかな。」と私が笑うと、
「健啖だなあ。」と庄亮が驚く。
だが、ビールの一、二本がすぐと抜かれた。
いわゆる後家さんの
此処が清水村逢坂。
何でも、そこらの山林にいる伐木人夫どもが、たまに酒でも飲みにやって来ようという、ほんの五、六戸の部落らしかった。それでも何という寂しい夏の祭りであろう。晴衣著た子供たちの姿も見えなければ、化粧した若い女のけはいもしなかった。
いや、ありったけの娘子軍は、すでにチャンチャカチャンチャカの鰌すくいに出払ってお留守なのである。
そこで、水筒に水を入れ替えて、またガソリンの爆音を立てさせた。
*
林が林に続いた。高原が高原に続いた。
露領時代のままの
蹄鉄、
日の光が、黒い椴松の梢々の間でちらちらした。
薄ら寒い雲の流れでもあった。
と、その
そのバラックの前に黒塗りの立派な
私たちの甲虫はその前をまた爆音高く通過した。
*
私たちはまた、こうした原生林の中の幾つかの駅逓や部落を通り過ぎた。部落といっても全くの寒村で、急勾配の廂の長い丸太式の家が二戸か三戸か、ほんの飛び飛びに並んでいるきりであった。
山はいよいよ高く、林はいよいよ深く、道はいよいよ迂回して、気流はまたいよいよ冷ゆるばかりであった。
霧が驟雨のように流れて行った。
ああ、さるおがせ。寒い寒い
そうして、私はまた見た、その
また、密叢した落葉松を、
赤椴と赤だもの疎林を。
そうしてまた暗い谿谷の中腹の白く輝く
何という処女林、清高な、犯し難い、しかしまた永遠の神性。
私はまた想像した、雪に
あ、あれは何だ、あの赤い実の鈴生った蔓草は、やどり木は。
あ、紅葉も見える。もう秋だ。ああ、もう秋だ。
*
リュクサックを負った、絵の具函を水筒を肩から掛けた、三人の角帽の学生姿が流るる霧にぼやけ、日の光にまた現われて、その幽かだったPPPが急に大きい影像をつい目のさきに
「やあ、君たちだったの。」
「おお。」
「ほう。」
「M君、や、T君もだね。」
「Y君、これは驚いた。」
口々に私たちも驚いて帽子を振った。自動車は停った。日本医専の二人に工科大学生の一人であった。
彼らは徒歩で昨日真岡からすぐに発足したのであった。
「さあ、乗りたまえ。諸君。」
「つかまっていいですか。」
と、早速に両側の踏台に飛び乗った、そうして上の幌の柱にいずれもぶら下った。甲虫に黒蟻が取りついた姿勢である。
「貸切りだよ、かまわないよ。」
庄亮がすかさず、運転手は笑わず、ポウ、プップップップップップッである。
「昨夜は何処へ泊りましたい。」
「逢坂です。」
「なるほど、これはおえらい処へ。あっはっ、
「僕らはそんな不潔な処へは泊りません。荒物屋です。奥さんは立派な人です。」
とMがムキになると、
「へえ、あっはっは」とN老人が哄笑した。
霧がまた驟雨のように私たちを追い越して行った。
午後の日もよほど廻ったらしい。
きょうきょうと何鳥か啼いて、また幽かになった。
ああ、黒椴、
さるおがせ。
*
一望の耕作地、
いよいよ私たちの自動車は最端の峠をその麓の坦道へと迂回し初めた。
だが、その山腹のお花畑の美しさは、その
ああ、光がのぼる、のぼる。
ああ、また、なだれる、なだれる。
風だ、光だ、反射だ、影だ。
その中へ目がけて、私たちの巨大な昆虫はまっしぐらに驀進する。
と、また、山火事に焼け黒ずみ、また雪に雨に白く晒された椴松、白樺、落葉松の疎林が、ほうほうと寒い梢を所在に震わしている。その閑寂、その
「山火事跡かな。」
「いや、開墾のために焼いたんだろう。」
「だが、少々焼き過ぎたね。」
「
私と庄亮とはこう問い答える。
まだまだ三里か四里かはあるだろう。
突進、突進。
赤、赤、赤、赤。
飛躍、飛躍。||咆哮、爆音、風、風、風、風。
*
「あっ、パンクだ。」
「また、やったな、ちぇっ。」
と、この第四のパンクの時に、それこそ私たちはもう
まことに
両側の畑には穂に出て黄ばみかけた柔かな色の
また、飛び飛びの
立ちつづく電柱の薄紫の
ああ、なんだかフイルムで見たエルサレムへゆく巡礼道の情景と、そっくりではないか。
お、馬が来た。農作馬車だ。粗末な土まみれの木枠の中に十五と十二ばかりの眼の大きな百姓娘が坐っている。
馬はぽくりぽくりと傍らの蕗の葉の林へ這入ってゆく。
ほう、馬の首が蕗の葉にかくれた。妹の娘が振り返った。あっ、姉は澄まして
「此処で、何です、いつか自動車が
運転手ははずしたタイヤをガバガバガバと地上にひっ転がすと、今度のまた破損の箇処にゴムの継ぎを当て当て、アラビヤ
どちらにしても、もう豊原は近いのだ。
「御迷惑さま、さあどうぞ。」
結局パンクの数の多いほど、今はかえって楽みであった。何故かといえば、その度ごとに、私たちは十分の
自動車は駛り出したが、相変らず揺れる、揺れる。
お、誰だか長い柄の草刈鎌で、一面に熟れかえった燕麦をスウイスイと刈り立ててる。
いい
*
観ると、いつのまにか、
その梢の隠された疎林、疎林、疎林。
斜陽はすでに黄ばみかけたが、さして強くは輝かなかった。
ただひろびろとした燕麦や豆の畑に、何かしら冷気だった物の影が流れて、また明るともなく
だが、道はいよいよ善くなってゆく。
なんといい豊原道だ。
向うから小さな人影が来た、生きて動いて、何か帽子に幽かな円光を
一分·········二分·········
車体はイキナリ左へ投げ出されかかって停った。凄まじいパンク。
すれ違いさま、あわやと見たので、思わず急角度で避けようとしたのである。転覆こそは免れたが、今度こそ道の真ん中でパンクしてしまった。
「危険危険、あっはっは。」
「やりきれねえ、やりきれねえ。」
だが、私たちはまた道端のやや
「しっかり頼んますよ。」と謹直なA君が今度ばかりは
運転手は一生懸命であった。
この第五のパンクが騒ぎとなった。
ところへ
酔ってる、酔ってる、全くもって、山高帽の、モウニングの、また
「こりゃ、やい。ポンプ野郎。」となった。
「こりゃ、やい。」
「うむ、こりゃ、やい。眼があるか、やい。」
「天下の公道だぞ。不届者
「往来だぞ、公道のまん中でパンクする奴ゥがあるかア。」
「規則違犯だぞ。」
「赤だも、そっち
「林野局のお通りだぞ。」
「下郎くたばれ。」
「ばかア。」
運転手はへえへえで、それでも手順も一向につかぬか、あ、また、
こちらは、ほう、あの御仁体が樺太庁は林野局のお役人だそうなと眺めている。
「早くせんかア。」ドドドン。
「ひっしょびくぞ。」ガタガタ。
「こら、こら。」ドンドン、「馬鹿野郎ッ。」
いくら
空に孔でもあかないのかなと、私は仰いで手枕だ。
そこで庄亮、「おい白秋、長柄の鎌でスウッスと刈ったらなあ、あの燕麦を。」
俊敏F君観察だ。手と足何本突き出した。
重厚Hさんはただ苦笑いでカメラをそっちへ向けている。
和製タゴールさんは大茶目だ。ぴゅうと指笛でも吹きそうだ。眼鏡を片っ方はずしてる。
医専の一人はスケッチだ。畑の向うの
工科のY君、流石である。ガバガバパンパン手助けだ。
警部のAさん京都府だ。知らぬふりです。めんどうだ。
「こりゃ、やい、観光団の馬鹿ッ。」
「
「竜宮の身投げ。」
「助平じじい。」
「イヨウ、ハイカラア、ふとっちょう。」
「ちきしょう。」
「何しに来たア。」
「椴松強いぞッ。」
「さっさと行きやがれ、へへんへんだ。」
おやおやと、こちらは
「やいこりゃ、天ン下アの公道だじょッ。」
「ひきしょびくじょッ。」
「ばきゃやろうッ。」
だんだん、お声が悲しくなる。
この
やっと、形ばかりの修繕を済ましたと、
また後ろでは
「待てえッ。」
「俺の方を先きへ通せ。」
「寄せろ。」
「名刺を出せッ。」
この時、庄亮、剣道仕込みで、すうっと立ち上ると、
「運転手君ッ、さあ、お通してあげるぞぉ。諸君、押してくれたまえ。」プップウプップウ。擦り抜けると逃げた逃げた、一目散である。
「えらいお役人もあったものだね。」
「ええ、どうも威張りくさって困るのです。」と運転手。「植民地ですからなあ。」
「だがそのぉ、パンクして交通を停めたのはこちらの失策だが、一度叱れば済むことを、そのぉ、しちくどいからね。」
「僕たちは林野局の局長のAさんへの紹介状を持って来ているんです。今夜も泊めて貰うはずですから、いいつけてもいいです。」と医専のM。
「まあ、いいさ。黙っておくさ。」
そこで、私たちはまたぼろぼろ自動車へ乗る。ぶら下る。駛り出す。
また、パンクだ。
「ええ、もう一里弱ですから、このまま滑走してしまいましょう。」
これにはみんなが笑い出すと、
「ようし、やれ。」
「やっつけぇ。」
驀進、驀進。
*
揺れる、揺れる。
や、楊だ、並木だ、光る、光る、光る。
や、紅葵だ、
向日葵、向日葵、
や、西瓜の花だ、縞西瓜だ。素敵。
「や、や、露西亜人の家だね。いいな、あの丸太組みの建築は。」
「いいなあ、広い通りですな。」
「や、旗なぞ出してますよ、お祭りですかしら。」
「や、豊原だ、豊原だ。」
「万歳。」
「万歳。」
「ぴゅう·········うる·········る。」
*
と、町へ入る左口、とある広場に、これはまた大げさな灰色の
おお、あのトロンボオンは、
クラリネットは、
おお、あの
おお、太鼓は、銅鑼は、
そうだ、
滑走、滑走、滑走。
そこで、ふっと振り向く、ちらと眼に入ったは、
「あ、君、象の子がいる、象の子がいる。」
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私たちの一行は
豊原から此処までの二駅の間は、たも、ばっこ楊、落葉松の疎林に紅紫の
案内役は林野局の局長のAさんである。
前夜、私たちはあらかじめ定められた北一条のH屋旅館にひとまず落ちついて、大泊から廻って来る同勢を待ち受けることにした。その晩餐後、最寄りの書店で絵葉書をあさっていると、其処へ医専のTが
「どうしたい。」
「Aさんの官舎へ泊めてもらうことにしました。きさくな人です。飲むとおもしろいんですよ。非常に歓待してくれましてね。そしてずっと泊っていいといってくれます。」
「ほう、それはいいね。」
「先生を知っていますよ、Aさんは。なんでも弁当箱に書かれたことがあるでしょう。愛翫しているそうです。小田原の親戚からもらったといっていました。Aさんも相州の人だそうです。」
「ほう、あの醍醐味かね。」と私は驚いた。
実はこういうことがあったのである。
私がまだ
主人は手のついた白木の弁当箱を持ち出して何か書いてくれという。そこでよしよしと酔筆をふるった。それが醍醐味の三字であった。いつかしらまた、それがAさんの手に入ったものであるらしい。主人は土地や山林に関した仕事をしていた。商才に
「一寸、林務官が見えていますから。」と時々中座した。その時の二階の客というのが、今思うと恐らくAさんであったであろう。
私たちは陶然としてしまった。もう少し酒興が深めばいよいよ羽化登仙というところで、サラリと正面の
「ええ、こちらが十二畳でございます。」と、上座の私たちを、目八分に透かすと、
「只今、ここに
「おいおい。」と鼎さんが私の袖を引いた。
「僕らも家賃の中へはいってるらしいよ。」
「や、こりゃ驚いた。逃げよう逃げよう。」
向うでも流石にすぐに引っ込んだが、後できけば、
二階の客も逃げたらしい。小田原旧城の倒れ木の払い下げもついぞまとまったという話もきかなかった。
ああ、あの醍醐味の弁当箱かと、私はまた独で苦笑した。
そのAさんは背の高い痩形の、鼠の背広に麦稈帽という軽装で、気前よく私たちの先へ立って行った。役人臭のない、極めてさっぱりした中老人である。そうして時々突拍子もない諧謔を弄した。(だが、その翌日、林野局に私が挨拶に行った時は全く硬直した官僚的態度で、や、そうですか、や、と大きな事務卓を隔てて、にべもなく私の純情を跳ね返してしまった。そこで一寸てれた形になった私はそこそこに辞去したものだが、同じ昨日の人でありながら、こうも役所では変れるものかと不思議でならなかった。これは別に悪い意味でいうのでない。私にはわからないから呆然としてしまったのである。)
さて、私たちの歩みが薄紫の花のむらがる
*
この菜園でも、白い蝶のひらひらが低く、燕麦の穂から穂へわたっていた。蝶の
菜の花の鮮黄の群れも目についた。
もち
亜麻畠のややほの青みを保った熟いろの柔かさ
庄亮はノートに歌を書く。
私は標木を読んで行く。
ライ麦(アルコール原料)かな。
アムール、
サクソン、
スプリング、
浦塩 、
アプルツク。ランランラン。
やあキャンデータフトか。白い花、これはいい花、写生しよう。サクソン、
スプリング、
アプルツク。ランランラン。
や、トマトだ。
や、や、
デリシアスかい、
ハッバードか。
まさかり南瓜だ、驚いた。ハッバードか。
魔法杖でもちょいと振りゃ、娘ふたりがダンスの
や、草苺だ。ド、レ、ミ、ファ、ソ。紅いな紅いな、雨の粒。
や、木柵だ。御免なさい。
ほう、すかんぽだ、枯れ花だ。
朝鮮
青刈り用とはフレッシュだ。焼いて嗅ぎましょノスタルジャア。や、や、なるほど、
なんと緑の
やっ、いい図案だ。
やあや、
や、蜜蜂だ。ぶうんぶん。胴は花粉で真っ黄だな。花の色よりまだ濃いな。
おい、おい、庄亮、歌ができたぞ、四五句だけ、
大麦黄なり夏蕎麦のまへ
白花じゃがいも、赤いもだ。
紫の花、白いもだ。
雨、雨、雨、雨、傘さした。
私は口笛吹き吹き行った。
洋館前の芝生には、円い花壇がふたところ。
実に愉快だ。黄だ、赤だ、雪白、紫、緑いろ、
白玉
スウィートロッケット、シャスターデーシー、
また、金蓮花、
そして、ちらちら、コスモスの
そして細かな雨がふる。
裏へと口笛吹き吹き行くと、
黄と白、赤の葱坊主、毛槍かつげば
人蔘の花、八重垣姫の花かんざしの
花の痛いは種
此処にも細かな雨がふる。
ピッチピッチ、チャップチャップ、ランランラン、
ピッチピッチ、チャップチャップ、ランランラン、
あ、あ、牧舎が見えた。
なんと抒情的な異国風景、
ああ、
広い広い牧草の原、
あ、羊だ、羊だ、遠くを人が追って来ている。
牧歌牧歌と誰やらが叫んだ。
私の小唄は閑かになった、浮かれ心は。
小雨も
*
洋風の牧舎の様式は早速に小型の黄色いノートを私に取出さしめたほど私を魅了した。私は克明に写生した。
その屋根は上部で段がついた深い急勾配で、正面から見ると将棋の駒の外観をしていた。
私たちは紅い火焔菜の根を
第一は牛舎であった。
其処には通路を中にして、両側に対い合せに
骨太く、肉づき厚く、脚短く、逞ましい黒い馬の、流るるがごとき光沢の皮膚。
「耕馬はこれでなくちゃならないね。どうだ、このぉすばらしさは。」と庄亮がいった。
そうしてその一頭の長い額を叩き、頬の膨らみから頤の毛並を軽く軽く撫で
雨がまたしめじめと降りかけた時に、私たちは
ほの黄色い燐の火でも燃えちろめきそうな
樹といっては白い幹の凋落樹の白樺がただ一本うち湿っているきりであった。
狐は通路を隔てた両側の高い金網のなかを幾つかにまた劃った各自の庭を与えられていた。庭の中央には脚高の細長い小さな巣箱があり、その横から一方へ斜に樋のようなものが地面へ向けて突き出してあった。その樋の口から、きょろりと狐の眼が光った。その樋の下には階段があった。狐はその階段の下の地面に潜り穴まで
ともすると、庭に出て金網近くをきょそきょそと徘徊している黒狐もあった。疑心深く、驚いては逃げ、狡猾そうにまた後ろを振り向いて立ち留った。
ああ、雨がふる。
私たちはビスケットを投げた。だが狐は
「じりじりしますね。何でああ疑い深いでしょう。」と医専の一人が舌うちした。
「そこがいわゆる
褐色の尾の薄い青狐もいた。十字狐や赤狐もいた。その中に尻尾の尖りの白い黒狐の仔だけがまだ人なつこく、はしっこく、金網に飛びついて来た。可憐なその赤い舌が庄亮の
「あっはっはっ。こりゃいい。おもしれえ。」
「無邪気だね。子どものうちはみんなああだな。」
ああ、雨がふる。狐の目つきに、毛の光沢に。
こんと一声。
秋雨めかしい、
養狐場を出たところで、私はまた牛舎の白い
またうち湿った闊葉樹、針葉樹の林を、森を、また花いろの遠い煙霞を。
ああ、目に透かすと、先ほどの羊の影絵は早やなかった。
旅愁がしきりに動いて来た。
私は狐に遣り残しのべとべとのビスケットをわが手に嘗めた。
「羊はもう出て来ないのですか。」と私は歩きながら場長さんに訊ねた。
「
蔭の深い楡の二、三本の木立が、其処には幽雅な雨霧をまだ梢の緑に保っていた。
何という完全な楡の
その木立に一本の
私たち||Aさんと、医専の二人と庄亮と私とは、その楡の
少し離れて左手にまた一本の、それは最も完全な老木の楡が涼しい繁りをそよがしていた。その蔭に正方形の白木の壇が据えられてあった。そうして白木の卓子も置かれてあった。つい前日に摂政宮殿下の御座所だったとのことであった。
そうして私たちの
御座所の方に向って、また、
御座所の後ろにはささやかな、また清らかな浅い池があった。何の作るところもない、自然のままの池であった。その水面が薄く明って、平らかに、また何かの影も映していた。そうして周りの、紫の玉を綴った
音がした。それは初めはあるかない響きであった。その
改めて駆り出された緬羊の四、五十頭の群であった。
新月形の両の角を振り振り、

めうう······めうう······とあるものは首をあげた。ほとんど総ては下向き下向き、草を食べ食べ移って行った。
と、場長さんが、若い技手に白い陶器のミルク入れと、白い西洋皿と、透きとおった薄手のカップとを運ばせて来た。白い二つの皿には水っぽい新鮮なサラダの緑を、白い三つの皿にはやや薄黄のマイナスソースをかけた羊の蒸肉を盛ってあった。それにはまた薄あかい割り箸を添えてあった。
ミルクが一同のカップに注がれた。
「これは

「この羊の蒸肉は昨日のお残りです。」
それはと一同がお辞儀をした。
「ありがてえ、ありがてえ。」と庄亮が例の両手を振り振り、その頭をひっ擁えると、ふくれた

「や、殿下もこれを召しあがったんだな。」と、私も恐縮した。
「ええ、奉呈しました。それにお
「いい時に来あわせましたな。ひとつ戴きますかな。」とAさんはピシリと箸を割った。
「乾杯、乾杯、さあ。」と立ってミルクのカップを私が差し上げると、
「天皇陛下万歳ぁい。」とAさんが
「皇后陛下万歳ぁい。」
「万歳ぁい。」
「摂政宮殿下万歳ぁい。」
「皇太子殿下万歳ぁい。」
「万歳ぁい。」
そこで、また、
「羊の蒸肉万歳ぁい。」と私が叫んだ。
「さあ、このミルクだ、搾り、搾りたてのミルク万歳ぁい。」
「搾りたての、あっはっはっ。」と庄亮が哄笑すると、「や、万歳、万歳。」と軽く早口に、鼠の
「これはすばらしい。このサラダも万歳だ。」
「ほんとだ、これはフレッシュだ。しゃきしゃきする。」
緑のちりちりした葉に雨がいっぱいついている。そのサラダは全く
「お乳をかけましょうか。」
「いや、これで結構、ついでにその泥のついた火焔菜も。」と私が笑うと、
「あっはっ、甘いよ、そりゃあ。」
「甘くていいじゃないか。僕はこの頃何だよ、詩を作る時には、きっと砂糖を嘗めるよ。」
「やっ、こりゃ、初めて聞いたね。君が砂糖を。」
「おかしいかい。」
「おかしいともぉ、それはお酒でございましょう。」
「酒はきらいだ。」
「あっはっはっ、そうでしょうとも。」
「だがね、砂糖を嘗めるのはほんとだよ。頭が緻密になっていい。疲れが直るよ。だから、紅茶にドッサリ入れて何杯も何杯も飲む。」
「驚いたね。」
「酒は好きだが、酒を飲んだら僕には詩も歌もできないね。小唄ぐらいはどうだか知らないが、どうしても観照に
「やっぱり、酒のみだよぉ。」
「いいさ、だが、甘いものもやるよ。」
「じゃあどうぞ、お砂糖をどっさり。」と技手君が砂糖壺を差し付けた。
「ありがとう、いただきますよ。それじゃミルクをもう一杯。」
これはうまい、濃厚だ、実につめたい、「おい、庄亮もう一杯やれ。皆さんどうです。」となる。
「よかろう。だがいいかい、そのぉ。」
「かまやしないよ。」で、「いくらでも搾れるでしょう。」と、すこし顔が紅くなる。
「よいしょ。」と医専のTが声を掛ける。
庄亮、「砂糖といえば、俺はもう閉口閉口。何だろう、そおれ、千葉から印旛佐原へかけて、本党は親父の地盤だろう。去年の選挙の時なんだがね。俺たちは、そのぉ、朝の
「よくやるんだね、君は。だがお砂糖はどうしたい。」
「そのぉ、お砂糖がア、問題なんだね。それ、どうせ印旛沼だ。あっちに一軒、こっちに二、三軒だ。一日がかりだアね。とう、やっと尋ねあてると、吉植です。それはまあ御
「砂糖を。」
「お手をどうぞというから、それ、右の手を出すと、お砂糖さ。こいつはたまらねえ。だが、そこは神妙に、ありがとうございますさ。厭な顔でもして見たまえ、何だ吉植威張ってやがる、俺ら百姓だがアとなる。そこで一票フイさ。仕方なくなく嘗めるんだ。あっはっはっ。それがまたそのぉ、次から次へとそうなんだからね。掌はベトベトする、口は甘ったるくなる、胸はむかついてくるしね。悪く行き合せると、田舎の事だから
「あっはっは。」とAさんが笑い出した。「それはお苦しい。」
「ええ、そのぉ、こう咽喉元まで詰め込んだやつを、正直に、や、もう
「なるほど、そう一々お砂糖をお嘗めならなくとも、どうにかなりそうなものですね。」と場長さん。
「いや、後で気がついたんですがね。そのぉ。」
「いつも後で気がつくんだ。」
「待ちたまえ。そこで、と。そう嘗めてばかしじゃやりきれねえ。で、嘗めたふりして、こうそっとふところへザラザラザラさ。秘伝だね。だが、こいつも困ったよ。内ふところがそれ汗まみれだろう。ベトベトする、くっつく。とても気持ちがわれえ。」
さあっと驟雨が走って来た。
驟雨は樹林の前、牧舎の裏ほど白く白くその雨あしを際立たせて、一斉に騒めき慌て出した緬羊の円い円い円い背の重なりを、たちまち模糊たる霧煙の中に引き包んでしまった。
めう······めうおおお······めう······めうおおお······
それこそまた濡れ鼠になって、向うの向うの庁舎の方へと、いっさんに駈け出す私たちであった。
*
大陸的な樺太の八月の驟雨である。いかにそれが異郷風の壮観であったかは想像してくれたまえ。
私は眺めていた。庁舎の押上げ窓の硝子を透かして。
目も彩な花壇の
フィルム。フィルムの急速度の線、線、斜線、
前面の
すばらしい、すばらしい。雨だ、音だ、銀だ、ああ、緑だ。霧だ、霧だ、霧だ。
亜麻が、ライ麦が、燕麦が、夏蕎麦が、菜の花が、ああ、また大麦が。
蝶だ、ああ、光った、乱れた。たたきつけられた、急角度に。
見渡すかぎりの牧草。
や、汽車が来た、紫の煙、煙。
「あ、
先ほどの若い技手が、熱い熱い番茶を卓上の茶碗に
「
「ええ、一、二家族居ついていますがね。」
「何をやって暮らしています。」
「パンを焼いたり、牧畜をやったり、それはおとなしいものです。」
「聖代の徳化にうるおっている訳でさ。ありがたいもので。」とAさんは
「白系の良民ですな。元は北樺太にいたのですがね、バルチザンの残党や赤化の無頼漢どもの脅迫から、とうとう堪えきれなくて南へ落ちのびて来たのです。気の毒なものですよ。それでも此方へ来てからはすっかり安心して、日本はいいといっています。もっとも、露領時代からの住民もいます、丸太式の小舎に。」
「
「いや、豊原には旧露西亜人街がありますよ。もっと揃っています。」とAさんが頬杖ついた。
「それはいい。ひとつ見に行って見ようか、吉植。」
「うむ、いいね。それからそのぉ、ツンドラ地帯というのは。」
「
なるほど、下部は黒く、中部はやや褐色に幾段もの脈がついて、上部は黄や青の苔の、そのツンドラの断層面がそのままそっくりその中に飾られてあった。
「なんですよ。そのツンドラ地帯にはフレップという紅い
「フレップ酒ですか。
「でも刺戟は強いでしょう。」
「え、あれはアルコールに色をつけたんだとばかり思っていました。あまり紅いんですからね。」
「や、生粋の樺太
話はそれから航海中の出来事や、横断のパンク自動車、逢坂の後家さんの安来節、これから廻ろうという
雨がまた一しきり窓硝子をたたいて
ガランとした白い一室である。
「これはいい、庄亮、踊るにはもって来いだな。」
「あっはっ、やるかア。」
「でも歌えまい、君には。」
「あっはっはっ、歌はちょいと、そのぉ、困るがね。」と首を
「それでも何だよ、踊るぐれえなら、お弟子格でやれるよぉ。」
「T君どうだい。踊れるかい。」
「何です。伊那ぶしですか、家庭踊でしょう。」
「田辺さんの家庭踊じゃないさ。本場の伊那ぶし。」
「踊れますとも、僕はこれでも信州人ですからね。」
「や、それは失敬、だがもう僕は酔っぱらったよ。」
「お砂糖にかい。」
「雨にだ、ほら。」
外は濛々とした霧けぶり、銀と緑の驟雨、驟雨、驟雨、
あ、模糊として、なおかつ白い白樺の遠景。
「さあ、諸君踊ろう、踊ろう。静粛に。」
音は走る。
夏は走る、走る、走る。
[#改ページ]
雨はまだ激しかった。
緑である。
「おいでかね。」
内では何やら答える声がした。
ずかずかと技手君ははいって行った。私もみんなの後から、
頭の禿げ上った乳っぽい赤ら
技手が何か手真似で
「まだ日本語が話せないのです。」と技手が私たちを振り返った。
「何という姓ですか、この人は。」と一行の誰やらが訊いた。
「クリロフ。そうだったね。」と技手が眼で笑った。
「クリロフ。」
露人もまた眼で笑った。
何と素直で善良なロスキー気質であろう。おおまかで如何にも
クリロフの家は樺太における露人の住居特有な
私は見まわした。
入口の一室はほんの六、七畳の板の間で、突き当りは物置らしい開き戸になっていた。右手の窓下にはフライ鍋やスープ鍋、瀬戸びきの大きな
セメントのペチカは右の室へ通ずる渋がちの
外にはまだ雨の音がしてた。
「や、パンだな、焼いてるな。」
というと、イワンがふっと私の方を向いた。
指でちょいと、ペチカの方を、そして私が茶目ると、赤いおやじさんがぽんぽんと片手でその首根っこを叩いた。
「あっはっはっ。」
医専のMとTとがカメラを胸へ、そっと
「ジャメジャメ。」
慌てたパン屋さん、大きく両手を振って、すぽりっとカーテンを後向きにもぐりにかかる。それをどかどかと追って、みんなが這入って見て、また見まわした。其処が食堂、いや、寝室らしくもある。木造りのほんの型ばかりのベッドが、奥への通路の赤い更紗のカーテンの傍にたった一つ、ベッドには白い藁蒲団に白い枕に白いカバー。
「簡素なものだな。」
だが向って右手の硝子窓には黄の赤い蘭科の花の鉢が一つ、大きな
燃えあがる焼点。
「ツイトーフ。カムチャッカ蘭です。」
と、技手が私に答えた。
大きなテエブルの両側にはベンチ風の薄汚れた木の腰掛が一脚、二脚、クリロフの一家はここで、互に向い合せて、さて、スープの鍋底を大きな杓子でひっ掻きまわし、パンをもぎり、
その上部にこれはまた浅草物の石版画。
何であろうと、仰いで見ると、これは驚いた。遼陽占領奥軍大奮闘の図、竜宮風の城砦が今まさに炎上しつつある赤と黒との
「ほほう、露助滅茶敗けじゃないか。」
クリロフのおやじ、呑気なものだ。あっはっはとまた笑って、しきりに手ばかり振っている。
「ジャメジャメ。」
と、奥のカーテンをまくって、またのろくさとかぶって消えたところで、どかどかと私たちだ。
そこで後から
十七、八の金髪の娘が一人、向うの隅っこに身をひそませていたが、何か青い毛糸の編針を動かし動かし、キッと
そこで、みんながたじたじとなった。
ふっと後ろを振り返ると、私は顔から火が出そうになった。
声もせぬ幽かな姿、
黒い頭巾をかむって、黒い服をつけて、それはまことに

何という無作法な旅ごころで私たちはあったろう。私はまだ
閑かな窓硝子からの光。濡れしずくの硝子の内側には
白皙の老婆、(そうだ、もう八十にもとどきそうな)は私たちを見ると、幽かにその白い

諦めはてた老いの心の姿をまさしく私は見た。
老婆の青い瞳は深かった。
どうせ彼女らは無智な農民には違いなかった。恐らく本国の土地もかつて踏んだこともあるまい。沿海州から北樺太へ、北樺太から国境を越えて、どうにかバルチザンの残虐から逃れおおせたものでもあろうか。二十何年か前の祖国と日本との戦争なども無論知っていそうにもなければ、ロマノフ家の
老婆は諦めはてた心の幽かな姿で、幽かに白い

その老婆の枕のうえには、私は見て
と、また、向うの壁と壁との隅、その高い上部にぶちつけた三角の小棚には何が恭々しく飾られてあったか。
ニコライ皇帝、
その皇后、
手札形の
私は黯然とした。
「撮影さしてください、ね、いいでしょう。」
医専の美少年のMがしきりに娘のナタアシャ(そういう名だったと思うがちがったかも知れぬ)へせびっていた。ナタアシャは顔を赤くして反射的に編針を持った片手をうち振っていた。気の少し強そうな、だが邪心のない素朴さが彼女の瞳に見えた。
どかりと、ペチカの方で、テエブルに何か投げ出す音がした。
黄がちの鼠の鳥打帽に鼠の服をつけた、眼の白っぽい、鼻の高い十五、六の少年が其処には突っ立っていた。何と長い
呼び売りの露西亜パンの
「帰ったね。」
と、技手が声をかけた。
少年はただ笑った。
それから私たちもペチカの前へ引き帰すと、娘のナタアシャも蹤いて来た。
「君の名は何というの。」
「イワン。」
「そうか、イワン、いい名だね。」と私は微笑した。
いかにも露助らしい名だと思えた。イワンの馬鹿ということがある。だが、この少年なかなか
「君、ここにイワンと書いてくれないか。」
誰かがそのノートを突き出した、鉛筆といっしょに。少年は奪うように手に取ると、窓際へ寄って、何か走り書きしたと思うと、今度は急に
「ナタアシャ、君もひとつ。」
ナタアシャはほっほと笑った。そうして頤を突き出すと、叱るような眼をした。それでも面白そうに鉛筆の
「
「ジャメジャメ。」で、手を振った。
「じゃあ、撮らしてくれないか。」
爺さん、いよいよ赤い顔をして、また首根っこを叩いた。そうしてイワンとナタアシャと自分とを指ざした。
「じゃあ、みんなでいいじゃないか。」
「ジャメジャメ。」で、また尻込みしてしまう。
「じゃあ、家を映そう。」と私たちが外へ出ると、今度は硝子窓を開けて、内からさも映してもらいたそうに赤いにこにこ面で差し覗くのだ。
イワンの顔も出た。
ナタアシャの顔も出た。
「なあんだ、じゃあ、並びたまえな。や、そうじゃないんだよ、小父さん真ん中だ、そら、そのとおりとおり。」
医専がひとりで、雨だまりの草っ原からうれしがってると、赤い露助のおやじさん、いよいよ固くなって、それこそ直立不動の姿勢になる。そうして物珍らしそうな、また、
なんと善良な露助だろう。
なんと無邪気なのっぽ。
なんと素朴な。
恐らく、生れて滅多に写真など撮ってもらったこともなかったかと思われた。
カチリ、
「よし、済んだ、ありがとう。あ、もういいんだよ。」
「写真送るか。」とイワン。
「送るよ。」
イワンがナタアシャを突き飛ばしそうにした。ナタアシャはイワンの肩を
雨はもう
すかんぽ、すかんぽ、紅更紗。
*
小沼の駅へ帰る
かわいそうにみんなが気が弱くなっている。
通りへ出ると角に呉服屋兼小間物店があった。私は麻のハンカチーフを買った。連れの庄亮はゴム足袋にゲエトルを買って、穿くと、ぐるぐるとその片足に巻き出した。
店には火鉢が二つ、火がカンカンとおこしてあった。樺太は八月でも雨のふる日はうそ寒い。
「あのクリロフという露西亜人の家がありますね。」
「へい、ございます。」と痩せぎすの主人が答えた。
「あれはどうにかやっていますか。」
「ええ、パンを焼いていますですが、相当にやってゆけるようでございますよ。」
どうしたものか、私は主人のうしろに積み重ねた紺足袋の真鍮の小ハゼが目に
駅へ行って見ると、豊原行の臨時列車はまだ仕立中であった。
朝早く大泊から東海岸の
待っていると、ぽつぽつと帰って見えた。
臨時列車も野天のプラットホームに這入って来た。
私たちは乗り込んだ。
だが、一行の全員を収容するまでには、なかなか間がありそうに思われた。
「露人の家がありますよ。」と教えると、「や、それは。」と退屈まぎれに飛び出す人々もあった。
見える、見える、あのカムチャッカ蘭の窓が。
雨は
「や、来た来た。」
と、誰やらが叫んだ。
少年イワンであった。首から黄いろい紐を、前の函には、それこそふかし立ての露西亜パンを山盛りにして、活溌に改札口を出ると、ちょいと横向きの白い頸すじを見せた。
レールが
「あれです、露西亜人の息子は。」
とても物好きな観光団です。それはというので、それに少々腹も
「おい、パン。」
「おい、パン。」
「おい、いくらだ。」「おい。」で、
イワン少年の片手の銀、銀、銀、銀。
瞬く
またやって来た。また一斉に群った。
万歳、売切れ。
ピーと汽笛が鳴った。
イワンはぽかんと向うのプラットホームに突っ立っていた。胸の
「さようなら。」と
イワンは
「さようなら。」
そしてまた鳥打帽をつかんだ。そしてまた顔を赤くして笑った。
振ってる、振ってる。
白樺、
白樺、
汽車のカダンスが迅くなった。
[#改ページ]
見えた、見えた。
丸太小舎だ、
あ、柳、
窓、
窓、
窓、
あ、赤だ、白だ、紫だ、花だ、
素敵だ、
流れだ、
おや、鶏だ、
さあ降りようと、私たちは自動車から早速に飛び降りた。
朝の八時頃、まだ昨日の雨の名残がどこやらに
大通北一丁目二丁目三丁目四丁目と出て、やはり北へ向った幅広の白い一筋道が、元露西亜人の
橋を一つ、また一つ、それから、やあ、此処だ此処だとなった。
道の左側にはささやかな流れがあった。私はその流れに沿って、また立ち留って見入った。
まったく校倉式の丸太組の露西亜人の家々は簡素で、また幽雅で、しかもいい
純粋なものにこそ真実の意味の美しさがある。日本の古い百姓
それにしても、この原始的な丸太組の壁は、また飾りのない急勾配の板屋根の形は何といっていいだろう。硝子窓の劃り方もいかにも素朴で、それにどの家のどの窓にも何か色彩の濃い淡い草花の鉢を見せてある。流れに沿うた裏口のポーチも板張りの平面で、それに二、三段の無造作な周辺、水ぎわの緑の草、盛りの紅葵、あるいは
私たちの第一に訪ねた家はことに廂が深かった。イワン・チャハンスキーと標札が出ていた。無論農家であった。
鶏が、その庭に、純日本種の鶏や
「鶏が遊んでいる、日本の鶏が。」
別に不思議でもないことながら、露人の
私はその廂の下へはいって案内を乞うた。
戸口は開いてあった。
内は二室ぐらいしかなさそうであった。その取っつきの八畳ばかりの板の間の中央に、何か色の交った白地の頭巾をかぶったお婆さんが一人、古びた
川沿いの窓際にはやはり明るい草花の鉢を置いてあった。その硝子戸の外にも紅玉葵や
外庭に向った一つの窓の前のテーブルには何か白いきれが拡げられてあった。洗って乾かした洗濯物らしかった。
極めて簡素であった。
奥寄りの壁際には、これもお粗末な木のベッドが寄せてあった。薄紅色の浮織りのクッション、白い蒲団のカバー。
それだけ、
や、まだあった、白い笠の電球。
麦粉は黄色く、そうして白く輝いた。
茶の赤い
私たちは目礼して外へ出た。
二人のお婆さんはそれまで何一つ
牛舎は
雨あがりの朝の光線が、今度ははっきりと穀物小舎の屋根の影を地上に映した。
「こうした百姓家では牧場も持っていなそうですがね。」と、私は白髪の和製タゴールさんに訊いた。
「や、何でさあ、最寄りの原っぱへ連れて出るのでさあ。このあたりはまだ原っぱばかりですからね。」
なるほど到る処の夏草であった。
私たちが外の板橋へかかると引きちがいに、同じ観光団の誰彼がどかどかと踏み込んで来た。
この悪趣味の連中が、あの二人の老婆たちの幽かな半日の楽みを驚かし、あの無作法で何か憤らしてくれねばよいがと、私は振り返ると、手を振った。
「や、こりゃひどい家だなあ。」という
通りへ出ると、同じく丸太組の家が、それももうよほど廃頽している軒並が向う側にも続いていた。日本人の家も交っていた。
その中に、
肥った年輩の父親とその息子らしい二人の少年が、まだ骨組ばかりの屋根の上にあがって、専念に新らしい不足の
ところが、いつの間に
それのみでない。ずかずかとその主家にはいり込み、納屋をのぞき、牛舎へ廻り、ほとんど傍若無人の限りを尽していた。
屋根の上の露助は、初めは不愉快らしかったが、まだ黙って知らぬ顔で見ていた。それがいよいよ一斉にその足元からカメラを差し向けられると、堪えかねたか、赤い顔して、思いきり大きくその片手を振りまわした。それでも幾十のカメラはひるむ段でない。
パチパチパチパチパチパチリッである。
や、まだ、まだ、||
「写真泥棒。」
と、一人の息子が憤怒を飛ばした。純な少年のこの憤怒はまた、彼の白面を朱のようにわななかした。
と、
下では、一時たじたじとなったが、
「なんや、あれが馬鹿野郎いうのかいな。」と一人が、ひひと笑うと、連れて
上ではもう狂気のように逆上した。
「泥棒、写真泥棒。」
「帰れ、くそ、畜生ッ。」
「がっがっがっがっ、ぶるぶるぶるッ。」
下では
「いよう、七面鳥。」
あたかも、この時、粗帽粗服の一高生らしいのが通りかかった。
「やれ、やれ、負けるな。」と上を向いた。そうして、「一体何だ君らは、帰りたまえ、乱暴も程がある。」
と立ちはだかった。
「やれ、やれ、俺が承知しねえ、くそッ、てめえたち何だ、何しにうせやがった。」
隣りから日本人の老百姓が飛び出した。息をきってふるえている。
「しっかりやんねえ、××スキー。」とまた一人の日本の百姓が躍り出して来た。
「
と私たちも手を振った。何と恥かしいことだ。
「
まったく、弱者と見て
私はしみじみと眼がしらが熱くなるのを覚えた。
「写真泥棒ッ。」
「しっかりやれ、アリョーシャ。」
[#改ページ]
十六日薄暮、私は二、三の連れと、この豊原の東郊は旭ヶ岡の樺太神社に詣でた。しっとりとした雨後であった。坦々とした幅広い道路を、いかにも自動車のタイヤが軽く親しく滑って行った。大鳥居の前で下りると、清楚な白い石畳の道を、また石の段を真っ直に、私たちは登って行った。その両側の土の色も芝生も落葉松の林も石燈籠も、見るものがことごとく雨をふくんで、また何ともいえぬ緑と白との涼しさをしたたらしていた。ことに後ろのなだらかな丘陵の緑は明るかった。私はつくづくと思ったが、この八月の樺太の爽かさは、とても内地に見られない色と香気との新鮮味を持っている。これは驚くべきものだ。展望がまたひろびろとして、しかも清らかで新らしくて、まことに植民地の神苑だと感じられた。祭神は
神殿はもう薄紫の暮色がたちこめて、奥殿に何か幽かに光るものが神々しく拝まれた。ほの青い装束のけはいもした。
「上って見ましょう。」と一人がいった。
私たちの靴の紐は湿って解きにくかった。やっと解いてから、木の階段を上った。
奥殿へ通ずる扉を、それから閑かに閉して、薄ものの緑の、昆虫の
「あの扉は何と申しますか。」
「中門です。」
まだうら若い、眼鏡をかけた人であった。
その人は黒い烏帽子を前かがみに、私たちの前に、やや斜めに
「大国魂命と
「はあ。」
「としても、やはり出雲系の神様でしょうな。植民地の祭神はよくそうのようで。」
「そうだよ、君、植民政策としては最も当を得ているかも知れん。」とまた一人がいった。
「だが、出雲系と天孫民族とはどうしても僕も同種属ではないと思う。
「そういう見方もありますね。」
「だから、どうしても
「台湾は。」
「北白川の宮様を合祀してあります。」
「なるほど。」
ひっそりとした
このほのかさは、この
いい時に参ってよかったと、私は思った。みんなもそう思ったにちがいなかった。
だが、これが樺太であろうか。この親しさは、はるばるとした旅情ともちがう。
きょうきょう。
「あ、あれは何です。」
「ほととぎすです。」と烏帽子が空を仰いだ。
空はまだ幻燈のように青かった。
「あ、あの木は。」
「ななかまどと申しています。」
そのななかまどは紅葉しかけていた。
流石に秋の早いのにも驚かれた。
[#改ページ]
Y君。
この豊原、旧ウラジミロフカの夏はいかにも高原地の初秋らしい風の涼しさを見せている。ここらの丘陵は今が季節の新緑を輝かしている。それだのに早や紅葉しかけた木々もある。
観望の壮大なことは驚く。それに市区の井然たることは、未だかつて内地の都市に見ぬ鮮かさだ。札幌はこれ以上に美しいという話だが、これは帰りの楽しみにして置こう。
旭ヶ岡の樺太神社から
私は南国人だ。北方の陰暗、深刻、そうした私の芸術に欠けているものをこそ求めて、私はこの北方に来ることを楽しみにしていた。が、来て見ると、案に相違した。あまりに新鮮で爽快過ぎる。樺太はやはり冬に
この八月の豊原風景はまさしく貴公子の緑の
だが、このH旅館の女中はどうしたというのだろう。この豊原一の宏壮な旅館だからかとも思ったが、まるで
それから庄亮君が名刺屋を呼びつけたよ。法学士、鉄道会々員、新聞同盟外報部長という肩書附きで、本宅は青山の親爺さんのところで電話番号までチャンと刷らせるというのだ。明朝までにととのえろだ。脅かすなというと、「なに、これでいいんだよ、見ていたまえ、あっはっはっ。」と豪傑笑いをしてのけた。僕も忘れて来たので、ついでに名前だけのを頼んだ。
それから洋品店に電話を掛けさした。
この二人が、今朝、公会堂の観光団歓迎会のすぐ後から、幌馬車に乗って、豊原の西郊の
幌馬車でちりんちりんだ。程よい道の曲り角で、下りると、私たちは子供のようにそこらの花畑や露助の家や農家の
と、庄亮が、「君。」とめくばせをした。
つい近くの道路を誰だか二人声高に話してゆくのだ。
「あれはアイヌでしょう、一人の方はよほど文化的教養を受けたアイヌらしいです。」
「あっはっはっ。こりゃ驚いた。」と庄亮が頭をかかえてしまった。
「おれはアイヌだとよウ。」
「ふふっ、おれは文化的教養を受けたハイカラアイヌかい。」
庄亮は例の鼠の
帰りはてくりてくり歩いた。途中で日の出温泉というのが目についたので、一汗流して行こうとなった。這入って見ると
どうにも気持が悪いので、そこそこに飛び出したが、いったいどういう家なのだろうな。何でも極めて閑散なものだったよ。
それから、遊廓の大通りへかかると、向うの木橋から、白い服の、そして胸高な青の袴の朝鮮の女が
広っぱがあって、それからが、プカプカドンドンだ。曲馬の
日本という国は何処へ行っても靖国神社式の見世物で持っている。祭りや縁日といえばすぐこれだ。初めて上京した時、東京も田舎だなアと驚いた事もあったが、この樺太ではやっぱしここも都だなアと感嘆された。
それかといってまた、先月は
豊原は東京の延長としか思えない。だが、ここの場末の盆踊は安来節でやるようだ。
(後略)
[#改ページ]坊や、
パパは豊原という樺太でのいちばん
それから、坊やはよく坊やのお国はお菓子の木や
坊や、
パパは今日、この町の博物館に行って見ました。その博物館に大きな木のお扇子がありました。
その大きなお扇子はいろいろの木の板を紐で綴って、お扇子にこさえたのです。その木の板はみんな薄紅い肉色でみんないいにおいがしています。黒とど、赤とど、えぞまつ、おにぐるみ、たも、あかだも、やちだも、おんこ、からふとやなぎ、いたやかえで、しらかんば、からまつ、にれ。みんないい木です。みんな樺太の山や野に生えてる木です。それで、その木のお扇子を
それからまだ、樺太にはいろんな木が繁っています。
どろやなぎ、ばっこやなぎ、きぬやなぎ、さんちん、にわとこ、からふとななかまど、たかねななかまど、しうり、やまはんのき、りんご、まるめろ。
まだまだ、いくつも木のお扇子がつくれます。
坊や、
博物館にはまたいろんな鳥や小鳥の剥製が、
えぞせんにゅう、えぞおおあかげら、くまげら、しめ、赤ばら、えぞやまどり、しまえなが、のびたき、かけす、きびたき、るりびたき、しぎ、うみがらす、つつどり、きんくろはじろ、かるがも、こおりがも、おおせぐろかもめ、おいらんかもめ、うみしぎ、ちどり、うのとり。
見ていると、ほんとにみんなが生きているようです。こうしたいろいろの鳥や小鳥が樺太の山や海に飛んだり
まだまだいろんな小鳥がいます。
坊や、
それからまた、博物館にはいろんな
大熊、
海で泳いでいる獣には、おっとせい、あざらし、おおあしか。
おおあしか、などは熊よりも牛よりも大きい海の獣です。うわううわうと
坊や、
それから、お魚では、いわな、かわかじか、かわひらめ、すなひらめ、さめ、ます、さけ、にしん、などが泳いでいます。
見ていると、
ほら、坊や、よくきこえるでしょう。谷川の音や、海の潮鳴りの音が。
みんなが、坊やの方へ跳ねたり、駈けたり、泳いだりして行ったら、どんなに愉快でしょう。
まだまだ樺太にはいろんな獣やお魚がおります。
坊や、
さあ、おやすみ、坊やのお国で坊やのいいお夢を御覧なさい。
とんとろ、とんとろ、とんとろとん。
[#改ページ]
樺太は
ああ、日の小さい小さい空。
笛だ。
あ、笛が鳴る。
何かしら薄ら寒いが、いい

その中に笛の音いろが澄みつつある。
吹いているのである。誰が吹くのか、その笛の
空と海との、この焦点。
ひょうひょうふりょう、りょうふりょう。
まさしくお能の囃子である。
私は私の
私の右にも左にも同じような籐の椅子が並んでいた。人々が腰かけていた。
帆綱の影、

うねるとも見えぬ果しもないうねりの丘陵。
はろばろとした波濤の畳みである。
宏大な海、小いさなのは私たちだ。
笛の音は
「あれは誰ですか。」
「Iさんです。あの頬髭のある。」
「何を吹いているのです。」
「羽衣でしょうか。」
そうだ、
「うまいのですかね。よくやっていますね。」
「うまい方でしょうよ。もう十年から稽古しているといっていました。舞台にも出るようですよ。」
「
「いや、
「玄人ですかな、あれで。」
「素人稽古の時はよく褒められたが、本気に遣り出してから
「そんなものでしょう。修業ですからね。お能の笛だけにはかぎりませんよ。」と私は初めて口を開いた。
「この頃臆していけないといっていました。」
「気合いひとつですからね。」と、また誰かがいった。
「それで何だそうですよ、稽古の時には
「それが腹なのでしょう。天性ですね。そうしてそれが心法にもかなったものでしょう。」
「型ばかりに囚われてはあがきがつかないということになるのですか。」
「先ず、そうでしょうな。」
Iさんは吹いている。
白い支那服の白髯の和製タゴール老人が大きな眼鏡の片紐を垂らし垂らし、ゆうらりと歩いて来た。
「やあ、来た来た、ロッペン団長。」と二、三人が手を
「あっはっはっ、つまらねえでさあ。」とタゴールさんは、無雑作に
「つまらねえもないでしょう。
「御同様でさあ。ばらしますぜ。」
「御同様でもないな。」Fさんがまた眼鏡越し。
「そりゃあ、えらいの何のって、とてもだからな。這入るなりヤッというと矢庭に飛びかかって握手した、あの凄さと来たら、あっはっ、とにかく
「何処でだい、いったい。」とこちら。
「はっはっ、つまらねえでさあ。」
「や、ちょっとおもしろい処です。なにしろ、お相手が十六、七の、はっはっ。」
「
「あっはっはっ。」「あっはっ。」「はっはっはっ。」となる。
「といえば、なんでも豊原では馬車でお乗り込みだということで、もっぱらの評判ですぜ。」と、誰やらが左の隅から延び上った。
「いや、あれはみんなで行ったのさ。物は見て置けというのでね。」とロッペン団の一人。
「そうそう、何でもないのですよ。ただ素通りで一遍だけぐるりと廻って見ただけのことです。新聞記者や土地の人も附いていましてね。盆踊りがあるというので行ったが駄目でした。」と私。
「だが、このお爺さんには驚いたよ。あっはっ、矢口の渡しの頓兵衛見たいで、ずかずかと這入って行くのでね。いや、閉口だ。」と庄亮。
「A君もA君だよ。石橋の
「いいお坊っちゃんさな。警部さんならちと
「いや、つとめたいとは思いますがね。どうも。」と若いA君は、そこで赤くなって頭を掻いた。チラと眼鏡の下から大きな眼がはにかむところで、
「そりゃあかん。」と扇子をパチリは右の三番目だ。
ああ、笛だ、笛だ。
「ところで、この夜明けまで、踊りに踊りぬいた人がありますからね。おもしれえおもしれえ。」と庄亮。
「へへえ、」と、みんなが
「これは聞きものだ、何処でです、いったい。」
「豊原のあの、あそこの大通りでだよ。あっはっ。面白うございましたでしょうよ。」
「やあ、ありゃ面白かったよ。盆踊りが盛っているというのでね、歌会の後で、歯科医のS君と一寸廻って見たのさ。すばらしかったからね。つい飛び込んで踊ってしまった。S君がヘルメットにステッキで、硬直しきりの、後ろからどっかの国の侍従武官兼警視総監というところだ。踊ったなんて絶対秘密になさいと、帰りに耳うちした。」
「はっはっはっ、絶対秘密が自分でばらしちゃ何にもならん。」
「そうかな、困ったな。」
りょうりょうふりょうと笛が鳴る。
昨晩のA西洋料理店の饗宴はまったく愉快だったなと、私は心から微笑した。
樺太で同好の士を幾人も見出したということ、私の育てた児童自由詩の揺藍学校である山梨は鳳来小学の校長であった高橋君が、大泊に転任していて、偶然にも逢いに来てくれたこと、それに『日光』の同人である
「ええ、今晩は皆さんに逢えて大いにうれしい。」と来て、「この先何かいおうと思ったが、何だか
だが、もう、昨日のことになってしまったのだ。私は今、オホーツク海を北へ北へ、二百六十浬の彼方、ツンドラ地帯は
信行君のお姉さんは歌った。この白秋の童謡を。あの夫人は音楽家だ。
どこかで
わたしは見てます。待つてます。
何だかそはそは待たれます。
内では時計も鳴つてます。
鈴です。鳴ります。きこえます。
あれあれ、
いえいえ、風です、吹雪です。
それでも見てます、待つてます。
何かが来るよな気がします。
遠くで
私たちの、樺太の冬はちょうどこの通りですと、外の諸君も附け足した。
何の期待ぞ。
ただ、波、波、波、
笛の
「だが、二、三日でも船を離れて、こうして還って来ると、まったく、自分の巣にでも
「そうそう、ほっとしましたい。」
「それにどうも
「まったく、目まぐるしくてね、何を見たんだか探したか、わかりゃしない。」
「はっはっ、こうしていつも揺られているとね、揺られているのがほんとうで、何でもないのがかえって不安心なような気がしたものさ。」
「震災後、余震のない日に限って妙に寂しく思えたようにね。」
「そうだ、そうだ。」
「どすが、こないにしてまた何処へ連れて行かはるか
「寒ざむともして来るし。」
「何処を見たって波と空だしな。」
「猥談でもやりますか。」
「あっはっ、そこはNさんのお手のものでがしょう。」
「ふふ、つまらねえでさあ。」
「なにしろこうなると、この船一つがたよりでな。」
いや、笛の
「神様という気はしませんかね。」
「驚いたな。いやに突拍子もない声を出すじゃないか。」
と、みんなが笑った。何というかすれた笑いだろう。
「神は死せりさ。ふん。」
「
いわゆる微苦笑が私の頬にのぼった。
「どうしたんだい。」と庄亮。
「いや、ちょっと思い出したんだ。羅風がね、非常に怒っていたんだ。どうしたと訊いたら、「K雑誌」は
「あっはっはっ、こりゃおもしれえ。」と、庄亮大喜びで泳ぎ出した。
「羅風さんは、そう神様神様とお仰いますか。」と、また一人が乗り出した。
「ええ、それはね、羅風君はカトリックの実に熱烈な信者だし、トラピストへも三、四年は籠っていましたし、しぜん神という言葉が詩に現れると思います。神を思うことは羅風君としての唯一不断の道ですからね。」
「じゃあ、酒を思うことは君の道かい。」と傍から。
「そうしてまた、庄亮の道かい。」
「あっはっは。」と、哄笑して、そうして軽く「まいったまいった。」と頭を動かした。
「だがね、羅風もよくいうよ。僕が
笛が鳴る。笛が鳴る。
「で、コワルスさんとかに逢いに行ったのだね。」
「うむ、歯科医のS君が羅風の手紙を持って見えたろう。謹厳な硬直した態度で、あの人が下座に
「どんな人だったい、その宣教師さんは。」
「いい人だった。黒い長服を着て、すっかり宣教師タイプに出来ていた。眼が柔和でね、顔が林檎いろで、頭はつるつると禿げ上って、髭や頬髯のやや
「何か話があったのかね、君。」
「いや、前から知らしてあったので、すぐに出迎えてくれた。スリッパを出してくれたので、靴を脱いで上った。握手するのかと思って手を出しかけたが、向うは純日本風で挨拶したので、こちらも差し控えた。
「樺太長官はどうです。」とF君が声をかけた。
「ああ、あの訪問ですか。」
「はっは、あれには驚きましたね。不得要領きわまるんだ、実際。」
「風采はあがらないが、あれでなかなか如才ない方でしょう。でも官僚は僕の性に合いませんね。」
大きな大きなガランとした階上の一室にその痩せ形の長官某氏が納まっていた。大きなテーブルには書類が少々散らばっていた。牧畜家のH、
植民について、||土地選定、土地区劃、土地処分。農業移民の生活状態について。畜産について、また林業について||造林、保護、調査。水産、或は教育について。
「ええ、実はそのお。」「ええ、実はそのお。」で、やや
廊下へ出ると、F君が、ああああとやった。
「不得要領な男だなあ。」
少くとも私たちは何一つ与えられないで、公会堂の歓迎会席場へなだれ込むより外なかったのだ。
「
「だがそのぉ、あれでなけりゃ身が持てないんだよ。要領を得ちゃすぐに没落だからね。だから僕はそのぉ、お百姓になろうてえんだ。のんきだぜ。」
笛の音いろは一色に、りょうりょうふりょうと鳴っている。
「ゴルフはどうですか、皆さん。おやりになりませんか。」
Mさんはすっかり
「一万円。」と、ほろ酔のいい機嫌の紅ら顔の、胡麻塩頭の、それが眼鏡の底の目くばせで、私へ向いて、またつっつっと通り過ぎたは浜の輸出商Cという小柄の老人。
そこで、私は庄亮を見た。どうにも笑いがこみあげる。
それは小樽を出ての海上の夜の食堂のことであった。いい気持ちに陶酔したC老人は、突如として私に年一万円の補助を申し出た。
「北原さん、洋行なすっちゃどうです。及ばずながらわたしが三万円御用立てしましょう。年に一万円ずつ、三年ですぞ。」
私は困って笑っていた。
「占めた。」と庄亮、
「こりゃうまい、白秋君、証文をひとつ書いてもらっとこじゃないか。」
「ようし。」とC老人、早速に半紙に書きなぐった。
「A博士、ひとつ御証明を、そのぉ願います。」
A博士は謹厳であった。容易に筆を執ろうとはしなかった。そこで、
「Mさん、どうです。」
「あてか、さよか、よろしい。」と、自称美術家のパトロン、M老人、つるりと
「占め占め。」と、庄亮、
「飲もう。大いに飲もう。」とC老、ふらふらと立ち上ったが、また私を見ると、
「三万円、一年に一万円。」
小鼻に一本、直指の型だ。
だが、その翌朝になると、何か会っても鼻じろんだ、それがまた、酒気に乗って来ると、そら、また、「一万円。」である。
ところで、此方だが、うっかり忘れていたのを、ふっと気がついて蟇口をあけて見たその後のことだ。
「あっはっはっ、こりゃおもしれえ。あっはっ。」
「何だい、どうしたんだい。」
「おもしれえおもしれえ。」
と、証文の一札である。
金壱万円也 北原白秋
とある。「これはそのぉ、白秋にぃ一万円贈る、あっはっはっ、じゃあないんだね。君の値段がぁ一万※[#小書き片仮名ン、319-9]。」
「おやおや。」
「やあ、は※[#小書き平仮名は、319-11]ぁ、まだおもしれえぞ、ききたまえ、わて、しりまへん。あっはっ、これがそのぉ、M爺ぃさんのぉ。」
「証明かね。」
「あっはっはっはっ。」
そこで、二人が腹をかかえて転げまわったものだったが、知るや知らずや、またまた一万円である。
「あの人も寂しいんだね。」と私も見送った。
と、
でれでれと二等の一組。男は中脊の目尻下り、女は髪を等分の、これはこってりの、おちょぼ口。その恋々相愛の、手に肩、肩に頬を寄せて、私たちの見る眼も
「なんだい、ありゃ。」
「
「あれが君、評判の
「袋叩きにしようという、あれですかい。」
「あっは、何でも
「へへえ。」
「そして
「いよういよう。」
笛の音いろが消えかかった。
「やぁ、はぁ、これは先生、かけちがってお目通りもし申さんで。ええ、いかがで、一杯。」
車輛会社のS爺さんだ。ずいぶんきこしめしている。
「やあ、先生、飲んまっしゅう。ひさしぶりですたい。この二、三日、
九州男のYだ。これは豪傑、胸をはだけて、ずしりずしりとやって来た。これも少々酔っていた。
「後で行くよ、君、今晩。」
「来なはれ。かまわん。あん爺さんも寂しかと、いよらっしゃる。吉植さん。」
「酒はごめんだよ。まだ
「なっちょらん。そんならよか。」
あ、また、行ってしまった。
「みんな、変なんだね。」
「なまじ
「それに北へ北へと渡るんではね。」
ぽつり、
ぽつり、
ぽつり、
ぼつり、
ぽつり、
ぽつり、
ぽつり、
ぽつり、
ぽつり、
人は一列、元の籐椅子、右も左も同じ高さの頭である。
霧がさあっとかかって来た。
なんと黄色い日の
と、
はったりと笛の音いろが止んだのである。
急にはずむエンジン、
スクリュー、
舷側の波の裂けて砕ける音までが、白い嵐を吹きあげる。
オホーツク海だ。
やっぱりオホーツク海だ。
笛は袋にしまったらしい。
[#改ページ]
光なし、
日の
かがやかず、
オホーツクの黒きさざなみ。
影は無し、通風筒の
帆の綱が
眺めやり、うち見やるのみ、

寒しとし、暑しとし、ただ、
霧と風、
われは
酔はむとも、醒めむとも、まだ。
燻し空、かがやかぬ波、
見はるかす
[#改ページ]
や、黒い牛がいる。
私が揺り上げ揺り
上陸して見ると、敷香はかなりの寒村であった。そうして到る処が灰色の砂地であった。それで海岸道路には
河口を少しくのぼった
「
私は
「おほほ、もうじきですよ。」
と、女のひとりは
河の水は一面にちらちらしていた。利根川のように洋々たる大河であった。オロチョンギリヤーク土人の
内地の小さな村役場くらいの物産陳列館にもはいって見たが、豊原のを見た目には別に取立てて変った種類もなかったので、おそろしく深々とした熊の毛皮の外套や、防寒帽子、
部落はたいした町家並にもなっていなかった。どの家も平家で、半ばはお粗末なバラック風であった。露領時代の名残も見えた。草もぼうぼう繁っていた。いちばん広い通りかと思われる砂地の十字路に出たところで、私は
「いいだろう、これ。」ぽんぽんと、こちらも叩いて見せた。それからふっと気がついて私は訊ねて見た。
「あ、君だったね、絵葉書に写っているのは。」
「やだア。知らないよ。」
「それは何なの。」
「石油。」
「君の名は。」
「セーニャ。」
そういって、その瓶を目よりも高く差し上げると、また飛び跳ねる
河畔へ出て見ると、休憩所の周りは既に群集で埋っていた。何と珍らしい樺太の晴天であったろう。光り輝く数百の麦稈帽の反射は近い水面を、空気を、砂地をことに眩ゆく
川の上手から静謐な、光り輝く
「来た、来た、金太郎金太郎。」歓声がひとしきり揚った。
オロチョン族の金太郎は少からず人気男と見えた。競漕でもとうとう彼の一組が美事に優勝した。
あの土人どもの無智な
「来たね。」
「うむ。」
「君の家何処なの。」
「ショウヒン·········ふふっ、あの横。」
「パパは。」パパでもわかるかと思って訊いて見た。私は露語を知らなかった。
「死んだよ。いないよ。」
「ママは。」
「いるよ。ミルク、初めたよ。牛ね、一匹いるよ。」
ああ、あの砂浜に出ていたのがそうだったかと私は微笑した。
「君たちは何処から来たの。」
「アレキサンドロフスキー。」
「
「去年、去年の前、あ、忘れた。」
「パパは何していた、
「うむ、お百姓、牛ね、羊ね、いたよ、沢山、パパ殺された。」
「ほう、どうして。」
「バルチザン、悪い人。みんな逃げた。お金もって。」
其処へ、また、赤や黄や濃い藍染めの更紗
私はポケットからドロップの紙袋を取り出すと、少しずつみんなの
「君、何というの。」
「マッチョ。」と十歳ばかりの女の子が答えた。
「君は。」とまた私は次の女の子に訊ねた。
マッチョが「ウンノック」と代って答えた。
「この小さい子は。」
「ムンムック。」
そこへもっと小さい赤子を抱いて来た
「オロチョンギリヤークの不潔さといったら、顔ひとつ洗わず、何もかも着物で拭くんですからね。それに米も麦も食べません。魚の干物ばかりで生きています。奴らは夏になると河のそばへ出て来て、冬は山地に籠るのです。」と、傍から私に話した。みんなが無表情な
「君の家へ行こうか。」と私はセーニャを振り返った。
「うむ、ミルクがあるよ。」とセーニャは駆け出した。
*
セーニャの家は広い砂地の通りに面した丸太組の小舎であった。窓の下には背の低くて小さい
「取っておくれよ。」
「そっちから取れない。」
「やだなア、うん、よし、||ほら。」と葉と
はいり口の横には貼紙に「ミルクあります。」と
内へはいって見ると、二
と、ママが奥から出て来て、眼で会釈をすると、すぐに善良な
私は先ずミルクを所望した。
セーニャが今度は後ろから、姉さんの首ったまにかじりつくと、
「セーニャ、姉さんは何という名。」私はそれで程よく
「イフェミヤ。」
イフェミヤはその乱れた前額の毛をわざと
「はる、る、る、る。」
それから、
「イフェミヤ・ベリヴェヤワ。」
私は黄色い小型のノートを取り出した。
「どう書くの。書いてお見せ。」
イフェミヤは直ぐに立って来て、私から鉛筆を受取ると、一字一字力を籠めて書き記した。
「ベペエデエバ。」と私が読むと、
「ベリヴェヤワ。」
「ベリヴェヤラ。」
ほっほっとママまで腹をかかえた。そうして、「ううむ、駄目。」と含み声でつっと身をねじらした。
b=B
B=v
B=v
眼を近々と寄せた彼女たちの字を書く時こそ一生懸命であった。
「神戸······いい。」
「え、いい。どうして。」
「十月行く。此処だめ。」
「なぜ駄目なの、いいじゃないか。此処。」
「駄目、
「
「だって、ここは日本だろう。」
「日本いい。赤わるい、おそろし。」
これは私も今度聞いたが、バルチザン滅落後も北樺太の
「お金あるよ、千五百円。」
ママは
「牛売ります。ね。」
何と、ロスキーの大まかで、善良で、無邪気で、一本気で、また開放的でやりっぱなしであろう。こうしたのがいわゆる露西亜
それ位で知人もない神戸へ行くのは危険だ、それは
「神戸行きます。商売する、ね。」
ところへ、どやどやと一行の四、五人がはいって来た。室内が急に賑やかになった。
そこでこの肥って善良な七面鳥が奥の室から
安来千軒えええん···う···う
それから「江差追分」「八木節」「博多節」などに変って行ったが、青わるいので、そこで誰かの帽子を裏向けにすると、みんなが銀貨のなにがしかを投げ入れた。ママさんなかなかお世辞がよかった。そうして非常に喜んだ。なるほど、これもやっぱりいい手だなとやっと私は気がついた。別にミルクホールでもないのに私たちのような気まぐれの訪問者も断りも兼ねて愛想をふりまくことも、亡命者の弱気と遠慮とだとばかし推察して、いささか
「さあ、写真を撮ろう。」と誰かが先きへ立って出ようとすると、セーニャがいちばんに外へ飛び出した。と、
昼飯過ぎてから、一行が舟でツンドラのフレップ摘みに行くが、行かないかと誘ったらセーニャを初めその従兄の青年までが大喜びで約束した。全くこの僻遠の地で、三百人という文明人||彼女らから見れば||の集団をかつて見た事もなかったろうし、その常に憧憬している日本内地の都会生活者と伍して半日の遊楽をほしいままにするということは彼女らにとって望外の幸福を感じずにはいられなかったろう。セーニャは今度は表から金盞花の二つ三つを摘んで私にくれた。
「じゃあ、待っているよ。」
「行くよ、すぐ。」
*
ツンドラ地帯清遊のことはまた筆を改めて精細を尽したい。ここではベェリヴェヤワ一家の事を主題とするからである。ただ二隻のランチに一隻ずつ曳かれた私たちの大
ツンドラ地帯とは
帰航の時、私たち一行の舟は右岸の
「金太郎、金太郎。」
と、セーニャが伸び上って手を拍いた。
「おおそうか、金太郎がいるのか。」
「金太郎万歳アい。」
と、またひとしきり舟の中ではざんざめいた。そうして休憩所の前に著いた頃には、もうそろそろ日の光も黄色く

それから
例の肥ったベェリヴェヤワのママは左右を眺め眺め、さも名残惜しそうに、それでも眼では笑っていたが、舟の出しなに、いきなり大きなスカートを舞わして飛び込んで来た。送ってゆきたい、高麗丸の
「セーニャ、セーニャ。」とママが呼んだ。
だがランチは旋廻し初めた。濛々として
ママは何か大声で呼び続けた。たぶん牡牛を家へ連れて帰るようにとでもいいつけたことと思われた。
高麗丸はこの沖合ではいかにも壮麗に、またいかにも文明の高貴な象徴であるかのごとく眺められた。そうして
日が赤く円く、それでも鈍く寒く、今はオホーツク海の遥かに沈みつつあった。はてしもない北方の夕焼けが次第に空には濃くなって来た。
セーニャは泣き泣き牛のいる傍まで駆けて来た。
「セーニャ、さようなら。」
「セーニャ、さようなら。」
セーニャと黒い牝牛とが、ぽつりぽつりと、砂浜の
[#改ページ]
さあ、いよいよ
読者諸君。
私はもうじりじりしていたのだ。旅程が長くて、いつまでも私の筆はこの目ざす一大驚異境に達しなかったからだ。
来た、来た。今度こそは縦横無尽だ。
飛躍、飛躍。
海豹島こそ
この海豹島は眼前にあるのだ。
ブラボウ、ぼうぼうぼうぼうおうと汽笛が
八月は二十日の黎明、オホーツク海の暁色。
黒だ||島だ。
一浬。
万歳。
青だ。ああ、透明だ。||赤だ、
あ、小さい太陽、朱だ。北だ。
波、波。紫紺の波、波、うねり波、
光、光、光、光、金の閃光、運動、
かっきりした水平線、
鳥だ、あ、ロッペン
飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。
飛ぶ、
飛ぶ、
黒、白。黒、白。黒、白、白、白、
白、白、白、白、白、
黒、
黒、黒、
ひりいりい、ひりいりい、ひょう、
ひょうと来た、
何と、世界より大きく見える翼、
一羽が来た。
鳥鳥鳥鳥鳥
鳥鳥鳥鳥鳥
鳥鳥鳥鳥鳥
鳥鳥鳥
鳥鳥鳥
鳥鳥鳥鳥
鳥鳥鳥鳥
鳥鳥鳥鳥
鳥
驚く。驚く。
黒上衣の、白
鳥鳥鳥鳥鳥鳥鳥鳥なのだ。
ロッペン鳥の懸崖、岩壁||断層面。
いや、島自体がロッペン鳥の断層なのだ。
正面きった。
と、展開、第一光景となるのだ。
[#改ページ]
島は小さく低かった、頂上は平坦で。
ちょうど、四六版の本を横に見た形だ。
まだほの暗い、藍鼠の
赤い、豆の太陽の南、影になった懸崖の残雪、
と観たが、違った。
生きている、生きている。
動いている、動いている、動いている。
生長し、生殖し、受胎し、産卵し、展望し、喧騒し、群立し、思考し、歓喜し、驚異し、飛揚し、
こちらは高麗丸の右舷、中甲板の
「いったい、何羽いるんだ。」
「三十万。」
「ほう、三十万。」
「わかりゃしないさ、計算できるかい。」
「坪で計るんでさあ、坪で。」と水産課だ。
「ペンギン鳥とはちがいますか。」
「ちがいます。似てはいますがね、
「直立しているんだね。ありゃ、おもしろいな。」
「あれで卵を一つずつ両股の間に挟んでいるんですよ、みんな。」
「へえ、どんな卵です。」
「それは綺麗ですよ。青磁いろで、黒い
風だ。
光だ。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
「やあ、飛んでる、飛んでる。」
岩壁の
白光、
赤光、
紫金光。
閃々光だ。
「あ、啼いてるようだな。」
「こりゃひどい、とても
「決死隊だな。一番やっつけるかな。」
飛ぶ、
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
飛ぶ。
[#改ページ]
「坊や。」と私は心で叫んだ。
どうしたんだ、いったい、私は。
藁壁の
「君、君、白秋くうん、そのぉ、
「膃肭獣かい。」
そうだ、此処は海豹島なのだ。
オホーツク海は樺太の東海岸北知床岬の南方十
晴天だ、すばらしい。
何とこの
岩壁に密集したロッペン鳥の風景は、空の
汽笛が吼える。巨大なあらゆる通風筒の耳、
噴き出す湯気、大煙突。
海上の一大宝塔||高麗丸。
その汽笛のぼうううは島と空とに
空腹だ。ぼうううう。
パパ、おまんまァアアアア。
私は涙が流れかけた、双眼鏡の下からだ。
「や、日の丸だ、おい。」
島の最高部、柱が天を
「膃肭獣は見えないかね。君。みんな騒いでるがね。」
「待ちたまえ、や、赤い家が見える。」
「見えてるよ、さっきから。監視人の
「膃肭獣は向うっ
「なるほど、変だと思った。」
「いる、いる、ほら、あれがそうらしい。」
黒い点々々、
右の砂浜の
あ、ざんざら波、
一面の反射光。
銀、銀、銀、銀、
天気晴朗なれども浪高し。
ところで、白い帽子の白詰め襟の老ボーイ、食堂の入口に現れるなり、
「一杯やるか、
「祝杯、よかろう。」
||麦酒、
あ、坊やの声だ。
[#改ページ]
赤塗りの羽目板の家はたしかに監視人の小舎であった。
ほんの
塩漬肉の貯蔵庫、
撲殺人の粗末な宿所、その外の砂地に散乱した白い獣骨、
此処まで上陸するにはそれこそ一通りの騒ぎでは無かったのだ。
迎えのモオタアボートが
米領「プリビロフ」露領「コンマンドルスキー」そうしてこの日本領の海豹島(露名、チュレニ島、ロッペン島)。世界に三つしかない
「万歳。」と上から歓呼した。
たちまち、波濤が渓谷になり、丘陵になった。
「やっ、
頭のぬめっこくて円い、黄色い頬っぺたの、眼の柔和な、髭の目だつ、人魚のようなのが上半身を出すと、またすぽっと
「行けっ、スピード。」
私は、そうだ、全く胴ぶるいを禁じ得なかったのだ。
海豹島、幾万の膃肭獣と、海豹と、
想像だも及ばぬ未知の世界がもうすぐに私たちの眼前に展開されるのだ。
と、横合から、なだれが、波飛沫が滝のように落ちかかって来た。私たちは外套をひっかぶった。
それからどうにか伝馬を着けると、ひらひらと
前にいった赤い木造の監守小舎の横から、島の上へとつけた道がある。登りかけたところで、
ぎゃお、わお、がお、うわァああ、わお、
ぎゃおお、うわうう、ぎゃお、わあ、わお。
ぎゃおお、うわうう、ぎゃお、わあ、わお。
愕然として
と、
私たちは夢中に駈け上った。有頂天で。
岩角へのしかけて、三方に板を囲った見張り
何とこの無人の、原始の、海獣の渾沌世界の、狂歓の、争闘の、蕃殖の、赤裸々の、瞬間の、また永遠の真実相であろう。
無慮三万の膃肭獣、
と聞いた。
「あっ被服
肉眼で観た、全く。
累々とした被服廠の死屍、まるであの惨憺たる写真のとおりだが、これはまさしく現実に活動し、
ぎゃお、わお、がお、うわァああ、わお、お、お、
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、わお、おう。
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、わお、おう。
この不可思議な、この世のものとも思われぬ光景は、このグロテスクな黒褐色の群棲の集団は、言語にも想像にも絶したこの北海の膃肭獣の生活は。
私は観た。右を、左を、前方を、下を。
左の岩壁には、頂上には、密集した黒と白とのロッペン鳥が幾層積を成して、規律正しき燕尾服の紳士行列を作っている。また進行しつつある。
岩菊、浜菜、もるちの
黄だ、黄だ、黄だ、緑だ、金だ。
その下の砂浜一帯の海獣の裸臥像である。
また遠浅の遊泳群の擾乱である。
頭、
頭、
頭
頭
頭、頭、
頭
である。
何とまた空は蒼く、海は無際限に黒く、日は燦爛と明るいことだ。
見ろ、この膃肭獣の集団を。
ぴたぴたと潮に濡れた膃肭獣は頭が円く、毛がなめらかに、いかにもその後ろ姿までがしなやかに見える。黒い魚のような皮膚の光沢をしている。
だが、陸に上って既に日に乾いたものは熊のように黄褐の毛が逆立ち、頬の髭が強く張って、いかにも
牛のごとく吼ゆるもの、
図体の憎々しく大きく、群獣をぬいて高く怒号するもの、
うそぶき、笑い、闊歩するもの、
ごろりと仰向きに臥ている
(暑いんだな、あいつ鰭を
へとへとに熟睡しているもの、
乗しかかって噛み合い、吼え合い、
血を流し、また荒れ狂うもの、
逃げるもの、追いかけるもの、
悠々と独歩し、離れてまた
驚いて救いを求め、
乳児を抱き、哺乳するもの、
また、
砂をかけ合う無邪、
旺盛な精力、実にすばらしい生殖慾、
母愛の
煩悩、嫉妬、
頭と頸とを重ね、
口を寄せ、
また無関心に
急に驚いて
海に飛び入り、
連れて飛び入り、
跳躍し、潜水し、
泳ぎ返るもの、
子を泳がせ、また突き落し、
魚群をしきりに追いつめるもの、
鳥の毛の飛ぶふわふわを捉えんとしては身をすくめるもの、
鳥の毛といえば、こうした真夏の岩壁寄りを幽かに風に吹かれて飛ぶものもある。
白いのは
群獣の中にあるのは雪のようだ。
黒い
ロッペン鳥も下りている。鴎はまた膃肭獣の棄てた胎盤をもらうのだ。
そして、また、
飛ぶ、
飛ぶ、
飛ぶ、
飛ぶ。
ぎゃお、わお、がお、うわァああ、わお、おお、
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、わお、おう。
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、わお、おう。
吼える、
吼える、
吼える、
吼える、
吼える、
ぎゃお、わお、がお、うわァああ、わああ、おおおおお。
逞ましく牡牛のような巨獣の王が、また
首を高くもたげて仰いだ。
太陽は空にあるのだ。
[#改ページ]
読者諸君。
私は監守の小舎を訪ねた。
先客にはすでに
粗末なガランとした室内、大きなテーブル、椅子四、五脚、多少の器具、雑書、壁に引かけた帽子、外套、極めて簡素で単純な色彩であった。
私は
私が今現像しようとしている幾多の映画は眼前
そこで映画「ハーレムの王」となる。
[#改ページ]
うわおう。
天を仰いで咆哮する巨大な海獣一頭、
髭荒く、牙鋭く、頭毛逆立ち、眼光
ハーレムの王である。
うわおう。
再び彼は咆哮した。
堂々たるその勇姿、絶倫の性慾、全身の膨脹、悪戦苦闘の恐るべき
砂上だ。
背景は
うわおう。
ぎゃお、わお、がお、うわァああ、わああ、
おおおおお。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
来る。
点々と、
団々と、
騒々と、
先駆し、雁行し、競走し、
密集し、乱擾し、軋轢し、潜航し、
跳躍し、
跳躍し、
跳躍し、跳躍し、跳躍し、
ああ、燦爛、冥々、燦爛、陰々たるオホーツク海一面の反射と影、影、影。
飛沫をあげ、
飛沫をあげ、
飛沫をあげあげ、
すばらしい海獣の群、
千頭、二千頭、三千頭、五千頭、
と、
飛んだ、
宙に大きく近く、
ロッペン
両翼を張って、ひらりと、
画面を横断して、
消える。
と、
飛ぶ、飛ぶ、
飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ、
飛ぶ、飛ぶ、
飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ、
飛ぶ、
飛ぶ、
「キイキイキイ、待ってた。」
「キイキイキイ、来た来た。」
「キイキイキイ、万歳。」
「キイキイキイ、万歳。」
「キイキイキイ、ハーレムの諸王万歳。」
時は五月の中旬、珍らしい晴天、
ロッペン鳥渡来後一ヶ月、
樺太は東海岸、北
「ロッペン鳥万歳。」
「万歳。」
「異変ないか。」
「無し。」
よしと、先駆の海獣、
挺身した、高く高く、
一飛躍。
岸壁の断層||数万羽のロッペン鳥、
画面を斜めに仕切った砂浜、
波打ち際の
噴水のごとき
来た、来た。
黒褐の肉体の波、波、波、重く、濃く、滑らかに、張り満ち膨れて、弾力性の、眼の光る、髭の立った、重なり重なり打ち寄せ押し寄せ、後から後からと部厚に部厚にうねりうねり、盛りあがり躍り立つ、||
がばと上陸した、
一頭、
二頭、三頭、四頭、数十頭、
来る。来る。来る。
後から後からと続いて来る。
飛ぶ、飛ぶ、ロッペン鳥が
「ハーレムを、ハーレムを。」
彼ら成牡(ブル)の大群集はかくして海豹島の東面の砂浜に上陸する。自己のハーレムを形成すべく第一に地位の先取権獲得、
排他、脅迫、防禦、突進、乱闘、流血、
ぎゃお、わお、がお、うわアああ、わお、お、お、
ハーレムとは一の
見よ、見よ、如何なるブルが最勝の最大のハーレムの王たり得るかを。
英雄児よ、
肉弾中の肉弾。
飛ぶ、
飛ぶ、
ロッペン鳥は飛ぶ。
濃霧だ、
月光だ、
陰惨たる岩島、
画面を黒く、
鳥。
冥々、闇々、
咆哮、
悲鳴、||血、血、血、
あ、蒼白い月光、たちまち、
薄らぐ霧、
海獣、海獣、海獣、
肉迫、乱闘、
ぐわう、ぐわう、がおかお、
わわわわ、わおわおわお。
濃霧だ、また、
岸壁の一角、
鳥。
曇天、
時として閃々たる白光。
進む、進む、
画面は左へ左へ。
点、
点、
点。
海獣の頭だ。
あ、
いる、いる、いる、
無数の廃残者、
海中の遁走者、
弱者、負傷者、
老大獣、
力尽き溺るるもの、波とともに盛りあがる、死屍、腐爛した頭。
再び跳躍し、潜行し、
飛沫をあげ、
海浜ちかく泳ぎよるもの、
また噛み合い、飛び越え、
仰臥し、
と、
灰黒色の大きな
あ、ブラボウ、
巨大な、若い英雄、ブル。
くわっとあけた口、
上顎、舌、
両頬の髭、
眼光。
砂上、黒雲の影、いよいよ盛んなる乱闘、
幾千の成牡(ブル)入り乱れてまさに
占領、奪掠、突撃、死守、
悶絶、再襲、
ああ、しかもまだ彼等が争闘の主因たる成牝(カウ)たちは遥かな遥かな水平線の向うにいるのだ。
ブル
全身をあげて彼らは
惨害||自己と地位の確守だ。
勝て。
弱者は
勝て。
その
眼、
眼、
おそろしく
岩壁の一角。
鳥。
キイキイキイキー。
無数の
飛ぶ飛ぶ飛ぶ飛ぶ、ロッペン鳥。
晴天、
六月の上旬、
ああ、とうとう
聴け、海豹島の地響きを、動悸を。
九千九百の、
いや、一万、二万の花嫁が来たのだ。
新らしき
しかもまた雲霞のごとく後から後から押し寄せるのだ。
北海の黎明である。
雲は微茫のうちにあって暗く、霧は涯しなく吹き満ち、水平線のかなた遥かに澄みとおる紫の空が透く。
その遥かな、太陽の生るるところより、生まんがために
彼女らは総てが懐胎しているのだ。
身は重く、しかも心は強く、世界の母性として、彼女らは万里の波濤を越え、風雨に堪え、陣痛の苦と新生の輝かしい希望とを
飛沫だ、
飛沫だ。
おお見よ、また、
黒く、青い、ささ
しかも重厚なうねりの盛りあがり、また
「花嫁が来た。」
一斉の咆哮、
驚天動地の大歓喜、世界の情慾。
それと見た幾千の
驚くべき俊敏。すばらしい
飛沫が立つ、立つ、立つ。
砂上の乱闘。咆哮、咆哮、咆哮、
ぎゃお、わお、がお、うわあああ、わお、おおお。
既に見よ、海浜に近づいて却って怯々として悲しく泳ぎ、恐れて
何と、あの顔のさびしさ、素直さ、
あっ、また波から
出した、出した。
あの眼、あの眼、
人間の母性に見る最も貴い、崇高なあの眼、あの眼。
やっ、飛びつく、飛びつく、
血みどろな、敗れてもなお
あっ、四方から挑みかかる、躍りかかる、
一頭、また一頭、
英雄よ救え、ハーレムの最大の王たるべきブル。
ぎゃお、わお、がお、うわあああ、わお、おお、
飛び入る、飛び入る、飛び入る。
しかもその時、牡牛のごとく猩々熊のごとき巨大なブル、
たちまちにして天を仰いで咆哮すると見るや、
万歳。
だが、だが前から前からと襲走する。
容易に上陸できそうにないのだ。
飛沫、飛沫、
なんと悲しい女性。
だが、だが、激しい陣痛の兆候は
必死のカウの上陸となる。
たちまちまた、波うち際の、前にも増した
むしろ凄惨な男性の性慾、暴力、所有慾、
飛ぶ、飛ぶ、
飛ぶ、
ロッペン鳥。
や、や、処女獣の大群が来た。あの中にこそ未だ汚されぬ、しかも
同じく砂浜、
岩角、監視所の下、
ハーレムの諸王万歳、
ハーレムの小なるも大なるも、既にその位置に拠って形勢された。
小なるは二、三頭のカウを、大なるは幾十のカウを、更に最も大なるは、百頭のカウを、それぞれに収容し、また神聖なる処女獣の幾頭をその保護の
大洋は
咆哮せよ、
汝らは勝ったのだ。
警戒せよ、
弱きはまた、追われ、殺され、盗まれるのだ。
不眠不休だ、ああ、これから愈々。
岩角、監視所、
木の囲いの上から大きな人間の顔が出る。
巨大に引き伸ばされた
その岩壁の下の
太陽光は輝々としてその花叢にある。
七月の
黒と白との寛洪な燕尾服の紳士、ペンギン鳥の
横向いて、なんと
蟻の黒い大きな触角が動く。
と、すばらしく拡大された幼獣のなめらかな黒い頭と
なんとその
微風が花弁を動かし、また耀やかす、
膃肭獣の児はすでに生れているのだ。おそらくは生後一ヶ月は経っていよう。彼らの母は上陸すると間もなく輝やかしい産褥に就いた。ハーレムの王たる英雄ブルの絶大の愛と保護とによって。
生れたものに
微風が岩菊の花弁を動かし、また輝やかす。
何か深く聴いている
巨大な蟻の触角である。
ここで、諸君、かつて記した海豹島第三光景となる。この「十一」の映画は惜しいかな、前に切り取って映したのでここには復写せぬ。が、とにかく、三万頭の膃肭獣により成る数千百のハーレムにおける
殊にハーレムの王中の王、その最勝王ブルは三百頭の
想像だも及ばぬ生きた「被服廠の死屍」さながらの、累々たる黒褐の、頭の、図体の、鰭脚の、本能次第の、無智の、性慾そのものの、阿修羅の、また自然法爾の大群集、その大群集を見よ。
ぎゃお、わお、がお、うわアああ、わお、おお、
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、おう。
ぎゃお、わお、がお、うわアああ、わお、おお、
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、おう、
ぎゃお、わお、がお、うわアああ、わお、おお、
ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わおおう。
だが、これらの強大なハーレムも遂には分裂する。
同じく海豹島は砂浜の南端、群棲場の光景。
哀れなるかな、激烈なる生存競争に敗れて気息
恥さらしの、孤独地獄の、しかもまた累々たる半死の膃肭獣の群棲場。
北の、砂浜つづきのすぐ近くには盛んな蕃殖場、咆哮、生殖、大歓楽。
眺めては眺めては悲しそうな、悔しそうな、諦められぬ、どうにもなれぬ、
彼らをこそまた、監視所の人間どもは撲殺してまわるのだ。暁天に、月夜に。
しかもまた、彼らの群棲場には一羽のロッペン鳥すら、ああ、頬の白く
今さら蕃殖の能力なき彼ら、彼等は早晩撲殺されるのだ。撲殺されて毛皮は売られ、肉は塩漬けにされ、また野師の手に買われてしまう。
「ええと、皆さん、ここもと御覧に入れまするは、樺太海豹島は膃肭獣の塩漬け肉でござい。何々ピン以上の滋養強壮剤、陰萎、腎虚の大妙薬、物はためし、効能霊験、万病の持薬、このごろ流行の若返り法などとは論外、ええ、膃肭獣の腎蔵||。」
波も
沖には処女獣、
ひらひらとロッペン鳥。
雲は白い白い。
群棲場の前の波、波、黒い波、
小さな岩、
岩の上には小さな黒い頭の
一頭、
また匍いあがる一頭、
二、三頭、
波が来る。つるりと滑り落つる幼獣、あっはっはっは、これはおもしろい。
三方四方からまた匍いあがる。
また波が揺り越す。
また滑り落つる。
なんと可憐な小供であろう。彼らは嬉々として遊ぶ、遊びを遊ぶ、日光と風と波とに。
何たる無邪、何たる永遠相。
ああ、また
海は彼らに笑っている、永遠にもの
説明者、
『童謡「北の海」を御紹介いたします。』
黒くて光らぬ
オホーツク海の波は
ざんざんざぶりこと
岩うつばかり。
岩へとあがるは
おつとせいのこども、
ざんざんざぶりこと
波が来ておとす。
またまた、顔出す
おつとせいのこども、
ざんざんざぶりこと
波が来ておとす。
いつまで遊ぶぞ
おつとせいよ、波よ、
ざんざんざぶりこと
お月さまあがつた。
オホーツク海の波は
ざんざんざぶりこと
岩うつばかり。
岩へとあがるは
おつとせいのこども、
ざんざんざぶりこと
波が来ておとす。
またまた、顔出す
おつとせいのこども、
ざんざんざぶりこと
波が来ておとす。
いつまで遊ぶぞ
おつとせいよ、波よ、
ざんざんざぶりこと
お月さまあがつた。
幕面の光景、次第に
蒼茫とした岩のうえの幼獣の群れ、
霧が幽かに飛ぶ。
第「一」の一頭の巨大獣再写。
天にうそぶけ、
ハーレムの王中の王、その最勝最大の王たる英雄第一のブル。
波濤、波濤、波濤、
渺たる海豹島の遠景、
暁天、
たちまち、
幕面を斜めに切って映ったロップ、
大汽船の
半側だけ見える巨大な通風筒、
と、ゆらりと、葉巻を
その顔が大きく微笑すると、微笑しつつ、いよいよ大きく、更にいよいよ大きく幕面いっぱいになる。
「ハーレムの王」
[#改ページ]
大正十四年八月、私は鉄道省の主催に成る樺太観光団に加わって、二週間に亘る汽船
フレップ・トリップ。
八月の日光、南風、波濤、
丈余の
パルプと断截機、
燦爛たる
黒とどの原生林、
露人の家々、
ツンドラ地帯の極楽園。
ああ、海豹島、三万の
今思うても実に愉快な旅行であった。
若かれと私は叫ぶ。
若かれ、若かれ、若かれと。