『エ、おい、べら棒な。恁 う見えても急所だぜ。問屋の菎蒻 ぢやあるめいし、無價 で蹈まれて間に合ふけえ』。
向合て立つたのは細目の痩形、鼻下に薄い八字を蓄へて金縁の眼鏡が光る、華奢のステツキに地を突いて、インバネスの袖を氣にしながら對手が惡いと見て、
蓋し『力は無かりけり』の標本男。
『エ、おい何とか言はねえか、物を言はねえかよ、唐變朴』
『··················』
『蹈んだら、蹈んだと言ひねえな、確かに私が、蹈みましたと詫びりや、すむ事 ツた。おい。』
『だから謝罪 たと云ツてるぢやないか、先刻から。』
『だから謝罪た、へん其樣な横柄な言草があるけえ、蹈みましたから、御免下さいましと云ふもんだ。何でえ、失敬しただあ。己あ其樣 に唐人言葉は知らねえ日本人なら日本の言葉で言へ、恁 う最う少し胸の透く樣な文句を利 いた者だぜ』
痛罵しえて意氣昂然たり。『··················』
『蹈んだら、蹈んだと言ひねえな、確かに私が、蹈みましたと詫びりや、すむ
『だから
『だから謝罪た、へん其樣な横柄な言草があるけえ、蹈みましたから、御免下さいましと云ふもんだ。何でえ、失敬しただあ。己あ
此の日
涼を取るべく連立た人。白い浴衣。黒い帶。萌黄の
香水、麝香、油煙、マニラの臭氣相混じて一種縁日臭を作り、靄々然として、人自らそが上を蹈み、そが中を歩めり。
『喧嘩だ、喧嘩だ、』
背中を突かれて驚く男、袂をくぐられて間誤付く女、跳ね飛ばされて泣くは子供、足下を攫はれて『ほれ喧嘩だ』
と、云ふとドツと一時に譬へば或る時、大目玉を引ン

『足を蹈んだのは僕が惡かつた、惡かつたから謝罪 る、ねえ君、これは僅かだけれど膏藥代に、な、納めて呉れ玉へ、さあ』
對手の心事、酒代にありと見て取つた若紳士は、事の組し易きを喜んで、手早く握つた銀貨、二枚、三枚、光る物手をすべつて男の掌に移るよと見る間に「『間拔奴、見損やがつたか、汝 、記憶 えとけ、深川の芳 兄いてで鳴らしたもんだい、手前達 の樣な、女たらしに、一文たりとも貰ふ覺えはないぞ、ヘツ、どうだい、その面 は、いやにキヨロツキやがつて、憚乍ら口惜しけりや腕ツコキで來い、白痴 ツ』
『女たらし』の一言に力を罩めて憤怒の焔燃ゆるが如し、果然彼には一物あり。相手は何處迄も御人好の御坊ちやまの、泣き出し相に、なさけない顏でおろおろして居るまだるつこさ、芳公の啖呵も折角、響が來ないので、聊か之も張合なさの此の處、年の頃十八九と見える色白の、
紳士の影に潛んで顏も上げず、
『斯う成つちやあ一番腕ツコキだ、さあ野郎、文句は言はずと、出ろ』
男は片脚はづして下駄を脱いだ。『イヨー、大哥 』
『えらいぞ』
『音羽屋ア』
『やつちえねえ、骨はおれが拾つてやる』
彌次馬の騷ぐこと、夕立の如し。『えらいぞ』
『音羽屋ア』
『やつちえねえ、骨はおれが拾つてやる』
『では、どうすれば好いんだ、ど、どうすれば······腕力なんて、野蠻な······僕は』
紳士は對手の權幕に、震へ聲を出して、殆ど、全く、實際、困つた樣子。此では到底喧嘩に成らない『いやにじれつたいな、何うにも、恁うにも、恐 かないなら、手を地べたに着いて謝罪んねえ、そこへ坐つて、チエツ、意氣地のない青二才だ』
「カツ」と痰を吐いたのが、胸の處へベツタリ絡みつく。『なにをする』
流石の男も、少し『失敬な、貴樣は』
『何だと』
芳は體を突き出した、苦み走つた、黒い眉毛がヒリリと動く。『何だと』
『やつちまへ』
『疊ん仕舞へ』
彌次馬の聲援、畢竟は我が味方と、芳は勇み立つて、『疊ん仕舞へ』
『あれ、芳ちやん』
此の時女は耐り兼ねて、紳士の『芳ちやん、お待ちツてば、アレ、そんな手荒なことを』
『何をする、賣女 』
芳の眼色は、急に變つて『う······うぬ、穢れだ』
滿身の怒氣を込めて、身を
隙を窺つて紳士は二足、三足、たぢろぐよと見る間に身を返して一目散、人垣の間を別けて行衞も知れず。
芳は狂氣の如くなつて、追ひ掛けんとした。人垣は急に崩れて、大風に偃す野草の如く、芳の通路を拓けども、何分多人數であるから、幾重にも犇犇と垣あり。
『邪魔するな、ヤイ』
前に立つた男を突き飛ばして、なお吼けり行かんとする先に、亦もや手を拓げた一人。『なぐれ』
『たため』
『しめろ』
雜然たる叫聲の中、殺氣は既に滿ち渡つて、氣早の若者は『たため』
『しめろ』
不意を打たれて芳は危く昏倒せんとして、僅に身を支へた、其處を、勝に乘じた群衆はなほ、執念強く、取り
折から
此の混雜の中、ほとんど夫れが、天から降つたかの如く、人人の眼には見えたであらう。ひらひらと
足袋裸足で痛痛しい、胸が
『
『殺せ、殺せ、妾を殺して······こ······この人に罪は無い、みんな妾が惡いのだから』
『堪忍してよ、芳ちやん·········』
『·········』
男は何か言はうとして、僅に手先を動かしたが『『·········』

『あれ』
屍を守る此の夜、風多くして、廿三夜の月が紺屋の