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水郷異聞

田中貢太郎




※(ローマ数字1、1-13-21)


 山根省三は洋服を宿の浴衣ゆかた着更きがえて投げだすように疲れた体を横に寝かし、隻手かたて肱枕ひじまくらをしながら煙草を飲みだした。その朝東京の自宅を出てから十二時過ぎに到着してみると、講演の主催者や土地の有志が停車場に待っていてこの旅館に案内するので、ひと休みしたうえで、二時から開催した公会堂の半数以上は若い男女からなった聴講者に向って、三時間近く、近代思想に関する講演をやったわかい思想家は、その夜の八時ごろにも十一時比にも東京行の汽車があったが、一泊して雑誌へ書くことになっている思想をまとめようと思って、せめて旅館まででも送ろうと云う主催者を無理から謝絶ことわり、町の中を流れた泥溝どぶあしの青葉に夕陽のふるえているのを見ながら帰って来たところであった。

 それはしずか黄昏ゆうぐれであった。ゆっくりゆっくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらえて、それが窓の障子しょうじの方へ上斜うえななめつながって浮いて往った。その障子には黄色な陽光がからまって生物のようにちらちらと動いていた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思い浮べてそれを吟味していた。彼が雑誌へ書こうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云う論文に対する反駁はんばくであった。

「御飯を持ってまいりました」

 じょちゅうの声がするので省三は眼をやった。二十歳はたちぐらいの受持ちの婢がぜんを持って来ていた。

めしか、たべよう」

 省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがったが、脇の下に敷いていた布団ふとんに気がいてそれを持って膳の前へ往った。

「御酒は如何いかがでございます」

 婢は廊下まで持って来てあった黒い飯鉢めしばち鉄瓶てつびんって来たところであった。

「私は酒を飲まない方でね」

 省三はこう云ってから白い赤味を帯びた顔で笑ってみせた。

「それでは、すぐ」

 婢は飯をついでだした。省三はそれを受け執っていながら、こんな世間的なことはつまらんことだが、こんなばあいに酒の一合でも飲めるとふくらみのある食事ができるだろうと思い思い箸を動かした。

「今日は長いこと御演説をなされたそうで、お疲れでございましょう」

 その婢の声と違った暗い親しみのある声が聞えた。省三はびっくりして箸を控えた。そこには婢の顔があるばかりで他に何人だれもいなかった。

「今何人だれか何か云った」

 じょちゅうは不思議そうに省三の顔を見詰みつめた。

「何んとも、何人だれも云わないようですが」

「そうかね、空耳だったろうか」

 省三はまた箸を動かしだしたが彼はもうおち着いたゆとりのあるんだ心ではいられなかった。急に憂鬱ゆううつになった彼の目の前には、頭髪かみの毛の数多たくさんある頭を心持ち左へかしげる癖のあるわかい女の顔がちらとしたように思われた。

「おかわりをつけましょうか」

 省三は暗い顔をあげた。婢がお盆を眼の前へ出していた。彼は茶碗を出そうとして気がいた。

「何杯目だろう」

「今度おつけしたら、三杯でございます」

「では、もう一杯やろうか」

 省三は茶碗を出してめしをついで貰いながらまた箸を動かしはじめたが、ぜんの左隅の黒いわんがそのままになっているのに気が注いてふたってみた。それはこいこくであった。彼はその椀をって脂肪の浮いたその汁に口をつけた。それは旨いとろりとする味であった。······省三は乾いた咽喉のどをそれでうるおしていると、眼の前に青あおとしたあしの葉が一めんに見えて来た。そして、その蘆の葉の間に一条ひとすじの水が見えて、前後して往く二三せきの小舟が白い帆を一ぱいに張って音もなく往きかけた。かじが少し狂うと舟は蘆の中へずれて往って青い葉が船縁ふなべりにざらざらと音をたてた。微曇うすぐもりのした空かられている初夏の朝陽あさひの光が微紅うすあかく帆を染めていた。舟は前へ前へと往った。右を見ても左を見ても青いあしの葉に鈍い鉛色の水が続き、そのまた水に青い蘆の葉が続いて見える。

(先生、これからお宅へおうかがいしてもよろしゅうございましょうか)

 わかい女は持前の癖を出して首をかしげるようにして云った。

(好いですとも、遊びにいらっしゃい、月、水、金の三日は、学校へ往きますが、それでも二時ごろからなら、たいてい家にいます。学生は土曜日に面会することにしてありますが、あなたは好いんです)

(では、これから、ちょいちょいおじゃまをいたします)

(好いですとも、おでなさい、詩の話でもしましょう、実に好いじゃありませんか、この景色は)

(ほんとうにね、何人だれかの詩を読むようでございますのね、蘆と水とが見る限りこんなに続いてて)

こいこくがおよろしければ、おかわりは如何いかがでございます」

 省三はじょちゅうの声を聞いて鯉のわんを下に置いた。鯉の肉も味噌汁ももう大方おおかたになっていた。

「もうたくさん、非常に旨かったから、つい一度にべてしまったが、もうたくさん」

 省三は急いで茶碗を持ってめしき込むようにしたが、いやなことを考え込んでいたために婢が変に思ったではないかと思ってきまりが悪かった。そして、つまらない過去のことは考えまいと思って飯がなくなるとすぐ茶を命じた。

「もう一つ如何でございます」

「もうたくさん」

「では、お茶を」

 じょちゅうは茶器に手を触れた。


※(ローマ数字2、1-13-22)


 けたたましい汽笛の音がしずかな空気をふるわして聞えて来た。それはその湖のへりから縁を航海する巡航船の汽笛であった。省三は婢がぜんをさげて往く時に新らしくしてくれた茶をすすっていたが、彼の耳にはもうその音は聞えなかった。彼は十年前の自己おのれの暗い影を耐えられない自責の思いで見詰みつめていた。

 それはじぶんが私立大学を卒業して、新進の評論家としてかたわら詩作をやって世間から認められだしたころの姿であった。その時も彼はやはり今日のようにこの土地の文学青年から招待せられて講演に来たが、いっしょに来た二人の仲間はその晩の汽車で帰って往ったにもかかわらず、彼一人はかねて憧憬どうけいしていたこの水郷のおもむきを見るつもりで一人残っていた。

 それは初夏のもの悩ましいわかい男の心を漂渺ひょうびょうの界にいざのうて往く夜であった。その時は水際みずぎわに近い旅館へわざわざ泊っていた。その旅館の裏門口ではやはり今晩のように巡航船の汽笛の音がうるさく聞えた。

 その夜はあおい月が出ていた。彼は旅館の下手しもてから水際に出て歩いた。そこは湖と町の運河がいっしょになった処で、彼の立っている処は石垣になっているが、前岸むこうぎしはもとのままの湖の縁でとびとびに生えた白楊はこやなぎが黒く立っていて、その白楊の下の暗い処からそこここに燈の光が見えている。彼は一眼ひとめ見てそれは夕方に見えていた四つ手網を仕掛けている小屋の燈だと思った。

 湖の水は灰色に光っていた。省三はめしの時にみょうな好奇心から小さなコップに二三ばい飲んでみた葡萄ぶどう酒のよいほおに残っていた。それがためにいったいに憂鬱ゆううつな彼の心も軽くなっていた。

 湖のへりはそこから左にひらけて人家がなくなり、傾斜のある畑が丘の方へ続いていた。黒いその丘ははるかの前にくずれて湖の中へ出っぱって見えた。その路縁みちぶちにも、そこここに白楊はこやなぎが立ち、水の中へかけてあし嫩葉わかばが湖風にかすかな音を立てていた。白楊の影になった月の光のさない処に一つ二つ小さな光が見えた。それはほたるであった。彼はその蛍を見ながら足を止めてステッキのさきを蘆の葉に軽く触れてみた。

 軽いゴム裏のような草履ぞうりの音が耳についた。彼は見るともなくうしろの方に眼をやった。そこにはわかい女が立っていた。女は別に怖れたような顔もせずにこっちを見ながら歩いて来た。

(失礼ですが、山根先生ではございませんか)

 女は頭をさげた。

(そうです、私は山根ですが、あなたは)

(私は何時いつも先生のお書きになるものを拝見している者でございますが、今日はちょうど、先生のお泊りになっていらっしゃる宿へ泊りまして、宿の者から先生のことをうかがいましたものですから)

(そうですか、それじゃ何かの御縁がありますね、あなたは、何方どちらですか、お宅は)

 こう云いながら彼は女の顔から体の恰好かっこうに注意した。すこし受けくちになった整った顔で、細かな髪の毛の多い頭を心持ち左にかしげていた。

(東京の方に父と二人でおりますが、このさきの△△△に伯母おばがおりますので、十日ほど前、そこへ参りまして、今日帰りに夕方船でここへまいりましたが、夜遅く東京へ帰ってもめんどうですから、朝ゆっくり汽車に乗ろうと思いまして)

(そうですか、私も今日二人の仲間といっしょにやって来ましたが、昼間は講演なんかで、このあたりを見ることができなかったものですから、見たいと思って朝にしたところです)

(それじゃ、また面白い詩がお出来になりますね)

(だめです、僕の詩はまねごとなのですから)

(先生の詩は新らしくって、私は先生の詩ばかり読んでおりますわ)

(それはありがたいですね、じゃ、あなたも詩をお作りでしょうね)

(ただ拝見するだけでございますわ)

 そう云って女は笑った。

(詩はお作りにならなくっても、歌はおやりでしょう、水郷は好いのですね、何か水郷の歌がお出来でしょう)

(それこそほんのまねごとをいたしますが、とても、私なんかだめでございますわ)

 湖畔の逍遥かられだって帰って来た二人は彼のへやで遅くまで話した。女は伯母おばの家で作ったと云う短歌を書いたノートを出して見せたり、短歌の心得こころえと云うようなありふれた問いを発したりした。

(明日、私は、船をやとうて、××まで往って、そこから汽車に乗ろうと思うのですが、あなたはどうです、いっしょにしませんか)

 話の中に彼がこんなことを云うと女は喜んだ。

(私も、今日舟をあがる時に、そう思いました、小舟であしの中を通って見たら、どんなに好いか判らないと思いました、どうかお邪魔でなければ、ごいっしょにお願いいたします)

(じゃ、いっしょにしましょう、蘆の中はおもしろいでしょう)

 彼は翌日宵の計画どおり女といっしょに小舟に乗って、湖縁を××へまで往ってそこから汽車に乗って東京へ帰った。女は日本橋檜物町ひものちょう素人屋しろうとやの二階を借りてんでいる金貸かねかしをしている者のむすめで、神田の実業学校へ通うていた。女はそれ以来金曜日とか土曜日とかのちょっとした時間を利用して遊びに来はじめた。

 彼はその時赤城下あかぎしたへ家を借りて婆やを置いて我儘わがままな生活をしていた。そして、放縦ほうじゅうな仲間の者から誘われると下町あたりの、入口の暗い二階の明るい怪しい家に往って時どき家をあけることも珍らしくなかった。

 ある時その時も大川おおかわに近い怪しい家に一泊して、苦しいそうしてうきうきした心で家へ帰って来て、横に寝そべって新聞を読んでいると女の声が玄関でした。婆やは用足しに出かけたばかりで取次ぎする者がないのでじぶんで出て往かなければならないが、その声は聞き慣れたあの女の声であるから体を動かさずに、

(おあがんなさい、婆やがいないのです、遠慮はいらないからおあがんなさい)

 と、云って首をあげて待っていると女がしずかに入って来た。

昨夜ゆうべ、お朋友ともだちの家でがはじまって、朝まで打ち続けてやっと帰ったところです、文学者なんて云う奴は、皆痴者ばかものの揃いですからね、······そこに蒲団ふとんがある、って敷いてください)

 女はくつろぎのある※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな顔をしていた。

(ありがとうございます、······先生におまくらりましょうか)

 彼は昨夜ゆうべの女に対した感情を彼女にも感じた。

(そうですね、執って貰おうか、うしろ壁厨おしいれにあるから執ってください)

 女はって往ってうしろの壁厨を開け、白い切れをかけた天鵞絨びろうどの枕を持って来て彼の枕頭まくらもとしゃがんだ。彼はその刹那せつなほのおのように輝いている女の眼を見た。彼はその日の昼ごろ、帰って往く女を坂の下の電車の停留場まで見送って往った。そして、翌々日の午後来ると云った女のことばを信用して、その日は学校に往ったが平常いつもの習慣で学校の食堂でうことになっている昼飯ひるめしをよして急いで帰って来た。

 しかし、女は夜になっても来なかった。何か都合があって来られないようになったのなら、手紙でもよこすだろうと思って手紙の来るのを待っていたが、朝の郵便物が来ても手紙は来なかった。彼は手紙の来ないのはすぐ今日にでも来るつもりだから、それでよこさないだろうと思いだして散歩にも出ずに朝から待っていたが、その日もとうとう来もしなければ手紙もよこさなかった。

 彼はそれでも手紙の来ないのはすぐ来られる機会が女の前に見えているからであろうと思って、その翌日も待ってみたがその日もとうとう来なければ手紙もよこさなかった。彼は待ちくたびれて女の往っている学校の傍を二時ごろから三時比にかけて暑いの中を歩いてみたが、その学校から数多たくさんの女が出て来てもあの女の姿は見えなかった。

 彼はまた檜物町の女のんでいると云う家の前をあちらこちらしてみたが、それでも女の姿を見ることができなかった。しかし、となりへ往って女の容子ようすを聞く勇気はなかった。

 そのうちに一箇月あまりの日がたってから、もうあきらめていたあの女の手紙が築地つきぢの病院から来た。それは怖ろしい手紙であった。女はあの翌日から急に発熱して激烈な関節炎を起して、左のひざが曲ってしまったために入院して治療をしたが、熱はとれたけれども関節の曲りは依然としてなおらないから、一両日のうちに退院して故郷の前橋へ帰ったうえで、どこかの温泉へ往って気長く養生ようじょうすることになっている、明日あすは午後は父も来ないからちょっといに来てくれまいかと云う意味を鉛筆で走り書きしたものであった。

 彼は鉄鎚てっついで頭を一つがんとなぐられたような気もちでその手紙を握っていた。彼は一時のいたずら心から処女の一生を犠牲にしたと云う慚愧ざんきと悔恨に閉ざされていた。心の弱い彼はとうとう女の処へ往けなかった。

 女からはすぐまたどうしても一度お眼にかかりたいから、都合をつけて来てくれと云う嘆願の手紙が来たがそれでも彼は往けなかった。往けずに彼はもだえ苦しんでいると、女から明日あすの晩の汽車でいよいよ出発することになったから、父親がいても好いからきっと来てくれと云って来た。そして、汽車の時間まで書いて病院まで来てくれることができないなら、せめて停車場へなり来てくれと書き添えてあった。

 心の弱い彼はその望みも達してやることができなかった。そして、二三日して汽車の中で書いたらしい葉書が来た。それは(先生さようなら、永久にお暇乞いとまごいをいたします)と書いてあった。

 それから二日ばかりしての新聞に、前橋行の汽車の進行中、乗客の女が轢死れきししたと云う記事があった。······

「先生、先生」

 黙然と考え込んでいた省三はふと顔をあげた。微暗うすぐらくなったへやの中に色の白い女が坐っていて、それが左の足をにじらしてうように動いた。と、青い光がきらりと光って電燈がぱっといた。

 室には何人だれもいなかった。省三はほっとしたように電燈を見なおした。

 廊下に跫音あしおとがして初めのじょちゅうが入って来た。婢は手に桃色の小さな封筒を持っていた。

「お手紙がまいりました」

 省三は桃色の封筒を見て好奇心を動かした。

「どこから来たのだろう、持って来たのかね」

俥屋くるまやが持ってまいりました」

 省三は手紙を受けとりながら、

「俥屋は待ってるかね」

 と、云って裏を返して差出人の名を見たが名はなかった。

「お渡ししたら好いと云って、帰ってしまいました」

「そうかね、何人だれだろう、今日の委員か有志だろうが」

 それにしては桃色の封筒が不思議であると思いながら開封した。けいのあるレターペーパーに、万年筆で書いた女文字の手紙であった。省三はちらと見たばかりで婢の顔を見て、

「よし、ありがとう」

「お判りになりましたか」

「ああ」

「では、また御用がありましたら、お呼びくださいまし」

「ありがとう」

 じょちゅうが出て往くと省三は手紙の文字に眼をやった。それはその日公会堂に来て彼の講演を聞いた地位みぶんのあるらしい女からであった。彼はその手紙を持ったなりに女の地位みぶんを想像しはじめた。彼の心はすっかり明るくなっていた。


※(ローマ数字3、1-13-23)


 省三は好奇心から八時十分前になると宿を出て、運河が湖水に入っている土手の上へ出かけて往った。そこには桃色の封筒の手紙をよこした女がいることになっていた。

 宵に二時間ばかり闇をこしらえて出た赤い月があった。それは風のない春のような夜であった。二人づれの労働者のような酔っぱらいをやり過して、歩こうとして右側を見ると赤いにじんだような行燈あんどんが眼にいた。それは昔とまったことのある旅館であった。しかし、彼はその行燈に対して何の感情も持たなかった。

 彼は甘いかすみに包まれているような気もちになっていた。みちの右側にある小料理屋から三絃しゃみせんが鳴って、その音といっしょに女の声もまじって二三人の怒鳴どなるような歌が聞えていたが、彼の耳には余程遠くの方で唄っている歌のようにしか思えなかった。

 微白ほのじろいぼうとした湖の水が見えて、右側に並んでいた人家がなくなった。もう運河が湖水へ入った土手が来たなと思った。そこには木材を積んだりセメントのたるのような大樽を置いたりしてあるのが見える。彼は二三年前の事業熱の盛んであった名残なごりであろうと思った。

 月に雲がかかったのかあたりが灰色にぼかされて見えた。省三は東になった左手の湖の中に出っぱった丘のうえを見た。微黄うすきいろな雲が月の面を通っていた。

「先生、山根先生ではございますまいか」

 女が眼の前に立っていた。面長おもながい白い顔の背の高い女であった。

「そうです、私が山根ですが」

「どうもすみません、私はさっき手紙をさしあげて、ごむりを願った者でございます」

「あなたですか」

「はい、どうも御迷惑をかけてあいすみませんが、今日、先生の御講演をうかがいまして、どうしても先生にじきじきお眼にかかりたくてかかりたくて、しかたがないものですから、先生のお宿を聞きあわして、お手紙をさしあげました、まことにあいすみませんが、ちょっとの間でよろしゅうございます、私の宅までお出ましを願いとうございます」

「どちらですか」

 女はちょっとうしろをふり返って丘のはしへ指をさした。

「あの丘の端を廻った処でございますが、舟で往けば十分もかかりません」

「舟がありますか」

「ええ、ボートを持って来ております」

「あなたがお一人ですか」

「ええ、そうです、お転婆てんばでございましょう」

 女はつややかに笑った。

「そうですね」

 省三はちょっと考えた。

じょちゅうじいやよりほかに、何人たれも遠慮する者はおりませんから」

「そうですね、すぐ帰れるならまいりましょう」

「すぐお送りします」

「ではまいりましょう」

「それでは、どうかこちらへ」

 女がさきになってアンペラのたわらを積んである傍を通って土手へ出た。そこには古い船板のようなものをななめに水の上に垂らしかけた桟橋があって、それが水といっしょになったところに小さなねずみ色に見えるボートが浮いていた。

「あれでございますよ、滑稽こっけいでしょう」

「面白いですな」

 省三はさんを打って滑らないようにしたその船板の上を駒下駄こまげたで踏んでボートの方へおりて往った。船板はゆらゆらとしなえて動いた。ボートは赤いしごきのようなものでつないであった。

「そのままずっとお乗りになって、ともへおけくださいまし」

 省三はボートに深い経験はないが、それでも女にがして見ていられないと思った。

「あなたがさきへお乗りなさい、私が漕ぎましょう」

「いいえ、このボートは、他の方では駄目だめですから、私が漕ぎます、どうかお乗りくださいまし」

 省三は女の云うとおりにして駒下駄こまげたを脱いで、それを右の手に持ちやっとこさと乗ったが、乗りながら舟が揺れるだろうと思って、用心して体の平均をとったが、舟は案外動かなかった。

 続いて女がどうに乗り移った。その拍子に女の体にしみた香水のかおりが省三の魂をこそぐるように匂うた。省三はともへ腰をおろしたところであった。

 女の左右の手に持った二本のかいがちらちらと動いて、ボートは鉛色の水の上を滑りだした。月の光の工合ぐあいであろうか舟の周囲まわりは強い電燈をけたように明るくなって、女の縦模様のついた錦紗きんしゃのような華美はで羽織はおりがうすい紫のほのおとなって見えた。

「私がかわりましょうか、女の方よりも、すこし力があるのですよ」

 省三はまぶしいような女の白い顔を見て云った。女はそれをつややかな笑顔で受けた。

「いえ、私はこのボートで、毎日お転婆てんばしてますから、楊枝ようじを使うほどにも思いませんわ」

「そうですか、では、見ておりましょうか」

四辺あたりの景色を御覧くださいましよ、湖の上は何時いつ見ても好いものでございますよ」

 女は左の方へちょっと眼をやった。省三も女の顔をやった方へ眼をやろうとしてすぐ傍の水の上に眼を落してから驚いた。その周囲まわりの水の上は真黒な魚の頭で埋まって見えた。それは公園や社寺の池にを投げたときに集まってくるこいおもむきに似ているが、その多さは比べものにならなかった。魚は仲間同士で抱きあったりもつれあったりするように、水をびちゃびちゃと云わして体をからましあった。

「鯉でしょうか」

 省三は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。

「そんなに騒ぐものじゃありませんよ、しずかになさいよ、お客さんがびっくりなさるじゃありませんか」

 女は魚の方を見てたしなめるように云った。省三の耳にはその女のことばが切れぎれに聞えた。省三は女の顔を見た。

「このボートで往ってると、湖の魚が皆集まってくるのでございますよ、でも、あまり多く集まって来るのもうるさいではございませんか」

「鯉でしょうね、私はこんな鯉を、はじめて見ましたね、この湖では鯉をとらないでしょうか」

「とりますわ、この湖で鯉をって生活している漁夫りょうし数多たくさんありますわ」

「そうですか、そんなに鯉を捕ってるのに、こんなに集まって来るのは、鯉がたいへんいるのですね」

「先生をお迎えするために集まったのでしょうが、もう、帰りましたよ」

 省三は水の上を見た。今までいた鯉はもういなくなって鉛色の水がとろりとなっていた。

「もう、いなくなったでしょ、ね、それ」

 省三はあっけにとられて水の上を見ていた。と、一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがって来て、それが白い腹をかえして死んだように水の上に横になった。

「死んだんでしょうか、あのこいは」

「あれは、先生に肉を饗応ごちそうした鯉でございますわ」

「え」

「いいえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがったのでございましょう、このあたりは、鯉が多いものですから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ」

 女はこう云ってれする声を出して笑った。


※(ローマ数字4、1-13-24)


 省三は眼が覚めたように四辺あたりを見まわした。青みがかった燈のともったへやじぶん黒檀こくたんテーブルを前にして坐り、その左側に女がにおいのあるような笑顔をしていた。

「私は、どうしてここへ来たのでしょう」

 省三はボートの中で鯉の群と死んだような鯉の浮いて来たことを見ている記憶はあるが、舟からあがったことも、みちの上を歩いたことも、その家の中へ入って来たことも、どう云うものかすこしも判らなかった。

「私といっしょにずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへまいりますと、きつねにつままれたようにぼうとなるものでございますわ、ほんとうに失礼いたしました、こんな河獺かわうそ住居すまいのような処へおでを願いまして」

「どういたしまして、しずかな、理想的なお住居すまいじゃございませんか」

 省三はその家の位置が判ったような気になっていた。

「これから寒くなりますと、しめっきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしゅうございますわ」

 女はって往って省三から正面になった障子しょうじを開けた。障子の外は小さな廊下になってそれに欄干らんかんがついていたが、その欄干のさきには月にぼかされた湖の水が漂渺ひょうびょうとしていた。

「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでしょうね」

 省三は延びあがるように水の上を見ながら云った。女は障子へ寄っかかるようにして立っていた。

「まねごとをいたしますが、とてもだめでございますわ」

「そんなことはないでしょう、こう云う処にいらっしゃるから」

「いくら好い処におりましても、頭の中に歌を持っておりません者は、だめでございますわ」

 女はこう云って笑い声をたてたが、そのまま体の向きをかえて元の蒲団ふとんの上へ戻って来た。

「そんなことはないでしょう、私もこんな処に一箇月もおると、何かまとまりそうな気がしますね」

「一箇月でも二箇月でも、お気に召したら、一箇年もいらしてくださいまし、こんなお婆さんのお対手あいてじゃお困りでございましょうが」

 女はこう云ってテーブルの上に乗っている黒いびんって、それを傍のコップにいで省三の前に出して、

「お茶のかわりに赤酒ぶどうしゅをさしあげます、お嫌いじゃございますまいか」

「すこし、いただきましょう、あまり飲めませんけれど」

じょちゅうを呼びますと、何か、もすこしおあいそもできましょうが、めんどうでございますから、どうか召しあがってくださいまし、私も戴きます」

 女も別のコップへその葡萄ぶどう酒をいで一口飲んだ。

「では、戴きます」

 省三は俯向うつむいてコップをった。

「私は先生が雑誌にお書きになるものを平生いつも拝見しております、それで一度、どうかしてお眼にかかりたいと思っておりましたところ、今日、先生の御講演があると家へ出入でいりの者からうかがいまして、どんなに今日の講演をお待ちしましたか、そして、その思いがやっとかなってみると、人間のよくと云うものはどこまで深いものでございましょう、遠くからお話を伺ったばかしでは、気がすまなくなりまして、こんな御無理をお願いしました、こんなお婆さんに見込まれて、さぞ御迷惑でございましょう」

 女はまた笑った。省三も笑うより他にしかたがなかった。

「私は判りませんけれども、今日先生がなさいました、恋愛に関するお話は、非常に面白うございました。あのお話の中の女歌人のお話は、非常な力を私達に与えてくださいました。もっともこんなお婆さんには、あの方のような気のいた愛人なんかはありませんが、あのお話で、つまらない世間的な道徳などは、何の力もなくなったような気がしますわ」

「あなたのように、心から、私のつまらない講演を聞いてくだされた方があると思うと、私も非常に嬉しいです、しかし、私がほんとうの講演ができるのは、まだ十年さきですよ、まだ、何も頭にありませんから」

「そんなことがあるものでございますか、今日の聴衆という聴衆は、先生のお話に感動して、涙ぐましい眼をして聞いておりましたわ」

「だめです、まだこれから本を読まなくては、もっとも、これからと云っても、もう年が往ってますから」

「失礼ですが、お幾歳いくつでいらっしゃいます」

「幾歳に見えます」

「さあ、そうですね」女は黒い眼でじっと正面まともに省三の顔を見つめたが、「三十二三でいらっしゃいますか」

「そいつはおごらなくちゃなりませんね、六ですよ」

「三十六、そんなには、どうしても見えませんわ」

「あなたはお幾歳です」

「私、幾歳に見えます」

「さあ、三ですか、四にはまだなりますまいね」

「なりますよ、四ですよ、やっぱり先生のお眼はちがっておりませんわ」

「お子さんはおありですか」

「小供はありません、一度結婚したことがありますが、小供は出来ませんでした」

 省三はその女が事情があるにせよ、独身であると云うことを聞いて心にゆとりが出来た。彼は女が二度目についでくれたコップを持った。

「それでは、目下もっかはお一人ですか」

「そうでございますわ、こんなお婆さんになっては、何人だれもかまってくださる方がありませんから、一人で気ままに暮しておりますわ」

「かえって、係累けいるいがなくって気楽ですね」

「気楽は気楽ですけれど、さみしゅうございますわ、だから今日のように、わがままを申すようなことになりますわ」

「こんな仙境のような処なら、これからたびたびお邪魔にあがりますよ」

 省三はもう酔っていた。

「今晩もこの仙境でお泊りくださいましよ」

 牡丹ぼたんの花の咲いたような濃艶のうえんな女の姿が省三の眼前めのまえにあった。

「そうですね」

「私の我ままをとおさしてくださいましよ」

 女の声は蝋燭ろうそくの燈のめいって往くようなとろとろした柔かな気もちになって聞えて来た。省三はテーブル両肘りょうひじもたせて寄りかかりながら何か云ったが聞えなかった。

 女はってじぶんの着ている羽織はおりを脱いで裏を前にして両手に持って省三の傍へ一足寄った。と、廊下の方でぐうぐうとかえるとも魚ともつかない声が数多たくさんの口から出るように一めんに聞えだした。女はいやな顔をして開けてある障子しょうじの外を見た。今まで月と水が見えて明るかった戸外そとは、真暗な入道雲のようなものがもくもくと重なり重なりしていた。

「ばかだね、なにしに来るのだね、ばかなまねをしてると承知しないよ」

 女はしかるように云った。それでもぐうぐうの声はまなかった。黒い雲の一片はふわりふわりとへやの中へ入って来た。

「おふざけでないよ」

 女の右の手は頭にかかって黒いピンが抜かれた。女はそのピンを室の中へ入って来た雲の一片めがけて突き刺した。と、怪しい鳴き声はばったりんで雲はピンを刺したまま崩れるように室の外へ出て往った。

 省三は夢現ゆめうつつの境に女の声を聞いてふと眼を開けた。それと同時に女がうしろから着せた羽織はおりがふわりと落ちて来た。

 省三は女に送られてボートで帰っていた。それは曇った日の夕方のことで、ねずみ色に暮れかけた湖の上は蝸牛かたつむりった跡のようにところどころ鬼魅きみ悪く光っていた。

 省三は女の家に二三日いて帰るところであった。彼はともに腰をけて女と無言の微笑を交わしていたが、ふと眼を舟の左側の水の上にやると一尾の大きななまずが白い腹をかえして死んでいた。

「大きな鯰が死んでますね」

 省三はその鯰をくわしく見るつもりでまた眼をやった。黒いピンのようなものが咽喉のどに松葉刺しにたっていた。

「咽喉をなにかで突かれているのですね」

「いたずらをして突かれたものでしょう、それよりか、次の金曜日にはきっとですよ」

「好いです」


※(ローマ数字5、1-13-25)


 すこし風があって青葉がアーク燈の面をでている宵のくちであった。上野の山を黙々として歩いていた省三は、不忍しのばずの弁天と向き合った石段をおり、ちょうど動坂どうざかの方へ往こうとする電車の往き過ぎるのを待って、電車みちをのそりと横切り弁天の方へ往きかけた。そこにはうっすらしたもやがかかって池の周囲まわりの燈の光を奥深く見せていた。

 彼は山の上で一時間も考えたことをまたあとへもどして考えていた。······こうなれば、世間的の体裁ていさいなどを云っていられない、断然別居しよう、小供には可哀そうだがしかたがない、そして、別居を承知しないと云うならひと思いに離別しよう、小供はもう三歳みっつになっているからしっかりした婆やを雇えば好い、今晩まず別居の宣言をしてみよう、気の弱いことではいけない。どうも俺は気が弱いからそれがためにこれまで何かの点において損をしている、断然とやろう、来る日も来る日も無智のことばを聞いたりいやな顔を見せられたりするのは厭だ······

 彼はその夕方細君さいくんといがみ合ったことを思い浮べてみた。先月のはじめ水郷の町の講演に往って以来、長くて一週間早くて四五日するとぶらりと家を出て往った。そのつど二三日は帰って来ない彼に対して、敵意を挟んで来ている細君はとなりの手前などはかまわなかった。

 ······(さんざんしゃぶってしまったから、もう用はなくなったのでしょう)

 ······(私のような者は、もう死んでしまや好いのでしょう、生きて邪魔をしちゃ、どっさりお金を持って来る女が来ないから)

 細君さいくんは三千円ばかりの父親の遺産を持って来ていた。······

 その日は神田の出版書肆しょしから出版することになった評論集の原稿をまとめるつもりで、机の傍へ雑誌や新聞の摘み切りを出して朱筆しゅふでを入れていると、男の子がちょこちょこ入って来てその原稿を引っきまわすので、

(おい、坊やをどかしてくれなくちゃ困るじゃないか)

 と云うと、

(坊やおでよ、そのお父様は、もう家のお父様じゃないからだめよ)

 と、云って細君が冷たい眼をして入って来た。

(ばか)

(どうせ、私はばかですよ、ばかだから、こんな目にうのですよ、坊や、おいで)

 細君はまだ雑誌の摘み切りを手にしていじくっている小供の傍へ往って、その摘み切りを引ったくっておいていきなり抱きかかえた。その荒あらしい毒どくしいおこないが彼の神経をとがらしてしまった。彼は朱筆を持ったなりに細君のうしろから飛びかかって往って、両手でその首筋をつかんで引きえた。細君ははずみをくって突き坐った。と、小供がびっくりして大声に泣きだした。

(痴、なんと云う云いかただ)

 彼は細君さいくんの頭の上をにらみつけるようにして立っていた。

 細君の泣き声がやがて聞えて来た。

(何と云うばかだ、身分を考えないのか)······

 彼は楼門の下を歩いていた。白い浴衣ゆかたを着た散歩の人がちらちらと眼に映った。

 ······このあと、こんな日がもう一箇月も続こうものなら、頭は滅茶苦茶めちゃくちゃになって何もできなくなる、できなくなればますます生活が苦しくなる。このうえ生活に追われて立ちもいもできないことになる、どうしても、別居だ、別居してしずかに筆をとる一方で、じぶんの哲学を完成しよう、そして、その間に時間をこしらえてあの女とおう······

 彼は弁天堂の横から渡月橋のたもとへ往った。そこは弁天堂の正面とちがって人通りがすくなくて世界がちがったようにしんとしていた。彼は暗い中を見た。

「先生じゃありませんか」

 と、聞き覚えのある女の声がした。省三は足を止めてうしろの方をふり返った。白い顔が眼の前に来た。それは水郷の町の女であった。

何時いついらしったのです」

「今の汽車でまいりました、ちょうど好かったのですね」

「どこへいらしったのです」

銚子ちょうしの方へ往こうと思って、家を出たのですが、先生にお眼にかかりたくなりましたからまいりました、これからお宅へあがろうと思いまして、ぶらぶら歩いてまいりましたが、なんだか変ですから、ちょっと困っておりました」

「そうですか、それはちょうど好かった、めしはどうです」

「まだです、あなたはもうおすみになって」

「すこしくさくさすることがあって、まだです、どこかそのあたりへ往って飯をおうじゃありませんか」

「くさくさすることがあるなら、いっそ、これから銚子へ往こうじゃありませんか」

「そうですね、往っても好いのですね」

 二人は引返して弁天堂の前の方へ往った。


※(ローマ数字6、1-13-26)


 省三は電車をおりて夕陽の中を帰って来たが、格子戸こうしどを開けるにさえこれまでのように無関心に開けることができなかった。

 彼はまず細君さいくんがいるかいないかをたしかめるために玄関をあがるなり見附みつけの茶の間の方を見た。そこはひっそりして人の影もないので左側になった奥のへやを見た。

 細君の姿はそこに見えた。去年こしらえた中形ちゅうがた浴衣ゆかたを着てこっち向きに坐り、団扇うちわを持った手をひざの上に置いてその前に寝ている小供の顔を見るようにしていた。

 彼はそれを見つけると、「うむ」と云うような鼻呼吸いきともうなり声とも判らない声をたててみたが、細君さいくんが顔をあげないのでしかたなしに書斎へ入って往った。

 暗鬱あんうつな日がやがて暮れてしまった。省三は机の前に坐っていた。彼は夕飯に往こうともしなければ、細君の方からも呼びに来もしなかった。その重苦しい沈黙の中に小供の声が一二回聞えたがそれももう聞えなくなってしまった。

 省三は気がくと手でほおや首筋にとまったを叩いた。そして、思いだしてなまりのようになった頭をほぐそうとしたがほぐれなかった。

 不思議な呻吟うめきのようなものが細ぼそと聞えた。省三は耳をたてた。それは玄関の方から聞えて来る声らしかった。彼は怖ろしい予感に襲われて急いでちあがって玄関の方へ往った。

 青い蚊帳かやつるした奥のへやと茶の間の境になった敷居しきいの上に、細君が頭をこちらにして俯伏うつぶしになっている傍に、わかい女が背をこっちへ見せて坐っていたがその手にはコップがあった。省三は何事が起ったろうと思い思いその傍へ往った。と、壮い女の姿は無くなって細君が一人苦しんで身悶みもだえをしていた。

「どうした、どうした」

 その省三の眼に細君の枕頭まくらもところがっているコップと売薬のつつみらしい怪しい袋が見えた。

「お前は、んと云うことをしてくれた」

 省三は細君の両脇に手をやって抱き起そうとしたが、考えついたことがあるのでその手を離した。

「お前は小供が可愛くないのか、何故なぜそんなばかなまねをする、しっかりおし、すぐなおしてやるから」

 省三は玄関の方へ走って往ってさっきじぶんが脱ぎ捨てたままである駒下駄こまげたいて格子戸こうしどを開け、めずに引いてあった雨戸を押しのけるように開けて外へ出た。

「やあ、山根君じゃないか」

 と、むこうから来た者が声をかけた。省三は走ろうとする足を止めた。

何人だれだね」

 それは野本と云う仲間の文士であった。

「野本君か、野本君、君に頼みがある。妻室かないがすこし怪しいから、急いで医師いしゃを呼んで来てくれないかね、ここを出て、右に五六軒往ったところに、赤い電燈のいた家がある、かかりつけの医師いしゃだから、僕の名を云えばすぐ来てくれる」

「どうしたんだ」

ばかなまねをして、なにか飲んだようだ」

「よし、じゃ、往って来る、君は気をつけていたまえ」

 野本は走って往った。それと同時に省三も家の中へ走りこんだ。

 細君さいくんは両手をついて腹這はらばいになり、ひっくり返ったコップの上からきいろなどろどろする物を吐いていた。

「吐いたか、吐いたなら大丈夫だ」

 省三は急いで台所へ入って往って手探りに棚にあった飯茶碗をってバケツの水をすくうて持って来た。

「水を持って来た、この水を飲んでもうすこし吐くが好い」

 省三はしゃがんでその水を細君さいくんの口の傍へ持って往った。細君はその茶碗をひややかな眼で見たなりで口を開けなかった。

何故なぜ飲まない、飲んだら好いじゃないか、飲まないといけない、飲んで吐かなくちゃいけない」

 省三は無理に茶碗を口に押しつけた。水がぽとぽととこぼれたが細君は飲まなかった。

「お前は小供が可愛くないのか、何故飲まない」

 がたがたとそそっかしい下駄げたの音がして野本が入って来た。

「先生はすぐ来る、どうだね、大丈夫かね」

「吐いた、吐いた、吐いたら大丈夫だと思うのだ」

「吐いたのか、吐いたら好い」

 野本は傍へ来て立った。

「奥さんどうしたのです、大丈夫ですから、しっかりしなさい」

 細君の顔は野本の方へ向いた。その眼にはみるみる涙が一ぱいになった。

「野本君、僕が水を飲まして吐かそうとしても、飲まない、君が飲ましてくれ給え」

 省三は手にした茶碗を野本の前にだした。

「そんなことはなかろうが、僕で好いなら、僕が飲ましてやろう」

 野本はその茶碗を持って蹲んだ。

「奥さん、どんなことがあるか知りませんが、山根君に悪いことがあるなら、私が忠告します、おあがりなさい、飲んで吐くが好いのです」

 細君さいくんはその水を飲みだした。省三はその傍へ坐って悲痛な顔をしてそれを見ていた。

 あから顔の医師いしゃ薬籠やくろうを持ってあがって来た。医師いしゃは細君の傍へ往って四辺あたりの様をじっと見た。

「吐きましたね」

「吐いてます、まだ吐かしたら好いと思って、今この茶碗に一ぱい水を飲ましたところです」

 野本は手にしていた茶碗を医師いしゃに見せた。

「それは大変好い」

 医師いしゃは今度は細君の方を向いて云った。

「奥さん、大丈夫ですよ、御心配なさらないが好いのですよ」

 細君は声をあげて泣きだした。

「先生お恥かしゅうございます」

 省三はやっとそれきり云って眼を伏せた。

「どれくらいになりますか」

「私が気がついて、まだ二十分ぐらいにしかならんと思いますが」

「そうですか」

 医師いしゃは薬籠を開けて小さなびんを出し、それを小さな液量器に垂らした。

「水を持って来ましょうか」

 野本が云った。

「そうですね、すこしください」

 野本は茶碗を持って台所の方へ往ったがやがて水をんで帰って来た。

 医師いしゃはその水を液量器の中に垂らして細君さいくんの口元に持って往った。細君は泣きじゃくりしながらそれを飲んだ。

「これで大丈夫だから、しずかにしててください」

 こう云って医師いしゃが眼をあげた時には、省三の姿はもう見えなかった。


※(ローマ数字7、1-13-27)


 省三はその翌日の夕方利根川の支流になった河に臨んだ旅館の二階に考え込んでいた。

「関根さん、お伴様つれさまが見えました」

 関根友一は省三がこの旅館で用いている変名であった。省三は不思議に思ってじょちゅうの声のした方を見た。昨日の朝銚子ちょうしで別れた女が婢の傍で笑って立っていた。女は華美はで明石あかしを着ていた。

「びっくりなすったのでしょう、なんだかあなたがここへいらっしゃるような気がしたものですから、昨日の夕方の汽車で引き揚げて来たのですよ」

 女は笑い笑い入って来た。


 省三と女は土手を下流の方へ向いて歩いていた。晴れた雲のない晩でかわずの声がやかましく聞えていた。

「いよいよ舟に乗る時が来ましたよ」

 女が不意にこんなことを云った。省三はその意味が判らなかった。

「なんですか」

「舟に乗る時ですよ」

 省三はどうしても合点がてんが往かなかった。

「舟に乗る時って、一体こんな処にかってに乗れる舟がありますか、舟に乗るなら、宿へでもそう云ってこしらえて貰わなくちゃ」

「大丈夫ですよ、私が呼んでありますから」

「ほんとうですか」

「ほんとうですとも、そこをおりましょう」

 川風に動いているたけ高い草が一めんに見えていて、みちらしいものがそのあたりにあるとは思われなかった。

「おりられるのですか」

「好い路がありますわ」

 省三は不思議に思ったが、女が断言するので土手のはしへ往ってのぞいた。そこには一幅の土の肌の見えた路があった。

「なるほどありますね」

「ありますとも」

 省三は前にたってその路をおりて往った。ほたるのような青い光が眼の前を流れて往った。

ほたるですね」

「さあ、どうですか」

 きいろな硝子がらすでこしらえたような中に火を入れたような舟が一そうあしの間に浮いていた。

「おかしな舟ですね、ボートですか」

「なんでも好いじゃありませんか、あなたを待ってる舟ですよ」

 そんな邪慳じゃけんことばは省三はまだ一度も女から聞いたことはなかった。彼は女はどうかしていると思った。

「お乗りなさいよ」

「乗りましょう」

 省三は舟を近く寄せようと思ってともづなつないである処を見ていると、舟は蘆の茎をざらざらと云わして自然と寄って来た。

「お乗りなさいよ」

つなは好いのですか」

「好いからお乗りなさいよ」

 省三は舟のことは女がくわしいから云うとおりに乗ろうと思ってそのまま乗り移った。舟のどこかに脚燈をけてあるように脚下あしもときいろくすかして見えた。

「いよいよ乗せたから、持っておでよ」

 女はこう云いながら続いて乗ってどうに腰をかけて省三と向き合った。女の体は青黄あおぎいろくきとおるように見えた。

みんなでなにをぐずぐずしているのだね、早く持っておでよ」

 省三は体がぞくぞくした。と、舟は発動機ででも運転さすように動きだした。

「この舟は一体なんです、変じゃありませんか」

「変じゃありませんよ」

「でも、機械もなにもないのに動くじゃありませんか」

「機械はないが、数多たくさんの手がありますから、動きますよ」

「え」

「今に判りますよ、じっとしていらっしゃい」

「そうですか」

 女は大きな声をだして笑いだした。省三はおそる怖る女の顔に眼をやった。きいろな燃えるような光の中に女の顔が浮いていた。

「なにをそんなにびっくりなさいますの」

 女の顔は左に傾いて細かい数多たくさんある頭の毛が重そうに見えた。それは前橋の女の顔であった。

「わっ」

 省三は怖ろしい叫び声をあげて逃げようとして舟から体をおどらした。

 二日ばかりして山根省三の死骸は、わかい女の死体と抱きあったままでその川尻の海岸にあがって細君さいくんの手に引きとられたが、女は身元は判らないので、それはその土地の共同墓地に埋められたと云うことが二三の新聞に現れた。






底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会

   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行

底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社

   1934(昭和9)年

入力:川山隆

校正:門田裕志

2012年5月22日作成

青空文庫作成ファイル:

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