従来、史家の多くは性の問題に関するかぎりことさらに触れようとしなかった。しかしながら、人間生活の土台は性と食との上に打立てられているのであるから、人類史研究の為には、先ずこの根本問題の解明が要請されるのである。
本文はこの意味に於て、健全なる郷土史の研究を志す人々の為の資料として執筆されたものである。
アイヌの物語りや日常会話の中には、性器や性交に関することどもがきわめて露骨にとり扱われているが、その表現は健康であり、いささかの卑猥さも感じられない。健康な民族の性生活は健全である。アイヌもまた、和人の侵略を蒙るまでは、健康な社会生活を営んでいたから、その性生活は健全であったのである。
アイヌ民族は、幼年時には男女ともに全身裸体となって性器を露出したままでいるのは普通のこととされていた。未熟な性器を見ていたずらに興奮するほどの精神病者も居らず、裸の少女を見たからといって淫心をおこすようなこともなかったのである。
これに反して、青年期に達してからは、性器を他人に見せることは禁制で、男子は布製の褌によって局部を蔽い、女子はモウルと呼ぶ肌着を着用することによって肌と性器を隠蔽した。この掟はきわめて厳重に守られたのであって、男子の褌と女子のモウルは、魚をとりに河や海に入るときでも、また、温泉に入浴するときでさえも、必ず着用すべきものとされていたのである。
次のようなおばけ話が語られるのも、やはりそのようなモチーフからである。
俺は押しも押されもせね立派な酋長で、立派な女を妻にもち、たのしく暮らしていた。或朝まだ暗い内に浜へ出て、波打際を歩いて行くと、海中からじいっと俺の方を窺っている者がある。何者だろうと思ってよく見ると、編みかけのこだし(樹皮製の手さげ袋)をかぶったような顔の真中からおやゆびを立てたように鼻がにょきっと突き出ていて、しかもその先端にポツンと鼻の孔が一つしかない怪物が、伸びあがり伸びあがり俺をにらんでいて、俺が歩けば歩き、俺が立ちどまれば止まる。走れば彼もいっしょに走るのだ。てっきりおばけ、と思ったので、持っていた棍棒をとり直していきなりガンと喰らわすと、その刹那どうしたことか、俺の股間がしびれる様に痛んだ。思わずしらず尻餅をついて、つらつら思んみるに、今朝はあわてていたので褌もしめずに出て来た。そのため股間の一物が波に影を落していたのだが、それをおばけと見あやまって、とんでもない憂目を見たのだった。これからの男たちよ、ゆめゆめ褌を忘れるまいぞ、と昔の酋長が物語った。
(知里真志保||アイヌおばけ列伝(三) 北海道郷土研究会々報 No. 4 より)
このようなアイヌの習慣に関連しての逸話は日本側の江戸時代古文書にも散見される。立松東作の東遊記(天明4年)には、「蝦夷人人と道理をいいつのり、道理にまけたる方より勝たる方へ物をとる。之をツクナイという。償なるべし。是につきておかしき話あり。日本人の舟に蝦夷の小舟をつけ居たり。日本人あやまりて其舟へ小便をしければ、腹立てさまざまねだりけるを、小便には非ず水をこぼしたるなりと欺きけれども、中々得心せず、水にあらざる印は前のものを見たりという。其時日本人望みの如く物をつかわし、さて言いけるは、人のかくす処を見ること無礼なり、此罪は如何するぞとねだり返しければ、蝦夷人こまりて取りたるツクナイに、又々そえをなしてツクナイを取られたりという」とあるように、アイヌは他人が性器を出していてもこれを見ないのを以て礼儀としていたのである。それ故にこそ和人に小便をかけられながら、おとなしく償を出したのである。
勝知文の東夷周覧(享和元年)にはメノコの女陰を見た和人が償をとられそうになってやっと助かった話を次のように記述している。
「或時茂左衛門会所に独り閑然たる折からメノコ一人来り居りしが、いつしか寝臥したりしかば、茂左衛門叱ていう、汝我前をはばからず、まさしく陰門を出せしは不敬にあらずやという。メノコこれを聞き、喪胆して起きあがり、問ていうよう。然らば見られたるや、という。茂左衛門答て如何にも見たりという。さらば償を賜るべしという(此国の法とて男子女子の陰門を見れば、償を出すことなりという)。茂左衛門聞て、汝が申す条もっとものことなれば、償を出すべし。さりながら、我は公命によりて郷里の妻子を捨て肝胆をくだし此処に来るものは、畢竟我等救命の故あり。然るに汝等我に陰門を見せ、すこしく淫心の気を生ぜしめしはこれ汝が罪なり。この償は汝が方より出すべしといえば、メノコ笑って去りしという。」
アイヌは性器が特種の神秘的な力をもっていると信じていた。その力とはどんなものであるかというと、これを見る者の目をくらましたり、力を奪ったりするのである。
前に述べたような、平時は決して性器を露出しないという風習も、要するにこれを見る者に害を及ぼさないようにするためである。
アイヌが陰部を蔽うているのは平時のことであって、一朝ことあるとき、例えば害敵からの攻撃を受けたり、病魔がコタン(部落)に侵入して来たと認められるような場合には、敢然と一物を露出して敵や病魔を撃退する呪術をおこなうのである。
陰部を露出することによって害敵から免れようとする呪術行為にホパラタと呼ばれているものがある。男なら前をまくって着物をばたばたさせながら陽物を露出し、女ならば後むきになって上身を屈め、着物をまくって陰門ができるだけ敵方によく見えるような姿勢をしながら、やはり着物をばたばたとたたくのである。
その時の有様をアイヌは次のように表現している。
オッカイ・ネ・イケ 男ならば
ホイヌ・パ
・ペ 貂ほどのものを
イ・コ・サンケ 露出し
メノコ・ネ・イケ 女ならば
パ
クル・パ
・ペ 鴉ほどのものを
イ・コ・サンケ 露出して
イ・コ・ホパラタ ホパラタする
ホイヌ・パ

イ・コ・サンケ 露出し
メノコ・ネ・イケ 女ならば
パ


イ・コ・サンケ 露出して
イ・コ・ホパラタ ホパラタする
(知里真志保||アイヌ民族研究資料、第二、第123頁より)
ホパラタ或はオパルパの例を次にかかげる。
例1 小娘ホパラタして敵の目をくらまし賊群
フンドシをはずして逃げたということ
鵡川の上流にあたる穂別村の栄駅と豊田駅との中間にハッタルウシップのチャシコッ(砦趾)と呼ばれている遺跡がある。
昔、附近の部落のポンメノコ(小娘)が、チャシ(砦)の川向うの平地に下りて畑を耕していたところへ、日高のハイ地方のアイヌの

一方、チャシの方では、あいにく男たちが皆山へ狩りに出かけてしまって留守だったので、一人の老婆がカマナタ(鎌山刀)の目釘のゆるんでガタガタになったやつを振って、カッタカッタとならしたので、その音を聞いた


(河野広道聞書、アイヌ調査資料のうち、穂別村の部より)
例2 猛熊もだじだじとなるということ
メノコが山で熊にあって害を蒙りそうになったときには、モウルをまくって(又は引きさいて)ホパルパしながら、
エ・ヌカン・ルスイ・ペ 見たい物を
エ・ヌカン・ルスイ・クス 見たくて
エ・イキ・プ・ネ・ナンコル お前は来たんだろう
ピリカノ・ヌカル よく見よ
ピリカノ・ヌカル とっくり見よ
という呪文を唱える、そうすると、どんな悪い熊でもかかって来ないという。エ・ヌカン・ルスイ・クス 見たくて
エ・イキ・プ・ネ・ナンコル お前は来たんだろう
ピリカノ・ヌカル よく見よ
ピリカノ・ヌカル とっくり見よ
(知里真志保||アイヌの呪法と呪文〔観光社発行『アイヌの話』所収〕参照)
参考1 次の朝鮮民話などもホパラタ同様の風習が朝鮮にも存在していたことを示すものと考えられる。
「一人の女が山の中で虎に出会した。逃げ隠れるすべとてない。ここいらの女ならきゃーっと気絶するところだが、そこは山国女、虎を捕える位は朝飯前のことでさ。彼女は直ぐさま素っ裸になった。そして尻を空に向け両手を地について逆さに立ったんだね。虎が思うにさ。「これは奇妙な動物だ。わしは先年近くこの山に住んでいるけれど、未だかつて斯様な動物に出会した覚えはない。どれどれ」とだんだん近寄って見れば、四脚あれど頭なく、口あれど目鼻なく、しかもその口は縦に裂けている。いぶかしく思いつつ、虎氏いよいよ近寄って試みにその裂けた口を嗅いで見たから、さあ堪らない!猛烈な悪臭がして、鼻もちどころか、むかむかっと胸が悪くなり、げぇーと吐き出すと共に気絶して打倒れてしまった。なにしろ何十年と洗ったことがないんだからね。彼女は難なく虎を打捕え、その皮を町に出て売ったら金百両ってえじゃないか」(

ホパラタは以上のような場合のほかに、悪神や疫病神に対してもおこなわれた。
朝鮮の女の虎退治の話や、日本の女が火事のときに腰巻を打振って火の神を追い払う風習なども、明らかにアイヌのホパラタに通ずるものであって、かつて、この様な呪術が北東亜細亜に広くおこなわれていたことを示している。
性器が偉大な力をもつと信ぜられているのみでなく、その洗汁までが除魔力を有すると考えられている。
次に紹介するのは疱瘡神がアイヌ達の陰部の洗汁や悪臭ある植物の煮汁によってへきえきして退散する有様を述べた昔噺である。
「我は部下と共に出稼ぎに出て、ぬば玉の闇の夜に、人間の村の、村の下手に船を着けた。我一人村の中央へ歩いて行くと、思いもかけず、大きな家の、家の内部から、焚火の光が、あかあかとさしている。忍び足に近寄って、上座の窓から窺うと、これなる大きな家の、右座の炉端には、老翁老婆が並んで坐り、上座には、二人の男が並んで坐り、左座には、美しい少女が坐っていた。一同黙然として何事か打案じている様子であった。やがて老翁が云うよう『これ吾子たちよ、些かにても故実を弁えている我の云うことをよく聴きなさい。今夜は、吾身の背後を何物にか狙われているかの如く、気が落着かず、少しも眠ることが出来ないので、お前達を揺り起したのである。年廻りが悪くて、疫病神たちが往来する時は、いつもそうだった様に、今夜も特別眠れないのである。娘よ、大鍋に水を入れて掛けてくれ!』と云うと、少女は言下に起って、大鍋いっぱいに水を入れて、炉の上に掛けた。次いで老婆が起上り、火尻座の方から[#「火尻座の方から」は底本では「火尻座の法から」]大きなコダシを取出して、何かしら鍋の中へ入れた。老翁は更に語を継いで『娘よ、外へ出て、村の上の端れ下の端れに向い、(今夜は少しも眠れないから kikinni(エゾノウワミズザクラ)だの atane(センダイ蕪)だのを煮て、その煮汁で、村人たちよ、お前達の毛虱のタカった腐った陰部をお互いに洗い会い、その水をそこらに撒きなさい。又、兎やイカリポポチェツポ(針河豚)を煮て、酒宴を開きなさい!)と叫べ』と云うと、少女は戸外へ飛出して、村の上の端れ下の端れに向い、言われた通りに叫んだ。すると、村じゅうざわめいて、眠っていた人々が右往左往した。やがて、何とも言い様の無い悪臭がして、呼吸も詰りわが腹の底を引繰り返して掻き雑ぜたように、嘔吐を催して来た。大鍋は溢れんばかりに沸き立ち、家いっぱいに悪臭がぱっぱっと立昇った。そこまで見て我はつと窓の下から身をひるがえし、飛ぶようにして海辺へ駆けつけて見れば、こわ如何に、部下の大部分は、人間たちの悪臭に斃れていた。我は大いに驚いて、部下を励まし(アイヌの国土は悪臭ぷんぷんとしているから、いざいざ和人の国土へ働きに行こう!)とて、一同と共に長々しく船を列ねて海上へ出た。されど、kikinni とかいうもの atane とかいうものの悪臭が、どこまでも我等の身に附き纏うて、和人の国へ出稼ぎに行くこともならず、今はもう懲々したので、今後は決してアイヌの国土へは、出稼ぎに行かないつもりである||と疱瘡の神が自ら物語った。」
(知里真志保|アイヌ民族研究資料、第二、第124|126頁)
(知里真志保同上文献、第126頁)
〈『北方研究』第一輯 昭和27年12月〉