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夕がたの人々

西村陽吉




※(ローマ数字1、1-13-21)


かあいそうな娘さんたちよ、

夕方の町を二三人ずつ群を成して、

いかめしい煉瓦造りの裏門から、

吐きだされてゆく娘さんたちよ、

おしろいをきれいに顔につけて、

折目のただしい海老茶の袴をはき、

白足袋に日和下駄をはいてはいるけれど、

手に抱えている風呂敷包みの中は、

お弁当のからばこ、白い事務服、それから紅い鼻緒の上草履のようなもの。

そうしてたのしそうにお友達と世間話や未来の夢を語りながら、

町をあるいている間はどんなにたのしかろ、

しかしわかれわかれに家へかえれば、

たくさんの妹や弟、

お父さんの門衛姿はまだ帰っていず、

座敷にはお母さんの内職仕事がちらばり、

せまい六畳のせめてもの机のある辺も、

子供のおもちゃでめちゃめちゃ。

あなたはそのときどんなに空想と現実との間隔の遠いのを感ずるでしょう、

呉服屋の飾窓ショオウインド

小間物屋の飾窓ショオウインド

あなたはさぞあの大柄な浴衣がほしかろ、

青磁に百合の縫の半襟がほしかろ、

しかしかあいそうな夕方の娘さんたちよ、

あなたはスケベイな課長の誘惑や、

上役の好かないイロ眼を怖れなければなりません、

かあいそうな夕方の若い娘さんたちよ。


※(ローマ数字2、1-13-22)


あなたは鼠色の夏服を着ているけれど、

あなたはそれをジカにシャツの上だ、

しかしあなたにはカラーも、ネクタイも似合わない、

あなたは素足で古びた駒下駄をはいている。

なんとあなたの黒い顔をしていることよ、

なんとあなたのツヤのない顔をしていることよ、

ビールで肥った赤ら顔の工場主とは大違いだ、

あなたは急ぎ足で一心に夕方の家へかえる、

おかみさんと、この春生れたばかりの男の子の待っている家へ。

なんとあなたのまじめな、真剣な、どんな苦痛にも堪え得られそうな顔よ、

その男らしい、しかしすこし曇ってやつれた顔よ、

そして太い腕と巌丈な手よ、

つい十年前まで完成していなかった日本の労働者の立派なタイプよ、

私はたった活動写真でいっぺん西洋のストライキを見たばかりだ、

しかしそのなかにはあなたのような真剣な顔がたくさんいた。


※(ローマ数字3、1-13-23)


夕方の月島の渡しを、

東京の町中から、島の貧民窟へ、

高い工場の二階から、せまい棟割長屋へ、

東京市の紋をつけた蒸気船が曳く大伝馬の渡しを、

ぎっしりと押しつめられてわたるひっつめの髪のおかみさんたちよ、また娘さんたちよ、

なにがおかしいとてそんなに笑うのだ、

なにがそんなにあなた達を笑わせるのだ、

よれよれな浴衣、細っこい腹合せ帯、

日にやけた顔、赤ちゃけた髪、

なるほどあなたたちは今からあしたの朝まで自由だ、

それがあなた達をそんなに笑わせるのだな、

あなたたちは作業中は冗談ひとつ言えない、

しかし今はもう自由だ、

さぞ笑いたかったろう、笑え笑え、

若い娘も一所になってなにがそんなに面白いのか笑っている、

しかしその傍にいる蒼い顔のいちょう返しの女は笑わない、

眼のしょぼしょぼしたお婆さんも笑わない、

笑ったことのないような顔だ。

蒸気はどんどん石炭を焚いて、

夕方の忙しさに船をグイグイひっぱってゆく。


※(ローマ数字4、1-13-24)


工場の汽笛がおちこちに鳴り、

あたりが薔薇いろの夏の夕べとなれば、

どこからともなく集ってくる人達だ、

そら、ませた顔をした小僧がのった、

そら、三人連の若い女工がのった、

そら、印袢天の男がのった、

そら、袴をはいた男がのった、

そら、汚い紺の詰襟がのった、

そら、老人がのった、

たちまちいっぱいになる伝馬の渡し船。

みわたせば、

みんな洗いざらしの浴衣の、

素足にちびた下駄、

もしくはあかくなった夏帽に、これのみは夏のあわれの白靴、

腕に抱えた小さな風呂敷包みは、言わずとも昼食べし弁当のあき箱。

忽ちむっと臭くなる汗の匂い、髪の匂い、

げにかれらまことに雄々しく生くるために働きてあれど、

なんぞその顔の日にやけ、頬はやせ、髪はあかくつやなく、

かくのごとくみすぼらしくあることぞ、

かくのごとく身も心も餓えてあることぞ、

考えれば、かくてあらば、げに、

生くるとはあまり美しくもあらぬ事かな。

(八月十日、佃島にて)

(『生活と芸術』一九一五年九月号に発表)






底本:「日本プロレタリア文学集・38 プロレタリア詩集(一)」新日本出版社

   1987(昭和62)年5月25日初版

初出:「生活と芸術」

   1915(大正4)年9月号

入力:坂本真一

校正:雪森

2015年12月13日作成

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