出かける時間になったが、やすが来ない。
壁際に坐って待っているうちに、六十一になるやすが、息子の
やすは滋子の母方の叔母で、伊作をうむと間もなく夫に死に別れ、
長唄は六三郎、踊は
夏はドオヴィル、冬はニースと一年中めまぐるしく遊びまわっているふうだから、ひょっとしたらいま巴里にいないのかもしれず、いるにしてもあのなまけものがいそいそと出迎えなどしそうもない。駅の停車場の出口あたりで、途方にくれておろおろしているやすのようすが見えるようで、とても放っておけなくなった。
克彦も心配して、行ってみるほうがいいというので、ブリュクセルまで自動車を飛ばして、午後の急行をつかまえ、夜遅く巴里へ着くと、案のじょう伊作はどこかで遊び呆けているのだとみえ、やすの電報は再配達の青鉛筆のマークをいくつもつけて
ホームの目につくところに立って待っていると、やすはうねのある
「おや滋さん、これはどうもわざわざ。若旦那は」
「伊作はよんどころない用事があって、それであたしがご名代よ」
「それはそれはどうも」
駅の玄関を出ようとするとやすは急に渋って、
「こんなところで降されてしまったけど、ここが巴里なの」
と、けげんな顔でたずねた。
「そうよ、ここが巴里よ」
滋子がうなずいてみせると、やすは、
「へえ、これが巴里」
あきれたような顔で煤ぼけた駅前の広場を見まわしていると、
「うむ、巴里もいいところがあるね。宝船を売りにきた。そら、おたから、おたからといっている」
「冗談じゃないわ。巴里で「なみのりふね」なんか売りにくるもんですか。あれは古服や襤褸のお払いといっているの。さあ、このタクシーよ」
タクシーが走るにつれて、やすはだんだん機嫌が悪くなって、
「巴里ってずいぶんしみったれたところなんだねえ。若旦那、なにがよくて七年も八年もこんなところでまごまごしているんだろう。子供のとき世界一周唱歌で、花のパリス来てみれば月影うつすセイン河ってうたったもんだけど、まるっきり絵そらごとだったよ。呆れたねえ」
と、こきおろしはじめた。滋子はつくづくとやすの顔を見て、
「呆れるのはこっちのことだわ。こんなところまで一人でトコトコやってくるなんて、いったいどうしたというわけなの」
やすは案外な落着きかたで、
「こんど
「なんだか知らないけど、出すひとも出すひとだわ。たいへんだったでしょう。マルセーユではどうだったの」
「べつになんでもなかった」
「なんでもないことはなかったでしょう。でもよく気がついてあたしのところへまで電報をうったわね」
やすはへんな顔をして、
「なんの電報」
「あなたがマルセーユから電報をくだすったから、
「それはあたしじゃない。滋さんの所書き日本へ忘れてきたから、うとうにもうちようがないじゃないの」
「でも、あなたのほかに誰が電報をうつというの」
やすもへんだと思ったか、解けきらない顔で、
「マルセーユじゃ、ちっとも心細い思いなんかしなかったのよ。税関がすんだので、なんとかいう旅行社のひとに駅まで送ってもらうつもりにしていると、どこかの奥さまがそばへ寄っていらして、お一人で日本から。よくまあねえ。さぞたいへんでしたでしょう。駅でしたらあたくしがお送りいたしましょう。ちょうど友達の車を持っておりますからっておっしゃるの」
「いい都合だったのね」
「三十七、八の、すっきりした、なんともいえない容子のいい方なのよ。まだ時間があるからとおっしゃって、あそこはなんという
「じゃ電報もその方がうってくだすったのね」
「そうなのよ。でもおかしなことだったの。あわてていたもんだから、電報の文句だけいって、若旦那の所いうのを忘れちゃったんだからなにもなりはしない。汽車が出てから気がついて、困ったことをしたと思って、巴里へ着くまで心配のしどおしだったけど、あなたが出ていてくれたのでほっとしたわ」
伊作のほうはともかく、ブリュクセルまで電報をくれたそのひとというのは誰だったのだろうと思って、
「あなたその方のお名前、伺って」
「それがつい気がつかずだったの。でもあの方ならどこでだってわかるわ。汽車が出るまでホームで見送ってくだすったけど、あんな愁いのきいた、眼に沁みるような美しい顔、見たことがない。いまでもありありと眼の底に残っているよ」
そういうと思いついたように籠信玄から塩せんべいをだして、
「滋さん、あなた好きだったわね。銀座の
じぶんも食べながら移りかわる河岸の景色をながめていたが、薄靄の中にぼんやり聳えているエッフェル塔を見つけるとうれしそうに手を
「ちょいと、あれエッフェル塔でしょう······明治四十年の巴里の万国博覧会といって、よくあの写真を見せられたもんだった。おやおや懐しいこと」
他国で旧知にでも逢ったようにニコニコしていたが、パッシイの橋がすむと、
「ねえ、滋さん、あの上へのぼれるのかしら。エッフェル塔のてっぺんで初日の出を拝んだといったら話の種になるわね」
「ええ、のぼれるのよ。でもあそこが開くのは十時ですから、お日の出というわけにはいかないわ」
「ええ、ええ、それで結構よ」
やすが小走りに部屋へ入ってきて、滋子が坐っているのを見ると、
「なんだい滋さん、こんなところにいたの。もう時間よ、さあ出かけよう」
とせきたてた。
川崎をすぎると
欧洲引揚船の荷物検査はいつも無事にすんだためしがないが、こんどもまた子供の靴下からぞろりと宝石があらわれて五日も観音崎の沖でとめられ、ようやく上陸許可になったと思うと検疫中にチブス患者が出たり、なにかひどくごたごたした。
やすは白足袋の爪先をきっちり揃え、福々とした顔でなにかかんがえているふうだったが、
「伊作はけっして帰って来ないだろうと思って、ずっと前から覚悟していたのよ」
とだしぬけにそんなことをいいだした。
「へえ、どうして」
「どうしてってことはないけど、そんな気がしたの。だから、帰ってきたなんていったって、どうしてもほんとうのような気がしないのよ」
「帰るも帰らないもあるもんですか。
「まだ書記官でいらしたころ、ときどきお見えになったよ」
「ついこの間聞いたんですけど、千田さんはノスタルジーに耐えられなくなって······日本へ帰りたい帰りたいで神経衰弱におなりになって、ご夫婦でピストル自殺をなすったんですってよ」
「あの千田さんが······ご夫婦で。それはお気の毒だったわねえ」
「なにしろ任地がアンカラでしょう。そうまでなさるにはどんなにお辛かったろうと思って、つくづくお察ししたわ。そんな方もあるのに、伊作なんか、帰ってきたって欧羅巴のほうばかり眺めながら腑ぬけのようになって暮すんでしょう。帰らないですむならあんなひと帰って来ないほうがいいんだわ。あなたやはり逢いたい?」
「逢いたいね」
「母親なんて馬鹿なもんだわね。あんな目にあわされても息子が恋しいなんて」
「ええええ、どうせあたしは馬鹿なのよ」
やすを自動車に残して山下桟橋へ行ってみたがちっともようすがわからない。冷たい風が波しぶきといっしょに吹きつける桟橋を寒肌をたてながら行ったり来たりしていたが、引揚者は収容所にいるだろうということでそっちへまわった。
合宿所へ行くと伊作はいたが姿を見せず、ホテルのポーターのようなのが代りに出てきて、磯子の萩ノ家という家で待っていてくれ、すぐあとから行くからといってよこした。
もとはどういう名のある邸だったのか、竹の
すぐ行くといった伊作は十一時すぎになってもやってこない。やすはのんびりと庭をながめてから
「どうしたのかしら。ひどく遅いわね。もう二時間になるわ」
腹立ちまぎれにあたりちらすと、やすは、
「どこかへ遊びに行って、こっちのことなんか忘れてしまったんだろう」
こちらへ背を見せたまま気のない調子でいった。
「それにしたって、こんなに待ちこがれているひとがいるのを、知らないわけでもあるまいし」
やすは
「あたしはいつも待たされ通しよ。日本で待ち、巴里へ行っちゃ待ち、この二十年、若旦那の帰りばかりを待って暮してきたようなもんだわ。巴里じゃ、窓のそばの
そういうとクスクスと笑いだした。
親馬鹿もここまでくれば行きとまりだと、滋子はなにをいう気もなくなって、
「そんな目にあって笑っていれば世話はないのよ」
「だって、おかしいじゃないの。あたしは汽車の西洋便器の蔽い蓋の上へ腰をかけて手ばなしで泣いていたのよ。その恰好を思いだすと笑わずにはいられないわ」
「まあまあ、たんととぼけていらっしゃい。あなたもおっしゃるからあたしもいいますけど、ほんとうにあの時ぐらい困ったことなかったわ。朝になっても伊作は帰ってこないし、あなたは
やすはおっとりと笑って、
「なけれァないっていやいいのよ。あんなしみったれた飲ませかたをするから。でもエッフェル塔はよかったわね。エレヴェーターを降りてから階段をあがるのは弱ったけど、あの景色だけはいまでも忘れない」
「四階の
そんなことをいっているうちに、ふとしたことを思い出した。
「エッフェル塔を降りてシャン・ド・マルスを歩いているとさ、だしぬけに、あっ、若旦那、って大きな声をだしたでしょう。あれはなんだったの」
やすは大袈裟に首をひねって、
「へえ、おぼえていないわ。あなたのききちがいでしょう」
と、わからない顔をしてみせた。
とぼけたりするところを見ると、たしかになにかあったのらしいが、伊作をかばいだしたら
女中が電話だといいに来たので、出てみると伊作からだった。
「なんなの、ひとをこんなに待たせて」
「用事が重なってすぐぬけられそうもないんだ。
「ちょっと待ってちょうだいよ。代人ってなんなの。あまりへんなひとよこさないでちょうだい」
「君も知っているだろう。S銀行のボストンの支店長をしていた
「ええ、知ってるわ。
「あのひとのお嬢さんの
「あなたにしては神妙な話ね。ええ、よくわかったわ」
「杜松子さん、十分ほどしたらそちらへ行くから」
杜松子という娘の顔を滋子はあっけにとられてながめながら、生れてからまだこんな美しい膚の色もこんな完全な横顔も見たことがなかったと思った。
杜松子は
「この花は萩でしょうか」
としずかにたずねた。滋子はそばへ立って行って、
「ええ、そうよ。あれが山萩、むこうのは豆萩······木萩······あちらが千代萩。でもあれは四月でなくては咲きませんの」
杜松子は顔をかしげるようにして萩の花むらをながめながら、
「花もサンパチックないい花ですけど、葉もいやしい葉ではありませんのね」
といった。滋子は思わず笑いだして、
「萩の葉をほめたのは、あなたがはじめてかも知れないわ。そういえばフランスには萩はなかったようでしたね」
「レスペデーズって、いくらか似たようなのがありますけど、まるっきりべつなものですわ」
そういうと流れるように瞳をよせて、
「日本にだけあって、フランスにない花を見たくなると、息苦しくてどうしていいかわからなくなるようなことがあります。むかし母と、土筆を摘みによくエトルタへまいりましたわ」
「フランスでは土筆のことを鼠の尻尾というんでしょう」
「あたしたちが土筆を摘んでいると、村の人が通りかかって、リアン・ド・コア・マンジェ(この国には食えるようなものがないからね)とからかって行きますのよ」
急に
ふだんの滋子なら、すぐ気がつくのに、いままでなんとも思わずに見すごしていたのがふしぎなくらいだった。こうして見てみると三十歳ぐらいのひとの着付だが、十八、九の若さでそれがちっともおかしくないというのは、これはもうたいへんなひとなのだと思った。
「失礼ですけど、そのお
杜松子はどこか薄青い、深い眼付で滋子を見ながら、
「おほめをいただきましてありがとうございます。でもこれは母のおさがりですのよ。いちどちょっと日本へ帰ったときにつくったんだそうですけど、母はこの着物が好きで、日本へ帰ることがあったらこれを着て帰るようにってよくそうもうしましたので、きょう思いきって着てみましたの。でも三十年というとたいへんなデモードね」
「あなたは巴里のキャンプで伊作といっしょでしたって」
「十二人の方と七十日ばかりおりましたが、久住さんにはたいへんにお世話いただきました。船の中でもいろいろもう」
やすはニコニコ笑いながら二人の話を聞いていたが、だしぬけに、
「あなたさま、いぜんから伊作をごぞんじでいらっしゃいましたか」
とたずねた。杜松子は瞼をふっくらさせて、
「いえ、そのときはじめて」
「そうでしたか、それはそれは。ほんとうにふしぎなご縁で」
滋子は笑って、
「ふしぎなご縁とはまた旧式なことね」
「でも、知らない同志がキャンプで知り合うなんてのはそれがよくせきな縁よ。戦争がなかったら、死ぬまで逢わずにしまったかもしれないんだから」
女中が電話をいいにきた。
「ええ、
杜松子が出て行くと、やすは滋子のそばへいざりよってきて、
「滋さん、あなた気がついて」
濡れた大きな鹿の眼で滋子の顔を見つめながら、
「杜松子さんって、あたしの孫なのよ」
とささやくようにいった。滋子は呆れてやすの顔を見かえしながら、
「いったいなにをいいだすつもりなの」
やすは急に幅のあるようすになって、
「伊作の娘ならあたしにとっては孫でしょう、そうじゃなくって」
滋子は押しまくられてたじたじになりながら、
「伊作がいったことなの、それは」
「いいえ。でもあたしにはちゃんとわかるの」
滋子は肩をひいて、
「よしてちょうだい、へんなことをいうのは。ちっとも伊作に似てなんかいないじゃありませんか。眼だって鼻だって。あなたどうかしているわ」
「父と娘は後姿が似るというけどほんとうね。いま立って行った後姿······肩のぐあい、首、頭のさきまで伊作にそのままよ。白状するけど、エッフェル塔の下で、あっ、若旦那って頓狂な声をだしたでしょう。あなたは気がつかなかったようだけど、伊作と女のひとが乗った自動車がすぐ前を通って行ったのよ。それでその女のひとってのは、マルセーユでいろいろ親切にしてくだすったあの奥さまなのよ」
「たいへんなめぐりあいね」
やすはうなずいて、
「たいへんというならまだたいへんなことがあるのよ。杜松子さん、その奥さんに瓜二つなの」
滋子は波のように揺れ揺れる萩の花むらを眼を細めてながめながら、二人にとっておそらくたった一度の油断を、見るはずもないやすに見られたというのは、いったいどういうことなのだろうとつくづく考えた。
杜松子は生き生きした顔つきになって戻ってくると、心のうれしさを包みきれぬといったようすで、
「久住さんからでしたのよ。そちらの昼食には間に合わないけど、かならず夕方までに帰るからっておっしゃっていらっしゃいました」
「どうもお世話さま。ずいぶん長いお電話でしたのね。なにか面白いことがあって?」
滋子がそういうと、杜松子は身にそなわった
「おあてになったわ。それは面白いお電話でしたのよ。久住さんがあんなにお笑いになるのはじめてよ。そうして、あたしが電話を切ろうとしますと、もうすこし、もうすこしって」
廊下にしずかな足音がして女中たちがお膳を持って入ってきた。

膳がひかれて薄茶が出ると、やすは茶碗を手に持ったまま杜松子のほうへ向きかえて、
「だしぬけにみょうなことをおたずねいたしますが、あなたさまのお母さまは、昭和十二年の暮にマルセーユへおいでになったことはございませんでしたか。古いことでおぼえていらっしゃらないかもしれませんけど」
「昭和十二年というと三十七年のことですわね。よくおぼえていますわ。十二月の二十八日の朝、どうしてもマルセーユまでお迎えしなければならない方がおいでになったともうしまして、大急ぎで発って行きました」
「あたくしがちょうど日本から着いたばかりのところを、あなたさまと瓜二つなご中年の方にいろいろとお世話いただきましたが、すると、やはりあなたさまのお母さまでいらしたのですね。お名前を伺うのを忘れて、お礼もうしあげることも出来ませんでしたが、その後、お母さま、ごきげんよくっていらっしゃいますか」
杜松子は下眼にうつむいて、
「母はマルセーユからサン・レモへまいります途中、
「それはどうも。一月元旦にエッフェル塔のそばを自動車でお通りになるのをお見かけしましたが、するとそれが」
杜松子は眼を見はって、
「母は三十日の午後に亡くなりました」
やすはなにげないふうでチラと滋子の顔を見ると、茶碗をかえし、両手を膝に置いてしずまりかえってしまった。
女中がまた電話をいいにきたので滋子が電話へ出てしばらくして帰ってくると、杜松子がいない。
「杜松子さんは」
「庭を見るって」
なるほど池の汀の萩の間でうらうらとした杜松子の後姿が見えていた。
滋子はそこへ坐りこむと、血の気をなくした顔になんともいいようのない薄笑いをうかべながら、
「あなたのおっしゃるとおりだったわ。ああ、ああ」
身体を支えるように右手を畳について、
「あなたはちゃんと見ぬいていらしたんですから驚きはなさらないでしょう。ね、驚かないでちょうだい。伊作は死んだわ。······ホテルからしらせてきたの。ひどいホテルらしいわ。もののいいかたなんか、まるで雲助なの······鞄の上へ腰をかけて、外套を着たまま、ピストルで頭を射って······ああ、ああ」
やすは顔をあおむけ、天井を見るような恰好でだまって聞いていたが、顔をうつむけたひょうしにキラリと光るものが一つ膝の上に落ちた。
「かあいそうに、かあいそうに······あたしはなにもかもみなわかっていたんだけど」
と低い声でいった。
「でもあなたこんな末のことまでどうしてわかっていらしたの」
「若旦那と