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衢路

森川義信




友よ覚えてゐるだらうか

青いネクタイを軽く巻いた船乗りのやうに

さんざめく街をさまよふた夜の事を||

鳩羽色のペンキの香りが強かつたね

二人は オレンジの波に揺られたね

お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?

友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ

窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを

昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ

それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが

ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も

友よ お前は知らないだろ?

ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて

今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて

猶太人のやうにほつつき歩いてゐる事を

だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて

ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ

そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは

かぐはしい昨日の唄声ではなかつたのだ

ああ それは||昨日の窓から溢れるものは

踏みにじられた花束の悪臭だつたのだ

やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ

ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま

小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする

いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする

ボードレエルよ ボードレエルよ と

ああ 力の限りぼくの心は手を振るのだつたが

||又仕方なく昏迷の中を一人歩かうとする






底本:「増補 森川義信詩集」国文社

   1991(平成3)年1月10日初版発行

初出:「ルナ 6集」

   1937(昭和12)年9月

※初出時の署名は「山川章」です。

入力:坂本真一

校正:フクポー

2019年7月30日作成

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