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傾ける殿堂

上里春生




||一切の世界進行を、「自己運動」に於て、自発的発展に於て、生ける実在に於てあるものとして把握する認識の条件は、それらの対立の認識これである。······発展は対立の闘争である

||レーニン


かつて世が苦悩を塗り罩めた時

偉大なる殿堂は輝いてゐた。

勝利の山に燦然と

晴朗の日月を飾帯しよくたい

円満具足えんまんぐそくの己れをした

青い時から、青い時まで

最上善の指標をつとめた。


所謂衆生は秘かに汗ばみ

所謂庶民は僅かに息吐いきづ

所謂人類は爪尖たてゝ

苦悩の大地の垣根のほとりに

是を仰いで浩歎した。

袖の下から歎美した。

その栄光をうべなふに||


だが其の栄光を支へてゐたのは

汚い泥土の湿地を匍匐はらば

歎く葦原のたぐひのみでない

勝利の偉勲のやいばでもない。

地が明かに許容したのだ

在るべきものゝ斯くては在るのを。

そこでは錯覚が支配した||


偉大なる殿堂は輝いてゐた。

恍々として玄義げんぎの如く

燦々として白毫びやくがうのやうに

厳として聚ゆる権利の如く

あらゆる慧智の王府のやうに

偉大なる殿堂は輝いてゐた

勝利の山に輝いてゐた。


偉大なる殿堂の存在ザインを仰げよ

偉大なる殿堂の旗幟はたを仰げよ

偉大なる殿堂の紋章を読めよ

偉大なる殿堂のよはひを数へよ

偉大なる殿堂の広※ひだ[#「衣」の「亠」に代えて「立」、316-上-7]せよ

偉大なる殿堂の向後を問へよ

偉大なる殿堂の内陣ネーヴのぞけよ。


誰が初めて建てたのか

誰が太初はじめ発見みつけたか

知られない強権の略取の上に

恐らくは人類の競争が

側目わきめも振らずに積みあげて来た

絶大無量の生命いのちの剰余よ|

偉大なる殿堂は輝いてゐた。


だがその内に世紀は老けた

月と日と星がその上に

交り番こに瞬いては去つた。

旗幟はたはやうやくよごれて悲み

風がその広※ひだ[#「衣」の「亠」に代えて「立」、316-下-2]陰影かげを与へた。

何やらん歓会の声のあやにも

焦燥が青黒いかほをもたげた。


偉大なる殿堂に時は来た

宛ら燃え立つ大森林の

すさまじい夜景の熱風ねつぷうのやうに

あの殿堂を揺がした

喝采の声もしわがれていつた。

今は幻滅の除夜ぢよや真近まぢかだ。

蒼ざめた勝利が顫へてゐる。


正義はその立つ支柱を失ひ

こゝにやうやく桎梏となつて

偉大なる殿堂を自壊に導く。

暗い土台の土の底では

手を差しへて喚ぶのであらう。

幾億の人柱シシアスの恨みの声が

怒濤のやうに、むくれ合つてゐる。


人、生れて誰か思念を拒否する?

人、生れて誰か己れを否まう?

日が野にりようらんと在るやうに

各々おの/\も各々の意志によりたい。

けれ共実在は決定けつじようである。

各々の意志とは別個である。

厳として実有が各々を意志する。


斯くて殿堂は傾いていつた。

刻々と斜めにきし痛苦いたみ

堪へがての人柱ツシアスのつきぬ恨みが

遂に地の底にくふに到つた。

聞け! 陰惨な行疫神八将の

不吉な叫び声の渦巻きを············

偉大なる殿堂は傾いてゆく。


地平の彼方に血のにじむ頃

偉大なる殿堂は声さへ挙げた。

世にも恐ろしい勢で

地軸と共に落込んでゆく

暗転の前の畏怖おそれをもつて

偉大なる殿堂は傾いてゆく。

夜の烏がその上に躊躇ためらつてゐる。






底本:「沖縄文学全集 第1巻 詩※(ローマ数字1、1-13-21)」国書刊行会

   1991(平成3)年6月6日第1刷

底本の親本:「文章世界」

   1917(大正6)年

初出:「文章世界」

   1917(大正6)年

※「||」と「|」の混在は、底本通りです。

※「人柱」に対するルビの「シシアス」と「ツシアス」の混在は、底本通りです。

入力:坂本真一

校正:hitsuji

2019年5月28日作成

青空文庫作成ファイル:

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●表記について


「衣」の「亠」に代えて「立」

  

316-上-7、316-下-2



●図書カード