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生地売り

泉芳朗




ロシヤ人の生地売りは

山間の一軒家に宿ってゐた


「生地 日本 ウレナイ ヨカ ヨカ」


無論誰にも面と向かって語ったのではない

けれど私は只一語聞いた胸に

幾回となく生地売りの言葉をくりかへした


あの一晩中

山間のあばら家に耳をそばだてて

××の鋭い眼光もて探照してゐた憲兵でも

否恐らく

この狭隘な山間に住む人皆に

生地売りの哀愁はわからなかった


人々は

異国人の珍奇を只むさぼり嗤った


「生地 日本 ウレナイ ヨカ ヨカ」


ああロシヤの一商人は

たった今までも私の求めてゐる或物を事実に示してくれた

腕を組んで湿っぽい夜空を見上げた私には

星の一つもまたたいてくれなかったけれど


いばらのさしかかった山路は私の前に遠く限りなくつづいてゐる······






底本:「沖縄文学全集 第1巻 詩※(ローマ数字1、1-13-21)」国書刊行会

   1991(平成3)年6月6日第1刷

底本の親本:「泉芳朗詩集」泉芳朗詩集刊行会

   1959(昭和34)年

入力:坂本真一

校正:フクポー

2018年4月26日作成

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