ロシヤ人の生地売りは
山間の一軒家に宿ってゐた
「生地 日本 ウレナイ ヨカ ヨカ」
無論誰にも面と向かって語ったのではない
けれど私は只一語聞いた胸に
幾回となく生地売りの言葉をくりかへした
あの一晩中
山間のあばら家に耳をそばだてて
××の鋭い眼光もて探照してゐた憲兵でも
否恐らく
この狭隘な山間に住む人皆に
生地売りの哀愁はわからなかった
人々は
異国人の珍奇を只むさぼり嗤った
「生地 日本 ウレナイ ヨカ ヨカ」
ああロシヤの一商人は
たった今までも私の求めてゐる或物を事実に示してくれた
腕を組んで湿っぽい夜空を見上げた私には
星の一つもまたたいてくれなかったけれど
いばらのさしかかった山路は私の前に遠く限りなくつづいてゐる······