往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。この解決は自分の日本民族史研究上、最も必要なる事項であるのみならず、この人達と一般社会との真の融和を得る上にも、まず以て是非とも知っておかなければならぬ問題であると信ずる。
それについて自分は、「穢多」という同情なき文字の使用に甚だ多くの不愉快を感ずる。「エタ」という名がいかなる由来を有するか、いかなる意義を有するかについては、別項「エタ名義考」中に於いて管見を述べておいた。よしやその意義がいかにもあれ、「穢多」という文字は「エタ」の語を表わすべく用いられた仮字に相違ない。しかしそれが仮字であるにしても、かつて或る迷信の上から、彼らは穢れたものであると認められていた時代ならば、或いはこの字を用いておっても、幾らかその意味があったかもしれぬが、今日肉を喰い皮を扱うことが、必ずしも穢れではない、神明これを忌み給うものでないという諒解が出来た時代にまで、この不愉快の仮字を使用する必要はない。
実を言わば「穢多非人」の称は明治四年に廃せられたので、爾後「エタ」なるものは全く存在しない筈である、したがって自分は、もし出来るならば一切この忌わしい言葉を口にしたくないのである。しかしながら、過去の歴史を説く場合には、どうしてもこれを避ける事が出来ない。自分もやむをえず、不愉快ながら本編以下多くこれを使用しようと思うが、それにしても「穢多」という同情なき文字は、なるべく避けたい。どうでそれが発音をあらわすための仮字である以上、いかなる漢字を使用してもよいのであるから、自分は彼らの将来に天恵多からんことを祝福して、「
本編の目的は、所謂「エタ」が我が日本民族上、いかなる地位にあるものなるかを明らかにせんとするのにある。そして今説明の便宜上、まずその結論を初めに廻して、一言にして自分の所信を言えば、もと「エタ」と呼ばれたものは、現に日本民族と呼ばれているものと、民族上何ら区別あるものではないという事に帰するのである。ただその執っておった職業や、境遇上の問題からして、種々の沿革・変遷を経て、徳川時代の所謂「穢多」なるものが出来上がった。その川の末は「エタ」という大きな流れになっておっても、その水源は必ずしも他の普通民の祖先と、そう違ったものではなかった。その中に運の悪い道筋を取ったものが、彼方の山から、
現在部落民として認められるものは、普通民との数の比較の上から云えば、畿内地方から、兵庫・和歌山・三重・滋賀等、畿内の付近地方が最も濃厚で、岡山・広島等の中国筋から、四国・九州北部という方面がこれにつぎ、関東では埼玉・群馬などに比較的多いが、九州の南部、奥羽の北部など、中央から遠ざかるに従って次第に減少の態となり、青森県では現にただ一部落二百二十四人という数がかぞえられているだけである。
しかしながら、ともかくも彼らはかく広く行き渡っているのであるから、それが同一根源から蕃殖移住したものだとのみは考えにくい。各地に於いてもと起原を異にしたもので、同一状態の下におったものが、後世法令上の「穢多」という同一の残酷な名称の下に、一括せられたのであることは想像しやすいところである。したがって地方によっては、今もなおそれぞれ異った名称を用い、エタという名を知らぬ所すら少くないのである。
徳川時代のエタは江戸と京都とを両中心としていた。江戸では有名なる弾左衛門が、関八州から甲・駿・豆・奥の十二州(或いは参遠の一部をも)の「エタ頭」として、寛政十二年の同人の書上によるに、当時エタ・非人七千五百二十八戸を支配していた。また
かくの如きの状態で、江戸の弾左衛門を除いては、徳川時代に於いてエタ全体の仰視すべき大頭とも云うべきものがなかったが故に、弾左衛門の法が自然にエタ非人の法の如くに心得られ、上方地方のエタの伝うるエタ巻物などの類にも、しばしば弾左衛門のことを引き出している様ではあるが、しかもその弾左衛門自身が、もと摂州池田から鎌倉に移住したのだと伝えられている程であるから、もと各地にいたもので、後にその仲間に入れられたものの多かったことは勿論で、エタの起りとしてはやはり上方地方であった様である。
しかもその上方地方という中に於いても、京都が古く「エタの
正徳二年七月に、備後地方のエタと
今度備後国茶筅共と、我々共触方の義に付、出入に罷成り、則御地頭様より、穢多の水上京都へ罷越、則茶筅と穢多共の甲乙之義、様子聞合せ可申由被レ為二仰出一。尤備後・備中の茶筅共之義は、おんぼう仕、穢多の支配下にて無レ之由を申出し、出入に罷成候。依レ之福山穢多頭より、京都にて皮田頭中え右出入の品委曲に申上度候と申、則書付持参仕候事
口上
一、今度私共国方に、皮田村とちやせん共と甲乙の義に付、御番所様え先年之通申上候所に、被二仰出一候は、其方共之頭京都皮田村え罷登り、相尋可レ来之由被レ為二仰出一候。依レ之各々様え相尋申上候。委細被二申聞一候者、可レ忝候已上。
正徳二辰年七月 備後国福山皮田三吉村
三八九郎助
同 関助
同 関助
京都皮田村
頭中様
頭中様
この争いの結末は、茶筅等は京都四条坊門極楽院空也堂の支配下であって、彼らの名前が同寺の古帳にあるとの主張であったが、調査の結果「本寺古帳に左様の者一人も曾て無之」との回答を得て、エタ方の勝利に帰した。
享保三年にも江州甲賀郡森尻村のエタと、非人与次郎との間に、芝居
このエタの
「雍州府志」にエタの起原を尋ねるものにとって、見のがし難い文句がある。
凡穢多之始、吉祥院南小島為レ本。
著者黒川道祐が何に拠ってこの言をなしたかは今これを知る事が出来ぬが、天和・貞享の古えに於いて、彼がかく判然たる記事をなすべく、確かな伝説のあったものと解せねばならぬ。小島は桂川辺の一村落で、古えの
閏八月廿八日、制‐二定百姓葬送・放牧之地一。其一処在二山城国葛野郡五条荒木西里、六条久受原里一、一処在二紀伊郡十条下石原西外里、十一条下佐比里、十二条上佐比里一。勅曰、件等河原是百姓葬送並放牧之地也。而愚昧之輩、不レ知二其意一、競好二占営一、専失二人便一、須下令二国司一、屡々加二巡検一、
上レ令二耕営一。犯則有レ法焉。

とある。この佐比里は有名なる
小島は或いは単に島と云い、維新後付近の石原村と合併して石島村と云い、今は吉祥院村の大字となっている。石原・佐比・久受原・荒木は、共に桂河辺の土地で、川の流れとは反対に、斜めに東南から西北に存していた。これは紀伊・葛野二郡の古代の条里制の研究から、ほぼその位置を推定することが出来る。中にも佐比は平安京右京第二縦大路(西大宮大路の次)なる、佐比大路の名と関係のあるものらしく、その大道が南に延びて桂河に達する所、すなわち佐比の河原であった。佐比・石原共に、百姓の墓地及び牧場として指定された土地であってみれば、いずれそこには、これらの世話をした人民がいたに相違ない。これやがて小島(島)・
餌取はもと
職に放れた主鷹司の餌取らが、いかなる運命に向かって進むべきかは、元禄年間生類憐みの沙汰から、当時の餌差らが取った運命を見ても察せられる。
「京都御役所向大概覚書」に、
洛中洛外餌指札 之事
一、町餌さし三十四人
右前者人数不二相極一、所々に罷在、御上洛之節御鷹餌差上来候由。然る処に板倉内膳正殿在京之節、吟味之上人数三拾四人に相極り、小鳥之殺生斗 可レ致旨にて、小鳥札被二出置一候。其後所司代に札被二指出一候処[#「候処」は底本では「侯処」]、内藤大和守殿所司之時分より、札不二相渡一候。元禄七戌五月 小原佐渡守殿所司之時分[#「小原佐渡守殿所司之時分」は底本では「小 原佐渡守殿所司之時分」]、小出淡路守申談、御鷹無レ之に餌差と申儀成りがたく候。外の家業無之及二飢命一候と有レ之上は、向後町猟師に罷成候様に被二申付一候由。
元禄拾六未年九月松平紀伊守殿御所司の時分、水谷信濃守申談、京都町餌指之儀、殺生御停止に候間、相止 候様餌さし三十四人え申渡、証文申付候。
一、町餌さし三十四人
右前者人数不二相極一、所々に罷在、御上洛之節御鷹餌差上来候由。然る処に板倉内膳正殿在京之節、吟味之上人数三拾四人に相極り、小鳥之殺生
元禄拾六未年九月松平紀伊守殿御所司の時分、水谷信濃守申談、京都町餌指之儀、殺生御停止に候間、相
とある。放鷹の事が廃せられて、扶持を失った餌差らが、他の職業なくしてたちまち飢

「雍州府志」にはまた小島の事を記して、
此処有下称二乃保里 一者上。是有レ罪人曝二道路一時、紙旗記二罪状一、書二姓名一、先以レ竿棒‐二持此旗一。斯徒毎日輪次掃‐二除二条城外之塵埃一。是出レ自レ棄二不浄一者也。
とある。この事は「塩尻」(「古事類苑」引)にも、
今に島(吉祥院)の保里(これまた悲田院の部類、刑罰の時紙籏に罪状姓名を筆とる者)毎日二条城外の塵穢を掃除するも、中世よりの風歟。
とある。のぼりは「幟」で、罪状を書いた旗から得た名である。罪人を扱い、汚穢を掃う。これまた彼らの職務とするところであって、これらの事についてもエタの本と認められた小島の者が、もとはやはり特別の関係を持っていたものと思われる。
貞治四年六月十六日、四条河原細工九十人 召レ之、鳥居穴掘レ之。酒直一連半 レ之。猶穴不足之間、以二此 一下穴掘レ之。足代木一貫五百文之由、最初大工雖レ載二損色一、料足不レ可レ為之間、為二神 一、流レ自二堀川一 河原細工、丸太木(廻り九寸余)九支、丹波三郎口木廿支、以二堀川一寄方朝乗法橋借用、社人ニ今日以二雑役一送‐二渡之一。云云。
と見えている。なおエタと細工との関係は、次項を見られたい。
「芸苑日渉」には、あまべという事を解して、これすなわち穢多だという様に解している。「
余戸が必ずしも外国人でなく、またエタでもない事は言うまでもない。諸国に
後世では河原者とだに云えば、これ直ちに非人の称で、特に歌舞伎役者を賤しんで呼ぶ場合の名となっておるが、昔はエタと非人との区別も判然せず、エタの事を河原者とも呼んでいた。室町時代文安元年の「下学集」に、
穢多(屠児[#改行]河原者)
とある。当時に於いては屠児すなわち獣肉を扱う者をも、河原に住んで賤業に従事した河原者をも、共にエタと呼んでいたのである。否河原者の或る者が同時に屠児であって、為にその名が共通になっていたのかもしれぬ。これも室町時代の「七十一番職人尽歌合」に、「穢多」という題で、
人ながら、如是畜生ぞ馬牛の
河原の者の月見てもなぞ
河原の者の月見てもなぞ
とある。また「

河原の者エツタといふは何ノ字ゾ。
と題して、エタの餌取たる事を説明している。すなわち少くも室町時代には、エタを或いは河原者と云っていたことが察せられるのである。ことにこの「

エタをもと河原ノ者と云ったことは、後世のエタ仲間に於いてもこれを認めておった。彼らの仲間に伝うる諸種のエタ巻物なるものの中に、この事に関して種々の付会した説明を加えてあるのが多い。「河原細工由緒記」というものに、
此職人河原細工人ト申者、滑革者不二水辺一者不レ成故、往古為二此職一、江河之辺ニ移住。故河原細工人ト申也(不可混河原者)
とある。細工人の事は後項に述べる。エタに河原という名のあった事は、右の文によっても確かであるが、特にその割注に、「河原者と混ずべからず」と断ってあるのは面白い。後世普通に所謂河原者は、彼らの下と見做した浮浪人であったが故に、彼らは自ら高く標置して、その混同を避けんとしたものである。
また別本河原巻物と称するものには、エタの事を
抑河原仁の氏神と申奉るは、天竺
舎利国大王、縁太郎王子と申候。云々。

別本にはこの縁太郎王子を円多羅ともあって、エタという言葉の語原を説明すべく設けた名らしい。
さらに「別本河原細工由緒巻」と称するものには、河原細工と書いてある。
此職を河原細工と申す儀は、滑革をなす事は流水にあらざれば調はざる故、此職を務むる者は常に河原に於可レ営レ之。依レ之河原細工といふ。此職を務者、勝手に付居宅を江河の滸とりにて造らせたり。
とある。前に述べた天部部落の事をかつて四条河原細工と云ったとあるのは、すなわちこの河原細工のことである。また明和七寅歳孟春日、御僕小法師忌部川田某署名の無題文書にも、彼らの氏神を勢州渡会郡安部川原に川原神社と祠るともある。彼らの或る者が、かつて河原者として呼ばれていた事は、到底疑いを容れないのである。なお河原者のことは、別項「河原者考」について見てもらいたいが、要するに、かつて河原者という名称で呼ばれていたものは、今日の木賃宿住まいの下級労働者・雑遊芸人、ないし手伝い・日雇取りという様な類で、その中にも皮革業にたずさわったものはエタとなり、祝言・遊芸等に従事したものは後世所謂河原者となったものと解せられる。
徳川時代にも、エタ以外に「掃除」という賤民のあった地方がある。本誌一巻二号三十八頁に書いておいた通りで、阿波に於いてはそれが猿牽と共に、往々人形使いや義太夫語りになっている。この掃除は、阿波では美馬・三好地方に多かった様であるが、他ではエタや猿牽・茶筅の中へ雑ってしまったのであろう。京都地方のエタは、徳川時代の始めには下村勝助統率の下に、二条城の掃除が公役であった。また禁裏のお掃除をする小法師というものも、また京都付近のエタであった。「雍州府志」に、
禁裏院中掃‐二棄塵埃一者謂レ覆 。是丹波山国之人。
と云い、「塩尻」(「古事類苑」引)にも、
禁裏院中の御築地の塵穢を掃ふ者は、丹波国山岡(国の誤謬)より来り、是を己募志 といふ。塵穢を覆ひ棄るの謂歟。
とあるのによれば、もと山国から出ておったかとも思われるけれども、少くも元禄・正徳の頃には、禁裏のお掃除役たる小法師は、主として天部部落から出ておった。「京都御役所向大概覚書」に、
余部村小法師勤方
一、禁裏御目通御庭掃除、余部村小法師八人え被二仰付一候訳、左に記レ之。
西院村より 米六石三斗三升八合
三条縄手裏 同五斗五升
知恩院東川ばた屋敷 同一斗一升八合
三条縄手裏 同五斗五升
知恩院東川ばた屋敷 同一斗一升八合
右の通三ヶ所より知行被レ下レ之候。此外に御切米四石、二月・十一月両度に被レ下。掃除被二仰付一候節は、為二中飯一壱人に米七合宛被レ下レ之候由。
右者従二古来一掃除役人之名小法師と名付、今以知行御切米被レ下レ之。則余部村に六人罷在候。寺町今出川下ル町ニ壱人、上立売下ル瓢箪之図子に壱人。右弍人は掃除御用之触夫いたし、右八人として相勤申候由。
右者従二古来一掃除役人之名小法師と名付、今以知行御切米被レ下レ之。則余部村に六人罷在候。寺町今出川下ル町ニ壱人、上立売下ル瓢箪之図子に壱人。右弍人は掃除御用之触夫いたし、右八人として相勤申候由。
とある。六条村エタ年寄の留書にも、元禄十一年に淀城主へ、天部村お役田地並に小法師御扶持方田地を書き上げた事が見えている。
しかるに享保九年六月頃、天部村の小法師失態の事あって所役召上げられ、七石の扶持もお取上げになった。その後享保十二年に至り、大和丹波市ほか六村から八人のものが許されて、小法師役を勤める事になった。蓮台野から出る事になったのは、この後の事かと考えられるが、年代が確かでない。或いは小法師は他から出て、蓮台野の年寄与治兵衛がその組頭を勤めていたかとも思われる。蓮台野の与治兵衛は維新まで引続きこの役をつとめ、明治三十二年にその由緒を申立てて、士族に編入されたものであるそうな。(この士族編入事件には問題がないでもないが)宝暦十年に、この野口与治兵衛から、仕丁頭中へ出した願書の控に、「私儀親代より引続き三代、小法師御用無レ恙勤来候」とあるのによれば、享保九年から後間もなく、この方へ職務が移ったとして勘定が合う。いずれ小法師の事は、さらに別に考証して書いてみたいが、要するに彼らは御所の掃除人足である。これは東寺の掃除人足を散所法師と云ったのと同じく、もと僧形をなしていたものらしい。明治三十二年に京都府へ出した「小法師由緒書」には、
元僧侶にして、往古御遷都(奈良より京都への御遷都)の砌 、南都より供奉、平安京へ移住し、数十代連綿として、日々禁中御内儀御口向へ参勤し、御殿先、御庭廻りの御清掃を奉仕するお掃除役に御座候。
とある。この語り伝えが、果してどれだけの価値があるかは知らぬが、大学寮に余戸があり、東寺に散所法師のあった様に、宮城にも古くから掃除担当の小法師なるものがあったらしい。
エタと僧形との関係も由来すこぶる古い。紀州ではもと彼らを穢多法師と云った地方があったそうな。「賤者考」には、東国にてエタを俗にエッタボウシというともある。「延喜式」に、
凡鴨御祖神社南辺者、雖レ在二四至之外一、濫僧・屠者等不レ得二居住一。
とある濫僧を、ロウソウと読んで、弘安頃の「塵袋」には、エタの仲間に入れてある。自分の郷里阿波の
子細知らぬ者はラウソウと云ふ乞食等の、沙門の形なれども、その行儀僧にもあらぬを濫僧と名づけて、施行ひかるゝをば濫僧供 と云ふ。其れを非人・かたひ・ゑたなど、人まじろひもせぬ同じ様 のものなれば、紛らかして非人の名を穢多に付けたるなり。
とあるのは、鎌倉時代の実際らしい。しからば小法師は「雍州府志」や「塩尻」の云う如く、
鎌倉時代に掃除人足をエタと云った事は、また「塵袋」によって最も明らかに立証せられる。同書に、
キヨメをエタと云ふは何 かなる詞ぞ。穢多。根本は餌取と云ふべき歟。餌と云ふはしゝむら鷹の餌を云ふなるべし、其れを取る物を云ふなり。
とある。「塵袋」の著者はエタの語を以て餌取の転音だという事を認めながら、当時またキヨメをエタと云ったので、その語の説明を下したものである。キヨメは言うまでもなく「清め」で、汚穢物を掃除する者の名であった。「今物語」に、ある蔵人の五位が美人の後をつけて、一条河原のキヨメの小屋に行った話がある。すなわち小法師・散所法師の類で、それを鎌倉時代には屠者の仲間に入れて、エタと呼んでいたのであった。小法師がキヨメなる掃除人足であったが為にエタ仲間になったのか、エタ仲間からキヨメなる掃除人足の小法師が出たのであるかは疑問であるが、ともかくも汚物掃除の賤しい職に従事したものが、またエタの一源流をなしている事は疑いを容れない。
因みに云う。小法師は禁中お庭掃除の外、藁箒及びお召の草履を献上する例で、御紋付の提灯をも許されておった。これはいつ頃から始まった例かは知らぬが、また以て彼らがもとは格別穢いものとして認められていなかった証拠ともなろう。小法師組頭野口与治兵衛の子孫は、今もその実物を持っていて自分に見せた。また緑雲生という人が「明治の光」に出した奈良県下の部落名の説明中に、磯城郡川西村梅戸の姫廻伊織という人も、先代までは宮中のお
エタと掃除との関係は、この小法師や、二条城の掃除人足のみではない。徳川時代以前には、むしろ掃除がエタの本職であるかの如くにまで解せられていた様である。「慶長見聞書」(「古事類苑」引)に、武州幸手の月輪院僧正が、エタの由来を説明した中に、
小野妹子大臣を御使にて、唐え被渡候て、初て穢多渡る。(中略)。かれが子孫多くなり、社々寺々の掃除の為に、山下に於て寺の残飯にて養ひ申候由、伊勢の間の山、高野に谷のもの、北野の宮地、祇園のつるめそう、叡山の犬神人、皆是寺方の掃除の為なり。
とあるのは、起原の説明としては勿論取るに足らぬが、エタが社寺の掃除を業とした実際は、これに由って知る事が出来る。かの東寺の散所法師の如き、またこの類の一つであったであろう。かくてそのキヨメ等が一体にエタと呼ばれる様になったのは、鎌倉時代以来の事であった。大永三年に鶴岡八幡宮の別当法眼良能から、山ノ内・藤沢の長吏に与えた文書にも、「八幡宮掃除下役、無二懈怠一可二相勤一。」とある。鶴岡八幡宮の掃除も、もとエタの任務であったのである。徳島藩でも、城の掃除は付近のエタが勤めていた。
京都の天部部落がかつて四条河原大雲院の地におった時に、四条の河原細工と呼ばれた事は既に述べた通りである。エタの或る者が細工または細工人と呼ばれた事のあったのは疑いを容れぬ。若狭の三方郡
抑革類細工人之探‐二尋於源本一者、人王十一代垂仁天皇之御宇、於二朝廷一曰二上毛野人綱田与睦毛野谷根強一有二英雄一。此時狭穂彦ト申者発二謀叛一。依レ之此両人征罰之蒙二綸旨一、直引‐二出官軍一、征‐二討於叛逆人一。於レ之龍顔開レ眉、御感不レ浅。莫大之恩賞ヲ給フ。雖レ然如為何 。侫奸之被二折 纔奏一、独根強蒙二勅勘一。剰被レ遠‐二流鎮西筑紫一。哀哉不運而於二配所一終二落星一也。于レ時有二遺子一名曰二副国 一。(左江久仁訛而細工人ト伝云フ)
とある。この
しからばすなわち後世エタといわれるものの中には、皮細工に従事していたが為に、一括してその仲間に入れられたものの甚だ多い事は明らかで、これ実にエタの諸源流中の重なるものであると言わねばならぬ。しかもその皮細工人はもと皮作の雑戸で、賤民ではなかった。なお皮細工人の事は、委細別項「細工人考」について見てもらいたい。
古え
「雍州府志」に、
凡所レ在二洛内外一之紺屋、以二藍汁一染二衣服一者、号二青屋一、又称二藍屋一。如レ今紺屋為二染屋之通称一。其中青屋ハ元穢多之種類也。穢多並青屋、毎レ有二刑戮一、此徒必出二其場一、預二斯事一。或磔レ尸、或梟レ首。
とある。これは著者黒川道祐の貞享頃の実際を書いたものであるが、「其の中に青屋はもと穢多の種類なり。」とあることについては疑問がある。「弾左衛門書上」によると、青屋はエタの下につくべきもので、少くも関東では、青屋すなわち穢多ではなかった。「慶長見聞書」にも、エタが青屋を自分らの下だと云っているとある。しかるに
上方の青屋がエタ仲間と認められたのは、徳川幕府以前からの事であった。それは別項引くところの「三好記」に証拠がある。そして既に彼らがエタ仲間になってみれば、自然世間との縁組にも故障が多く、為に中にはエタ村から養子を貰ったなどの実例もある。しかし彼らの職業は、普通にエタと呼ばれたものの職業とはあまりに多くの懸隔があった。ことに同じ染物屋でも、当初から純粋に植物性染料を用いた紅染屋の如きは、決して賤しいものとはされていなかったのである。そこで藍染屋も草藍を用いて、特別に穢れたものだとの誤解を除かれる様になっては、自然にエタ仲間から遠ざかる。牢番等の役儀に対しても、番代銀をエタに交付して自身その役に当る事を
産所がもとの産小屋の地に住んだままで、一種の特殊民になっていたもののほかに、彼らが東寺の散所法師の如く、一旦掃除人足となって、汚物の取片付けなどに任じた結果から、所謂キヨメの徒として、エタ仲間になったことのあるべきは、既に「エタと掃除」の章に於いて述べておいた。ただしその遊芸人となり、特に
なおサンジョについては、別の考えも持っているが、それは「産所考」の説明に譲っておく。
現今特殊部落と言われているものは、大多数旧時のエタであるが、エタとは別種のものとして、ことに上方地方には夙というのが多い。これらは旧幕時代には、エタ程には賤まれなかったが、それでも今なお特別のものに見られているものが少くない。エタの方からは自ら賤者の頭として、彼らをもその下に見ておった様であるが、彼らはかえってエタよりはよい筋のものだと云っているらしい。
また「賤者考」によると、紀伊で「宿」という名のつく村数計十箇所の中で、他の九箇所は普通の夙であるが、那賀郡名手郷馬宿村の中の狩宿村は皮田で、これは別だとある。しからばこれも摂津島下郡の宿河原と同じく、もと夙の名があっても、その職業からエタ仲間になったものであろう。
大和畝傍山麓の洞村の如きも、もと陵戸か守戸かであったと思われるが、後世の地図には「穢多」と書いてある。守戸ならば良民で、夙の起原をなしたものと思われるが、それがやはりエタ村になっている。
しからば夙の中の或る者は、またエタの流れを構成する源流の一つとなっているのである。
かつてエタ寺として擯斥せられた寺院の住職は、当初は他からエタ教化の為に住み込んだもので、もとは無論エタではなかったに相違ない。したがってその血脈を受けた子孫が、当然殉教者の後裔として、特別の尊敬を受くべき資格のあるものたる事は、別項「特殊部落と寺院」の中で詳説しておいた。またエタ頭・エタ年寄などについても、中には他からこれを支配していて、遂にその仲間になってしまったものも少からぬ事が想像される。
浅草弾左衛門はもと摂津池田から鎌倉へ[#「鎌倉へ」は底本では「嫌倉へ」]下り、長吏以下のもの強勢なるによって支配仰せ付けられたものだと云っている。一説に源頼朝の落胤だとまで主張しているが、もとよりそれには確かな証拠はない。古代に於いても、
エタにして名家の子孫と称するものはすこぶる多いが、その言うところ必ずしもことごとく信ずべきものでないのは無論である。けだし昔のエタにはかなり富裕なものが多かったから、彼らがだんだん世間からひどく賤まれる様になったについて、自己の出自を尊くし、これに対応せんが為に学者に嘱して系図を偽作したものも少くはなかろう。中には喰詰めの学者どもが、自ら勧誘して金儲けの為に系図を作ってやった場合も少くはない。自分の訪問した日向の或る傀儡子部落では、村民の多数がそれぞれ源平藤橘の立派な系図を持っておった。しかもそれらはいずれも元禄頃のもので、おそらく同一手に出来たものだと認められたのである。この様な訳で、少くも世間の系図が多く信ぜられぬと同じ位の程度に、もしくはその以上に、彼らの伝うる系図にも信ずるに足らぬものが多いのは勿論であるが、さりとてそのことごとくが偽物とのみは言えなかろうと思う。
榊原政職君の長崎より送られた通信(一巻六号四三頁)によると、かの地方には切支丹信徒が、政府の迫害を避けて半ば治外法権なるエタ部落に隠れたのが多かったという。これには反対の通信もあって、自分はまだ確かな調査の暇を持たぬが、当時の宣教師がエタに注意していたのは事実であるから、或いはもとからのエタ部落で、熱心なる切支丹信者となったのがあったかもしれぬ。しかし口碑の如く、政府の干渉の比較的少かった自治体に隠れて、その信仰を続けている中に、遂にエタ仲間になってしまったのだという事も、またありそうなところである。
以上列挙した様なものは、もとは部落外の良民であったが、その境遇の為に仲間になったので、また以てエタ源流の一つに数うべきものと思われる。
エタ部落民の人口の増殖は、徳川時代を通じて普通部落民のそれよりもすこぶる多かった。これは別項「特殊部落人口の増殖」に於いて論じた通りである。そしてその増殖は、内的から来たもの、すなわち生産率と死亡率との差によるもの以外、社会の落伍者が、ここに比較的安楽な生活を求めんが為に、或いは身を隠すに適当な場所として、多く流れこんで来たという、外的原因のものもすこぶる多かったに相違ない。
宝永七年に京都北山甚兵衛
頼申口上の事
一、私共北山辺に罷在候畠番之者共に御座候。然る処に私共渡世の為、町方へ罷出雪駄直し仕候へ共、皮田役の年寄無二御座一候義に付、町稼ぎ難義致し候故、蓮台野村年寄方に頼申候へば、則蓮台野村より被レ申候様は、当村は六条村の枝郷にも有之候間、頭村の六条村相頼申様と被レ申候故、蓮台野村と相談の上にて、此度其許様を頼度候間、六条村の手下と被レ成、御支配被レ成可レ被レ下候。然る上は御公儀様より被レ為二仰出一候御法度之御趣、堅相守り可レ申候。為レ其頼申書付如二に斯 一御座候。已上
宝永七年寅八月 紙屋川組
三郎兵衛(外十四名連署)
これはもとからの番非人が、生活難の結果エタの手下となり、その支配を受ける事になった一例であるが、普通民でも生きんが為には時に賤業をも辞する事が出来ずして、その手下となって職を得るという場合の多かった事は言うまでもない事であろう。ことにエタがまだ甚だしく賤まれなかった時代に於いては、一層それが多かったに相違ない。
追放の刑を受けて他国に赴いたものが、容易に安住の場所を得難かった事は、別項「
一、壱家 乙石 歳拾三
此者曾祖父太郎左衛門義、享保十二未年棟付御改帳に、見懸人穢多と相付居申所、此度棟付御取調に付、彼是御詮義の上、穢多と付上候様被二仰付一候に付、右の通付上申候。(家族連名略)
一、壱家 吉兵衛 歳四十六
此者祖父吉兵衛義、(以下同文略)(中略)
一、壱家 助三郎 歳三十四
此者祖父五郎兵衛義、何方の穢多に御座候哉相分不レ申候得共、先年当村へ罷越、建家仕、右伜助之丞、其子当助三郎迄、三代住居仕居申候。此度棟付御取調に付、重々相行着候得共、出所相分不レ申行当り、奉二恐入一、有体申上奉レ願候処、彼是御詮義の上、当村穢多に被二仰付一旨被二仰付一度候。
などある。見懸人とは、その村に本籍を有せぬものが現にその村に住んでいるのを見かけて、見懸銀を負わせたものの称で、多くは他国からの浮浪民の土着者である。右の乙石・吉兵衛・助三郎等は、祖父或いは曾祖父の時代に他から流れて来て、このエタ村に住みついたものであった。彼らは或いはその郷里に於いても既にエタであったのかは知らぬが、よしやもとからのエタであったとしても、他国へ流れて行った場合に、何方のものともわからぬ程のものが、わざわざ自分の素性はエタであると
或いは自ら世を忍ぶ一つの方便として、浮世の風の十分吹き渡らぬこの部落に安全なる隠れ家を求めたものも多かったであろう。仇討の芝居には、孝行息子がよく非人に身をやつして敵を覘うという筋がある。芝居に出る兇状持ちは多く大小


かくの如き社会の落伍者は、また確かにエタの源流の一つと数うべきものである。
エタを以て餌取だというのも十分でない。エタを以て屠者だというのも十分でない。これをアイヌだ、漢・韓の帰化人だなどというに至っては、無論毫も採るに足らぬ。エタの源流は右述べた如く、すこぶる多方面に分れている。そして後世所謂エタなる一大流れが、それから出来上がったのである。佐保川・初瀬川・寺川・飛鳥川などの諸流が合うて大和川が出来、それに富緒川・葛城川・龍田川・葛下川・石川などが合って、今の新大和川が出来た様なものである。しかしながらこれらの諸源流の全部が、ことごとくエタになったのではなく、同じ源流から分派したもので一方には貴族ともなり、普通民ともなり、非人となって解放されたりしているのも甚だ多い。その中についても、エタは非人と言われたものよりも比較的早く土着し、定職を得たもので、一種の村役人になった訳であった。したがって本は一つであっても、所謂非人よりは上位におって、幕府の政策でも、エタをして非人を支配せしむることになったのであった。ただエタには穢れという観念がついてまわり、非人にはこの念が薄かったものであるから、世人から忌まれる事も少く、早く解放の運命に接したのであった。
以上述べた如く、エタと非人と普通人とは、それぞれ関係のあるもので、本支分流互いに網の目をすいた様に組み合っていて、とても簡単な系図ではあらわす事の出来ない程のものである。かくてこの網の目をたどって姻戚関係を求めたならば、後世の所謂エタの人達も、所謂日本民族のすべてのものと何処かに因縁を持っている訳で、彼らの区別が民族的原因によるものではない事が明らかになるのである。ただ彼らの執った皮細工並びに屠殺の職業が、祖先の時代に於いてはあえて賤しいものではなかったとは云え、不幸にして中世以来大いに世人から嫌忌せられる事になったが為に、自ずからその従業者が賤まれ、したがって人から嫌がられる職業のものが多くこれに流れ込み、さらに人から嫌がられる多くの職業を賦課せられ、遂に後世見る様な、甚だしい圧迫を被るの気の毒なる境遇にも立ち至ったのである。
今や穢多非人の称廃せられて五十年に近く、職業の神聖はまた既に一般世人の認識するところとなっている。しかもなお世人がもとエタと呼ばれたものを区別し、彼らまた往々にして自ら仲間同士の[#「仲間同士の」は底本では「仲間同土の」]城郭に立て籠るという様な風のあるのは、全く多年の因襲の結果と、実際上彼らが世界の進歩に対して、思想上・生活上数歩を後れているが為とにある。もし世人がその源流のあるところを明らかにし、兼ねて職業の神聖なることに思い到ることを得ば、彼らを疎外するの根本観念は自然に消滅すべき筈である。彼らまたその源流のあるところを詳らかにし、自覚反省して世の進歩に後れず、思想上・生活上、一般世人と伍してあえて遜色なきに至らば、自他の融和は自ずから成立し、多年その間に置かれた障壁は、自ずから消滅すべきものである。そして彼らをしてこれをなさしむるには、まず世人が彼らに対する圧迫を解くを必要とする。また世人をしてこれをなさしむるには、まず彼らが自ら思想・生活の向上を図るを要とする。要は相持にある、その一つを欠いてはならぬ。そしてよくこれをなさしむるには、自他共にまず彼らの源流のあるところを究めて、彼らまた同一の日本民族たる事を明らかにし、因襲的の妄想を根本から除去するを要とすべきである。
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本編は主として材料を、所謂「穢多の水上」なる京都地方に求めた。徳川時代には江戸が政治の中心となり、したがって弾左衛門の法がエタの標準の如くになった場合も少くなく、従来エタを説くもの、多くこれに材料を求むるを常とするが、しかも
終わりに臨んで、既に多くの有益なる材料を供せられたる各地有志の諸君、自分の真意を諒として隔意なく調査の便を与えられた部落先進の各位に対して敬意を表し、特に蓄蔵の豊富なる材料の借覧を許されたる碓井小三郎君の好意に対して、満腔の感謝を呈する。
以下掲載の諸編は本編説くところを補い、その各部にわたって詳説を試みたものである。したがって彼此重複するところの少からぬは、自ら遺憾とするところではあるが、巨細にわたって研究を徹底せしめる為には、けだしやむをえぬ事と大目に見られたい。本号に収めきれぬ分は、次号以下に於いて漸次分載することとする。