福知山から
園部の
小さい駅を通過した時、車体の動揺にふと目が覚めた。するといつの間にか向い合せの座席に、モーニングを着た長髪の紳士が腰かけている。居眠りしていたのを見られたかと思うとちょっと
「お
「天光教なんかに足を踏み入れなければ、こんな不名誉な事にはならなかったろうに||」
「
「魔術を使うんだって話だから、本当は自殺だか何だか、まあ謎でしょう」
こうした蔭口を、時には
私はいずまいを正して、挨拶しようとすると彼の方から先にお辞儀をして、にこにこしながら言葉をかけた。
「お
たった一言だが、その語調にはいかにも私の立場をよく呑み込んでいて、深い同情を持っているというような、優しさが籠っているのを嬉しく思った。よく見るとその表情にも態度にもどこやら心の好さそうな処も窺われるので、私の彼に対する感情はすっかり和らいだ。
彼は読みかけていた新聞を広げたまま膝の上に置いた。何気なく見ると、それは、四五日前の地方新聞で、伯父の記事が大袈裟にでかでかと書かれてあった。
「飄然、姿を消した新生寺住職、天光教の奥書院にて割腹す」
私はそれを横眼で読んだ。
新生寺住職ともあろうものが、謂わば商売
「
と新聞は報導しているのだ。
「新生寺さんは、あなたの伯父様に当られるのですか」
突然彼が口を切った。この人の事を皆が先生と
「いいえ。
「突然のことで||、
「
「しかし、新生寺さんは東京の親類が親類がと、よくご主人やあなたの噂をしていられましたよ」
私はちょっと恐縮した。
「病気で亡くなったのでしたら仕方もございませんが||。殊にああした死方をしましたものですから、世間様へも申訳ないし、と申して親類の者達も困って居ます。何分にも一
「自殺してはならぬと教えるはずの人が自殺したんですから、ちと困りますね」
「そういう血統はないはずなんですけれど||。やはり一時的発狂||、まあそうなんだろうと、皆も申して居ますが||」
「左様||、そうしておいた方がいいでしょう。殺されたなんて云うとうるさいですからな」
「え? 殺されたんですって?」
「殺されたと云えば、殺されたとも云えましょう||」
「まあ! 誰にですの?」と私は固唾を呑んだ。
彼は平然として云った。
「人間じゃありません」
「人間じゃない。と仰しゃいますと、一体、それは何でございますの?」
呆気に取られてぽかんとしている私の顔を彼は流し目に見やりながら、すまして答えるのだ。
「形があるものじゃありません。つまり見えざる影、||いや、幻とでも云いますかな」
「へえ、幻に||」
変な話だ、幻に殺された。そんな馬鹿な事があって堪るものか。私は
「不思議なお話でございます。||でも私なんかにはどうもそういうことは信じられませんが||」と云った。
先生はただ唇の辺りに意味あり気な微笑を浮べたぎり、口を噤んでいる。
車内の客と云えば先生と私と、その他四五人の
雨が降り出したとみえて、窓
「あなたは新生寺さんの事については何も御存じないんですね。||表面に現われていること以外は」
「はい、余りよく存じませんが||。ただ伯父が若い頃に株で失敗して、親譲りの財産をすっかり
「表面に現われているのは、あなたのご存じの事だけです。それ以外は恐らく
「どうして株なんかに、また手を出したものでしょうか。一度ああいうものに手を出すとそれが
「しかし、あの方のはそればかりじゃないんですよ」
と云って、彼は唇を真一文字に結び、顎髭をしごいている。伯父の死に就いて、彼のみが知る、何事かがあるに違いないのだ。
「話して下さいませんか? 何かご存じのことがあるなら||、私共は自殺の原因を借財のためとばかり思い込んでいるんですから。もしも他に原因があるとすれば、是非
「ですが|||、新生寺さんはその秘密が人の耳に入る事を非常に恐れていたと思うんですから、どうぞ
と堅く口止めしてから、やっと話し始めた。
「私が東京を引揚げて園部の天光教総務となって移って行ってから、半年ばかり経った後の事でした。新生寺さんがふらりと私を訪ねて来られたのは||。その前にも度々公会の席上などで逢ったことはあるんですが||、その晩のようにお互が、心の扉を開いて話合ったことはありませんでした。
その頃私は、天光教を理想的な立派な宗教にしたい、という大望を
散々気焔を挙げて、いい気持になって別れましたが、それから間もなく、新生寺さんが株に手を出して、大分な負債に悩まされているというような噂を、ちょいちょい耳にするようになりました。
ある日の夕方、新生寺さんは白衣に黒の
ひと目見た瞬間、私は彼の心に非常な苦悶のあることを知りました。何か大事な相談でもあるのではないかと推察しましたので、故意と人の余り出入しない奥書院に通しました。彼は私の好意を謝しながら自ら立って銀襖を開け放ち、立聴きされない用心などをしていましたが、広い座敷に床の間を背にして、相対して座ってみると、急に彼は苦笑して、
『まるでお白洲に出たようですな。これでは固苦しくって、お話がしにくい』と云うのです。仕方なく今度は縁先に
そこで私は彼から妙な話を聞いたのです。
『実は夢に悩まされているんです。妙な夢に、||しかもそれが毎晩なんで、もう苦しくって、やりきれなくなりました。何とか夢を封じる法はないでしょうか。貴方のお力で是非ともこの苦しみから、免れられるよう、救って頂きたいと思って、参上いたしました』
そういう彼を熟視するとその顔にはまるで生気というものがなく、瞼の肉も落ち、小鼻から目尻へかけて深い皺が刻まれ、顔色も悪く憔悴しきっているのです。
新生寺さんが私の処へ救いを求めに来る、少し変にお思いになるでしょうが、この前二人が話し合った時、心の悩みを癒すのが天光教の生命だというような事を私が云ったのを覚えています。その時彼はそれに耳傾けて、いろいろ質問を発しました。私は悩みの原因を取り除く方法を語ったんです。その記憶がありますので、いま彼が訴えに来ても、別に不思議には思いませんでした。それにお互に他宗だからどうのこうのというような、狭い考えは全然有っていないのです。しかし、ただ夢に悩まされるから救ってくれと云うのでは困ります。余り漠然としていますからね。
『夢を封じろって云うと、つまり夢を見ないようにしてくれと云われるんですか』
『そうなんです』
『一体どんな夢を見るんです?』
『それが||。実に、厭な、不愉快な夢で、しかも毎晩同じものを見るんです。眼が覚めてからも
『ひとつその夢物語を聞かして下さいませんか、二三度位なら、同じものを見るということもないではないけれど||』
『お話します。どうぞこの夢の責苦から逃れられますように、助けて下さい。しかし、是非これだけは内密にお願いいたしたいんですが||』
『大丈夫です。私の体は皆さんの秘密の捨て処、否え、秘密金庫ですから、あなたのお許しがなければ、容易に鍵は開けませんよ』
『ではお聞き下さい。何でもよほど山奥らしいのですが、疲れきった男女の
二人は
千手観音の扉の内側に写真が供えてあります。その写真は赤坊がお宮参りの晴衣をつけているのです。ある家でお布施と一緒に渡されたもので、育ち難い弱い子を丈夫に育てたいという親心から、千手観音に頼んだものでしょうが、その赤坊の面差が、振り捨ててきた自分の子供に生き写しだというので、女は里を離れる時から憂鬱だったらしいのです。
そこへ何か男が冗談まじりに他の女の話でもしたらしく、何分夢の事で辻褄の合わないところもあるのですが、女はまるで
不意を喰って驚いた男と女との間には、一瞬間、怖しい争闘がつづきました。
腕の中に、急に女の体が重たく、ぐったりと感じたので男は我に返ったらしいのです。カッと見開いたその斜視の眼が、物凄く自分を睨んでいる彼女の醜い顔を、彼はしっかりと胸に抱きしめていたのでした。はッと身慄いして、男は夢中で
千手観音に供えてあった赤い頭巾、巾着、よだれかけ、などがばらばらになって落ちて行きました。樹の枝に引ッ掛った赤坊の写真が一番後から、ひらひらと舞いながら散ってまいりました。
男は両手に顔を埋めて、長い間、まるで失神したように、身動きもせず、石のようにかたくなっていましたが、自分も女の後を追うて死ぬ積りだったのでしょう。小枝に掴って、下を覗き込むと目の真下に、恨みをふくんだ、それは恐しい斜視の眼がじッと見上げているのを見たのです。
あッと叫んで、男は宙を飛びました。細い嶮しい路を馳け出して、どこへか行ってしまいました。毎夜見る夢はそこまでで終るのです』
私は瞑目して新生寺さんの物語りを聞き、その終るのを待って申しました。
『あなたはまず、その女の霊を慰めておやりなさい。見ず知らずの人であったとしても、毎夜現れて来るところをみると、あなたから慰めて頂き度い希望を持っているんでしょうから||』
『それは||。あるいは私も、そうじゃないかと思って、毎日お経を上げてやっていますが||。天光教ではそういう事をよくお取り扱いになると聞きましたし、また先日のお話では、当人に無関係の霊が悪戯したり、
『それは容易なことですが||、しかし||』
私はちょっと云い淀んで、彼の顔を見ました。すると新生寺さんは非常に熱心な面持をして救いの手を待っていられるようなのです。
『私としてすることと云えば、第一その霊を誰かの体に移して、つまり何人かの体を霊に
『欲するとしたら、果して、実際にそういう事が
『出来ますとも。そしてついでに、その殺人罪を犯して逃げて去った、卑怯な若い男のその後の消息をも合せて調べてみてはどうでしょうか? 能勢の妙見山は奥の院を出てから、道に迷って行方不明になる人が随分あると聞きますが、そういう事情で行方知れずになっている人もあると分ったら、妙見山のためにもよいではありませんか』と、申しますと、新生寺さんは両手を膝に置いて、暫時じいっと考え込んで居られましたが、
『有難うございました。よく考えてみましょう。こう申すとまことに姑息なやり方のようですが、私共がお経を上げて迷っているものを成仏させるように、あなたの方にも何かそういう方法がおありではないでしょうか? たとえば有難い祝詞を上げてやるとか、そういうやりかたで何とかお願い出来ないものでしょうか』
私は新生寺さんの心持がよく分りました。彼は決して本心から祝詞なんかを望んでいるのではないのです。そんな生温るい事で満足出来る位なら、何もわざわざ私の処へまでやって来やしません。が、今云うような方法をとることは彼には怖しかったのです。私が彼だったとしても、その場合、他人の体に霊を移して話を聞いてみる気にはなれなかったでしょう。新生寺さんの本当の希望は他人の手を借りずに、自分で始末をつけたかったのです。出来るものなら、直接霊と自分が談判したかったのでしょう。だから私の力に縋り度いと云ってきたのです。つまりその方法を教えろという意味だったのです。
しかし特別に霊能を有っている人ならともかくもですが、誰の体にでもおいそれと霊がかかって来るものではありません。でも、彼の今の場合はもうどうにもこうにもならない、居ても起ってもいられないのですから、出来る出来ないは別問題として、私は彼に鎮魂という方法を教えることにしました。まあ精神統一なのですが||、それがまたなかなか出来ないものなのです。が、もし深い統一に入れれば、自分の力で女の霊を
その時から彼は私に縋って、熱心に鎮魂を始めました。しかし、雑念の多い彼はなかなか魂を鎮めるどころか、日に日に煩悶が加わって来るので、どうにも手のつけようがありませんでした。
『夢はいかがですか』
『やっぱり同じことです』
新生寺さんは
株に手を出して失敗し、百万円の借金を負い、その始末がつかなかったからという事も彼を自殺させた大きな原因の一つではありますが、夢に悩まされたということは、より大きな原因だったと私は信じます。
本堂の改築にも金が要ります。宗教改革にだって、金がなくては思うように働けません。その資金を檀家に仰がず、自分自身の手でつくり出そうとした。それは彼の主義だったのですが、そのために株に手を出すことにもなったのです。
思わくをやって失敗する、高利貸から責められる、夢には苦しめられる、という日が長くつづいた後でした。ある日の新聞に、新生寺の住職が失踪したという記事が出ていました。
私は予期していたことに
すると天光教の執事が、新聞を見たと云って私の処へ参り、不審顔に申すのです。
『新聞には
『じゃあ二日もあすこに居られたのだろうか』
これには私も驚きました。
天光教では新生寺さんが出入する事を秘密にする必要はなかったのですが、彼が頻りに檀家の耳に入るとうるさいからと云わるるので、お互に面倒の起りそうな事は防ぐ方がいいし、また無益な
新聞を手にして、急いで奥書院へまいり襖を開けて彼を見た瞬間、私は何がなしにはッと胸を打たれました。
新生寺さんは眼を閉じ、端然と坐っているんです。私が入って来たのもまるで気がつかないように||。
『早く帰られたらどうです。檀家中でも心配していられるようですから』
彼は新聞をちらりと横目で見たなり、眉も動かさないで静かに申しました。
『日が暮れるまで||、どうぞ、||このままそっとしておいて下さい。新聞にまで出されちゃ気まりが悪くて、昼間は帰れません。夜分になったら帰山いたしましょう』
私は仕方なくその儘放っておいたのですが||。
それから一時間もすると、執事が青くなって私の部屋へ飛び込んで来ました。
『先生、大変です。新生寺様が切腹されました』
『えッ? 切腹?』
『早く、どうぞ、早く||』
吃驚して奥書院へ馳け付けました。
苦しげな呻き声は襖の外まで洩れ聞えています。執事の注意で
白衣を赤く染めて、左手を畳につき、右手に紐のようなものを掴んでいるのです。その手は真赤です。紐だと思ったのはよく見ると腸でした。血だらけの短刀が放り出してありました。
新生寺さんは私の顔を見ると、無言で口を
彼の苦しげな呻きは終日つづきました。
執事を始め男達はおろおろしながら、次の間に控えて居ました。
もうこうなっては
私は幾度も屏風の中へ入って行きましたが、彼はただどんよりとした眼を僅かに動かす位で、物を云う力はありませんでした。
呻き声が次第に弱く、低くなり、力がなくなってきて、果ては絶え絶えになって行ったのは、もう灯がついて大分たってからでした。
『ご臨終です』
医者の声に、私を始め、新生寺から馳けつけて来た者、檀家の主なる人々が皆奥書院に集りました。
屏風は取り除かれ、最後の別れをするために皆彼の周囲を取り巻きました。
新生寺さんは眼を
『あら、百足が||』
と金切り声で叫びました。それが彼の耳に届いたのでしょうか、新生寺さんは突然しゃんと体を起し、合掌しながら、それは朗らかな、清く澄んだ美しい声で、
いままでは、おやとたのみし、おいづるを、ぬぎておさむるみののたにくみ。
皆はただ呆気に取られていました。が、その奇麗な、銀のような美しい声には思わず聞き惚れてしまいました。しかし、聞き馴れた彼の太い底力のある声とは、全然違うものなのを、不思議に思いました。唄い終ると新生寺さんは格天井を見詰めながら、疳高い透き通るような声で、さもさも嬉しそうに笑い出しましたが、妙なことにはその様子から声色まで、男ではなく、全く女でした。
『オホホ······。遂々敵を取ってやった! オホホッ』
緊張した臨終の部屋の空気を揺り動して、彼は笑いながら、息を引取りました。
広い奥書院にその笑い声が物凄く響き渡って、思わず背筋に冷水をかけられたような寒さを感じたのでした」
話に夢中になっているうちに、乗客は一人残らず下車してしまい、がらんとした車室には先生と私とだけが相対しているのだった。
「その若い男の六部というのは||?」
「新生寺さんの前身でしょう」
「では||、伯父が||、その女を殺したと仰しゃるんですか?」
「それは分りません」
「でも、||まさか、||あの伯父が殺人罪まで犯して、平気で坊さんなんかなっているとは思われないけれど||、して、その百足はどうして臨終の時に、出て来たものでしょう?」
「山の中ですもの、座敷の中に百足が入って来る位の事は珍らしくはありませんよ。殊に雨の前なんかには壁にはりついたようになっていることなんか、しじゅうありますよ」
「じゃ、全く偶然ですわね」
「そうです。||しかし、新生寺さんはどういう訳か百足を大変嫌っていましたよ」
「誰だって、先生、あんなもの好きな人はありませんよ。||ですがどうして、死際にそんな変な様子をしたんでしょう? 女の真似なんかして、||笑いながら死んで行くなんて||。やはり発狂したんでしょうねえ?」
「さあ。そこですよ。私達が興味を有って研究しているのは||」
「興味を有ってですって?」
「そうです。誰がその女を殺したのか分らないとしても、新生寺さんが女の霊に殺されたという事だけは確実でしょう!」
先生は謎のような微笑を唇に漂わせて、それきり黙ってしまった。
やっぱり私には解らない、わからないが何となく不気味な気持がして、どこからか幻の