「親分、あつしの身體が匂やしませんか」
ガラツ八の八五郎が、入つて來ると、いきなり妙なことを言ふのです。
九月のよく晴れた日の夕方、植木の世話も一段落で、
「さてね、お前には
平次は鼻をクン/\させながら、
「嫌になるなア、そんな小汚い話ぢやなく、もつと良い匂ひがするでせう」
八五郎は
「あの娘の移り香を嗅がせようといふのか、そいつは
「相變らず、口が惡いなア、そんなイヤな匂ひぢやありませんよ、お
「どこで、そんなものをクスねて來やがつたんだ」
「人聞きの惡いことを言はないで下さいよ。香ひの良い藥草を、一つ/\紙に包んで、綺麗な人から貰つたんですよ、それを紙入に入れて、
「そんなものなら、
「叶はねえなア」
「ところで、それをくれた綺麗な人といふのは、何處の人間だえ」
「ザラの人間と一緒にするには、
「眼の色變へて乘出すのは穩やかぢや無いぜ、お前に藥草の葉つぱをくれるんだから、いづれ場末の
「錢形の親分も、それは大きな見込違ひですよ、後家やおん
「若くて眼鼻が
「でも、板橋の加賀樣お
「そんな女は、女房や
「なぜです?」
「ピカ/\後光が射して見ねえ、
錢形平次と子分の八五郎は、斯う言つた
「まア、眞面目に聽いて下さいよ、親分。二三日前に、板橋の
八五郎の話は漸く本題に入りました。
「で、辨天樣は板橋の百草園に引越して、お前に有難い藥草を下すつたといふ筋か」
「先を
「とたんにお前はフラ/\になつた」
その頃諸國の大名は、
ところが、この外にも、小規模ながら私設の藥園が各所に散在し、大名富豪の
板橋の百草園もその一つの例で、本草學者小峰凉庵が、加賀宰相の庇護を受けて板橋の下屋敷隣に地所を借り受け、門弟達とともに、藥草の研究に餘念も無かつたのですが、一年前園主凉庵は八十歳の高齡で他界し、後は門弟横井源太郎、
今はもう、加賀宰相の物的援助があるわけではなく、百草園の藥を採つて、江戸の生藥屋に賣るのが生活で、その利分は大したものでは無くとも、三人や五人の暮しには差支なく、その上、一人殘つた娘のお玉が美し過ぎたために、二人の内弟子、横井源太郎と打越金彌の間には、勝つか負けるか、生きるか死ぬるかの
二人の若い男の間に挾まつて、お玉は空しく齡を取つてしまひました。その頃ではもう
中でも熱をあげたのは、横井、打越兩人の外に、近所の若い衆、若侍、數限りもありませんが、その中で、お玉を女臭いとも思はないのは、下男の爲吉といふ慾の深い中老人だけ。八方から注がれる、燃えるやうな男の眼の中に、美しいものに生れついた、誇りと恐怖と、不安と滿足とを、お玉は身に沁みて味はつたのも無理のないことでした。
そのお玉が、近頃わけても
その一つ二つの例をあげると、お玉が通つてゐるとき、いきなり百草園の
そのうちの幾つかは偶然の出來事であつたかも知れず、殘りの幾つかは、人手で行はれた、タチの惡い
ところが此處に、いけない事が起つたのです。主人筋のお玉を爭つて、日頃仇敵の思ひを抱いて居る横井源太郎と、打越金彌が、フトしたことから爭ひを生じて、庭に飛出して、お互に紙入留めに差してゐる短かい脇差を引つこ拔き、月の光りの下に斬り結んだことがありました。
下男爲吉の
「あ、何んといふことをするんでせう、打越さん、横井さん、刄物を引いて」
お玉は刀と刀の間に、身を持つて飛込みました。
「お孃さん、退いて下さい、この場で、今直ぐ、二人のうち一人は、死なゝきやなりません」
横井源太郎は聲を絞ります。二十八歳の逞しい男、刀法には暗くとも、青白い打越金彌を壓倒し去る氣力は充分です。
「ま、死ぬなんて、そんな事があつていゝものでせうか、どうしても止さなければ、私は自分から身を退き、此百草園を捨てゝ身を隱します、||打越さん、貴方から先に、刀を引いて下さい」
お玉の聲が掛ると、弱氣らしい打越金彌は、それを
「兎も角も、此處で血を流すのだけは止して下さい、小峰凉庵の百草園で、門弟達が果し合ひをしたと聞いたら、世間の人は何んと言ふでせう、お願ひですから、横井さん、あなたも」
お玉に正面から睨まれると、強氣らしい横井源太郎も嫌々ながら刀を引く外は無かつたのです。
それから三日
「打越、俺と貴公とは、
相手を睨み据ゑ乍ら、最初に口を切つたのは横井源太郎でした。二人共
横井源太郎は赤黒く逞ましい男、目鼻立は立派ですが、激しい氣象の持主で、それに對して打越金彌は、色白で
「それが何うしたといふのだ」
「一度は生命と生命の爭をしなければならない、丁度今日は、お孃さんは留守」
横井源太郎はニヤリとするのです。
「血を流してはならぬ||とお孃さんがくれ/″\も言つたではないか」
打越は兎もすれば逃げ腰になります。
「果し合ひする迄もないことだ、今日此場から、貴公は身を退くのだ、幸ひ長崎には貴公の歸りを待つて居るといふ兩親もあるさうではないか、俺は
横井源太郎は勝手なことを言つて、
「嫌だ」
「何を?」
「身を退き度くば、貴公が退くがいゝ、俺は嫌だ」
「では尋常に勝負をするか」
「馬鹿なこと、||血を流すなと、お孃さんがくれ/″\も言はれた筈ぢやないか」
「||」
二人はまた睨み合ひました。お玉といふ美しい
「一人は必ず死ぬ手段がある、貴公は腹の底からその氣になれるか」
打越金彌は、何やら思ひ付いたらしく、改めて念を押しました。
「言ふ迄もない」
横井源太郎は言下に胸を叩くのです。
「では、暫らく待て、俺に思案がある」
打越金彌は何を考へたか、
横井源太郎は取殘された形で、暫らく元の部屋に待ちました。夕陽が窓から入つて來て、秋の蠅が耳をかすめて表の方へ飛去ります。先生の忘れ形見||
お玉の好意が、少しばかり、自分に傾いて居ると思ふことが、横井源太郎を全く夢中にさせました。恐らく競爭相手の打越金彌も、同じやうなことを考へて居たのでせう。
やゝ暫らくして、打越金彌は、白い
下から現はれたのは、なみ/\と酒を注いだ、徑四寸ほどの
「この盃に覺えがあらう、||加賀宰相樣から下された、凉庵先生祕藏の品だ」
「||」
横井源太郎は、何が何やらわからず、默つてうなづきました。
「酒は、先日の一周忌の法事の殘り、お勝手から持つて來たが、それに
「||」
「仔細は俺と貴公の體力の違ひだ、力づくでは、この打越金彌、生れ代つて來なければ、貴公||横井源太郎に勝てさうも無い」
「||」
「勝負の明かな
「||」
横井源太郎はやゝあせり氣味になりましたが、それでも默つて聽いて居ります。
「盃も酒も、見たところ何の變りも無いが、この盃の一つは唯の酒で、一方には飮んだら必ず死ぬといふ猛毒が入つて居るのだ。||貴公も知つて居るであらう、凉庵先生は先年長崎へ行かれた時、紅毛人の手から、
「||」
横井源太郎は物々しくうなづきました、打越金彌の
「凉庵先生の祕庫を開いて、毒を取出したのは俺、一つの方の盃に入れたのも俺だ、||この二つの盃のうち、貴公はどれでも、好きな方を取つて飮むがいゝ、殘つた盃は、即座に俺が飮む、||これほど立派な果し合ひは、武家の仲間にも類はあるまい、斬り合ひは怪我で濟むこともあり、兩方共助かることもあるが、この二つの盃のうち一つは猛毒だ、それを呑んだものは必ず死ぬ」
「||」
打越金彌の計畫の逞ましさに、横井源太郎もさすがに顏色を失ひました。此
「二つの盃のうち、どちらに毒を入れたか、俺も全く見當はつかない、尚疑念があるなら、俺が後ろを向いて居る間に、貴公は勝手に膳を廻し、好きなのを取るがよい」
今となつては、打越金彌の方が、遙かに大膽らしく見えました。もう一度膳の上に白い布を掛け、二、三度グル/\と廻して、横井源太郎の前へ、それを突きつけるのです。
「よしツ、貴公のやることを、俺が引込む法はあるまい。この毒酒の果し合ひを嫌だと言つたら、貴公はそれを面白さうにお孃さんに
横井源太郎は、經机の前にゐざり寄ると、クワツと眼を見開いて、
朱塗の同じ盃、酒は一合近くも入るでせう、底に描いた裏梅の金
横井源太郎の手は、殆んど本能的に、蠅の浮んでゐない方の盃に伸びましたが、何の氣なしに、フト擧げた眼に、打越金彌の顏が映ると、その青白い顏に、ほんの一瞬、冷たい笑が浮んだやうに見えたのです。
「これは
それと同時に、
「知つての通り、俺は酒が好きぢやない、同じ毒酒で死ぬにしても、酒の肴が欲しい」
打越金彌は、半分ほど呑み殘した盃を膳の上に置くと、大きく一と息入れました。
「
横井源太郎は、カラ/\と笑ひながら、立つて西陽の窓をしめました。一つはもう廻る筈の毒酒のきゝ目を試すために、自分の足許を確かめたかつたのです。幸ひ酒に毒は入つてゐなかつたらしく、氣分にも足元にも、何の變りもありません。
八五郎が明神下の平次の家へ飛んで來たのは、その翌る日の晝前。
「とう/\やりましたよ、親分」
「騷々しい野郎だ、誰が何をやつたんだ」
平次は、いつものことで、さして驚く樣子もありませんが、八五郎はそれをもどかしさうに、
「板橋から急の使ひで、人死があつたから是非來てくれるやうにといふことですよ」
「板橋は何處だ?」
「辨天樣ぢやねえ、||あの百草園のお孃さんの使ひで」
「少し遠いな」
「そんな事を言はずに、行つて下さいよ、その代り歸りは王子へ廻つて、扇屋であつしが||」
「と言つたところで、相變らずすつからかんだから、何が何でも、お前の心意氣に負けて、行かなきやなるまいな」
漸く
門と塀だけは相當ですが、中はかなり荒れて、小峰凉庵の死後、何やらモヤ/\した爭ひと對立の續いて居ることを物語つて居ります。玄關で大きい聲を出すと、
「あ、親分さん方、お孃さんがお待ちで」
飛んで出たのは、下女のお淺といふ四十女でした。中へ入ると、長い廊下を半分も行かないうちに、
「ま、八五郎親分、||錢形の親分でせうね」
迎へてくれたのは、庭の青葉を
事件といふのは、百草園の二青年のうち、年上で丈夫さうで、
平次は床の側に寄つて一わたり調べて見ました。死んでゐる横井源太郎は二十八歳といふにしては
「これは毒を飮むか飮まされるかしましたね、お孃さん」
平次は後ろに
「巣鴨の見庵樣も、さう仰しやいました。昨夜夜更けに死んだかも知れないといふことです」
「身寄りの方は?」
「横井樣は親御も兄弟も、何にもありません、この世にたつた一人ぼつちだと、平常から冗談のやうに言つて居りました」
「人に
「さア、それは下男の爲吉か、下女のお淺にお訊ね下さいまし」
「これだけの苦しみを家中の者が知らない筈はありません、昨夜どなたか、この人の苦しむのを、聽いた方はありませんか」
平次は死骸の凄まじい表情、苦惱とも憤怒とも恐怖ともつかぬ
娘のお玉は、默つて頭を振ります。百草園の家は大きく、部屋も澤山あり、大抵のことは知らずに濟みさうにも思へるのですが、ツイ隣の部屋に寢てゐた筈の、打越金彌が知らずに居るといふのは、お玉に取つても一つの疑問に相違ありません、が改めてそれを言ふのは、お玉のたしなみが許さなかつたのです。
この美しい娘の側を離れて、平次は庭にウロ/\して居る下男の爲吉をつかまへました。
「お前は何か知つてるだらう、包み隱しせず、皆んな言はなきや、飛んだ迷惑をするぜ」
一番ドカンと
「實は親分、昨日大變なことがありました」
「何が大變なんだ」
「用事が早く片付いて、陽の高いうちに歸つて來ると、横井樣と打越樣が、お孃さんのことから喧嘩をおつ始め、二つの盃のうち、一つの盃のお酒に毒を入れて、運惡く呑んだ方が死ぬ||といふ、恐ろしい果し合ひの最中でした」
「お前はそれを何處から見て居たんだ」
「聲を掛けても、二人共夢中になつて返事が無かつたので、隣の部屋まで入つて來ると、毒酒を眞ん中に、血相變へて果し合ひの眞つ最中ぢやありませんか」
「お前はそれを止めなかつたのか」
「止めたところで無駄ですよ、お互にあんなに思ひ詰めて居るんだから、どうせ
「ひどい事を言ふぢやないか、||それで、何方が毒の入つてる酒を呑んだのだ」
「横井樣が呑んだことでせう、その證據には死んでゐるんですから」
爲吉の答は、いかにも簡單です。
「私はお孃樣のお供で、夕方戻つて參りました、その時は横井樣も打越樣もお元氣で、それから
「二人はそんなに仲が惡かつたのか」
「昔から仲が惡いやうでしたが、先生が亡くなられてからは、まるで犬と猫で、||お孃樣が綺麗過ぎるんですね」
お淺は中年の女らしく妙に覺つたことを言ふのです。
「二人の身持は?」
「どちらも遊びなんかしません、お孃樣を手に入れようと夢中だつたんですもの。||氣象は、打越さんはやさしくて、横井さんは頑固でした、打越さんは男がよくて、横井さんは少し亂暴で||」
お淺の見る二人は、ざつと斯んなものです。
この時平次は何を考へたか、もう一度横井源太郎の死骸を調べようと言ひ出して、庭から縁側へ、そして閉め切つてある障子をサツと開けました。
「||」
不用意に
物音に驚いて振り返つたお玉は、さすがに間が惡かつたものか、あわてゝ涙を拭くと、そつと立ち上つて、部屋の外へ滑り出さうとするのです。
「あ、お孃さん、
「ハ、ハイ」
平次に引留められて、お玉は靜かに部屋の隅に坐りました。
「佛樣は、昨夜のまゝ、着換へをさせなかつたことでせうな」
「ハイ、そんな人手も無し、それに
「いえ、とがめるわけぢやありません。死骸の足が二本とも、マチ
「?」
マチ袴の一方へ二本の脚を間違つて入れることは、時々ある筈ですが、生きて居る人間なら、すぐ氣がついて穿き直す筈です。
「兎も角、死骸の着物を變へさせるといふことは、何かワケのあることでせう、||さう思ひませんか、お孃さん」
「||」
お玉は平次の言葉を聽いて、ヒドく驚きながらも、深々とうなづいた樣です。
「それから、死骸の手首と、足首に傷のあるのはどうしたことでせう?」
平次は先刻からそれに氣がついてゐたのですが、改めて見直すと、手首にも足首にも、ひどい
「私にも一向見當がつきませんが」
お玉は
「毒害といふことがわかり過ぎてゐるので、口中を見なかつたが||」
平次はさう言つて、死骸の唇を開けさせましたが、上下の齒を嚴重に噛みしめて、末期の苦惱の恐ろしさを物語ります。
「これはどうしたことだらう、八」
「何か變つたことでもあるんですか」
八五郎は後ろから、長い顎を覗かせます。
「前齒が二本碎けてゐるよ、丈夫さうな齒だから、自分で齒を噛みしめた位のことで、斯うなるわけは無い」
「その齒の
八五郎に言はれて見ると、死骸の下唇の中に、ほんの一分ほどであるが、二枚の齒の破片が落ちて居り、上の齒二枚が、鋸の目のやうに碎けて、しかも、唇には何の傷もなかつたのです。
「これは大變なことだ、もう一度庭を一と廻りして見よう、遠くの方に百姓道具を入れた物置小屋があるやうだが」
平次は八五郎を
「親分さん」
「何だえ?」
「お二人は立派な果し合ひで、横井樣が自分から進んで毒を呑んだとすると、相手の打越樣には、罪は無いことになるでせうね」
爲吉は妙なことを訊くのです。
「そんな事になるだらうな」
平次の返事は冴えないものでしたが、その頃の
百草園は廣いものでした。向うの端にある小さい物置小屋は、
平次は默つてそれを見て居りましたが、諦めたやうに小屋へ入ると、一とわたりその中を調べました。戸板と繩切れと、
一應の調べが濟んで母家へ歸ると、打越金彌が寺へ行つて歸つたさうで、秋
「打越さんでせうね」
「左樣、||今寺へ行つて歸つたばかりだが」
色白の
「横井さんが毒で死んだときまると、果し合ひの相手のお前さんにも、掛り合ひがある筈ですね」
平次は
「さうかも知れない」
「暫らく何處へも出られないやうに、改めて御沙汰のあるまで待つて下さい」
「心得て居る」
打越金彌は惡びれもしません、同僚横井源太郎の死に對して充分の覺悟はして居る樣子です。
「念のため、果し合ひに使つたといふ、毒を見せて貰ひ度いが」
「いと易いこと」
平次の
「これに味はあるでせうね」
平次は瓶の口を拔いて、中の藥液を嗅いで居ります。
「匂ひは無いが、味はある、大層
打越金彌は、その
「知らずに呑むやうなことは無いでせうね」
「そんな事はあるまいよ、少しでも藥のこと、本草のことなどを心得て居るものなら」
「有難う、よくわかりました、
「それは大丈夫」
打越金彌は毒藥の瓶を受取つて元の二階へ行くのです。それに別れて、裏口を出て歸り際、平次はフト、
「お淺さんか、ちよいと聽きたいが、横井さんは金が無かつたことだらうな、||身寄も何にも無いといふ位だから」
其處を掃除して居る下女に
「お小遣にも困つて居ましたよ、お孃さんが氣をきかして差上げても、受取るやうな方では無かつたんです。それに比べると打越さんは、長崎の實家が良いさうで、時々びつくりする程お金を送つてくるやうです」
「さうか、有難う」
平次は丁寧に言つて裏門から出ようとしてフト振り返りました、西側の二階の窓が開いて、此方を見て居るのは、お玉の白い顏に間違ひもありませんが、
「八、この先、まだいろ/\の事があるかも知れない、お前は時々見廻りに來るが宜い」
それから十日ばかり、やがて
「親分、またやられましたよ、すぐ行つて見て下さい」
八五郎が汗になつて飛込んで來たのです。
「誰が何處をやられたんだ」
「下男の爲吉ですよ。裏門の外で、土手つ腹をゑぐられて、
道々八五郎は、平次の問に對して、簡單に説明してくれました。
「お前は、時々百草園を覗いて居た筈だが、外に何か氣のついたことは無いのか」
「大ありですよ」
「例へば?」
「娘のお玉さんは、ます/\綺麗になつて、||
「それから」
「お孃さんと打越金彌が急に親しくなつて、下男の爲吉は金廻りがよくなつて、毎晩呑んで歩いてばかり居るやうで、昨夜も醉つ拂つて歸つたところを、後をつけて來た泥棒にやられたんでせう、持つて居た筈の懷は空つぽだし、一と突で息の根を止めた
そんな話のうちに、二人は板橋の百草園に着きました。土地の御用聞がやつて來て、大方の始末をした後、事件は極めて簡單に片付けられてしまひました。爲吉の死骸は、後ろから一と突き、自分の匕首でやられたもので、鞘も匕首も其場に捨てゝあり、丁度裏門の外で、仰ぐと二階の窓||いつかお玉が姿を見せたあたりがよく見えます。
「昨夜は月があつた筈だな」
「二十三夜で、遲くなつて出た筈です」
八五郎が
生活の單純な爲吉には、恩も
「た、た大變ですよ親分、板橋で、たうとう」
三度目に八五郎が飛込んで來たのは、九月も末近いある日の朝のうちでした。
「どうした八、板橋からの
平次は何やら待つて居る樣子です。
「百草園のことが氣になつてならないから、あの近所の知合の家へ泊つて、今朝薄暗いうちに覗いて見たんですよ」
「で?」
八五郎の鼻のよさと熱心さは、平次に取つて嬉しいことでした。
「すると、百草園は上を下への騷ぎだ、飛込んで
「行つて見よう」
平次は手つ取早く仕度をすると、八五郎を
迎へてくれたのは、今は下女のお淺と共に、この廣い屋敷にたつた二人殘る、娘のお玉、どうしたことか、此間からの、
「御苦勞樣で、親分」
靜かに案内するお玉の後ろ姿、相變らずに美しい線ですが、今日は赤い
「||」
打越金彌の部屋の中は、思ひの外整頓して、疊の上に
「昨夜の樣子は?」
平次はお玉を
「上機嫌で、歌などを口ずさんで居りました、部屋へ引取つたのは
「今朝は?」
「お淺が見付けて大騷ぎになつたのでございます。でも、此通り私とお淺の二人きり、近所も身寄もなく、手のつけやうもございません」
お玉は靜かに語るのです。
「お淺を呼んで下さい、少し訊き度いことが」
平次に頼まれると、お玉はソワ/\と引込んで、代りに下女のお淺がやつて來ました。
「御用で?」
「少し訊き度い、お孃さんは近頃打越金彌さんと仲が好かつたさうだな」
「へエ、少し變だと思ひました、以前は横井樣の方に親しかつたお孃樣が、近頃お化粧なんかなすつて」
「昨夜は?」
「不思議なことに、宵からお孃さんは、打越さんと仲よくお話をしてゐらつしやいました。私は御免を
「そんな事で宜い」
「へエ」
下女のお淺が引下がると、平次はもう一度打越金彌の死體に近づきましたが、特にその口のあたりから口中を念入に調べた上、八五郎を振り返つて斯う言ふのです。
「八、俺にはもうわかつたよ、||お前にも氣がつくだらう、よく見ておくがいゝ」
さう言はれて八五郎も、死體の口のあたりを見て居りましたが、
「男の癖に、此野郎口紅なんか附けて居ますね、死體の唇が、こんなに赤い筈はありませんよ」
「それつ切りか」
「あ、これは
八五郎は打越金彌の口の中から、大きくて赤い鬼灯を一つ||中は空つぽになつてゐるのを、指先でつまみ出しました。
「それでお仕舞ひさ、さア、歸らうか、八」
平次はもう立上つて歸り仕度をするのです。
「下手人は親分?」
「横井源太郎の幽靈とでもして置け」
「へエ?」
× × ×
道々八五郎のせがむまゝに、平次は
「横井と打越の二人の弟子は、師匠の娘お玉を爭つて、毒藥の果し合ひになつた、その時惡智慧の廻る打越は、二つの盃のうち、毒のない方に蠅の死骸を入れて置いたのだよ、盃を横井に先に取らせると、間違ひもなく、蠅の入つて居る方を避けるに違ひないと思つたのだ。蠅の入つて居る方は唯の酒で、蠅も何にも入つてゐないのが毒酒だ」
「||」
「ところが、當てが外れて、横井源太郎は蠅の入つてゐる方を呑んだ、||そんな氣の張つた時は、相手のチヨイとした眉の動きでも、
「太え野郎ですね」
「その上、果し合ひに卑怯なことの無かつたことを見屆けさせる爲に、生き證人として、下男の爲吉を隣の部屋に隱し、そつと一
「その晩、横井が死んだのは?」
「夜半に横井をおびき出したのだよ、お玉の使ひとか何とか言つて、庭の物置におびき寄せ、打越と爲吉と二人で、横井を縛り上げ、戸板を背負はせて
「毒は?」
「戸板を
「へツ、隨分ひどい事をやつたものですね」
爲ることの殘酷さに、八五郎も
「死骸の前齒が
「すると、あの娘は打越に氣があつて?」
「いや、打越を
「下男の爲吉を殺したのは?」
「打越金彌だよ、最初は金をやつて、横井源太郎殺しを手傳はせたが、だん/\
「||」
「お玉は二階の窓から、
「へエ、怖いことですね」
八五郎も妙に寒氣がします。
「若い女が一生懸命になると怖いよ、氣をつけろよ、お前も、うつかり娘からしやぶりかけの鬼灯なんか貰つたりすると||」
「へツ、へツ、あつしは死んで見度え」
「あんな野郎だ」
カラ/\と笑ひながら、赤トンボの飛交ふ本郷通りを神田明神下へと急ぐ二人でした。