増田屋金兵衞、その晩は明るい内から庭に縁臺を持出させ、九月十三夜の
金があつてしみつ垂れで、人づき合ひが嫌ひで、恐ろしく風流氣のある金兵衞は、八月十五日の名月も、この獨自のシステムで觀賞し、
奉公人や近所の者が何んと言はうと、思ひ立つた事は遠慮會釋もなく實行に移すのが、それが金持の特權であり、風流人のたしなみであると信じきつてゐるので、番頭や
この變つた獨り月見の異變を、作者が辛棒強く
「ね、親分、金があつて暇があつて、妾があつて風流氣があるんだから、思ひ付くことだつて、世間と違つて
「まるでお前見たいぢや無いか」
錢形平次は相變らずの調子で、半分は冷かし乍ら、適當なテムポで八五郎の報告を聽いて居ります。
「へツ、違げえねえ、こちとらは借金があつて、仕事があつて、
「それから先を話せ」
「増田屋金兵衞、二た抱へはたつぷりあらうといふ名物月見の松の下に縁臺を
「鹽豆は變な好みだな」
「しみつ垂れだから、一人で呑むんだつて、酒の肴の
「||」
「御存じの通り、
「それからどうしたんだ」
平次は後を促しました。良い月夜の翌る日は、シヨボシヨボした秋雨になつて、夕方はもう眞つ暗、平次と八五郎が相對してゐる、神田明神下の||詳しく言へばお臺所町の路地の奧は、
火鉢を挾んで、寒山
「話の前に、増田屋金兵衞は生れ乍らの町人では無く、元は武家の出で、今から二十年前、増田屋の亡くなつた後家に惚れられ、
「還俗て奴があるかえ。||兩刀を捨てるとか、何んとか言ひやうがあるだらう」
「同じやうなもので、||兎も角、
「||」
「増田屋には先の亭主の遺した、新吉郎といふ今年二十八の伜があり、
「お前に言はせると、娘は皆んな可愛らしいから不思議さ」
「それでも妾のお鈴には及びませんよ、これは
「道具建てはそれ位にして、月見の話はどうなつたんだ」
平次も少ししびれをきらしました。
「増田屋金兵衞の人柄から話さなきや、この話は面白かありませんよ、||何しろ二十年前に増田屋の後家のところへズル/\ベツタリ入り込んで、それから増田屋の身上を倍にも三倍にもした男だ、人の
「||」
「それが
「||」
「縁臺に腰を掛けて、チビ/\やり乍ら、松の葉越しに昇る月を眺めて下手な發句を||」
「それはもう聽いたよ」
「ところへ、いきなり頭の上からバラリと
「驚くよ、||俺だつてそんな目には逢ひ度かない、誰が一體そんな亂暴なことをしたんだ」
「それがわかれば、あつしがしよつ引いて手柄にしまさア、釣られた主人は一切夢中だし、家中の者は誰も氣が付かない、繩は松の大枝から下つて、五十七歳の増田屋金兵衞、まるで
「成程、氣味のよくねえ話だな」
「足は大地を離れてゐるから、ジタバタしたつて、踏むのは虚空ばかり、罠で首を締められてゐるから、助けを求めやうにも聲が出ねえ」
「刄物を持つてゐなかつたのか、元は武家だといふから、せめて脇差か何んか」
「そんな物はありやしません、手に持つてゐるのは、筆と
「||」
「が、丁度その時、増田屋の
「フン」
「いきなり木戸を押し開けて飛込み、脇差を拔いて飛上りさま、金兵衞の頭の上で繩を切つた、金兵衞が蜘蛛の巣から離れた蟲のやうに、ドタリと落ちて來るのを、危ふく宙に留めたといふから大した手際でせう。その時はもう、金兵衞蟲の息も通つて居なかつたが、
八五郎は漸くこの話を終りました。
麻布へ用事で行つた歸り、土地の御用聞から聽き込んで、
二度目の異變は、十一月の十七日。
増田屋金兵衞は、
この時は向柳原の八五郎の家へ、麻布からわざ/\の使があつたので、八五郎に誘はれた錢形平次は、神田から遙々の道も厭はず、好奇心で張り切つて飛んで行きました。
麻布の十番、俗に言ふ十番馬場の近くで、飯倉新町の一角を占めた増田屋は、大地主であり、武家の出身であつたにしても、
「錢形の親分さん、遠方を御苦勞樣でした。主人が、どうしても親分さんに來て頂き度いと申しますので、へエ」
番頭の伊之助が案内してくれました。五十前後の、先代から奉公してゐる、忠義者||と後に主人金兵衞は紹介して居ります。二代の主人に仕へて、少しも厭な顏もせず、不自然な態度も示さなかつた、徹底的な順應主義者といふ意味でせう。
柄は大きくありませんが、よく肥つた愛嬌のある男で、誇張された感情を、すぐ顏に出して見せる、特色のある印象を持つて居ります。
主人の部屋は母屋の奧で、
「錢形の親分ですが」
「いや、飛んだ無理を言つて濟みません」
番頭に紹介されると、主人金兵衞は、絹物の夜具の上に、僅かに首を動かしました。五十七八の痩せぎすの小柄な男、若い時分は隨分美男でもあつたでせうが、
床の側に居るのは、二十歳そこ/\の、素晴らしく肉感的な女、骨細で
平次が、事件の説明を訊くと、主人金兵衞は、眼顏で妾のお鈴に席を外させ、思ひの外の元氣さで、斯う説明しました。
「昨夜
主人は何んとなく
「傷は?」
「左の脇腹で、一寸右へ寄れば、心の臟をやられるから、命は無かつたと外科が申します。廊下のあの邊は古い屏風やら建具やら、澤山のガラクタを積んでありますから、曲者は其處に隱れて居たことでせう」
「
「それは、フト、氣になることがありましたので||」
「氣になるといふと?」
「離屋の方で物音がしたやうに思ひました、||私の空耳だつたかもわかりませんが」
主人金兵衞はひどく言ひ憎さうです。
「刄物は落ちてゐなかつたので」
「それも申しました、家中の者に搜させた時は、何んにも無かつた相で」
「つまらねえことを訊くやうですが、御主人を
「二十年前は兩刀を
主人金兵衞は、さうは言ひきつても、何んとなく割りきれないものがありさうです。
大方話の了つたところへ、伜の新吉郎と、娘の
娘の多與里は十七、これは金兵衞の本當の子で、おもざしもいくらか父親に似て居り、細面ですがふつくりした頬や
平次は一應二人にも訊いて見ましたが、若い二人には何が何やらわからず、父親が松の木に吊られた時も、昨夜の騷ぎのときも、二階の自分達の部屋に居て、驚きあわてたといふだけのことでした。
番頭に案内させて、平次は廊下から離屋を調べました、廊下は二間の板敷で、長さは二間程、北の方は窓を塞ぐほどの道具を並べて、曲者が居たとしたら、何處にでも身を隱せさうです。
窓は全部内から塞いで居り、滅多に風も入れないらしく、
其廊下の盡きるところは、三疊に六疊の離屋で、先代の頃隱居が使つて居たといふ、
「足跡は隨分澤山あるが、女の足跡が無いぢやないか」
平次は妙なことに氣がつきました。
「こんな埃の中へ入るのに、
「逢引は素足の方がピタリとするだらう、大きいのと小さいのと、素足の跡が入り亂れて居ると洒落れてゐるが」
そんな柄にも無い事を言ひ乍ら、念の爲に雨戸を開けて見ると、庭の植込を隔てゝ、低い生垣の外に曾ては今の主人が住んでゐたといふ、浪宅があからさまに見えますが、軒は傾き、柱も歪んで、ひどく危なげです。
「あの家には誰が住んでゐるのだ」
「松井小八郎樣と仰しやる御浪人で||」
番頭伊之助は酢つぱい顏をして居ります。この浪人に對してあまり良い感じは持つて居ないのでせう。
平次は元通りに雨戸を閉めようとして、フト母屋の二階を見上げましたが、番頭を振り返つて、
「あれは」
と雨戸の陰に身を引いて指すのです。
「椿三千麿樣でございます、此夏頃から御滯在ですが||」
見ると娘の多與里と親しさうに話して居るのは、二十四五の若い浪人者でした。少し多血質らしくはあるが、人品の良い、身のこなしの上品な、粗末な木綿物の袷に同じ木綿の紋附を羽織つて、脊の高さも尋常、何んとなく好ましい感じのする男でした。
「お孃さんと仲が良いやうだが||」
「へエ、お互に若いことですから」
番頭伊之助は、少し
一とわたり見て、裏口へ出た平次が、下女のお
「親分さん、||昨夜御新造(お鈴)が何處に居たか、御存じでせうね」
それは二十二三の良い年増でした。
「お前は何んか知つてゐるやうだな、||遠慮なく言ふが宜い、御主人は夜中に何んな用事があつて起出したんだ」
平次はこのきりやう良しの下女から、何んか容易ならぬ事を訊き出せさうな氣がしたのです。
「御新造があの通り若くて綺麗なんですもの、お年寄の御主人とうまく行かないのも無理はありません、||近頃はお部屋も別々ですし」
たつたこれ丈けのことで、平次には何も彼も呑込めたやうな氣がしたのです。傷ついた主人の側に居た妾のお鈴に對する、主人金兵衞のよそ/\しさが、唯事でないやうに思つたのも、主人が用もないのに夜中に飛起きて、灯も持たずに廊下に潜んだのも、下女のお猪野の謎のやうな言葉で一ぺんにわかつたのです。
「それで?」
「今までも、旦那樣が時々夜中に飛起きて、忍び足で飛んでもないところに行き、ヂツと耳をすましてゐることがありました。お氣の毒なことに、あの月見の晩から後、旦那樣はおち/\お休みにならない樣子なんです」
斯んな事をツケ/\言つてのける下女のお猪野の心持も、平次はよくわかるやうな氣がするのです。
そのお猪野||まだ何んか言ひ度さうな顏をしてゐるお猪野と別れて、裏庭の方へ廻ると、八五郎は何時の間にやら平次の側から
「あれは下男の
「何んだい、その面白いことゝ言ふのは?」
「奉公人は大抵奉公人同士庇ひ合ふものですが、お妾と居候には妙に
「何んのことだえ、それは?」
「お妾のお鈴の評判の惡さといふものはありませんぜ、まるで奉公人と敵同士だ、ケチで高慢で浮氣で、贅澤で||現に主人の眼を忍んで變な男を引入れるんですつてね、あの女は」
「||」
「主人は酒が好きで、寢酒を二本もやると、まるで他愛が無いんですつて、それを寢かしつけると、あの女はそろ/\動き出すといふから厄介でせう」
「お妾のお鈴が逢引してる男は?」
「それは教へてくれませんよ」
「俺にはよくわかつて居るが」
「へエ、親分がね」
八五郎は又も平次に先を越されて、呆氣に取られた樣子です。
「庭の先、あの生垣が一と
「成程ね、男の名前をあつしに言はないわけだ、相手は武家ぢや、あとがうるさいから」
「そこで相談があるんだがな、八」
「へエ?」
「少し危ない仕事だが、お前は思ひきつてやつて見る氣は無いか」
「何をやらかすんです」
「耳を貸せ、八」
二人は何やら話をし乍ら、外の方から大廻りに、隣の浪人松井小八郎の家を訪ねました。
「何、神田の平次、それは珍らしいな、眞つ直ぐに庭に入るが宜い、丁度
小さい古い浪宅||庭口から平次と八五郎を迎へ入れた松井小八郎は、縁側に片膝を立てゝ、呑氣さうに話しかけるのです。
三十五六の、それは苦み走つた男でした。少し骨張つた顏ですが、脊が高く、身體つきも
「松井樣は、何時から此處に住んでお出でですか」
「三年前だ、||浪人暮しも長くなると、水の手が切れるから、増田屋さんの厄介を承知で居坐つてゐるよ、尤も、近頃御主人の機嫌が變つたやうだから、近いうちに引越さうとは思つて居るがね」
さう言つたことを、平氣で打ちあける松井小八郎です。
「昨夜増田屋の御主人が、怪我をされたことも御存じでせうな」
「聽いたよ、||増田屋金兵衞殿、昔は武士だと言つたが、まことに武術
「松井樣はさぞ、武術の方は御自慢でせうな」
「ほんの一と通りだが、暗い廊下へ不用心に入るやうなことはしない積りだ」
「へエ、なる程」
平次はつまらぬ事を感心して居るうちに、松井小八郎を挾んで、その左側に居た八五郎は、側に置いた浪人者の一刀を横抱へに、二間ばかり飛退いて、いきなりスラリと拔いて見たのです。
「あつ、何をする、無禮な奴ツ」
松井小八郎後ろの方に置いた脇差を取ると、いきなり引拔いて、無禮者||八五郎の鼻の先へつけたのです。
「八、止せ、飛んでもない事をしやがる、御武家が腰の物を大事になさるのを、お前も知らない筈はあるまい」
平次は松井小八郎の脇差の手に飛付いて、思はず聲が高くなりました。
「へツ、武藝の御自慢ですから、お腰の物を拜見し度くなつたんですよ、さぞ立派な事だらうと」
八五郎はあわてゝ一刀を
「ハツ、ハツ、ハツ、ハツ、刀を見たかつたのか、二人で相談をして、つまらない芝居を打つたんだらう。それならさうと言へば、器用に見せたものを、五郎正宗でも何んでも良い、無銘の
松井小八郎は全く良い男でした、平次と八五郎の思惑がわかると、深くとがめる樣子もなく、カラカラと笑つて、
「有難うございました、つまらない事を考へた、私の方が極りが惡くなります。どうぞ御勘辨を願ひます」
「まア、さう改まらなくたつて||尤も外に刄物があるかも知れないと思ふだらうが、御覽の通りの貧乏暮しだ、
松井小八郎は面白さうに笑ふのです。
散々お詫びを言つて引揚げる途中、平次は八五郎に、
「氣持の良い武家だね、お前の嫌ひな二本差にも、あんなカラリとした男もあるぜ、ニチヤニチヤしたお妾と逢引するやうな柄ぢやない」
とさゝやくのでした。
「それぢや下手人は誰でせう?」
「まだわかるものか、容易ならぬ曲者だよ」
二人が母家へ入つて來ると、二階から降りて來た若い浪人者と、縁側でハタと顏が合ひました。先刻下から見上げた、客分の椿三千麿です。
まだ二十四五でせう、これは本當に良い男です。智的な額、血色の良い||頗る黒々と陽焦けのした顏、
「旦那、椿樣と仰しやるんで」
「さうだ、用事は?」
「あつしは町方のもので、昨夜の騷ぎのことで
松井小八郎で懲りて、今度は正面から斯う出る平次でした。
「||」
椿三千麿はサツと顏色を變へましたが、暫らくして、思ひ直したものか、兩刀を
「拜見いたします」
作法も何んにもありません、靜かに鞘から拔いて調べましたが、これも二本とも何んの異状もなく、燒刄の匂ひも美しく、
「他に、お差換は?」
「無い」
短いが斷乎とした言葉でした。平次はそれを押して訊ねる言葉もありません。
麻布十番の増田屋の事件は、それつきり何んの發展もなく、ウヤムヤのうちに日が經つてしまひました。
錢形平次の手掛けた事件では、これほど時間を喰つたのは、滅多に無いことです。
尤も、その間も麻布十番から眼を離したわけでは無く、八五郎をやつては、絶えず情報を集めて居ります。
「親分、妙なことを聽きましたよ」
八五郎がフラリとやつて來たのは、その年もあと十日で暮れやうといふ、押し詰つた日の夕方です。
「何が妙なんだ、松井小八郎といふ浪人が引つ越しでもしたのか」
「越し度い越し度いと言ひ乍ら、相變らずあの家に居ますよ、引つ越し三百といふから、多分その金が無いんでせう」
「では?」
「あの椿三千麿といふ好い男の浪人者は、思ひも寄らぬ大ペテン師ですぜ」
「嘘だらう、あれは正直者らしいぜ」
平次は首を振りました。
「親分の
「それは訊かなかつたな」
「それが大變で||斯うですよ、もう半歳も前ですが、増田屋の主人金兵衞が、お孃さんの多與里と、
「思ふよ、で?」
「仲見世から雷門を出ると、いきなり突き當つて、喧嘩を吹つかけたやくざ者が五人、お孃さんを人質にして、因縁をつけたが、武家の出のくせに、あの主人の金兵衞はろくに武藝も知らず、
「まるで芝居の
「それから増田屋とあの椿三千麿が
「それつきりなら、大した妙でもないぢやないか」
「これからが大變で、||盛り場でそんな事をするやくざは、大概見當が付いてるから、内々探りを入れて見ると、増田屋親子に因縁をつけた五人組はすぐわかりましたが、一杯呑ませて訊くと、その芝居は皆んな人に頼まれて、一人頭二分づゝで引受けた馴れ合ひの立ち廻りとわかつて、私も變な心持になりましたよ」
「頼んだのは誰だ」
「驚いちやいけませんよ、あの生眞面目な顏をした、美い男の若侍、椿三千麿と聽いたらどうします、親分」
「本當か、それは」
「嘘だと思つたら生證人のガン首を五つ並べてお目にかけませうか」
「お前のガン首だけで澤山だよ||ところで、さう解ると、物事は恐ろしく六つかしくなり相だ、あの椿三千麿といふ若侍の素姓をトコトンまで調べてくれ」
「やつて見ませう」
「それから、もう一つ頼むことがある」
「||」
「増田屋の家中の者の足を調べるのだ」
「足ですか」
「變つた足をしてゐる者は無いか、どうかしたら、下女のお
「それから、椿三千麿といふ若侍と、娘の多與里が相變らず仲が良いか、それも氣をつけてくれ、お前には打つてつけの仕事だ、色事の鑑定にかけては、俺もお前には叶はない」
「有難い仕合せで、何時までも獨りでゐるからでせう」
「主人金兵衞の前の身分、どこの藩中で、どうして浪人したか、それも訊き度い」
「それ位のことなら、わけはありませんよ」
「頼んだぞ、八」
八五郎の報告が來たのは、年が明けて七日の朝でした。
「お早やう、漸くわかりましたよ、親分」
相變らず、獵犬のやうに仕事に熱中する八五郎です。
「七草だぜ、今日は、お
平次は熱い粥を吹き/\、
「それどころぢやありませんよ、
「どうしたといふのだ」
「臭いのは矢張りあの良い男の若侍椿三千麿ですよ」
「はてね?」
「椿三千麿なんて、大嘘ですよ、前に居た長屋から、素姓をたどつて調べると、本名は春木道夫とふんだ相で、椿三千麿は考へましたね。元は上方生れ、
「その母親と逃げた男は、増田屋金兵衞だらう」
「その通りで、昔は坂井金兵衞と言つて、これは寺侍、歌や發句や風流事は上手だが、武藝の方は一向いけないのはその爲だ」
「それから?」
「その春木道夫の椿三千麿が、漸く坂井金兵衞を搜し當てると、麻布十番の増田屋金兵衞となつて、うんと金を溜めて納まつて居る、その金兵衞と上方から逃げた母親は二十年も前に死んでしまつて、今は怨を言ふ相手もないが、せめて金兵衞の懷ろへ飛込んで、亡くなつた父親の怨を晴らす積り、淺草のやくざを語らつて、麻布十番の増田屋へ入り込んだ||此處まではわかりましたがね」
「有難い、それ丈わかれば」
「椿三千麿を縛れるでせう、金兵衞を松に吊つたのも、廊下で刺したのも、あの若侍に違ひありませんよ」
「待て/\八、松の木に
「へエ?」
「廊下で刺したのも、三千麿のやうな氣がしない、刀に血が附いて居なかつた||いや刀は外にもう
「さうですか」
八五郎は珍らしく氣の進まないやうな顏をするのです。
「あ、忘れてゐたよ、八五郎は腹が減つてゐるんだ、
「さうですか」
「言ひ當てられて、極りが惡くなつたのか、大丈夫鍋ごとかぶり付いたつて笑やしないから」
二人は兎も角、腹拵へをして、麻布十番まで驅けて行きました。
が、これは又、恐ろしい手違ひでした。
七日の吉例七草粥を、家風で奧で喰べた男二人は、間もなく七轉八倒の苦しみを始め、若くて元氣な方の若旦那新吉郎は、驅けつけた醫者の
七草粥に入つて居た毒は、その頃一般に用ひられた、『
其騷ぎの眞つ最中に、平次と八五郎が、寒天に汗を掻いて飛込んだのです。
「何? 主人が死んだ、||粥に入つて居た石見銀山で、若旦那は箸をつけたばかりだつたから、命は助かつたといふのか」
平次は立騷ぐ人々の話を掻き集めて地團駄を踏みましたが、今となつては追ひ付きません。
「もう一日早かつたら、畜生め、こんな
八五郎は自分の手落のやうに口惜しがります。
「ところで、八、これから本氣になつて下手人を搜すんだ」
「冗談ぢやありませんよ、下手人はあの男でせう」
八五郎は飛込んで行つて、多勢の中から椿三千麿を引つこ拔いて來さうにするのです。
「あわてるな、八、椿さんは下手人ぢやない、ね、椿さん、この野郎が彈みきつて手をつけられません、京から江戸へ、坂井金兵衞を追つかけて來てから、淺草で一と芝居をやつた事まではわかつて居ますが、その先の事を話して下さい、||金兵衞が死んだ今となつては、隱すほどのことも無いでせう」
平次は人數の中から椿三千麿を呼んで來て、遠慮も掛引もなく斯う言ひきるのです。
「よく解つたよ、平次殿、私にもわからないことだらけだ、
椿三千麿は、すつかり緊張を解いて、靜かに語り出すのでした。
死んだ父親の遺命を受け、逃げた母親と、その母親をつれ出した奸夫に怨みを言ふため、京から江戸にたつたのは三年前、手段を用ひて増田屋に入り込んだことは、平次と八五郎が搜し出した筋書と少しも變りはありません。
「私は主人金兵衞を殺さうと思つた、が、親しくなるにつれて、今は氣まで弱くなつてゐる金兵衞の良さもわかり、なか/\手を下せるものではない、||それに私も堂上方に仕へて、風流の道にこそ詳しいが、武藝の方は甚だ怪しく、淺草で五人のやくざを投げ飛ばしたやうな、芝居事なら兎も角、敵呼ばはりをして、主人と刀を合せる氣力もなく、フト思ひついたのは、あの月見の松の仕掛けだ」
「||」
「主人は八月十五夜にも、松の下で獨り月見をやつた、九月十三日の後の月にもそれをやると聞いて、私は外出といふことにして、人の目の屆かぬ折を覗つてあの松の枝に
「||」
「私はそのまゝ、此家を去る積りであつたが、松に吊られて苦しむ主人の姿を見、奧の方から、何んにも知らずに、はしやぐ多與里殿の聲を聞くと、急に自分のする事が恐ろしくなり、木戸からもう一度庭に飛込んで、自分で吊つた繩を自分で初つて主人を助けてしまつた」
「||」
「私といふものが、何んといふ
「||」
「私は不孝な子であつたかも知れない。でも二十年も經つて父親の昔の怨を、伜の私が此手で解いてやるのは、決して惡いことでも、耻かしいことでも無いやうに思つて來た」
「廊下で主人を刺したのは?」
多勢の不思議な沈默を破つて、平次は口を容れました。
「あれは私でない、||私なら、私と言ふのに、少しも憚らないが」
「廊下ですれ違つた人があつた筈だが」
「あつたやうに思ふ」
「男ですか、女ですか」
「男だ、私の持つて居た灯で、驚いて姿を隱したが」
「その時離屋には」
「直ぐ戸を開けて見たが、誰も居なかつた、||雨戸も皆んな締つてゐた、伊之助がよく知つてゐる」
事件は次第に、椿三千麿の口から、その
「八、離屋にあつた足跡は、足袋を穿いたのだけだつたな」
「草履も素足もありませんよ」
「貧乏な浪人者は、滅多に足袋は穿くまい、それから、家中の者で、變つた足をして居るのは無かつたか、||その話はまだお前から聽かなかつたが」
「ありましたよ、下女のお猪野が知つて居ました、若旦那の足には土踏まずが無い||つて」
「それだよ、あ、あの男だ」
八五郎が驚いて隣の部屋に飛込むと、今まで其處で唸つて居た、半死半生の若旦那新吉郎は、ムクムクと起上ると、恐ろしい勢で庭へ逃出したのです。
飛込んだ八五郎が、それを
「あの野郎が、二十年前に私の父親を殺したのだ。||隣の浪宅から忍び込んで來て、||その仇討に、松井さんがお鈴のところに忍んで來ると見せかけ、あの野郎に死ぬほど苦勞させる積りでやつた
新吉郎は
× × ×
親殺しの新吉郎は、當然極刑に處せられる筈でしたが、平次の心ざしで、お白洲に證人として酉松が呼出され、その證言で島流しで濟みました。
椿三千麿の春木道夫は、多與里とあんなに親しくして居ましたが、何を感じたか、
「妙な騷ぎだつたな八、||でも此中で一番惡いのは坂井金兵衞の増田屋金兵衞さ。椿三千麿が、二十年前の怨を捨てたのは、意氣地が無いやうだが、俺はあべこべに見あげる心持になつたよ。人は人を怨んで、何代も何十年も忘れないといふのは、決して立派なことでも何んでもないと思ふよ。松の枝からブラ下がつて、キリ/\首にもがいて居る敵の姿を見て、繩を切る氣になつた椿三千麿には、嬉しいところがあるぜ」
古い、長い
「すると、親分でも、主人を松に吊つたのは椿三千麿とは、あの口から聽くまではわからなかつたのですか」
「いや、あの九月十三夜の晩、||椿三千麿が、木戸の外から月明りで、庭の松の枝に人間のブラ下がつて居るのを見た||と言つた時から、變だとは思つたよ、私が直々に聽いた話ではないが、いかに十三夜の月夜でも、名物と言はれた
「それにしても、弱い浪人が揃つたものですね、松井小八郎は兎も角、金兵衞も三千麿も」
八五郎は頬を凹ますのです。
「武家は皆、岩見重太郎や宮本武藏のやうに強かつたのは昔の話さ、二本差しにも強いのも弱いのもあるぜ、いや、弱い方が多い位さ。百姓町人の裕福なのに取入つて、
「それにしても意氣地が無さ過ぎますね」
「||」
今度は平次が默つてしまひました。
「でも、多與里といふ娘は可哀想でしたね、あれから二三度行つて見たが、何時でも泣いて居ましたぜ、好きな同士が一緒にもなれないやうな、世上の義理なんて
八五郎の哲學は何んと簡單明瞭なことか。