「八、大層ソワ/\してゐるぢやないか」
錢形平次は煙草盆を引寄せて、食後の一服を樂しみ乍ら、柱に
「今
八五郎はでつかい指を、不器用に折り乍ら、相變らず外ばかり氣にして居るのです。
「それが何うしたんだ」
「五つまでには、來なきやならないんだが」
「誰が來るんだ、借金取か、叔母さんか」
「そんな氣のきかねえ代物ぢやありませんよ」
「叔母さんまで氣のきかねえ代物にされたのか、それぢや新造か年増か、どうせ宵の口から化けて出るエテ物だらう」
平次はからかひ
「ところで、今晩は姐さんの姿が見えないやうですね」
八五郎は、キナ臭い鼻の穴を、ひつそりしたお勝手の方へ向けました。其處には、どんな時でも愼ましやかに仕事をしてゐる、平次の女房お靜の、何時までも若々しい姿が見えなかつたのです。
「お袋のところへ手傳ひにやつたよ」
「へエ? 滅多に無いことですね、あの達者なお母さんが身體でも惡いんですか」
「いや、相變らず元氣で、
洗ひ張と仕立物で、樂々と暮して居るお靜の母親は、平次夫婦に、これつぽつちの迷惑を掛けるのも、いさぎよしとしない肌合の女でした。
「それぢや、
「いや、親父の命日は秋だよ、||實を言ふと、俺はたつた一と晩で宜いから、獨りで暮して見たくなつたのさ、たまには獨り者の昔がなつかしくなるよ」
「へエ、物好き過ぎますね」
獨り者の八五郎には、一と晩でも戀女房に別れて居たいといふ、平次の氣持はわかりません。
「久し振りに、明日の朝は飯といふものを炊いて見ようと思つて居るよ、一粒々々に
「呆れたものだ、あつしを泊めて置いて、まさかその芯のある飯を喰はせる氣ぢやないでせうね」
「安心しろよ、お前には俺が燒いた
平次はお勝手へ行つて、眞つ暗な中で徳利と乾物を搜して來ると、不器用な手つきで膳の上へ並べ、徳利の尻を
「ところで、八」
「へエ」
「入口ばかり氣にするなよ、||俺は近頃手相に凝つて居るんだが、酒の燗のつくまで、ちよいとお前の手相を見てやらうか」
「へエ? 妙なものに凝つたんですね、||手相を見て貰ふのは構はねえが、まさか見料を取るとは言はないでせうね」
「お前のことだから、見料位は立引くよ、先づ手を出しな、||汚ねえ手だ、地が汚れて居るから筋がよく見えねえよ、||こんな手で握られると、あの
平次は八五郎の手を握り乍ら、文句ばかり言つて居るのです。
「へツ、小言が多過ぎますね、手相の方はどうしたんで?」
「これから見るよ、||おや、おや/\」
「何がおや/\です?」
「お前は天下を取るよ、天下線といふのがある、
「脅かしちやいけません、それは引つ掻きの跡ですよ、叔母の家は建付けが惡いから、無理に雨戸を開けようとして、釘で引つ掻いたんで」
「何んだつまらねえ、||天下線はぺてんか、だが、生命線は長いな、二の腕まで通つて居るぢやないか、百二三十迄は生きるぜ」
「そんなに生きては困りますよ」
「その代り智能線と運命線は無いも同樣だ」
「すると、どういふことになります」
「金と智惠には縁が無いといふことになるよ、氣の毒だが」
「そんなものは欲しかありませんよ、女の子に持てゝ、百二三十迄生きさへすれば」
「良い心掛だ、ところで今度は俺の手相を見てくれ」
平次は少し
「それ位の手相なら、あつしだつてわかりますよ、どれ」
などと、平次の手を取つた八五郎、灯り先にそれを差出させて、ハツと驚きました。平次の掌には、墨黒々と、
||そつと窓を見ろ、聲を立てるな||
と八五郎が讀めるやうに、假名で書いてあるのです。恐らく先刻乾物と酒の仕度に立つた時、お勝手で書いて來たのでせう。
八五郎は頭から冷たい水を打つ掛けられたやうな氣持でしたが、さすがに日頃のたしなみで、あわてゝ窓を振り返るやうな、そんな間拔けなことはしません。
「こいつは驚いた、惡い手相ですね、親分」
「何を言やがるんだ」
「女難、盜難、水難、火難、劍難、皆んな
「いやに備はりやがつたな」
「その上金難まであるんだから大したもので」
八五郎は緊張して來ると、益々輕口に油が乘ります。
「嘘を吐きやがれ、金難なんかあるわけはねえよ、ちよいと火鉢の引出しを開けても此通り、女房は俺の後をついて歩いて、小判小粒の落ちこぼれを掃き集めて、此處へ投り込んで置くことになつて居るんだ」
「へツ、引出しの中は四文錢が五六枚、それぢや一向ピカリと來ませんね」
「小判や小粒は、用心が惡いから、引出しの奧にあるんだよ」
平次は冗談らしく引出しの中に手を突つ込むと、次の瞬間、四文錢を一枚取つて、八五郎の頭越しに、窓を目がけてパツと投げるのです。
「あつ」
不意を打たれて、窓から覗いて居た顏は、あわてゝ引込みました。が、確かに手答へ、何處かやられたに違ひありません。
「それ、八」
「合點」
二人は裏表から飛出しましたが、曲者の姿はもう其處には見えず、
「恐ろしく早い野郎ぢやありませんか」
「屋根を渡つて、隣の路地へ飛降りたんだらう、追つかけても無駄だよ」
平次は
「どんな人相でした、あつしはよく見る隙が無かつたんですが」
「庇にブラ下つて、窓の格子の間から覗いて居たから、暗くてよくはわからなかつたが」
「へエ?」
「四文錢は額に當つたに違ひない、
「一體何を覗いて居たんでせう」
「わかるものか、それより、お前が此處で落合ふことにしたのは誰だえ、もう
「それが變ですよ」
「窓から覗いたお客樣ぢやあるまいな」
「飛んでも無い、あつしが約束したのは、ピカ/\するやうな良い新造で、窓から人の家を覗くやうな變なことをするものですか」
「大層肩を入れるぢやないか」
「親分も知つて居なさるでせう、近頃兩國の廣小路に小屋を掛けて、江戸中の人氣を集めて居る、娘手踊の半九郎一座の花形、お
「大層な相手だな、二人一緒か」
「いえ、お蝶の方で。何んか思案にくれた揚句、錢形の親分の智惠を借り度いから、あつしに引合はせて、口添へをしてくれといふことで」
「お前の智惠ぢや間に合はなかつたのか」
「色の諸わけか、金の工面ならあつしでも間に合ひますがね」
「呆れた野郎だ、兎も角、路地の外でも覗いて見ろ、家が知れなくて迷つて居ちや、若い
「さうしませう、相手が綺麗な娘だけに、この邊にウロウロしてゐると、||待ちきれないやうで見つとも無いが」
さう言ひ乍ら、八五郎は、路地の外、御臺所町の通りの方へ出て行きましたが、表通へ出る前に、何を見付けたか、
「親分、大變ツ、早く、早く」
と、あたり構はず張り上げるのです。
「何んだ、八、御町内の衆はびつくりするぢやないか」
平次がその後を追つて飛んで行くと、兩側のお長屋からも、八五郎の聲に驚いた人達が、物好きさうに顏を出します。
「人が死んでゐるんですよ、女のやうだが眞つ暗で、何んにも見えやしません」
「よし、見張つて居ろ、
平次は引返さうとしましたが、兩側から飛出した人の中には、八五郎の聲に驚いて、手燭や行燈を持つてゐるのが二三人あつたので、平次が引返す迄もなく、たつた一目で、思はぬ悽慘な有樣が、痛いほど眼に燒付けられます。
「あ、お蝶だツ」
八五郎は腰を落すと、死骸に
「どれ」
平次も手を添へました。が、娘はもう虫の息もなく、喉笛を斬られた血さへも、娘の襟をひたして、大地に固まりかけて居るのです。
「可哀想に」
それは實に見る眼に沁みる痛々しさでした。十八になつたばかりの、色白の丸ぽちやで、笑へば大きく笑くぼの
人目を忍ぶ地味な
傷は左の首筋、頸動脈を切つたのは心得た手口で、凄いほど切れる薄刄のやうですが、其處に落散つて居るのは離れ/″\に赤い
「八、この娘が、俺のところへ來ることになつてゐるのを、誰と誰が知つて居たんだ」
「そつと私に言つただけですよ、兩國の小屋で、今日の夕方、誰も聽いた筈はありませんが」
平次はお蝶の死骸の裾の亂れなどを直し乍ら、八五郎に訊ねました。四方を一と通り調べ了つて、お係り同心と、お蝶の勤めて居る小屋の親方、半九郎の來るのを待つて居るのでした。
「お蝶はどんな用事があつて俺に逢ひ度かつたんだ」
「そいつは、あつしに言つてくれませんよ、||此處は人目が多いから、今晩
「お前は前から知つてゐるのか」
「あの邊のことなら、酒屋のムク犬の顏まで知つて居ますよ、ましてお蝶にお輝と來ちや、何方も負けず劣らず綺麗だから、可愛らしい
「お前の言ふことは少し淺ましいな」
「でも、殺されちや可愛想ぢやありませんか、ゑくぼとほくろはお蝶をどんなに可愛らしく見せたことでせう」
「もう宜い、半九郎が來たやうだ」
平次は、お蝶の死骸を、愛撫するやうな眼差で、沁々と見てゐる八五郎を促して、少し遠退きました。
「飛んだことになりました、親分さん」
五十前後のよく禿げた男、愛想は好いが
「まア、お蝶が、あんな姿になつて、可愛想に」
後ろから飛出して、いきなりお蝶の死骸に飛付いたのは、四十二三の女、それは半九郎の女房のお竹でした。
「半九郎親方、お蝶を斯んなに
平次はいきなり問題の
「お蝶は皆んなに可愛がられて居りました、怨んでゐる者なんか、あるわけはありません」
「小屋に泊つてゐるのか」
「いえ、私の家は左衞門河岸で、お蝶とお輝は私の家の裏の六疊に、五郎助と貫六は、隣の長屋を借りて暮して居ります」
五郎助と貫六といふのは、半九郎一座の
無人の一座で、
「お輝といふのは?」
「留守をさせて居りますが、女房をやつて連れて來させませうか。囃し方の松三夫婦が近所に居りますから、留守を頼めば出られないこともありません」
「さうしてくれ、それから、五郎助、貫六といふのは?」
「二人共若くて呑氣で、滅多に家に居付きませんが、今夜は珍らしく居るやうでした、尤も揃つて
「
平次はどうせ、この人立ちの中で、路地で調べを了るのが無理だと思つた樣子です。
「一つお耳に入れ度いことがありますが」
女房の姿が見えなくなると、半九郎は物言ひ度さうに聲をひそめます。
「何んだえ」
「お蝶の身の上について、此間から變なことがありました」
「變なことゝいふと?」
「お蝶は今から十六年前、馬道で捨て兒になつて居たのを、荒物屋の年寄夫婦が拾つて育てました。その荒物屋の夫婦が死んだ後で、私が引取つて仕込んだ娘ですが」
「一寸待つてくれ、もう一人のお輝といふのは、どうした娘だ」
「あれは、女房の遠縁で、
「で、それから、どうした。お蝶の話を續けてくれ」
「そのお蝶の親許がわかつたのでございます。||親分さんも御存じでせう、元鳥越の呉服屋、越前屋
「知つて居るとも、大層な暮しだ相だ」
「その越前屋の旦那が、此間から度々私共の小屋へ來て、お蝶の樣子を見て居ると思ひました。御身分、御年配、さう申しちや何んですが、娘手踊なんかしげ/\見て居る
「||」
事件の妙な展開に、平次も默つてしまひました。
「私は頭から斷わりました、一座の働き手、十年も仕込んだお蝶を、そんな事で手離しては、私共は立ち行きません。すると、||亡くなつた馬道の荒物屋夫婦が、十六年前にお蝶を
「||」
「越前屋の姪に相違ないといふ證據は、お蝶の左の耳の下にある赤い
「お前はそれで、どうした」
「弱い稼業の悲しさで、名の通つた大町人とは、お
「だが、そんな事なら、外にも相談する相手があるだらう、若い女が夜中に岡つ引のところへ來るのは變ぢやないか」
平次は一應疑つて見ましたが、さうかと言つて、外に結構な解決もありません。
やがて、半九郎の女房お竹は、もう一人の踊り娘、お輝をつれてやつて來ました。
人混みをわけて路地の中に入ると、
「ま、お蝶さんどうしたの」
舞臺で人に馴れきつて居るお輝は、多勢の監視の眼を恐れる色もなく、大地に戸板を敷いたまゝ、
「今晩お蝶が家を出たのを知つて居たのか」
平次は、お輝の少し落着いた樣子を見て問ひかけました。
「知つて居ました、錢形の親分さんに逢つて、相談をして來るとか言つて、
「たつた一人で、夜歩きをすることがあつたのか」
「滅多にないことですけれども、左衞門河岸から明神下は遠くないし、急ぎの事だからと言つて」
「どんな急ぎの用事があつたんだ」
「元鳥越の越前屋さんが、姪だから引取ると言つて來たけれど、お蝶さんに言はせると、そんな氣がしないし、これには何んか、恐ろしい間違ひがあるに違ひない||といふんです。尤もお蝶さんはこんな稼業をイヤがつて居ましたから、越前屋へ行き度いのは山々のやうでした」
「||」
「それに、近頃は變な脅かしの手紙が來て怖いから、錢形の親分さんにお話をして、何とかきめ度いといつて居ましたが」
「脅かしの手紙?」
「私も一度見せて貰ひました、亂暴な變な字で、||越前屋がお前を姪だと言つて居るが、あれは皆んな嘘で、五十過ぎの越前屋周左衞門が、年にも耻ぢずお前に
「その手紙をどうした」
「皆んな燒いてしまつたやうです、ひどく氣味が惡がつて居ましたから」
「それつきりか」
「近頃の脅かしの文句はだん/\ひどくなつて、どうしても越前屋へ行く末なら、お前の命は無いものと思へ||とか」
「その手紙も燒いたのか」
「だつて、噛みつき相な文句でせう、持つて居るだけでも、
「そんな脅かしの手紙が來ても、お蝶は矢張り、越前屋へ行く氣だつたのか」
「一生手踊なんかやつて、舞臺の上の耻をさらすより、越前屋へ行けば、跡取りにする約束だつたんですもの、お蝶さんの迷つたのも無理はありませんよ」
お輝の話はこれで一段落でしたが、平次にはまだ物足りないものがあります。
「お蝶にうるさく言ひ寄つた男は無かつたのか」
「ありましたとも、こんなに綺麗なんですもの」
お輝は淋しさうにお蝶の死顏を覗きました。
「近いところでは?」
「同じ小屋で
「五郎助と貫六の二人は、さぞ仲が惡かつたことだらうな」
「いえ、そのくせ飛んだ仲好しで、一人がお蝶さんと出來てしまへば、どうなるかわかりませんが、どつちもモノにならないことがわかつて居るから、
「その二人は、今晩どうして居るんだ」
「仲よく風邪を引いたとかで、二人共寢込んで居ますが、宵のうちから戸を締めて」
お輝の話は、それで終りました。
その間に係同心が夜中乍ら出張つて來て、
「變なことがありますよ、親分」
八五郎は死骸の側に居る平次のところへやつて來ました。左衞門河岸の半九郎の家へ着いて間もなく、四方は次第に明るくなつて、初夏の
「何が變なんだ」
「五郎助と貫六といふ、二人の道化を叩き起すと、揃ひも揃つて、鉢卷なんかして居ますよ。あんまり意氣な恰好ぢやありませんね。風邪を引いて、頭痛がするんだ相で、||
「よし/\、行つて見てやらう」
平次は妙に好奇心をそゝられました。八五郎に案内させて、隣の長屋へ顏を出すと、成程、二十四五のと、二十七八のと、血氣旺んの男が二人四つに疊んだ手拭で鉢卷をして、床を疊んで着換をして居るのです。
「お蝶が死んだことは聽いた筈だ、風邪位が何んだ、良い若い者が」
平次はその頭の上へ、いきなり
「へエ、相濟みません」
貫六といふ細長くて年上のが、ピヨコリとお辭儀をしました。舞臺でお客樣へ挨拶をして居るやうで、物腰が妙に職業的で良い感じは與へません。
「二人共、お蝶を追ひ廻した講中ぢやないか、早く行つて線香でも上げて來い」
「へエ」
「鉢卷を取るんだ、大丈夫、出來のよくねえお
「相濟みません」
肥つた若い方、五郎助は澁々乍ら、鉢卷を取りました。
「あ、傷?」
八五郎は早くも、五郎助の額の左に、少し血がにじんだ、細長い皮下出血のあるのを見付けたのです。
「その傷はどうしたんだ」
平次の手は伸びて、早くも逃げ腰の五郎助の
「貫六と鉢合せをしたんで、へエ、何分暗かつたもので」
「鉢合せなら、お前の額にも傷があるだらう、どれ」
八五郎の手は延びて、貫六の額から、むしり取るやうに鉢卷を取りました。
「あ、成程、こつちの方が少し手重だ」
それは皮が破れて、少しは血も出た樣子、見ると、貫六の單衣の襟には、明らかに新しい血が、二三滴こぼれて居るではありませんか。
「鉢合せして、こんな傷が付きますかね、親分」
これは八五郎でも合點が行きません。
「お前達の頭には、角があるんだらうよ」
「へエ」
平次は少しばかり面白相でした。貫六の額の傷の血が、二三滴でもこぼれて居るのも變ですが、五郎助の額の傷は、細い深い溝になつて居て、鉢合せで出來たものでないことはあまりにも明かです。
「五郎助の傷は、俺が
「へエ、生憎でね、親分」
「何が?」
「小判といふものなら持つて居るが、四文錢は持つて居ませんよ、親分の袂には確かにある筈だが」
「つまらねえ事を言やがる、頼まねえよ、それ、見るが宜い」
平次は投げ錢のために、いつでも用意して居る四文錢を一枚、懷中から取出して、五郎助の恐れ入つた額に當てゝ見るのでした。
「それ見ろ、昨夜、明神下の俺の家の、窓から覗いて居たのは、お前の面だらう。
「||」
「手輕にいきさつを白状した方が、お前の身のためだぜ、路地でお蝶が殺されたのはどう考へても
「相濟みません、親分さん、お蝶が宵に親分さんのところへ行くと知つて、私はどんな話をするかそれが聽きたさに、屋根傳ひに忍び寄つて、親分さんの家を見張つて居りました、ところが、何時まで待つてもお蝶が來ずに、親分さんに見付かつて、この通り」
五郎助は四文錢でやられた宵の傷をさすり乍ら、だらしもなくお辭儀をするのです。
「ところで今度は貫六だ、お前の額の傷はどうしたんだ」
平次の問は、もう一人の道化の方に向ひます。
「あつしは、風邪を引いたことにして、此處で留守番をして居ました。すると、お隣の家からお蝶さんが出た樣子でしたが、暫らくすると五郎助が歸つて來て、それから又暫くすると、明神下の親分さんの家の前で、お蝶さんが殺されたといふ知らせです」
「それから先は、私から申上げませう。||私はお蝶殺しの疑ひを受けさうで、死ぬほど心配して居りますと、わけを聽いた貫六が、||錢形親分の家なんか覗いて、錢を投げられるやうなヘマをやつちや、すぐ眼の前の路地の、お蝶殺しの疑ひを受けるにきまつて居る、こいつは二人共額に傷を拵へて、鉢合せをしたことにしようぢやないか、と、貫六は自分の煙管で自分の額を叩き、あんな傷まで拵へてくれました、||貫六は外へ出なかつたことは、一緒に居るこの私が證人ですから、二人共額に傷があれば、手輕に申譯が立つだらう||斯う言つた譯で」
五郎は
「呆れた痛い思ひの
あまりの事に、錢形平次も小言を言ふ張合もありません。
「親分、何處へ行くんです?」
「元鳥越の越前屋を覗いて見るよ」
平次の足は、明神下へ向く前に、お蝶を引受け度いと言つた、越前屋を調べて見る氣になつたのです。
「ところで、道順だから姐さんの樣子を見て行きませうか、今晩は心配して居ることでせう、明神下に殺しがあつたと聽いちや」
「いや、放つて置くが宜い、昨夜、
「でも、姐さんは幸せですね、そんな思ひやりのある亭主を持つて」
「何を言やがる、邪魔だから追つ拂つただけのことぢやないか」
話し乍ら、二人は越前屋の
主人周左衞門は五十を遙かに越した筈なのに、内儀のお千は後添で二十四五、若くも美しくもあるが、ひどくピリ/\した神經の持主で、平次もさすがに扱ひ兼ねます。
「飛んだことでしたねえ、お蝶さんとやらが殺された相で、||主人の姪だなんて、ありや大嘘ですよ、姪なんかあつたかも知れませんが、それが今頃になつて見付かるわけはありません、耳の下の赤い
この女は
「お内儀さん、お蝶へやつたあの手紙は、お内儀さんの手でせうな」
「えツ」
「隱しちやいけない、お蝶を脅かした手紙は、亂暴な字ではあつたが、間違ひもなく女の
「||」
平次のカンは見事に當つたやうです。夫周左衞門の色好みを持て餘して、ひどいヒステリーになつて居る内儀は、兩國の人氣者だつた、若くて美しいお蝶を近寄らせない爲に、それ位のことはする筈です。
平次は宜い加減にして越前屋の奧から出ると、店に居る番頭小僧達に、一應當つて見ました。昨夜は誰も外に出たものが無く、大家の内儀が、人知れず宵に脱出すといふことも、當時の町家の風俗としては、想像も出來ないことです。
明神下へ歸つた平次は、朝のうちに戻つて來て、心配して待つて居る女房のお靜に迎へられ、それからぐつすり一と寢入りすると、明るいうちに一風呂浴びて、疲れ休めに一本つけさせました。
お蝶殺しの下手人のことが、一向眼鼻のつかないのが氣になりますが、物には潮時があつて、此方で騷いだところで、何んにもならないことは平次もよく知つて居ります。
暫らくすると、八五郎がやつて來ました。
「親分、寢起きの良い顏をして居ますね」
「いや、機嫌の良いのは
「まだ薄明りですが、それでも路地の外にはもう、
「その夜鷹蕎麥で思ひ出したが、昨夜はひどく暗かつたね」
「眞つ暗でしたよ、窓から顏を出した五郎助を追つかけた時、どうしても見付からなかつたでせう」
「ところで、その蕎麥屋に逢つて話して見たいことがあるよ」
平次はすぐ仕度を始めました。クル/\と着換へして、十手を腰に打つ込むと、氣輕に外へ。
「へエ、今晩は、お出かけですか、親分」
蕎麥屋の
「妙なことを訊くがね、
「大變なことでしたね、よく知つて居ますよ」
「あの殺された娘が路地を入つたのは、
「
「その後から入つた者は無いか」
「あの騷ぎが始まる一刻ばかり、路地から出た者はありますが、入つた者はありません」
「出た者?」
「お蝶さんより一と足先に路地へ入つた女の人が、お蝶さんが入ると直ぐ出たやうです」
「どんな人相だつた」
「屋臺の灯は暖簾越しで、腰から上は見えませんよ、でも、足の方はよく見えました。素足に女らしくない
「外には氣のついたことは無いのか」
「女の癖に、足だけ見るとひどい外輪でしたよ」
「有難う、お蔭で良いことがわかつたよ」
平次は八五郎に眼配せして、蕎麥屋の
「親分、下手人は、越前屋のお内儀ぢやありませんか」
「いや、越前屋のお内儀は、宵のうちは外へ脱出せないし、どんなに暗い晩でも、お蝶に油斷させて、後ろへ廻つて
「へエ?」
「若い娘が、一人で眞つ暗な路地の中を歩いて居るんだ、人の氣はひがすると避けて通るし、知つてる者か親しいもので無きや、自分の後ろへ廻らせはしないよ。あの傷は後ろから
「成程ね、||すると下手人は?」
「血の着いた、女の浴衣||それを搜すんだ」
「何處にそんなものがあるんでせう」
「||」
默つたまゝ、平次は左衞門河岸の半九郎の家へ入ると、迷惑相な半九郎夫婦に、
「濟まねえが、少しばかり物を搜さしてくれ」
「へエ、へエ」
不承々々の半九郎に案内させて、主人半九郎、女房お竹の身の廻りの荷物を、恐ろしく丁寧に調べ始めました。
押入へ突つ込んだまゝの女房のお竹の浴衣に、少ばかり血が附いて居りましたが、それを指摘した八五郎に、平次は
「そいつは、昨夜お蝶の死骸に觸つた時附いたのだよ、血が少し固まつたとき附いて居るし、血と一緒に泥が着いて居るぢやないか||第一その浴衣は、派手な柄ぢやない」
「成程ね」
さう言はれると一言もありません。
隣の長屋に、五郎助と貫六を訪ね、その貧しい着物を徹底的に調べましたが、素より女浴衣などが入つて居る筈もなく、これも徒らに、八五郎をがつかりさせるだけです。
「これぢや仕樣がありませんね、引揚げませうか、親分」
「いや、もう一人居る筈だ」
半九郎の家へ取つて返して、お輝の荷物を調べましたが、此處にも血の着いたものなどは一つも無く、いよ/\歸らうと言ふ時、念のために引繰り返した、お蝶の
「親分これでせう」
「それだよ、俺が搜したのは」
「お蝶は自分で自分を殺したことになりやしませんか、血のついた浴衣がお蝶の行李から出て來るなんざ||」
「何をつまらねえ、お蝶の浴衣を盜み出して、お蝶の後からつけて行き、それを追ひ拔いて、明神下の路地の中へ一足先に入つた曲者が、お蝶を殺した後で、その血の着いた浴衣を、殺されたお蝶の行李の中へ突つ込んで置けば、未來永劫知れつこは無いと思つたことだらう、下手人の淺ましさだ、細工を仕過ぎて
「誰です、それは」
「來い、八」
もう一度裏の長屋へ引返して見ると、中ではドタンバタンの大騷動。
「此野郎、お蝶さんを殺したとは、何んといふことだ、||錢形の親分は、もう手前の細工を見破つたぞ、逃げようつたつて逃がすものか」
太つて力のありさうな五郎助が、痩せて
× × ×
事件落着後、お蝶殺しの繪解きをせがみに來た八五郎に、
「何んにも言ふ事は無いよ、お蝶と仲のよかつた貫六が、お蝶が越前屋の
平次は斯う説明してやるのでした。