「親分の前だが、女
八五郎がまた、親分の平次のところへ、世上の噂を持込んで來ました。江戸八百八町にバラ
「女
平次は相手欲しさうでした。外は空つ風、
神田明神下の平次の家も、この二三日は御用が暇な上
「そんなイヤなところぢやありませんよ、場所は大川端町、あの邊では顏のきいた、
「大層な男だといふが、金儲けはうまい相だな」
「その名取屋三七郎は、名古屋山三ほどの良い男の氣でゐるから大したもので」
「
「ところでその
「妙な
「あんまり綺麗だから、お天氣の良い日はピカ/\して、その照り返しで大川の魚は皆んな逃げる」
「馬鹿なことを言え」
「魚が逃げる位だから、人間の男だつて、利口なのは寄り付かない。名取屋三七郎の[#「名取屋三七郎の」は底本では「名取屋三五郎の」]家の兩隣には、三軒長屋が二た棟あるが、不思議なことに皆んな男世帶だ、||三七郎の妾のお鮒が綺麗なんで、女といふ女は住みつかないんだ相ですよ」
「お前の話は相變らず馬鹿々々しいな」
「まア、聽いて下さいよ、話はこれから面白くなるんで」
「フーム」
「三軒長屋が二つ、その一つは北の方にあつて、
「||」
「南隣の三軒長屋には、馬鹿の猪之助と、漁師の
「恐ろしくケチなお化けだな」
「ところで、この三軒長屋二た棟に住んでゐる、六人の住人のうち、按摩夫婦の二人の外は、皆んな名取屋三七郎の妾のお鮒に夢中なんだから面白いぢやありませんか」
「そんな話は、ちつとも面白くは無いよ、馬鹿々々しい」
「錢形の親分に面白がらせようなんて、そんな
「そんなのが四人も五人も大川端に集まるんだから江戸は廣いなア」
「先づ第一番に
「寒からう||話の樣子では」
「三軒長屋
「風邪を引かねえのか」
「馬鹿は風邪を引きませんよ」
「道理で」
「感心しちやいけません、あつしも心を入れ替へて、精々風邪でも引かうかと思つてゐるところで」
「恐ろしく氣が廻るな」
平次も苦笑ひしました。馬のやうに丈夫な八五郎は、二日醉をやる位が精々で、附き合ひで風邪などを引く柄ではありません。
「尤も、お鮒がチヨイチヨイ氣を引くからいけないんで、||飼ひ鶯を
「||」
「白痴の猪之助は、
「この寒空に」
「雨や雪の日は、小鳥を家の中へ取込みますが、猪之助にはそのけじめがわからねえ、小鳥は縁側に居なくたつて、自分が物干から眺めてゐさへすれば、念力でもつて、お鮒が顏を出すに違ひない||と、
「哀れだな」
「良い女は罪が深いね、お寺の油を三合盜まなくたつて、あれぢや來世はろくなことがねえ」
「三世相見たいな事を言ふな、||話はそれつきりか」
「これから面白くなるんで」
「厄介だな、早くサワリどころをブチまけなよ」
平次も少し乘氣になりました、八五郎の話の馬鹿々々しさが、妙に人をひき付けます。
「さて二人目は、同じ三軒長屋の大川寄に住んでゐる、
「生れたては、誰だつて獨り者だよ」
「その男やもめも五十二年續くと
「言ふことが調子外れだな、お前だつて三十まで獨り者だ、まご/\すると劫を經るぜ」
「あつしのことはいづれ相談に來ますがね||大川端三軒長屋の申松と來ちや、網仲間に言はせると、
「それを三七郎は默つて貰つてゐるのか」
人から物を貰ふことの嫌ひな平次は、フト氣になりました。
「三七郎は子分共や町内の衆の、出入事の度に物を貰ひつけてゐるから、申松爺さん精一杯のお使ひ物も
「||」
「申松爺さんそれとは知らないから、念佛を
「氣の毒だな」
「ね、親分でもさう思ふでせう。申松爺さん三度に一度はお鮒の顏を見て、せめて『有難う』とか何んとか、親切な言葉でも掛けて貰はうかと、何十遍、何百遍となく足を運ぶが、お勝手口で受取るのは、三度が三度下女のお富で、お鮒は容易のことでは姿を見せない、申松爺さんしよんぼりお勝手口に立つて暫らくは泣き出しさうな顏をして居るさうですよ」
「||」
「大川端から八丁堀は近いでせう、||その話を聽いた時、他の用事で八丁堀に廻り、組屋敷で笹野の旦那(與力筆頭笹野新三郎)にお目にかゝつて申上げると、そいつは、謠ひの『綾の鼓』そつくりだと仰しやるんです」
「フーム」
市井の物識りも『綾の鼓』は知らない樣子です。
「昔々の大昔、筑前の國の皇居の庭掃き爺さんが、尊い
「||」
「老人は、精魂限り鼓を打つた、が少しも鳴らない、鼓を張つたのは皮ではなく綾だ、いくら叩いたつて鳴る筈は無い、老人は夜となく晝となく、鼓を打つて打つて、打ち續けたが、可哀想にたうとう鳴らない鼓を
八五郎はすつかり感に堪へます。
「ところで、お鮒に惚れ手はまだ二三人あつたぢやないか」
「ありますよ、浪人波多野虎記に、やくざの勇吉」
「それも綾の鼓の口か」
「二人は大丈夫で、お鮒の方から口説かせる氣でゐますよ、
「三七郎がそれを默つて居るのが不思議ぢやないか」
「面白がつて居ますよ、多勢の者が騷ぐほど嬉しいやうで、手飼の猫の子が、うんと鼠を捕るのをけしかけて居るやうなもので」
「厄介な好みだな」
「でも、あの樣子ぢや、一度はきつと大變な騷ぎをおつ始めますね」
八五郎は年寄臭いことを言ふのです。
この大變な騷ぎが、思ひの外早くやつて來ました。
「親分、たうとうやつて來ましたよ」
八五郎がいやに落着いてその報告を持つて來たのは、二月も殘り少くなつて、すつかり春めかしくなつた或日の朝でした。
「いやに落着いてるぢやないか、いつもの大變をけしかけねえのか」
「此間お話した、大川端の女日照りの國の騷ぎだから、驚く張合もありませんや」
「?」
「斯うなるのは、わかりきつて居たんだ、きりやう自慢で、男をおもちやにした女が、無事に年を取つた日にや、世の中が面白過ぎて、
「お前の言ふことは薩張りわからねえよ、阿彌陀樣がどうしたんだ」
「あの綾の鼓のお鮒が、やられたんですよ」
「お鮒||名取屋三七郎の妾だね」
「それも、罰の當つた話で、鹿か兎のやうに鐵砲で撃たれて」
「鐵砲||冗談ぢや無い、御府内で鐵砲を撃つた奴があるのか」
「間違ひもなく鐵砲傷ですよ、胸を撃ち拔かれて、グウとも言はずに死んだやうで」
「行つて見よう、江戸の眞ん中で、鐵砲の人殺しがあつちや、あとがうるさい」
平次は手早く仕度をすると、腹の減つてゐるらしい八五郎を
名取屋へ着いた時は、
「この中で一人でも
八五郎は人波を掻きわけ乍ら、
後に殘るのは、名取屋の者と、近所の衆だけ、これは逃げるにも逃げられず、成行を天に任せたやうな顏で、マジマジと平次の一行を迎へます。
「錢形の親分、飛んだことでお手數をかけますが||」
三七郎は四十七八、ちよいと良い男で、ボスらしい尊大さと、それを巧みに押し隱す愛嬌との持主でした。
「お氣の毒だつたね、兎も角も一應調べなきや」
「さあ/\どうぞ」
三七郎が自分で先に立つて案内して行きます。よく磨き拔かれた格子造りの二階家、その二階の南側、障子を閉めきつた中の六疊で、お鮒は何處からともなく飛んで來た鐵砲の玉に撃たれて死んだといふのです。
騷ぎは昨夜の宵のうちで、部屋の血も一應は清めてありますが、何も彼もまだ其儘で、お鮒の死骸は、部屋の隅に寢かしたまゝ、その枕元の供へ物も、まだ
部屋は、家相應に木口も立派、飾りもケバ/\しいほど||下品乍ら||整つて居りますが、障子の下から三分の一ほどのところに、ポツリと一つ、穴のあいてるのが氣になります。
「これは、本當は女房の部屋で、お鮒は不斷下に居るのだが、昨夜何んかの都合で二階へやつて來たところをやられたものでせう。||私はまだ下で女房と話をし乍ら、一杯やつて居ましたよ、||丁度
三七郎はゴクリと固唾を呑むのです。
「鐵砲の音は二度聞いたに間違ひあるまいな」
平次は疑ひを挾みました。
「それは間違ひない、女房もさう言つて居る、確かに恐ろしい音を續け樣では無かつたが、少し間を置いて二度聞いたと||」
三七郎が振り返ると、お酎の死骸の裾の方に居る四十二三の中年女は、愼ましくうなづきます。地味な小紋、武家の内儀のやうな上品さ、これが大川端の顏役、名取屋の三七郎の女房とは、どうしても受取れない端正さでした。
「この障子の穴は?」
「外から鐵砲の玉が飛込んだ穴でせう」
「小し低いやうだが」
平次は立つて障子の穴をしらべましたが、並の女の人の胸の高さよりは、どうしても五寸は低いやうです。
「怨みを含む者の仕業でせうが、私には一向思ひ當りません、こんな稼業はして居るが、あつしは敵を
三七郎は心得難い顏でした。
「でも、お鮒さんは、隨分近所の男から騷がれてゐたといふことだが||」
平次はチクリとやつてのけました。
「そんなこともあつたでせうが、近所の衆と言へば、少し足りないのと、年寄と、||そんな人達ばかりですから」
三七郎は、
その六疊の後ろは廊下で左に店へ通ふ
もう一度部屋へ引返した平次は、今度は南側の縁から眺めて見ました。春の陽に
「親分」
何處からか、ヒヨツクリ出て來たのは、八五郎の
「何んだ、八、暫らく見えなかつたぢやないか」
「家中の者に當つて、それから北側の三軒長屋を廻つて來ましたよ、南側の三軒長屋は、こいつは鐵砲の玉の飛んで來た方角だから、親分に任せた方が宜いと思つてね」
「恐ろしく義理堅いんだな」
「こんな事を聽き込みましたよ、此家に居る子分の銀三といふ男は、昨夜御新さんが殺された時、||鐵砲は二つ鳴つたといふ人もあるが、俺は一つしか鳴らないと思ふ||とね、そんな事があるでせうか、これが山か何んかなら、一つ鳴つたのを、
「川にだつて
「それから下女のお富にも逢つて見ましたが、この女はお妾が殺されて
「その下女は、何んと言つてるんだ」
「鐵砲の音は、たしかに二度聞いたに違ひ無い||と、それも最初のは小さくて、二度目の方が大きかつた。お勝手で聞いたから間違ひは無い||といふんで」
「銀三は?」
「店で聽いたんだ相で」
「外には」
「三軒の長屋は、按摩夫婦は二つだといふし、浪人は晩酌で少し醉つてゐたが、三つ聞いたやうな氣がするといふから面白いぢやありませんか、小博奕打の勇吉は昨日から家に居なかつた相で」
「面白くなつて來さうだな、オや、これは何んだ」
平次は床柱の根||
「子供の惡戯にしちや念が入り過ぎますね、||それにもう一つ、北側の唐紙に、少し血が
「苦しくなつて
「それにしても人の胸位の高さですね、クルリと振り返つて、立ち身のまゝもがいたことになりますが」
家の中を一とわたり見盡して、庭に出た平次は、直ぐ子分の銀三の、忙しく立ち働いてゐるのをつかまへて、
「銀三
「へエ、あつしのことで、親分」
それは三十前後の、キリヽとした男でした。あまり良い男とは言へないまでも、色が淺黒くて、小柄で、眼が大きくて、
「この家に長く居るのか」
「ほんの半歳位で」
「お鮒さんをどう思ふ」
「親分の思ひものだが、全く良い女でしたよ、あれが手一杯に働けるところに居ると、一生のうちに良い
親分の妾にして置くのは勿體ないと言つた
「ところで、昨夜鐵砲の音を二つ聞いたといふ者と、一つしか聞かないといふ者と、三つも聞いたといふ者と三通りあるが、一體どれが本當なんだ」
「親分がさう言ふから、皆んな物眞似をして居るだけで、本當のところは一つですよ、嘘だと思ふなら内儀さんを物蔭に呼んで、そつと訊いて御覽なさい」
子分の銀三は思ひも寄らぬことを言ふのです。
下女のお富は、八五郎が言つたやうに、もう少し若かつたらと思ふ中年女ですが、これは、問ひ詰められると、
「鐵砲の音は一つだつたかも知れません、何分私はお仕舞で忙しかつたので」
とアヤフヤに逃げるのでした。お鮒の身持のことを訊くと、
「死んだから言ふわけぢやありませんが、あの女が六十七十まで生きて居ちや、世の中に神佛を信心する者がなくなりますよ、お隣の猪之助さんや申松さんは、本當に氣の毒なやうで、||男つてどうして、あんな浮氣つぽい女が好きなんでせう」
などと、堅實な自分を辯護するのでした。
その間に平次は八五郎をやつて、そつと内儀のお縫を物蔭に誘ひ出させ、氣の置けない調子で訊かせると、
「鐵砲は矢張り一つしか鳴りません。
とまことに消えも入り度い
平次はそれから眞つ直ぐに、南側の三軒長屋に廻つたことは言ふ迄もありません。
「猪之、||どうした? 何をぼんやりして居るんだ」
いきなり入つて行つた八五郎は、その背中を一つ喰はせました。
「あ、吃驚するぢや無いか、いきなり人の家へ入つて來て」
「惡かつたな、勘辨しねえ、||お隣のお鮒さんが死んだといふに、猪之兄哥がさうして居ちや、濟むまいぜ」
「それは、本當でせうか。親分、お鮒さんは、殺される筈は無いと思ふんだが」
「何を言ふんだ、||お隣だもの、お
「そんな事が出來るでせうか、親分」
八五郎に激勵されると、本當にそんな氣になつたものか、猪之助はフラフラと立上がりました。名取屋へ乘込んで行つて一と眼お鮒の死に顏に逢つて來る氣になつたのでせう。
立ち上がると、肩も膝も拔けたツンツルテンの裾、風邪は引かないかも知れませんが、こんなのを着てゐちや、腹が冷えて叶はないだらうと思はれるのです。
人別では二十九になつて居る相ですが、知識年齡のせゐか、顏もせい/″\二十二三にしか見えず、少々
其處を宜い加減にして出かけようとすると、土間の隅で、平次は異樣なものを見付けました。
「八、こいつは何んだと思ふ」
二寸ほどの、やゝ平べつたい
眞ん中の眞圓の凹みに通ふために、一隅に細い道が付いて居り、何が何やら平次には少しもわかりません。
お隣の空家を置いて、その次は大川に臨んだ漁師
「爺さん、どうしたえ」
八五郎は上り框から大きな聲を掛けました。
「あ、親分さん、||名取屋の御新さんは到頭殺されてしまひましたよ」
振り仰いだ申松の顏は濡れて居りました。
「それを誰から聽いたんだ」
「昨夜のうちに、お富さんが教へてくれました。||宵に二つ續けて鳴つた鐵砲が變だと思つて居りましたが」
「たしかに二つ續けて鳴つたのかえ」
「間違ひはありません、それに音がすると、プーンと
「
「男は皆んなあの人に夢中でしたよ、御新さんを怨んでる者は、町内の女達ばかりで」
申松の答は奇拔でしたが、五十二歳の申松が氣狂ひのやうにされてゐたのですから、町内の男が皆んな
「一軒置いて隣の猪之助も、お鮒に夢中だつた一人かえ」
「あの男が一番夢中でしたよ、仕事もろくに手につかない樣子で、朝から夕方まで、空家の物干に登つてお隣の
「毎日見とれて居ることを、お鮒の方でも知つて居たのか」
「知らない筈はありません、||それどころか、見られるのを面白がつて、時々はからかひ面でニツコリ笑つて見せたり、三七親分にふざけるところを見せたり、隨分殺生をしたやうで」
申松はそれを以ての外の事にして言ふのです、赤銅色に陽に焦けた顏は、眞つ赤に興奮して、
狂信者が偶像
「でも、あの猪之助といふ男は、少し足りないんぢやないのか」
「飛んでもない、世間ではあの男のことを馬鹿のやうに言ひますが、仕事が嫌ひで、調子が少しあまいだけで、あれは決して馬鹿ぢやありませんよ、現に何んか細工物でもさせると、五日でも十日でも同じ仕事に喰ひついて、ろくに飯も食はうとしません、||私はあんな一生懸命な人間ほど恐ろしいものは無いと思ひます、一
申松は舌を振るつて述べ立てるのでした。恐らく猪之助は、今の所謂
「外に、お鮒に夢中だつた者は」
「波多野虎記樣も、やくざの勇吉も氣はないことは無いでせうが、鐵砲で殺すほどは怨んでるわけはありません」
「子分の銀三は」
「氣の良い男で、||内々は何んと思つて居るか知れませんが、御新造さんの言ふことはどんな無理でも聽いて居る樣子です」
「
平次は最後の問を出しました。
「よく出來た方です、||家柄も育ちも立派な人だ相で、持參金もしつかりあり、好きで三七郎親分と一緒になつたといふことですが、今では三七郎親分は顏もよくなり、金も出來て、隨分道樂もするやうですが、あの内儀さんには、一目も二目も置いて居るといふことです。もう四十を越して、皺が目立つ年になりましたが、若い時は隨分綺麗だつたと、昔のことを知つてゐる人は申して居ります」
申松の話はかなりよく行屆きます。猪之助のことをいろ/\言つてゐる癖に、申松も名取屋のことは念入に觀察して居るので、奉公人達とは又違つた、細かい事を知つて居るのでせう。
外へ出ると、あわて者の八五郎は、入口までかけて干してゐる、
「おや、大きなイルカが捕れたぜ」
平次はからかひ乍ら、八五郎の
「おや、
平次は投網の裾をあげて、おもりの鉛の不足したのを勘定して居ります。
「へエ、困つたことで、||それは水の底で取れたんぢやなくて、人に盜まれたものですよ、子供達がベイ
申松はブリ/\言つて居りますが、この鉛の
「この長屋中に、鐵砲か煙硝のことを知つて居る者は無いのか」
「漁や網のことなら、私もよく知つて居りますが||」
「鐵砲鍛冶とか、花火屋とか」
「ありましたよ、親分さん、||死んだ御新造(お鮒)さんですがね、元は二本差ぢやないが、さるお大名の鐵砲足輕で、お
「有難う、いろ/\面白い話を聽いたよ、||ところで
「五十二ですよ、私は、親分さん」
「五十二だつて六十二だつて宜いぢやないか、||その氣なら、良いのを搜してやるぜ」
平次の言葉は決して冷かしとは聞えませんでした。五十二になる童貞は、二十二になる若い男よりも、
北側の三軒長屋に、按摩夫婦と、浪人波多野虎記と、やくざの勇吉の家を訪ねましたが、これは名取屋の北窓と相對してゐるので、思ひの外人と人との交渉が少く、按摩夫婦がお鮒のことを決して良く言はなかつたこと、波多野虎記が、
「何時かは殺される女さ。あのお鮒といふのは隨分綺麗ではあつたが、腹の底に毒があつて、氣の許せない女であつたよ。私も變な氣を起したこともあるが、人の妾ぢやどうもならない、諦らめてよかつたよ」
斯んなことをヌケ/\と言ふ中年者の浪人です。
やくざの勇吉は、自分の家に居ないことの方が多く、現に昨日も友達多勢と川崎へお詣りに行つてまだ歸らず、家も開けつ放しで、その氣樂さが徹底して居ります。
「どうしたものでせう、親分、あつしには見當もつかなくなりましたが||」
八五郎は此邊でもう投げてしまひました。
「段々わかつて來るぢやないか、||もう一度猪之助のところを當つて見よう」
平次はひどく興奮して居ります、ゴールが近くなつた證據でせう。
白痴の猪之助は、もう晝も近いといふのに、雨戸を閉めて寢て居りました。
「おい、起きろ/\」
八五郎が叩くと、
「へエ、今開けますが」
ノソリと起きた猪之助を、
「サア、此野郎、皆んなわかつてしまつたぞ、白状しろ、お鮒を鐵砲で撃ち殺したのはお前だらう||
平次は飛付いて、その胸倉を掴みました。
「あ、違ふ、私ぢや無い」
「何を言やがる、お前の外に、隣の空家の物干から、鐵砲を打ち込むものがあるものか」
「あ、痛い」
「八、
「へエ、あの家なら、煙草三服の間に天井裏まで搜して見せますよ」
八五郎は飛んで行きましたが、間もなく
「どうした、八」
「押入の中に、こんなものがありましたよ、花火筒の孫見てえなのが」
八五郎が持つて來たのは、長さ二尺、太さ親指ほどの、節を拔いた竹で、その上を嚴重に紙を卷いて糊附けにし、更に太い凧糸ほどの紐で、念入に捲き込んだ品だつたのです。
鼻の先へ持つてくると、プーンと
「こいつは鐵砲ぢやないか、八」
「そんなもので人が殺せますかね、親分」
「殺せるとも、||眞田幸村は張拔き筒で、大阪城の天守閣をフツ飛ばしたといふぢやないか、煙硝が少くて、的が近いものなら、これでも結構役に立つぜ」
後年大鹽平八郎は、同じ紙製の張拔き筒で大阪に反亂を起し、維新當時は木製の大砲で、官賊兩軍が戰つた例もあります。
空家で見付けた竹製の鐵砲は、思ひの外
「サア、こんなものを何處から出した、誰が拵へた」
平次が締め上げると、猪之物はわけも無く白状してしまひます。
「言ふよ、言ひますよ、||俺が
「嘘をつきやがれ、お前の手際でこれが出來るものか」
「お鮒さんが、教へてくれたんだ、||急所々々は手傳つてくれたんだ」
「何? お鮒が?」
平次もそれは餘りにも豫想外でした。
「あの人は鐵砲足輕の娘で、こんなことをよく知つて居たんだ、||煙硝だつて、あの人に教はつて、俺がこさへたんだぜ」
鐵砲足輕の娘が、見やう見眞似で、竹の鐵砲も作り、
「お鮒はお前に
「空家の物干から見ると、二階の障子に、女の影が映つたんだ、||それがお鮒さんと知らないから、
猪之助は手放しで泣くのです。
「するとお前は、内儀さんのお縫を撃つ積りだつたのか」
「うん」
「||」
平次も斯んなに驚いたことはありません、お鮒は本妻のお縫を殺して、その
「でも、障子は締めきつてあつた筈だ、どうして狙ひを定めたのだ」
平次には、それが殘る一つの不思議です。
「影法師を狙つたよ、胸のあたりを、間違へなかつた筈だ」
この
「親分、不思議ですね、影法師を狙つて人が殺せるものでせうか」
八五郎はフトこの男の推理の缺點に氣がつきました。
「その通りさ、影法師を狙つて、玉が當るわけは無い、お鮒を殺した者は他にあるに違えねえ。その男を誰かに任せて、もう一度やり直しだ」
丁度やつて來た下つ引に猪之助を任せて、平次と八五郎はもう一度名取屋に取つて返しました。
「すると北側の三軒長屋の者でせうか」
と八五郎。
「イヤ、北側の長屋からは、名取屋の南側二階に居る者は撃てないよ」
「すると、名取屋の家の者?」
「主人三七郎と、
「すると?」
「もう一人の奴だ、||お鮒が猪之助に、竹で鐵砲を拵へることゝ、
「鐵砲の音は二つ聽えたわけ」
「その通りだ」
「その野郎は、死んだお鮒を部屋の眞ん中へ運び入れた。||猪之助が撃つた鐵砲玉は、勢が弱いから、ヒヨロヒヨロと床の間の
「その下手人は誰です」
八五郎は意氣込みました、もうわかりきつて居るやうな氣がします。
「鐵砲の音を一つしか聞かないと言つた人間だ」
「内儀のお縫?」
「あれは、下手人を
「すると、あの野郎?」
「さうだ、店に一人で居た、子分の銀三だよ」
八五郎はそれを聞くと、名取屋に飛込んでしまひました。激しい爭ひは瞬時にして了つて、八五郎の手にこの下手人は捉まつてしまつたのです。
× × ×
相變らず、八五郎のために、平次は斯う話してやりました。下手人の銀三は處刑され、
「お鮒は銀三を一度は
「猪之助の家の土間で拾つた、土で拵へた
「鐵砲の玉を
「鉛は何處で手に入れたんでせう?」
「申松の投網のおもりを盜つたのさ、||
「銀三の拵へた鐵砲は?」
「大川が鼻の先を流れてゐるよ」
「成程ね」
「だが、惡いのはお鮒さ、綺麗であつたことだらうが、きりやう自慢が昂じて、本妻の命を狙つたのは大變なことだ」
「可哀想なのは申松で」
「綾の
平次は面白さうに笑ふのでした。