「八、花は散り際つて言ふが、人出の少くなつた向島を、花吹雪を浴びて歩くのも惡くねえな」
錢形平次は如何にも好い心持さうでした。
「惡いとは言ひませんがね、親分」
「何だ、文句があるのかえ」
「斯う、金龍山の鐘が
「
「へツ、へツ、眞つ直ぐに申上げると、腹が減つたんで」
ガラツ八の八五郎は、長い顎を撫でました。
「もう食ふ話か、
「それが解らないから不思議で、||何しろ竹屋の渡しから
「泣くなよ八、風流氣のない野郎だ」
錢形の平次と子分の八五郎は、こんな無駄を言ひ乍ら、向島の土手を歩いて居りました。
晝のうちは、落花を惜む人の群で、相當以上に賑ひますが、日が暮れると、グツと
丁度牛の御前のあたりへ來た時。
バタバタと後から足音がして、除け損ねた八五郎の身體へドンと突き當りました。
「危ねえ、後から突き當る奴もねえものだ。何をあわてるんだ」
「御免下さいまし」
振り返つたガラツ八の袖の下を
「どつこい、待ちねえ。
後ろから伸びた八五郎の手は、その帶際を
「急ぐ者で御座います。お許しを願ひます」
女は花見
「懷中物の無事な顏を見ないうちは、うつかり勘辨するものか」
八五郎は遊んで居る片手を働かせて、内懷から腹掛の丼から、
「八、何てえ事をするんだ。見れば御武家方に御奉公して居る御女中のやうだ。無禮があつてはなるまい」
平次は見兼ねて肩を叩きました。
「へエ、巾着切ぢやありませんかえ。花時の向島土手で、不意に後ろから突當るのは、巾着切と決つたやうなものだが」
ガラツ八は漸く手を放します。
「飛んでもねえ野郎だ。||お女中、勘辨してやつて下さい。こんな解らねえ野郎でも、役目があるもんだから」
「ハイ、イエ」
女はひどく恐縮して、二人へ
「お急ぎのやうだ、構はず行きなさるが宜い。まだ花見の往來があるから、物騷なことはあるまい」
「有難う存じます。船がツイ竹屋の渡の手前に待つて居りますから」
「それぢや、ほんの一と丁場だ、||送つて上げるのも
平次は月明りのまだよく屆かない橋の下陰を透し乍ら、行屆いた注意を與へて居ります。
「錢形平次親分といふ
「餘計な事を言ふな、馬鹿野郎」
「へエ」
ガラツ八の
土手の人足は至つて疎らですが、
「何か間違があつたらしいな」
平次は
「行つて見ませうか、親分」
ガラツ八の職業意識は燃え上りました。
「放つて置くが宜い、武家の
平次は其儘そつぽを向いて通り過ぎます。
丁度その時、堤の下の屋根船には、大變な騷ぎが起つて居りました。
駒形に屋敷を持つて居る、旗本大村
日が暮れる前、召使といふ名義になつて居る愛妾のお町は、長命寺境内に叔母が居るから、一寸挨拶だけでもして來たいと言ひ出し、相當むづかる主人の大村兵庫をなだめて船から上り、お燗番の三吉は、用意の酒を醉つ拂ひの幇間にこぼされたので、口を開けたばかりの
しばらく濃くなる夕闇||それも存分に
大村兵庫、此上もなく滿足でした。喰らひ肥つた三十二歳の巨體を、傍若無人に藝妓の膝に
「ホーツ」
と息を繼ぎます。
「殿樣、
幇間が中腰になつて、泳ぐやうな手付をするのでした。
「武士に向つて卑怯、||とは聞捨にならんぞ。卑怯や
「もう、追つ付け戻りませう」
用人の村川菊内は少し苦々しいのを我慢して、精一杯
「大分手間取るやうだな。ところで、月はまだ出ぬか、眞暗では花見も一向興がない」
「土手の上は月が射して居ります。今出たばかしで御座いませう」
勝造は
その時、
「あツ」
主人の大村兵庫、いきなり杯を投げ出して俯向いたのです。
「何うなさいました、殿樣」
藝妓、
船の中は煮えくり返る樣な騷ぎですが、誰も何うする事も出來ません。その中で一番落着いて居るのは、眼を射られた本人の大村兵庫でした。さすがは三千五百石を
「此邊に外科はないか」
それでも村川菊内、一番先に醫者の事に氣が付きました。
「向島の土手ぢや醫者がありません。本所へ行かなきア」
これは勝造です。
「本所へ行く位なら、向う岸へ引返した方が宜からう。少しでも御屋敷へ近く行きたい」
村川菊内の言葉は尤もでした。二人の船頭はそれを聞くと、堤の下の
「あ、待つて下さい」
愛妾お町はこの時、昇つたばかりの月を背に受けて、
「早く、お町さん、||殿樣がお怪我をなすつた」
「えツ」
勝造の言葉は、お町に取つて恐ろしい
「どうなすつた。お町さん」
「本當にお怪我? 人にどうかされたのではない? 勝造さん」
「楊弓で眼を射られなすつたのさ。さア、船を出すぞ」
酒を取りに駒形へ歸つた三吉を待つては居られません。其儘船を漕ぎ出して中流へ五六間とも行かないうちに||。
「おーい、其船待つてくれ」
淺草の方から小舟でやつて來た三吉。摺れ違ひ樣、川の中で
「三吉か、||もう酒は要らねえよ」
と勝造。
「どうしたんだ。勝
三吉は三升樽をブラ下げて、
翌日用人の村川菊内、神田の平次を訪ねました。
「ざつと斯う言ふわけだ。
折入つての頼みです。四十そこ/\、まだ用人摺れのする年ではありませんが、主人大村兵庫の
「御氣の毒樣ですが、私の手に了へさうも御座いません。そればかしは御勘辨を願ひます、村川樣」
平次は日頃になく尻込みをして居ります。
「それは又、どう言ふわけだ」
「第一、御武家方の
「それも承知だが、役目の表でする仕事ではない。
「||」
「折入つての頼みだが、平次殿」
「まアお手をお上げ下さい。御武家に拜まれちや私は逃出しでもしなきアなりません」
「斯う言つただけでは疑念があるかも知れない||
「へエ||」
「主人が何と仰しやらうと
「へエ||」
平次は後ろに控へたガラツ八と顏を見合せました。
「お町は主人の御寵愛の深い女で、そんな事をする筈はないと思ふが、困つたことに、いろ/\の
「||」
「主人は眼の傷の手當をし乍ら苦痛を忍んでお町の折檻だ||處でそのお町と云ふ女中が神田の錢形平次親分を呼んで下さい。あの方は何も彼も御存じだから、と斯う言ふのだ」
「へエ」
平次は驚きましたが、それよりガラツ八はたまり兼ねて、平次の後ろから袖を引いて居ります。昨夜向島の堤でガラツ八に突當つたのは、そのお町と言ふ女でせう。
「旦那、よく解りました。いかにもお邸へ參りませう」
「えつ、乘出してくれる、||それは有難い」
「ついてはいろ/\
「何なと訊くが宜い」
村川菊内、すつかり喜んで了ひました。
「第一に、殿樣に奧方はおありでせうな」
「お
「お里方は?」
「西久保町の矢吹樣、以前は
「御當主は?」
「御家族と申しては御舍弟
矢吹家が微祿して居ることは、言外の意味でよく解ります。
「殿樣を怨む者のお心當りは御座いませんか」
「無いとは申されぬが、さて、差當り思ひ出さぬが||」
これではなか/\埒があきません。
駒形の大村邸に行つた平次とガラツ八は、大變な
通されたのは女中部屋の隣の大納戸。
若い女が一人、
側に立つて居るのは主人の大村兵庫。半面を白布で卷いて、弓の折を杖に、苦痛と憤怒に、火のやうな息を吐いて居ります。
「神田の平次を召連れて參りました」
村川菊内が聲を掛けると、
「お、平次と言ふか、御苦勞であつた。||飛んだ目に逢つてのう、||醫者は動いてはならぬと言ふが、一
兵庫は顏を擧げて苦笑ひしましたが、左の眼の痛みに引釣つて、脂切つた顏は、見る影もなく
「證據があるやうに承りましたが」
平次は恐る/\顏を擧げました。
「澤山ある、||第一に余が楊弓で眼を射られた時、此女は船に居なかつた。大騷ぎの最中に
「それは」
平次は口を容れようとしましたが、兵庫はそれに構はず續けます。
「いや、まだある。この女は船へ歸ると、余の傷よりも、
「殿樣」
「一年越し世話をした女だ、
大村兵庫はこみ上げて來る激怒に、前後を忘れて弓の
「殿樣、暫く御待ち下さいまし」
「いや放つて置け」
弓の折は大納戸の淀んだ風を切つてピシリ、お町の
「あツ、ツ」
身體をねぢ曲げて、齒を喰ひしばる女の
「言へツ、女、言はぬか」
兵庫は續け樣に弓の折を振り冠るのでした。
埃臭く、
「殿樣、それは大變なお間違ひで御座います。そのお町さんとか言ふ方は、昨夜月の出る頃から、船の中で騷ぎが始まる迄、私と一緒に
平次はさう言ひ乍ら、激情に驅られるやうに、兵庫と女の間に割つて入りました。
「それもこの女の口から聞いたよ。平次、一つは、その言葉が本當か嘘か、たしかめる爲に、お前を呼んだやうなものだ」
「||」
「だがな、平次。楊弓を射たのは此女ではない、此女の兄と言つて、時々邸へも出入りした男が怪しいのだ。淺五郎と言ふ遊び人だ。兄と言ふのは、どうせ
「||」
殿樣は妙に下情に通じて居ります。
「その淺五郎が、昨日向島の土手の上をウロウロして居るのを見た者があるのだ」
「
平次はツイ釣られるともなく口を容れました。
「
「えツ」
「奧の
「それにしても殿樣、
「一應尤もだが、平次、まぐれ當りと言ふ事がある」
「へエ」
平次も弱りました。三十そこ/\で、放埒で、我儘で、惡く賢こくて、なまじ
「長命寺境内に叔母が居ると言つたのも、大方嘘であらう。その證據には、折檻されてから寺島新田と言ひ直して居る。恐らく
兵庫は又お町の頭の上へ弓の折を振り上げました。
「殿樣、||私は、何も存じません。||仰しやる通り淺五郎には逢ひましたが、月の出る前に別れて、お船へ歸つて參りました」
お町の言ふのは本當でせうが、兵庫は、
「
少しも責手を
「存じません」
「しぶとい女だ。これでもか」
「あツ、ツ、ツ」
續け樣に四つ五つ。
「菊内、代つて打て。眼に響いて叶はぬ」
大村兵庫は弓の折をポンと放つて奧へ入りました。
この邊で少しばかり楊弓の事を説明して置かなければなりません。
言ふ迄もなくこれは寸法二尺八寸の極めて小さい弓。で、初めは
矢は九寸が極り、羽にはいろ/\の彩色を
室町時代には高貴の方々の遊びであつたのを、江戸時代になつてから、民間の遊戯となり、天保以後は品格が崩れて、美しい矢取女を呼物とする矢場に
明治の矢場はその名殘で、明治十九年の取締で廢絶しましたが、天保以前の矢場、即ち
楊弓の
平次は、この曲者が女や子供ではない。特別な技があるだけに、反つて直ぐ判るだらう||と思つたのは、一應尤もです。
それは兎も角||。
平次はお町の繩を解いて貰つて、一應村川菊内に預け、それから、菊内の引合せで、大村邸内に住んで居るほとんどの人間に逢ひました。
最初に逢つたのは、奧方のお喜佐、||少し淋しい、平凡らしい婦人で、取立てゝ言ふ程の特色はありません。夫兵庫の
次に逢つたのは、その弟で矢吹狷之介、十九歳の大柄な青年ですが、元服はしても部屋住で、西久保巴町の邸に歸つて、やがて家祿を繼ぐ事になつて居る||と村川菊内が説明してくれます。
「親分」
この若い武家の顏を見ると、ガラツ八は驚いて平次の袖を引きました。あの晩、向島の
「平次、お前の腕前は大したものだと言ふな、何分頼むぞ。曲者は間違ひもなくあの淺五郎の奴だ。お町も
狷之介は肩などを怒らし乍ら、こんな事を言ひます。姉の敵と思つて居るのでせう、お町に對してはかなりひどい反感を持つて居さうです。
「その淺五郎を御覽になつたのは、何刻頃でせう?」
と平次。
「
「何か持つて居ましたか」
「さア、其處だよ。
「貴方樣は、殿樣日頃の遊ばされやうについて、どう考へていらつしやいます」
平次は妙な事を訊ねました。
「打明けて言ふと面白くないな、||兄上もあんまりだ」
青年らしい一本氣で、狷之介の顏にはサツと忿怒が一と
平次はそんな事にして、中間の勝造を呼んで貰ひました。三十七八の中間にしては少し年を取つた渡り者で、隨分摺れては居るやうですが、大した惡人とは思はれません。
「楊弓の巧い人間に心當りはないかえ」
平次が心當りに當ると、
「芝の五郎、
それは當時聞えた名人です。
「そんなのぢやない。もう少し若いのでは誰だらう」
「
「少し見當違ひだな」
今井一中は都一中のこと、これも旗本の眼玉とは縁の遠い名前です。
外に女中が三人、小侍が二人、門番が一人。
最後に逢つたのは、
「爺さん、お前はあの騷ぎを知らなかつたんだね」
「土手にはろくな酒がないし、お邸には口を開けたばかりの
三吉親爺はさう言つて首を振りました。年にしては少し老けて居さうで、顏の皺にも、曇つた眼にも、曲つた腰にも、何となく勞苦が刻まれて居るやうです。出は、
平次はそんな事にして引揚げることになりました。
「村川の旦那、隱さずに仰しやつて下さい。殿樣はこれまで隨分罪を作つてお出ででせうね」
これが、菊内の胸倉を掴むやうにして訊ねた最後の問です。
「左樣」
「御女中で、目を掛けられたのは、何人位あるでせう」
質問は具體的です。
「お町が三人目で||」
「その前はどうなりました」
「申上げ
「それが怪しいぢや御座いませんか。村川の旦那、その身内の者はどうして居るんです。名前は?」
平次はせき込みました。
「自害したのはお小夜と言つてな。三年前に死んだ時は十八だつた。兩親には過分のお手當を下すつた筈だ。下谷で安樂に暮して居るよ」
「旦那は御存じで」
「よく知つて居る」
「もう一人の方は」
「おせいと言つて二十だつた。||これはもう十年にもなる」
「不義の相手はどうなりました」
「これも死んだよ。當時三十そこ/\の好い男だつた。又三郎と言ふ遊び人でな、殿樣に追はれて
「女の身寄は?」
「姉夫婦があつた。これも世間の口がうるさいから、多分の御手當で、今以つて繁昌して居る」
平次は少し胸が惡くなりました。こんな
「親分、何うする積りなんで」
それつ切り十日ばかり、ろくに外へ出ようともしない平次を見ると、ガラツ八の方が氣を揉み出しました。
「何うもしねえよ。
「楊弓の下手人は」
「この十年の間、江戸で高名な楊弓の名人を書き上げて貰つて、その道の者に一人々々身元を當らせたが、大村兵庫に怨のあるやうな氣のきかない人間は一人もない」
「淺五郎は?」
「お町の亭主かい、||丁半の心得はあるだらうが、楊弓などに縁があるものか」
「困つたね。親分」
「放つて置くが宜い。俺はお上の御用を勤めて居りや宜いんだ。お町が可哀想だと思つて乘り出したが、||入費は
手の付けやうがありません。錢形平次は全くこんな事を考へて居たのでせう。
その時||。
「親分、||お願ひ」
外から案内も乞はずに轉げ込んだ者があります。
「何でえ。吃驚するぢやないか」
ガラツ八は以ての外の顏を出しました。
「命に
「平次は俺だが、||お前は」
八五郎の後ろから顏を出した平次を見ると、
「有難てえ。これで死んでも浮ばれると言ふものだ。あつしは淺五郎と言ふケチな野郎で||」
「あツ、お町の」
平次もガラツ八も驚きました。まさか、兵庫の眼を楊弓で射たと思はれて居る、淺五郎が飛込んで來ようとは思はなかつたのです。
「へツ、お町の
「そんな事はどうでも宜いが、何だつて此處へ飛込んで來たんだ」
と平次。
「あの
淺五郎は自分の首を平手でピシヤリピシヤリと叩きました。
「||」
「庭先に引据ゑられて、殿樣が一刀を引拔いて後ろへ立つた時には驚きましたよ。なアに、命に絲目をつけるわけぢやねえ。この首が欲しきア、
「||」
「計略を
「何だつて俺のところへ飛込んで來たんだ」
平次はまだ腑に落ちません。
「助けて貰はうてんぢやありません。この淺五郎に繩を附けて、奉行所へ突出して貰ひ度いんで||」
「何だと」
淺五郎は大變な事を言ひ出しました。
「大村兵庫の眼を、楊弓で
淺五郎は全く
「馬鹿な事を言へ。お前にあんな器用なことが出來るものか、あれは楊弓の名人の仕業だ」
平次は相手になりません。
「親分、そんな情ねえ事を言つて貰ひたくねえ。あれは
「そんなに都合よく紛れるものか」
「一生懸命になりや、俺だつて、畜生ツ」
「駄目だよ淺五郎。そんな事で平次は騙せねえ。出直すが宜い」
「よし、それぢや頼まねえ。錢形の、平次のと言ふから、もう少し判る人間かと思や、何でえ」
「歸れ/\」
「縛らなくつてさ。これから南の御奉行所へ驅け込み
「馬鹿な事をしちやならねえ」
平次は驚いて飛出しました。入口で淺五郎を捕まへるのが精一杯。
「放してくれ、親分に用事はねえ」
「それ程まで思ひ詰めたのなら相談に乘つてやらう、先づ入つて坐れ」
「有難てえ。それぢや突出して下さるか、親分、やくざ者が三千五百石の大旗本を
淺五郎は少し有頂天です。
「待て/\、そんな話ぢやねえ。お前を突出す代り、本當の下手人を搜して、あの邸からお町を救ひ出しや、それでよからう||そんな事で手をうつちや何うだ」
「有難てえ。親分、未練なやうだが、お町は泣いて居るぜ、助けてやつておくんなさい。恩に着ますよ親分」
淺五郎は
「俺には段々判つて來て居るんだが、あの家の人間が氣に入らねえのと、とりわけ殿樣の
「親分」
ガラツ八も妙に涙つぽい眼で平次を見上げました。
「平次、どうだ、曲者が判つたか」
大村兵庫はまだ左の眼に
「大方判つたやうな氣がいたします」
「ほう、それはえらいな。||褒美の金に絲目をつけるわけではないが、お町と淺五郎は、此方で
殿樣の
「お町、淺五郎に罪は御座いません」
「はて?」
「他に下手人があつたとしましたら、お町淺五郎の兩名はお許し下さるでせうか」
「許し難いところだが、其方の手柄に免じても宜いのう」
「それでは申上げます」
平次は少し
縁側に坐つて、存分に春の陽を浴びて居りますが、キリヽとして好い男振りが、場所柄も、主人の傲慢さにも壓服される氣色がありません。
平次の後ろには、お町が菊内に護られて、
その後にはガラツ八の八五郎、これは少し場うてがして居りますが、それでも親分の號令が掛れば、直ぐにも飛出しさうです。
「お町はいつぞや申上げた通り、あの時、私と八五郎の側を離れません。淺五郎はお町に逢つたのは
「フム」
平次の話は依然として少しの疑ひを挾む餘地もなかつたのです。
「あの騷ぎの時、
「曲者は邸内の者とどうして相判つた」
大村兵庫決して馬鹿ではありません。
「殿樣の人氣と申しませうか、
「左樣か」
少し御世辭になりましたが、兵庫も惡い心持はしなかつた樣子です。
「それに、船の
「成程」
「すると、
「よく判つた。ところで、あの時刻に所在不明の二人と言ふのは誰と誰だ」
「申上げる前に、三人の女中を除いて、あとの方御一同、これへ御召を願ひます」
平次は大村兵庫の邸にお白洲を開く積りでせう。奧方お喜佐、弟
「これで宜からう。曲者は訟だ、名指して見るが宜い」
大村兵庫は一刀を引寄せます。
恐ろしい緊張が、縁から庭に流れた。男女十數名の顏をサツとかげらせました。
「それを申上げる前に、少しばかり、古いことを思ひ出して頂き度う御座います。今から十年前、格別の御目を掛けられた召使おせいといふ娘、不義の惡名を負はされて御手討になつた事が御座います」
「||」
「
「||」
大村兵庫は痛いところに
「||いや、死んだと思はれて、其實人に助けられ、傷養生をして丈夫になつたので御座います。又三郎は袈裟掛に斬られたに相違ありませんが、
「||」
一座は矢場と聞いてザワザワとなりました。
「それから十年、商賣の楊弓を稽古してしつかり磨き、京に幾人といふ名人になつた又三郎は、名と姿を變へて此御屋敷に入り込み、殿樣に
「誰だ、その曲者は」
大村兵庫はたつた一つの眼を光らせて見廻しました。四十前後と言ふと、村川菊内、中間勝造、それに二人の小侍がありますが、いづれも曲者らしくはありません。
「あの時
「誰だ、それは」
「一人は狷之介樣、||併しこれは又三郎にしては若過ぎます」
「||」
狷之介は默つてうつ向きました。何にかやましい事があつたのでせう。
「奧方の
「それは
兵庫の一つの眼はギラリと光ります。
「尤も、なまじ曲者を捉へ、これが表沙汰になつては、反つて御家の
「フーム」
上げたり下げたりです。
が、兵庫はこれで堪能し、狷之介はすつかり油を絞られた形です。
「ところで曲者は?」
重ねて問ふ兵庫には答へず、平次は庭の方へ向直りました。
「又三郎、背中の
「へエ」
何と言ふ事。
素直な返事をしたのは、五十七八、六十近い老人と見えた、庭掃の三吉だつたのです。
「眞つ平御免ねえ」
パツと肌脱になつて後ろを向くと、頸筋から背中へかけて、斜一文字に、物凄い
「己れツ、不屆な奴」
一刀を提げて大村兵庫は立ち上りました。續いて、村川菊内も、二人の小侍も||。
「御待ち下さい。表沙汰にすると、家名に拘はりますぞ。狷之介樣、殿樣を御留め下さい」
平次と狷之介とガラツ八が一生懸命
「逃がしてはならぬ、それ追へツ」
と兵庫、縁側から庭へ、足袋
「殿樣、それはなりません。あれは一度斬られて死んだ男の幽靈で御座います。
平次は木戸に突つ立つて、兩手を擴げて押し止めました。
「殿、穩便の御沙汰を願ひます」
「邸外への聞えも如何、
村川菊内外一同、寄つてたかつて兵庫を座敷へ押上げて了ひました。
× × ×
「どうだ八、
「その代り褒美はフイになつたぜ、親分」
「慾張るな、三吉を逃した上、お町さんを貰つて來たんだ。なア、淺五郎が神田の家で待つて居るぜ」
平次はさう言ひ乍ら、後ろからイソイソと從いて來るお町を顧みました。
「狷之介が曲者を見たと何うして解つたんで、親分」
「相變らず繪解きか。あの晩
「三吉が曲者と解つたわけは」
「船の居る場所を知つて、楊弓を用意して來る
「それにしても酒を持つて船で來た筈だが||」
「それが
「どうしてそれが解つたんで、親分は?」
「楊弓の名人は、どんなに道具を大事にするか知つてるだらう。
「又三郎は四十そこ/\ぢやありませんか、三吉はどう見ても五十七八、六十位に見えるが」
「大怪俄で
「變な仕事だつたネ、親分」
「笹野の旦那には叱られるだらうが、宜い心持さ。岡つ引もこれだから滿更ぢやねえよ」
人を縛らない時は、本當に