「親分、手紙が
「どれ/\、これは良い手だ。が、餘程急いだと見える」
錢形平次は封を切つて讀み下しました。初冬の夕陽が這ひ寄る縁側、今までガラツ八の八五郎を相手に、
「使の者が待つて居りますが||」
ガラツ八は膝つ小僧を隱し乍ら、感に堪へて居る平次を
「待てよ、手紙の文面は、||至急相談したいことがあるから、此使の者と一緒に來て貰ひたいと言ふのだ。場所は柳橋、名前はない。||言葉は丁寧だが、四角几帳面な文句の樣子では、間違ひもなく武家だ、||使ひの者はどんな男だ」
「女で」
「それぢやお茶屋の女中だらう、||
「あつしが行くんですかい」
「お茶屋から岡つ引を呼び付けるやうな奴のところへは行きたくねえ、第一この左樣然らばの文句が氣に入らねえよ」
平次は日頃にもなく妙なことを言ひ出しました。
「あつしも嫌ひで、||お茶屋から岡つ引を呼び付けるやうな野郎は」
ガラツ八は内懷から
「馬鹿野郎」
「へツ」
「人の眞似なんかしあがつて、||漸く賣り出したばかりの癖に、仕事の選り好みをすると罰が當るぞ」
「へエ||」
「世間でさう言つて居るぜ、神田の平次のところに居る八五郎は、見掛けほどは馬鹿ぢやねえ||とな。手前にしちや大した評判だ。それにつけても、一つでも餘計に仕事をして、腕を上げるのが心掛といふものぢやないか。手前も何時まで居候ぢやあるめえ、||ハツ、ハツ、ハツ、ハツ」
平次はいきなり笑ひ出しました。
「親分」
「俺も人に意見をするやうになつたのが可笑しかつたんだよ。年は取りたくねえな、八」
年は取りたくないと言つたところで、平次はまだ三十を越したばかり、ガラツ八と幾つも年が違ふわけではありません。
「親分、行きますよ。お茶屋だらうが、お寺だらうが」
「お寺と一緒にする奴があるかい」
「物の
ガラツ八はそんな事を言ひ乍らも、手早く支度をして、使の者と一緒に飛出しました。
「思ひの外難かしい仕事かも知れないよ。ドヂを踏むな」
念の爲、さう言ひ乍ら、平次は物蔭からそつと覗きました。使の女といふのは、二十二三、柳橋あたりのお茶屋の女とはどうしても思へない、少し武家風な、その癖妖艶なところのある年増でした。
ガラツ八の八五郎は、
「さア參りませう、飛んだお待たせ申しました」
親分の平次見たいな顏をして女の先に立つて行くのを、
日が暮れて初冬の夜は宵
「お靜、
「先刻上野の
「八の野郎は少し遲いやうだね、間違がなきア宜いが」
平次は先刻から取越苦勞ばかりして居ります。

「おや?」
路地へ駈け込んだ人の足音に、お靜が立上がるのと、外から戸を引開けるのが一緒でした。
「親分」
「八か。どうしたんだ、泥だらけぢやないか」
「驚いたの何のつて、親分、ありや狐ですぜ」
「馬鹿だなア、今頃眉に
「ひどい目に逢はせあがつて、畜生ツ」
「何うしたんだ。先づ、落着いて話せ」
平次はそれでも、八五郎の無事な顏を見ると、ホツとした樣子で、お靜に目配せして、足を拭かせたり、
「親分の前だが、あれは狐ですぜ。案内されて柳橋の
「して見ると、あの女は鶴源の者ぢやなかつたのか。道理で||」
と平次。
「あの女は少し綺麗過ぎましたよ、それに持ちかけやうが一通りぢやねえ。あんなのは
「馬鹿だな、その氣だから狐にも
「第一、あの話し振りの面白さと言ふものは、親分の前だが、||柳橋から谷中まで、なんの事はねえ、掛け合ひ
「宜い加減にして筋を運べ、馬鹿々々しい」
「谷中へ行くと、もう眞つ暗だ。それからお寺と墓所を縫ふやうに、半時ばかり歩き廻つて、氣が付いたのは天王寺前||」
「
「何處を何う歩いたか、それが判らねえから不思議だ」
とガラツ八。
「新造の顏ばかり見て居たんだらう、||そんな心掛ぢや道なんか判る道理はねえ」
「親分、口惜しいがその通りだ。すると、天王寺の常夜燈の前で、いきなりニヤリと笑つた。凄いの凄くねえの、||親分の
ガラツ八は
「それから何うした」
「氣が付いて見ると女は居ねえ。||正に煙のやうに消えたね。
「親分の前ぢやねえ、
「御用ツ||と喰はせようかと思つたが、考へて見るとあまり好い器量ぢやねえ、二言三言言譯を言つて||根岸の方へ降りようとすると、いきなり後ろから
「何んだ、その武家に投げられたのか」
「面目次第もねえが、物事ははつきり言はないと
「馬鹿だなア、それつ切り引下がつたのか」
「口惜しいが齒が立たねえ、何しろ恐ろしい腕だ、||その上言ふ事がいゝ」
「||」
「錢形平次||と言ふから、どれほどの男かと思つたが、なんと弱い野郎か||つて言やがる」
「何? 手前を平次と間違へたのか。そいつは面白い」
平次は膝を乘出しました。
「ちつとも面白くはねえ、谷中を引張り廻されたり、藪の中へ投り込まれたり」
「
平次は立上がりました。羽織を引つ掛けると、お靜の手から脇差を受取つて、突つかけ草履、切火を浴び乍ら、促し顏に八五郎を見やります。
「今から行くんですか、もう
「戌刻半でも
平次は何やら大事件を嗅ぎ出した樣子です。
鶴源はまだ宵でした。
「その方なら確かにいらつしやいました。が、錢形の親分さんのところへ使を出して、親分さんが旅に出られてお留守と聞くと、ひどくがつかりなすつた樣子で、御料理はほんの
こんな事を教へてくれます。稼業柄、人間の
「有難う、||そんな事ぢやないかと思つたよ。ね番頭さん、俺は確かに神田の平次だが、この一年ばかしは急しくて旅どころか、大師樣へお詣さへ出來ない始末さ。今日は珍らしく暇で、朝から家にゐて八五郎と
「||」
「使ひの者は俺の家へ來たには違ひないが、この男を俺と間違へて、一
「女ぢや御座いません、男の方で||その御武家のお供をして來た、渡り
話はすつかりこんがらかつて了ひました。
「そいつは變だ、俺のところへ來たのは、九
「||」
番頭もガラツ八も顏を見合せるばかりです。
「その武家は、何處の何と言ふ方か、帳場や女共には判つて居るだらうね」
「それが一向判りません、全くのふりのお客で。それに、こんな場所へは
「外に心付いた事はないだらうか」
「親分さんへ差上げたのゝ外に、手紙を二本も御書きなすつたさうで、||それから、ひどく沈んで御歸りは何處かの御寺へ廻るやうにと、御供へ言ひ付けて居なすつたやうで御座います」
「日が暮れてから寺詣りか」
「へエ||」
「少しをかしくはないか、八」
平次は後ろに突つ立つて居る八五郎を
「谷中へ行つたんぢやありませんか。矢張り、お
ガラツ八は胸のあたりで
「そんな氣樂なことなら宜いが、||その武家は腹を切る心算りかも知れないよ。俺にはそんな氣がしてならねえ、||お茶屋へ始めて來たやうな
「へエ||」
「寺は何處だらう」
「根岸の寺と仰しやつただけで、尤も||早く行かなきや、御墓所の門が閉まる||とも仰しやつたやうで」
「墓場に門のある寺といふのは、根岸に幾つもあるわけはねえ。行つて見ようか、八」
「へエ||」
驚いたのは八五郎でした。谷中で散々
「番頭さん、その武家の羽織の紋を覺えちや居ないか、係の姐さんに訊いて下さい」
間もなく番頭は女中を一人伴れて來ました。一分の祝儀が利いて居るせゐか、これが思ひの外いろ/\の事を知つて居ります。
「御召物は粗末な
これだけ聽けば平次には大方見當が付きます。
平次の活動は電光石火の素早さでした。事件の匂ひがする、飛出す、一擧に片附ける||これが日頃の平次の
根岸へ行つて、寺を一つ/\叩き起すのは、あまり樂な仕事ではありませんでした。門前の花屋で濟むのは花屋、それで解らないのは門番、門番の居ないのは、
心付けと、十手と、
「谷中へ近いから此邊かも知れない」
平次のさう言つた見當は外れませんでした。
「薄暗くなる頃、立派な御武家が見えました。私は新米でお名前は存じませんが、本堂で拜んで、それからお墓へ廻つて、半刻ばかり經つて、暗くなつてからお歸りのやうで御座いました」
「案内はしなかつたのかい」
「いたさうと思ひましたが、よく知つて居るからと仰しやつて、
寺男は夕方の忙しさに不精した樣子ですが、それにしても半刻あまり、薄寒い墓地に居たのは仔細がなければなりません。
平次とガラツ八は、寺男に提灯を持たせて、墓地の中へ入つて行きました。寺男は何分新米で、何にも判りませんが、それでも、今日人の詣つた墓は直ぐ判りました。
「ない、||その武家の羽織は、
平次は一方ならず
「これは? 親分」
「その紋は丸に三つ引ぢやないか||おや、墓が濡れて居る、||丸に三つ引の紋を、鶴源の女中が、ありふれた丸に二つ引の紋と間違へたかも知れない。こいつはをかしいぞ」
平次は横手へ廻つて俗名を讀むと、もう一度寺へ取つて返して、住職を叩き起しました。
「神田の平次殿と言はれるのか。それは御苦勞なことぢや。||あれは、御旗本で御役高共四千五百石の大身、大目附までせられた、安倍丹後守の御墓ぢや。二年前に亡くなられて、當代は安倍丹之丞樣、お若いが、先代に
眉の白い老僧は、こんな事まで親切に話してくれます。
「御屋敷は何方でせう」
と平次。
「谷中ぢや。三崎町で聞けば判る」
平次は其處まで聞くと、老僧の話の腰を折るやうに立ち上がりました。
谷中まで一走り。
安倍丹之丞の屋敷は直ぐ解りましたが、嚴重に門が閉つて居て、
「親分、諦めませうか」
散々門を叩かせられた上、ガラツ八は到頭悲鳴を擧げて了ひました。主人は留守、門番は横着に寢込んで、開けてくれさうもなかつたのです。
「表から名乘をあげて行つちや、具合が惡いことかも知れないよ。||どうだい八、泥棒の眞似をして見る氣はないか」
「へエ||、泥棒の眞似?」
「
「やり付けない仕事だから、うまく行きやいゝが」
「泥棒の眞似なんかやり付けてたまるものか」
二人はそれでも忍び返しのないところを探して、大した苦勞もなく塀を越して了ひました。
中は眞つ暗ですが、用人石田清左衞門の長屋を探すのはそんなに難かしい事ではありませんでした。
「八、これからが
「雨戸でも破るんで?」
「シツ」
二人は庭の方から、灯の漏れる部屋の外へ廻りました。
上野の
二枚の疊を裏返して、白布を敷き詰め、前の經机には、觀音經が一卷、その側には、ユラユラと香煙が
默つて
「待つた」
不意に何處からともなく聲が掛ります。
石田清左衞門は靜かに
「お待ちなさいまし」
縁側の戸が一枚、敷居から外れて闇の中へ落ちると、其處から現れたのは、平次と八五郎。手と足とで飛込むやうに、呆氣に放られる清左衞門の短刀に
「誰ぢや、
靜かな最期を妨げられて、取亂したといふ程ではありませんが、さすがにムツとした樣子です。
「私はお使を頂いた神田の平次で御座います」
「えツ」
「中に惡者が入つて、鶴源へは參り兼ねましたが、其代り危いところへ間に合ひました」
「||」
「石田樣、仔細を仰しやつて下さい。どんなことがあるにしても、腹を切るのはせつかちで御座います」
「武士が腹を切るのにせつかちも
「それは又何う言ふわけで御座います。兎に角、一度は此平次に相談しようとなすつた位ですから、一應
平次は何時の間にやら、清左衞門の手から短刀をもぎ取つて居りました。
「それでは話さう、||が、晝のうちなら、何とか手をくだす
清左衞門は寛げた肌をかき合せると、屏風を引き寄せて、腹切り道具を隱し、火桶の側に二人をさし招いて話し出しました。
その話はかなり長いものですが、掻いつまんだ筋だけ通すと、こんな事になります。
安倍家の先代、大目附を勤めた丹後守が亡くなつたのは二年前、跡を
果して、義父丹後守の
そんな惡法を書いたのは、丹之丞の遠い
當主丹之丞に取つて、用人の石田清左衞門は此上もなく煙たい存在には相違ありませんが、この人間が居ないと公儀のあしらひが違つて來ますから、安倍家が立ち行きません。妾のお勝や、
安倍丹之丞が、上の御用で駿府へ行つたのは半歳前、江戸を出發しようと言ふ時、さすがに、惡智慧の
それは、繰り返して言ひますが、駿府に出發しようと言ふ前日の事でした。忙しい中乍ら、手文庫の掛け紐の上に、一寸幅ほどに斷つた美濃紙を卷いて、主人丹之丞と石田清左衞門が封印をし、そのまゝ、人知れず清左衞門の長屋へ持つて來て保管して置いたのです。
ところが、主人丹之丞の用事が濟んで江戸へ歸ると云ふ三日前、所用あつて外出した清左衞門が歸つて來て見ると、留守番をして居た下男の
石田清左衞門の驚きは想像も及びません。この東照宮樣のお墨附と、公儀に書き上げになつて居る家寶の郷義弘が無くなれば、間違ひもなく安倍家は斷絶でせう、これほどの大事な品を預つて、それを護り
それから三日間、清左衞門は血眼になつて探しました。寅藏の自害は、簡單な屆出で濟みましたが、御墨附と短刀の紛失は、どうも、それと關係があるやうな氣がしてならなかつたのです。
怪しいのは、針目正三郎とお勝ですが、それも取止めた證據は一つもありません。
幸ひ屋敷の中が清左衞門の自由になるので、縁の下から天井裏、土藏納屋の中は言ふ迄もなく、雇人の荷物まで探しましたが、三日目の今日まで、御墨附や短刀の
正三郎とお勝は、一生懸命手傳つてはくれましたが、兎もすれば後を向いて赤い舌を吐いて居さうで、清左衞門は全く氣が氣ではありません。
明日の朝はいよ/\主人丹之丞が江戸へ歸ると解つた時、清左衞門は到頭評判の錢形平次に逢つて見ようと思ひ立ちました。
屋敷へ呼ぶわけにも行かず、さうかと言つて、平次の宅へ行けば、後を
「こんなわけだ、平次。主人丹之丞樣は、川崎に泊つて居られる。明日、早立ちで、
清左衞門は靜かに語り了りました。今死を決した人のやうでもない、何となく落着き拂つた
「危いことで御座いました。御墨附と短刀は此屋敷から出る筈は御座いません。屹度明日の朝までには搜し出してお目にかけます」
「||」
平次は安請合と思はれても仕方のないやうな、氣輕な調子でこんな事を言ひます。
「ところで、その手文庫を拜見さして下さいませんか」
「それは
清左衞門の取出したのを見ると、
「この
「死んだ寅藏のかも知れないと思ふが、||イヤそんな筈はない。その
「寅藏とやらも、こんな短刀を持つて居ましたか」
「そんな氣がする。が、
「ところで、この封印は、丹之丞樣のに間違ひはないでせうな」
「それは間違ひはない。御主人は、その印形を駿府へ持つて行かれた」
「この手文庫をお受取になる前か、すし後で[#「すし後で」はママ]、何か變つたことはありませんでしたか」
平次は變なことを訊ねました。
「御主人が封印を遊ばして、いざ私の封印といふ時、
「その時、手文庫に手を觸れた者は御座いませんか」
と平次。
「いや、ない、ありやう筈はない。手文庫は御主人の前に置いてあつたし、私が喧嘩を納めて歸つて來る迄はほんの煙草二三服の間もなかつた」
「もう一つ伺ひますが、お勝さんとやらと、正三郎といふ方の荷物はお調べになりましたか」
「雇人共の荷物を調べた時、兩人共進んで自分の荷物を調べさした」
「お勝さんと言ふのは、二十二三の凄いほど綺麗な方で御座いませう。左の下唇の側に、
「その通りだ、何うして知つて居る」
石田清左衞門は非常に驚いた樣子ですが、平次とガラツ八は顏を見合せて苦笑しました。ガラツ八を平次と間違へて、この屋敷近い谷中まで送らせて、滅茶々々に
それより先、新米の下男森三は、石田清左衞門の使で鶴源を出たところを、待構へて居たお勝に捕つて、||平次は旅に出た||と言ひ含められて歸つたでせう。
「私には段々判つて來るやうな氣がします。それから、夜の明けぬうちに、土藏に押込め打れて居なさる、といふ奧方の
「それは安いことだ」
石田清左衞門は提灯を點けて、二人を
「えいツ」
闇の中で、不意に平次の聲。
提灯を差出すと、軒下に中間風の男が一人、見事な當身を食はされて目を廻して居りました。
「これが森三といふので御座いませう。私共の話を立ち聽きして、注進に出かけるところでした。明日まで
平次は正體もない森三をキリキリと縛り上げると、
「さア參りませう」
何處まで落着いて居るかわかりません。
翌る日
役高を加へて四千五百石といふと、少さい大名ほどの暮し、家の子郎黨の出迎への物々しさ、その歡迎の晴がましさと言ふものはありません。
丹之丞は衣服を改め、旅の
「清左衞門を呼べ、誰か」
「ハツ、御召で御座いましたか」
清左衞門は、丹之丞の前に平伏しました。打ち
「其方に預けた手文庫はどうした。あの中には、身にも家にも代へ難い大事の品がある。持つて參れ」
「ハツ、これに持參いたしました」
石太清左衞門は後ろの襖の蔭へ、何時の間に持ち込んだか、
「清左衞門」
「ハツ」
「封印は何うした」
「切れて居ります」
「馬鹿奴、封印を切つて持つて來るとは何事だ、||萬一中に間違ひがあると、其分には差し置かぬぞ」
「||」
手文庫の
「これは何だ、清左衞門」
いきなり立上がると、足を擧げてハタと手文庫を蹴飛ばしました。疊の上に亂れ散る小菊、僞物の短刀。
「恐れ乍ら||」
「何が恐れ乍らだ。權現樣御墨附、
「ハツ」
「御墨附と短刀は安倍家の重寶、一日もなくて叶はぬ品だ。何處へやつた」
「清左衞門が御預り申上げたのは、この二品に相違御座いません」
「ば、馬鹿奴」
丹之丞は思はず一刀の
「
清左衞門は顏を上げました。
「あの二品がなくては、安倍家は斷絶だ。それに直れ、手討にしてやる。せめて公儀への申譯」
丹之丞の手には早くも
「恐れ乍ら、御墨附と短刀は、此御屋敷の中にあるに相違御座いません、||御屋敷中の物で、私
「無禮者、予が自身で隱したと申すのか」
丹之丞はカツとなりました。思はず一刀を大上段に、はしたない見得を切ります。
「何で左樣なことを、||たゞ、世の中には思ひ違ひと申すことが御座います。その御用箪笥の中をお改めの上、其處にも二品がありません時は、私の手落ちに相違御座いません。打首なり
「
丹之丞は振り冠つた刀のやり場に困りました。
「まア/\、それは御無禮。石田、貴公も惡いぞ、一體家來の
何處からともなく飛出して、振り冠つた丹之丞の刃と、石田清左衞門の間へ入つたのは、念入の
「平次、俺はもう武士が厭になつた。お前が見透した通り、御墨附と短刀は、矢張り主人の用箪笥の中にあつたらしい」
長屋へ歸つて來ると、石田清左衞門は、如何にもがつかりした樣子でした。
「さうで御座いませう。それでなくては、
平次は會心の笑||物悲しくさへ見える苦笑を見せました。主人に裏切られて、打ち
「私には解らぬ事ばかりだ。此後の身の處置も付けなければなるまい。平次、||あの二品は何うして主人の用箪笥にあつたか、教へてくれぬか」
清左衞門の折入つた顏を見ると、こればかりは言ふまいと思つた平次も、ツイ
「石田樣、お氣の毒で申上げられませんが、此上隱して置くのも罪が深過ぎます。何も彼も御話申しませう」
「||」
「三四日前に手文庫の封を切られた時、中味が
「成程」
「曲者は、封印さへ破ればよかつたのです。封印を破るところを寅藏に見付けられて、驚いて絞め殺したので御座いませう、それを
「封印を何の爲に破つたのだ」
「石田樣、驚いてはいけません、貴方樣を罪に
「えツ」
「中味は前から僞物だつたので御座います」
平次の言ふ事は益々奇つ怪でした。
「そんな事はない、主人から受取る時、よく調べて封印をした||」
「御主人が封印をして、石田樣が封印をする前に中間部屋の喧嘩が始まつてお立ちなすつたとお仰しやつたでせう」
「その通りだ」
「その喧嘩も
「フーム」
「私が、このお屋敷の中で調べ殘した、たつた一つの用箪笥の中にあるに相違ないと申上げたのは其爲で御座います」
「何の爲に、そのやうな事を」
清左衞門はゴクリと
「御主人丹之丞樣に取つて、先代の愛臣、石田清左衞門樣は煙たくてたまりません。その上折があれば小言も言ひ、ツケツケ
「||」
「丹之丞樣は才物だがお若い。充分我儘で、不人情でもいらつしやる。先代の愛臣を何とかして取り除きたいが、公儀まで知られた方で、石田
「解つた、平次||、主從の縁もこれまで。それほど邪魔な清左衞門なら覺悟がある」
石田清左衞門は
「石田樣、放つて置きなすつた方が宜う御座いませう。默つて御覽になつて居ても、今にデングリ返しが始まります」
石田清左衞門は腕を組んでドカリと坐りました。苦惱をそのまゝ刻んだやうな顏の
「石田樣、火急の御召で御座います」
案内知つた奧||主人の居間に通ると、安倍丹之丞は先刻の勢ひも何處へやら、火桶に
「御召で御座りましたか」
石田清左衞門、敷居際にピタリと坐ると、
「入れ、話がある」
何時にもない訴へるやうな眼で、丹之丞はさし招きます。
「御用と仰しやるは」
「清左衞門、其方は知らぬか、||御墨附と短刀がない」
「えツ」
どんなに
「清左衞門、俺が惡かつた。この用箪笥に仕舞ひ忘れて其方を苦しめたのは、忘れてくれるであらうな」
「||」
清左衞門はうな
「其方なら解るであらう。何とかして、あの二品を探し出してくれぬか。萬一この事が公儀の耳へ入れば、安倍の家は立ちどころに斷絶だ」
若くて御小姓組御番頭に出世した丹之丞は、
「一應引取つて考へさして頂きます。手文庫の封印については三日考へ拔いた上、腹まで切りかけました。用箪笥の方は半刻經たないうちに何とか工夫が付きませう」
「それでは頼むぞ」
「||」
清左衞門はお長屋に自分の歸りを待つて居る錢形平次とガラツ八の顏を思ひ浮べ乍ら、歸つて行きました。
それから、ものゝ四半刻ばかり。
「
丹之丞の前に出た石田清左衞門の顏は得意に輝いて居りました。
「何處にある、出して見せい」
乘り出した丹之丞。
「恐れ乍ら、その前に申上げ度いことが御座います。||この三日間、お屋敷の中は、
「それは解つて居る。だからこそ、家來の其方に手を突いて頼むではないか」
「申上げます。が、それに就いては、私の方にも望みが御座います」
「何なりと申して見い」
「
清左衞門は開き直りました。
「これ/\、いや味を言ふな、解り切つて居るではないか」
横の方から、頻りに
「いや、私には一向解りません。お家の大事、あの二品が何うしても御入用とあれば、先づこの女を
清左衞門は頭を擧げるとハタとお勝を睨み据ゑました。斷じて一歩も退くまじき氣色です。
「私が居りや何が惡いんだい」
しやしやり出るお勝、清左衞門に
「勝、ならぬぞ。大事の場合だ。其方は遠慮をせい」
野心家の丹之丞はさすがに事情の容易ならぬを覺りました。眼に物言はせて、猛り狂ふお勝を退かせると、改めて、
「これで宜からう。清左衞門」
清左衞門の方を
「有難いことで御座います。さすがは御明智の殿、その御思召なれば、お家は
「おだてるな、清左衞門」
「もう一つ、
「それはならぬ、あれは氣違ひぢや」
「いえ、
清左衞門は一寸も引きませんでした。この掛引は、結局自分の方に弱みがある上、法外の出世を夢みて居る丹之丞の負けで、間もなく土藏から綾野を出させると、即座に
「奧、病氣はもうよいさうぢやな」
丹之丞はヌケヌケと斯んな事を言ふ肌合の殿樣だつたのです。
「御機嫌の體、
綾野は、禮の言ひやうもなく、其儘ひれ伏しました。美しいが淋しい女、丹之丞をお勝の手から取戻して、夢心地に泣いて居る樣子です。
「これで宜からう、どうだ清左衞門、二品は何處にある」
丹之丞は改めて清左衞門に訊ねました。
「奧方の御側、||土藏の中で、朝夕拜んで居られた、觀音像の
丹之丞も驚いたが、綾野も仰天しました。早速土藏から御厨子を取寄せて見ると、成程その中に納めた觀音樣の背中に立てかけて、
「それは奧方の御存じの事では御座いません。當屋敷に巣喰ふ惡者が、
「それは誰の仕業だ」
「奧方に一番近い方、時々は御世話を申上げた方」
「何?」
「御免」
清左衞門は丹之丞には答へず、いきなり後ろ手に障子を開くと、拔き討にサツと、縁側の人影へ浴びせました。
「あツ」
「お、正三郎」
「これが御家の
「||」
「これにて御家は萬々歳、安倍家の榮は目に見えます。ゆめ/\奧方と御仲違ひを遊ばしませぬやう。||清左衞門はこれにて
立ち上がる清左衞門。
「これ/\何處へ行くのだ、清左衞門。誰も其方に
丹之丞は驚きました。先刻までは邪魔にした家來ですが、今となつては、この名臣を手放すわけには行きません。
「恐れ乍ら、人の去就には天の命が御座います。三世かけた主從の縁も、盡きる時はいたし方も御座いません。||打ち明けて申せば私はもう武家奉公が厭になりました。丹後守樣の御墓を守り乍ら、||
「清左衞門」
奧方は又新しい涙にひたつて居りました。斯うなつては、丹之丞にも、もう引留める言葉はありません。
× × ×
「平次、||其方の
清左衞門は、長屋へ歸つて來ると、何より先づ平次の前へ坐つて了ひました。
「旦那冗談ぢやありません、私へお辭儀なんかなすつちや」
「いや、さうでない。俺は腹を切つた上、安倍の御家も斷絶するところであつた」
「それを喰ひ止めたのは、旦那の忠義で」
「
「飛んでもない」
平次も少し照れがましい樣子です。
「ところで、いよ/\城明け渡しだ。武士の
「城明け渡しと仰しやると?」
と平次。
「今宵限り、浪人したのだよ。平次、明日からは
何と言ふ朗らかさ。
間もなく手廻りの品だけ持つた石田清左衞門は、平次とガラツ八を伴れて安倍家の門を夕闇の街の中へと歩み出しました。