小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代を
「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」
風呂場から町内中響き渡るやうに
「ハイ、唯今、直ぐ參ります」
女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃の
「あツ、これはたまらぬ。エヘン/\/\、其處を開けて貰はう。エヘン/\/\、寒いのは我慢するが、年寄に煙は大禁物だ」
「何うしませう、ちよつと、お持ち下さい。燃え草を持つて參りますから」
若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまゝ、面喰らつて物置の方へ飛んで行つて了ひました。
底冷のする梅二月、宵と言つても身を切られるやうな風が又左衞門の裸身を吹きますが、すつかり煙に
その時でした。
何處からともなく飛んで來た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになつた又左衞門の二の腕へ深々と突つ立つたのです。
「あツ」
心得のない人ではありませんが、全く闇の
「何うした何うした、大旦那の聲のやうだが」
店からも奧からも、一ぺんに風呂場に
見ると、裸體のまゝ、流しに突つ起つた主人又左衞門の左の腕に、白々と立つたのは、羽ごと六寸もあらうと思ふ一本の吹矢、引拔くと油で痛めた竹の根は、鋼鐵の如く光つて、
「俺は構はねえ、外を見ろ、誰が一體こんな事をしあがつた」
豪氣な又左衞門に勵まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立つて居るのは、
「御新造樣、何うなさいました」
「あ、誰か彼方へ逃げて行つたよ。追つ驅けて御覽」
と言ひますが、庭にも、木戸にも、往來にも人影らしいものは見當りません。
「こんな物が落ちて居ます」
丁稚の三吉がお冬の足元から拾ひ上げたのは、四尺あまりの本式の
餘事はさておき||、
引拔いたあとは、つまらない
麹町から名高い外科を呼んで診て貰ふと、
「これは大變だ。併し
仔細らしく坊主頭を振ります。
昨夜の吹矢を、後で
「誰だ、吹矢を捨てたのは」
と言つたところで、もう後の祭り、故意か過ちか、兎に角、又左衞門に大怪我をさした當人が、後の
「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗つてあつたかも知れぬて」
「え、そんな事があるでせうか」
又左衞門の伜又次郎、これは次男に生れて
「さうでもなければ、こんなに
斯う言はれると、又次郎はすつかり蒼くなりましたが、父の又左衞門は、武士の出といふだけあつて思ひの外驚きません。
「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
千貫目の
「ネ、親分、右の通りだ。田代屋の若旦那が錢形の親分にお願ひして、親父の片腕を無くさせた相手を取つちめて下さいつて、拜むやうに言ひましたぜ」
「
錢形の平次は、容易に動く樣子もありません。
「吹矢は子供の玩具でも、毒を塗るやうな手數なことをしたのは
「それは解るもんか」
「その上、吹矢筒の吹口には、女の口紅が付いて居たつて言ひますぜ」
「何だと、八」
「それお出でなすつた。この一件を打明けさへすりや、親分が乘り出すに決つてると思つたんだ」
ガラツ八はすつかり悦に入つて内懷から出した
「八、それや本當か。無駄を言はずに、正味のところだけ話せ」
「正味もおまけもねえ。吹矢筒の吹口に、こつてり口紅が付いて居るんだ。その上、吹矢が飛んで來た時、外に居たのは嫁のお冬だけ。疑ひは眞一文字に戀女房へ掛つて行くから、又次郎にしては氣が氣ぢやねえ」
「フム」
「錢形の親分にお願ひして、何とかお冬の
「誰しも手前の戀女房を惡黨とは思ひたくなからう。ところでガラツ八、その吹矢は一體誰のだえ」
「それが
「何が?」
「親分も知つて居なさるだらうが、田代屋の總領といふのはあの水道端の又五郎つて、親仁にも弟にも似ぬ、恐ろしい道樂者だ」
「さうか、あの水道端の又五郎は、田代屋の伜か」
「それですよ親分、十年も前に勘當されて、暫らく
「フヽ、話は面白さうだな」
「呆れた野郎で、世間では、田代屋の
「そんな事もあるだらうな」
「吹矢はその小伜の留吉のだから面白いでせう」
「何だと、八、なぜ早くさう言はねえ」
「へツ、へツ、話を斯う運んで來なくちや、親分が動き出さねえ」
「馬鹿野郎、掛引なんかしあがつて」
さう言ひ乍らも平次は、短かい羽織を引つ掛けて、ガラツ八を追つ立てるやうに、水道端に向ひました。
先は
向うへ行つて見ると、待つてましたと言はぬばかり。
「錢形の親分、よくお出で下さいました」
若主人、又次郎は、
「親分、これは若旦那の又次郎さんで||」
ガラツ八が取なし顏に言ふと、
「有難う御座いました。滅多に人を縛らないといふ錢形の親分がお出で下すつたんで、
山の手の廣い
やがて奧へ通つて、大主人の又左衞門に引合されましたが、これは思ひの外元氣で、床の上に起直つて平次とガラツ八を迎へました。
「錢形の親分ださうで、よくお出で下さいました」
「飛んだ災難で御座いましたな、どんな樣子で?」
「なアに腕の一本位に驚く私ぢやないが、やり口が如何にも憎い。刀か
暗に嫁のお冬と言はないばかり、無事な右手に握つた煙管で、
「吹矢筒は其儘にしてあるでせうな」
と平次。
「大事な證據ですから、私の側から離しやしません、この通り」
伜の又次郎が手を出しさうにするのを止めて、自分で
平次は受取つて、端つこを包んだ手拭をほぐすと、中から現れたのは、成程はつきり紅いものの付いた、吹口。
「ね、錢形の親分、口紅でせう」
「さうでせうね」
平次は氣の乘らない顏をして、一と通り吹矢筒を調べると、
「矢は矢張り見えませんか」
解り切つたことを言ひます。
「それが見えないから不思議で||」
「たしかに毒が塗つてあつたでせうな」
「それが間違がありません。神樂坂の本田
「成程、ところでそんな恐ろしい毒を手に入れるのは容易ぢやありませんね」
「ところが、親類に生藥屋があるんですがね」
「えツ?」
「嫁の里が
「||」
平次は默つて、この頑固な老人の顏を見上げました。麹町六丁目の櫻井屋といふと、山の手では評判の生藥屋で、お多の里が其處だとすると、これは全く容易ならぬことになります。
「どうでせう錢形の親分、これでも疑ふ私が惡いでせうか。打明けると家の
又左衞門の心持は、益々明かでした。又次郎は席にも居たゝまらず、滑るやうに敷居の外に出ると、誰やら其處で立聽きをして居たものか、又次郎のたしなめる聲の下から、クツと忍び泣く聲が洩れます。
「一應御尤もですが、私にはまだ
「サア、どうぞ||。これ、親分を御案内申しな。自由に見て頂くんだぞ」
「ハイ」
次の間から出て來た又次郎、||若い美しい女房に
「これが家内」
又次郎に引合されたのは、ひどく打ち
「それから、これが妹分のお秋」
これはお冬にも
これは後で又次郎に聞いた事ですが、妹と言つても實は奉公人で、頼るところもない身の上を氣の毒に思つて、三年越し目をかけてやつて居る娘だつたのです。如何にも育ちは良いらしく、物腰態度に、何となく上品なところさへあつて、見やうによつては、町家に育つた、嫁のお冬よりも
續いて大番頭の長兵衞、手代の信吉、皆造、
仲働きはお増といふきかん氣らしい中年者、
一と通り風呂を見廻つた平次は、油障子を開けて外へ出ました。
「ね、親分、此處がその又五郎つて、兄貴の家ですぜ」
「||」
何時の間にやら、ガラツ八が
「風呂場の障子が開けつ放しになつて居ると、此垣の根からでも流しに立つて居る人間へ吹矢が屆かないことはないでせう、||吹矢を飛ばした上で、
「||」
「尤も、此處からは五六間あるから、馴れなくちや、そんな手際の良いことは出來ねえ。この節は兩國あたりの矢場で吹矢を吹かせるから、道樂者には、飛んだ吹矢の名人が居ますぜ」
「馬鹿ツ、何をつまらねえ事を言ふんだ||默つて居ろ」
「へエ||」
妙にからんだガラツ八の言葉を押へて、平次は垣の外から聲を掛けました。
「今日は、又五郎さんは居なさるかい、今日は||」
「何を言やがる||、此處からでも吹矢が屆かないことはない||なんて、厭がらせを言やがつて一體
飛出したのは、又次郎の兄、田代屋の總領に生れて、やくざ者に身を落した又五郎です。三十を大分過ぎた、一寸良い男。
「あれ、お前さん、錢形の親分だよ。滅多なことを言つておくれでない」
後ろから袖を押へるやうに、續いて庭先に出たのは、三十を少し越したかと思ふ、美しい年増、襟の掛つた
「何をツ、錢形だか、馬方だか知らねえが、厭な事を言はれて默つて居られるけえ。
「兄イ、勘辨してくんな、大した惡氣で言つたわけぢやあるめえ。なア八、手前も謝まつて了ひな」
平次は二人の間へ食込むやうに、垣根越し乍ら、又五郎を
「錢形のがさう言や、今度だけは勘辨してやらあ。二度とそんな事を言やがると、生かしちや置かねえぞ、態ア見あがれ」
又五郎は少し間が惡さうに、ガラツ八の頭から
「サア、錢形の親分、もう何も彼もお解りだらう。家の者だつて、外の者だつて、遠慮することはない。縛つて引立てゝおくんなさい」
外から歸つて來た平次を見ると、又左衞門はいきり立つて、皆んなの後から
「旦那、まだ其處までは解りません||が、吹矢を射たのは、御新造でないことだけは確かですよ」
「えツ、何、何うしてそんな事が判ります」
「吹矢筒の口をもう一度見て下さい。付いてゐるのは口紅に相違ないが、それは唇から付いたんぢやありません。唇から付いたんなら、もう少し
「えツ」
「見たところ、ほんの少しでも、口紅をさして居るのは、この家の中では御新造だけだ。誰か惡い奴がそれを知つて居て吹矢筒の口へ紅を塗つて、庭へ捨てゝ置いたんでせう。その時直ぐ、其處に居た者の指を見りや、一ぺんに判つたんだが惜しいことをしましたよ」
「フム||」
錢形平次の明察は、
「まだありますよ。吹矢は風呂の棚の上からなくなつたと言ひましたが、私は見當をつけて探すと、一ぺんに見つかつて了ひました、これでせう」
平次は二つ折にした懷紙を出して、又左衞門の前に押し開くと、その中から現れたのは、
「あツ、これだ/\、何處にありました」
「それを言ふ前に伺つて置きますが、御新造は、その晩外へ出なかつたでせうな」
「え、風呂場からお父樣を此處へお運びして、それからズツとつき切りで御座いました」
お冬は救ひの綱を
「さうでせう、||ところでこの吹矢は庭の奧の土藏の軒に、土の中に踏み込んであつたのです」
「えツ」
「それも、女の下駄なんかぢやありません。職人や遊び人の履く
「ホウ」
又左衞門も又次郎も、聲を合せて感歎しました。その一座の驚きに誘はれるやうに、
「有難う御座います。錢形の親分、私は、もう何うなることかと思ひました」
お冬は敷居際に、泣き伏して了ひました。
事件はこんな事では濟みませんでした。
紛れるともなく經つた、ある日のこと、平次の家へ
「親分、大變ツ」
「何だ、ガラツ八か。相變らず騷々しいね」
「落着いて居ちやいけねえ、田代屋の人間が
「何だと、八?」
錢形の平次も驚きました。あわて者のガラツ八の言ふ事でも鏖殺は穩やかではありません。
「それツ」
と神田から水道端まで、一足飛にスツ飛んで行くと、成程田代屋は表の大戸を締めて、中は煮えくり返るやうな騷ぎです。幸ひガラツ八が聞き噛つた、鏖殺の噂にはおまけがありましたが、一家全部何を食つてか恐ろしい中毒で、いづれも蟲の息の有樣、中でも一番先に
年は取つても、剛氣な又左衞門は、一番氣が強く、これも少食のお蔭で助かつた嫁のお冬と一緒に、家族やら店の者を介抱して居りますが、日頃から丈夫でない養ひ娘のお秋は、一番ひどくやられたらしく、
町名主から五人組の者も驅けつけ、醫者も三人まで呼びましたが、何分、病人が多いのと、急のことで手が廻りません。そのうち平次は、
「ガラツ八、今朝食つた物へ、皆んな封印をしろ。鍋や皿ばかりでなく、
「合點」
平次のやり方は
吹矢で腕一本失つた時と違つて、今度は事件を
町醫者立會の上、いろ/\調べて見ると、毒は朝の飯にも汁にもあるといふ始末、突き詰めて行くと、井戸は何ともありませんが、お勝手の
「これは驚いた、これほどの猛毒は、日本はもとより
と、奎齋先生舌を卷きます。
「すると、其邊の生藥屋で賣つて居ると言つたザラの毒ではないでせうな」
と平次。
「左樣、これほどの水甕に入れて、色も匂ひも味も變らず、ほんの少しばかり口へ入つただけで命に係はるといふ毒は私も聽いたこともない。これは多分、||
「へエ||」
「耳掻き一杯ほどの
「
又左衞門は氣を取り直して、一本腕の不自由さも、毒の苦しさも忘れて斯んな事を言ひます。當てつけられて居るのは言ふ迄もなく嫁のお冬、これは又不思議に丈夫でほんの少しばかりの血の道を起したと言つた顏色、
平次はそれを尻目に、小半
「この
お冬を顧みて斯う問ひかけます。
「
「これだツ」
「何ですえ、親分」
とガラツ八。
「仕掛はこの柄杓だ。ちよいと氣がつかないが、よく見ると底が二重になつて、その間に毒が仕込んであつたんだよ」
平次は
「あツ」
驚き騷ぐ人々の中へ、平次は盆の上に載せた柄杓を持つて來ました。
「この通り、種は矢張り外から仕込んだものに違ひありません。家の者ならこんな手數なことをせずに、いきなり水甕へ毒をブチ込むところでせうが、曲者は外に居るから、こんな手數なことをして、そつと柄杓を
「死んだ三吉で御座いました」
お冬はさう言つて、ホツと胸を撫でおろしました。自分の上に降りかゝつた、二度目の恐ろしい疑ひが、また平次の明察で
「それにしても又五郎は何うしたんだ」
思ひ出したやうに又左衞門はさう言ひました。火事息子といふ言葉もある位で何か騷ぎのある時驅けつけるのが、勘當された息子の
「成程、さう言へば變ですね」
と平次。
「だから、あつしは言つたんで、何うもあの垣の外が臭いつて||」
とガラツ八。
「默らないか、八、そんな下らない事を言つてゐる暇に、ちよいと覗いて來るがいゝ」
平次にたしなめられて、
「
「何、まだ雨戸が開かねえ」
「親分、恐ろしい寢坊な家もあつたもんですね」
「そいつは可怪しい。來い、ガラツ八」
平次は彈き上げられたやうに起ち上がりました。改めてさう言はれると、又左衞門もガラツ八も、お冬も背筋をサツと冷たいものが走つたやうな心持になります。
庭を突つ切つて、垣を飛び越えると、平次はいきなり雨戸を引つ叩きました。
「今日は、今日は、隣から來ましたがね、||田代屋の旦那が、御用があるさうですよ」
續け樣に鳴らしましたが、中は靜まり返つて物の氣配もありません。赤々と雨戸に落ちる陽ざしはもう晝近いでせう。どんな寢坊でも、雨戸を閉めて置かれる時刻ではありません。平次はガラツ八に手傳はせて、到頭雨戸を二枚外して了ひました。
一足中へ踏み込むと、
「あツ」
又五郎とその女房のお半は、どんなにもがき苦しんだことか、
「子供は? 留ちやんは?」
「此處だ/\」
ガラツ八は、部屋の隅から、菜ツ葉のやうになつてゐる留吉を抱いて來ました。食べた物が少かつたのか、こればかりはまだ
「留ちやん、留ちやん、大丈夫かい、しつかりしておくれよ」
この人の好い叔母に抱かれて、それでも留吉は僅かに、こつくり/\やつて居ります。まだ、驚くほどの氣力も、泣くほどの氣力も恢復しないのでせう。
「大丈夫だよ留ちやん、もう大丈夫だよ、叔母ちやんがついて居るから、お泣きでないよ」
お冬はさう言ひ乍ら、留吉を抱いて、
その後姿をツクヅク見送つた平次。何を考へたか、自分も母家へ取つて返して、薄暗い中に
「親分、何處へ」
後ろからガラツ八、これは下駄と草履を
「八、お前は暫らく此處に居るがいゝ」
「へエ||」
「俺は少し行つて來るところがある」
「あれは一體、どうした事でせう親分、あつしには少しも解らねえ」
「正直に言ふと俺にも解らないよ」
「へエ||」
「八、恐ろしい事だ。いや、もつと/\恐ろしい事が起りさうで、何うもヂツとしちや居られねえやうな氣がするんだ」
「親分、大丈夫ですかえ」
「||」
「親分」
半刻ばかりの後、八丁堀組屋敷で、與力笹野新三郎の前に錢形の平次ともあらう者が、すつかり
「旦那樣、これは一體どうした事でございませう。一と言通りの家督爭ひとか、金が仇の騷動なら、大概底が見える筈ですが、この田代屋の一件ばかりは、まるで私には見當もつきません。旦那のお智慧を拜借して何とか目鼻だけでもつけたう御座います」
「フム、大分變つた事件らしいが、平次、お前は本氣で見當掛つかないと云ふのか」
笹野新三郎は妙に開き直ります。
「へエ||さう仰しやられると、滿更考へたことがないでは御座いませんが||、あまり事件が大きくて、私は
「それ見ろ、錢形の平次にこれほどの事が解らぬ筈はない。兎も角、思ひついただけを言つて見るがよい。お前で解らぬことがあれば、
「有難う御座います。旦那樣、それでは、平次の胸にあることを、何も彼も申上げて了ひませう」
「||」
「あの、田代屋又左衞門といふのは、確か、慶安四年の騷ぎに、丸橋忠彌一味の
「その通りだ。それはせ知つて居るお前が、何を迷ふことがあるのだ」
「へエ||、すると矢張り、田代屋一家内の
「先づさう考へるのが筋道だらうな」
「田代屋が一と先づ片附けば、次は同じく忠彌を訴人した本郷弓町の弓師藤四郎、續いては、返り忠して御褒めに預つた奧村八郎右衞門を始め、御老中方お屋敷へも仇をするものと見なければなりません」
「その通りだよ平次」
「又浪人共を狩り集めて、
「いや、其處までは何うだらう」
「それにしても不思議なのは、あの毒藥で御座います。醫者の申すには、町の生藥屋などに、ザラに賣つて居る品ではない、多分
「平次、お前はあの事を知らなかつたのか」
「と仰しやいますと」
「田代屋一家の騷ぎは大した事ではないが、私にはその毒藥の出所の方が心配だ」
「||」
「平次、これはお上の祕密で、誰にも明かされないことになつて居るが、心得の爲に話してやらう。
「へエ||」
笹野新三郎は自分も
「丸橋忠彌召捕の時、麻布二
「||」
「玉川に流し込んで、江戸の武家町人を
「へエ||、存じて居ります」
「ところが、二本榎の貸家で見つかつた毒藥といふのは、その實二百三十樽だけで、あと百樽の行方が何うしても判らぬ」
「エツ」
「一味の者は誰も知らず、係りの平見
「||」
「若しその百
「||」
「平次、これは大變な事だ、一刻も早く曲者の
笹野新三郎の思ひ入つた顏を、平次は
「旦那樣、暫らくこの平次にお任せを願ひます」
「何?」
「せめて今日一日、この平次の必死の働きを御覽下さいまし。その代り、弓師藤四郎、奧村八郎右衞門はじめ、御老中方お屋敷に人數を配り萬一の場合に
平次は新三郎の耳に口を持つて行きました。
平次はその足ですぐ田代屋へ取つて返しました。奧へ通されて、主人の又左衞門と相對したのはもう夕暮れ。小僧の三吉と、隣に住んで居た又五郎夫婦の死體の始末をして、家の中は上を下への混雜ですが、幸ひ他の人達は全部元氣を取り返して、青い顏をし乍らも忙しさうに立ら働いて居ります。
「實はイヤな事をお聞かせしなければなりませんが||いよ/\、毒を盛つた人間の目星がつきましたよ」
「へエ||、何處の
腕の痛みにも、毒藥の苦しさにもめげず、相手が判つたと聞くと又左衞門は膝を乘り出します。
「それが厄介で、いよ/\この家から、繩付を出さなきアなりません」
「矢張りあの女で||」
「いや考へ違ひなすつちやいけません、御新造は何にも知りはしません」
「へエ||」
「風呂場から吹矢を盜んで、外へ捨てゝ相棒に土の中へ踏み込ませたり、
「誰です、その野郎は、早く縛つて下さい」
「いや、さう手輕には行きません。田代屋一家を
「田代屋一家を怨む者といふと若しや||?」
「氣がつきましたか旦那、あれですよ、丸橋忠彌の一味||」
「エツ、家の中の誰がその
「シツ、靜かに、人に聽かれちや大變||つかぬ事を訊きますが、あの奉公人とも養ひ娘ともつかぬお秋||、あの女の身許がよく判つてゐませうか」
「いや||そんな事はありやしません。あの娘に限つて」
「あの娘の毒に中てられた苦しみやうが、一番ひどかつたが、他の人とは何處か調子が違つて居はしませんでしたか」
「さう言へば||」
二人の聲は次第に小さくなります。
「太い女だ、三年この方目をかけてやつた恩も忘れて」
と又左衞門、腹立ち紛れにツイ聲が高くなります。
「今騷いぢや何にもなりません。あの女は
平次の聲は、
間もなく田代屋を拔け出した一人の女||小風呂敷を胸に抱いて後前を見廻し乍ら水道端の
「誰だ?」
中からは
「兄さん、私」
「お秋か、今頃何しに來た」
「大變よ、手が廻つたらしい」
「シツ」
中からコトリと
「何うしたんだ、話して見ろ」
伏せて居た
「兄さん、あと一
お秋の息ははずみ切つて居ります。
「誰がそんな事を言つた」
「錢形の平次」
「何處で」
「田代屋の奧で、旦那と話して居るのを聽いて、夢中になつて飛出して來ました」
「馬鹿ツ」
「||」
「平次がそんな間拔な事を、人に聽かれるやうに言ふ筈はない、お前があわてゝ飛出す後を
「エツ」
思はず振り向くお秋の後ろへ、ニヤリ笑つて突つ立つて居るのは、果して錢形の平次の顏です。
「あツ」
驚くお秋を突き返けて、
「御用だぞ、神妙にせい」
一歩平次が進むと、早くも五六歩飛退いた曲者、||
「平次、寄るな、この龕燈の先を見ろ。向うにある眞つ黒なのは
「||」
「寄るな平次、退かないか、丸橋先生、柴田先生が三百三十樽の毒藥のうち、百樽を此處に隱して、神田川上水に流し込む計略だつたんだ。半月經つて、誰も氣がつかずに其儘になつて居るのを知つて上水の
平次もさすがに驚きましたが、相手の氣組を見ると、全くそれ位のことはやり兼ねないのは判り切つて居ります。
「待て/\、そんな無法な事をして、江戸中の人間に難儀をかけるのは本意ではあるまい。天運とあきらめて、神妙にお繩を頂戴せい」
「何を馬鹿な、俺は死んでも仇は討てるぞ、見ろツ」
右手に閃めく龕燈、そのまゝ、後ろの焔硝樽へ投げ込まうとするのを平次は得意の投げ錢、
「あツ」
龕燈を取り落すと同時に飛込んだ平次、暫らく闇の中に揉み合ひましたが、何うやら組伏せて早繩を打ちます。
物置の外へ出ると、ガラツ八、これはお秋を縛つて、漸く繩を打つたところ。
「親分、お目出度う」
「お、八か、骨を折らせたなア」
× × ×
捕まへた曲者は、
調べたら面白いこともあつたでせうが、人心の動搖を
平次は老中阿部豊後守のお目通りを許され、身に餘る言葉を頂きましたが、相變らず蔭の仕事で、表沙汰の手柄にも功名にもなりません。それも併し氣にするやうな平次ではありません、時々思ひ出したやうに、
「あのお秋つて娘は可哀さうだつたよ。田代屋の又次郎に
こんな事をガラツ八に言つて聽かせました。