「親分、このお二人に訊いて下さい」
いけぞんざいなガラツ八の八五郎が、精一杯丁寧に案内して來たのは、武家風の女が二人。
「私は
六十近い品の良い老女が、身分柄も忘れて岡つ引風情の平次に丁寧な挨拶です。
後ろに
「承はりませうか。私は町方の岡つ引きで、御武家の
平次は靜かに老女の話を
肥前島原の城主高力左近太夫高長は、
「伜玄蕃はそれを
老女は此處まで話すと、襲はれたやうに、ゴクリと
「御次男内匠樣が二三日前から行方知れずになつた||と斯う仰しやるのでせう」
平次はもどかしさうに、八五郎から聽かされた筋を先潜りしました。
「左樣でございます。元の
「川上とやら言ふ方に、お訊ねになつたことでせうな」
「翌る日直ぐ、西久保屋敷まで參り、川上樣にお目にかゝり、根ほり葉ほり伺ひましたところ、伜は腹痛がするから歸ると言つて、船へも乘らずに、芝濱の船宿で別れたつきり、その後のことは何にも知らないといふ口上でございます」
「||」
「
「||大方?」
「お屋敷につれ込まれて、御成敗||を」
「あれ、母上樣」
言つてはならぬ事を言つた加世は、嫁のお關に袖を引かれて、そつと襟をかき合せます。
「日頃お憎しみの重なる
「||」
「
老女は涙こそ流して居りましたが、母性の權化の樣な、強大な意志の持主でした。主家を退轉して三萬七千石の大名に
「お屋敷へ申出でましたところで、
氣丈らしい老母加世も、打ち明けて話した氣の
「||」
平次は默つて腕を
「君御馬前に討死するとか、武士の意氣地で死ぬことなら、私は歎きも怨みもいたしません。兄
かう言ふ老女の
「私共の掛り合ふ事ぢやございませんが、お話を承はつた上は、お氣の毒で見ぬ振りもなりません。どんな事になるかは解りませんが、兎に角一應當つて見ませう。内匠樣とやらがまだ御無事でいらつしやれば、||事と次第によつちや、何とかならないこともないでせう」
平次はツイ斯んな取返しの付かぬ事を言つてしまつたのでした。唯の二本差でさへ手の付けやうのない岡つ引風情が、大名を相手に、一體何をしようと言ふのでせう。
「それでは平次殿、お願ひ申します」
いそ/\と立上がる女二人。
「何かの心得に伺つて置きますが、内匠樣、御年輩、御樣子は?」
「取つて二十七、
高力藩第一の美男||とは、さすがに母の口から言ひません。が、何かしら平次は、そんなものを感じました。
「八、大變なものを引つ張つて來やがつたな」
女二人を路地の外に見送つて、平次は苦い顏をしました。
「さう言はずに、何とかしてやつて下さいよ、親分。
「綺麗だから一と肌脱いでくれは厭だよ。俺はそんなさもしい料簡方は大嫌ひだ」
「そんな
「大層
「へツ/\、先づざつと斯んなもんで」
「
「先づそんなところで」
「呆れた野郎だ」
そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をして、あまり近くもない西久保へ出向きました。
高力左近太夫は、若くて無法で、界隈でも散々の評判でした。春參府の折も、松平大膳大夫の領内
その道、どんな料簡か、藝州廣島城も見る積りでしたが、淺野の家中に騷がれてこれも果さず、散々の體で江戸表へ
續いて今度の歸國、瀬戸内海は船で通すにしても、藝州と防州の沖を、無事には通れまい||と言つた
「これは面白くなりさうだ。||相手は惡いが、一番川上何とか言ふ武家に逢つて見ようか」
いろ/\の噂をかき集めて、高力左近太夫その人の
「御免下さい」
「ドーレ」
「旦那樣お出でゞございませうか。あつしは神田の平次と申して、町方の御用を承はつて居る者でございます。ちよいとお教へを願ひたいことがございますが、へエ」
平次はさう言ひ乍ら、日頃にもない
「何? 神田の平次だ? 町方の岡つ引などにお目にかゝる旦那ではない、歸れ/\」
取次の小者は、
「御尤もで、
「何?」
「品川沖から、死骸が大川を
「あ、これ/\待て」
後ろから呼止めたのは、中年の立派な武士||多分これが主人の川上源左衞門でせう。
「へエ、へエ」
「今聞いてゐると、志賀内匠氏の死骸が、百本杭から揚つたとか言ふやうだが、それは何かの間違ひではないか」
「間違ひぢやございません。母親のお加世樣とお
「そんな馬鹿なツ」
川上源左衞門は噛んで吐き出すやうでした。
「その上死骸には刀傷がございます。人に
「||」
「下手人を搜し出して、縛るのが手前共の仕事でございます」
「すると、拙者が怪しいとでも言ふのか」
川上源左衞門は少し開き直りました。
「飛んでもない」
「なら、とつとゝ歸れ、||拙者は何にも知らぬ。町方の岡つ引風情が、武士に向つて、
ピシリと眞つ向から、一本極め付けて置いて、川上源左衞門は戸口の障子を閉め切らうとするのです。
「ちよいとお待ちを願ひます。||あつしは詮索がましい事を申すために參つたのではございませんが、志賀内匠樣は御浪人とは申せ、ついこの春までは當家の御家中で、旦那と一緒に沖釣に出かけたつきり、行方不明となつた方でございます。町方で探索の手が屆かなければ、その旨を御奉行から、大目付へ申し達し、龍の口評定所へ、改めて御家老なり御用人なりを、出頭して頂く
「これ/\何を申すのだ、馬鹿々々しい。當家を退轉した者の詮索に、目付衆を龍の口評定所までお引合に出す奴があるものか」
川上源左衞門も少しあわてました。何か痛い尻がありさうでもあります。
「いたし方ございません、では御免」
「困つた奴だ、||俺が知つてることは何でも教へてやらう、少し落着いて話すがよい。第一、志賀内匠氏は死んでゐないのだ」
「それは本當でございますか、川上樣」
「いや、死ぬやうなことはあるまい、と言ふのだよ。
川上源左衞門は、少しあわて氣味に訂正しましたが、うつかり
「死んだ筈はないと仰しやれば、唯今何處にいらつしやるのでございます」
「それは知らぬ」
「では、死んだか、生きてゐるか、御存じない筈で」
「
「揚足を取るわけぢやございませんが、百本杭から揚つた死骸の始末をつけないわけには參りません」
「それは志賀内匠氏でないと言つたら、それでいゝではないか」
「その内匠樣は、何處にいらつしやるので?」
「くどいツ」
川上源左衞門は本當に腹を立てた樣子で、平次とガラツ八を睨め廻し乍ら、後ろ手を伸して、上り
「親分」
八五郎は後ろからそつと平次の袖を引きました。此上からかつて居ると、どんな事になるかもわかりません。
「あれが弟の
「大丈夫、間違へるやうな人相ぢやありません」
平次とガラツ八は、高力家の内外の樣子を探り乍ら川上源左衞門の弟治太夫の歸りを待つて居たのでした。
「又、百本杭の死骸を持出すんでせう」
「シツ、一世一代の
「へエ」
その中に近づいて來たのは、三十五六の
「川上樣、結構なお天氣でございます」
「お前は何だ?」
斯う言つた治太夫の人柄でした。平次の前に立止つて、ジロジロと
「この間は品川へ釣にいらつしやいましたな。三日前、今日のやうな良い天氣でした。兄上樣と、志賀内匠樣と」
「何を言ふ」
「品川でお見かけ申しましたよ。
「あ、あの事か、成程行つた。||確かに行つたよ、品川で舟を出さうと言ふ時、志賀氏は急に腹が痛いと言ひ出してな」
「その志賀樣の死骸が、百本杭から揚つたことを御存じでせうな」
「何と言ふ?」
「肩先を斬られて、
「飛んでもない、そんなわけはないぞ」
「でも、親御樣やお
平次は又同じことをくり返すのでした。
「馬鹿なこと、志賀内匠はピンピンして居るぞ、そいつは人違ひだ」
「でも旦那」
「うるさい奴だ」
治太夫は袖を拂つて門の中に入つてしまひました。
「親分」
「八」
平次とガラツ八は、その後ろ姿を見送つて、何やらうなづき合ひます。
「本當に生きてゐるでせうね」
「大丈夫だ、が||、何のために誘ひ出したか、それが知りたい」
「手討にするためぢやありませんか」
「いや、それほど憎い内匠を、三日も放つて置くわけはない」
「||」
それ以上は想像も及びません。
平次とガラツ八は根氣よく人の噂を集め續けました。屋敷の中に、何となく不思議な
平次は其處からすぐ八丁堀へ飛んで行つて、笹野新三郎の口から町奉行を動かし、大目付に
「判つたよ、八」
平次がさう言つたのは、それから二日目。
「何が判つたんで? 親分」
「高力家の物々しい樣子が變だと思つたら、今度のお國入が大變なんだ」
「へエ||」
「この春參府の時、一と手柄を立てゝ、公儀の不評判を
「へエ||」
「そんな事は手柄にも功名にもならないが、毛利と淺野にはうんと憎まれた。今度の御歸圍も、防州藝州は無事では通られない」
「なる程ね」
「ところで高力左近太夫樣は今年二十七、細面で
「へエ||」
「志賀内匠といふお武家は、殿樣によく似て居ると||外ならぬ母親が言つたのを
「へエ||」
「謎は解けたらう。志賀内匠はなぜ
「へエ||」
「まだ判らないのかい」
「へエ||」
「呆れた野郎だ。それで十手捕繩をお預りしちや濟むめえ」
「へエ」
「高力左近太夫樣が、高力左近太夫樣で道中をしては、毛利と淺野の家來につけ狙はれて危ないが、參覲交代の大名が、逃げも隱れもするわけに行かねえ」
「成程ね」
「そこで、殿樣に似てゐる志賀内匠をおびき出し、
「讀めたツ、||それに
「今頃讀めたつて自慢にはならねえ」
「太てえ殿樣野郎だ。これから踏込んで、三萬七千石の家中を引つくり返し、
ガラツ八は本當に、三萬七千石の大名を向うに廻して、一と汗掻く氣で居るのでせう。
「大層な勢ひだが、向うへ乘込んで何うする積りだ」
「殿樣||と言ひてえが、用人か家老の首根つこを抑へて、志賀内匠樣を救ひ出す」
「證據があるかい」
「||?」
「志賀内匠といふ方が、
「親分」
ガラツ八は助け舟の欲しさうな顏でした。
「川上源左衞門と治太夫の口が違ふ、それが何よりの證據だ。源左衞門は芝濱の
「成アる」
「まだあるが、言ふと手前が飛出しさうにするから、預かつて置かう、||志賀内匠といふ方の命には別條あるまい、もう少し樣子を見るがいゝ」
「へエ||」
相手は大名、平次もこれ以上は手の下だしやうがありません。暫らく見ぬふりをしてゐるうちに、志賀内匠は、高力左近太夫の身代りになつて、九州島原まで、危險な旅に上ることでせう。
その日の夕刻、志賀
「このやうなものが參りました。御覽下さいまし」
差出したのは、
拙者は無事でさるところに隱れてゐる、母上樣は何彼とお氣を揉 まれることであらうが、そもじの力で、よく理解の行くやうに、お慰め申上げてくれ。又逢ふ折はあるかないか解らぬが、萬一用事のある節は、西久保上御屋敷門番左五兵衞に頼むがよい。但し、母上には申上げぬ方がよからうと思ふ。私が死んだと思ひ誤つて、氣を揉む樣子だから、無理の都合をして、この手紙を屆ける、云々
斯んな事が、達者な手で細々と書いてあつたのです。「これは、間違ひもなく、内匠樣
「確かに、主人の書いたものでございます」
お關はうなづきます。
「主家を退轉なすつたのは、御主人樣のお心持で?」
「いえ、母上樣の思召しでございました。兄上玄蕃樣御手討になつた上は、
「成程、内匠樣はそのおつもりでなかつたと仰しやる」
「ハイ」
母性の本能と、臣節との
ガラツ八はその間にも、横の方から首を伸べ
それも併し、此上もなく
高力左近太夫が、三萬七千石と釣替にし兼ねまじきお關の美しさ、ガラツ八が物も言はずに眺め入つたのも無理のないことでした。
「何も彼も、内匠樣御承知の上で
「ハイ」
お關は悲しさうでした。が、夫内匠の意志でしたことゝ判つては、どうすることも出來ません。
暫らく經つて、淋しく歸つて行くお關の姿を、平次の女房のお靜までが見送つたのです。
「お氣の毒な、||何とかして上げられないものでせうか」
お靜は
「武家方のすることは、こちとらにや解られえ、まア/\放つて置くことだ」
「でも、親分」
八五郎は膝を乘出します。
「
「親分」
「まて、腹を立てるな、女の顏を、穴のあくほど見る奴の方が惡いんだから」
平次は何も彼も忘れてしまつたやうに、ブラリと町内の錢湯へ行つて來て、珍らしくお靜に一本つけさせました。さすがに十手も捕繩も及ばない世界に踏込んで、拔差しならぬムシヤクシヤした心を持扱つたのでせう。
その晩。
「平次殿、嫁は見えませんでしたか」
あわてた姿で飛込んで來たのは、志賀内匠の母親加世でした。
「夕刻ちよいと見えましたが、||どうかしましたか」
「夕方一度出て歸つて、それから、夕食後にまた出かけましたが||」
「はて?」
「何か使走りの男が、手紙のやうなものを持つて來たやうですが、それを見ると急にソワソワして、私の言葉も
「それは何刻頃のことで?」
「
「||」
平次は眉を
「どうしたことでございませう、萬一嫁の身の上にまで」
加世は自分の胸を抱くのです。武家の年寄らしくない、飾りつ氣のない
「兎も角、斯うしちや居られない、行つて見ませう」
「何處へ? 親分」
「當てはないが||多分西久保の邊だらうよ」
老女をお靜に預けたまゝ、平次とガラツ八は、初夏の江戸の街を、一氣に西久保へ飛びました。
翌る日の朝、何の獲物もなく八丁堀まで引揚げた平次は(目黒川に若い女の死骸が浮いた、||若くて
「これは大變な彌次馬だ」
目黒川の土手を眞黒に埋めた人垣を見ると、平次の義憤は燃え上がります。若くて綺麗な女の死骸と聞くと、猫も
「退いた/\、見世物ぢやねえ、そんなものを見ると、
八五郎が大聲でわめき乍ら、追ひ散らす人垣の中を、一と目、
「あツ」
平次は仰天しました。
「親分」
「矢張り、思つた通りだ」
平次は死骸の
「あ、お内儀。何てことをしやがるんだらう」
ガラツ八も眼をしばたゝきました。美しい人の死は、あまりにも殘酷で、二目とは見られません。
「錢形の親分、この佛樣を知つて居なさるのかい」
横合から顏を出したのは、土地の御用聞、目黒の與吉といふ中年者でした。
「知つて居るどころぢやねえ、昨夜から行方を探して居たのさ。神田明神樣裏の、
「へエ||ひどい事になつたものだね、いづれは
與吉はさう言つて、死骸の首のあたりを指すのです。
美女の
「念の入つた下手人だね、殺した上に合掌までさせて」
與吉はその死骸の合せた掌を指します。
「死んでから組ませては、斯う
平次は死骸の指に觸つて、首を垂れました。
「覺悟の上といふと?」
與吉の不審にも構はず、平次は尚ほも、帶の間、袂の中、前も、後ろも念入りに見ましたが、紙片一つ持つては居ません。
「親分、大變なものに包んであるんだね」
ガラツ八は、死骸を包んだ
「
「解るか、八」
「へエ||」
「覺悟の上のお手討だ。家來の腕利きにやらせたのでない證據は、この切口の亂暴な樣子で解るだらう。
「||」
「奧座敷か奧庭で斬つたから、荒筵でも
「||」
「殿樣の無體の
平次はもう一度美女の死骸に首を垂れるのです。
「でも、西久保から此處までぢや大變ですぜ、親分」
「此處にお下屋敷があるだらう、訊いて見な」
「な||る」
ガラツ八は横手を打つと直ぐ飛出しました。目黒の與吉は、何が何やら解らない樣子で、ぼんやり二人の話を聽いて居りましたが、氣が付くと
「寄るな/\、見せ物ぢやねえ」
急に彌次馬の方へ向いて精一杯の鹽辛聲を張上げます。
門番の左五兵衞を呼出すのに一ト骨を折つた上、その口を開かせるのに、老母加世は、
「一と目、たつた一と目、伜に逢はせて下さい。この望が叶つた上は、其場でこの私の命を取つても怨みません」
加世の歎きは深刻でした。
「それぢや斯うしませう。志賀樣には御先代から並々ならぬお世話になつた私です。その御恩返しのつもりで、お長屋の格子へ、今夜
「有難う、御恩に
加世はそれを聞くと、手を合せて、門番を拜むのでした。
「お長屋の窓は、門から數へて右へ四つ目、九つの増上寺の鐘が合圖でございますよ」
格子を
約束の
加世は平次と八五郎に伴れられて、西久保高力家上屋敷の門の外に忍び寄りました。
明日は殿樣江戸表出立といふ騷ぎ、邸内は宵までごつた返して、
「お、内匠」
「母上」
二人は飛付きました。が、
「殿樣の身代りになつて、危ない旅に出られると言ふのは、それは、嘘だらうね、内匠」
「いえ、母上」
「そのやうな事は、この母が許しません。高力家を退轉したお前に、何の義理がありませう、それはなりませんよ」
加世は溝も越え、格子も突破つて、ならう事なら、伜を此處から引出したい樣子ですが、内匠はその氣組を避けるやうに、心持格子から離れました。
「母上、お家を退轉したのは、私の本心ではございません。何と申しても、高力家は、三代相恩の御主」
「いえ/\三代相恩でも、兄玄蕃が
「えツ」
「この上の義理立ては祖先への不孝になります。さア、歸りませう。此處から出られないと言ふなら、私が表門から乘込んで、御家老、御用人に申上げ、お前をつれて歸ります」
「それはなりません、母上」
志賀内匠は、薄暗い格子の内に、灯に
「志賀樣、||御免下さい。あつしは神田の平次といふ者ですが、少しはお母樣の身にもなつて上げて下さい」
平次はたまり兼ねて飛出しました。
「何を言ふ、お前は私の知らぬ人だ」
「この方は、今の私には
「お手討?」
志賀内匠の姿はさすがに顫へました。
「申しませう、志賀樣、斯う言ふわけでございます」
平次は乘出しました。二度目の僞手紙でお關をおびき出し、目黒の下屋敷につれ込んだ高力左近は、恩人にして臣下、今はしかも自分の身代りにならうと言ふ志賀内匠の妻お關に、無體の戀慕を仕掛け、貞烈なお關の
「元の主君と言つても、あまりと言へば無法な仕打ち、この上の義理立ては天に
「いや、出られる、私は縛られも、閉ぢ籠められも何うもしてゐない、が」
「それでは、内匠樣」
平次は四尺の溝を飛越し、格子に
「平次とやら、お前の言ふことはよく判つた。母上や妻のために、それほどまでに骨を折つてくれて、辱けない。禮を言ふぞ」
「||」
志賀内匠は首を垂れました。
「だが、な、平次とやら、よく聽いてくれ、妻には妻の道がある。主君と
内匠は格子に縋るやうに、宙に向つて頭を垂れるのでした。目黒川に無慙な死骸を浮べた貞烈な美女のために、夫の最上の感謝を捧げるのでせう。
「だが、平次」
内匠は暫らく默祷の後に續けました。
「志賀家の血統を護らうとする、有難い母上の思召、||これは世の母の最上の途とでも申さうか」
「||」
加世は道に崩折れて、涙に
「家來には家來の道がある。君君たらずとも、臣臣たるの道を盡すのが武士の意氣地だ。まして三代相恩の高力左近太夫樣、今必死の大難に遭はれるのを、臣たる者が、素知らぬ顏で居られようか」
「||」
「安穩に生き永らへるより、忠節に死ぬのが武士の本望だ。||逃げる道も、歸る道もあるが、進んで殿樣御身代りとなり、
「||」
「痩せ我慢と言つてもよい、身勝手と言はれても構はぬ、||母上樣にはお氣の毒だが、この私が、武士らしく死ぬのを、せめてもの御自慢に遊ばして下さい。この心掛は皆、亡き父上始め、兄上、母上樣に教へて頂きました」
「||」
「關一人を
誰も
「よく解りました。妻には妻の道、母には母の道、臣下には臣下の道、成程仰しやる通りで、主君を見離せと申した、この平次は馬鹿でございました」
「解つてくれたか、平次」
「この上は止め立てをいたしません。行つていらつしやい。立派に身代りのお役目を果して下さい。
「
内匠の眼は輝やきました。思はず擧げた母の顏、
「母上、隨分お達者で」
「伜」
二人は手を取り合ふことも叶はず、涙に
「志賀樣、||妻の道、母の道、臣の道の外に、十手の道のあることも覺えて置いて下さい」
平次は變なことを言ひ出したのです。
「||」
「私はお上の御用を承はるものです。お母樣は引受けましたが、高力左近太夫樣は引受けません」
「何?」
謎のやうな言葉を殘して、平次はたつた一人、
不思議なことに、高力左近太夫に化けた、志賀内匠は、陸路何の
志賀内匠は表面お手討といふ事で、實は主君の身代りになつたのですが、主家沒落と共に江戸に馳せ歸り、平次に預けた母親を引取つて孝養を盡した事は言ふ迄もありません。
× × ×
暫らく經つてから、||
「志賀内匠といふ人が、殿樣の身代りになつて、行列を組んで中國筋を通つた癖に、無事に島原へ着いたわけは、どうも俺には解らねえ」
八五郎がキナ臭い顏をすると、平次はニヤニヤし乍ら、斯う言ふのです。
「岡つ引には十手の道があると言つたぢやないか、俺はその晩、毛利と淺野のお屋敷に驅け込み、
「へエ||」
八五郎も開いた口が塞がりません。
「高力家の
「そいつは知らねえ。大名の内輪のことまで、町方の御用聞が
平次の斯う言ふのは本當でせう。この事件がなくとも、高力家の沒落は、止めやうのない勢ひだつたのです。
「それにしても、あのお關さんといふお内儀は綺麗だつたね」
「あんまり綺麗過ぎて魔がさしたんだよ、女房は汚い方が無事でいゝな、八」
平次はさう言ひ乍ら、チラリとお勝手で働いて居るお靜を振り返りました。これも汚いどころか、少し綺麗過ぎる方の口です。