「親分の前だが||」
ガラツ八の八五郎は、何やらニヤニヤとしてをります。
「前だか後ろだか知らないが、人の顏を見て、思ひ出し笑ひをするのは罪が深いぜ。何を一體思ひ詰めたんだ」
錢形の平次は相變らずこんな調子でした。年を取つても貧乏しても氣の若さと
「ね、親分の前だが、
「褒美?」
「忘れちやいけませんよ。近頃御府内にチヨイチヨイ
「なんだその事か、||そいつは取らぬ
「でも、萬一といふことがあるでせう。あつしがその僞金造りを捕へたら、どうなるでせう、親分」
「大層な氣組だが、||まア
「でも||」
「萬一なんてことがあるものか、谷中の
「谷中の富籤ほども分がありませんかね、親分」
「まア、そんな事だらうよ」
錢形の平次が
その頃横行した贋金といふのは、
「あの||」
そんな夢のやうな事を話してゐるガラツ八の後ろへ、平次の女房のお靜はそつと顏を出しました。相變らず若くて内氣で可愛らしい女房ぶりです。
「何んだ」
「お客樣ですが||」
「お客樣? どなただ」
「それがわかりません。眞つ蒼になつて
「お勝手か」
「え」
平次は默つて立ち上がると、女房を
二月の町は
「八」
「へエ」
たつたそれだけの號令で、八五郎は
間もなく路地一パイの騷ぎを展開し乍ら、八五郎は一人の若い男を
「此野郎、逃げようたつて逃がすものか。さア、眞つ直ぐに歩け」
「行きますよ、親分、||逃げも隱れもしません。どうせ錢形の親分にお願ひするつもりで來たんですもの」
「何を言やがる、||そんなら逃げるわけはないぢやないか」
八五郎に小突かれながら來るのは、二十三四のめくら
「八、何といふ騷ぎだ。御近所の衆がびつくりするぢやないか」
平次は見兼ねて戸口から聲を掛けます。一國者の八五郎は、お勝手を覗いて逃げ出したといふ男を、縛り上げ兼ねない見幕だつたのです。
「一體何うしたといふんだ。||お前さんはお勝手を覗いて、俺に逢ひ度いと言つたんだらう」
「へエ」
「それが急に逃げ出すからこんな騷ぎになるぢやないか」
若い男を家の中に入れると、錢形の平次は打ち解けた調子で斯う問ひ進むのでした。
「相濟みません。||私は急に
若い男は
「何が怖かつたんだ。俺はそんな怖い顏をした覺えはないが||」
平次はツイ
「||なまじつか、私が言ひさへしなければ、誰も知る筈のないことを、
「何んの卷添へなんだ。||正直に話したらお前さんの迷惑になるやうにはしない。
「染吉が殺されてゐたんで、へエ||、驚いたの驚かないのつて||」
突然そんな事を言つて、若い男はそつと後ろを見廻します。
「染吉が殺された?」
このあわてた男の口から、事件の實相をつかみ出すのは、錢形の平次にしても、容易ならぬ仕事でした。
この男は勇太郎といふ湯島のさゝやかな炭屋の亭主で、
「||驚いて錢形の親分さんのところまで飛んで來ました。錢形の親分さんなら、染吉を殺した本當の下手人をわけもなく見付けて下さるだらうと思つたからで御座います。お勝手口から
若い男||炭屋の勇太郎は、ガタガタ顫へ乍ら
「それつ切りか」
ガラツ八は後ろから少し荒つぽい聲を掛けました。
「それつ切りでございます。
「染吉と、どんな話をしたんだ。||そいつを聽かう。||いや、どうせ現場へ行くんだから歩き乍らの方が宜い」
平次は手早く仕度をして飛出すと、大根畑への道を急ぎ乍ら、勇太郎の答へを
「いろ/\意見を申しました」
「意見といふと?」
「染吉と私は湯島に生れて湯島に育つて、本當の
「フム」
「すると染吉は、近頃いろ/\考へた末、危い商賣とフツツリ縁を切つて、本當に
「それから」
「一度は薄情な仕打もした
「お芳といふのは?」
「妻戀坂の荒物屋の娘で、染吉の許嫁で御座いました」
さう言ふ勇太郎の調子には、言ふに言はれぬ深い感情のあるのを、平次は見逃さなかつたのです。
「お前とは關係がないのか」
「飛んでもない 親分さん、私などが||」
パツと赤くなる勇太郎の
妻戀稻荷の前の茶店||晝は婆さんが一人
往來から少し離れてゐるので、幸ひ彌次馬の眼にも觸れなかつたらしく、平次とガラツ八が、勇太郎を追つ立てるやうにして行つた時は、何も彼も勇太郎が發見した時のまゝになつて居りました。
「こいつはひどい」
八五郎が思はず尻ごみしたのも無理はありません。染吉の死骸は縁臺の下に滑り落ちて居りますが、後ろから重い物で、頭を一と思ひに叩かれたらしく、よく
「物も言はずに死んだことだらうな」
平次はさう言ひ乍ら死骸を引起して、いろ/\調べて居ります。
「何んで打つたんでせう」
ガラツ八は其邊を搜しましたが、
「中に何があるか見た上で、お前が預かつて置いてくれ」
平次は聲をかけました。
「何んにもありませんよ」
「拔かれたんだらう」
「これが目當ての泥棒ですかね」
「いや、そんなことぢやあるまいよ。泥棒ならこんな結構な煙草入を盜らずに行く筈はない」
平次は染吉の死骸から拔いた
「大變な品ですね」
「フーム、こんな物を持つのは、江戸でも名のある町人か
平次は小判を月光りにすかして、ヒヨイと重さを引いて見ましたが、元の煙草入に納めて、自分の
「それにしても贅澤な人間ですね」
ガラツ八は月の光や、次第に集まつて來る提灯の光りの中で、死骸を眺め乍ら、こんな遠慮のない事を言ふのでした。
見る蔭もない死に樣ですが、染吉といふのは餘つ程の
一と通り檢屍が濟んだのはもう
「八、ちよいと附き合つて見ないか」
「一杯やらかすんでせう、へツ、へツ」
「馬鹿だなア、附き合へつて言へば、飮むことだと思つてやがる。染吉殺しはまだ目鼻もつかないぢやないか。明日の
「へツ、附き合ひますよ。||酒は御免を
「急にいきり出すぢやないか、||飮み
さう言ひ乍ら、平次が叩いたのは、妻戀坂の荒物屋の戸でした。
其處には六十を越した父親の
「これは親分樣方」
周吉はあわてて引つかけたらしい
「染吉が殺されたんだが、知つて居るだらうな」
平次は短兵急でした。
「あの騷ぎですもの、よく知つて居りますよ。でも、年寄と若い女の見るやうなものぢやありませんから、お芳も外へは出しません」
周吉の調子には、年寄らしい用心深さがあります。
「染吉は今晩お芳と逢ふ約束だつたさうだな」
「そんな事が親分||」
あわてて辯解する父親の袖をそつと引いて、
「父さん、皆んな申上げた方が宜いでせう、||染吉さんは久し振りで逢つて話し度いことがあるから、父さんには
お芳の顏はさすがに
「行つたのか」
「ハイ、父さんの御機嫌がむづかしくて、家を出られないんで、少し遲れて行つて見ると」
「||」
「親分さん方が、染吉さんの死骸を調べてゐるところでした」
「その前は確かに出なかつたのか」
「出やしません。出しもしなかつたので、へエ」
周吉は
「染吉とお芳さんが、許婚だつたといふ噂があるが、本當かい」
「飛んでもない、親分。あんな道樂者のところへ、大事の娘をやるわけはありません。
「どうだいお芳さん」
平次は周吉に
「一年前、そんな話もありました。でも、近頃の染吉さんは||」
お芳の顏には、惱ましさが雲の如く湧きます。
「勇太郎は染吉と張り合つたんぢやないのか」
「あの人は正直で氣の良い人です。一時染吉さんと面白くない事があつても、それを根に持つやうな人ぢや御座いません」
お芳は
「親分、何んにもわかりませんよ。この上は勇太郎を縛つて、二三
いろ/\の情報を集めさせにやつた八五郎は、翌る日の晝過ぎにフラリと歸つて來ました。
「そんなわけには行かないよ。本當に勇太郎が
平次は落着き拂つて居ります。
「家へ歸つて着換へて來る
「そんな落着いたことの出來る男ぢやない」
「でも、勇太郎の
「何處で見付かつたんだ」
「町内の若い者が妻戀稻荷の後ろの
「
「秤の先へ分銅を縛つてあつたさうです」
「フーム」
「これだけでも、三輪の親分なんかの耳に入ると、勇太郎を縛りますよ」
「家へ歸つて着物を換へるほどの落着きがあるなら、分銅位は洗つて置けさうなものぢやないか。現場のすぐ近くへ、血の附いたまゝ捨てて行くのは、下手人は此
「さうですかね」
平次の論理の前に、ガラツ八は小首を
「お芳はどうした」
「世間では何んとか言ふが、あの娘は人を殺すやうな人間ぢやありませんよ。染吉はお芳の生眞面目なのが嫌になつて、この一年ばかり前から、丸山町の直助のところへ入りびたつて、その妹のお辰といふのに夢中になつて居るが」
「丸山町の直助||聞いた事のない名だな」
「
「いづれそいつは後で當つて見よう。ところで、俺の方は大變なものを見付けたよ」
「何んです、親分」
「これだ」
平次は昨夜染吉の死骸から持つて來た、
「小判がどうかしたんで」
「こいつは
「えツ」
「近頃江戸中を騷がせてゐる
「へエ||」
「殺された染吉が、惡事から身を退いて、俺のところへ來ると言つて居たさうだな」
「勇太郎はそんな事を言ひましたね」
「その途中で殺されたのかも知れない。||ありさうな事だ。殺した奴は染吉の
「||」
飛躍する平次の天才、その推理の塔の積み重なるのを、八五郎は
「ところが、染吉は用心して、大事の小判を煙草入の中へ入れた。||
「||」
「八、こいつは面白くなつたぞ」
「何が面白いんで? 親分」
八五郎は四方をキヨロキヨロ見廻します。二月の陽は縁側にクワツと射して、貧しい平次の住居を隈なく照らし出しますが、別に八五郎の眼には、面白くなるやうなものもありません。
「染吉は
「||」
「近頃何にかのわけがあつて、贋金遣ひの仲間が恐ろしくなり、自首して出て、自分の罪だけでも許して貰はうとして居る矢先、仲間の者に
「||」
「染吉を殺した下手人は、餘つ程染吉と
「||」
「そこへ勇太郎が歸つて來たので、
「誰でせう。その下手人は?」
「解らない。まるつ切り解らない。兎に角、染吉の
「差當り丸山町の直助はどうです」
「行つて見よう。無駄かも知れないが」
平次とガラツ八は、其處から眞つ直ぐに、丸山町に飛んだことは言ふまでもありません。
丸山町の直助の家は、
不意に
「錢形の親分さんでしたか、それはどうもお見それ申しました。私は御當地へ參つてまだ三年と經ちませんので、土地の方にも
さう言つた
染吉との關係は商賣のことから
話の中に、妹のお辰も出て來ました。二十三の年増盛りで、お芳の
「まア、本當に、染吉さんは、お可哀さうに。私はもう、死んでしまひ度いと思ひました」
そんな事を言ひ乍ら、涙を拭いたり、兄の直助の身の廻りの世話をしたり、所作澤山にして居るのです。
「昨夜は外へ出なかつたらうな」
平次は
「妹と二人、一杯飮んで、好きな小唄の
さう言はれるとそれつ切りの事です。
それにしても調度の見事さ、暮しの豐かさ、此處の生暖かい空氣に包まれて居ると、平次も八五郎も何にかうつとりした心持になります。
「江戸には
「へエ、どうぞ、親分方が御覽になるやうな家ではございませんが」
直助は氣輕に立つて、平次と八五郎に家の中を見せてくれました。中は贅を盡して居りますが、至つて簡單で明るくて、
「二階は?」
「富士山の見えるのが自慢で御座いますが、あの通り
指差すと、小石川一帶の町を眼下に眺めて、その上に富士も見える景色ですが、崖の竹林がひどく
其處を出た平次とガラツ八は、前の長屋で一と通り直助兄妹のことを訊いて、それから湯島を廻つて、殺された染吉の家へ立寄り、線香を上げて樣子を見ました。集まつたのは近所の衆と、昔染吉の先代が使つた
近所でいろ/\噂を集めましたが、贅澤で人を人臭いとも思はない染吉には、相當に反感があり、突つ込んだことは誰も知りません。
「親分、下手人は誰でせう」
ガラツ八は到頭考へ
「まだ解らないよ」
「勇太郎ぢやなしお芳でないとすると、矢張り直助ぢやありませんか」
「どうして、そんな見當をつけたんだ。||直助は昨夜外へ出なかつたんだぜ」
「でも、あの男は
「前の長屋で、直助兄姉は昨日の晝過ぎから外へ出ないと言つてるぢやないか。それも五人や三人の口が揃つたのぢやない、||三味線と小唄も聽えて居たといふし」
「でも、變ぢやありませんか、親分」
「何が變なんだ」
「何んとなく變ですよ」
八五郎はキナ臭いものを嗅ぎ出すやうに鼻の穴を大きくしました。
「それは
「へエ||」
平次の言葉は豫想外です。
「お前の眼にも變に
「すると」
「二人は夫婦さ」
「染吉がお辰に夢中になつたのは?」
「直助が承知で
「へエ」
ガラツ八は
それから三日目。
「大變ツ、親分」
「サア、來やがつた。何處で大變を拾つて來たんだ」
あわてて飛込んで來る八五郎を迎へて、平次は何やら期待にニヤリニヤリして居ります。
「三輪の親分が乘込んで來て、丸山町の直助の家を根氣よく家探ししましたぜ」
「何にか出たかい」
「何んにも出ないから不思議で、||出たのは眞物の小判が三百兩ばかり」
「それから」
「三輪の親分もすご/\と引揚げましたよ。床下も天井も
「それつ切りか」
「それつ切りです。でも三輪の親分が目をつけるやうぢや油斷がなりませんね」
「お前の調べはどうだ」
「直助は米相場のコの字も知りませんよ。上方で儲けたやうな事を言つてゐるが、三年前江戸へ來た時は
「フーム」
「あのお辰といふのは恐ろしい腕で、今まであの女に
「そんな事だらうよ」
「早くあの野郎を縛つて下さいよ、親分。三輪の親分に先手を打たれちや
ガラツ八は一生懸命に説き立てました。
「證據は一つもない。
「行つて見ませう、親分。此處で考へたつて何んにもなりませんよ」
「さうしようか」
平次は到頭出かけました。甚だ自信のない姿です。
丸山町へ行つて
「度々御苦勞樣で||、二階から今日はよく富士が見えます。邪魔な竹の
直助兄妹が先に立つて二階へ案内します。成程障子を開けると、
「この通り良い眺めになりました」
直助は縁側から、彼方此方を指します。
「此間三輪の親分が來たさうだな」
「へエ||、家搜しには驚きました。何んにもあるわけは御座いませんが」
直助は酢つぱい顏をするのです。
その間にお辰は茶を入れて、厚切の
「親分さん、どうぞ」
「八、昨夜の風はひどかつたなア」
平次はいきなり不思議なことを言ひ出しました。
「へエ||」
「主人にお願ひしてあの先を切つた竹を二三本頂戴したい。風でひどく痛められたやうだから、||お前は近所の植木屋へ行つて、親方を引つ張つて來てくれ」
「へエー」
何が何やら、わけも解らずに立上がる八五郎、それを追つて、階子段のところで、平次は何やら
やゝ暫らく、直助と平次の、氣まづい對立は續きます。一度下へ行つたお辰は、此時そつと登つて來て、直助の後ろに寄り添ひます。
下の方へは八五郎の手が廻つて、間もなく町内の植木屋が來た樣子。
「どの竹を切るんですか」
そんな大きな聲が聞えます。
「
上から平次、
「いや、切つちやならねエ、主人の俺が不承知だ」
何時の間にやら脇差を左手に持つた直助は平次の横手から狙ひ寄つて居るではありませんか。振り返ると梯子段の上には、
「氣が付いたか、直助」
平次は平然として、十手も出しません。
「野郎ツ」
サツと切りかける直助、引外して、平次の手から、二三枚の投げ錢が飛びます。
「あツ」
と、たじろぐ直助。それを見ると、後ろからお辰は雌豹のやうに飛付きます。
爭ひは一瞬にして決しました。平次がお辰を膝の下に敷いた時、直助は二階の縁側から竹に飛び付いて、眞に猿のやうに、竹から竹を傳はつて
「御用ツ」
何處に隱れてゐたか八五郎のガラツ八、一世一代の
× × ×
植木屋の
直助兄妹が
「今度はお前にもよく判るだらう、繪解きにも及ぶまい」
といふと、八五郎は、
「僞金の方はそれでわかるとして、直助が染吉殺しの下手人と解つたのは?」
と訊きました。
「お辰が直助の妹でないと判つた時から怪しいと思つたよ。それから、長屋の衆は三味線と小唄は聽いたが、それが直助やら、お辰やらはつきりした事は判らなかつた。||もう一つ、直助の腕と身體を見て、此男なら、竹から竹に傳はつて、
「||」
「お辰を
「お芳は?」
「あの娘は勇太郎と一緒になるだらうよ、似合の夫婦ぢやないか。||
平次は女房のお靜を