「お早よう」
ガラツ八の八五郎は、尋常な挨拶をして、
「どうした八、大層御行儀が良いやうだが、何んか變つたことでもあつたのかい」
錢形平次は縁側に寢そべつたまゝ、冬の
「何んでもありませんよ。ほんのちよいとしたことで」
「さうぢやあるまい、何んかお前思ひ込んで居るだらう。借金取に追つ駈けられるとか、義理が惡い
「そんな事じやありません」
「だつて、急に起居振舞が少笠原流に[#「少笠原流に」はママ]なつたり、膝つ小僧がハミ出してる
「なアに、ほんのちよいとした事があつただけですよ」
「何んだそのちよいとした事てえのは? 氣になるぜ、八」
「實はね、親分」
「恐しく突き詰めた顏をするぢやないか。何んだい」
「
それは當時、兩國の水茶屋の
「何んか惡い客の
「そんな事なら心配しませんがね、人殺しの疑ひが掛つたんだ相で」
「人殺し?」
「親分はまだ聞きませんか、昨夜平右衞門町の河岸つ端で、浪人者の殺された話を」
「聽いたよ、福井町の
「ところが、三輪の萬七親分は、お松を縛つたんで、||
「何を持つて居たんだ」
「ギヤマンの
「フーム」
「今朝友達に見せてゐるところを、運惡く城彈三郎殺しの下手人搜しに來て居る、お
「
平次はさすがに氣が付きます。
「だからお神樂の清吉が、そのギヤマンの懷鏡を何處から出した。貰つたら貰つたで宜いが相手を言へと責めたが、お松はどうしても言はねエ」
「その懷鏡をくれた相手に心中立をしてゐるんだらう。お松を張るのは無駄だよ、八。宜い加減にして止すが宜い」
「そんなつもりぢやありませんよ。||あつしは、お松を助けようとも何んとも思つちや居りません。唯、親分が
ガラツ八は急に堅くなりました。
「さうか。そんな遠慮があるから、小笠原流で
「親分」
「宜いよ、行つて見るよ。今日俺の方から出かけて行つて、お松の繩を解いてやらう。
「親分||あつしはお松のことなんか何んとも思つちやゐませんよ。唯この一年ばかり、毎日のやうに顏を見て、お茶をくんでくれた相手だから||」
「毎日行つたのかえ、本當に」
「へエ、
「馬鹿だなア」
平次はさう言ひ乍らも、立ち上がつて仕度しました。
平右衞門町の現場へ行つたのは、もう陽が
本來ならもう少し早く
近所の
少し遲い月が漸く河心を照らし初めた頃で、うつかり知らずに通るところでしたが、そのうちの一人がつまづきさうになつて悲鳴をあげ、それから大騷ぎが始まりました。
脇差を拔かずにあるので、大した血は流れませんが、
「
平次は近所の人に訊きました。
「
「刀の鞘と一緒に流れたのかな。||八、人足を頼んで川をあさつてくれ。武家の履物の揃つたのと、脇差の鞘があるだらう」
「へエー」
八五郎は心得て飛んで行きます。
その間に平次は、小舟を出させて、石垣の工合から、棧橋の樣子を眺めましたが、石垣には何んの異状もなく、唯、一箇所棧橋の板を縛つた繩が解けたのを、
「石垣の間に、何んか隱してあつたんですか、親分」
八五郎はもう歸つて來ました。
「いや、そんなものは無いよ。石垣が一つでもゆるんでゐて、中に千兩箱でも隱してあると面白いんだが||近頃
「すると?」
「解らないなア。兎に角、もう少し
其處から平次と八五郎は、福井町の城彈三郎の浪宅へ行つて見ました。
浪宅と言つても、中々の構へで、留守は若い綺麗な下女と婆やの二人、おさのにお倉と言つて、
疑へば疑へる二人でしたが、折よく宵から近所の話好きの老婆が來て、二人共一寸も家を開けず、これは完全に疑ひの外に立ちました。
外に、死んだ城彈三郎と無二の仲だつたといふ戸倉十兵衞と名乘る、中年者の浪人が來て、何彼と世話を燒いて居りますが、江戸には知合が無かつたのか、あとは近所の衆ばかり、何を聽いても要領を得ません。
「戸倉さん、ちよいと伺ひますが」
「何んだえ」
忙しさうにする戸倉十兵衞を、平次は
「亡くなつた
「九州のさる大藩といふことだが、
「旦那とは何時頃からのお附合ひで?」
「三年にもなるかな。||近所に住んでゐて、何方も九州生れで、似たやうな
戸倉十兵衞は斯う言つた調子の
「旦那は昨夜何處にお出ででした」
「俺は
「そんなつもりぢや御座いません」
「まア宜い、言譯には及ばない。城彈三郎氏のたつた一人の知合といふのはこの戸倉十兵衞だから、疑はれても文句はない。が、有難いことに、昨夜は川崎の鶴屋に泊つて居る。小田原に所用があつて出かけ、七日目で今日歸ると此騷ぎだ。驚いて飛んで來たのはツイ一
戸倉十兵衞の言ふのは滿更
「
「無いな」
「ひどく
「あるわけは無い。
「誰です、それは?」
「阿倍川町に住んでゐる、これも浪人者で高木勇名といふのだ」
「へエ?」
「何んでも、三年以前までは九州のさる大藩で、同役であつたといふことだ。城彈三郎氏は何んかの事で高木勇名といふのと怨を
「||」
「不思議な廻り合せで、お互に遠くないところに住んでゐることがわかつたが、城彈三郎氏はひどく高木勇名を怨んで、出逢ひ次第討ち
「すると?」
「高木勇名の方で、機先を制して城彈三郎を討つたといふ疑ひは
戸倉十兵衞はさう言つて人の惡さうな冷たい笑を片頬に
念の爲死骸を見せて貰ひましたが、胸の傷は背中まで拔けて、恐しい剛力で脇差を突立てたと分りますが、それにしても心得のある筈の城彈三郎が、刀の柄に手も掛けてゐなかつたのが不思議です。
「城さんはやつとうの方はどうでした」
「立ち合つたわけではないが、話の工合や眼の配り、身體のこなしなどから見て、餘程出來る樣子であつたよ」
「それをたつた一と太刀でやつたのは、餘つ程の腕でせうね」
「大變な力だな。||それにしても、脇差を拔かずに、其儘置いて行つたのはをかしい。武士の作法には無いことだ」
「脇差は何處へやりました」
「役人が持つて行つたよ。大した銘刀ではないが、決してなまくらではなかつた」
「城さんの
「一向氣が付かないが、先づあるまいな。世間附きあひを好きな方ではなかつた」
話は大方そんな事で盡きました。
「八、氣が付いたか」
「何んです、親分」
平次は往來へ出ると
「あの家の中は、
「?」
「城といふ浪人者は、長崎あたりに居たんぢやあるまいか。
「それがどんな事になるでせう、親分」
「俺にも判らないが、城彈三郎が怨んでゐたといふ、高木勇名といふ人に逢つて見よう」
其處から阿倍川町へ
「町方の御用を勤める平次と申すものですが、福井町の城彈三郎さんのことに就て、ちよいとお話を
平次の態度は
「あの、父は、永い間
娘は途方に暮れた樣子です。
「これ、||
破れた
「では、||あの、父はお話なんかしますと、すぐ
娘||茂野は、眼を擧げて、救ひを求むるやうに平次を見上げ乍ら、道を開きました。
「御免下さい。御病氣のところを飛んだ御邪魔をしますが、實は福井町の城彈三郎樣が昨夜平右衞門町で殺されましたので」
「えツ」
主人||高木勇名の驚きは
「旦那は御存じでせうな、
「よく知つてゐる。||
高木勇名は
「その城彈三郎といふ人が生きてゐる頃、旦那樣をひどく
「よく知つてゐる。||が、私がこの大患で寢て居るのに、幾度もやつて來て無禮な事をした奴だ。何んの丈夫でさへあれば、城彈三郎如きに後ろを見せる拙者ではないが||」
高木勇名はさう言ひかけて笑ふのです。ポーツと頬のあたりに熱が上がつて、半分
「差支へが無かつたら、その
「厭だと言つても聽かずには歸るまい。||お上の御用とあらば、何事も打明けるのが道だが」
「||」
「故主のお名前だけは勘辨して貰ひたい。||實は拙者と城彈三郎は、九州のさる大藩に仕へて、外國船の出入りを
高木勇名は苦しい息を
拔け荷は嚴重な國禁で、萬一幕府に、藩の役人がそんな事に關係してゐると知れたら、どんな
「斯樣な始末では御座る。
高木勇名は
「もう一つ、||城彈三郎樣は、今までの間に、何か仕掛けるとか、附け狙ふとか、變な素振りは無かつたでせうか」
平次は靜かに
「あつた。度々この浪宅を襲つたが、病中でもあり、私の方で
高木勇名は淋しく笑ひます。やつれ果てては居りますが、分別者らしい品の良い顏で、熱を持つた眼も聰明せうに輝きます。
「お子樣は、お孃樣お一人で」
平次は最後の問ひを投げて、ヂツと高木勇名の病床にやつれた顏を見詰めました。
「いや、伜が一人あるが」
「何方にお出ででせう」
「氣に染まぬことがあつて、親類に預けてある」
「御親類と仰しやると?」
「牛込
高木勇名はこれだけ言ふのが精一杯です。何んか
宜い加減に切り上げて路地の外まで出ると、後ろからバタバタと追つて來たのは、娘の茂野でした。
「あの、もし」
「お孃さん、何んか御用で」
平次は
「父はあの通りの容體で、寢返りも自由にはなりません」
「よく解りましたよ、お孃さん。あの容體ぢや、どう間違つても外へ出られる筈はありません。御安心なさいまし」
「有難う御座います」
茂野は
「良い娘ですね、親分」
ガラツ八は暫くその後姿を見送つてから、思ひ出したやうに斯う言ふのでした。
「お松とどうだ」
「お月樣とすつぽんで、||育ちが違ひますよ」
「すつぽんは喰ひつくと
「喰ひついちやくれませんよ」
「なさけない事を言ふな」
「さう言へばお松はどうなつたでせう。すつぽんでも
「さう/\お松の繩を解いてやるのが目あてだつたね。だが、あいつは心配しなくても宜いよ。今頃は多分許されてゐるだらう。今日の間に合はなくても明日はきつと許される。この八
「へツ、あつしをのぞいてと來ましたね。||親分の前だが、あつしを除けば先づ門前町の時次でせうな」
「さうか、時次か。成程あれなら小意氣で慾が深さうで、ピタリと
「それぢや、下手人は矢張り高木勇名といふ浪人でせうか。隨分いろ/\の
ガラツ八は後ろの浪宅を指します。
「いや、あれは假病や
「すると、高木勇名は何んにも知らないわけですね」
「いや、知つて居る。たしかに下手人を知つて居るに違ひない。城彈三郎が殺されたと聽いた時の驚きやうは大變だつた」
「その下手人は誰でせう」
「それはわからないが、||俺は明日の朝、
「へエ」
「それから念のために此近所の衆に、昨夜高木勇名の家に出入りした者は無いか訊いて見よう」
平次のこの注意は
茂野の評判は大變なもので、阿倍川町の孝行娘で通ります。昨夜も父親の容體が惡かつたらしく、二度迄もあたふたと平右衞門町の醫者に藥取りに行つたのを見たと言ふ者があります。
御納戸町の河西源太といふのは、町道場の主で、すぐわかりました。
高木敬太郎と
平次が城彈三郎の殺された事を言ふと、
「それは
何んのわだかまりもなくこんな事を言ふ敬太郎だつたのです。
「昨夜は何處にお出ででした」
平次は氣を引いて見ました。
「
「ではもう一つ伺ひますが、高木樣のお仕へしたのは、何處の御藩で」
「それは言はないことになつて居るんだ」
「大村藩で御座いませうね。||それとも平戸? 鍋島」
「||」
「いや、飛んだお邪魔いたしました。阿倍川町の父上樣は重態ですよ。城彈三郎が
「さうか、それは有難う」
平次は其處から直つ直ぐに久保町の大村丹後守屋敷に飛んで行つたことは言ふまでもありません。敬太郎の明けつ放しな顏にはさう書いてあつたのです。
用人に逢つてきくと、何んの隱すところもなく言つてくれました。
「城彈三郎といふのは如何にも三年前不都合のことがあつて追放したに相違ない。高木勇名は自分で身を退いたと言ふ方がよからう、
斯う聽くと、城彈三郎の下手人を
神田の家へ歸つて來ると、ガラツ八の八五郎は、
「親分、お察しの通り、天眼通だ」
路地に平次の姿を見るともうこれです。
「何んだ騷々しい、近所の衆がびつくりするぢやないか」
「でもね、こいつは全く
「死骸の懷から拔いたんだらう」
「その通り。||それも念入りに、引き汐の川へ落ちて居た死骸を引揚げて、その懷から拔いたといふぢやありませんか。呆れ返つてお松も
「よく死骸が見付かつたね」
「
「何があつたんだ」
「懷鏡が一つと、香木と、
「恐しく持つて居たんだな」
「時次の野郎猫ばゞをきめて、懷鏡一つでお松の氣を引かう
「まア、怒るな、八。それより、脇差の
「鞘は兩國で、履物はあの棧橋の下の泥の中で見付かりましたよ」
「よし/\それで大方見當は付いた。これからお船番所へ行くが、お前も一緒に行つてくれるか」
「何處までも行きますよ」
平次は其處からすぐ
大川筋の船、大きいのは五百石、千石
平次の注意で、一方町方の手は、福井町の城彈三郎の家を搜し、其處に夥しい禁制品を隱してあるのを發見した上、更に戸倉十兵衞を捕へて調べると、これも城彈三郎や海賊銀太の仲間で、國禁を
「親分、拔け荷の調べは宜いかげんにして、城彈三郎殺しを擧げちやどうです」
ガラツ八がそんな事を言ひ出したのは、拔け荷檢擧騷ぎから五六日經つてからでした。
「宜いよ、今に判るよ」
「何が判るんです、親分」
「彈三郎殺しの下手人がわかる時節があるのだよ」
「へエ||。そのうちに暮になりますよ」
「借金ぢやあるまいし、こんな事に
そんな事をいつて居るところへ、阿倍川町の高木勇名の娘茂野が、眼を泣き
「お、どうしました、お孃さん」
「父が
「それは/\お氣の毒な、何時亡くなつたんで」
「三日前でございます。昨日
茂野はさういつて、小風呂敷の中から丁寧に包んだ一封の手紙を取出し、平次の膝の前に押しやるのでした。
「それはわざ/\恐れ入りました。早速拜見します」
押し頂いて平次は、靜かに封を切つて讀み下しました。ほんの二三行の病人らしい苦惱にゆがんだ文字に、何んな意味があつたか、平次は靜かに疊み直して、
「有難う、お孃さん。これでよく解りました」
眉も動かさずにいふのです。
娘||茂野が淋しく歸つた後で、ガラツ八は飛びつくやうに訊きました。
「何が解つたんです、親分。その手紙に何が書いてあつたんです」
「見るが宜い、この通りだ」
平次の出した手紙といふのは、半紙に書いた字がたつた三行。
城彈三郎を討つたるは宿怨 を果すためこの高木勇名の仕業に相違無之誓言仕候
とだけ、それも亂れた筆蹟で、平次の助けがなくては、ガラツ八にはとても讀めません。「矢張あの病人ですかね、へエー」
ガラツ八はすつかり感服して居ります。
「嘘だよ、八」
「へエ||」
「この
「すると下手人は、その伜の敬太郎とかいふ若侍ですか」
「いや、敬太郎はあの晩兵書の輪講の幹事をやつて居る。一歩も出なかつた」
「すると?」
「解らないか、八」
「へエ||」
「あの娘だよ。茂野といふ、今此處へ來た娘だよ」
平次の言葉はあまりにも豫想外です。
「そんな馬鹿なことがあるものですか、私をかつぐつもりでせう」
「お前をかついでも仕樣があるまい」
「でもあんな可愛らしい娘が」
「可愛らしくたつて、重病の父親を幾度も/\
「へエ||」
「高木勇名といふ人が、伜を勘當したのも、
「その凄い腕前の敵を、小娘の茂野がどうして殺したでせう」
「何んでもない事さ。||城彈三郎が拔け荷を
「||」
「あの晩茂野が藥取に行つた
「||」
「家へ歸つて脇差を持つて又飛出したんだらう。平右衞門町へ行つて見ると、まだ時刻があつたから、棧橋の板を一枚
「フーム」
ガラツ八は
「城彈三郎は心の臟を
「解りました。それで、此先どうするんです、親分。あの娘を縛るんですか。||可哀想に」
「どうもしないよ」
「?」
「こんな證據ぢや人は縛れない、皆んな俺の夢物語だよ。||城彈三郎を殺した下手人は矢張り高木勇名さ、それで宜いぢやないか。親心を無にしちやいけない。俺は此手紙を八丁堀の笹野の旦那にお目にかけるよ。||お松と時次のことが氣になるといふのか、あきらめるがいゝ。お松はあんなにまでして、時次をかばつて居るぢやないか。時次は死骸の懷を探るやうなケチな野郎さ。八五郎さんの
平次はさう言つてゴロリと横になりました。
相變らず