「親分」
ガラツ八の八五郎が、泳ぐやうに飛込んで來たのは、江戸中の櫻が一ぺんに咲き揃つたやうな、生暖かくも
「なんだ八、大層あわててゐるぢやないか」
錢形平次は朝飯の箸を置くと、大して驚く樣子もなく、
「落ついて居ちやいけませんよ。釜屋で又殺しがあつたんで」
「釜屋?」
「北新堀の釜屋、||ツイ十日ばかり前に主人の半兵衞が鐵砲で
「誰が殺されたんだ」
平次もさすがに
「番頭の伊八が、
「釜屋は
「それが、明日役人に引渡すといふ前の晩だ。際どいことをするぢやありませんか」
ガラツ八が舌を卷くのも無理のないことでした。
その前の晩、町役人の
「そいつは容易ならぬことだ、直ぐ行くとしよう」
平次は自分もいくらかの掛り合ひがあるせゐか、何時になく氣輕に
北新堀の釜屋へ行くと、町役人が詰めかけた上、土地の御用聞が二三人、靈岸島の瀧五郎の
「瀧五郎親分、大變なことになつたね」
「錢形の、今度といふ今度は驚いたよ。今日は御上に引上げる筈の金が八千兩だ、番頭を殺して持出すにしても、一人や二人の
瀧五郎は此邊を繩張りにしてゐる自分の責任の重大さに
二人は八五郎や二三人の下つ引と一緒に、裏の離屋の方に廻りました。拔け荷を扱つて暴富を
「
平次は誰にともなく訊きました。
「へエ、皆んな内から締つて居りました。一々
背後で應へたのは、三十前後の狐のやうな感じの男||それは通三丁目の釜屋の店から、主人の死後北新堀の住居の方へ手傳に來てゐる手代の與之助と後で判りました。
「戸締りは誰がするんだ」
「
「その時は何んの變つたこともなかつたのか」
「へエ||」
手代の與之助の答へを後ろに聞いて、平次と瀧五郎は離屋の外に立つて居りました。
「足跡はないぜ、何しろこの天氣續きだ」
「雨戸は?」
「輪鍵は掛けてなかつたが、内から締つて居たさうだ。小僧の乙松が外から聲を掛けても返事がないので、番頭を呼んで押し倒して入つたといふ。||その通りだね」
瀧五郎は後ろに居る與之助を
「へエ||、それに相違御座いません。陽は高くなつたし、中からは返事がなし、先の事で
與之助の指した方を見ると、成程一枚の雨戸は
「それから」
平次は先を
「飛込んで見ると、取つ付きの六疊は血の海で、番頭さんが||」
「雨戸はどんな工合に締つて居たんだ」
「下の
「確かにその通りか」
「何しろあわてて居たもので、へエ。
それを聽き乍ら、平次は一歩六疊へ入つて居ります。
「フーム、これはひどい」
平次の
「刄物は?」
「なかつた」
「番頭の死に切るのを待つて、死骸の袖で血刀を拭いた樣子だ。落ちついた野郎だな」
平次は伊八の袖に殘る細刄の兇器の跡を指しました。
「
瀧五郎は自分の想像を組み立てました。
「いや、曲者が入つたのは、まだ宵のうちだ、||この通りお茶も呑まずに居るし、よく
平次の想像はその上へ確りした足場を組み立てるのです。
「八千兩の小判は、
瀧五郎は小判を其邊に隱してあるに相違ないといふ見込みで、今朝から縁の下、物の蔭、井戸の中などを、下つ引を
「八千兩の小判は、其邊には隱しきれまいよ。ところで、俺は曲者はどうして入つて、何うして逃出したか、腑に落ちるまで調べ度い。||八、雨戸を閉めて見てくれ」
「へエ」
八五郎は離屋の雨戸を全部閉めて見ました。言ふ迄もなく、外から押し倒したといふ壞れた雨戸は、壞れたまゝに溝へ入れたのです。
「敷居に血が流れ込んで、
平次はそんな事を言ひ乍ら、一番最後の雨戸を外して、その棧の樣子を調べました。六疊から流れ出した血が、縁側に筋を引いて、敷居に流れ込んだにしても、その量が少なかつたせゐか、それとも時が經つて血が
「變な事を聽いたんだが||」
ガラツ八はそつと平次に囁やきます。
「何が變だ、言つて見ろ」
「昨夜
「小僧がそんな事を言つたのか」
「あの小僧はすつかりあつしと仲好しになりましたよ」
ガラツ八の開けつ放しな態度や、その人の好さが若い乙松を信用させたのも無理はありません。
「それが
「まだ外にも、いろんな事を言ひましたよ。||昨日薄暗くなつてから、若い武家が、店の前を幾度も/\通るやうな恰好で、家の中を覗いたといふ話や」
「その若い武家は、乙松の知らない人か」
「見たことのない武家ださうで、||若くて好い男で、
「それから?」
「此家の嫁のお袖は、芳町の藝者上がりで、若旦那の初太郎が
「それから」
平次は
「ありますよ||番頭の伊八は年甲斐もなく飛んだ道樂者で、若旦那が
「||フム」
平次は
「
「いえ、
お袖は以ての外の頭を振るのです。もう二十一と聞きましたが、もとがもとだけに飛んだ愛嬌もので、何處か人を外らさないところがあり、それに肉體的の健康から來る明るさが、少しばかり下品ではあるが、何にか知ら人をひき付けずに
「小僧の
「そんな事はございません。あの子は嘘つきで
お袖は美しい眉をひそめるのでした。
若夫婦の部屋といふのは、
「番頭の伊八は、芳町に居る時分、お前の客だつたと聽いたが||」
「え、嫌な人でしたが||」
お袖はそれつきり言葉を濁しました。
「お前の實の親といふのは何をして居るんだ」
「||それが判らないんです。私は生れた場所も、親の名も存じません。里親から里親へ渡り歩いて、芳町へ賣られた時は、目黒の百姓の娘といふことになつて居りました」
お袖の明けつ放しな顏も、此時ばかりはさすがに曇りました。
「その百姓の名は?」
「御不動樣の近所で、石松と
「その前は?」
「大久保のお勘婆さん。||その前は板橋の駄菓子屋で千之助。||その前は||」
「もう宜い」
錢形平次もこれでは手のつけやうがありません。
お袖を宜い
「昨夜お袖は
「へエ||、夕方から氣分が惡いと言つて、此部屋に籠つたきり、一と足も外へは出ません。私が側に附いて介抱したのですから、間違ひは御座いません」
この男なら隨分、一晩が二晩でも、女房の介抱をしきることでせう。
「昨夜はよく寢たか」
「飛んでもない、||この家に寢るのも、今晩限りと思ふと、眼が
「昨日店の前を變な武家がウロウロして居たさうだな」
「へエ||、
「全く知らない顏か」
「へエ||」
あとは乙松や下女のお元や、近所の衆にまで訊ねましたが、何んの得るところもなく、兎も角も平次と八五郎は、近所の瀧五郎の家へ一たん引揚げ、あとは土地の御用聞や、瀧五郎の子分達に任せて、暫く樣子を見ることになりました。
今日を限りの釜屋の退轉も、そんな事で
「どうしたものだらう、錢形の、俺には少しも見當が付かないが、||あの嫁を擧げたものだらうか、それとも」
「俺にも解らない、||が、曲者は外の者に違ひあるまい」
「何處から逃出したんだ」
「それがわからないのだよ。宵のうちに忍び込んでゐたに違ひはない。||多分伊八が顏見知りの者だらう。伊八を殺して、八千兩の小判を
「雨戸の
瀧五郎の
「離屋の雨戸や、庭口の潜りを締めたのが、今頃になつてからだとしたらどうだ」
「誰がそんな事をしたんだ」
「解らない」
「矢張りあの嫁が下手人ぢやないか」
「そんな事はあるまい。暗くなつてから、ほんの一寸でもあの女が外へ出たら、初太郎は大變な騷ぎをするだらう。離屋へ行つて番頭を殺して、八千兩の金を運び出すうち、あの男は自分だけ一人默つて待つて居る筈はない」
「曉方からウトウトしたと言つたが||」
「いや、殺しは宵だ、血があんなに固まつて、戸の
「手代の與之助は臭くないか」
「人相は惡いが、それほど大それた人間とも思はれない。それに夕方から店に坐つて、今日引渡す筈だつた
「すると何ういふことになるのだ」
瀧五郎は到頭投げてしまひました。
「手段は二つしかない。瀧五郎親分は、氣の毒だが下つ引を五六人
「?」
「お袖の身許を突き留め度い、いくら里子にやられた娘でも、そんなに渡り歩くのは容易のことぢやない。何んか
「宜からう、それ位のことなら明日一日で何んとか
瀧五郎も今は平次の指圖に從ふ外はなかつたのです。
「八五郎は龍の口の邊をうろ付いて||」
「うろ付くんですか親分」
「不足らしい顏をするなよ。お前の顏を利かせる氣ぢやブチ
「へエ||?」
「まだわからないのかな。||近頃何處かの大名屋敷で、江戸家老とか御側用人とか、筋の通つた御家來衆で、腹を切つたのがないか、それを聽き出すんだ」
「?」
「百梃の鐵砲を買ひ
「成程ね」
「腹を切つた武家があつたら、その妻子はどうなつたか念入りに訊き出すんだ」
「腹を切らなかつたら何うします」
「百梃の鐵砲は公儀に取上げられてしまつた。どう工夫したつて二度と戻る
「||」
「さうかと言つて、唯のお武家ぢや、十日や一と月の間に、三千兩の大金は
「成る程ね」
平次の明察の前に、ガラツ八も承服しないわけには行きません。
「親分、驚いたの驚かねえの||」
「何を驚くんだ」
翌る日の夕刻、平次の家へ飛込んで來たのは、八五郎の
「親分の言つた通り、下馬先のあたりを半日うろ付くと||」
「何にか聞き込んだか」
「親分の天眼通に驚いたぜ」
「何をつまらねえ、||腹を切つたのは、何處の家來だ。早くそれを言ひな」
「
「それから」
「伜の佐太郎といふ二十五になるのが、永の
「落ついた先は?」
「それを訊き出すのに骨を折つたぜ。眼と鼻の間、||神田お臺所町とは氣が付かないでせう」
「フーム」
「まだあるぜ、親分。今から感心しちや早い」
「何があるんだ」
「その佐太郎が、
「その金はいくらだ」
「其處までは解らねえが、兎も角莫大だ。莫大といふと親分の前だが、五兩や三兩ぢやないでせう」
「何をつまらねえ」
「
「馬鹿、その富崎左仲といふ人が、鐵砲の買手ともきまつて居らず、その伜の佐太郎が、何んの爲に何處から出した金を持つて行つたかも解らないぢやないか、||もう少し樣子を見てくれ、俺は一寸
ガラツ八をもう一度お臺所町へやつた平次は、ゆつくり夕食を濟ませて外へ出ました。
柳原土手は宵から淋しく、花時の人間は向島、
「待て/\」
柳の蔭から出た一人の若い武家。
「あつしで||」
振り返る平次へ、
「覺えがあらう」
拔き討にサツと浴びせたのです。それは實に凄い手際でしたが、幸ひ平次にも油斷がありません。
「あツ、何をする」
二つ三つ、かはして柳を
「平次、覺悟ツ」
「えツ、平次と知つての暗討か。名乘れツ、何處の何奴だ」
「||」
相手はそれに返事もせず、何も疊みかけて來るのを、あしらひ兼ねた平次。思はず懷を
「えツ、聞きわけのない奴だ」
パツと投つたのが、一つは曲者の拳へ、一つは
「
「卑怯は
三つの錢が飛ぶ前に、バラバラと駈けて來たのはガラツ八の八五郎でした。
「親分、||あつしが來りやもう大丈夫だ。その野郎をフン縛つてしまひませう」
形勢不利と見たか、刄を引いて
「野郎ツ、逃げるかツ」
「止せ/\、八」
平次の止めるのは耳にもかけず、
「錢形の親分、此方から行かうと思つてゐたよ。
靈岸島の瀧五郎は、平次を待ち構へての話しです。
「||それは
瀧五郎の話は奇怪です。
「そんな事だらうと思つたよ。矢張りあの女だ」
平次は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「あの女が下手人だといふのか」
「さうとでも思はなきや、解らない事ばかりだ。||矢張りあの女だよ、伊八は後ろから來る人に氣を許して殺された||八千兩と睨めつこをしてゐる伊八が、夜中後ろから來る人の氣はひに平氣で居られるのはあの女の外にはない。||仲間の者に八千兩の小判を持出させて、内から
「初太郎は||お袖は一と足も外へ出なかつたと言つたぜ」
「亭主が女房を
「で、親分は?」
「俺は龍の口へ行つて訊き出すことがある。お袖の方は頼むぜ。||もつとも今晩はいけない。明日の朝、あまり早くない方が宜い、正面から釜屋へ乘込んで繩を打ち、八丁堀まで引いて行つてくれ。泣いてもわめいても
「大丈夫かな」
瀧五郎には呑み込めない事ばかりですが、若い
平次が神田の家へ歸つて來ると、丁度ガラツ八の八五郎も、汗と
「どうした八、大層勢ひ込んでゐるぢやないか」
「あの野郎、足の早いには驚きましたよ」
「でも逃げも隱れもせずに、眞直ぐにお臺所町へ歸つたらう」
「
「それで宜いのさ。ところで、お前の耳でもう一つ聞出して貰ひ度いことがあるんだが||」
「何んです、親分」
「富崎佐太郎が、金森家へ返した金がいくらか、確かな事が知り度いんだ。浪人物の工面なら
「やつて見ませう」
疲れを知らぬ八五郎は、そのまゝ夜の街へ飛出しました。
八五郎がその報告を持つて來たのは翌る日の朝。
「親分、大名屋敷は苦手だぜ。八方から手を入れて、
「さうか、それで何も彼も判つた。これから先は少しむづかしい掛合事だが、お前も一緒に行くか」
「何處までも行きますよ、親分」
八五郎は相變らず疲れを知りません。
× × ×
此話はまだ/\長いのですが、殘念乍ら筆を止めて、ざつと荒筋だけを
平次がお臺所町の富崎佐太郎浪宅を訪ね、||親の敵||といきり立つ佐太郎を
佐太郎の方でも一時は父親を自殺に
佐太郎は疊に兩手を突いて平次へ
平次が富崎佐太郎をつれて、八丁堀の組屋敷へ行つた時、丁度
その日の晝過ぎ、
「釜屋の番頭伊八を殺して、八千兩の小判を盜んだのはこの私だ。サア何んとでもしておくれ」
恐ろしい勢ひで八丁堀の組屋敷へ駈込み
お幾とお袖は本當の姉妹。父親の黒雲の彌十郎は、せめてお袖だけでも、眞人間にするつもりで、
お幾お袖の母||黒雲彌十郎の女房||は、富崎家に奉公して、佐太郎の
小僧の
さて、離屋へ忍び込んだお幾は、明日は公儀に
お袖は一切のことを姉のお幾の仕事と知り、翌る日の朝早々、離屋の雨戸を外から締め、庭の
それはせめても、妹のお袖に出來る、精一杯のことだつたのです。
お袖が縛られ、富崎佐太郎も八丁堀へ引かれたと聞いて、お幾がたまらなくなつて自訴したのは、まさに平次の思ふ
これは錢形平次一生に一度の意地の惡い
お幾は處刑され、お袖と初太郎は無事に小田原に落ち、富崎佐太郎は金森家に歸參しました。