「親分、良い陽氣ぢやありませんか。植木の世話も結構だが、たまには出かけて見ちやどうです」
ガラツ八の八五郎は、懷ろ手を襟から拔いて、
「朝湯の歸りかえ、八」
平次は
「へツ、
「馬鹿だなア、手拭は俺から見えないよ、腰へブラ下げてゐるんだらう、||番太や權助ぢやあるめえし、良い若けえ者が、手拭を腰へブラ下げて歩くのだけは止しなよ。見つともねえ」
「こいつは濡れてゐるから肩に掛けられませんよ、||いつか手に持つて歩くと、不動樣の繩ぢやあるめえ、そんな
「よく覺えてゐやがる」
「
「手拭をよく絞らないからだよ、
「あ、これですかえ。成程朝湯の證據が揃つてやがる」
ガラツ八は腰から
「
「鬢のほつれは、枕のとがよ||と來た」
「馬鹿だなア」
平次は腰を伸ばして、暫くはこの樂天的な子分の顏を享樂して居りました。
「ところで親分」
「何んだい」
「不動樣で思ひ出したが、今日は
「御免
平次は御用聞のくせに、引込み思案で、弱氣で、十手捕繩にモノを言はせることが嫌で/\ならなかつたのです。
「火伏せの行だから、
「家は借家だよ。燒けたつて驚くほどの
「呆れたもんだ||家は借家でも、火の車には惱まされ續けでせう。こいつも火伏せの
ガラツ八は自分の
「成程、そいつは耳寄りだ。火の車除けの有難いお
「有難てえ。今日の道灌山はうんと人出があるから、何んか面白いことがあるやうな氣がしてならねえ」
「火除けの行だから、キナ臭かつたんだらう」
「違げえねえ」
道灌山へ平次と八五郎が向つたのは、
東海坊といふのは、その頃何處からともなく江戸に現はれた
東海坊の法力で、一番江戸の町人を驚かしたのは、如何なる難病も癒らぬことはないと言はれた
その日東海坊は火伏せの行を
町方から取締りの役人は出て居りますが、外の事と違つて、信心に關する限り、幕府は放任政策に
時刻が移るにつれて、群衆の心理は夢幻の境に引入れられる樣子でした。
「それ||ツ」
壇上の東海坊が聲を掛けると、壇の四方を埋めて人間の脊丈けほどに積み上げた夥しい
「ワ||ツ」
と唸りを生じた群衆の聲と共に、壇をめぐる枯柴は燃え上がり、一擧に俄か造りの壇を
「今こそ、我が法力を知つたか」
壇の中央、焔の眞ん中に立ち上がつた東海坊は、高々と數珠を打振り/\、

「南||無」
群衆はこの奇蹟に直面して、唯感嘆の聲を併せるばかり、中には大地に土下座して、隨喜の涙を流す者さへあります。
枯柴は完全に燃えて、焔は壇を一杯に包むと、こゝにまた思ひも寄らぬことが起りました。今の今まで、高らかに
「た、助けてくれ||ツ」
壇上に狂態の限りを盡す東海坊の口から、到頭救ひを求むる聲が漏れました。焔は壇上に這ひ上がつて、修驗者の白衣に移り、メラメラと
東海坊は焔に包まれて、犬の如く這ひ廻り、蟲のやうに飛びました。が、石を積んで
山に
「親分」
「八」
錢形平次と八五郎は、たつたこれだけでお互の思惑を讀み合ひました。
「水だ、水だ」
「早く火を消せ」
ガラツ八は青松葉の枝を折つて、枯柴の火を叩くと、平次は壇の四方に用意した、幾十の手桶のうちの一つを取つてサツと猛火に水を注ぎかけました。
「それツ」
と群衆の中から加勢に飛出した若い者が、五人、八人、十人、その人數が次第に多くなると、自然命令者になつた平次の號令に從つて八方から猛火を消し始めたのです。
この仕事は相當以上に骨が折れました。山の上にあつたたつた一つの井戸は大した役には立たず大火を
その時、群衆はもう大方散つて、殘るのは東海坊の弟子達と、世話人數名と、火を消すのに手傳つた、丈夫な男達が二三十人だけ。暮色は四方をこめて、燃え殘る
「あツ、人が||」
眞先に壇の上に飛上がつた三河島の淺吉は立ち
「東海坊ぢやないか」
永村長十郎が續きます。
「火伏せの修驗者が燒け死んだぜ、親分。こいつア||」
「馬鹿ツ」
平次に睨まれて、ガラツ八は危ふく口を
「法力が足りなかつたんだ、可哀想に」
年配者の淺吉は、東海坊に同情を持つて居る樣子です。
四方に暮色が迫つたので、提灯を呼びました。さうでもしなければ、半分燒けた壇は、足許が危なくて、うつかり歩けません。枯柴の火は大方消えて、壇を取卷く數十の好奇の眼は、なかなか立去りさうもなく、
「法力なんてものは、最初からなかつたんだよ、
平次は壇の上を一と廻りすると、靜かに顏を擧げました。
「そいつは錢形の||」
淺吉は講中の一人であつたらしく、平次の言葉に不平らしい樣子です。
「これを見るが宜い。床はガンドウ返しになつて、煙が一パイになつた時、東海坊はそつとスツポンへ拔ける仕掛けだつたのさ」
「えツ」
「そいつが、何んかの
平次が指さした。
提灯を突き付けると、成程床板には二尺四方ほどの
「フーム、
永村長十郎は
「呆れた野郎だ」
淺吉はたつた一ぺんに愛想が盡きた樣子で、ペツ、ペツと
一刻の後には彌次馬もすつかり散り、永村長十郎も「東海坊の弟子共や世話人一
「親分、歸らうぢやありませんか。天罰なんか縛れやしませんよ」
ガラツ八は大きな
「腹が減つたんだらう。||此處ぢやろくな水も呑めやしねエ。谷中へ行つて何にか詰めて來るが宜い」
平次は燒け殘る壇の上から動かうともしません。
「親分は?」
「腹なんか減らないよ、||俺はもう少し此處に頑張つて、その天罰野郎の面を見て行きてえ」
「それぢや、親分?」
「大きな聲を出すな、其邊にはまだ多勢居るんだ」
「あつしも手傳ひますよ、親分。さう聽くと、腹が一杯になるから不思議で||」
「さう言はず行つて來るが宜い。歸りには
「何をやらかすんで、親分?」
「この下に天罰が居さうなんだよ」
平次は暗がりの中で床板を指し乍ら、ガラツ八に囁くのでした。
八五郎はいろ/\の道具を借りて、すぐ引返して來ました。斯うなるともう、腹の減つた事などを考へては居られなかつたのです。
「親分、何をやらかしや宜いんで?」
ガラツ八は七つ道具をドタリとおろしました。
「
「三河島の親分は?」
八五郎は板の隙間に
「弟子と世話人を見張つてゐるよ。あの中に天罰野郎が居るかも知れない」
平次は獨り言のやうに言ひ乍ら、梃の先をグイと押しました。
「あつしがやりますよ、親分。提灯を持つて居て下さい」
「頼むとしようか。何にか飛出したら、構ふことはねエ、存分に縛り上げてくれ。お前の手柄にしてやるから」
「へツ、
「大丈夫だよ、其處から何んにも飛出しやしない」
「
そんな事を言ひ乍らも
「成程、
平次は提灯を突きつけます。
「入つて見ませうか」
「さうしてくれ、その材木を取拂つたら身體くらゐはもぐるだらう」
「提灯を貸して下さい」
「そら」
八五郎は提灯を片手に、床下の穴の中へ潜り込みました。横穴は思つたより深いらしく、暫くすると灯が見えなくなつて、それつきり八五郎は歸つて來ません。
「親分」
遠くの方から八五郎の聲が
「何んだ、八」
「穴の中で提灯が消えたから、引返さうかと思つたが、
「茶店の床下だらう」
平次は何んの氣取もなく、こんな事を言ふのです。
「へツ、どうしてそんな事が?」
「近くて、人目に隱れて、穴の中へもぐり込めるといふ場所は外にないよ」
「さすがは親分だ。あつしは地獄の三丁目かと思ひましたよ。どうかしたら、閻魔の屋敷の
ガラツ八の話は手振りが交りました。
「怪談
「へエ?||」
「
平次の説明して行くのを聽くと、東海坊が
「その天罰野郎は何奴でせう、親分」
「あの中に居るよ。||行つて見ようか、八」
平次とガラツ八は、其處から少し離れて、蟲聽き臺の捨石や
「どうだい、錢形の」
淺吉の
「東海坊は矢張り殺されたに違げえねえ。拔け穴を下から
「へエ、そいつは本當かい」
淺吉は改めて提灯をかゝげて、世話人や弟子達の顏を見廻しました。夜風のせゐか、男女取交ぜ十幾人の顏は、心持緊張して、
「谷中の堂へ引揚げようか、此處ぢや調べもなるめえ」
「よからう」
平次と淺吉は、土地の下つ引に死骸と燒跡の監視を頼み、掛り合ひの十幾人には
如何にも急造らしい小さな堂ですが、豪勢な調度や、金色
「兄哥は暫く見て居てくれ。俺が一寸小手調べをして見るから」
「宜いとも」
平次の
「一番弟子とか何んとか言ふのは誰だい」
平次は一座を眺め渡しましたが
「私でございます。東山坊と申します」
白い物を着て居りますが、髮形ちも俗體の四十男が膝を直します。少し
「親の附けた名があるだらう」
「定吉と申します。へエ、生れは
「道樂に身を持崩して、東海坊の弟子になり、
「へエ||」
日頃にもない平次の舌の
「その次は?」
「拙者だ」
「お名前は?」
「御厩左門次、俗名だけしかない。俺は用人棒で修驗者ではないからだ。主人のお名前は勘辨してくれ、||身を持崩して東海坊のところに轉げ込んだが、東海坊の
御厩左門次自棄な苦笑ひをして居ります。
「どんな法螺で?」
「
「ところで、外に弟子はないのか」
平次は鉾を轉じて、不安にをのゝく十數人を見やりました。
「あとは子供と女ばかりですよ」
定吉の東山坊は、さう言ひ乍ら、二人の子供と二人の女を指さしました。二人の小僧はどつちも十二三で、物の數でもなく、二人の女はこんな邪惡な修驗者にあり勝の
信徒の總代||世話人と呼ばれて居るのは二人、一人は下谷一番と言はれた油屋で、大徳屋徳兵衞。もう一人はこの堂を建てた大工の竹次、二人とも五十前後、町人と
「どうして東海坊の世話方になつたんだ」
平次の問ひに對して、大徳屋は口を開きました。
「娘が長年の病氣を治して貰ひました。嫁入前の十九でございます。その御恩報じに、番頭と一緒に
「娘は?」
「これに參つて居ります。菊と申します」
徳兵衞の後ろに小さくなつて居る娘||八方から射す燈明の中に浮いて、それは本當に觀音樣の
續いて
「あつしの
至つて無技巧にそんな事を言ふのです。續いて父親を癒して貰つたと言ふ、越後屋の伜、女房の
「東海坊の祈祷で治らない者もあつたらう」
平次は妙なことを訊きました。
「
一番弟子の定吉は應へました。
「その利八は今日來て居たのかな」
「顏が見えました。それから門前町の文七、伜の文太郎は七日七夜の
定吉の話で、東海坊の法力なるものの正體と、それを
「とこをで護摩壇の下の
「||」
定吉と左門次は顏を見合せて默り込んでしまひました。
「それくらゐの事は言へるだらう。誰と誰が拔け穴のあることを知つて居たんだ」
「||」
「親分さん」
「あ、大徳屋さんか」
「私から申しませう」
大徳屋は靜かに膝を進めます。
「え? お前さんが知つてゐるのかい」
平次も少し豫想外でした。世間の噂では、娘の病氣は治つたが、それから東海坊にだまされて、下谷一番といふ
「御不審は
徳兵衞は一座を見渡し乍ら指を折るのです。誰も抗辯するものはなく、
「さう打ち開けてくれると大變有難い。||ところで、あの騷ぎの眞つ最中||といふよりは、壇の四方に火を掛ける頃、これだけの人數は大抵顏を揃へて居たことだらうな」
「||」
十幾人顏を見合せて、お互に探り合ひました。
「騷ぎの眞つ最中といつても、東海坊が壇に登つてから、
平次は
「親分、その前に
ガラツ八はそつと袖を引きました。
「いや、仕掛けに變りのないことを
平次の言ふことは自信に滿ちて居ります。
「
定吉は指を折り乍ら説明するのです。
「祈祷がきかなくて、東海坊の惡口ばかり言つて歩いたといふ門前町の文七と伊勢屋の利八は、拔け穴の事を知らないだらうな」
「さア、其處までは解りません。何分そんな事は一向氣にかけない東海坊樣でしたから、
定吉の説明する、東海坊の人柄は益々怪奇です。狂信者型の人間には、そんなのもあるのか知らと錢形平次も首を
「ところで、皆んなの手を見せてくれ」
「あわてて拭いたつて、追つ付くかい、馬鹿野郎ツ」
越後屋の番頭の五郎次は、したゝか淺吉に
一人々々調べて行くと、
「洗つたのか」
平次は定吉の顏を見詰めました。
「へエ、ひどく汚れましたので」
「俺も洗つたが、惡いか」
御厩左門次は、何にか突つかゝりさうな物言ひです。平次はそれに取合はず、
「八、今度は着物だ、手傳つてくれ」
「さア、一人づつ立つて見ろ」
定吉も左門次も、徳兵衞も竹次も、火を消すのに手傳つて、少しづつは着物が汚れて居りますが、狹い拔け穴を潜つたと思はれる程のはありません。わけても汚れてゐるのは定吉で、一番綺麗なのは身だしなみの良い徳兵衞です。
それから五六日、錢形平次は八五郎以下の子分や下つ引を動員して、定吉、左門次、徳兵衞、竹次、文七、利八、その他關係者を洗ひざらひ調べ拔きました。
日頃の行状、金廻り、東海坊との關係、一つも
東海坊といふ修驗者は、經文一つ讀めないやうな、無學
この種の邪教的な氣根の持主らしく、東海坊も女犯にかけては、大概の
「親分、三河島の親分は、到頭擧げて行きましたよ」
ガラツ八の八五郎は、息を切つて飛込みました。事件があつてから七日目の朝です。
「誰だ、文七か、利八か」
平次も少し
「一番弟子の定吉ですよ。||近頃あの野郎にも人氣が出たから、師匠の東海坊が死ねば、そつくり跡を繼いでうまい汁が吸へると思つたんでせう」
「そいつは三河島の
「でも、
「八、お前にしちやうまい事を言つたぜ。火をつけた時は皆んなそつちへ氣が外れるから、定吉なんかに目もくれる者はない||とね、成程それに違ひない」
平次は妙なところへ感心しました。
「||お前にしちや||は氣に入らないね、親分」
「贅澤を言ふな、それで澤山だ。||定吉に氣がつかないくらゐだから左門次にも、徳兵衞にも、竹次にも氣がつかなかつたわけだ。待てよ、東海坊が壇に登つて、
「親分、感心して居ちやいけません。それぢや、定吉が下手人ですかい」
「いや違ふ。定吉は變てこな白い着物を着て居た。あの
平次の推理は
「それぢや、あの浪人者も?」
「あれは怪しい。が、腕が出來さうだ。東海坊が氣に入らなきや、細工をせずに斬つて捨てるだらう」
「成程ね」
「東海坊の祈祷がきかなくて、一人ツ子に死なれたといふ、門前町の文七が一番怪しい。あの日何處に何をしてゐたか、||近頃東海坊の惡口を言はなくなつたか。そんなことをよく聽き込んで來てくれ」
「そんな事ならわけはねエ」
「あ、一寸待つた八。それからもう一つ、あの日
「へエ||」
ガラツ八の八五郎は何が何やらわけも解らず、闇雲に飛出してしまひました。
「お靜、羽織を出してくれ。一寸下谷まで行つて來る」
何時にもなく羽織を引つかけた平次、それから下谷一圓を廻つて
日が暮れて歸つて來ると、八五郎は一と足先に戻つて、||待人來たらず||を繪で描いたやうに、入口の格子に
「あ、親分。待つてましたぜ」
飛付くやうな調子。
「嘘を突きやがれ。一と足先に歸つたばかりぢやないか」
「どうして、それを」
「路地の口へ干したカキ餅を引つくり返されて、
「へツ」
八五郎まさに一言もありません。
「ところで、何を拾つて來た」
「下手人は門前町の文七に違ひありませんよ、親分。あの日道灌山へ行つてゐたことは皆んな知つてゐるし、
「それから」
「今でも滅茶々々に東海坊の惡口を言つて歩きますよ。あの野郎が燒け死んだのは
「三月は妙に
「無盡の金が取れるから、東海坊を叩き斬つた上、伜の骨を持つて高野山へ行く氣だつたさうですよ。自分が下手人だと白状してゐるやうなものぢやありませんか」
ガラツ八は勢ひ込んで説明を續けます。
「それつきりか」
「これつきりでも縛れるでせう、親分」
「よし、よし、文七は無盡の金が取れるまで逃げるやうな心配はあるまい。先づそれは安心として置いて、||ところで、大徳屋はあの日夏羽織を着て居たのか」
平次は夏羽織の方に氣を取られて居る樣子です。
「着て居たさうですよ。多勢の人が見て居まさア。小紋の結構な羽織で」
「谷中へ引揚げた時はそれを着て居なかつたね」
「へエ||」
「それで解つた。八、一緒に來ないか、面白いものを見せてやる」
「何處へ行くんで、親分」
「何處でも宜い」
平次は
平次が訪ねて行つたのは、下谷一番と言はれた、油屋の大徳屋でした。
「誰も聽いちや居ないでせうな」
平次は煙管を出して一服つけると、靜かに斯う切り出しました。
「此處は
物々しい空氣に壓倒されて、徳兵衞の唇の色は少し變りました。が、
「外ではない。||東海坊を自滅させたいきさつ、あつしは皆んな知つてゐるつもりだ。が、ならう事なら本人の口から言つて貰ひ度い」
平次の言葉は此上もなく靜かですが、釘を打ち込むやうに相手の
「それは?」
「いや、辯解は無用だ。||言ひにくければ、あつしが代つて言はう。いきなり縛つて突き出すのはわけもないが、聽けば娘のお菊さんの婚禮が、明日に迫つて居るといふ話。その前の晩に繩付を出しちや氣の毒だと思ふから、わざ/\やつて來たやうなわけさ」
「親分さん」
「大徳屋さん。||あつしは下谷中を驅け廻つて、七日の間にこれだけの事を搜り出した。違つてゐるなら違つてゐると言つて貰ひ度い。||大徳屋の一人娘下谷小町と言はれたお菊さんは、父親の手一つで育つたが、何んの
「||」
「あらゆる醫者にも診せ、加治祈祷の限りを盡したが、十九の春までどうしても癒らなかつた。嫁入りも婿取りも
「||」
徳兵衞は深々と首を垂れて、平次の論告を聽き入るばかりです。
「フト人の噂で聽いた東海坊の祈祷、これを頼むと不思議に
「||」
「これにはさすがに驚いた。危ふく言ひ觸らされさうになつて、幾度止めたかわからない。しまひには、百兩、三百兩、五百兩と、
「||」
「もう一つ惡いことに、娘の病氣のことを言はれ度くなかつたら、當人を谷中の堂へ奉公に出せ、||と東海坊が言ひ出した。それに相違あるまい」
「||」
平次の論告は此處まで來ると一段落で、暫く口を
「その通りでございます、親分さん。祕し隱したことをよくそれまでお判りになりました。全く恐れ入りました」
徳兵衞は疊の上に手を突いて、力が拔けたやうにガツクリとお辭儀をするのです。
「で、拔け穴から入つて、
平次はくり返して自滅といふ言葉を使ひました。
「その通りで御座います。火が燃え上がつて、皆んな壇の方に氣を取られた時、案内知つた茶店の床下に飛込み、壇の下の穴の中に捨ててあつた、石と材木の切れ端しで仕掛の下を
「||」
今度は平次が聽手になりました。火が燃え上がつてから、誰も氣の付かない『時間』のあつたことや、夏羽織を氣にして居た親分の
「親分さん、決して逃げも隱れもいたしません。||が、たつた三日だけお
徳兵衞は悲痛な顏を擧げるのです。娘の祝言が濟んだ後で自首して出たとして、その娘が無事に嫁入先に納まるでせうか。
「それはむづかしい」
平次のむづかしいと言ふのは三日繩を伸ばしてくれと云ふ言葉に對するものではなかつたでせう。
「東海坊が娘の病氣を言ひ觸らしたら、この縁談は破れるばかりでなく、娘は生きて居ないでせう。さうかと言つて、自分の子ながらあんなに綺麗に育つた娘を、獸物のやうな東海坊にくれてやる氣にもなりません」
「よく解つた」
「親分」
「たつた三日だよ」
平次は立上がりました。後ろには疊の上に伏し拜む徳兵衞、ボロボロと泣いて居る樣子です。
「八、行かうか」
「へエ」
廊下の嫁入りの調度の中へ、二三歩踏み出した時でした。
「あれは、親分」
「番頭ぢやないか」
「お」
番頭の宇太松||まだ若くて働き者らしいのが、脇差を自分の腹に突立てて、のた打ち廻つて居るではありませんか。
「親分さん、||私だ。東海坊を殺したのは、この私、||宇太松でございますよ」
手負ひは苦しい息を絞りました。
「何? そんな馬鹿な事が||」
平次と八五郎は、宇太松を左右から抱き起しました。主人の徳兵衞も驚いて飛んで來ます。
「拔け穴を
盡きかける氣力を振ひ起して、血潮の中にのた打ち廻り乍ら、宇太松はひたむきに斯う言ひきるのでした。
「宇太松。お前は、お前はまア。どうしたといふことだ」
大徳屋の徳兵衞は夢心地に突つ立つたきり、自分の代りになつて死んで行く氣の、宇太松の動機さへ判らない樣子です。
「旦那。||私は死んでも思ひ置くことはございません。あんな山師を
「よく判つた。||番頭さん、何にか望みはないか」
平次は宇太松の耳に唇を寄せて、次第に頼み少なくなる氣力を呼びさましました。
「何んにもない||たゞ、||お孃樣には、||何んにも言はない方が宜い。||お孃樣には、私が、私が、何んで死ぬ氣になつたといふことも、||お孃樣に」
言つてはならぬ戀を身に祕めて、宇太松は死んで行くのです。
「宇太松、||有難いぞ。お前のお蔭で||」
徳兵衞の言葉は涙に
この騷ぎも明日といふ幸福な日を迎へる興奮に夢中になつてゐる母屋のお菊には聽えなかつたでせう。
三人は、息の絶えた宇太松の前に、默りこくつたまゝ暫く頭を
× × ×
「可哀想なことをしたね」
歸り途、平次はガラツ八にこんな事を言ふのです。
「あつしも泣いてしまひましたよ」
とガラツ八。
「番頭が腹まで切らなくたつて、||俺は徳兵衞をどうして助けようか、そればかり考へて居たのに、||三日待つといふのを、本當に取つて、身代りに死ぬ氣になつたんだね。俺は三百年も待つ氣だつた」
平次は
「でも、あの番頭にしちや、生きてゐる氣はなかつたかも知れませんぜ。お孃さんが明日祝言だと聞いちや」
ガラツ八は妙に思ひやりがあります。
「成程な、獨り者は察しが良い。||あの娘は綺麗過ぎるから、自分の知らない罪を作つて居たんだらう」
「それが親を助けることになるとは、變な廻り合せぢやありませんか」
平次は默つてうなづきました。妙につまされる晩です。